安敦誌


つまらない話など
by antonin
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メモ続き

読みたい本が増える速度に、本を読む速度が追いつかない。情報があふれた現代に特有な病気、なのか? 仕事をしなくていいような貴族階級だったら解決できるような気がしなくもない。平民がこんな贅沢な悩みを抱えるという点が現代的なのかもしれない。

さて。書きたいこともどんどん増えるが書く時間がない。子供はどんどんと知力体力を増して親が追いつけなくなる。そしてせめてメモだけでも。

コドモたちが恐竜のDVDなんかを見ている。CGの処理能力に任せてデザイナーが恐竜復元図に派手な色を付けていて楽しい。恐竜の体色とは現代の科学が一切情報を取れない分野であり、どの復元図も想像に頼っているという点で差がない。だったら派手にやっちまえと思う。恐竜の話を調べているうちに福井県立恐竜博物館のサイトに漂着。

参考:「FPDM: 福井県立恐竜博物館

いろいろと記事を読んでいるうちに、今夏の特別展示で「K/T」というのをやるらしいことを知る。"K/T"とは白亜紀と第三紀の境界のことで、恐竜が大絶滅を起こした時期を指す言葉らしい。それで「K/T境界」を検索していて漂着したのがこちら。

今日の票着地:「人間と物理学

漂着したのは「K/T境界--大絶滅とイリジウム」というページなのだけれども、他のページも全て面白そうだ。(まだ全部は読んでいない)

私はただのイロモノ平社員なので、イロモノ物理学者という背景レベルの充実がうらやましい。『「××は間違っている」と主張する人たち』という記事の妥当な指摘が心地よいのだけれども、こういう主張をする人々が否定するのは決まって相対性理論と進化論なのはなぜなのだろう。

「パウリの排他律は間違っている」とか「ディラック方程式は間違っている」という本はあまり見たことがない。「ミトコンドリアDNA誤差のマンハッタン距離から人種の分岐年代を推定するのは間違っている」という話もあまり聞かない。相対性理論(の特に特殊相対性理論)とか進化論(の特に突然変異説)あたりに攻撃が集中しているような気がする。やっぱりそのとっつきやすさがあだとなっているのだろうか。科学理論の否定論者はあんまり突っ込んだ議論をできないがゆえに否定的主張をする傾向があり、突っ込んだ議論のできる人は理論の妥当性をも納得できるという筋道なのだろう。まぁ私が今さらエーテル仮説を引っ張り出してくるのも似たようなもんですが。

あぁ、いろいろと考えちゃうなぁ。
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by antonin | 2008-05-31 17:55 | Trackback | Comments(0)

妄想メモ

書きたいことが三つある。
でも今日は寝る。忘れないようにメモ。

日経エレクトロニクス6月2日号の特集が面白い。タッチパネル関係の話で、携帯機器のディスプレイを入力デバイスとして使うための関連情報がいろいろと載っている。iPhoneで有名になった技術でもあり、AppleマンセーのNE編集部ならではの記事だが、あくまで本誌記事ではApple色を消した中立な技術記事になっていて、そんなところも面白い。

で、アマノジャクな私は考えた。表示デバイスが入力機能を持つのは確かに楽しい。でも、入力デバイスが表示機能を持つのも、同様に楽しいんじゃないか。ボタンの中に数十~数千画素程度の簡易ディスプレイを埋め込むのだ。面白そうでしょ?

もうひとつ。

人間の脳はいかにして進化してきたのか。神経細胞は細胞膜にイオンチャネルを持っていて活動電位を発生する細胞なのだけれども、イオンチャネルを持っていて活動電位を示す細胞は神経細胞だけではない。筋肉細胞などがそれにあたる。細胞が運動機能を持ち、多細胞化して役割分担が進み、運動能力だけに特化した筋肉が生まれたと考えられるが、そこから派生的に誕生したのが神経細胞なのだろうという話。

最後。

おじさんはよく、最近の若者は馬鹿ばっかりみたいなことを言うが、なぜそういうことを言うのかという理由に関するもう一つの仮説。名付けて「登頂効果」。山ほどいる学生の中から大学教授や取締役などに上り詰めるような人は、若い頃には裾野にあった優等生グループの中にいて視野が狭かったが、頂に至って視野が広がってしまったがために、いつの時代にもいるような馬鹿者まで目に入るようになってしまっただけだ、という話。

なんか8割がたネタばらししてしまった感じだが、まぁいいだろう。これで安心して眠れる。
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by antonin | 2008-05-30 22:36 | Trackback | Comments(3)

厄介について

こういう怪しい長文ばかりを書いているときは、だいたい精神状態としてはやばい感じなのです。仕事は順調なのだけれども、家庭サービスは少し滞りがち。

あまり極端な躁状態というものは経験がないのだけれども、気分の双極性振幅は並の人よりはかなり大きいような気がします。今はとりあえず躁サイドのピークに近い。急激に落ちないように注意しなくてはいけない。

炭酸リチウムなども飲んでみたことがありますが、あれは一体効いてたのかどうなのか。炭酸にしてもリチウムにしても、そんなに生理活性が高そうなイオンじゃないから、カリウムがナトリウムにちょっかいを出すように、リチウムもナトリウムチャネルあたりにちょっかいを出すのだろうか。そんなので薬理効果が出るのだろうか。

まぁ睡眠が最良の薬なので寝ることにしましょう。
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by antonin | 2008-05-30 01:41 | Trackback | Comments(2)

時間論とか

子供の時間と、大人の時間というものがある。

「もう子供の時間は終わりよ、寝なさい」

なんてことを子供の頃に言われた記憶があるが、今回はそういう話ではない。またいつもの面倒な妄想だ。

いつぞや友人と久しぶりに再会して話をしたとき、お互い歳を取ったな、最近は時間が経つのが早いな、などという話をした。これからもっと歳を取ると、もっと時間は早く流れていくのかね、なんて話になり、勢いに任せていくつかの仮説を挙げてみたが、雑談だったのでそれ以上は発展しなかった。今日はこの辺りを書いてみようと思う。

人間の意識が感じる体感時間というのは面白いもので、現代では時計という物理時間を正確に知る道具があるから、体感時間と物理時間の間の不規則な揺らぎのようなものを誰しも経験することができる。楽しいことをしているときは一日があっという間に終わるし、退屈な一日は耐えられないほどに長い。ちょっと物思いにふけって、遠い国へ出かけて帰ってきたような空想をすることがある。物思いから我に返って、いかんいかん、さぞかし時間を無駄にしただろうと思えば、時計を見るとものの5分ほどしか経過していないということもある。

そういう短期的な体感時間の変動とは別に、誰に聞いてもだいたい同じような意見が返ってくるのが、歳を取るほど時間の進みが早くなり、一年が短く感じられるようになるという変化だ。自分自身の記憶をたどっても、小学校一年生から二年生に上がるまでの一年間は、一年前のことが遠い過去のことと思えるほどに長かった。小学校五年生の頃に組んだ3年定期預金を中学二年生になって満期解約で受け取ったときには、永遠に思えた3年間も、やはり終わりを迎える時が来るのだなという、今から思えば相当に大げさな感慨にふけった記憶がある。

それがいまや、1年などは生活の身近な1サイクルに過ぎないし、3年というのも感覚的に扱い易い手ごろな時間単位でしかなくなった。この違いを生む原因というか、1日や1年を短く感じさせる理由の説明を色々と聞くが、その全てが同じようなモデルに基づいているというわけでもない。ちょっと比較してみよう。

一番よく聞くのは、それまでに生きてきた年数を基準としてと目の前の時間の長さを判断するという説明だ。つまり、6歳の子供にとっての1年とは、人生の1/6、百分率なら16.7%程度の期間に相当する。これは36歳の私にとっては6年に相当する時間である。物心が付く4歳あたりを基点とすれば、当時の1年は人生の50%であり、現在の私にとっての16年に相当する。同様に18歳当時の私にとっての7年に等しいということになる。こちらのほうが経験的な感覚に近い比率と言える。

このモデルでは、一年の長さはほぼ年齢の逆数に比例する。私が72歳になった頃には、1年が今の半年と同じ程度に感じられる計算になる。まだまだ時間は早くなっていくが、その変化の度合いはだんだんと緩やかになっていくはずである。

他の説明も可能である。それは、スケーリング法則によるものである。哺乳類の心臓の鼓動の早さ、心拍数というのは大まかに言って体重の-1/4乗に比例するのだということが、名著「ゾウの時間 ネズミの時間」に書かれている。生体の時間の進みというのは体が大きくなるほどゆっくりになり、結果として寿命が伸びたりする。一方で物理時間のほうは(静止系ならば)一定の速度で進むから、相対的に体感時間はどんどん短くなり、時間は早く流れるように感じられるようになるかもしれない。

この本の結論の面白いところは、一生のうちに心臓が打つ心拍数の累計が約40億回程度の固定値になるということだった。これは、流体力学でのレイノルズ数のように、分母と分子のディメンジョンが一致してしまうことにより、単位の取り方によらない定数として意味を持つという意味であり、哺乳類の体重に影響を受けない、寿命推定のための指標になるという説だった。

人間も含めた哺乳類の体には、心拍というクロックパルスがあり、それに対する相対時間で時間感覚がきまるというモデルも立てることができる。荒っぽく体重の-1/4乗に比例する係数を掛けると、小学校入学時の体重がたしか18kgぐらい、今はその3.5倍くらいの64kgだから、1年の長さは当時の73%程度に縮んでいることになる。これは感覚の変化に対してかなり小さすぎる変化率と言える。

しかも、身長としての成長は18歳辺りでほぼ終わっているから、その後はほとんど体感時間に差はないということになる。高校卒業時の体重が57kg程度だったから、そこからの18年で体重は12%あまり増加しているが、そこから計算される体感時間はわずか3%程度しか短縮されていない。これは感覚に全く一致しない。

ほかに考えられる要因としては、単純なプロセッサ・クロックの問題である。小学校六年生の頃には複雑な計算問題を手計算で手際よく解いていたし、中学生の頃は弾幕乱れ飛ぶシューティングゲームでジョイスティックを華麗にさばきつつ、弾道を推測しながら瞬時に動くべき道を計算することができた。それが今では、色々な知識や経験は積みあがったものの、反射神経を要求されるゲームではかつて足元にも及ばなかった妹に打ち倒されてしまう体たらくである。

脳の処理速度が低下しつつあるのならば、相対的に外界の時間経過が早く感じられ、結果として一年が短くなっていくという現象も理解できる。このモデルの悲観的なところは、「脳トレ」やそれに類する訓練を続けない限り、今後ますます脳の「クロックスピード」が低下を続けることも予想されるという部分である。高齢者の総合判断力や判断速度の低下は、高齢者による自動車運転などを見ていても明らかである。

もちろん個人差や脳の使い方などによる差があるにしても、72歳になった自分にとっての1年とは、今の半年分どころではなく、3ヶ月か1ヶ月かというように、加速度的に短くなって矢の如き光陰は衰えることなく加速していく可能性があるということである。72歳の自分は今の自分よりおそらく賢いだろうが、発想は単調になり判断も鈍いというのは容易に想像できる。これは成長期と老衰期に感覚時間の加速が集中し、壮年期ではあまり大きくは変化しないというモデルになるだろう。

まだ説明の方法はある。クロック・スピード・モデルに近いが、1年の長さを測る指標となるのは、1年というのが現在に対してどれぐらい過去の出来事と感じるかということにも関連している。1年前を昨日のことのように思えれば1年は短いし、遠い過去のように感じるならば1年は長いということになる。これには、1年前の出来事がどれだけ印象に残っているかという要素もあるが、1年前が何ステップくらい前の出来事かという、記憶量の問題ではないかとも考えることができる。

つまり、昨日が今日より過去であることを記憶している。おとといは昨日に比べて過去であることを記憶している。その前はおとといより過去である。こういう積み重ねを体感時間の長さと考えるならば、夕方に今朝のことを思い出すのに10ステップほどを要するほど記憶力旺盛な子供であれば、1日は長いだろう。それが、午後は仕事をした。昼は飯を食った。午前中も仕事だった。という3ステップ程度で済んでしまう大人は、これだけで1日の長さが30%に短縮されてしまう。これを1年365日に拡張しても似たような説明は可能だろう。

落ち着きがなく、勉強も1日に6教科も学ぶ上にその合間の休み時間には色々な遊びもして、家に帰る前に習い事をして、家では宿題とゲームをして寝るという子供と、通勤、1週間スパンの仕事と無駄な会議で1日が終わってしまって、帰ったら飯、風呂、寝る、週末は体を休めるのと子供の世話で終了、という大人とであれば、1日当たりの記憶の累積数というのは大きく異なる。その積み重なった記憶の厚みが1年の長さになるとすれば、子供や若者の1年は実に長くて当然ということになる。

このモデルによれば、老人になって、単調な毎日を坦々と生きていれば1年はいくらでも短くなるし、逆に多くの友人に囲まれて1時間ごとに新しい遊びを探して走り回る好奇心があれば、多分大学生などと変わらないくらいに遠い1年前を思い起こすことができるということになる。

さて、現実に一番近い加齢と体感時間との関係を説明可能なモデルは一体どれであろうか。感覚を定量化できないのが痛いところだが、そのうちこの辺りのモデルも高い確度で特定できるようになるんじゃないかなどという期待を持っている。70歳まで生きたいなどと思うとはかつて想像だにしなかったが、心の欲するところに従っても矩をこえないのだとか、高音域が今以上に聞こえなくなるのだとか、視野テストをすると確実に狭まっているのだとか、そういう加齢現象を自分自身をテストデバイスとして観測してみるというのはなんだか面白そうだ。


意識は脳というデバイスに乗っているのであり、意識が検出する時間というのは物理時間だけではなく脳の処理速度というベースタイムの影響を受ける。私たちは時計を見るという物理時間の観測が可能なので、脳の処理速度だけを時間の基準にしないで済んでいるというだけのことだ。

コンピュータ・ソフトウェアは自分自身の実行に関わる時間経過を、命令をいくつ実行したかという単位で計測することができるが、この単位はプロセッサに供給されるクロックスピードでいくらでも変わるうえ、マルチスレッドやマルチタスク環境では実行時間以外は時間が停止しているから、スレッドごとの時間経過は、それらの優先度やキャッシュヒット率などの影響を受けて不均一になる。そして物理時間との関係ともなると、水晶振動子を使ったタイマとのI/Oが利用できなければ、物理時間を知ることさえできなくなる。そういう状況におけるソフトウェア水準での時間とは、命令実行の回数でしか指し計ることができない。

我らが物質世界でも同じようなことは起きていて、素粒子がある状態からそれに続く状態に移行することで時間が経過する。慣性系、つまりひとまとまりの多数の粒子がみな同じ移動をしているとき、そこで進行する変化というのはどの粒子でも等しい。しかし、慣性系が異なると、つまり相対的な運動が大きくなると、それぞれの慣性系で時間の進み具合が変わってきてしまう。

粒子が移動するというのは、ある位置にいた粒子が消えて、少し移動した位置に新しい粒子が生まれるということである。これを繰り返すと粒子は空間を移動していく。これは「生物と無生物のあいだ」という本で福岡さんが言っていた「動的平衡」そのものである。

ある地点にあった粒子と、それが移動していった先の粒子では、構造は保持されているので同じ粒子だといえるが、その構造を構成している要素はごっそり入れ替わってしまっている可能性があり、そういう意味では同一とは言えない、ということである。福岡さんの定義によれば、素粒子もまた生きているといえるのだろうか。

飽和水蒸気圧にある空気と接している水は増えも減りもしないが、水面の水分子のいくつかは運動量の揺らぎによってときどき空気中へ飛び出していく。しかし、空気中に飛んでいる別の水分子のいくつかは、水面に衝突して液体に戻る。個々の水分子は絶えず振動したり移動したりしている。ただ、水は水分子の莫大な個数のあつまりなので、統計的スケールで見れば水は減りも増えもしない。減りも増えもしないが、個別の分子原子は次々に入れ替わっているのと差がない。平衡とは本来、微視的には動的なものが巨視的には釣り合って動かないように見える状態を指しているので、「動的平衡」というのは「頭痛が痛い」というのに似たおかしさを含んだ言葉である。

話がそれたが、素粒子が4時限時空を移動するにはそれ専用の工数が必要になるらしく、空間方向に高速で移動する粒子はその移動速度が大きくなるほど移動のために工数が食われてしまう。このため、粒子の状態を更新して時間軸方向に移動させるために割ける工数が減少してしまう。空間軸速度のために時間軸速度が変動してしまうことによりマクスウェル方程式はうまい具合に保存されるが、電磁波の媒質であるエーテルは見えなくなってしまう。物質が知ることのできる時間とは、マクスウェル方程式に沿って物質が変化した度合いでしか指し計ることができない。

そして、その背後に「物質を時間変化させたり、物質を空間移動させたりするための『工数』は一定である」という事実が浮かび上がってくる。現在私たちが慣れ親しんでいる時間というものは、ニュートンが想定したような客観的で普遍的な絶対時間だけれども、相対論的世界ではそれは否定されていて、物質そのものが時間を担っている。なおかつ、その時間の進みは相対的な運動量によって変化してしまう。

しかし、物質を空間的に移動させたり時間的に過去から未来に向かって変化させたりという一般的な物理原理が存在するならば、その原理の裏側では、私たちに観測可能な物質の4時限空間での移動を実現してる下位構造があり、そしてその「工数」が一定であることから、素粒子という単位が見えるよりも下位の世界では再びニュートン的絶対時間を想定することも、その可能性が現れてくる。もちろんその更に下位構造すら想定可能ではあるのだけれども。


私の思考は大脳前頭前野に現れる記号的神経興奮パターンの逐次的呼び出しによって実現されており、その速度というのはパターン間の連想記憶呼び出しの速度に支配されている。そしてその連想記憶呼び出し速度は、脳神経のインパルス密度やミエリン鞘に包まれた軸索をスキップ伝達する活動電位の伝達速度に依存している。そして脳神経のインパルス密度は細胞膜を挟んだ濃淡電池がイオンチャネルの開放によって一時的に反転する化学現象に依存している。

化学現象は量子電磁力学に依存しており、その運動は古典動力学と光子を媒体とした量子電磁気学のハイブリッドで説明される。神経細胞もまた分子やイオンが従う量子電磁力学に依存している。そして分子や原子を構成している素粒子の運動はディラック方程式のような相対論と量子論のハイブリッドで説明される。分子やイオンの振る舞いはこれらの量子化した引力と斥力に依存している。

そして、時間とは運動量と相関を持った可変値でしかない。ボーアは運動量と空間位置を独立に求めることはもはや放棄されるべきだと言った。時間もまたそれらの相補的な物理量の一側面を切り出したものでしかない。時間とは物質が持っている物理量の一種に過ぎない。そして、物質に時間や運動量や質量などの属性を与えている下位構造を想定するとき、そこには物質時間とは別の、よりシンプルな時間システムが潜んでいる可能性がある。

こういう見通しがあって、私は絶対空間や絶対時間というものを簡単には放棄したくない。もちろん現実は小説より奇なのであって、実際の絶対時間は私が想像するほどにはシンプルではないだろう。量子の世界がアインシュタインが想像するほどにはシンプルではなかったのと同じように。しかし、波動方程式で求まるのは粒子の存在「確率」でしかないなど、隠れたパラメータの見つかる余地はまだまだある。

ベルの不等式などで素朴な局所的パラメータの存在は実験的に否定されたが、局所性にこだわらないパラメータだとか、ベルの計算の前提に入っていた常識をほんの少し崩すことによって、量子の確率的現象をより個別確定的に説明する理論が見出される可能性はある。その段階で、物質時間を含めた物質世界の物理現象をドライブしている下位構造が予言されるかもしれない。そこには物質時間とは別に、均一な絶対時間のようなものがあってもかまわない。意識上の感覚時間から比べれば物質時間が絶対時間のように見えるのと同じように。

ハイデガーに「存在と時間」という著作があるそうだが、アウグスティヌスも考えたような「時間とは神の創造物である世界に与えられた属性の一つである」というアイデアは含まれていたのだろうか。科学知識を援用しない純粋思考的哲学は隔靴掻痒のもどかしさがあるのだけれども、「存在と時間」が発表された1927年というのは、1916年発表の一般相対性理論よりも10年以上も後の時期ではあるので、相対論や量子論の思考法なども直接伝聞ではなくとも間接伝聞としてハイデガーにも影響していたことだろう。

量子の振る舞いも、波動方程式に従う統計的振る舞いだけではなく、全く予測できないように見える個別の粒子的振る舞いを精密かつ大量に観測することで、ボーアが論じるべきではないと言っていた下位構造が、ひょっとすると少しずつ見えてくる可能性はあるのではないかと思っている。真空管の時代には周波数領域でしか議論できなかった高周波信号も、今では波形を直接観測できるようになり、時間領域での議論が可能になっている。ジッタやスキューはもはや個別に観測可能な事象なのであり、統計量に埋もれてしまうような事象ではなくなっている。観測技術の発達によって、科学的に議論可能な領域の限界というのは常に変化するものだ。

意識、クオリア、物質、運動量、質量、時間。これらは全て「情報」という単一要素に還元できるのではないかという強迫観念にとらわれている。数式で記述される全ての物理法則は、情報と情報の演算結果によるものと説明できる。

私たちが見ている景色は光子という情報の塊が視神経に起こした情報を、神経インパルスという形で脳に伝えた情報そのものだし、外界の全ては神経インパルスとしてしか私の意識の中には入ってこない。情報そのものである意識にとって、外来情報とは実在そのものである。物質もまた情報であり、情報だからこそ意識にとって観測可能なのである。

物質という情報を変化させる効果のある情報は、物質という概念から見れば立派に物質である。質量とはエネルギーと等価なものであり、エネルギーとは情報と等価なものである。ならば、質量すなわち物質が情報と等価なものと考えてもそれほど不可解ではない。ある粒子が陽子ではなく中性子であるというのは情報なのである。周囲の物質との相互作用の性質の違いという演算結果から物質を定義しているのである。そしてこの世界に情報が存在することを合理的に説明しうる下位構造が見えてくる時代が来るのではないか。

父なる人格としての神から、数式としての神へ。数式としての神から、演算処理装置としての神へ。

なぜ私には意識があるのだろうか。それは脳神経が神経電位インパルスを使って情報処理をしているからだ。なぜコンピュータはプログラムを実行するのだろうか。それはトランジスタで作られたオン・オフスイッチが電荷を堰き止めたり流したりを繰り返すことで他のトランジスタ式スイッチを操作し、またそのオン・オフ信号の流れはクロックパルスとラッチで同期させたりすることができるからなのだ。

なぜ物質は物理法則に沿って振舞うのだろうか。それは簡単なルールを恐ろしく大規模で繰り返し実行できる下位構造があるからなのだ。脳が神経細胞という比較的シンプルな装置の集積体であり、コンピュータがトランジスタという比較的シンプルな装置の集積体であるのと同じように。

その簡単なルールで刻々と更新される情報が物質であるのだ。その情報を私という情報塊から観測すると、自分自身を物質塊だと信じ込んでいる情報塊である私には、自分同様の物質としてしか見えないはずなのである。コンピュータ・プログラムから見たマップドメモリは、彼から見れば触れることのできる実在と感じられることだろう。


こういうことを考えるのは実に時間の無駄だ。けれども最高の楽しみでもある。競艇場で舟券を握り締めてボートの着順を予想してみるのと、ここで量子論的世界の先を予想した誰も読まない駄文を書き散らすのとでは、どうやら大差はないのだろう。それはそれで別にいいんじゃなかろうか。
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by antonin | 2008-05-30 01:18 | Trackback(1) | Comments(0)

戦艦大和と高速道路

文藝春秋なんかを拾い読みしていて、戦艦大和は当時の日本で国家予算を安定して引っ張ってこれる利権事業だったなんて話が載っていて、なるほどと思う。「大艦巨砲主義」という看板は、たとえ航空戦の時代が見えていても、予算確保のためには下ろすことのできない看板だったらしい。

荒っぽい比較ではあるのだけれども、現代の道路事業なども似たような話だと聞くと、妙に納得する。「地方景気」という錦の御旗は、そう簡単に下ろすわけにはいかない。そういう時代ではないという実態が見えているとか見えていないとかそういった問題ではなく、止まれば死ぬので止まれないのである。

戦艦大和はその乗組員も理解するような無理な戦法で悲しく沈んだのだけれども、そうした国家予算による最高度の技術開発を実地で経験したエンジニアが戦後の日本で製造業を支えたのだという。国破れて技術者あり。

そういえば道路事業なんかも、国を潰すくらいの費用を消費してはいるけれども、その費用によって世界最高水準の架橋技術やトンネル掘削技術などを日本にもたらしたし、透水舗装や静音舗装などの技術は日本全土に地味に広がっている。ODAという黍団子をぶら下げて、世界中でその技術を遺憾なく発揮していたりする。東アジアや中国が一息ついて、今度はアフリカなのだという。国破れても、土建技術は残るのだろう。

参勤交代などもやめるにやめられなくなり、国を治める藩主が豪商から借りる借金が天文学的になり、明治維新のどさくさでその辺りを棒引きにしたらしい。日本とはそういう国、という言い方もできるかもしれないし、あるいはどこもそんなようなものなのかもしれない。そろそろ戦争でも、というのは、ひとりワーキング・プア弁士の願望ではなくて、案外に切れものの政治家は今後20~30年程度を射程にして、そういう計画なども立てているのかもしれない。

世界大戦などは必要ない。過剰になって絡み合って機能しなくなったルールを焼き払えばいいだけなのだ。焼畑農業のような原始的なやりかただけれども、実際に日本はそうやって不連続に大発展してきたわけだし、グールドが数度にわたる大絶滅を重視するのも、そのあたりに要点があるような気もしてくる。新しい建物を建てるには、古い建物を温存するやり方よりも、発破をかけるほうが効率がよい。

なんにせよ日本国が潰れて日本共和国が成立するような事態になれば、私個人は職を失って路頭に迷うような小市民だから苦労するだろうが、それで日本が再生するなら、あるいはそういう道も悪くないかもしれない。あと30~40年後というと生きていれば老境だから、混乱期に人生の幕を下ろす可能性もあるが、それはそれでいいだろう。戦後の発展を見ずに戦場や市街や牢獄などで死んだ日本人はいくらでもいた。

ただ単純に崩壊するのではなく、どうせ棒引きにする借金だからと無制限に浪費して、戦艦大和級に語り草になるような巨大プロジェクトを咲かせてから散って欲しい。土木になるのか機械になるのか電子になるのかバイオになるのか、はたまた原子力になるのかは知らないけれども、どうせならそういうものを見てみたい。

戦艦大和でもアポロ計画でもいいけれども、意味はともかく明確な目標と潤沢な予算と度量の大きい管理者があれば、優秀な技術者というのは極めていい仕事をするものだし、そこで育った若い技術者はその後にいくらでもいい仕事を継続できる。今年生まれた子供が大学院を出る頃には、そういう無謀な一大計画があると面白いんじゃないか。やる気のない奴など吹き飛ばしてしまえ。私は当然吹き飛ばされるほうの立場なんですが。

巨額の国債残高なんかを見て、これはひょっとするとハナから返済する気がないんじゃないかと思えてきたりもする。理論的には本当にそれをやると郵貯が引き出せなくなったりして問題なのだけれども、そこはそれ、新進気鋭の経済学者が繰り出す数字のマジックで解決できるかもしれない。法律と大衆心理で手当てすれば無理を通すための道理を仕立て上げることもできる。カネなんてのは所詮そんなものである。

日本国は戦後60年、よく続いたほうだと思う。あとどれくらいこの政体が続くのかは、過冷却水も刺激がなければ凍結しないように、偶発的な事象によるのでわからないけれども、あまり期待しないでいれば、そこはそんなに居心地の悪いものでもないだろう。敗戦でも三井も住友も三菱も安田も生き残った。トヨタ、パナソニックあたりは何があっても生き残るだろう。まぁどうなるか知らないけれども。
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by antonin | 2008-05-29 02:09 | Trackback | Comments(2)

信仰とか

私自身のことを言えば、世間一般でいうところの「無宗教」に該当するとは思うのだけれども、厳密に言うと「科学の徒」なんだろうと思う。つまり、通常の宗教に分類されるものを信仰している人の考えのうちで、宗教が説く教えに相当する部分の多くを、私の場合は科学理論が埋めている。そのため、私にとっては科学が信仰の対象であり、宗教であるといえる。

けれども科学というのは、従来の宗教が広く備えていた特徴のいくつかが欠落しているし、なんといっても科学を信奉する人は科学が説く教えが唯一絶対普遍の真理と信じて疑わない傾向が強いので、科学が数ある宗教と同じような性質を持っていることを感じ取ることができず、それを認めることができないのだと思う。

科学に何が欠けているかと言うと、それは「超越者」である神とか仏の存在、あるいは「死後の世界」の存在などを前面に出すといった特徴である。科学はそれを認めなかったり、あるいは積極的に否定したりするので、宗教ではないように見えるし、宗教ではないと信じている人も多い。ただ、中世キリスト教が近世の哲学にその絶対的権威を突き崩されるときの話などを読んでいると、当時のキリスト者が信仰していたものと現在の科学の徒が信奉しているものには多くの共通点があるようにも見える。

キリスト教の教義の中で育った人間にとっては、その教義とは世界を矛盾なく説明するものであり、それは信じるとか信じないというレベルは遠い昔に解決された問題であり、キリスト教の教義というのは、世界の真理そのものであったように見える。信じるも何も、世界はそうなっているのであり、あとはそれが理解できるかどうか、多くの説話を知っているか、あるいは無知であるかという違いだけでしかなかった。

ところが現代においては、科学的理論こそが世界を矛盾なく説明できる世界の真理そのものであると信じられており、大学の理工系で教鞭を執っている人々と市井の研究者でその理論解釈に食い違いなどはあるにしても、科学理論が究極の真実を語っていると素朴に信じている人は実に多い。そしてそういう視点から見れば、ありとあらゆる現象は科学によって説明されるべきだし、ちょっと怪しげなものにも科学的な説明を与えることによって、科学の威光にすがることが可能になる。

科学研究を仕事にしようというような人であれば当然、科学的手法に対する信頼度は高いし、そこから多くの「真理」を見出すことができるということは信じている。けれども、科学に対する理解が深まれば深まるほど、それが単なる道具に過ぎず、科学的手法を使って多くの自然法則を見つけ出したところで、それは「真理の大海を前にして、その波打ち際でひときわ美しい貝殻を見つけては喜んでいるだけの少年」のようなものでしかないという実感を抱くだろう。

逆に、科学に対して素朴な全能感を抱いているのは、案外に科学を知らない世間一般の人々であり、科学理論の危うさを知らない人々であったりする。そしてそのような人々は、神学の世界で戦わされてきた、神の全能性を疑う強力な論駁の数々を知らないような素朴なキリスト者のように、ほんのちょっとした「奇跡」によって科学への素朴かつ強烈な信仰をたちまちにして失ってしまったりする。可愛さ余って憎さ百倍という感じである。

私は科学的な世界観を信奉しているので、「全知全能にして世界の創造者である唯一神」の存在を信じない。しかし、「存在することを信じていない」のであって、「存在していないことを信じている」のではない。存在するとも存在しないとも信じていないのであり、どちらでも私には関係のないことだと思っている、というのが正しい。

ところが、たとえばドーキンスのように、神と神の子イエスの神性を当然のように信じる社会で育った人間が「神の存在を信じる」ということを中断するには、非常に大きな心理的ショックが発生する。そのあまりにも大きなショックのために、彼らはしばしば「無神論者」、つまり、神が存在しないということを積極的に信じようとする姿勢にまで劇的に変化してしまう傾向が見られる。

しかし、私にとって神とは、町ごとの神社に祭られている存在であったり、時としてそれは如来や観音が姿を変えて現れた「権現」であったりする。そういう八百万の神の潜在性が否定されたからといって、それほどに大きなショックはない。なので、「神が存在することを信じない」ということが、すなわち「神が存在しないことを信じる」というところまで大振れしてしまうことはない。

そうした「無神論者」と似たような現象が、科学に素朴な万能感を抱いていた人にも起こりうるのだろう。そこでは、「科学で世界の全てを説明することはできない」という、ごく当たり前の話を聞いただけで、一気に科学の全てを否定するような立場に転向させてしまうのだが、これは無神論者と同じような大振れなのではないかと思う。

科学とはつまり、算術による世界観なのではないかと思う。全ての関係を論理的に構築し、その関係を最も美しく記述できたとき、それは抽象の極みである数式として表される。そして算術の起源は、通商の発達にあるのだろうと思う。

古い世界では、人間は人間同士の関係と、人間と自然世界の関係という、二つの関係しか持たなかっただろう。そしてより理解しやすかったのは、人間同士の関係であっただろう。親が子を養い育て、時に叱り、時に褒め、時に怒り、時に愛し抱きしめる。そしてそういう親子関係の延長上に領主と領民の関係があり、そこには人間には理解しやすい多くの原理原則や、法則類が成立した。それは人間が家族、親類、類縁によって部族社会を形成して、厳しい自然の中で生きていくのに必要な法則だったのだろう。

そしてそういう法則を共有した組織が、人間と自然世界の関係を分析するのにもっとも簡便かつ有力な方法というのは、人間社会の法則を自然世界にも当てはめて理解することである。人間社会を理解する理論の延長として自然を理解することである。

自然現象というのは、どんなに力が強く、どんなに知恵が働き、どんなに信頼の置ける「人間の」統率者でも統御しきれないものであり、そこにはどんな人間よりも偉大な統率者が支配する世界があると考えるのが、もっとも理解しやすい。そしてその偉大な統率者は通常、神と呼ばれる。

ある分野の自然現象を説明するのには、それぞれの分野で独立した原理原則が必要であり、多くの地域ではそれらの分野にそれぞれ独立した神を配した。これが多神教の起こりだと思われる。しかし、荒れ野という均一な環境で羊という均一な食料資源を養うという、ひとつの分野で生計を立てる民族があり、そこでは唯一普遍の神が信じられた。これが一神教の起こりだと思われる。そしてどいういうわけか、今日では一神教が広く信じられるようになった。

擬人化された自然法則というのは、多くの人間にとって直感的な理解が簡単であり、非常に強い説得力を持っていた。自分を守ってくれる両親を敬う。両親を守ってくれる領主を敬う。そして人間を養ってくれる自然そのものである神を敬う。こういう自然な理論の拡張が行われる。

そして現代は科学の時代でもある。これは、一神教以上に単一原則的な信仰でもある。世界には数式で簡潔に記述できる因果関係があるとか、それ以上の「意思」が入り込む余地がないとか、そういうものである。その起源はどの辺りにあるのだろうか。

その前に、数式や数学というものの起源をたどると、それはやはり商業に至るのではないか。一匹の羊、一個のリンゴ、一粒の金、一袋の麦、一片の干し肉。そういうものを取引する中で、自分が損をしてしまわないように、そして相手に損をさせて怒らせてしまわないように、客観的な公正さを期するために生まれた技術というものが算術であり、数学とは算術を発展させたものなのだろうと思う。

現代の数学者が金銭的損得に対してそれほど貪欲ではない場合が多いにしても、とにかく数学の特徴というのは、客観的説得力の強さである。家族の中、親戚の中、部族の中では必要のない客観性が、他部族との通商では必要になってくる。そういう、信用の置けない外部との接触において、最大限の公正さを努力しようとして生まれたのが算術であり、その末裔が数学であり、客観性に最大限の重みを置くのが数理科学であるというのは、必ずしも偶然ではないように思う。

科学とは公正さに最大限の重みを置く。そして、公正さを約束できない部分には、信頼よりも懐疑的、批判的態度を置く。そしてその懐疑や批判を打ち倒すに十分な客観的説得力を持った結論だけを採用するのが科学である。それゆえに科学は、客観的に説明可能なもの以外には、いかなるものも説明しようとしない。神の存在も、神の非存在も、どちらも主張しない。それが公正であると考えるのが、科学である。そしてこの「最小限の説明」こそが、科学の強みであると信じている。これが私の「信仰」である。

ところが、この科学の「控えめな」性質のために、科学というものにはどうしようもない「救いの無さ」がある。「神はいるのか」という問いにも、「死後の世界はどんなものなのか」という問いにも、「絶対的正義とは何なのか」という問いにも、それぞれ「なんともいえない」としか答えられないのが科学なのである。自然現象の多くも説明できるし、人間の生活には役立つ道具も作れるが、人間の切実な問いの多くには強力な回答をしないのが科学なのである。

これは、科学万能の時代の人間が喪失してしまった重要な何かでもある。私は神も仏も信じないが、神や仏を信じることで人の心が安定し、そして誠実であったり力強く信頼できたりする人間を作り出すことも知っている。なので、科学と科学でない思想とが、お互いを補うような相補的関係で共存できれば、それは素晴らしいことであると考えている。

死後の世界はどういうものか。私は「そんなものはない」と信じているが、それは科学的な態度ではない。科学的態度では、それを実証できなければならないのである。しかし、複数の手法によって死後の世界の実在を示す報告は無く、そもそもそんなものは無理だろうと思われるが、そんなものは無理だと言い切ってしまうことさえ、科学的ではないのである。それは実証されなければならない。

とはいえ、神経電位の法則を示す数式や、膜電位の変化を伝達するシナプスの動作や、そしてそれらに影響する神経伝達物質という生理化学的なシステムを理解していれば、人間の意識、もっとそれらしい言葉を使うなら、人間の「魂」とは、脳という物理機構によって実現される情報処理を「内側から」観測したものに過ぎないと、コンピュータのハードウェアとソフトウェアとの関係と、脳と意識との関係の類似性から推測することができる。

このアナロジーが客観的数理関係として成立することはまだ実証されておらず、したがって単なる仮説以前の空想の段階でしかないのだが、私自身にとってはかなりもっともらしい解釈として感じられている。科学としては成立しないが、信仰としては成立しているのである。この信仰によれば、人間の死後は、その「ハードウェア」としての脳組織が崩壊することで、そこで実現されている機能、あるいは「ソフトウェア」としての意識は、どこか別のところに移動するのではなく、単にまとまりを失ってランダムノイズの中に消えると考えられる。

けれども、このあまりにも即物的な「魂」の解釈は、現実の「魂」あるいは「精神」の苦悩に対して、あまり救いとはならないばかりか、逆に苦悩の種とさえなる。特に、若くして死亡率の高い病気に罹患したり、あるいは単に老化で死が近いような人にとって、不安ばかりを与える解釈でしかない。

「魂」がすっかり消えてしまうだけの死後を、私はほぼ「真実」であると理解しているけれども、その真実があまりに毒気が強いこともまた理解している。養老孟司さんが著書の「唯脳論」の中で、脳が「形」であり、意識はその「機能」であって、それは一つの物を二つの側面から見たものに過ぎないということを述べていて、確かにそのとおりだと思ったのだけれども、同時に述べられていた、若い頃は心身一元論を説いていた学者が、晩年に二元論に傾いたことを批判した文章では、それはちょっと厳しすぎるのではないか、という感覚も同時に抱いた。

私も、「サンタはいない」ということを真顔で子供に言おうとは思わないし、同様に、死が近づいていることを気に病んでいる人に向かって、「魂は死後消滅する」などということを得意げに言おうとは思わない。それは、真実がどのようなものであるかという信念とはまったく別のものだ。

私自身は神が存在するとは信じていなくても、ある人が神は人間の善行と不善を常に見守っていると信じており、またそれらは死後の裁きで必ず認められると信じており、それによってその人が世間の不条理に対して心を強く保ち続けることができるのならば、それを積極的に認める。その価値は、おそらく真実を知るという価値を超える。

死後の世界が存在しないとするならば、人間は現世で全ての利益を受ける必要がある。死後もない、来世もないなら、そう考えるしかない。たとえダーウィニストでも、自分の遺伝子を伝える子供たちや、自分と多くの遺伝子を共有する人類の永続のために捨て身の献身さえできるけれども、それでも死後の世界で厳格無比の神による裁きが自分自身の善行に正しく報いてくれると考えるほうが、はるかに強い気持ちで献身ができるだろう。これは人間の尊敬を集める偉大な行動として現れやすい。

ただ、我々のような自称無信仰の人間が従来型の宗教を嫌う理由の一つは、彼らが自分たちの信仰を絶対に正しいと信じて我々に押し付けてくるという点にある。彼らは彼らの信仰が絶対的に正しいと「信じている」のであって、その正しさを広く認めさせたいと考えるのは当然かもしれない。私たちだって、科学教育にもっと力を入れろと主張することがあるし、それは「科学の徒」の勢力を拡大せよ、科学の正しさを遍く広めよ、という主張に他ならない。それと同じことを、他からされるのは嫌だといっているのであり、身勝手な傲慢でもある。

そして、我々のような自称無信仰の人間が従来型の宗教を嫌う理由のもう一つは、信仰を持つ人々の誠実さと献身が、信仰を説く側の人間の現世利益を実現するための道具として利用されるように見えることが、非常に頻繁に見られるからでもある。

募金を集め、それに自己の稼ぎから幾許かを添えて、災害や病気に苦しんでいる人の救済のために使う、大変崇高な活動をする宗教家がいる。その一方で、病気や人間関係におけるトラブルの原因を霊的なもので説明し、それを解決するために多額の金品を要求し、それを拒否すれば、地獄へ落ちるだの末代まで不幸になるだのと悪質な脅しを繰り返す団体を多く目にしてきたからでもある。

もちろん、それらはまったく別のものであることも多い。しかし我々をより混乱させるのは、上層部が悪徳でも、下層部の活動家は全く以って純真で、あまりにも無垢であることもまた多いという事実である。そういう現象のために、目の前の、信心深く誠実で、我々の悩みに対して熱心に耳を傾ける人に対して心を開く前に、その背後にある悪徳に怯えてしまうのである。

そして最後に、我々は家父長的な優しさと厳しさを兼ね備えた統率者を頂点とする同族的社会の温かみに親しみを覚える一方で、その頂点がアブラハムやモーセやイエスやムハンマドに直接啓示を下した唯一神であるという考えに全く同意できないのである。念仏を唱えるだけで阿弥陀如来が西方浄土に導いてくれるという考えに全く同意できないのである。御霊となって社に宿るという考えに全く同意できないのである。

生活面での精神のあり方を論じる前に、この相違はどうしても無視できない。全く不幸な死に方をした人々が、死後に報われて幸せに暮らしているのだとすれば、今に生きる我々の気持ちも確かに安らぐ。しかしそういった説明のどれを取っても私としては信用することができない。

科学を信じる者としては、自分自身としてはそういうどうにも救いようのない世界観を持ちながらも、死に向かう人に向かって「死後の世界は存在しないだろう」などという気の利かない押し付けをするようなことだけは避けるべきである。そういうことを、科学の徒は良心的自戒として持たなければならないのだろう。信仰は自ら抱くものであって、人に押し付けるべきものではないのではないかとも考えている。
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by antonin | 2008-05-26 01:54 | Trackback(1) | Comments(4)

読書計画

団塊の世代」読了。非常に面白い。

一応、元高級官僚の書いた「未来予測小説」ということで経済データなどに基づいた予測データを前提とした小説になっているのだけれど、極端な金融緩和によるバブル景気や、ソヴィエト連邦の崩壊や中国の開放政策などのために自由経済圏へ旧東側の安い労働力が流入して発生したデフレなど、当時のデータからは予測不可能な現象が実際には発生したために、小説に書かれている「未来社会予測」そのものはあまり当たっていない。

ただ、そうしたマクロ的なものは一部現実と食い違ってはいるものの、それとは別に、いつも過当競争に苦しめられてきた団塊の世代が味わっている一人称視点の苦労が、30代、40代、50代と年代ごとに丁寧に書かれていて、それが妙にリアルで驚いた。そして一番驚いたことが、団塊世代とそれ以下の世代の、悪意なき対立が、今確かにネットなどで目にしている対立の、ほとんどそのままの形で書かれていたことに驚いた。

あるいは人間の本性はほとんど変わるものではなく、状況が変わればこのようになるというのは当然のように予測可能だったのかもしれないが、とにかく驚いた。ついでに言うと、官僚とマスコミと市民感情のすれ違いという毎度毎度の悪循環が明らかにされていて、これは当時そのままの状況が続いているということなのだろうけれども、とにかくそのあからさまなリアルさに感心した。

堺屋さんの言うとおり、これから10年ほどは団塊世代にとって黄金の十年になるだろう。けれども、それは結局のところ医療や栄養状態の改善による寿命の延びの効能でしかなく、10年後にはやはり予測どおりの老人過多という問題が顕在化するのだろう。それでもまだ我々「ジュニア」世代が現役で働いているうちはそれほど深刻ではないだろう。我々は高度成長期を経験している世代と違って富の儚さを知っているから、貧困は知らないにしても過剰な贅沢は求めない。

問題は、我々が60歳を過ぎて、団塊世代の一部が90歳程度でそれなりのボリュームを保っている2030年代あたりに訪れるだろう。もちろん、予測不能の政治経済事象や、官僚の繰り出す妙手によって危機の程度は緩和されている可能性はあるが、一応そのあたりで「人口オーナス」問題はピークを迎え、あとは徐々に問題が緩和していくだろう。コドモたちはちょうど今の私と同じような年齢になっている。我々は老人として高度医療を良心的辞退する文化を身に付けているだろう。代わりに、畳の上とは言わないまでも、生活の場で息を引き取ることくらいはできるようになるかもしれない。中国と戦争していたりしないことを祈りたい。

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盲目の時計職人」読了。

前にも書いたけれども、私はすでにドーキンスの意見に洗脳されているので、わからず屋を説得する調子の本書の文章は実に冗長に思えた。けれども、生物学のトピックを難しい専門用語なしで読むのは単純に面白かった。

どちらかというと、もうすっかり了解済みのドーキンスの意見よりは、それと同じ基盤を持ちながらも、なおかつ異なる視点を提供しているというグールドのほうに関心が移っている。というわけで読書計画。もう次のような在庫が積み上がっている。

ドーキンス VS グールド

ドーキンスとグールドの意見の対立点を、十分な知識を持った著者がわかりやすく解説してくれる内容で、もう読み始めているが、なかなか面白い。これで議論の見どころを確認できたら、次はいよいよグールドの著作へ。

ワンダフル・ライフ

バージェス頁岩に化石として現われた、現生生物とは非常に異なった不思議な姿の生き物たち、例えばアノマロカリスの話などは以前にNHKスペシャルか何かの番組で見た記憶があり、興味深い。それらの生命は大量に絶滅して地球から消えてしまうのだけれども、そこにグールドの進化論的解釈が加わるらしいので、非常に面白そうだ。

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あとは適当に。

ソフトウェアっぽいの。

Effective C++ 第3版
「第2版」のほうがあまりにもすばらしい書籍だったので、レイアウトや訳文などでかなり見劣りしてしまうのだけれども、それでもやはり原書のすばらしさというものがあって、読み応えがある。こういう読書は楽しい。しかも仕事に役立ちそうなのでなおのこと楽しい。std::st1ってもう業務で使ってもいいのかなぁ。

Effective STL
まあこれは職務上常識レベルで知っておかなくてはいけない内容だろう。これで基本技能を身に付けたら、"Modern C++ Design"なんかを読んでTMPでゴリゴリにコーディングして遊んでみたいけど、職場でやったら怒られるだろうな。

達人プログラマ
達人というより、やらされ仕事ではなく自発的にプログラマをやっている人間には普通に役立つ実践的ノウハウが書かれているらしいので、これも楽しみ。

「Code Complete第2版〈〉〈〉」
これは分量も非常に多いし、頭から順に読んでいくような感じの構成でもないので、判断に迷ったときにリファレンス・マニュアル的にときどき利用しています。やっぱりgotoが嫌いな感じが素敵です。個人的にはC++では全廃、Cでは積極的にgotoを利用しています。

http://www.linux.or.jp/JF/JFdocs/kernel-docs-2.6/CodingStyle

にあるようなLinusの意見が気に入っています。Pascalみたいなことがやりたいなら、Javaか、せめてC++でやれと。CなんだからCらしく書こうぜ。こういうの好き。でもインデントは4カラムだ。これは譲れない。

計算機プログラムの構造と解釈
これはまぁ、努力目標ということで。ぼちぼち読んでいきたいです。今のところ職場の机上を飾るお守りアイテム。


上記リストがだいたい片付く頃には、マルチスレッドとか自動並列化あたりとか、デザインパターンみたいな流行アイテムにも手を出してみたいけど、今の実力と業務内容から見て、このあたりは2年後までに習得すればいいのかな、という気配。先に知っておかなくてはいけないことが山ほどある。雑誌付録の16-bitマイコンとかFPGA基板とかどうしよう。全く手が出ない。素朴な4-bitプロセッサなんかをHDLで書いてみたいけど、どの程度のコード規模になるんだろう。

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電算機っぽくない本とか。

西遊記
絵がかわいい。文章ももちろん楽しい。毎日新聞の連載。でもハードカバーを通勤電車で読むのはつらい。

池田大作『権力者』の構造
恐いもの見たさ。大川隆法なんかもちょっと興味ある。

日本共産党
恐いもの見たさ。脱会信者が告発するその実態!! みたいな感じらしい。

賃銀・価格および利潤
共産党とか過激派などとは切り離して、マルクスの理論なんかには案外関心が高い。現代にもそのまま通用するとかではなくて、当時の状況の理解と、それに対する考え方として。まあその前に「マンキュー マクロ経済学 第2版〈1〉入門篇」を先にちゃんと読み終えろ、という話ではあるのだけれども。B/SとかP/Lなんかが読めたほうが現世利益があるらしいのだけれども、あんまり興味が湧かない。

カオスから見た時間の矢
2000年あたりに購入したものの、放置してしまっている一冊。なんとかクリアしたい。基本的に時間の向きというのは機構原理的なものであって、カオスとかエントロピーとかそういうものでは説明しきれないものだと思ってはいるのだけれども、古典物理の可逆的決定論の範囲内でも、逆再生ビデオみたいな物理現象が観測されないという説明が可能だとしたら、それはそれで面白い。

こんなところか。これ以外にも「書棚の肥やし」がたくさんあって困る。読書時間確保のために通勤時間を2倍くらいに延ばしたい。などと言ってみたり。「文藝春秋」なんかもときどき買っているんだけれど、読みきれない。雑誌とか読んでる余裕がない。日経エレクトロニクス日経マイクロデバイスあたりで手一杯だ。

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なんだか目が腐るほど本が読めて楽しい。

本を読んでいるときと、カルビーや亀田製菓やブルボンなんかの安い菓子を食っているときは、日本に生まれて本当に幸せだったと思う。他にも目立たない幸せが多すぎる国だと思う。文庫本の紙質と印刷の質。陶製便器の寸法精度。家庭電力供給のMTBFとMTTR。豊かな降水量と高度な治水技術。そして、なんだかんだ言っても安全な牛丼屋と立ち食いそば屋。その幸せが、本当に目立たないのだ。もっと目立ってもいいと思う。

浮世絵なんかはすばらしい日本文化だったと思うけれども、あれがすごかったのはその芸術性というよりも、その量産性だったような気がする。貴族の屋敷に飾る一点物ではなくて、木版で量産して庶民に売っていて、なおかつあの品質水準を維持していて、挙句に梱包用の古紙としてヨーロッパ上陸を果たしたのだ。こういうのが日本人の一番好きな部分だ。嫌いな部分もたくさんあるけれども、ここは大好きだ。

日本の印刷技術は半導体製造技術なんかとゆるやかなつながりを持っていて、異常なまでの高品質を低コストで実現している。そしてそのクオリティが発揮されるためには当然に、高品質な紙を提供する製紙産業、高品質なインクを提供する化学産業、精密な位置決め装置を提供する精密機械産業という高度な周辺産業の存在が欠かせない。なんなんだろう、この認められていない贅沢さというのは。

高級テレビの取説なんかも、グラビア印刷のコーティング装丁にして輸出したりすれば面白いことになるだろう。テレビは壊れて捨てたが、この取説だけはなんだか捨てられなくてね、なんて言われてみたいじゃないか。取説はすごいけど本体はちょっとね・・・、と言われてしまうような製品品質でもないんだし、そういう遊びもしてみたらいいのに。そしていつの日か、日本製品の取説が並んだMoMAの特別展が開かれるのだ。

さて、妄想がひどくなってきたのでそろそろ寝よう。
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by antonin | 2008-05-24 02:59 | Trackback | Comments(2)

覚悟とか

早く寝ないとなぁ・・・。

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現代日本人は色々と言われているわけだけれども、その多くがいつの時代にも共通の「今の若い者は・・・」というボヤキであると確信している。今どきの若者でも優秀な人たちがいくらでもいる。それでも他方では、確かに現代日本人は過去の日本人に比べて覚悟が甘いというのも確かである。「シュガー社員」なんて言葉もあるそうだが、私なぞ超シュガーだ。シュガーすら通り越して、合成甘味料のように桁違いに甘い。

私も一応男系をたどれば武家や軍属の末裔にはなるらしいのだけれども、これから戦争に行けだとか、そこでよく知らない司令官の命令どおりに動けだとか、しかも3人くらいの部下を与えられて、命令には絶対服従だが、その命令の範囲内で現場の状況を認識しながら随時適切な判断を下して、部下を含めた命の責任を持て、なんて言われたら即座に断るし、たぶん移動中に病気になったり死んだりする。実に甘い。

戦争までは持ち出さないにしても、例えば来月から無期限にインドに行ってオフショア開発の手はずを付けて来いとか、もっと日和って名古屋で新しい顧客に接触して新規の仕事を取って来いとか、その程度でも全く面倒くさい。実に甘い。

私がこのように甘いのにも理由付けは可能であって、例えば日本では60年間戦争に無縁で徴兵制もないとか、かといってタイのように少年が仏教寺院で一定期間の修行を終えてから社会に出るといったシステムもないので、社会に出る寸前まで「子供」の立場を存分に利用して生きてきたという要因は考えられる。子供同士が自治活動をして、人間同士のむき出しのエゴをぶつけ合うような場もそれほど経験しなかった。

ここからは時代的な環境要因というよりは個人的な事情になるのだけれども、妹が生まれるまでの約10年間は一人っ子として自由気ままに育ってきた。父方母方両家にとって初孫でもあったので、ふんだんなおもちゃに囲まれて部屋遊びばかりしていたら、小学校に上がる頃にはすっかり運動音痴になっていた。毎日部屋でおとなしく本を読んだりテレビを見たりテレビゲームで遊んだりして育った。前にも書いたが、我が家にはファミコンが登場する5年前のインベーダーブームの頃に一時的に流行したテレビゲームがあった。実に甘い。

当然、思春期にもスポーツの全国大会を目指して毎日過酷な練習を繰り返すようなこともなく、かといって受験勉強に邁進して東大一直線という意欲もなかった。身内にはサラリーマンも公務員も一人もおらず、皆自営業かそれに似たような業種だった。そんな影響もあってか、家庭環境の中にはエリート的な危機意識のようなものは一切なかった。実に甘い。

あまり自虐的になっても仕方がないので、対象を広げてみよう。私が生まれる前には三島なんとかという作家が軍人コスプレをして腹を切ったが、その当時でさえ本物の軍人である自衛官にすら冷笑を浴びていた。それでも当時の日本人は、終身雇用制を敷いた企業への強力な帰属意識から、ほとんど捨て身に近い献身的な仕事ぶりで日本経済を急成長させた。「芸のためなら女房も泣かす」なんて歌が流行し、実際に妻たちが子供たちに不在の父親への不平を述べながら子供を育てるということが一般化した。

日本軍が戦争をやっていた頃には命を張っている軍人はたくさんいたし、民間人上がりの兵士ですら国家や故郷や家族のために"suicide bombing"さえやってのけた。銃後の母はそのような無謀さに黙って従ったり、あるいは積極的に支援をしたりして、子供でさえ命を捨てる覚悟を持っていた。そして実際に多数の子供が死んだ。生き残った子供もそれを見ていた。

明治期にはもっと素朴な兵器で肉弾戦に近い戦いもしていたし、勝ってさえいた。白い飯を食うために軍隊に入り、立派な軍服に身を包むことに強烈な誇りを持っている兵士がいた。森鴎外が陸軍付きの医師として、脚気の予防には麦飯や玄米が効果があると聞いてもそれを受け入れず、白米と肉食にこだわり続けた。

幕末にはかつて見たこともない欧米の軍艦を向こうに回し、国内でも政治的な駆け引きと軍事的な闘争によって日本の再統一と立憲君主制による近代的独立国家の樹立を成し遂げた。

現代では比喩的な意味しか残っていない「腹を切る」という表現も、江戸の武士たちは自身の責任や集団全体の責任を引き受ける意味で、本当に腹を切って死んでいた。それでも江戸後期の武士たちは腹に少し刃物を当てるだけで介錯されていたというが、覚悟の強い者は腹を横にさばいてから縦に切り替えてさらに刃を進めたというし、江戸も初期なら本当に腹を切って自害する者も少なくなかったという。上司や同僚を介錯する立場の覚悟というものも並大抵ではないだろう。

戦国期には日本中で剣、弓矢、銃などによる合戦が相次いだし、秀吉が検地や刀狩りで庶民をただの農民に替えてしまうまでは、武士と農民の差は明確ではなかったという。農村の中の有力者が武器と兵糧をそろえ、利害の一致する勢力に加担して戦うというシステムがあったから、戦闘に無縁な人間というのは少なかっただろう。

戦国期に日本の農業や治水が急速に発達するまでは、日本の農業は天候不順に非常に弱かったという。現在の日本の都市が置かれる沖積平野に日本人が進出したのは戦国期以降で、それまでは河川の氾濫のために平野に住むというのはそれほど簡単なことではなかったらしい。ヨーロッパ人はなだらかな丘の上に住んだが、日本人は谷あいや海沿いの傾斜地を好んだのだという。旱魃による飢え、豪雨や地震による土砂災害、それにいつ来るかわからない病気などで、人間は簡単に死んでいった。

とにかく、そういった命の危険がいつも生活の横に存在していて、ある種の諦観に基づく覚悟を共有していた世代に比べれば、私たちは確実に甘い。特に私などはアスパルテーム級である。極めて甘いが、栄養にはならない。それはそれとして認めよう。そこで取りうる策は3つ。今から覚悟を決めるか、覚悟が無いなりにより良く生きようとするか、あるいは開き直って自己肯定するか。

個人的には第一の選択はもう無理だと思っている。覚悟というのは多分に感情的な過程であり、前頭葉で起こるある種の思考が大脳辺縁系の辺りをいい具合に刺激するような回路が学習などによって形成されている必要があり、そこから反射的に発生する信号が生み出す自己肯定感が、大脳全体を、ひいては肉体全体までを前頭葉の適切なコントロール下に置く。こういう下位レベルの学習というのはおそらく思春期以前に完了していて、不惑が近づくとこのレベルに大きな修正を加えることは難しいだろう。可能だとすれば、命が危険にさらされるような状況に置かれて生還するといった経験をするくらいだろうか。

すると第二か第三の選択ということになる。現在は第二の選択肢を取ろうとしているが、不惑を前にして、急激に第三の選択肢にも近づきつつある。タヌキオヤジ化という道である。体形もガリヲタ系から標準体形に移って久しいので、タヌキ腹をしたタヌキオヤジを目指すというのも悪くないかもしれない。そして、最近のゆとり世代は甘い、などと自分のことはすっかり棚に上げて無責任なことを言うのだ。マロングラッセのような甘い成熟。

とまあなんと言うか、今までは「努力?なにそれ?どこで売ってるの?」という育ち方をして、「成功体験?なにそれ?食えるの?」というような社会人生活を送ってきたのだけれども、最近になってなんとか少しずつマシにはなってきたので、いくらか良好な向きに進めていきたい。

しかしなんというか、社会人生活13年目にして初めて直属の後輩というものがついて、これはなんだか面白い体験ですな。年下の同僚というのは過去にも居たのだけれども、私があとから転籍したので、どちらかと言うと自分のほうが後輩として色々と業務を指導してもらったという具合だったし、部下はいたけれども、年上のノンキャリア社員でいろいろと面倒だった。たとえ半年程度といえども、在籍期間的にもこちらが先輩というのは大学のサークル生活以来の事象だったりする。それなのに後輩と年齢が離れすぎていてなんだか変な感じであります。
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by antonin | 2008-05-23 00:32 | Trackback | Comments(4)

スリム幻想とか

今日はどうしても平日の昼間に潰さなくてはいけない用事が溜まってきたので、半休を取ってそれを片付けてきた。予定より早く終わったので駄文を書いてみる。例によって推敲までしているヒマはない。これぞ素人の書き物。

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「レコーディング・ダイエット」というのが流行しているらしい。だいたいこの手の流行というのは1、2年の周期でどんどんと新しいものが生まれ、古いものは記憶のかなたに流れ去っていくものなので、「レコーディング・ダイエット」もあと2年もすれば「ビリーズ・ブートキャンプ」や「ごはんダイエット」などと並んで流行ダイエットの歴史書を飾る存在になっているだろう。

まぁレコーディング・ダイエットそのものの評価としてはダイエット手法の中でも実効性の高い部類には入ると思うけれども、ある種の努力性向や几帳面さという性格に依存しているだけに、それほど汎用性がないという意味では過去のダイエット法と大きな違いがないだろう。効果がないのではなく、「やっぱり続かない」という人が多数を占めるという意味で、過去のダイエット法と共通しているように見える。

それはそうと、減量法が必要とされるのはあくまでも肥満体の持ち主であって、すでに個人的なベスト体重にある人が減量すると、あるいは外見的なメリットがあるのかもしれないにしても、全体的に見ればやはり何らかのリスクも一緒になって付いてくるのだろうと思う。どちらかというと肥満体の人が減量する場合にも似たようなリスクは存在するのだけれども、減量によるメリットがリスクを上回っているから、そこに価値があるということなのだろう。

それにも関わらず、多くの女性には疫学的な理想体重よりも何割か少ない体重を理想体重としている。その理由の大きな部分は、ほとんどの「かわいい」服が細身の体形に合わせてデザインされているからだろう。裸になって肉感的な美しさを持つ体形でそれらの服を着ると、服のデザインを崩してしまって「かわいくない」ということになる。一方で、裸になれば骨や血管があらわになって見ていられないような体形の女性がそれらの服を着ると、とても美しく「かわいく」見える。

デザイナーが服をデザインする際に描かれるデッサンを見ると、それを着ている女性というのはかなりデフォルメされた体形をしている。それを現実の女性が着られる程度にアレンジすると実際の服が出来上がるのだけれども、それでもやはり「現実的な」体形よりは「理想的な」体形に合うようになってしまうのは避けられない。あるいは一般女性が身に着けた状態よりも、店頭のハンガーに吊るされた状態でより美しく見える衣類だけが生き残るという、市場における淘汰が生み出した現象なのかもしれない。家庭で見ると目が痛くなるが、店頭で見ると美しい液晶テレビなどにも似たような現象が生じている。

競争が激しくなると、競争を支配する単極的なパラメータが発生することが多い。そこに現実的なメリットがある場合もあれば、共同幻想や自己目的化によって価値を発揮し始める場合がある。女性が健康な体形より痩せるということもそれに当たるし、孔雀の羽が大きく美しいというのもそれに当たる。一度ある傾向が良いものだと認められると、それはいろいろなものを巻き込みながら暴走を始める場合がある、というようなことが先日読み終えた「盲目の時計職人」に書いてあり、なるほど現代社会にもそれはあるな、と思った。

そういう現象は流行に敏感な若い女性の中にあるだけではなく、似たようなことは経済社会の中にもある。例えば、企業は無駄の排除により経営をスリム化し、経営効率を極限まで高めることで競争力を維持するということが現代では必須と思われている。けれども、そういう流れに対して「ホントかよ」というような気分もある。もちろん、銀行の投資判断を決定する指標などにすでにそういうパラメータが組み込まれてしまっているので、経営のスリム化には経済社会での実効的な力があるが、それは「痩せればかわいい服が着られる」というものに似て、ある意味で仮想的な価値に見える。

例えばトヨタ自動車が在庫を最大限に排除して在庫に関わるコストを排除すると、そこから膨大な利益が生まれる。そして大手企業がそれを真似る。そこまではいいだろう。問題は、そういう成功例が中小企業にまで波及するということだ。大企業というのは、ほっとくとすぐに余剰資本が蓄積してしまうような「肥満体質」なので、資本を減らしていくという方向はほとんど全ての場合に「改善」方向にある。

けれども、中小企業というのはちょっと資本が削られると業務が回らなくなって死んでしまうような小さな個体なので、貪欲に資本を太らせるほうが「改善」方向に向いていることも少なくない。ひとくちに「無駄」といっても、状況によってそれが指すものは違うのだけれども、トヨタ自動車の輝かしい成功例を前にして、人間はけっこう無力なものである。

生命保険と宝くじという制度がある。これはどちらも、各個人には人生を変えるような影響を与えるイベントが確率的に発生するが、それを多数まとめれば大数法則によって予測可能な一定値に収束するという原理に基づいている。ひとりの人間にとって死亡保険金の数千万円という金額は非常にありがたく、貯蓄などではなかなか実現不可能なものではあるが、大きな組織にとっては通常業務として制御可能な経費として処理できる。ひとりの人間にとって数億円という当選金は人生を変えるほどの力を持っているが、大きな組織にとっての数億円は売り上げの数千億円に対して1パーセント未満のコストでしかない。

荒っぽく言ってしまうと、生命保険商品を購入するというのは自分が死ぬほうに掛け金を積むギャンブルであるとも言える。補償期間内に死ぬことができれば大金を手に入れられるが、死ねなければ保険料のほとんどを胴元である保険会社に持っていかれて終わりとなる。もちろん理屈的にはそうなのだけれども、実際には多くの個人が負担可能な小額を持ち寄り、良心的な組織がそれを管理、分配することで、個人では背負うことができないほどの損害を受けた人を助けるという相互扶助制度になっている。

逆に言えば、ギャンブルは多くの敗者が少数の勝者に払う賞金を負担するという逆保険になっている。「負け組」が「勝ち組」に寄付するという制度がギャンブルのもうひとつの見方で、株式市場などもそうなのだけれども、現代は社会全体が賭博場になりつつあるともいえる。「格差社会」というのは「格差が大きい状態」という評価ではなく「格差が増える状態」という変化率を評価しているのだろう。ジニ係数の大小を論じてもあまり意味が無いように思う。定常状態から過渡状態に入ったことが問題なのだろう。

こういう環境の中で、保険を捨ててギャンブルに移行したほうがより儲かるという状況が確かに目の前にある。ただし、ギャンブルのメリットが保険のメリットを確実に上回るのは、大数法則の成立する巨大組織だけだ。小さな組織が保険を捨ててギャンブルに移っても、組織が吸収できないようなリスクの大波に飲まれるだけだ。

保険というのは「いざというときのために備える」ということであり、「自分より大きなものに頼る」という事でもある。トヨタ自動車のような、自分自身が巨大すぎて自分より大きな存在を探すのに困るような組織は、「いざというときのために備える」なんていうことは自分自身で十分にできるのであり、それを各部各所がやるのではなくて組織全体が代表することで、リスクに備えるコストを最小化することができる。在庫を最小化したので、自然災害発生時には工場が簡単に操業停止してしまうが、工場が一時的に停止しても痛くも痒くもない規模を持っているからこそ、在庫を持つよりもコストを削減したほうがメリットが大きくなる。

小さな町工場が同じような在庫削減をするなら、そのリスクを吸収してくれるような協同組合を作って適切な保険機能をそこに持たせなければ、ちょっとした偶発的な事故で町工場はたちまち潰れてしまう。そういう機能を持った組織がないのなら、ある程度の在庫を持つということは町工場にとっては確かなメリットがある。もちろん、非営利の協同組合がリスクをプールしてくれればその方が当然コストは下がるが、あまりそういう間接業務を非営利でやってくれる組織というのはなくて、町工場よりも格段に利益率のいい大企業がそういう役回りをしたがるので話は面倒になる。

バリバリと仕事をこなしている風でもなく、かといって部下を能率的に動かしている風でもなく、なにかというと昔やった仕事の手柄話ばかりしている中間管理職はいかにも無駄な存在に見える。給与も馬鹿にならず、それを切るメリットは大きいように見える。そういう人は企業にとって「脂肪分」なのだ。けれども、それが職場環境を殺伐とした空気から守る「皮下脂肪」として働いていれば、そこにはしっかりと大局的なメリットがある。もちろん、組織の機能を低下させるような「内臓脂肪」みたいな人が多すぎれば当然それはデメリットのほうが多いのだけれども、そうした違いというのは体細胞に過ぎない平社員にはなかなか判断がつかない。

ある鉄道のある路線が赤字を垂れ流している。そこで、乗車率の低い日中の運転を中止してみた。電力消費がいくらか減り、列車の運転距離も短くなるのでメンテナンス費用もいくらか減る。一方で朝晩は利用客が多く運転本数は減らせないので、列車台数は減らさず、人員はパートタイムを多用してむしろ増員する。これで朝晩の混雑が緩和し、乗客が増えるだろう。

しかし、その後この路線は廃線になる。なぜか。通勤や通学に鉄道を使っていた人は、そのほとんどが朝晩のラッシュ時の列車を使っていただろう。しかし何かの事情があって午後から出勤したい人や、試験や何かで昼過ぎに授業が終わる学生は、昼間の列車を利用する。朝晩に混んだ列車をあえて利用するのは、コスト的な問題も当然あるけれども、昼間でもそれなりに利用できるという見えにくい前提条件があったからに他ならない。

いくら通常利用する朝晩の列車が増便されても、座席に座って済むほどに混雑が解消するわけでもない。一方で、列車で出かけてしまえば、昼間には帰ってくることができなくなってしまう。ほとんどは列車で用事が済むのに、こういう「いざというとき」の不便のために、少なくない人が自家用車などの代替手段を選び始める。すると朝晩の利便性が増したにもかかわらず、その時間帯の利用客は減り始める。代替交通のほうは利用者が増えるに従い資金が豊富になり、ますます利便性が高まる。そして鉄道路線は廃線となる。

無駄を排除するのはいいことだ。しかし、それが本当に「無駄」なのかどうなのかを判断するというのは、簡単なことではない。「当たり前に存在するものを廃止する」というリスクを定量するためには、常識を疑って論理的想像力を働かせる必要がある。逆に、「当たり前に存在するものを廃止する」ということに、常識では考えられないほどの大きなメリットが潜んでいる場合もある。

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とはいえ、常識とはそれ自体がひとつの巨大なシステムであり、環境であり、公理系でもある。それをひっくり返すというのは簡単なことではなく、今すぐ若い女性に過剰なダイエットをやめさせることはできないし、かわいい服の売れ筋をマネキン向けからミロのヴィーナス向けに今すぐ変えることもできない。やせている子がかわいく見えるという人の意識を変えることは、もっと難しい。若い男性が眉を剃ることにどれほどの意味があるかは別として、それ自体がひとつの環境要因であって、それはそれとして受け入れるのがおそらく正しい。

常識をひっくり返していろいろな景色を見るのは楽しいが、それを現実世界に結晶化させるほどにはカエサルでもピカソでもないというのは重々承知している。そういう、頭でっかちで脂肪分で中途半端な知性に育った30代後半としては、無駄の効能というものを考えるのは結構切実な生活問題なのである。宇宙から見れば人間の営みなどちっぽけなものだが、どのような存在にとっても「等身大」の事象が一番切実で、それを大きく外れる事象というのはどうでもいい、というか、どうしようもないのである。

私は、太陽の寿命があと50億年余りしかないという問題についても、肝臓にある細胞のひとつで酵素の生産効率が徐々に低下しているという問題についても、あまりにも無力だ。太陽やひとつの細胞にとっては等身大の問題であり切実な問題なのだろうが、私にはどうしようもないし、どうでもいい。ボーナス前にある妹の結婚式の資金繰りをどうしようかというのは私にとって切実な問題だが、例えばあのイケてる評論家にとってはどうでもいい、あるいはどうしようもない問題だろう。そういう問題が、多次元空間で少しずつ重なり合いながらグラデーションを作っているようなイメージが脳内にあって、ちょっと頭おかしいんじゃないかという気もしている。

中島聡さんが「プチ変人」なるものを擁護しているが、"petit"だろうが"grand"だろうが、現実の変人というのはおそらくもっと面倒で厄介な存在である。むしろ「プチ」なだけに救いようがないかもしれない。「健全」で「常識的」で「偉大」な「変人」には、そのあたりの切実さは少ないのだろう。

Life is beautiful: 「普通そういうことしないよ」という言葉の暴力

安敦誌 : 狂気の淵

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というわけで出社の時間と相成りました。行ってきます。
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by antonin | 2008-05-22 12:08 | Trackback | Comments(0)

日本語 遥かなる旅

私たちが現在使っている日本語では、単語のほとんどはその来歴を外来語または外来語に基づいた派生語として説明することができる。ある知事はかつて、フランス語は数字を数えるのに不便な言語であると発言したこともあったが、実は日本語はフランス語以上に大きな数を数えるのに不向きな言語である。

本来の日本語である、和語とか「やまとことば」と呼ばれる範囲に限定すれば、数字は次のような系列になる。

ひ ふ み よ いつ む なな や ここの とお

「ひとり」、「ふたり」、あるいは「ようか(やうか)」、「ここのか」、「とおか」という言葉は、これらの和語による数詞から作られている。和語では1から10までは普通に数えることができるが、それ以上の数字はやや面倒な構成をとらざるを得ない。20や30なら「はた」「みそ」と数えることができるが、例えば13であれば「とおあまりみっつ」というような表現にならざるを得ず、とても大数を扱う算術を生み出せるような言語ではなかったというのが正しい。

しかし日本には中国大陸から取り入れた漢字文化が古くからあり、そして漢字文化には非常に整然とした十進表記体系が存在していたから、日本人は10を超える数字はもっぱら漢数字で表現することができた。そのため和語は、1500年以上も数詞を発達させる機会を失ったまま現代に至ったと考えるべきであろう。

同様に、現代フランス語で数字の発音が少々複雑であろうと、近世フランスにはアラビア数字がもたらされたのであり、そこには高度な数学が発達した。ラグランジュ、ルジャンドル、ポアンカレ、ヴェイユなどが紡いだフランスの輝かしい数学史を、あの知事はおそらく知らないのだろう。

話を元に戻せば、日本語はそれと気づかないような外来語の宝庫であり、それは日本が世界に目を向けてきた歴史の重層を示すものでもある。漢字は「漢」の「字」と書くとおり、中国大陸が秦により統一され、同時にそれまで地方によりまちまちだった文字が統一されたものを、日本が輸入したというところに由来する。したがって、漢字で書かれる言葉のうち少なくない部分が、かつての「外来語」だったのである。漢字は日本文化に深く浸透したから、江戸期や明治期の日本人がヨーロッパ言語から「漢訳」した漢語の多くが、中国にも「逆輸出」された。

そしてもちろん、現代日本語における外来語は中国大陸由来のものばかりではない。「合羽」や「襦袢」などは安土時代に日本へ到達したポルトガル人からもたらされた衣類に由来し、今では漢字を当てられてすっかり日本語のように見えるが、その語源はポルトガル語であるというのが定説である。それぞれポルトガル語の"capa"と"gibão"に相当する。

同様に現代日本語の中に残されている「外来語」のひとつに、「ハナゲ」がある。現在では「鼻毛」という当て字が定着しており、その意味のあまりの適切さから、これが日本語であることを疑う人は少ない。しかし歴史を丁寧に紐解けば、それがやはりポルトガル語に由来することが明らかとなる。ハナゲに対応するポルトガル語は"hãnage"であるとされているが、その単語に「鼻毛」という意味はない。しかしなぜ"hãnage"は「鼻毛」として日本に定着したのか。それは少々複雑な謎解きとなる。

ポルトガル人宣教師が南シナ海を経て日本に到達する以前には、日本語に「鼻毛」ないしは「はなげ」という語彙は存在しなかった。それを指す語は存在していたが、直接に鼻毛だけを意味するという語ではなかった。古い歌にこういうものがある。

  あおぎみゆ きみがおもてに くろくさぞ  われたわむれに おさむるもいらじ

適切に漢字を当てれば、

  仰ぎ見ゆ 君が面に 黒叢ぞ  吾戯れに 収むるも入らじ

となり、敢えて現代語にすれば、

  見上げた あなたの顔に 黒い草があって、
  私はふざけてそれをしまってみようとしたけれど 入らなかった

というような意味になる。どこにも鼻毛など出てはこないが、女性が男性の顔を見上げた際に目に入った「くろくさ」がその隠喩であるとされている。この歌が広く知られた時代には、近畿から九州にかけての広い地域で、鼻毛は「くろくさ」かそれに近い音で呼ばれていた。しかし、長崎県の郷土史研究家である荒麻蒼海氏の報告によれば、長崎地方の一部では「くろくさ」のほうではなく、「いらじ」が転訛した「いらげ」という言葉で呼ばれていたという。

ポルトガルからの宣教師が南方から日本に到着し、比較的初期に布教が進んだ地域では、鼻毛は「いらげ」と呼ばれていたのだが、そこに「収まらないもの」であるとか「逸脱したもの」という意味のポルトガル語である"hãnage"が伝わり、「入らじ」という意味との共通性や、「ハナゲ」と「いらげ」との音韻的な類似性から、長崎地方では鼻毛という意味での「ハナゲ」という語が定着したとされる。そして江戸期を通じてその単語は九州北部から長州(現在の山口県)にかけての狭い地域で方言として使われるようになった。

そして江戸幕府が倒れ明治政府が樹立すると、その立役者の一派である長州勢が新都東京へと進出した。国民の教育水準向上が富国と強兵を生み出す源泉であると看破した明治政府は学校制度を確立させたが、これと同時に新しい時代の日本語である「標準語」が誕生し、全国へと普及することとなった。これと時期を同じくして、「鼻毛」という漢字表記を得た「ハナゲ」が、一地方の方言から正式な日本語の一員となった。

葡語の"hãnage"と同源の名詞は西ヨーロッパの各言語にも存在し、英語、仏語、独語にそれぞれ"hanage"という単語が存在する。ドイツ語では「ハナーゲ」、フランス語では「アナージュ」と発音される。フランス語などのラテン語族ではしばしば"H"の発音が消えており、フランスでは日本のキャラクタである"Hello Kitty"が「エロキチ」と呼ばれて若い女性に親しまれているというのは、比較的有名な話である。

参考:「Ca va? : イメージが・・・

英語の"hanage"は慣習的に「ハネージ」と表記されるが、実際の発音は「ヘァニヂ」に近い。この発音が日本語の「鼻血」と似ていることから、「鼻血」もまたハナゲ同様に"hanage"を語源とするという説があるが、これは俗説である。英語の"hanage"と日本語の「鼻血」を直接に結びつける文献学的な発見は現在まで報告されておらず、一方で「鼻血」という単語の登場は、「ハナゲ」に「鼻毛」という字が当てられることが一般的になった明治中期以降であることがほぼ確かめられている。そのため、鼻毛という「熟語」からの類推によって「鼻血」という語が作られたという説が、現在では最も有力である。






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なんていう話を4月1日に書けたらよかったのにな。

今日の孤立素材:「サン=ポール・ジャルトル」(0件)
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by antonin | 2008-05-15 23:51 | Trackback | Comments(2)


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