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妄想メモ

躁転もピークをかなり過ぎ、緩やかに下降している。今日もムスメを連れて、夏休み最後の日曜日を楽しむ親子連れでにぎわう屋外プールで泳いできたから、体が疲れていて眠ることができそうだ。

けれども"hypergraphia"状態はまだ継続していて、書きたいことが山のように生まれ続ける。書きたいと思っているうちに書いてしまわないと情熱が過ぎてどうでもよくなってしまうので、できれば書いておきたいところではあるのだが、あまり脳を酷使しすぎると仕事にも生活にも差し支えるので、自粛する。そして例によってメモだけ書いておく。

--
『袈裟という芸術』

仏教の基本思想は、人間の苦悩は全て人間の欲から生じているから、全ての欲を捨て去ることで全ての苦悩から開放されるという原則に依っている。その中には当然に金銭欲と物欲の放棄が含まれていて、衣服を所有するのも苦悩の元だから、ぼろきれを纏っていれば十分だと仏教は説く。そのぼろきれが袈裟なのだけれども、仏教は日本へ渡ってくるまでの長い旅路の中で、多くの現実的な妥協を通じて布教を進めてきた。そして日本の仏僧は世界的に見て最も壮麗優美な袈裟を纏っている。

しかしそこには「物を欲するなかれ、華美を欲するなかれ」という基本教義が残されていて、その基本思想と現実とのスリリングなせめぎあいから生まれた日本の袈裟は、実に倒錯した美を見せている。その屈折した美を理解するのは難しいが、そこには人類が到達したひとつの極致美がある。そういう話。

--
『「フツーにスゴい」の現在地点』

何にでも「チョー」を付けて話す言葉が批判された時期があった。何にでも「カワイー」という評価を下すことが批判された時期があった。何を聞いても「ウソー」と反応する軽薄さが批判された時期があった。そして更に前には褒め言葉として使われる「スゴい」という言葉に対する強烈な違和感が語られる時代があった。

「すごい」を漢字訓読で書けば「凄い」となる。この字で熟語を作れば「凄惨」となる。「すごい」というのは「むごたらしい」というのと似た印象を持つ言葉であった。原爆投下地点としてのグラウンド・ゼロも、航空機自爆テロ現場としてのグラウンド・ゼロも、どちらもともに「あまりにすごい」という形容にふさわしい現場であった。

それが今では、「大変素晴らしい」あるいは「超人的である」というような意味合いとしてすっかり定着した。「すごく」という副詞形もこれに近い変化を見せている。「すごい」という言葉のすごい変化を認める日本語ってすごい。どちらの意味に読み取るかで全く違う文章になるが、どちらでも通じて面白い。そういう話。

「フツーに」のほうは言いたいことがもう書かれているので省略。
「普通においしい」 - 平野啓一郎公式ブログ

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『性同一性障害とは何か』

「性同一性障害」イコール「同性愛」という認識で、本当にいいのか。男性としての体を持ちながら女性として振舞う、いわゆる「オカマ」な人々を見るに、本当にあれが性同一性障害なのかと疑問に思う。もちろん中には女性以上に女性的な人もいて、それはおそらく「障害」と呼ぶにふさわしい遺伝的矛盾に苦しんできた人の姿を読み取るのだけれども、多くは幼児期の性的暴行による後天的な障害であったり、女性に対する性欲が昂じた果てに自分が女性の姿になることでその欲望を充足させたような人も見受ける。

性差というのは肉体だけのものでもなければ、性欲だけのものでもないだろう。同性に惚れるという現象は別に倒錯ではなく、同性であるからこそ惚れるという性質もまたある。そこで肉欲を覚えるかといえば、多くの場合そんなことはないだろう。「地図を読めない女と話を聞かない男」というような本が売れたことがあったけれども、しばしば「智に働いて角が立つ」のが男であり、しばしば「情に棹差して流される」のが女だろう。

理で考え、権力を志向する女性は、さぞ生きづらい世の中だろう。情を感じ、ささやかな生活を志向する男性は、さぞ生きづらい世の中だろう。こういう形の「性同一性障害」というものもあるのではないか。もちろんそれも不均一な性の問題の中ではごく一部ではあるだろうが、やはり同性愛者だけがこの障害を代表してしまうのは納得できない。そういう話。

--
『検事と弁護士の適正距離』

裁判という制度そのものが、弁論によって正義を論じようとする西洋的な文化の結晶のような存在である。ソクラテスも、裁判で自己弁護したが敗れ、悪法もまた法なりと言って死ぬ。仁義の体系である漢文化の影響を色濃く残す日本の風土には合わない。

告訴も弁護もともに、真実を語るプロセスと考えられている。現実というのは常に複雑なもので、見る角度によって複雑にその姿を変える。一点からのみ真実を眺めると判断を誤るので、二者の争いでは常に二者の意見を聞く。これにより真実はいくらか観察しやすくなる。これが裁判と弁護の基本原理である。人間の顔に目が二つ付いているのと同じような理由である。

これもまたギリシアの昔から起こっていたことではあるが、異なる視点から真実を照らし出すのではなく、黒と知るものを敢えて白と言う詭弁術が育ってしまった。これにより審判人は、右目と左目に全く違う絵を見せられたときのように混乱してしまう。コントラストの強い絵を交互に見せられたときのように、錯乱してしまう。裁判現場の錯乱は、たいていこうした事情によって引き起こされる。

少年犯罪者を保護する法文も、精神障害犯罪者を保護する法文も、その起源においてはどれも正しい価値を持っていた。しかしそれが濫用されることで批判されるに至った。そういう話。

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『工学としての経済学』

エンジニアが経済学を勉強すると、結構面白い。そこには初等的な数式やグラフを使って、経済的な現象が大雑把に説明されている。もちろんそこには文系学問に特有の不思議な術語が多用されているので面食らうが、理系学問に特有の術語と互換性が低いという程度であって、慣れると大したことはない。数学に慣れない学生は経済理論に現れる積分記号などを見て泡を吹くが、理工系で言う「高等数学」はほとんど使用されていない。大学受験程度でだいたい用が足りる。

経済学の世界的最先端ではもちろん高度な議論が行われているに違いないが、そこにはどれだけ工学の基礎知識が行き渡っているのだろうか。経済というマクロで複雑な現象に対して、勝馬の尻馬に乗るだけが目的の博打打ちには理論より勘と度胸が重要だが、これを統制して経済システムを安定的に運用しようとするならば、そこには制御工学の考えが必須であるはずだ。

大学時代に授業で指定された教科書の大半は結婚の際に捨てられてしまったが、どうしても残しておきたいと頼み込んで捨てずに取っておいた本がいくつかある。その少ない生き残りの中に「制御工学基礎論」という本があって、その序を読むと「『学んで時に之を習う、またよろこばしからずや』ということばがある。電気技術者は大学を卒業した後にもたえず勉強を続けることが特に要請される。本講座がその際のよき伴侶としてお役に立てれば二重の幸いである」とあって涙が出そうになる。この本にある制御工学理論は、経済学の理解にあっても必ず役に立つだろう。そういう話。

--

これらの話を通常の力の入れ具合で書こうとすると、おそらく平均で上記の5倍くらいの分量になると思うが、上記くらいの分量がむしろ適切なのかもしれない。上の話はどれも水面に顔を出した孤島であって連携していないが、水面下に広い裾野を広げていて、水の底で一枚のプレートを形成している。水深が30mを超えてくると説明が難しくなる。水深が500mくらいになると1年では書ききれない程度の内容になってしまう。水深が10000m程になって、別のプレートが潜り込んでいたりする場所だと、自分でもよくわからない現象が起こっている。
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by antonin | 2008-08-31 22:21 | Trackback | Comments(0)

hypergraphia

ユーロが一時160円を下回ったが、回復した。日経平均株価が13000円をかなり下回っていたが、300円以上反発して終わった。なんだかよくわからないですな。

海に沈む記事を書いて相当経過したけれども、あれからすっかり浮上して躁側に回っていた。おかげで眠れないし、文章は書きまくるし、まとまりはないし。こういう状態をハイパーグラフィアというのだという。あれもこれも、書かずには居られない状態。

いろいろ検索して、キーワードのほうはちょっと今回伏せるけれども、次のページに行き当たった。

A・W・フラハティ「書きたがる脳 言語と創造性の科学」  - 日々平安録

いろいろと面白いことが書かれている。安敦誌の記事も長いが、こちらもかなり長い。しかし私はこういう文章が好きなので、最後まで読んでしまった。途中でテーマが二転三転しているのもやはり楽しい。

パンセとして残されたような、猛烈な量のメモ。宗教への傾倒。科学とも文学ともつかない幅広い関心。パスカルはあるいはこういう性質を持っていたのか。あれくらいの秀才なら、別に振幅の大きい感情など持たずとも、やはり業績は残していただろう。デカルトのように。
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by antonin | 2008-08-30 04:29 | Trackback | Comments(0)

'C'はなんと読んだら良いものか

「間違いだらけのクルマ選び」で有名な徳大寺有恒さんは、ダイムラーベンツのブランド名である"Mercedes"を「メルツェデス」と書いたらしい。これを指して「独特の言語感覚」のような表現をする人があるが、別にこれは徳大寺さん特有の言語感覚による仮名表現というわけではない。Mercedesをドイツ語発音を普通に仮名表記すれば「メルツェーデス」となるだろう。これをなぜ「メルセデス」と呼ぶのが一般的なのかは少し面白い物語がある。

ドイツ生まれのダイムラー・ベンツ社は、事業拡大に伴って国外に市場を求めた。そしてまず文化的先進国である豊かなフランス市場を狙ったが、フランスではドイツ語の印象がめちゃくちゃ悪い。「ダイムラー」とか「ベンツ」などというブランドでは売りにくいのだという。そこで、販売担当の重役が娘の名前である"Mercedes"をブランド名として売り出した。もちろんフランス語読みされて、「メルセデス」となる。(訂正:フランス語では語尾の's'はリエゾンしない限り発音されない。「メルセデス」はスペイン語読みだそうです)

参考:自動車の歴史: History of motorcar Part-2.

ドイツ語で読めば確かに「メルツェーデス」だが、それでは具合が悪いということでわざわざ国際ブランドとして"Mercedes"を作ったわけで、だとしたらおそらく「メルセデス」と読むのが正しいのだろう。"Siemens"がドイツ企業だからと「ジーメンス」と読むよりは、「シーメンス」と英語読みしたほうが国際企業のブランド名としてはおそらく正しいのだろう。

ところで"ABC"を「エービーシー」と読むのはおそらく世界広しといえどもおそらく日本だけで、英語では「エイビースィー」となる。ドイツ語では「アーベーツェー」となり、フランス語では「アーベーセー」になる。"C"という文字をどう発音するかというのは、極東アジアの日本はともかく、ヨーロッパ圏の中でも結構異なるものらしい。

フランス語では'C'の文字は通常'S'の音で読まれるが、やはり前後の音によっては'K'の音で発音される。歴史的な経緯があって、'C'の文字で書かれた部分を'K'の音で読むべき位置で'S'の音で読まなくてはならない場合、特に区別するために'C'の下に小さく's'の記号を添えることになった。これが現代フランス文字の'Ç'(セー・セディーユ)になる。'C'というのはなかなか厄介な文字だ。フランス語を勉強する英語圏の学生は"careful"に出てくる4つの子音字には気をつけて(careful)読めと教えられるらしい。フランス語の単語の末尾が子音字だった場合は通常発音しないが、この4文字の場合は特別に発音するケースがあるからだ。

「アルファベット」というものがあって、これは'A'と'B'で始まる表音文字の総称なのだという。日本人はとかく「アルファベット」イコール英語と考えがちだけれども、ヨーロッパのうち、古代ローマ帝国の版図にあった国の諸言語は全てアルファベットで書かれる。もう少し東側へ行くと、ギリシャ文字に由来するキリル文字が使われる。これはロシアと共産圏の影響下にあった国々が多い。しかしどちらにしても、'A'や'B'あたりから始まる。

キリル文字には'A'と'B'の間に'Б'という文字が入ってくるから少し変則的だけれども、キリル文字では'B'のほうが「ヴェー」の音に当てられてしまっているから、この「べー」と読む'Б'が本来の'B'に相当する。「本来の」というのはギリシャ文字の'Α'と'Β'のことで、これは「アルファ」「ベータ」と読む。アルファとベータから始まるからアルファベットと呼ぶ。

キリル文字ではない、英語などで使われるアルファベットを特にラテン文字と呼ぶ。ローマ帝国というのはその名の通りローマという都市から発生した帝国で、初期のローマ周辺に住んでいた民族をラテン族という。そしてラテン族の言葉であったラテン語がローマ帝国の公用語となったから、そこから派生したアルファベット群をラテン文字という。

ラテン族は当初文字を持たなかったので、周辺のエトルリア人あたりが使っていた文字を拝借してきたのだという。エトルリア人は元をたどればギリシャ人と同じ海洋民族らしくギリシャ文字に近い文字を使っていたらしい。ギリシャ人は自分たちでギリシャ文字を発明したのかというと、そうではなかった。

有名なアテネやスパルタが台頭するより昔、クレタ島などの遺跡で見つかるエーゲ文化、あるいはミノア文化と呼ばれる文化遺跡を残した民族があって、彼らは現在「線文字A」とか「線文字B」と呼ぶ、独自の文字を発明して使っていた。これは表意文字だったが、全ての意味に対応する文字を用意するという中国的な道を選ばず、よく使う単語には表意文字を使い、その他諸々の単語は表意文字の冒頭の音だけを借りて表音文字としていた。これは今の日本語に似たシステムになっている。

しかしどうもこの線文字AとかBとかいう文字は使いにくかったらしく、同じく地中海を縄張りとする海洋民族であるフェニキア人の使っていたフェニキア文字を拝借して、これを使うことにした。これが現在まで伝わるギリシャ文字である。このフェニキア文字にしても基本システムは線文字AやBと同じで、象形文字に由来する表意文字の冒頭の音だけを借りた表音文字だった。しかしフェニキア文字ではこの頃すでに全ての言葉を表音文字だけで表していたという。ギリシャ人もこれに従い、ラテン人の採用した文字システムもこれである。

フェニキア人に到ってアルファベットの起源にたどり着いたのかというと、そうではないらしい。フェニキア文字の最初の文字は'A'の横棒が少し突き出た形をしているが、これは「アレフ」と読んで、牛の意味だったのだという。そのため、フェニキア人よりも前にこれらの文字を表音文字ではなく表意文字として使っていた民族があった可能性が高いのだという。横棒の突き出た'A'をひっくり返すと、角と耳が付いた牛の顔に似ているから、これは象形文字が簡略化、記号化されたものなのだという。

ヘブライ文字の最初の一文字が「アレフ」なのもこれと同じ理由で、ヘブライ文字も広い意味での「アルファベット」のひとつなのだという。こういう来歴を持つアルファベットなのだけれども、これだけ多くの民族に採用されると、形は似ていても、中身が変わってしまったような文字も多い。そもそもアルファベットを発明した人達の言語には、母音の区別によって意味が代わってしまうような単語が存在しなかったという。子音の並びが決まれば、途中に挟むべき母音はひとつに決まるので、わざわざ文字に書く必要がなかったのだという。

コーランが書かれた時代のアラビア語はまだこのシステムが残っていて、コーランにあるような純粋なアラビア文字には、子音に続く母音を表す文字がなかったのだという。他民族にイスラム教が伝わった現代ではこれでは都合が悪くなり、母音を示す点や棒が付くようになったが、あくまで補助記号であって文字そのものではない。日本語の濁点や、ドイツ語のウムラウト記号のようなものだろう。

濁点といえば、広辞苑などを読むと「古くは清音」と書かれる単語をよく目にするのだけれども、あれは本当なのだろうか。本当に「清音」だったのだろうか。現代日本語で「一本」「二本」「三本」を仮名で書くと、「いっぽん」「にほん」「さんぼん」となり、濁点と半濁点が出てくるが、これを「いつほん」「にほん」「さんほん」と書いたからといって、現代人がこれを読むような清音を、実際に古代人が発音していたのだろうか。

あるいは彼らも「いっぽん」「にほん」「さんぼん」に近い発音をしていたのに、彼らにとっては「ほん」も「ぼん」も「ぽん」も区別を意識するようなものではないのだとしたら、あえて記号を付けてまで区別する必要はなかったのではないか。「さる」と「ざる」を区別しなくてはならないような状況が発生して、やむなく生まれたのが濁点や半濁点ではなかったのか。

朝鮮語でも'g'の音が母音のあとにくれば有声音、日本人の耳なら濁音になるが、子音のあとや語頭なら無声音、日本人の耳なら清音となって'k'の音に聞こえる。しかし朝鮮語ではこの区別を意識しないので、ハングルでは'ᄀ'というひとつの記号しか与えられていない。'b'と'p'も同様である。

アルファベットの話に戻ると、フェニキア文字には子音文字がたくさんあったが、母音文字が少ししかなかった。ギリシャ語には出てこないような子音を書き表す文字がたくさん余った一方で、短母音と長母音を区別するギリシャ人にとっては、母音文字は圧倒的に不足していた。そこでギリシャ人はどうしたかというと、余った子音文字に母音を当てはめることにした。どの文字がそれに相当するかということは知らないが、'Ο'(オミクロン)は短母音の「オ」で、'Ω'は長母音の「オー」と区別される。だから、短母音と長母音を区別して書くと、「プラトン」は「プラトーン」で、「ソクラテス」は「ソークラテース」となるらしい。

こういう文字と音の微妙な置き換えが、ある言語から隣の言語へ文字が「輸入」されるたびに起こっていく。ラテン人がアルファベットを仕入れてきたとき、'C'という文字には有声音と無声音の違いがなかった。初期のラテン人はこれを文脈から判断して適当に読み分けていたらしいが、ある時点で'G'という文字ができた。これは'C'に記号を加えたものである。また、'I'からは'J'が、'V'からは'U'が派生した。もっとずっと後になってからだが、'U'からはさらに'W'が派生した。'Q'とか'X'などは、また少し来歴が違うらしい。

'C'という文字はその後のヨーロッパでも複雑に変転を続けていく。"Julius Caesar"は、古い世代ならシェークスピアの戯曲にならって「ジュリアス・シーザー」と覚えただろうし、新しい世代なら世界史の教科書にある「ユリウス・カエサル」と覚えただろう。当時のラテン語でどちらの音が近かったかといえば、カタカナで書く制限を無視すると、「ユリウス・カエサル」のほうが近かったらしい。

そもそも英国は中世に母音の大変遷が起こってしまったので、ヨーロッパの中でも母音の発音に関しては異端中の異端なのだが、それにしても"Ju"は「ジュ」よりは「ユ」に近かったらしく、その根拠は'J'の文字が生まれるまでの期間、"Ju"は"Iu"と書かれていたというあたりらしい。塩野七生さん風に言えば、現代イタリア語と古代ラテン語は単語の構成が似ていて、何よりイタリア風に読んだほうがラテン語が美しく聞こえるからだという。

現代イタリア語での'C'の音というのはちょっと独特である。というのも、あとに続く母音によって子音としての発音が変わってしまうからだ。"ca", "ce", "ci", "co", "cu"はそれぞれ、「カ」「チェ」「チ」「コ」「ク」となり、'a', 'o', 'u'が続くときには英語で言う'k'の発音になるが、'e', 'i'が続くときには'ch'の発音になる。「た」「ち」「つ」「て」「と」が"ta", "chi", "tsu", "te", "to"になる日本語から見ると、むしろ馴染みやすいかもしれない。

イタリア語で「キ」と言いたいときは"chi"と書き、4世紀頃のイタリアの地図に載っている「アンティオキア」という地名が"Antiochia"と書かれているところから、当時も"chi"の音は"ci"とは区別されていたようだ。しかしこの地名はもともとギリシャ語に由来するもので、単にギリシャ語の'Χ'(カイ、あるいはキー)の音に対応した表記か、あるいは外来語特有の表記だった可能性はある。

もし古代ラテン語においても、'C'の音は後ろに続く母音によって変化していたと仮定するならば、"Caesar"は実は「カエサル」と読まれていたのではないかもしれない。現代イタリア語なら「チェーザレ」と呼ばれているらしいが、このように「チェ」と発音されるのを避けるために"Cae"とスペリングされていただけ、という可能性もある。つまり、「カエ」ではなく、単に「ケ」であった可能性もあるのではないか。

"Caesar"という家名はカルタゴとの戦いで戦果を上げた人物に端を発する家柄で、象だかなんだか、とにかく敵国の戦力を撃破したことから付いた名で、本来はラテン語ではなくカルタゴの言葉から取った外来語なのだという。単に"Cesar"と書いてしまうとラテン人には「チェサル」と読めてしまうので、"Caesar"と書くことで原音に近い「ケサル」と読ませていたのかもしれない。つまり英語の"tea"を日本語で「チー」と書けずに「ティー」と書くのと似たような用法だったのではないか。'C'のあとの'A'は、単に'C'の音を'K'に固定するだけの捨て母音であって、無理やりカタカナで書くと「カェサル」というような表記として"Caesar"というスペルを使っていたような気がする。そして実際には「ケサル」とか「ケザル」などと読まれていたのかもしれない。

まぁこれは文献学的に確認が可能な仮説であって、当時ローマ社会に組み入れられていたギリシャ人が、自分たちの文字で"Caesar"をどう表記していたかを調べればいい。ギリシャ文字にはちゃんと'Κ'(カッパ)という'k'の音に固定された子音文字があるから、"Καεσαρ"と音写していればそれは「カエサル」と読むべきだし、"Κηζαρ"などと音写されていれば「ケーザル」と読むべきだろう。当然学者はこのあたりの考証を済ませていて、その上で「カエサル」という表記を教科書に載せているのだろう。

ちなみにWikipediaの「ガイウス・ユリウス・カエサル」の項からリンクされている現代ギリシャ語のページによると"Ιούλιος Καίσαρας"という表記になっている。これを素朴に読めば「ユリオス・カイサラス」となり、やはり「カエサル」と読むのが妥当のようだ。

こういう具合であって、'C'という文字は、その出現頻度の割りには読み方がばらけている。ドイツ語などでは「ツェー」と読みはするが、単語中の'ts'の音は'Z'をあてるし、'k'の音には'K'をあてているので、外来語以外では'C'の字をほとんど使わない。語源的には結局ラテン語に至る語彙が多いので、なんと読んだら良いかわからない'C'を、ドイツ人的厳密さで'K'と'Z'に割り振ったのだろう。チェコなどでは'C'は'ts'の音を中心に発音されているらしく、'ch'を濃厚にした感じの、ドイツ語で'cz'と表記される音にはハーシェクという記号が付いた'Č'という文字が使われる。

ギリシャ人がフェニキア文字を拝借したときにおこなったような、余った文字を全く別の音に当てるというのは近年でも相変わらず実行されていて、例えば中国語のアルファベット表記の一派では「シ」とか「チ」とかをより濃厚にした感じの音に'X'や'Q'を当てている。だから"Qingxian"と書いて「チンシャン」と読ませたりする。ラテン文字の多言語展開はこれからも続いていくだろう。

フェニキア系の文字が東回りにデーヴァナーガリー文字やタイ文字やモンゴル文字などに派生していくプロセスも面白そうだし、アラビア文字のようなセムハム系の文字もその系等を調べてみたい。漢字が西夏文字や仮名文字に派生していくプロセスなども面白い。そして象形文字の聖なる姿を最も長い期間残し続けたエジプト神聖文字や、その実用形である神官文字や民衆文字がどこへ拡散して行ったのかという検証なども楽しそうだ。1日が30000時間くらいあったらいいのに。
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by antonin | 2008-08-30 04:29 | Trackback | Comments(0)

復活の日

ハンロンの剃刀 - Wikipedia

世の中には多数の陰謀論があって、実はこの世界は強大な秘密結社によって完全にコントロールされているのだ、というような感じのものが多い。私はこれを素朴には信用しないのだけれども、現実には火のないところに煙は立たないというような実感もある。ケネディ暗殺級の大事件になるとまだ情報の開示が不十分なのだけれども、あれをさえない犯罪者の単独犯行であるという公式発表そのままに信じているという人も少ないのではないか。

かつてネバダ州の空軍基地周辺で未確認飛行物体の目撃情報がしばしば報告された。また、そうした騒ぎのあとには"Men In Black"が来て事態が収拾されるというおまけ情報付きだった。テレビでは宇宙人騒ぎで盛り上がり、ネス湖のネッシーと同じような次元に引き下ろされてしまったが、今にして思えばあれは空軍が開発中のテスト機体だったのだろう。VTOLのように飛行機らしからぬ飛び方をする機体もあれば、単に安定を失って変な動きをした機体もあったろう。それを望遠カメラで撮影しようと少年などが近づいたら、それは制服を脱いだ軍人がやってきて穏便に処置せざるを得ないのである。当たり前だ。

911にも不自然な点が多い。これもケネディ級の事件であって、おそらくは私が生きているうちに真相が暴かれるということはないだろう。米軍が湾岸の石油利権を侵すために国内世論を操作しようとして自作自演したという説もあるにはあるが、そこまでのことを持ち出す必要はないのではないかと思っている。ただし、何らかの事後処理、それも公表するには憚りのある程度に強硬な処理が行われたという程度であれば、いろいろと合理的な説明が可能になる。

日本にもこういった、公式説明だけでは納得しきれない不自然な事件があれやこれやとあって、日本海沿岸で多発した失踪事件が北朝鮮による拉致だという情報が出たときにも、これは陰謀論として聞き流されていた。それがほぼ現実そのままであったというのは、今や誰もが知るところになっている。

最近で最も重大な二つの事件というと、サリン事件とJAL123便墜落事故だろう。かたや宗教法人、かたや航空管制という、戦後日本が抱える大矛盾の急所を突いた事件であって、それぞれに説明不足の点が多々残されている。これを全て陰謀論として陰の組織の活動を想像したり、あるいは中性子爆弾による被害だったという情報もあったけれども、そういう宇宙人級の突飛な発想に飛び付く必要はないだろう。それはおそらく、悪意ではなく無能による結果なのではないか。年金システムの崩壊と同じように。

事件の詳細に関する不明点については議論が出尽くしていて、また専門家でもなんでもない私には検証不可能なのだけれども、いくつかの流れは公開情報からも見えている。123便の事故では、結局ボーイングの修理および点検ミスという形でボーイング社に泥をかぶってもらった格好で決着したが、当時のエース商品だった747に先進国内での墜落全損、それも整備不良が原因という重大なネガティブイメージを与えてしまう大事件であった。

500名以上の命を奪ったことになるボーイングからの調達がその後下降したかというと現実は逆で、近年日本の旅客機市場におけるボーイングのシェアは8割を超えるという。最大のライバルでありヨーロッパ系メーカーであるエアバスの日本におけるシェアは4%という数字もあり、これは世界的に見て異常な数字となっている。

参考:「航空機の保管に最適な場所とは? | 営業のネタ ~貧乏リーマンの叫び~

もちろん日本はボーイング社製のB29に散々本土を爆撃された挙句に米国に戦争で負け、戦後は要所に軍事基地を提供する状態なので、米国の戦略企業であるボーイング社からの調達が多いというのは別におかしな話ではない。ただ、そのシェアがあまりにも高い。お膝元である北米市場におけるエアバスのシェアは49%に達するという。1985年以降、日本におけるボーイングからの購入機数が増えたのか減ったのか気になるところだが、ネットではその手の情報を拾えなかった。いずれ書籍でも当たってみよう。

何もかもが陰謀だとは思わないが、偶発事故に対して危機管理体制が不十分であったため対応が後手に回り、まずい情報を隠すために更に不手際が重なったという程度の可能性なら信じることができる。それら積み重なった不手際を最終的に隠蔽するためにボーイングに泥をかぶってもらうよう懇願し、そしてその補償として購入規模の継続的拡大を約束する政治決着で落ち着いたという説明で、特に矛盾を感じないデータが現実として目の前にある。

そして今現実としてあるのが、国債残高の異常な累積額である。中国からの大量の低価格産品の流入でデフレに陥った日本は、ゼロ金利政策を背景に国債を売りさばき、国民の預金は国税を経由して市場にばら撒かれた。金利の自由化などで公定歩合は政策金利ではなくなったようだが、金融崩壊だけはなんとか免れた。それで景気が回復して税収が上がれば国債は元の水準に戻るはずだったが、相変わらずの赤字財政のまま、原料高で物価が刺激され始めた。

もう日本には公定歩合というものは存在せず、基準割引率および基準貸付利率というものになってしまったらしい。今の日本経済は、マクロ経済を安定化および操作するための通常手段である垂直尾翼を失ったJAL123便のような状態にあるのかもしれない。しかし、そういう警告書が数多く発行される中、政府や報道からの報告はほとんど国民に届かない。一人の死者も出さなかった毒餃子事件など、ある意味たいした問題ではない。

これから老後に突入する世代の預金は、もう税金に化けて市場にばら撒かれてしまった。預金の取り付けなどを起こさないように継続的な払い出しに応じるには、財政を黒字にして国債残高を減らしていく必要がある。老後資金として蓄えた預金をいざ生活費用として引き出そうとしたら、国債に化けていた現金を取り戻す必要が出て銀行は国債を売る。ここで国政が失敗すると国債を買い取る先が見つからないということになってしまう。こうなると国債の金利は暴騰してしまい、国家破産、デフォルトということになってしまう。

スタグフレーションなどに陥らないように国債を償還していくには、財務省のコントロール下にない特別会計を一般会計に組み入れるバイパス手術をするか、あるいは年金や健康保険などの社会保険掛金という名の目的税を国税に組み入れて、一般会計予算としてコントロールするという対処法がないではない。日本では一般会計より特別会計のほうが数倍も予算が大きいので、これを全て歳入に繰り入れることができれば、債務コントロール能力はかなり回復する。国債残高はGDP比ですでにEUの通貨統合基準を上回っているので、病的な状態であるという事実は覆らないのだけれども。

実際には大蔵省の看板を下ろした財務省にその力は残されていないらしく、独自収入を握っている各省がそれぞれの省益に有利になるように独自の予算を組んでいる。それぞれの勢力は国会にも与野党問わず深く入り込んでいる。現在の財務省は官吏の頂点にあるというプライドに懸けて最善を尽くしているようだけれども、「これはだめかもわからんね」「ドーンといこうや」という状況になったとき、デフォルトはないにしてもハイパーインフレーションやもっと新しい経済技法によって国家の借金を棒引きにするという決断を下す日が来るかもしれない。

そうなれば日本経済はまた焼け野原になるだろう。「また破綻論か」などとタカをくくっていると、そう遠くない将来に痛い目に遭うような実感はある。もしそうなっても丸山眞男を引っぱたくことはできないが、案外そのとき日本人はすっきりと憑きものが落ちた顔をして、復興に励むようになるのかもしれない。
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by antonin | 2008-08-30 03:28 | Trackback | Comments(0)

大草原の小さな家と大都会の小さな部屋

私は私生活においてはMicrosoftが提供するソフトウェア環境に安住していて、それで満足している。けれども、最近になってGNU/Linux的な世界の豊かさも、Apple/Mac的な世界の安楽さも、徐々に理解できるようになってきたように思う。

最初はMac世界とWindows世界の対比で考えていて、その説明についても「大きな最大公約数と大きな最小公倍数」という対比で考えていた。ノートに図なども書いてあって、なぜXPは成功したのにVistaは成功しないのか、ということについてもある程度合理的な説明が可能になった。けれどもこれは次回以降に回したい。もう少し絵物語的な導入から。

Macというのは、良くも悪くも自己完結的な世界なのだ。Macを買ってきて、必要なソフトを数本インストールしたら、あとはそのMacを捨てるまでは道具として使い続ければいい。これがMacの快適さなのだろう。Windowsでも似たような使い方はできるようになったが、たいていの作業においてMacでの作業のほうがレベルが高い。実はWindowsにおいても同じレベルは実現可能なのだが、それを実現するにはちょっと面倒な設定やソフトのインストールが必要になる。

この、「やってできないことは無いが面倒」という領域が、Mac世界ではなかなか訪れない。ひとたびその限界にたどり着いてしまったら、その限界を超えることは非常に難しいのだけれども、その城壁の中で生活していても満足度が高いのがMac世界の特徴だ。これがWindows世界では、レジストリの変更やフリーソフトのインストールなどという方法によって、「自己責任」を負うという条件付ながら、城壁の外へ出て行く方法は数多くサポートされている。そして、世界は緩やかに外へと開いている。

この、城壁の外へ出ることができる自由と、城壁の外へ出ないとできないことが当たり前に存在する不自由という特徴を極限まで推し進めると、それはGNU/Linuxの世界になる。標準的なディストリビューションをインストールすれば、標準的な作業はかなりできるようになっているが、生活を始めるとすぐに城壁へ達してしまう。そこには古いメッセージが書かかれていて、「ナイフを持て。この門の外に.tar.gzという獲物がいるから、それを捕らえて持ち帰れ。あとは./configureしてmakeしてmake installするだけだ」というアドバイスが得られる。多くの現代人はこのメッセージに戸惑うことになる。

仕方が無いのでナイフ屋を探して適当なナイフを買い、門の外に出る。すると獲物がいない。そこには地図に無い小さな村があって、「数年前まではここにも獲物がいたが、今ではもういない。ナイフではなくてバイクを借りて隣村まで行くといいだろう」という話を聞くことになる。もちろんバイクを借りたりガソリンを調達したりするのにもそれなりの苦労が予想され、都市生活者はこのあたりで力尽きて去っていく。中にはこの世界に魅了されて一生を冒険に捧げる勇者も出てくるが、それはごく一部に過ぎない。

GNU世界の住人たちの態度は明確だ。サービスが無いなら、自分で作ればいい。金が無いなら、金鉱脈を見つけて掘ればいいだけだ。OSの機能が足りないなら、どこかでパッケージを見つけてくればいい。パッケージがなければソースを拾ってきてビルドすればいい。ソースもなければ自分で機能を書けばいい。CでもPerlでもELISPでも、好きな言語を使えばいい。こういう話になる。世界の限界は自分自身の限界と等しく、努力の先には無限の広がりがある。前人未到の僻地に見えても、よく探すと先人の書き残した言葉が石に刻まれている。この世界はある種の人たちを限りなく魅了するが、それを好まない人を完全に排除する。

この開拓者精神あふれる世界と対極にあるのがMac世界だろう。大都会であるBig Appleでは、ユーザーは何も開拓しなくていい。そこで何をして暮らすかに集中して、楽しく生きていけばいい。世界でどう生きていくかが重要であって、世界がどうやって作られているかを知るのはAppleとその仲間たちだけで十分だ。Mac世界はもちろんGNU世界と同じ地平にはあるのだけれども、サービスを提供する人とそこで暮らす人は明確に区別されている。市街は整備されていて、標準的な生活を送っている分には何も苦労は無いし、Mac世界の「標準」は非常に高水準だから、その中でほとんどの生活は完結するはずだ。

街は快適で、人々はそのサービスの機構について全く意識する必要が無い。親切なサービスの中で生活を謳歌すればいい。ただ、そのサービスを提供するのはしんどい作業であるので、提供者は最高のサービスを提供しつつも、それを城壁の内側に限定している。その外側に出て行こうとする要求をやんわりと拒絶する。たいていの市民はこの居心地の良さを賞賛するが、一部の自由人は城壁の外へ出られない窮屈さを訴える。もちろん、腕に覚えのある一部のつわものは、サービスの提供者として自由を謳歌できる。

これらの両極に対して、Windows世界は良くも悪くも中間的である。Windows PCを買ってきたその日から、「パソコンを使ってできること」はひととおり実行できる。日本語入力で困ることも無いし、フォント選択で不思議な設定ファイルを書く必要も無い。ブラウザでweb閲覧をしたりwebサービスを受けるのに何の不自由も無い。しかし、こんなことができると聞いたのだけれども、自分のPCではできないということが見つかる。城壁にぶつかったのだ。

しかしWindows世界は東京のようなあいまいな広がりを持った都市であり、城壁の外へ向かって線路が伸びている。馬にまたがって荒野を目指す必要は無い。駅前の看板やタウンページを見れば適切なサービスを提供する店や業者の名前が見つかる。交番に入っておまわりさんに質問すれば、道案内も期待できる。地方の駅前にもタクシーくらいは待っている。自分で調べものをする必要も無いくらい親切なApple Cityに比べれば不親切ではあるが、「ナイフを取れ」のGNU Fieldよりは楽な生活ができる。あまり遠くへ行くと文化の違いに戸惑うだろうが、とにかく地続きなので安心して家へ戻ってくることができる。

また、Windows世界は人口が多いのでサービスも多様なのだ。どんなにニッチな商売でも成立する可能性が高い。例えるなら、ガーリー趣味の6歳の男の子の要求に応えられるブティックが営業していけるのは、広大なGNU Fieldでも洗練されたApple Cityでもなく、猥雑なWindows Townの路地だけなのだ。これが、人々がサービスの質に文句を言いつつもWindows世界から離脱できない最大の理由なのだろう。便利さと自由さのシームレスな接続。

GNU世界は強くなくては生きていけず、優しくなければ生きている資格の無いハードボイルドな原野だ。GNUniverseには無限の自由と広がりがあるが、自然は厳しい。そこで生き抜く人々は皆厳しい目をしているが、反面優しい。彼らの家を訪れたなら、挨拶をしてみるといい。無料で一宿一飯を提供してくれるだろう。しかし、いくら金を積んでも長居はできない。全ての人間は自立しているべきなのだ。

一方のMac世界は、究極の自由よりも日々の充実を選ぶ都会人の領域だ。自由が欲しければ、安全かつ快適に城壁の外を体験できるSafariツアーに参加すればいい。特殊な仕事に直面したら、Boot Campに立ち寄ってWindows世界から来た傭兵に野蛮な仕事を依頼すればいい。そしてすぐに快適なApple Cityに帰ってシャワーを浴びればいい。税金は少し高いが、必要なサービスはなんでも揃っている。都会暮らしは快適だ。

GNUの導者たちは、山野に分け入って自給自足の尊さを説いてくれる大切な人々だ。しかし、自分たちの土地へ体力と知恵の無い素人が大量に押し寄せてくるのを嫌うだろう。Appleの経営者たちは、都会の高層ビルにあるジムでマシントレーニングをする知的でハイセンスな人々だ。彼らは新しい価値を創造し続ける。巧みな宣伝で多くの客を歓迎するが、路上で屋台を引くような人を軽蔑し、排除するだろう。

ただ、東京や上海のような雑然とした都市には明確な領域が無い。都心にはやはり高層ビルがあり、郊外には田畑も漁港もあるが、それらは緩やかにつながっていて、中間の住宅地には平凡で多様な人々が生活している。一家に一台のMS Officeがあり、玄関にウィルス対策ソフトを飼う「デファクト標準家庭」にささやかなステータスを感じる彼らは、都心に通勤したり、地方から送られる食料を近所のスーパーで買って食べたりする。時にはレストランで食事もするし、庭でトマトを育てたりすることもあるが、都心で暮らすのは窮屈だと思っているし、田舎暮らしに堪えるだけの経験も無い。

Mac世界の美しく設計された街には自己完結した快適さがあり、GNU世界の広大な原野にはシルクロードに似た古い道が通っていて無限の広がりがある。センスが良くてかっこいいのはもちろん洗練された都会人たちだ。生活力があってかっこいいのはもちろん野性味あふれる開拓民たちだ。ただ、たいていの人は中間的でかっこ悪い日常生活を送っている。ときどき路上で石焼芋を買って食べたりする。生活のさりげない部分にCP/M時代を偲ばせるCRLF改行やEOF文字などが残っていて、そういう文化は時代遅れだとは感じながらも、特に不自由は無いとも思っている。

それが、Windows世界の力なのだろう。東京辺縁の住宅地で育った私にとっては、Windows世界の多様で乱雑な感じが、とても心地よいのだ。
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by antonin | 2008-08-29 19:48 | Trackback | Comments(0)

自治体マークの不思議

小学生の頃、夏休みの自由研究として、区章の一覧を作った事がある。プリントゴッコでシートを印刷し、電話帳から東京23区各区のマークを書き写した。その横に区のデータなどを調べて併記するのだが、当時はwebなどもなく、小学生が自力で各種データを収集するのは難しかった。そこで図書館で調べ物をしたり、24の区庁舎や郷土資料館などを訪れて各区の特徴などを足で調べたりすれば、非常に優れた自由研究になっただろう。けれども私はそんな立派な子供ではちっともなかったので、適当に区章の由来などをデッチ上げて学校に提出した。

当時私は板橋区に住んでいたので、区から配布される冊子などを読んで、板橋区の区章だけは正確な由来を知る事ができた。

板橋区の紋章・コミュニケーションマーク | 板橋区

中央の野球のボールのような模様がカタカナの「イ」と「タ」をあしらったもので、その周りにやはりカタカナの「ハ」が4つ配置されて、「イタハ四」で「いたばし」という具合になっている。「本区の限りない発展を象徴しています」ということになっているけれども、これはまぁタテマエである。輝く四芒星くらいはイメージしているのだろう。この区章がデザインされたのと同時期に制定された区章や全国の自治体の紋章では、このように地名文字を使ったデザインが主流で、似たような文字探しの出来るマークが多い。

板橋区の前に住んでいた新宿区のマークはなかなか特徴的で、新宿の「新」の字を流し書きした形をベースにしているという。

新宿区紋章

このマークが、子供心に「ウルトラサイン」に見えたものだった。いつの時期からだったか、歴代ウルトラマンが実は家族だったというような設定になり、彼らが地球の空にサインメッセージを書くというような設定も追加された。私が幼稚園児だった当時放映されていた「ウルトラマンレオ」の胸というか腹というかそのあたりに、ウルトラサインっぽい記号が付いているのだけれども、これが新宿区章にどことなく似ていたのだった。

ウルトラマンレオ - Google イメージ検索
(適当に探してください)

現在は江戸川区に住んでいる。江戸川区のマークはデザイン的には優れているものの、文字探しという意味ではカタカナの「エ」をベースにしているだけで、特に技巧的なところはない。漢字の「江」もシンプルな文字なので、こちらをベースにしたらもっと面白かったのにな、と思うが、たぶん余計なお世話。

江戸川区 区の紹介 区の紋章

江戸川区も子育てのしにくい都区内においてはなかなか充実した環境ではあるものの、南北に広がった江戸川区の外れに住んでいるので、湾岸地区にある葛西臨海公園などはディズニーランドに遊びに行くくらいの気合を入れないと利用できない。隣接する葛飾区にも良い公営施設がたくさんあり、また特に居住地にこだわらず開放されているので、子供を連れてよく利用したりしている。

葛飾区の区章もカタカナの「カ」をベースにデザインされたもので、いやむしろ、カタカナの「カ」そのものにしか見えない。

区のデータ(葛飾区について、面積、人口・世帯数、区役所について)

これは力強い大胆なデザインで好きなのだけれども、最近までは文字探しの楽しみには適さない区章だと信じていた。上記の公式サイトにも、「伸びゆく葛飾区を象徴する意味で「カツシカ」の頭文字の「カ」と(力)(ちから)を併せた意味をもちます」と説明されている。確かに力強いデザインで、「力」(ちから)の意味を持っているというのもよくわかる。形も一緒だし。

だが、このマークを繰り返し見ているうちに、私はデザイナーの秘めたるメッセージを読み取ってしまったのだ。公式サイトにも書かれていないので勝手な想像なのだが、このマークを解釈してみたい。籠目模様の共有から日本人ユダヤ人同祖説を言い出すくらいスリリングな心境である。

まず、自明ながらこのマークは葛飾区の「カ」の字を表している。次に、このデザインを良く見ると、縦棒を無視すれば、その形はひらがなの「つ」であるようにも見える。「カ」の字の払いが大きく造られているので、それが「つ」に見えるのだ。そして最後に、この太い字に見えるデザインは、あまりにも四角い。そう、「四角」なのだ。3つのキーワードを連結してみよう。

「カ」「つ」「四角」

さぁなんと読む。驚くことに、「かつしかく」ではないか!! こんなすごい事が、あのシンプルなデザインに隠されていたとは!! そしてそれを公式説明に表さない奥ゆかしさ!! これぞまさに文字探しの上級アイテムだったのだ!!

まぁ本当かどうかわかりませんが、本当だったら面白いですね。制定が昭和26年とあるので、デザイナーさんはもう鬼籍に入られているのだろうか。この戦後5年過ぎという時期は多くの自治体紋章が制定された時期なので、頓知とグラフィックデザインのセンスを兼ね備えた優れたデザイナーであれば、全国にかなり多くの作品を残されているのではないかと思う。

こういう公共財であるデザインにデザイナーの名が添えられる機会は少ないのだが、歌には作詞作曲者の名が添えられる事が多いので、ぜひこうした優れたデザインにも作者名を添えて欲しいものだ。あるいはグラフィックデザイナーとしてはこういう税金仕事というのは必ずしも本意ではないのか。

ピョートル・チャイコフスキーは国威高揚のために作曲を依頼され、ちょっとハイテンションな「1812年」という名曲を残した。しかしあれはプロパガンダ的な作品であって、これをもってチャイコフスキー作品と評価しないで欲しい旨の感想を残しているらしい。カミーユ・サンサーンスも「動物の謝肉祭」に関して似たようなコメントを残しているというが、サンサーンスの場合はチャイコフスキーと違い、これが代表作扱いされているのがかなり気の毒。交響曲第3番オルガン付きのような大作もあるのに、「白鳥」の作者としてしか評価されないのは確かに本意ではないだろうなぁ。

ところで、世界の国旗などはもともとが船の国籍を表すという用途から発しているので、横長の布地を前提としたデザインになっている事が多い。また、細かい模様は見えないが色ならわかるという船舶信号の前提から、シンプルながらカラフルなデザインが多い。しかし一方で自治体の紋章というやつは、形状は定められているものの色は定められていないことが多い。

もちろん自治体ごとのイメージカラーのようなものはあるのだけれども、どれも単色刷りであって、多色刷りが前提の紋章というものは見たことがない。また、長方形ベースの紋章というものもなく、多くが正方形や円形などの天地左右が同寸法のデザインとなっている。デザインの基本思想としては、旗ではなくて印章なのである。こういう紋章の制定というのは、いったい誰がどういうつもりで定めたものなのだろうか。おそらくは、藩主の家紋に取って代わるべきものだったのだろう。

このテーマの自由研究で味をしめた翌年の夏は47都道府県章で同じことをやったが、適当なことを書いていたのがバレて、こちらは低評価だった。翌年は乾球と湿球を備えた温度計を買ってもらい、天気記号、温度、湿度、不快指数などを記入できるシートをプリントゴッコで印刷し、まとめた。あれは結構面白かった。夏休みに雪は降らないので、ヒョウでも降らないかと期待していたがダメだった。天気記号というのも紋章的には面白く、風向記号が付いたりするとまた趣が変わって面白い。
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by antonin | 2008-08-29 04:14 | Trackback | Comments(0)

なぜ? どうして? がおがおぶー

朝のテレビは常に3チャンネル。東京地方でのVHFローバンド3チャンネルはNHK教育テレビJOAB-TVだ。と、書けば、我が家がまだディジタルシフトを果たしていないという事がわかるだろう。わかるだろう? わかんない? テレビは2011年7月24日にデジタル放送へと全面移行します。

参照:「地デジ、BSデジタルのことなら![Dpa] 社団法人 デジタル放送推進協会

そんなことはどうでもよくて、こういう番組が子供の通園前と帰宅後に放送されている。

NHKアニメワールド なぜ? どうして? がおがおぶー

こういう啓蒙番組は昔から多い。「シマウマの体はなぜシマシマなの?」という問題が出て、白衣を着た先生風のキャラクターが明快な答えを教える。これが実にスパッと簡潔な答えなのだけれども、なにしろ相手が子供なので、「こういう理由からシマウマの模様がコントラストの強い縦縞であると生存に有利であったという説が現在は有力である」などとわかりにくいことをいう必要はなく、シンプルに断定的に教えるのが正しい。

教育論もどうでもよくて、この番組の面白いところは、そういう常識的な答えを教える前に、子供たちが必ず3つの荒唐無稽な「誤答」をするというお約束の場面だ。この誤答は本当に子供が考えたのではなくて、誰か大人が考え付いたのだろうが、正答なんかよりこっちの誤答のほうがよっぽど楽しい。そして、この頓知好きの大人が考え出した3つの誤答をよく聞いていると、どうやら2種類の答え方があるのに気がついた。

ひとつは「正答」と同じスタンスの答え方。「なぜ?」という問いに、「こうしたほうが有利だから」とか、あるいは便利だからとか楽しいからといった、ある目的のためにそうなっているんだという説明のしかたがある。「ゾウの鼻はなぜ長いの?」という問題に「友達とダンスを踊るため」という感じ。もうひとつ別のスタンスとして、「なぜ?」という問いに、「こうなっているから」という説明のしかたがある。「キリンの首はなぜ長いの?」という問題に「棒を飲み込んじゃったから」という感じ。

よく考えてみると、これは何も子供に限った話ではなくて、人間には質問に対する答え方にふたつの方向があることに気付いた。「なぜ?」というのは「何故?」とも書けて、これを漢文として読み下すと「なにゆえ?」となる。何か理由があってこうなっているのだろうから、その理由を知りたいという質問が「なぜ?」である。この「理由」というものの範疇としてどのようなものを想定するかで、人間には2つの傾向があるように思う。

ひとつは、いわゆる文系の人が属するタイプ。「なぜ空は青いの?」という問いに、「外に出て働いたり遊んだりしていいと教えるためだよ」というような感じ。これは、人は昼間に働いたり遊んだりすべきという考え方があって、人にこれを守らせるために世界が設計されているという前提がまずある。そういう目的があって、それに沿って理由を見つけるのが「なぜ?」に対する答えになる。

動物がある特徴を持っているとき、その理由を「そのほうが**がしやすいから」とか「**できるようにするため」という説明をしたり、それを聞いて満足できるのはこのタイプの人だろう。いわゆる理系タイプの人は、これでは満足しない。もちろん、子供の頃から繰り返し言われているようなことなら違和感を持たないだろうが、初めて感じた疑問にこのように答えられると、なんとなく腑に落ちないものを感じてしまう。そういう人は、この「なぜ?」にどのような答えを期待するか。

このタイプの人は、「なぜ?」という問いに対して、まず目的ありきの答えを望まない。こうしたいという目的があって、だからこうしたという答えを望まない。こういう場面で、目的はさておき、どのようにしてそうなっているのかという"How?"という質問に読み替えるように訓練されている。"Why?"という質問に関しては、その目的を意図した本人にしかわからない部分が残されるので、とにかく自分で調べることでわかる範囲にある"How?"という質問の範囲内で答えを見つけることを文化として守っている。

「なぜ空は青いの?」という質問に対して適切な答えは「レイリー散乱といって、空気の中にある目に見えない小さな塵が、青い光ばかり散らしてしまうから、昼間はその青い光が見える。夕方は青い光が抜けたあとの残りを見るから、空が黄色や赤に見えるんだ」というものだ。これならこのタイプの人たちは満足できる。

しかし、いわゆる理系でないタイプの人たちは、この手の回答には満足できない場合が多い。理屈が理解できないからという面もあるだろうが、それだけではない。「私は理由を聞いたんだ。それは仕組みであって理由ではないよ」という違和感を抱くだろう。"Why?"と"How?"のすり替えに気付いてしまっている。「理由」というものが、ある目的に向かった意思に基づくものだとしたら、空が青いことに「理由」などありはしない、と、いわゆる理系タイプの人は答えるだろう。

いわゆる理系の文化にある人々が信じる進化論というのもこれに似た解釈になっていて、世界は無目的に動いており、その無目的な働きによって生物は世代を重ねるごとに少しずつ変化する。そして無目的な淘汰によって子孫を残す事が出来る個体が限られることによって、長い年月ののちに統計的に見て生存に有利に働くような性質はより残りやすくなり、統計的に見て生存に不利に働くような性質は残りにくくなる。こういう機械的な働きによって進化が生じていると考える。

これにいわゆる文系的なエッセンスが加わると、あらゆる生命は淘汰を生き抜くための生存戦略を練っており、その戦略の結果として生命は様々な特徴を備えるようになった、というような表現になる。ここには目的と、その目的に沿った理由付けが存在できる。このほうが人間にとって理解しやすいので、いわゆる理系の文化を持った人もこういう表現を使う。けれどもそれはあくまで理解を助けるための「比喩」であって、本当にそうした戦略的思考があるなどとは信じていない。

これが完全にいわゆる文系の文化になると、DNAには意思があり生物の生存戦略を考えているなどというのは到底理解不能の全くもって荒唐無稽な考えであり、この世界を創造できるだけの能力を持った存在が、その知性によって設計したのが生物であると考えるのが正しい。というような理解の様式に変わる。世界には目的があり、世界の全ての現象はその目的に沿って「理由」による説明が可能になる。

「なぜ?」と「どうして?」は非常によく似ているけれども、そこには気付かないくらい小さな、しかしとんでもなく深い亀裂があって、「何を理由として?」というのか「どのようにして?」というのかというのは、実は前提からして違う。ただどういうわけか、私たちはその違いに気付かない文化の中に生きている。

「なぜ仕事で成果を上げなくてはいけないのか」と、「なぜ」を問うている人に、「どのようにすれば」仕事の効率が上がるかという方法を語っても響かない。「なぜ人を殺してはいけないのか」と、「なぜ」を問うている人に、「どのようにすれば」人の命を助けられるかを説いても響かない。「なぜ」に対して真摯に答えを探す作業が必要だろう。その過程で現代が抱えるいくつかの矛盾が見つかるかもしれない。

一方で、企業勤めでも科学研究でもそうなのだけれども、"Why?"に対する答えをどこかで放棄して"How?"に答えることにだけ徹すると、命限りある人間にとっては、はるかに幸せで強力な生き方ができるのも確かなのだ。なぜ人は勤勉に働かないのか。その理由を考えたり批判したりするよりも、どのようにすれば人は勤勉に働くようになるのかを考えて実行する。当面はそちらに傾注したほうが、お互いに強力かつ幸せな生活を送れるに違いない。なぜ勤勉に働かないといけないのかという疑問の答え探しを放棄して、どのようにすれば勤勉に働かなくても幸せに生きていけるかを追及する人があれば、それはそれで認められるに違いない。

そういう目で世の中を見ると、なかなかいいヒントが多数転がっているのに気付く。「なぜそこまでしてやらなくてはならないのか?」という疑問が気になるうちは気付かないのだろうけれども。
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by antonin | 2008-08-28 00:41 | Trackback | Comments(0)

理性とか

よくわかる。理性というものは最も複雑な感情である。
よくわからない。理性という感情は何によって生じるのか。

文藝春秋の1年前の読み残し最新号などを読んでいる。「日本の師弟89人」という特集がある。よく、特定の人を指して「師匠」と呼ぶ人がいるが、私にはそういう人がいない。直接学んで師と慕う人もいないし、書籍などを読んで勝手に師と仰ぐ人もいない。かといって尊敬している人がいないとか学ぶに値する人がいないなどということは思わない。自分以外のほとんどの全ての人は尊敬できる部分を持っているし、自分以外のほとんどすべての人は学びうる何かを持っている。けれども、特別の一人を挙げて師と呼べる人がいない。

両親であるとか、病院の医師であるとか、学校の教師であるとか、一般に尊敬でき感謝すべき人は多い。プルタルコスであるとか、リチャード・ドーキンスであるとか、塩野七生であるとか、その文章と考えに唸らされた人は多い。けれども彼らが私の師匠であるかというとそんなことはなく、私は弟子に値しない。彼らの文章を少しばかり読んで影響を受けただけだ。

文春の特集で、松下電産会長の中村邦夫さんが松下幸之助さんを師として文を寄せている。
 そして、社長を務めた六年間、社員とともに数々の改革を行ってきた。未曾有の困難や折々に重要な決断に迫られ、自ら考えに考え抜いても迷いが払拭されないとき、必ず「松下幸之助創業者であったらどうされるだろうか?」と自問した。

この箇所を読んで、どうも見覚えがあると感じた。確か、"El Sabio"マルクス・アウレリウス帝が、やはり困難に接したときに「先帝ならどのようにされただろうか」という言葉を残していたような記憶がある。手許にある「自省録」の文庫本を見てもそういう文句は見つからない。「ローマ人の物語」のどこかの巻か、あるいは「背教者ユリアヌス」あたりで読んだのか。

中村さんがマルクス・アウレリウス帝を意識したかどうかはわからないけれども、イエス受難後の使徒たちにしても、ガウタマ入滅後の結集で語ったアーナンダにしても、とにかく強烈に尊敬できる師を持った人というのは、その後の人生を師の言葉に従いながらに生きていけるものなのかもしれない。

私に師はないけれども、それがある種の弱さの原因であるのかもしれない。師というのは特定の人物であってもいいし、あるいは神のように普遍的な存在であってもいいのだけれども、感情的なものから自分を遠ざけなくてはならないときに、その苦心を誰も褒めてはくれないが、自分の心と共にある師だけは自分を褒めてくれる。宗教者やそれに似た人々の強さというのは、往々にしてこういうところに源流を発しているように思う。

私の信奉する科学というものには、これといった答えがない。もちろん、確固たる法則や手法は数多くあるが、それは決して普遍的なものではなく、ある前提に対しては正しく、また別の前提に対しては正しくない。目の前の複雑極まりない問題に対して、一定の方法と一定の答えを教えてくれるが、それが正しいかどうかは実証する必要があり、そこで確かめられた答えとは、次に否定されるまでの仮の答えでしかない。

理性が打ち勝つべき相手は感情であるのだけれども、恒常的な理性が場当たり的な感情に打ち勝つために必要な原動力というのもまた、善く在りたいという欲求であり、善く在った人に近づきたいという欲求であり、これもまた感情である。限りなく親しんだ存在に認められたいという欲求の感情が、存在の喪失後に必然的に内在化したものである。師や神が目の前に居ればこまごま問えばいいが、そうはいかない状況であれば、自分の裡にある「その人」の言動を思い浮かべることしかできない。これが自律の源流なのだろう。

他人の評価のために振舞うのは偽善であったり虚栄であったり阿諛追従であったりする。しかし、自分の中にしか存在しない人の評価を受けるために振舞うのであれば、それは克己心であったり矜持であったりするように見える。成熟した宗教の良いところは、既に歴史の中にある人や、天界にあって触れることのできない神を心の中に投影して活き活きと語るところにあるように思う。成員が皆同じ存在を仰ぎ見ていれば、そこに協調可能な自律分散システムが成立する。

あるときまで、この国の最高額面紙幣には聖徳太子の肖像があった。和を以って貴しと為す。あるときから、この国の最高額面紙幣には福沢諭吉の肖像がある。天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり。この国の中枢には慶応義塾の思想がある。この思想は行き渡っているか。この人は慕われているか。
 人の世を渡る有様を見るに、心に思うより案外に悪をなし、心に思うよりも案外に愚を働き、心に企つるよりも案外に功を成さざるものなり。如何なる悪人にても生涯の間勉強して悪事のみをなさんと思う者はなけれども、物に当り事に接して不図悪念を生じ、我身躬(みず)から悪と知りながら色々に身勝手なる説を付けて、強いて自ら慰むる者あり。また或いは物事に当って行うときは決してこれを悪事と思わず、毫も心に恥ずるところなきのみならず、一心一向に善き事と信じて、他人の異見などあれば却ってこれを怒りこれを怨む程にありしことにても、年月を経て後に考うれば大いに我不行届にて心に恥入ることあり。

耳が痛くて血が出そうだが、ともかく、このあたりに合わせておけば、昨今の日本人としてはまずまずというところか。他人の評価に頼らず、もはやここには居ない誰かを慕うことで、その辺りの誰彼と、まずまず自律分散しながら協調して生きていけるのか。

学問とは、結局のところ何なのだろう。
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by antonin | 2008-08-26 01:14 | Trackback | Comments(0)

残酷な天使のテーゼ

なかなか面白い言葉だと思う。これは「エヴァンゲリオン」というアニメの主題歌なのだという。私はそのアニメを一度も見た事がないし、主題歌もまともに聞いたことがないので、その意味するところは知らない。けれども、この一文を見ているといろいろと面白いことを考えてしまう。

テーゼ"These"というのはカントさんやヘーゲルさんが使っていた言葉で、ある命題が正しいと主張することだという。命題というのは、「現代の日本の状況ならば、増税して社会保障を厚くすると住みやすくなる」というような、理屈の部品を組み立てた単位を言う。これが正しいと主張するのがテーゼだ。

これに対してアンチテーゼ"Antithese"というのが出てくる。別に固有名詞ではないが、ドイツ語では名詞を他の品詞と区別するために、全て大文字で始めるというルールがある。アンチテーゼというのは、簡単に言うと反論である。上記のテーゼを否定して、「現代の日本の状況ならば、減税して経済活動を刺激すると住みやすくなる」という命題を主張する。

ヘーゲルさんによれば、これを少し高みに立って、どちらにも矛盾しないで、なおかつどちらの主張も汲むような結論を人間の理性により導く事ができて、それで人間社会はどんどんと進歩していくというような理想があるらしい。これには是非とも同意したいところだ。

「残酷な天使のテーゼ」と言った場合、残酷なのは天使なのかテーゼなのかというのは少し気になるところだが、とりあえず天使ではなくテーゼが残酷なのだとしよう。天使は良かれと思って社会保障を厚くすべきというテーゼを主張しているが、それは増税という残酷さを伴っている。天使は純真無垢であるがゆえに、自分の主張にある残酷さに気付かない。一方の悪魔は、自分に入ってくる利益に対する貪欲さから小さな政府を主張しているのだが、それは減税という慈悲深さを伴っている。

残酷な天使のテーゼに対して、慈悲深い悪魔のアンチテーゼが提出される。理性の究極であり、我こそは唯一神であると主張するヤハウェであれば、ここで一発アウフヘーベンして見せ、立派なジンテーゼを愚かなる人間に下賜してやらなくてはならないところだ。いや、神は試したらいけないんだっけ。

「余裕のあるところから税をとり、余裕のないところに回すという基本に忠実に、増やすべき税は増やして下げるべき税は下げる。役割を終えた支出は減らし、これから必要になる支出は増やす」という、ちょっと高い所に視点を持ち上げたご高説を考えてみた。私は神ならぬ人間なのでこの程度しか思いつかないが、まぁジンテーゼといえないこともないだろう。清濁を超越した神のジンテーゼは、いったいどのようになるのだろうか。

まぁあんまり実のある話をしようと思ったのではないのでこのあたりで終わりにするけれども、もう少し国家レベルの高い水準で考えて税制を設計できるような、優れたアーキテクトはいないものか。優れた税制の設計図を、アーキテクチャレベルと矛盾しないように省庁事業単位の詳細レベルまで適切に落としこめるような、優れたコンパイラはいないものか。詳細なレベルを、正しく実行できるオペレータなら日本にはたくさんいるはずだ。

自分で出来ればそれが一番なのだが、それはさすがに無理だろう。ただ天才の出現を期待するしかない無力感というのは、情けないものがある。
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by antonin | 2008-08-23 14:27 | Trackback | Comments(0)

夏の盛りを過ぎる

激しく雨が降って、それ以来涼しい。今年は良く晴れて暑い日もあったが、殺人的な暑さというのはなかったような気がする。それは日中、弱いなりにも空調の利いた建物の中にばかり居たからか。

春は青春、青いものらしい。夏は朱夏、赤いものらしい。暦の上ではもう秋。二十四節気は春分点と秋分点、夏至に冬至で四分される期間を更に六等分した期間となっておりだいたい15日ごとに節目がやってくる。現代では天文学的な観測によって、何月何日の何時何分ごろが立秋です、ということが言えるらしい。今年の場合、立秋は8月7日の午後12時16分頃(日本標準時)であったらしい。ちなみにあと数時間後の23日午前3時2分には処暑を迎える。

参考:「国立天文台 天文情報センター 暦計算室

人生にも青春というものがあるという。ならば、今はちょうど朱夏の盛りか、あるいはそれを少し過ぎたところだろう。夏が過ぎれば、次は秋。秋は白秋、白いものらしい。髪にも白いものが混ざるようになって、もう立秋くらいは過ぎているのかもしれない。夏には夏の、秋には秋の楽しみがある。特に秋というものは収穫の季節であって、おそらくそれは好ましい。

ところが、世の中には「アンチエイジング」などという言葉が跋扈している。あと30年先にまだ生きているとしたら、66歳になっているはずだ。30年後の自分にお願いしたい。アンチエイジングなどという奇矯なことは考えないで欲しい。齢を重ねたことを指して「春秋高し」というらしい。春秋の高じることを恥じることなく誇れるように生きて欲しい。六十六にもなって青春だのと、青二才の若造のようにあることを望まないで欲しい。

秋が過ぎれば冬が来る。冬は玄冬、黒いものらしい。故障続きの体を抱えてつらいだろう。しかし、冬の先には春が来る。輪廻を信じてもいいし、残した遺伝子が青春を迎えることを指してもいい。そういう達観のない、黒い冬はつらかろう。しかし、白秋玄冬にあって青春を嘯かず、普通に生きていればそれなりの幸せもあろう。夏には夏を楽しんだように、冬には冬を楽しんで欲しい。

前の家に住み始めた頃、線路の柵に巻きついていた朝顔の種を失敬してから8年が過ぎた。その翌年から毎年花が咲き続け、今年も青い花を咲かせている。今年の種の付きはやや低調だが、それでもこの朝顔は10月いっぱいは咲き続けるので、最終的には50個以上の種を残すだろう。冬になれば朝顔は枯れる。そしてどうなるかというと、種を残して肥やしとなる。来年のゴールデンウィーク頃には新しい芽が出て新たな青春を迎える。

秦の始皇帝はアンチエイジングを試みて徐福を東に放ったが、さてどうなったか。始皇帝は死に、兵馬俑が残った。しかし一方で、そんなものが卑小に思えるようなものを後世に残した。統一された文字と、統一された貨幣だ。文化の多様性は損なわれたが、政権の趨勢に関わらず、その後の中国はひとつの文字とひとつの銭でその後の二千年あまりを過ごした。その一部は日本にも及んでいる。その威力は大きく、塩野七生さんがなんと言おうと、中華文明はローマ世界に負けないだけのものを現代に残している。

何かを残すということも大事だけれども、その前に、四季折々の風情に接して楽しみを語れる、そういう人に私はなりたい。
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by antonin | 2008-08-22 22:13 | Trackback | Comments(0)


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