安敦誌


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夏休みとか

社会に出てからは、夏休みといっても通常の週休2日に加えての夏季休暇3日で最大5連休というところだから、いわゆる「夏休み」という感覚がなくなっている。コドモたちもそれに合わせて保育園に通っているから、特に日常と変わるところはない。それでも暦通りに業務がある金融機関であるとか、24時間365日体制の病院などの職場に勤める人から見ると、まだいい方だと言われる。まぁそうだろう。

けれども、コドモの通園途中の辻に集まっていた幼稚園児たちが、先週あたりから消えた。厚生労働省管轄の保育園と違って文部科学省所管の幼稚園には小学校と同じくらいの夏休みがある。近所のプールへコドモを連れて行くと、親子連れでにぎわっていた。学校では、もう夏休みなのだろう。

そして、安敦誌のアクセス解析内容にも変化があった。今月の検索順位トップが、なぜか「豊かさとは何か」なのだった。これは、つまり、噂のアレなのだろう。ヨメも学校時代に課題で読まされたという、「豊かさとは何か」あたりが、おそらく夏休みの読書課題の指定図書とされたのだろう。googleやYahoo!の関連キーワードとして「感想」とか「要約」というものが表示されている。「要約」ということは、買って読むつもりもないのか。

けれども、子供たちを責める気にはならない。自分だって、強制的に読まされた本の、ありもしない感想をでっち上げて書くという不毛な作業が心底嫌いだった。そんなものは、テンプレートを上手に編集してさっさと仕上げ、もっと大事なことに若い時間を使ったほうが、ずっといい。今の子供たちは、今の時代を自然に生きている。中には単純に文章を書き写したために先生に見抜かれ、大目玉を食うやつもいるだろう。そういうことも成長過程であれば貴重な経験だ。盛大に恥をかくといいと思う。

私もかつて、中学校の修学旅行から帰ると感想文を書かされた。旅行先の金沢という街の来歴を想像して、あることないことを勝手に書いた。すると、散々な評価が赤ペンでびっしり書き入れられて返却されてきた。今読めば確かに先生の言うとおりだと思うのだろうが、そこは中学生でもあるので、その後1年間にわたって全ての作文課題をサボった。一文字も書かない。提出しない。結果、通知表に見たこともない「0」という評点をもらった。まぁ、今となってはいい思い出になっている。

子供たちが題名につられて安敦誌に漂着する。おそらくは、課題図書に全く関係のない、どこの馬の骨とも知れないオッサンの論説を目にして舌打ちしながら去っていくのだろうが、ともかくも、夏休みの子供たちが安敦誌を訪れていると知って、なんだか調べもの中の子供たちが自宅を訪問してきたような楽しさを感じている。夏休みに入った直後に宿題を片付けるなど、なかなか良い心掛けだ。

おそらくは8月いっぱいは同様のアクセスが続くのだろう。まぁ頑張ってくれたまえ。
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by antonin | 2008-07-31 23:53 | Trackback | Comments(0)

死刑制度廃止に賛成してみるテスト

先週末に、また「ゆる友」と飲んだ。今回、図らずも食いすぎてしまった。ちょっぴり予算もオーバー。まぁいいじゃないか。楽しいひとときでした。そしてその後はムスメを連れて流れるプールに行ったり、花火を見たり。疲れる。まぁいいじゃないか。

--

死刑制度廃止に賛成の論を打ってみる。強い確信はないのだけれども、少しずつ考えはまとまりつつある。まず最初に断っておくと、これは死刑制度反対の論ではない。現行の死刑制度は完成された法体系の一部であり、これはこれで正しく運用されるべきである。ただ将来の課題として、死刑に代わる刑罰による刑法体系ができたらいいだろうな、という程度の論であって、今すぐ死刑囚を釈放しろとか、そういう論ではない。

まず最初に考えておくと、死刑制度は合理的な制度である。ある種の人格の崩れを引き起こした人を、完全に更正させるのは難しい。したがって、凶悪事件を起こした犯人が凶悪事件を起こす再犯を防ぐためには、無期禁固や自由の拘束などにより社会から隔絶するほうが良いが、その究極が「この世」から排除することである。これはある意味で「安上がり」な方法でもある。

また、被害者や世間一般の市民感情も、溜飲の下がる気持ちがいくらかあるかもしれない。そして、死刑制度の存在が凶悪犯罪から遠ざける抑止力になるかもしれない。理性的な人間にとっては。

けれども、そういった一般に考えられている合理性以上に、死刑制度の廃止には大きな犯罪抑止効果があるのではないかというような気もしている。

以前もに、こんなことを書いたことがある。
モラルのうち最も原始的なものは、「殺してはならない」だろう。しかし、人類は常に戦争とともに生きてきた。これは矛盾なのか。おそらくは、矛盾ではない
安敦誌 : 誰の肉を食べるのか

殺してはいけないのは、自分たちの「仲間」であり、逆に言えば、「仲間」でないものは殺してもかまわない。極端なケースでは、この「自他」の区別なしには動植物を問わず生き物の細胞に由来する食物を食べることすらできない。もっと微妙なケースでは、「敵なら殺してもいいのか」という判断につながる。そしてここでは、「殺人者は死刑という形で殺してもいいのか」という議論になる。

現在、日本の死刑制度では、「殺意を持って」「複数の人間を」殺したときに限って死刑判決が出ているように思う。過去には国家の存続を脅かすような罪にも適用されていたようだが、現在ではそういうものは見ない。私たちの仲間であるところの市民を殺したような人間は、もはや「仲間」などではないので、殺しても良い。むしろ敵なのだから、積極的に殺すべきなのだ。これが現代の厳罰論の基本的な原理だと思う。

それはそれで一定の真理がある。それは認めたうえで、私は死刑制度の廃止を訴えたい。

前世紀に、人類は二度の世界大戦を経験した。人類の歴史は戦争の歴史でもあるから、20世紀だけが特殊であるということはない。確かにそうなのだけれども、20世紀というのは情報の世紀でもあって、「敵」の姿や声がよく見えてよく聞こえてくるような時代でもあった。それ以前の世界では「仲間」と「敵」の対立が非常にはっきりとしていて、「敵の意見にも一理ある」という見方ができる人間は非常に限られていた。けれども20世紀には、大義のもとに戦って勝利を収めたあとでさえ、敗者の地獄絵図や敗者の高潔を目にする機会が多々あり、世界は構造主義や相対主義へと傾いていった。

そこで善悪の基準まで曖昧になってしまった反動が現代の状況ではあろうと思うのだけれども、ともかく、ちょっとした対立から生まれた敵意が、あまりにも悲惨な結果を引き起こすということを一度ならず人類は体験してきたし、自分がいつ「仲間」から「敵」にされるかわからないということも体験してきた。

もちろん、誰もが死刑に値する凶悪犯罪者になる可能性がある、などということは言わない。やはり大量殺人に走る人間は、たとえそれが平凡な人間に過ぎないとはいっても、やはり例外的なレアケースではあるだろう。そうではなく、凶悪犯罪者という人間を自分たちの「仲間」から排除することで、一般市民が「敵」を殺すということに抵抗を持たなくなるということに、やはり底知れない恐ろしいものを感じるのだ。

たとえ畜肉を食べるとしても、動物を殺して血を見ることに平然とするのは、何か危ういものを感じる。もちろん、血を見ないことで肉を食べることに何の疑問を持たないのも問題だろうが、ともかく「殺す」ということに疑問を持たなくなるということが、しかもそれが異端ではなく正統となることが、やはり非常に危ういという思いがある。

「凶悪殺人犯」は、人間ではあるが、仲間ではない。したがって、極刑によって「殺すべきだ」と言うことができる。しかし、こういうことを平然と言えてしまう心理は、あまり正統なものにはすべきではないようにも思う。死刑は存続するかもしれない。しかしそれは、社会秩序を守る正義ではなく、人類の叡智の限界による必要悪なのだ、という遠慮が欲しい。そういう遠慮がなくなると、自他の区別が生じた際の、「他」への攻撃性が徐々に拡大していくのではないか。

自分は私企業に勤めるから、公務員は「仲間」ではない。だから、自分は解雇されたくはないが、公務員は解雇しろと言える。自分は給与を下げられたくないが、公務員は給与を下げろといえる。代議士も官僚もマスコミの記者も自分の「仲間」ではないから、それを吊るし上げるのに遠慮がない。

自分は団塊ジュニアであるから、ゆとり世代もバブル世代も団塊世代も戦中・戦前派も「仲間」ではない。だから、新人を平気で叩けるし、先輩世代もリタイヤ世代も平気で叩ける。自分が団塊世代だったら、いまだに幅を利かせている先輩世代も、得体の知れないネット世代も平気で批判できる。

自分は日本人であるから、アメリカ人も中国人も韓国人もイラク人も「仲間」ではない。だから、批判するのに遠慮はないし、その国民が死のうとどうなろうと、知ったことではない。チベット人は仏教徒らしいから「仲間」であり、それを弾圧する中国人は「敵」だから、粗悪品ばかり作る低脳と批判してしまえる。

人間は、結局のところ何らかのカテゴリーに自分を収め、帰属意識の中で暮らすことしかできない。「世界は一家、人類皆兄弟」とは思わない。しかし、一家でも兄弟でもない他者を、安易に批判できる心理の果てにどのような悲惨があるかというのは、前世紀にも今世紀にもたっぷりと見てきたはずだ。

そういう、「他者」への攻撃を許してしまう心理への第一歩というのは、案外につまらないものなのであり、そうしたもののひとつが、「死刑制度」という公的な殺人制度のようなものなのではないかと思う。それが必要悪から正義に変わってしまうときに、大衆心理の「窓」が一枚割れてしまうのではないか。それも、非常に目立つ位置にある窓が。そして次第に、窓が割れているということに対して市民がどんどんと鈍感になっていく。その果てにあるものは、重大犯罪に対する厳罰化のメリットよりも、はるかにひどいものなのではないかと予想する。

「コンプライアンス不況」という言葉があるけれども、法律というものの理想は天網恢恢、必要最小限度の法律で最大の効果があるものなのではないだろうか。「何があっても大丈夫なように、盛りだくさんのルールを作りました。ちょっと大袈裟なようですが、これさえあれば大丈夫、みなさんどんどんルールを増やして守りましょう!」。こういうものに限って現実性がなく、ルールを作った時点で満足してしまい、守ろうにも複雑すぎて守れないものである。

憲法はあるが、政府はこれを変えずに黙殺する。道路に通行速度制限はあるが、行政はこれを変えずに黙殺する。ルールはあるが、守っていたら生活できない。ルールは絶対であり軽々しく変えるべきものではないが、かといって守るべきものでもない。が、緊急事態が起これば眠っていたルールを叩き起こし、必要以上に厳しく適用して嵐が起こる。ルールがあったのになぜ守られなかったのかと、そのときだけ声を大にして騒ぐ。そしてすぐに忘れ去られる。

これが日本なのだ、という割り切りもあるのだろうけれども、ネット世代の罵詈雑言がひどいというときに、上記の考えを語りながら死刑制度を一時的にでも廃止してみるほうが、案外に効果が高いのではないだろうか。罪を憎んで人を憎まず。犯罪を大目に見るというのではなく、犯罪を厳しく罰しつつ、それでもなお人への優しさを自分に課す。これは難しいのだけれども、挑戦してみる価値はあるのではないだろうか。

まぁしばらく実現はしないのだろうが、一応そういったこともここに書いておこうと思う。

--

今日の異口同音:「酢味噌に餡は九分付かん」(4件)

参考:"Smithsonian: Museums"
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by antonin | 2008-07-31 00:36 | Trackback | Comments(4)

真実は誰を自由にするか

読了。

「はじめての構造主義」 橋爪 大三郎

発行が1988年5月となっていて、もう20年以上も前の本だ。手許にある本は1994年7月の第14刷で、おそらくその頃に買ったのだと思う。当時も一通り読んでみたのだけれども、さっぱり頭に入らなかった。今になって読み返してみると、非常にわかりやすく、最終章に指摘されているような問題点もすっきりと理解できる。これが年の功というやつだろうか。

結局のところ、それからの十数年の間に多くの情報に接して、間接的に流れてくる構造主義的な言説に慣れたので、その源流についての解説書が簡単に読めるようになった、ということなのだろう。やはり同時期に買った「はじめてのインド哲学」という本もあるのだけれど、こちらは今読み返してみるとどうなのだろう。ウパニシャッドの場合は現代日本の日常に馴染んだというような思想でもないので、今でもあまり変わりはないのかもしれない。比較対象として読んでみても面白いかもしれない。

今日の漂着地:「カウンセリングルーム:Es Discovery

自明性の喪失」を検索していて漂着。小学生のときに、ひとつの漢字を100回繰り返して書くなどという宿題があって、ご他聞に漏れずゲシュタルト崩壊を起こしたりしていたが、哲学的なことも考えすぎると似たような感覚の崩壊が起こってフラフラになることがある。ここで道を誤ると分裂病というか統合失調症というか、そういう状況に至るのだろう。

こういう狂気と正気の境にいると色々と面白いものが見えてしまうのだが、最終的なところでは正気に帰ってこなくてはならない。

ヴォルフガング・ブランケンブルク『自然な自明性の喪失』の考察:“当たり前(常識)”を共有できない苦悩

漂着ページである上記の記事などを読んでいても、
大多数の人たちが『そんなことを深く考えてみてもどうしようもない・自分の実際の生活とは直接的な関係がない・観念的な理屈の問題に関わり合っていられるのは学生時代までだ』と思っている抽象的な存在や規則・原理に関する問題を延々と自閉的・内向的に思索し続けることによって、現実的な問題や人間関係との接点を失ってしまい、最後には誰も自分の話に耳を傾けなくなってしまう。

なんていう言葉が身につまされるように読めてしまって危ない。デカルトも「我思う、故に我在り」なんていう思索の深みに達しておきながら、過去の賢人たちが記した書籍を読むことを異文化の地を旅する有益さに例えながら、「けれども旅にあまり多く時間を費やすと、しまいには自分の国で異邦人になってしまう」などと言って常識に近い地点へ帰ってくる。このエレガントさは見習いたいものだ。

漂着地には、他にも精細な分析が読める記事が多数ある。

精神の正常と異常を区別する心理学的な相対的基準(適応・価値観・平均・病理の視点)
反社会性人格障害の診断と社会防衛的な精神医学の視点の問題

こういう文章がネット上に無料で転がっていて、なおかつ簡単に検索できるというのは、実はとてつもないことなのだろう。「自明性の喪失」なんていうキーワードは他で見つけないといけないにしても。


googleが中華人民共和国にサービスを提供するに当たって、中国共産党当局といくつかの妥協をしたことについて批判が挙がったことがあった。けれども堤に蟻の一穴というか、とにもかくにも情報検索という市場に食い込んでしまえば、それがもたらす力には計り知れないものがあるだろう。あと10年ほどすれば、巨大な中国も止められない情報流通によってかなり変容しているだろう。

googleには、その技術力や収益性などというもの以上に、"Veritas Vos Liberabit"「真実があなたを自由にする」という、新約聖書にも採録されている古代ローマの言葉と同じ理念を強く感じる。SEO技術なんかとの折り合いの付け方なども、国家運営主体よりも政治的に高度な技量を感じるときがある。ジェファーソンか誰かが「政府のない国家のほうが、新聞のない国家よりもましだ」と言ったらしいけれども、googleにはそういう力を感じる。ありがたいことだ。


塩野七生さんの「マキアヴェッリ語録」なんかも軽く読み返している。こちらは1992年11月発行で1998年4月の第16刷だ。もう10年も前で、社会人になりたての頃、まだ小泉さんが首相になる前の話だけれども、特に読むでもないのに、いつも上着のポケットにこの本を入れて持ち歩いていた。その結果で文庫本の装丁がぼろぼろになっていたりする。

「あとがき」が唐津一さんという工学系出身の元経営者からの支持文なのにいまさら気付いた。結局のところこれは、コーチングなどと一緒で、ある種の心理学なのだろう。もうひとつの「人間工学」なのだろう。それを読んで「不道徳」などと怒っている人もいるらしいが、写真写りが悪くて文句を言っている人のようでもある。
 指導者なら誰でも、次のことは心しておかねばならない。
 それは、個人でも国家でも同じだが、相手を絶望と怒りに駆りたてるほど痛めつけてはならないということだ。
 徹底的に痛めつけられたと感じた者は、もはや他に道なしという想いで、やみくもな反撃や復讐に出るものだからである。

などという文を読めば、それが福祉原理の節度ある姿であることが分かる。やみくもな反撃や復讐をしばしば目にする状況だからこそ、こういう言葉の底に流れている価値観というものに耳を傾けてみるのもいいんじゃないだろうか。

ただまぁ、権力に権謀術数は必須だが、それは水面下で行使されなければならない、というようなことも繰り返し書かれているので、カトリック教会のような「権力」ならば、これは表向き批判しておかなければならない文書ではあるだろう。今の日本では新聞も公権力であるから、状況は似たようなものだろう。

古い本ばかり読み返していて、読書はちっとも先へ進まない。1日が30000時間あったらいいのに。
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by antonin | 2008-07-25 01:24 | Trackback | Comments(0)

近所の祭りが近い。

杉浦日向子さんが亡くなって3年になるのだという。もうそんなになるか。

江戸時代はそんなに素晴らしい時代じゃなかった、という批判はもっともなのだけれども、まぁいいじゃないか。過去には過去の、未来には未来の、みやびにはみやびの、ひなびにはひなびの、それぞれ良さがあるってもんじゃないのか。もちろんそれぞれにドス黒いものもあって、それもまた当然なんじゃないのか。両方に着目する声があって、そこに中庸が生まれる。いいんじゃないか。

自分の生まれた頃の写真が褪色して見えるというのは不思議なものだ。もうカラー写真の時代なのでセピア色になったりはしないのだけれども、36年という年月は相当なものだ。1日が30000時間あったらいいのに、ということを何度も言ったけれども、これは実現しないからこそ放言できるのであって、本当に1日が3万時間もあったら困るだろう。

自堕落な1日の過ごし方を肯定するには時間が1000倍以上必要だろうという程度のことであって、人生が10000年あったらいいのに、などという恐ろしいことは思わない。自分が生まれてから何時間経ったのかを計算してみると、318500時間くらいということになる。1日が30000時間あったら、10日と少しだ。まぁいろいろとあったけど、良くやったほうじゃないか。

将来への責任、特に親と子供たちへの責任などもあって、健康に長生きして、ガッポリ稼ぎ続ける義務がある。その一方で、まぁ人生腹八分満足したような、だらしない充足感もあって、夕に死すとも可なり、というような心境でもある。これまでの人生も、かなり盛り沢山でしたありがとうございました。

マイスリーさんが久しぶりに効いてきたので、これにて退散。

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今日の異口同音:「今夜はpsycho」(4件)
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by antonin | 2008-07-24 00:03 | Trackback | Comments(0)

インターネットにつながりません

先日からデスクトップ機がネットにつながらなくなっていた。

起動直後しかプライベートIPアドレスが取得できなくて怪しい状況だったが、IPアドレスさえ取得してしまえば、LANの中からVistaなノートで共有フォルダを覗くのは可能だったりして、ますます怪しい状況だった。デスクトップ機はWindows-XPの登場と同時期に買ったハードウェアで、CPU周りのケミコンも少し塩を吹いていたりして怪しい状況なので、いよいよネットワークI/Fボードが死んだかと思ったが、どうやらTCP/80ポートだけ死んでいるようなので、ハードウェアの問題では無さそうだ。

何も設定いじってないのになぁ、などと悩んでいると、次の記事を発見。

ZoneAlarm、「MS08-037」適用後にネット接続できなくなる不具合

またマイクロソフトのアップデートの仕業か・・・。ずいぶんと時間を無駄にしたよ、マイクロソフト。というわけで、ゾヌ(この呼び方が時代を感じさせる)のインターネット・ゾーン・セキュリティを「中」ランクに下げて、暫定対処。英語版は対策版が出ているらしいが、日本語版はまだなのでもう少し待つ。別に英語版でも困らないが、許可を取るメッセージがいきなり英語になると家族が不審がるので、ファミリーマシンとしてのXPはしばらくこれで様子見。

MSのファイアーウォールもましになったし、ADSLの頃のブリッジモデムもVDSLになってからルーター付きに替わったし、もういらんか、ゾヌ。まぁ今回は問題も解決したし、XPの32-bit環境はもうこのままでいいや。

しかし、Vista-x64環境は結局人柱のまま終わるのか。マイナーなハードウェアは取り付けていないし、ノート機はもはやインターネット端末に成り下がってしまったので、ドライバの問題などもほとんどない。それでも以前買ったソフトが一部使えなくなったりするので、我が家でも確かにVista-x64への全面移行は難しい。Gigabyteの安物マザーがいつまでもつか・・・。
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by antonin | 2008-07-23 01:49 | Trackback | Comments(2)

ヱブに逍遥

そして、眠れなかったわけですが。ラーメン食わなかった呪いか。

いくつか面白いページに行き当たる。

絶望書店日記

いろいろと面白いです。芥川賞作家とかは興味なしですけれども。

絶望書店日記 私の大義を否定してッ!!

三島キモイ。でも、知れば案外面白い人なのかもしれない。この全共闘の空気感は好きだな。真横で批判して罵倒されたい。今は空気を読むのが主流だから、ネット上でしかこういうやり合いというのはない。まぁそちらのほうが洗練されていていい、という感じはするけれども。

@nifty:デイリーポータルZ:同じものをたくさん集めると楽しくなってくる

ガスタンク2001」から林さんのファンだった私にとっては、ピエロに化けたあたりから迷走気味で、DPZのライターたちの中にあって管理職づいてきた林さんに一抹の焦燥感を抱いていたのだけれども、こういう原点回帰ネタには感動させられる。これを基点に、もう一度爆発して欲しい。おバカな方向に。こういうことを私は安全なところから無責任に書く。いいご身分だ。

ニュートン力学が光速に近づくと相対論の世界に入るように、物事の数量が桁違いに変わるというのは、ある種の質の変化を伴う。つまり、無視できていた因子が、次第に無視できなくなり、法則が質的に変わる。「集めているときは10個ぐらいから興奮する」というのは至言だと思う。いやその、「至言」とか言って偉そうに語るのもどうかと思うけれども、コレクションの気持ちよさというのは、至るところにあるのだと思う。

1000個を超えるあたりで、また違う次元が見えてくるのだろうとは思うのだけれども、そこまでは行かないでよそ見をしてしまうのが林さんのいいところだ。100個収集するのを100種類やって欲しい。これはこれでおそらく質的な変化が生じちゃうんじゃないだろうか。コレクションをコレクションするという、メタコレクション。ぜひ見てみたい。でも私はやらない。いいご身分だ。

「愚者の道」 中村 うさぎ

ネットばっかりやっていて、本を読むペースが遅い。この本あたりまで守備範囲を広げられるのは、当分先か、あるいは死ぬのが先か。

日刊★気になるフレーズ: 中村うさぎ■ 愚者の道

このページのほうへ先に漂着したのだけれども、もしこういう心境に至ったのだとしたら、これはまさしく「悟り」であると思う。本書を読んでいないので全体的にどういう展開になっているのか知らないけれども、とにかく、こういう「悟りを開く」というような作業を、現代に生きる個々人が独立にやっているというのは、なんとも不幸なことだろう。まさに悟りの再発明だ。車輪の再発明どころではない非効率だ。はじめから仏教なりなんなりの、しっかりとした宗教体系を学んで育っていれば、そこらの個人がこういう悟りを開くような苦行に陥らなくて済むのではないか。そんなに簡単じゃないか。

一方の、悟りが浅いというか、まぁ悟ってはいらっしゃるんでしょうが、成功しちゃっているが故の限界が見えているのがこちらの意見。

404 Blog Not Found:赤木智弘たちに足りないもの - 書評 - 若者を見殺しにする国

まずは笑うことだ、というのは、非常に昔から言われている正論なのだけれども、そこはやはり、なぜ笑えないのか、どうしたら笑えるのか、というところに踏み込まないと、空論で終わってしまう。なぜ米の収穫が増えないのか。それは、水と日差しと肥やしが足りないからだ。そりゃそうだ。そうじゃなくて、なぜ肥やしが足りないのか、そしてどうすればその問題を解消できるのか。必要とされているのはそういう論だ。

どうすれば笑えるようになるのか。経済的なところだけではなくて、身のまわりにいる人が、日常どのような表情でどのような言葉を投げかけるか。その言葉にどのような希望があるか。そういった意味での「環境要因」は大きいように思う。そういう視点が欠けているから、自身の成功に裏打ちされた楽観主義者である子飼さんは、今日も自身の失敗に裏打ちされた悲観主義者である者たちの批判を浴び続けるのだろう。まぁあまり気にしていないふうでもあるのだけれども。

そう考えると、記事の端でゆるく愚痴ったり、ラジオでは酒飲んで激しく毒づいたりしながらも、表向きはひたすら笑えることで表現を続けている林さんは本当に立派だよなぁ、などと思う。そういうところに着地するのか、この記事は。
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by antonin | 2008-07-19 04:45 | Trackback | Comments(0)

ラーメンの無い日々

最近、ラーメンを食っていない。

もちろん、全く食べていないということはないのだけれども、ほとんど食べていない。では何を食べているのかというと、ほとんどにおいてヨメの作ってくれた手料理および手作り弁当を食べているのであり、非常にありがたい。おかげで先日の人間ドックでも血液検査は通風の目安となる指数が逆さ柱的にやや高かった以外はオール・グリーンだった。高かった数値も、社員旅行でビールを飲みすぎた一時的な影響かもしれない。体重もここ数年変動していない。

が、ときおりラーメンが食いたくなる。明らかに多すぎる塩分、明らかに多すぎる油脂分、明らかに足りないビタミン類。けれども、これをスープの最後の一滴まで飲み干したくなる。化学調味料もドンと来いだ。毎日こういう食事を続けていたら早死にするのだろうが、月に1食くらいならいいんじゃないか。

どうせ不健康な食事を取るなら、不健康を極めて夜食として夜鳴きラーメンを食うなど非常によろしい。

「41歳寿命説」 西丸 震哉

一時話題をさらったこの本によれば、私の余命は5年だ。問題提起としては正しいが、科学的推論としてはどうかしているというのが、環境問題を同時点的に見たときに良い参考になると思うのだけれども、そんなことはどうでもよくて、ラーメンが食いたいという話だ。

それなりの稼ぎのある大人なんだから、食いたきゃ食えばいいじゃないか。確かにそのとおりなのだが、ままならぬのもまたオトナなのだ。さて、もう寝よう。
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by antonin | 2008-07-19 02:28 | Trackback | Comments(5)

誰が悪いのか

J-CASTニュース : 共産党は若者の心つかんだ? 20代、30代党員が増える

共産主義というものがどこから誕生したのかというと、産業革命後に富を手にした中産階級が更なる富を求めていく中で、労働者を劣悪な環境の工場で酷使したというあたりに端を発する。共産国家が崩壊し、経済利益が至上命題という新自由主義の台頭する現代では、共産党が人気を博すのも当然といえば当然という気がする。

共産主義が社会民主主義と違うところは、合法的な法改正ではなく武力による革命によって労働者国家を樹立するという攻撃的な態度にあるので、かつては社会秩序を破壊するものとして厳しく監視されてきた。上のニュースに付いたコメントの中に読める共産党の印象も、おそらくそういう部分なのだろう。

ただ、現在の日本共産党にそういう革命を起こすだけの力があるのかというと、明らかにそれはない。もちろん「闘争」好きなメンバーは今も活動的な日常を送っているので、独特の危ない臭いは漂う。けれども、社会に適合できなくて平日の昼間からテレビで国会中継などを見ていると、あらゆる議員の中で志位さんの言っていることが一番まともに見えるのは確かなのだ。

人気のあった小泉さんなどは、6時のニュースヘッドラインでは非常に面白いことを言うのだけれども、それはほんの数秒の表現の魔術師だからであって、十分に時間をかけた国会討論では共産党の示すデータに対して貧弱な議論しかできなかった。

もちろん、民主党が自民党に代わって政権を狙っているのと同じような感覚で共産党が政権を取るとしたら、やはり問題は多い。共産党が掲げる全ての政策を実施するのは財政的、経済的、あるいは外交的に見て現実性が低い。ただし、自民党が政権を握っているという前提の中にあっては、実に視点が細かいというか、自民党視点では見落として当然というような生活的な部分をしっかり国会の場まで上げてくる。それなので、国防費や国土整備費に比べれば微々たる予算で、本当に困った人に国費を引っ張っているという意味で、価値のある活動をしているように見える。

赤旗が与党の自民党や公明党の汚いところを暴いたりしていて、そのジャーナリズム力も大新聞などよりよほど強力だという話も聞く。もちろん、共産党にも弱者救済の美名に隠れて「弱者利権」を貪っているような勢力も含んでいて一筋縄ではないのだけれども、まぁ現状規模であれば存在のデメリットよりはメリットのほうが多い政党ではないかと思っている。

自由経済圏でも共産主義の台頭を反省してミクロ経済などの修正を加えてきたはずなのだけれども、最近はそういうものもだんだんと忘れ去られているようにも見える。ユーロ圏は緩やかに離脱を始めたし、南米も怒っている。今でも新自由主義に同調しているのは、皮肉なことに共産国家であるはずの中国だけだ。中国経済が今の世界で一番先鋭的かもしれない。


最後に本題だけれども、社会批判する勢力に対して、すぐに「努力もせずに社会のせいにするとはなにごとか」というような意見が出る。しかもそれが多数派になる。まぁ勤勉なるわが国民性で大変素晴らしいことなのだけれども、そういう人に限って「今どきの若者は甘い」と言う。社会のせいにせず、ぜひ自ら私塾を開くなどして若い者が努力したくなるような教育を与えて欲しい。そういうこともせずに現代社会に責任を帰するならば、結局やっていることは同じなのだ。

「じゃあお前がやれ」ということになるのだろうが、まぁボチボチやっています。私塾までは開いていませんが。それはそれとして、社会の仕組みが悪い、という部分は確実にあるだろう。誰が悪いと言うのではなく、システムが機能していない。ではどうするのか。答えは簡単で、システムを組み替えるのである。そういう合理的なことを言う前に、まずは個人の努力が先だ、ということを言ってしまうあたりが日本人の美徳なのである。

航空戦の時代に大鑑巨砲では合理的ではない。竹槍攻撃ではB29は墜とせない。そういう批判をする前にお前は少しでもお国のためになるようなことをしたのか。まぁこれは自他に厳しいということなのであって十分に美徳なのだけれども、これは美しい物語を共有していないと実現不可能な美徳でもある。不遇をかこつ人々は、不遇であることそのものを嘆いているというよりも、努力の先に希望が見えないことを嘆いている。努力することが報われるなど到底信じられないでいる。努力家が信じている成功物語は、全く共有化されていない。

箱に閉じ込められた犬が、高電圧を掛けられ、痛くて逃げ出そうとする。そこで逃げられた犬は、次に同じ目に遭っても絶対に逃げ出そうとする。しかし最後まで逃げられなかった犬は、次に同じ目に遭うと次第に逃げる努力をしなくなり、最後にはその場に力なく横たわるだけになる。その犬に、なぜ逃げ出す努力をしないのかと鞭打つのは、合理的ではない。そこに必要なのは、第一に保護、次に成功体験の提供である。

いついかなる場合にも、まず自分の努力から突破口を切り開くという精神は美徳だが、ときとしてそれは合理的ではない。精神論はある条件下では素晴らしい力の源となるけれども、別の条件下でそれは全く機能しないばかりか、むしろ害となる。神戸の大震災で痛めつけられた直後の人々が「がんばれ」という言葉を嫌ったのも、おそらくこれに似ている。ただ、心の回復が進んだあかつきには、やはり「がんばれ」という言葉で勇気付けられるようになるのだろう。

助けを求める者に泥を投げつけるような発言をする人がなぜ多いのかというと、おそらく彼らにも余裕がないからだろう。少しでも努力することを休めば、たちまち転落してしまうという恐怖がいつもそばにあるからだろう。他人を助ける余裕など無いという叫びにも聞こえる。

本当の「ゆとり世代」の台頭を待ちたい。
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by antonin | 2008-07-16 00:00 | Trackback | Comments(6)

誰の肉を食べるのか

痛いニュース(ノ∀`):「元気に育ってね」 園児がアイガモ40羽放す 秋には園児に食べさせる予定

YouTube - 命の授業900日 豚のPちゃんと32人の小学生①

命を食らうということに関しては、自分でもかつて似たようなことを考えたし、関連することは最近も考えている。

安敦誌 : 肉食是か非か
安敦誌 : 聖と俗

けれども、こと教育に関して言えば、ほぼ的確な答えが出ているのが面白い。「名前を付けたらだめだろう」というやつである。鶏の首を絞めて肉にするのを知っている世代ならごく自然に感じることができた感覚なのだろう。肉食の何が問題なのかといえば、突き詰めると身内と外部の区別なのだろうと思う。

モラルのうち最も原始的なものは、「殺してはならない」だろう。しかし、人類は常に戦争とともに生きてきた。これは矛盾なのか。おそらくは、矛盾ではない。これをはっきりさせなければ、上のドキュメンタリーのような話になってしまうのだろう。

日本の遺跡を掘り返すと、縄文文化の遺跡では、原形を留めた配置で犬の骨が見つかる。しかし、弥生文化の遺跡では、バラバラの配置になった犬の骨が見つかる。考古学とは実証科学とロマンティックな文学がしばしば溶け合う危険な研究領域なので安易に鵜呑みにすべきではないが、これは当時の「日本人」の犬に対する価値観を反映したものなのだという。

つまり、狩猟生活を送っていた縄文人のとっての犬とは、山に分け入り野生生物と対峙するときに、互いに互いの命を支えあう相棒、あるいは「戦友」のような間柄にあったのだという解釈がある。だから縄文人は、連れていた犬が死ねば仲間の死としてそれを受け取り、手厚く葬ったのだという。

一方の弥生人にとっての犬とは、稲を栽培する農業生活を営む生活の慰みとする存在であり、農業と対になる牧畜の延長線上にある存在だったという解釈ができる。この場合、飢饉になれば犬は重要な食料となる。したがって、犬は焼かれて食肉となり、骨はゴミとして乱雑に捨てられる。

私は相対論者なので、倫理的に見てこのどちらが「より正しいか」などという問題を論じるのは愚かだと思っている。具体的に言うと、それぞれの文脈においてどちらも正しい行為であったと考える。稲作文化の住人なら、牛ならば決して食べたりはしなかっただろう。なぜなら、彼らにとって牛は田畑を耕すという重労働を助けてくれる大切な仲間であったからだ。縄文人にとっての犬と同じ位置を、弥生人にとっては牛が占めていたとすれば、である。

実際には、日本で牛を使った耕作が始まったのはもっと時代が下ってからかもしれない。しかし、仏教が盛んだった時代の日本人が兎や鹿や猪は食っても牛や馬を食わなかったのは、そういう心理が働いていたように思う。室町幕府が滅亡して戦国の世になってから生まれた世代は、あるいは馬でも食ったかもしれない。明治維新のあとに生まれた世代なら牛も抵抗なく食ったかもしれないが、それらの動物を養い共に働いた世代にとっては、それはやはり野蛮な行為と映っただろう。

まともな人間なら、愛情を込めて育てた子供を、育てた末に殺して食べたりはしない。まともな人間なら、隣に住む人間を殺して食べたりはしない。一方で、小さな魚ならおいしそうと言って食べる。鶏でも羊でも豚でも牛でも、特に宗教的な戒律がなければ同様に食べる。この両者を隔てる境界は何か。

「利己的な遺伝子」を読んでネオ・ダーウィニズムに目覚めた年頃には、そうした違いは遺伝学的な距離によって生じるものだと考えたし、今でも原理的にはそういうところに根差しているとは思っている。つまり、自分以外で最も保護すべき存在といえば親、子、きょうだいである。次に親戚、そして同じ集落の住人、同じ地域の人間、同じ人種、人類、霊長類、陸上哺乳類、哺乳類、脊椎動物、動物、植物、多細胞生物、というように、その距離が近いほど守るべき存在となり、逆に遠いほど守る価値のない存在となる。

ただ、結局人間の倫理観という水準になってしまうと、このような遺伝的関係だけで全てを説明することは難しくなってくるように思う。人間は進化の過程の必然から、爬虫類程度の距離の共通祖先あたりに起源を持つ、感情という情報処理システムを搭載している。肉が食えるかどうか、あるいは犬、猫、イルカの肉が食えるかどうかというのは、結局のところ感情の問題なのだと考える必要に迫られる。

この水準になると、遺伝的な距離という絶対的な指標は使い物にならなくなる。感情を左右する、後天的な学習を仮定しないと、結論が下せなくなる。それを仮定することで、「仲間を守る」という、社会的動物である人間の宿命に対して、論理的な解釈のようなものが可能になってくる。まず先に立つのが、「仲間とは何か」という問題である。言い換えると、「どこまでを仲間と認識できるか」という問題になる。

縄文人は、犬を仲間とみなした。だから、感情的に犬を食べることはできない。弥生人は、犬を仲間とみなさなかった。だから、犬を食べることに感情的な抵抗がない。私たちは犬を家族に近いペットとして認識しているから、感情的に犬を食べることはできない。しかし、牛や豚や羊や鶏は食料であって仲間ではないから、感情的な抵抗なしに食べることができる。

ただし、鯨やイルカなどではどうなのだろう。それを食料とみなして、仲間などと考えていない人は、抵抗なくその肉を食べることができる。しかし、同じ哺乳類であり、知性を持った仲間であると考えている人にとっては、その肉を食べることは人間の肉を食べるような感情的嫌悪を伴うはずだ。

人間の肉と書いたが、漢文で書かれた古い文献には人肉食の話がかなり登場するという。それは、多く女性の肉であったという。男社会の中にあって女性、特に被支配層の女性は決して仲間などではないと考えるならば、それは単に食料としての肉でしかない。現代に生きる私たちにはそうした感覚はないから、女性の肉を食うなどということはおぞましいものでしかない。


ここまで考えた上で「Pちゃん」の話を見直すと、結論は明らかだろう。ペットとして3年間もPちゃんを可愛がった果てに、それが実は食料だったなどと考えるのは、非常におぞましいものなのだ。最後に食料として見せるならば、最初から食料として扱うべきなのだ。その「畜産」の過程で、もしも食料としてのブタにも自分と同じ生命を感じることができるとするならば、それは大きな気付きに違いない。

畜産現場で働く人々というのは、牛や豚や鶏が人間と同じ動物であることを当然に知っている。しかし、食料として出荷する牛や豚や鶏はあくまで食料であり、仲間ではなく商品であることを知っている。そして、育てた仲間を肉とするために売り払うというおぞましさを避けるためには当然に、それらを近代的農業生産の対象として感情を移入することなく効率的に育てるシステムを利用している。

牛にしても豚にしても、多くは繁殖農家と肥育農家を別々にした分業体制となっている。畜産の過程を分割し、それぞれの過程に特化した専門農家が単一の過程を担当し、ライン生産のように効率的に食肉を生産している。そしてその成獣を捌いて食肉に加工するのも別工場が行っている。

これは食肉生産の効率を高めるシステムとなっているだけではなく、手塩にかけて育て上げた生き物が産み落とした、あまりにも無垢で可愛い子供を、再び手塩にかけて育てた挙句に殺して食肉にするという、感情的にあまりにもむごたらしい結果をもたらす感情移入から、実際の作業者を守るためのシステムでもある。

当然そこにはある種の矛盾がある。大人になる過程で、いつかはその矛盾に気付くべきだろう。しかし、12歳の子供が自分の人生のうちの3年間を捧げて育てた「仲間」を、最後に屠殺してしまったむごたらしさは尋常ではない。そこから強烈な原体験を得て奇特な人物に成長する人もあるかも知れない。しかし、これは教育として一般化してしまうには、あまりにむごたらしいやり方であるように思う。そこには社会が内包する真実の姿があるが、あまりにグロテスクに過ぎる。

確かに昔の社会は身の周りに命の危険があふれるような自然に近い世界だったから、大人になるまでには数人の身近な子供の死を体験する機会があっただろう。そしてそこから命のはかなさと大切さについて学んだだろう。しかし、それは偶発的な事故であったに違いない。教育のために大切な仲間をあえて殺すというのは、決して大人として子供に伝えたい内容ではない。仲間の肉を食うという体験が、何かの良い効果をもたらすとは思えない。

大人として子供に教えたいことは、一緒に成長する時間を過ごしてきた仲間の肉でさえも、必要とあらば食べることができたという体験では決してない。時として仲間を肉として売り払うことができたという体験では決してない。本当に教えたいのは、日常無意識に食べている肉や野菜やパンでさえ、そのそれぞれが実は立派な生命に由来してるということだろう。そしてそれに感謝し、仲間の命を奪おうとするものから全力で仲間を守ろうとする精神だろう。


自他の境界をどこに引くか。自分が全てなのか。家族が全てなのか。会社が全てなのか。故郷が全てなのか。祖国が全てなのか。人類が全てなのか。哺乳類が全てなのか。動物が全てなのか。遺伝子を持つ全てなのか。地球の全てなのか。宇宙の全てなのか。この線引き次第で人はしばしば殺し合いをしてきたし、殺したことについて罵り合ってきた。

「悪の枢軸」の兵士は殺しても良いのか。「神の敵」なら殺しても良いのか。鯨はどうか、イルカはどうか。活きたイセエビを捌くのは高度な調理法なのか残酷な仕打ちなのか。犬を飼育して食料とするのは残忍なのかどうか。牛を飼育して食料とするのは残忍なのかどうか。鮪を飼育して食料とするのは残忍なのかどうか。

そういう判断は、おそらく簡単ではない。あるいは答えなどないのかもしれない。しかし、そういう議論を避けてこれからの世界を生きることなどできない。ならば、その判断材料となるような体験を、教育は与えるべきだろう。特定の意見に固執せざるを得ないような強烈な原体験は、新たなる戦いの火種にしかならないのではないだろうか。

ただし、これは自己矛盾した意見に見えるかもしれないが、そういうむごたらしい原体験を経た人間というのは、社会にとっては必要な存在だ。たったひとつの視点から一貫した意見を発し続ける人間は、社会にとって大変有用だ。そしてまた、それとは全く別の、そしてやはりたったひとつの視点から一貫した意見を発し続ける人間も、社会にとって大変有用だ。


私は相対論者である。ある立場に立てばある意見が正しい。また別の立場に立てば、また別の意見が正しい。しかし人間の体はたったひとつしかないのであり、有限の立場を選ばざるを得ない。そして、ひとつの立場に立ったときには、全ての意見が無矛盾でなければ、そこから新しい意見を生み出すことはできない。

意見に矛盾があるときには「ダブル・スタンダード」という状態になり、あらゆる意見を否定することができない、なんでもありの状況になってしまう。一般に、たったひとつの立場に立つことに慣れきった人間から見ると、相対論者の意見はダブル・スタンダードに見える。相対論者は複数の立場を行き来するからだ。しかし、正しい相対論者は、自分が立ちうる中から議論の水準が一致するような立場を選び議論する。そしてそのような立場が見つからなかった場合には、議論そのものを放棄する。

私は明日もウシやブタの肉を食べ続ける。私は牛や豚が愛らしい姿で生まれ、やがて殺されて店先に並ぶ過程を意識しながらその肉を食べたくはない。しかしあらゆる人間と、人間の生活空間に共生するペットたちは仲間であり、その肉は絶対に食べない。これが私の立っている、日常的な立場である。しかし私は相対論者であるから、この立ち位置を保ったまま、他の立場にも思いを馳せる。

そして、社会全体を見渡し、社会が永続する百年単位の世界に思いを馳せるとき、そこには、両極端の意見を狂信的に叫ぶわずかな勢力と、その中間で思い悩みながらも平凡な日常生活を送る大多数の市民がいるという、正規分布的な「中庸」に社会の理想を見る。ただし自分の立ち位置としては、あくまでそうした意見の中にある個別的な合理性に理解を示しながらも、今日も明日も調理された畜肉を美味いと思って食べる、平凡な一市民である。この立ち位置の中では、自己矛盾はない。


Pちゃんと時を過ごした子供たちは、平凡な生涯を送るかもしれないし、数奇な生涯を送るかもしれない。それに関わらず、彼らはPちゃんと過ごした3年間から重要な何かを知っただろう。しかし、私は自分のコドモたちにこの教育を望まない。仲間を食べてはならない。食べ物にしてはならない。これが相対論者であり平凡な一市民である私の意見だ。
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by antonin | 2008-07-13 02:25 | Trackback | Comments(12)

水を売るか、油を売るか

そろそろ気温も高くなってきて、熱源の多い職場では空調設定の話でいろいろと苦情が出始めている。少しでも電力負荷を挙げないで快適性を挙げるべくエアコンの設定をいじっているが、結構難しい。ビルの空調機というのは室外機が共通化されているから、西日の当たる窓際だけを集中して冷却しようとしてもうまくいかない。陽の当たる窓際の男性は汗をかき、陽の当たらない隅にいる女性は膝掛けをしている。

そんな中で、こういうものを見つけてきた人がいる。

ハイブリッド・ファン エココプター エアコンに取り付けて快適・省エネ・エコ空間に!

空気の吹き出し方向を変えられないタイプのオフィス・エアコンの吹き出し方向を定期的に変えてやるというアイデアはわかるのだけれども、羽根の面積が不十分であったり回転が軽すぎたりするために、吹き出し方向はほとんど変わらない。実際にこの「かざぐるま」を設置している施設があったので、ちょうど吹き出し冷気が当たる位置に手を置いてみると、やはり冷気は変化なく直撃していた。

この手の販売ページのデータはたいていアホだから、簡単に程度が知れる。「ハイブリッドファンの驚異の省エネ効果」という表データがあるが、2月に事務所の移転があり、その前後の電気代を比較している。面積が4倍になったのに電気代は下がりました、というようなことを言っているが、本気なのだろうか。多分本気なのだろう。

面積が4倍だろうと、陽が差してすぐに熱くなってしまう事務所と、ビル陰にあって効率の良い新型エアコンを設置した事務所では、面積に関わらず電気代が下がっても全く不思議ではない。しかも冷房だけではなく暖房時にも効果があると書きながら、12月と1月の電気代を比較するとハイブリッドファン導入後のほうが電気代が跳ね上がっているのだが、こういうデータを削りもせずに出している。そもそもこの金額は事務所全体の電気代であって、エアコン以外の要因も多数混ざりこんでいるのだろう。

こういうデータを「不都合な真実」とも感じないで出せてしまうことからも、製品の程度が知れてしまう。職場には既にファンがいるから困ったものなのであるが、昨日書いた意見などもあって、今は静かに笑っている。これで1基3万円もするらしいからおいしい商売だ。こういうおいしい商売の筆頭に、「水商売」がある。

参考:「水商売ウォッチング

「πウォーター」なんかはかなり下火になったが、こういう商売は定期的に発生するし、騙される人も定期的に騙される。うちの父もこういうのが大好きなので困ったものだ。値段がかわいいものばかりなので問題はないのだが、おっさんが唸り声を上げているだけのカセットテープを買わされて、なおかつ家で再生していたときにはかなり家出したくなった。「水と空気だけで発電します」という例のやつも、これでエネルギー危機は去ったと大喜びでした。

水というのは、特に日本においては原価が安く、それでいて命に関わるものなので、商売としては成り立ちやすいのだろう。バカみたいに高いものだけではなく、500mlで130円の水なども似たようなものだろう。私はあれだけはまだ金を払って飲んだことがない。無料提供のものを飲んだら美味かったが、やはり金を出してまで飲むものではないとも思った。最近の水道水は案外に美味いのだ。

金町浄水場高度浄水施設(第三期)事業評価|東京都水道局

かつて日本一不味いといわれていた金町浄水場の水はどれだけ不味いんだろうと思って引っ越してきたら、カルキ臭を抜くために浄水器を通して氷で冷やせば普通に飲めたので拍子抜けした。今では「カナマチのおいしい水」と呼んで愛飲している。いやまぁ、買った水より美味いとは言わないが、必要にして十分な品質なのだ。なにせこれで排泄物を流したり洗濯したりしなければいけない水なのだから。


一方で「油を売る」という仕事が、かつての日本にはあった。油自体が当時は菜種油だったりして「100%が植物生まれ」だとか、逆に「100%が動物生まれ」の鯨油だったりしたそうなのだけれども、原料も貴重で集める手間も掛かる高価なものだった。早寝早起きして行灯の火を節約すれば、三文の「得」になった時代だ。

油というのは粘っこく、技術的には「粘性が高い」と表現する。粘っこいので、壺から升に移して量り取り、それを再びお客さんの器へと移すのにやたらと時間が掛かる。この間、売り子はお客である奥さん連中と軽妙な世間話をするのだ。油を売るのには時間が掛かる。これを逆手に取って、話し相手というサービスも付加価値として売っていたのが江戸の世の油売りだったのだろう。

だから、外出して帰りが遅いと「どこで油を売っていたんだ」ということになる。油売りは回転率の低い商売だ。実に効率が悪い。しかしこういう効率の悪さというのは、一面で人を非常に安心させるものがある。

油というのは粘っこく、傾ければ落ちてはくるのだが、なかなか落ちてこない。しかもきれいさっぱりとは落ちきらずに、最後までいくらかは器にへばりついて残るものである。一方の水とは、ザーッと流れてスパッと切れる。最後に干しておけばきれいに乾く。これが水だ。実に効率が良い。皆が効率に憧れる世に、水商売は花開く。

今の日本は間接税が安く直接税が高い。所得税と住民税だけでいえば大したことはないが、健康保険であるとか年金であるとかが税金以上に天引きで引き去られる。これはカネの流れを管轄している役所が違うだけで、れっきとした税金である。一方の間接税は、たった5%の消費税があるばかりだ。かつては「贅沢品税」としての性質を持った物品税や高い関税があったが、今では消費税以外の間接税では自動車関連の多数の税金や、酒税にタバコ税といった嗜好品税などが残っているだけで、基本的にモノの流れに対しては課税率が低くなっている。

小泉改革の根幹にあった新自由主義とは、現状のシステムを改革するだけではなくて継続的な改革が起こりやすくする流動性を社会に持ち込むことも目的としていたから、終身雇用制と定期昇給で安定した未来というよりも、勝敗をはっきりさせて"Winner gets all"に近い仕組みを多数仕込み、時代に合わなくなった組織は退場させて時代に合った組織に交代させるという「理想」を持っていた。

しかしそう簡単にことが運ぶはずはなく、しかも小泉さんは郵政利権の破壊以外には間接的な興味しかなかったから、一部の新しい勢力に利益をもたらす過剰な流動性が持ち込まれたかと思えば、その一方で別の古い勢力に利益をもたらす膠着性にはほとんど手をつけずに残してしまった。その結果が今の格差社会である。

時代に合わなくなった古い勢力は、一部は駆逐されたものの、大部分は生き残っている。そして新規参入を呼び込むべき規制緩和は結局ほとんど実施されず、既存勢力が道を踏み外さないために過去の悲劇から作られた規制だけが、どんどんと外された。

従業員を社員として長期的に雇用するという、油っぽくねっとりとしたシステムは、実際には温められた油が徐々に流れやすくなるのとは違って、固まった脂が鉄板の近くだけ解け出して勢いよく流れるような過剰流動状態となり、ほとんど全てを失って過剰流動の波にさらわれる人と、その上に浮いて終身雇用と手厚い年金を維持する人に二分化してしまった。

中国が民主化することなく資本化し、14億の労働力が「西側」へと流れ込んだ。それも、働き手として直接海外へ流れるのではなく、工場を誘致するなどして中国国内で大量の安価な働き手を供給した。この結果として、品質に対して異常に安い商品が西側諸国を襲った。賢い国は関税や間接税で自国民を守ったが、日本は積極的に中国へ攻め込む姿勢を見せた。それは経済的に成功した面もあったが、やはり日本国内は混乱した。

人材をねっとりと雇用し続けるためのコストはどんどんと上昇し、一方で人やサービスを「商品」としてさらっと購入すれば安い消費税を払うだけで済むようになったから、川の流れのようにやってくる人材を商品として必要なときに必要なだけ買い集め、使い終わったらまた下流へ流すという、人材リサイクル社会が一部に現れた。しかし、その上層には「融け残り」がべったりと張り付いて浮いている。

必要な道路は絶対作ります。車が何台通るとかそういったことは問題じゃない。車が通るから道路が必要なんじゃない。「道路が」必要なんです。掻いても掻いても油は取れず、そこにべったりと張り付いている。国から地方の誰かさんへと、てろてろと油は流れ続け、これを断つことは容易ではない。政治家さんは、地元に帰っては珍しくもない豪華な料理を食べながら、行事宴席に参加しては談笑しつつ油を売り続ける。

前例主義の税金は油に似て、急にひねり出すことも絞り閉じることも難しい。何年も何十年も掛けて談笑しながら売る、べったりとした商品なのである。比喩的な由来を持つ「癒着」という言葉があるが、江戸の奥さんが当然に馴染みの油売りを選んで油を買っただろうと思われるのと同じように、税金と公共工事というべったりとした売り買いをする間柄にあって、癒着が起こらないわけがないのだ。

一方の都市部では、右から左へと勢いよく水を流して水を売る、高度でエクセレントで効率的なビジネスが盛んだ。売られているのは、商品としての物であったり、商品としての者であったりする。ゆく河の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず。淀みに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しく留まりたるためしなし。世の中にある人と、職場とまたかくの如し。


世の中の趨勢など個人の力ではどうにもなるものではないが、まぁせめて馴染みの油売りを見つけては談笑して楽しみたいものだ。早くて安い買い物をする楽しみはもう十分満喫した。今度は、遅くてちょっと割高な売り買いをする楽しみを探してみるのもいいだろう。大事なのは割高なことであって、数百万円もする高価なモノである必要はない。50円で買えるものを、あえて250円で買ってみるだけでも、そこに新しい世界が見えてくるものなのかもしれない。

もちろん、付加価値である200円は物にではなく者に払う気がなくてはならないのだけれども。私はコレを買いに来たのではない、あなたを買いに来ているのだ。そういう客に私はなりたい。
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by antonin | 2008-07-12 01:03 | Trackback | Comments(6)


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