安敦誌


つまらない話など
by antonin
検索
最新の記事
仲介したことはあまりないが
at 2017-04-29 03:36
サンセット・セレナード
at 2017-04-12 23:17
水分子と日本人は似ている
at 2016-06-04 01:49
ほげ
at 2015-06-05 03:46
フリーランチハンター
at 2015-04-17 01:48
アメリカのプロテスタント的な部分
at 2015-04-08 02:23
卯月惚け
at 2015-04-01 02:22
光は本当に量子なのか
at 2015-03-17 23:48
自分のアタマで考えざるを得な..
at 2015-03-06 03:57
折り合い
at 2015-03-01 00:19
記事ランキング
タグ
(295)
(146)
(120)
(95)
(76)
(65)
(59)
(54)
(45)
(40)
(40)
(39)
(32)
(31)
(28)
(27)
(25)
(24)
(22)
(15)
最新のコメント
>>通りすがり ソ..
by Appleは超絶ブラック企業 at 01:30
>デスクトップ級スマート..
by 通りすがり at 03:27
7年前に書いた駄文が、今..
by antonin at 02:20
助かりました。古典文学の..
by サボり気味の学生さん at 19:45
Appleから金でも貰っ..
by デスクトップ級スマートフォン at 22:10
以前の記事

<   2008年 09月 ( 34 )   > この月の画像一覧

真秋の夜の夢

この世には二種類の人間がいる。Aとnot Aだ。

困った人がやってくる。not Aは言う。
「お前のような身も心も貧しい人間に施しなどするとこちらまで貧しくなる。二度と顔を見せるな」

困った人がやってくる。Aは言う。
「あなたのような貧しい人が声を懸けてくださったおかげで、私は自分の心の貧しさに気が付きました。これはわずかばかりのお礼です。どうぞお受け取りください」

なんていう短い物語は星の数ほどあって、Aもnot Aも、その表現は海に住む魚の数ほどある。どれもこれもそれなりの教訓を含んでいてありがたいのだけれども、詰め将棋の問題のようでもある。よく工夫されていて、いろいろと考えさせられるのだが、どれもこれも似たり寄ったりにも見える。

詰め将棋に喩えるような小話も、それこそ砂漠の砂の数ほどあって退屈なのだが、ときどき手詰まりになるような怪しい問題が紛れ込んでいる。ルールを変えなくては、その問題は解けない。そういう罠がまれに仕掛けられていて、砂漠というのは油断がならない場所である。

ルールを変えなくては解くことができないと長く信じられてきた問題があったのに、千年に一人の知恵者がやってきて、一夜にして問題を解いて去っていくことさえある。世の中というのは実に油断がならない。そして、世の中は深遠で人知の及ばないものであるという警句もまた樹林の松葉の本数ほどもある。

松葉の中を顕微鏡で覗くと多数の細胞があって、それぞれの細胞核の中にはDNA鎖が泳いでいる。その細胞を液体窒素温度で瞬時に冷凍して細胞をスライスし、電子顕微鏡を高めの加速電圧にして透過像を観察すると、二重膜構造をとったリン脂質による球状組織を見つけることができる。細胞核に寄り添って漂うその矮小な組織を拡大して観察すると、そこに私の顔が映っている。おお、そんなところにいたのか私は。

こうなるとだいたい世の中に飽き飽きしていて、生まれたばかりの子供を抱いた重みが腕に掛かるのが心安らぐ。徳光和夫さんみたいな顔をしたこの赤ん坊が、ときどき顔を真っ赤にしながらも平然と腕の中で目をつぶってうにゃうにゃと動いているのを見ると、結局はこういうことなのだろうな、となる。

こういう着地点もまた港の数ほどにあって、港に停泊中の船乗りたちは束の間の休息を最大限に楽しむのだという。秋の夜の夢にしては少々暑苦しいように思う。
[PR]
by antonin | 2008-09-28 23:30 | Trackback | Comments(0)

デキルヤツノ証明

母さん、僕のあの麦わら帽子、どうしたでしょうね。

--

NikkeiBPにひどい連載があった。

デキルヤツノ条件:NBonline(日経ビジネス オンライン)

これである。最終回でデキナイヤツ扱いされて怨んでいるように見えるかもしれないが、全くそのとおりであり、正しい。大体において怒りとか怨みとか強欲とか、そうしたどうしようもなく下品な感情がなければ、人間というのは大きな仕事をできないものである。小泉元首相が郵政事業の民営化に血道をあげたのも、この著者にこの連載を書かせたのも、似たようにジメジメとした情念に違いない。

だいたいにおいて、煽り文句に激昂する人間というものは心に余裕がない。私もその一人である。生きるということに明確な意味を見出すことができず、実存だかなんだか、そうした霞のような疑問の中で日々生きている。そこに、たとえそれが芸であったとしても、無神経な情報に接して激昂する。心に余裕がないのである。

人間というもの、免疫というのを持っているが、これに余裕がなくなると、アレルギーを起こす。ダニの屍骸にアレルギーを起こす人もいれば、牛乳やそば粉、果ては小麦などにもアレルギーを起こす人がいる。これは現代病であり、泥んこになって遊んで鼻水垂らせばそんな病気にはならないもんだ、という意見を外野から言うことはできる。けれども実際に日々のアレルギー症状に苦しんでいる人からすれば、明確な表示もなくこれらのアレルゲンを混ぜ込んだ食料には大変ひどい目に遭わされる。

心に余裕がない人々についても事情は似たようなものであり、若いうちに軍隊にでも入って上官にしごかれたような人間にはそういう狭量な人間はなかったものだといわれれば確かにそのとおりかもしれない。けれども、格差社会の中で自己責任論だけが声高に叫ばれる現代にあって、ちょっとした言葉や表現にアレルギー発作を起こす人が少なからずいる。このコラムはそうした人々をからかって遊んだ、実に悪質なものである。

最後までこの著者は読者との戦いを続け、便辟、善柔、便佞という三友に勇気付けられながら連載を続けてきた。しかし、敵は多かった。そこで筆者は傷つき、読者をあおりながらも「俺をいじめないでくれ」と必死のアピールを続けた。そしてそれは最終回まで変わらなかった。敵の大部分は単なる敵だっただろうが、その一部は友直、友諒、友多聞であったはずだ。しかしそれは最後まで伝わらなかった。

「デキルヤツは人を不幸にしない」という、楔文字で書かれた格言を現代語訳したのではないかという結論で完結したが、果たして彼は誰かを不幸から救っただろうか。傷を塩で揉んだりはしなかっただろうか。私は、他人を不幸にしない人間というのは、まずは自分を不幸にしないと考える。果たしてこの連載中、著者は幸せであっただろうか。数十万PVに枕を高くして眠っていただろうか。

おそらく、そうではなかっただろう。だから、彼の書くものには己の不幸がにじみ出ていて、したがって読む人を不幸にした。著者のされていることを、自分もされたら嫌だろう? という実験をしたかったようだが、人情話が大好きなこの著者は、結局自分が耐え切れずに軋んだ文章を撒き散らして終わった。確かにPVは増えた。便辟、善柔、便佞の徒は多数集まり、応援してくれた。けれども、一番深く傷ついたのは著者本人ではなかったか。その過程で、多くの人が巻き込まれて傷を負ったのではないか。

あのコラムの文章は複雑に屈折していて読みにくかった。それを読めない者を馬鹿にしてこき下ろすことがこのコラムの主題と化していったが、それは醜い結末であった。美しくブリリアント・カットされたダイヤモンドの輝きは、その美しい屈折と反射による効果だが、偽ダイヤモンドであるジルコニアでは、屈折した像が二重にひずむ。この複雑な屈折を複屈折という。あのコラムもまた、非常に複雑な複屈折の輝きを見せる偽ダイヤモンドのように見えた。美しく研ぎ澄まされた、しかし偽ダイヤモンドの輝きであった。

人を批判するという行為の汚さについて、読者自身が攻撃されるという疑似体験でその汚さを実感し、結果として美しく昇華するというのが、あるいは著者の目的だったのかもしれない。しかしコラムは疑似体験を超えた汚い攻撃の嵐となり、器に余裕のない多くの読者を不幸に陥れた。そして何より、著者の精神が次第に複屈折を見せるようになっていった。皮肉というのは良い薬であるが、それは寸鉄人を刺すようなものでなくてはならず、ネチネチと連載するようなものではない。用量を守らない多量の薬は人を死に至らしめることもある。

冗談なのだが、最後にこれだけは付け加えておきたい。ここで簡単に言ってもわかりにくいだろうから、詳しくは安敦誌の過去ログ全文を読んでから判断して欲しい。そうすれば私の真意が理解できるはずだ。デキルヤツならば、という条件付だが。この程度の短いコラムがたった500編ほど書かれているに過ぎない。たいした分量ではないから、すぐに読めるだろう。面倒なら「雑感」タグの100件あまりでいいだろう。

といって、著者にこんな場末の意見は届かないだろう。届いたとしても、それまでだろう。世の中そんなものである。

--
(追記 2008/10/01)
えー、あー、内容に大きなミスがありました。記憶違い。遠い昔に覚えた知識でしたが、あとで調べてみたら全然違っていました。でもまあ、あの記事へのツッコミとしてはこれも面白いのであえて間違いのまま残しておきます。
[PR]
by antonin | 2008-09-28 00:25 | Trackback | Comments(3)

屁はなぜ臭いのか

屁は臭い。それはなぜか。

原理的に言うと、屁にはある種の有機化合物が含まれており、それは人間の嗅覚が特に高い感度を持つような分子構造をしているために、感知されやすい。それは哺乳類の中では比較的嗅覚が鈍感であるとされる人類でさえ、体積比で言えばppb、つまり十億分のいくつという割合で空気中に含まれる有機化合物でさえ判別可能なのだという。具体的には、窒素と硫黄を含んだ分子が特に臭い。

例えばアンモニアは哺乳類の尿に含まれる尿素が分解されてできる物質であり、これは窒素原子と水素原子でできている。尿素自体はほぼ無臭であり、同時に無毒である。一方のアンモニアは哺乳類の生体にとって有毒であり、同時に強い刺激臭がある。高濃度では刺激臭だが、低濃度では漠然と臭い匂いになる。尿の汚染が主である男性小用便所の悪臭はだいたいアンモニア臭が原因である。

アンモニア分子ではひとつの窒素原子に3個の水素原子が結合しているが、それがメチル基などのあまり質量の大きくないアルキル基で置換されると、そのアルキル基の数に応じて1級から3級のアミンになる。この3級アミンなどは生魚が腐ったような臭気となり、衣服などにも染み付いて非常に臭い。「生魚が腐ったような」と形容されるとおり、ある種のタンパク質が微生物によって分解されると、このアミン類分子が発生する。アミン自体も弱い毒性があるが、どちらかというと微生物による分解の過程で生じる副生物に毒性の強いものが含まれることが多い。

また、哺乳類の肉などが腐ると、メルカプタンなどの硫黄を含む低分子量有機化合物が生じる。これも臭い。身近なところでは、本来無臭である都市ガスに漏洩感知のための悪臭を付加するのに使われているのが、このメルカプタン類である。これも自然界においては出どころがタンパク質の腐敗分解であるので、窒素と硫黄の両方を含んだ有機化合物なども存在し、これは強烈に臭い。

そして、タンパク質ではなく糖類が微生物分解されると、アルコールやアルデヒドや脂肪酸などが得られる。微生物分解によって得られるアルコールで最も一般的なのはもちろんエタノールで、これが酸化するとアセトアルデヒドとなり、さらに酸化するとエタン酸、つまり酢酸となる。これも臭い。酢酸は窒素も硫黄も含まないが、それでも高濃度ではアンモニアに似た刺激臭が伴う。

脂肪酸類もまた糖や脂肪が微生物によって分解が進んだことを知らせる指標であり、酢酸そのものは無害であるとはいえ、そこには他の微生物由来毒物が混ざっている可能性も高い。だいたい、こういう腐敗毒性を生理的に知らせることを目的として臭覚というものが進化発達したと考えるのが合理的である。

屁は臭い。それはなぜか。それは、人間の排泄物である大便には有毒な代謝排出物の中に多量の微生物が繁殖しており、大腸壁しか直接の接触に耐えられないような毒性も持っている。そんな「毒物」である大便から立ち昇ってきた臭気が屁の正体である。これが臭くないわけがないのだ。

ただし、文明が発達した人間界では、毒性を持たずに特定の微生物のみを繁殖させて食物を分解させる醗酵という技術が進んできているから、本来は臭気に分類されるような脂肪酸やアミンやメルカプト、さらにはどれも全て合わせたような含硫黄アミノ酸などでさえも、それを「旨味」のサインとして受け取ることができるようになっている。たとえば酢の匂いであり、例えば納豆の匂いであり、例えばくさやの匂いである。

子供は本来こういう匂いを好まない。これが先天的な危険告知情報なのであるが、学習要素、つまりは慣れなのだけれども、うまい味と臭いにおいを同時に感じるという体験を繰り返すと、ついには臭いにおいが旨味を連想させるという感覚が生じる。これを指して大人の味覚とすることができるだろう。

だいたい似たようなことは味覚そのものにおいても生じていて、辛味、苦味、渋味などはどれも動植物由来の毒性を検知するための信号だったのだけれども、辛いが毒はない、あるいは苦いが毒はないというような食品に慣れ親しむに従い、先天的には嫌うべき辛味、苦味、渋味などがそれぞれ独特の旨味成分として解釈されるようになった。これもまた大人の味覚と言うべきだろう。子供が昔ながらの臭いトマトやニンジン、あるいは苦いピーマンなどを嫌うのは道理にかなった生理反応なのである。

大人とは、このように生理的危険感覚を積極的に無視することによって、その知覚世界を広げてきた生き物なのである。直感的には毒性を予感させる味わいなのだが、知恵を使ってよくよく調べてみれば、毒性を感じさせるような味わいの中にも、実は毒性を持たないものがあり、またそれに慣れきってしまうと、子供には知ることのできない深い味わいの世界というものが開けてくる。

裸の王様を見て、「王様は裸だ」と見たままを口にするのは子供の無粋なのであり、「おお、色艶といい、その風合いといい、実に見事なお召し物にございます」と言えるのが大人の知性というものなのである。そこに毒気があって死んでしまえば馬鹿であるが、毒気さえ無ければそれは大人だけの深い味わいを持つ世界なのである。苦味と渋味という有毒警報を感知しながら、その感覚に打ち勝って有毒か否かを知識と経験によって見極めるのが大人なのである。

屁は臭いのだが、それで「くっさーい」などと大騒ぎをするのは若い娘だけで十分だ。大人であれば、それが宿便のサインなのであるか、あるいは過敏性大腸症候群のサインなのか、あるいは急性食中毒のサインなのであるか、あるいは健康な乳酸菌類が順調に育っているサインなのかといった、そうしたものを読み取ろうと積極果敢に屁のにおいを嗅ぎに行かなくてはならない。それが成熟した大人の嗜みというものである。

とは言いながらも、腸内細菌の比率を言い当てようとして侃侃諤諤の議論をしながら、屁の匂いばかりを競い合って嗅いでいる大人というのもまた見苦しい。たまには花の香りでも嗅いで、甘いバニラアイスなどを食べてみてもいいだろう。養生の基本はなにごともほどほどに、である。
[PR]
by antonin | 2008-09-27 22:46 | Trackback | Comments(0)

「いっそ小さく死ねばいい」の働き

これは、あるいは理解されない意見だろう。

--

かつてこういう議論があった。「いっそ小さく死ねばいい」というのは単なるフレーズであって、そんな木を見ないで森を見ろ、ふてぶてしく生きろということが書かれているじゃないか、という。確かに、理屈としてそれは正しい。精神論として、小さなことにくよくよせず、明るく前向きに、カッコ悪くてもいいからとにかく生きていこうじゃないか、その先にはきっと希望もあるさ。それは論として正しい。

知っている。もちろんそんなことは知っている。理屈としては知っているのだが、実感が伴わない場合というのがある。確かにあるのだが、しかしそういう感情というものは、それを経験したことのない人間にとっては決して理解できないものなのだろう。ほんの些細な言葉に落ち込むことがある。あるいは激昂することがある。無論、あとになって自身でそれに苦しむことも多い。

それは理屈としては知っているけれども、あるいは子供の頃には経験したことがあるけれども、大人になればそんなことはなくなるだろうという実感。その実感に基づけば、些細なことに過激に反応するということは行いが悪いだけであり、知恵がないだけであり、それは説得によって簡単に変えられる。そう実感している人もまた、世には多いのだろう。素晴らしいことではある。

しかし、現実はそんなに甘くはない。感情というのは脳の最も古い部分に直結した働きである。理性によってちょっとした細工をした程度では改まらない。古い部分の働きであるから、先天的なものの影響も大きい。しかし、そんなものを口にしてもそれは恥ずべき言い訳にしか聞こえない。それは行いが悪いだけであり、知恵がないだけであり、それを改めないのは本人の罪悪である。早く改めろよ。そういう話になる。

「いっそ小さく死ねばいい」に、特段に不快感を持たない人が多い。それが大半であるが、多くの人は眉をひそめるだろう。ただし、それ以上の反応はしない。それが正常である。しかし一部の人は、過剰に反応する。「いっそ死ぬべきだろうか」「いや死ぬべきではない」という葛藤と共に何年も暮らしてきた人がいる。感情の激昂を防ぐのに大変な困難を伴う器質的特徴を持つ人がいる。それを耐えるために服薬が欠かせないような人がいる。そういう人に向かっても、「最後まで聞いて欲しい」「自分はみんなに幸せになって欲しいだけだ」という言う人がいる。きっと本心からなのだろう。そこに悪意はない。ただ、感覚的欠如があるというだけだ。

かといって、そういう歌詞を禁止すべきだとも思わない。それはそれとして存在してかまわない。ただ、それを聞くべきではない人に対しては、しっかりと遮断されているほうが、世界はより幸せになるだろう。世の中には蕎麦アレルギーがあって、そば粉を含んだ食品を食べたり吸引したりすると、激しい発作を起こす人がいる。しかし、蕎麦が危険物質として禁止される筋合いはない。それと同じだ。ただ、アレルギーなど甘えだ都会病だと罵って済むのかといえば、そうとも思わない。

現代は急激に情報流通が活発になった時代であり、本来接触すべきでない異文化が盛んに交雑している。そういう中で「混ぜるな危険」という関係にある文化が接触して「炎上」を繰り返しているのだろう。将来的には、そうした不適当な交雑は極力避けられるようなシステムが育ってくるだろう。しかし、それにはまだ時間が掛かる。

私は本来、「素晴らしき日本語の世界」などという特集が組まれている雑誌を読むべき人間ではなかった。それが、軽率にも読んでしまったというところにそもそもの失敗があった。世の中には知らなくていい情報というものがあり、また知らないほうがいい情報というものもある。それは薬にもなるが毒にもなり、やはり用量と用法を正しく守らないと副作用で健康を害してしまう。

「知の欺瞞」という本があるが、理工系の人間は本来、現代哲学の書き物などを読むべきではない。それを読んでしまったところにソーカルさんの悲劇があったのだろう。これは自分にも戒めとしたい。しかし、毒もまた用量を守れば薬となる場合もあって、まぁ程ほどに接していくのが養生の基本というところなのだろう。とりあえずNikkeiBPのサイトは巡回先から外した。

基本的に、快活に愉快に生きているほうが本人もまわりも幸せだ。ただ、どうしてもそうはならない場合もあって、そういう者もあるということは、もう少し知られてもいいかもしれない。基本的に現状どおりの言論があっていい。むしろもっと自由でいい。ただし、それは似たものコミュニティの中に適切に閉じていなければならない。しかし枠を越えなくてはならない状況というものもまた一方にあって、その匙加減は非常に難しい。

明日から遅い夏休みで4連休。本など読まずにゆっくりとしたい。
[PR]
by antonin | 2008-09-27 03:50 | Trackback | Comments(0)

考える葦

「よかった、死んだ子供はいなかったんだね」というのは記憶違いで、「よかった、病気の子供はいないんだ」というのが正しかった。しかもこれ、蒸留酒のCMなのだという。くそぅ。またあれか。

古典を読み始めたきっかけというのはいくつかあるのだけれども、自分で考えて考え抜いて出した答えが、有名な古典にさもあっさりと書かれていることがあって、しかもそれは自分の答えよりもはるかに洗練されていて隙がなく、挙句に自分が生まれるよりもはるか以前にその古典は書かれていた。それを見てひざが折れたような感覚を持ったのが最初だったと思う。

ただ、歴史上の偉人というのは神のように完全無欠な人ばかりかというとそういうこともなくて、思索の果てに狂って死んでしまう人とか、宗教に逃げて安楽に人生を終える人などもいて、まぁそんなものだろうね、と思う。

デカルトなどは当時手に入ったような書物は古典から俗物まで読みつくしたと豪語していて、なるほどそうかもね、と思わせるような視野の広がりも見せれば、我思うんだから我在るんだろうよ、というところまで懐疑の井戸を降りてみたり、浮上してきたかと思えば数理科学の論文を何本も書いてみたりする。それでいてキリスト教会を怒らせないような腹芸も見せる。この人はかなり完全な人だが、それでもお姫様にお呼ばれした地で寒さに負けて死んだりしている。

デカルトに近いところにいたパスカルさんは、そういう理性の勝利を横目に見ながら、なんだか腹芸に疲れて、人間は考える葦であるなんて言いはじめる。考えるからすごいんだけど、弱い葦草みたいなもんだよね、と弱音も見せる。きっちりした構成の書物を書き上げられなくて、随筆の束を残して世を去る。理性と感情が繰り広げる腹芸に翻弄されて辟易したのか、晩年はヤンセン派の信仰に没入したりして、いろいろとお疲れだったのですね、などと同情したくなる。

いろいろと考えるが、たいていの問題の答えははるか以前に提出されていて、自分がそれを改めて考えているのは単なる無知に過ぎない。もちろん、問題が理解できていないと答えのほうも理解できないというような事情はあるにしても、まぁだいたいは古典を読み漁ったほうが手っ取り早い。考えても考えてもその先に先人の成果があって、うんざりしてくる。猿が雲に乗ってどこまで飛んでみても御釈迦さんの掌の上だったりして、まぁそんなものだろう。

という具合なので、古典は読み続けているのだけれども、古典を読むよりは自分で考えることのほうを優先するようにはしている。その答えは先人の答えの劣化コピーであったり、ときには大間違いであったりするのだけれども、それはそれでいい。自分の答えを持っているほうが、答え合わせというのはどちらかというと楽しい。

三島由紀夫あたりは本当に死んでしまったけれども、ローリングストーンズあたりはいい歳してまだロックをやっている。別にどちらでもいいんじゃないか。最近では軌道エレベータをカーボンナノチューブで実現するための理論考察などが行われているようで、実に楽しそうだ。そんな具合でいいんじゃないだろうか。
[PR]
by antonin | 2008-09-23 10:57 | Trackback | Comments(0)

メディア・リテラシー

なんとかリテラシーというと、あるものを利用するのに必要な、最低限の知識を指す。ネットリテラシーというと、ネットを利用するための技術的な基本知識や、ネット上に存在する悪質な罠に騙されない知識、それにネット上にある言論の信頼度や品質を見抜くための判断基準などがこれに含まれる。

つい数時間前まで、メディア・リテラシーというと、大手のモノは特にこれを信用しないことだとばかり思っていた。だが、そうとばかりも言っていられないのかもしれない。アリゾナにはUFOが出るなんていう馬鹿騒ぎをするわけだけれども、それでもそういう馬鹿騒ぎをすることで、少なくともアリゾナで撮った未確認飛行物体の写真や、現地住人の証言の断片を3大ネットワークのテレビ放送に載せたりすることができる。

アホ臭い陰謀論として書くと、たいていの人は無視するし、アホ臭さゆえに権力からの圧力なんかも少ないのだけれども、しかるべき人が読めば、その嘘くさい内容の中にちりばめられた真実を濾し分けて読み取ることができる。

特別会計だの特殊法人だのというのは、まずまず日本の癌である。なのだけれども、それを直截に国会などで弾劾したりすると、殺されてしまう。そこでどうやるのかというと、ヒステリックな狂人のふりをして、アホ臭い狂言としてあることないことないまぜにして書く。すると実に信頼度の低い情報となるのだけれども、その中の信頼度の高い部分が、しかるべき人には伝わる。砂に混ぜられた砂金のようなもので、数の少ない、だがしかるべき人に金の部分が伝わることで、書いた人の目的は十分に達せられるのだろう。

新聞やテレビなども、もはやアホ臭い内容ばかりで目を覆わんばかりなのだけれども、その信頼度の低い内容が、もしかすると二つの事実を語っているのかもしれない。ひとつは、玉石混淆になった中の、玉。もしかすると、ケネディ事件の真相にしても、911の真相にしても、そういう狂った体裁をしつつ、すでに十分に世に伝えられているのかもしれない。よくよく探すと真相に至るだけの情報量はメディアを通じて世間に流されているのかもしれない。

そしてもうひとつは、玉を石に混ぜ込まざるを得ないという事実。テレビや新聞の惨憺たる状況そのものが、惨憺たる何かが別に存在するということを間接的に物語っているのかもしれない。そしてそれらの事情なども、「縦読み」式に暗号解読すると、案外に情報としてメディア上に踊っているのかもしれない。

これはもう、実に面倒な世の中としか言いようがないのであるが、アホ臭い政府白書なども丁寧に読み解くと、優秀な官僚を取り巻く圧力のあれやこれやなどが、直截ではなくもっと高度な芸当として詠み込まれているなんていうこともあるのかもしれない。いやそれは実に面倒な世の中だとしか言いようがない。

メディアが現実との妥協の産物として、あのような下らない内容を垂れ流さざるを得ず、それでいてなおかつ、明らかに嘘くさく疑わしい内容のニュースをあえて流してみるようなあたり、実はそれが知恵の回る文章家にしかできない芸当なのかもしれない。よくよく眉に唾しながら読んでみれば、実は重大なことがあれこれと書かれているのかもしれない。

けれどもまぁなんというか、世の中って面倒なものだよなぁ、という実感からすれば、そんなこともあるだろうよ、などと思う。李白が酔っ払いのふりをして政治を批判してみせたりして、まぁまぁそういうことは現代にもあるのだろう。

ネタにマジレス、カコワルイのであって、メディアが日々垂れ流す釣りネタなんかにマジレスせずに縦読みしたりすると、それを厨房ならざる大人のメディア・リテラシーというのかもしれない。将棋も囲碁も面倒で投げ打つような人間にとっては、そんな腹芸に付き合うのは実に面倒極まるのだけれども、まぁそろそろ大人でもありますし、そういう芸当なんかを練習してみても悪くはないのかもしれません。紙新聞でも購読してみようかな。
[PR]
by antonin | 2008-09-23 09:26 | Trackback | Comments(0)

釣りとか

個人的には釣りなどを嗜まないのでよくわからないのだけれども、あれは魚との騙しあいの駆け引きが楽しいのだという。網で根こそぎすくってはダメで、たらりと糸を落として、あまり魚も多くなさそうなところで、日に何匹かの珍しい魚を釣り上げるくらいがちょうどいいのだという。盛大に釣られる雑魚よりは、なかなか吊り上げられない大物を釣ったときに胸がすくのだというし、なんというか面倒な世界だなぁ。

確かにまぁ2ちゃんねるなどを見ていても、「釣りだろ」なんていう文句を日常目にするし、空気を読める諸氏は普通に釣り餌を見分けたりしているのだろう。私は空気の読み具合に関しては最低点なので、それは盛大に釣られる。でも雑魚だろう。

いやまぁ、「あの人」が釣りだったら、「よかった、死んだ子供はいなかったんだね」的な安心感があって、むしろそっちのほうが喜ばしい。そう願いたい。最終ページだしね。でもなんだ、一言だけ言わせてください。「バカヤロー」

しかしまぁ、なんというか、世の中というのは面倒なものだ。特に人間というのは面倒なものだ。人々が三次元嫌いになるのも全く理解できる。紙にさらさらと絵を書いて、この中へ入れ、蚤も虱もいないから、というような一休さんのようなことを主人公が言う場面が草枕にあって、もちろんヒロインはそんな言葉に取り合わない。これは大物だ。

ただ、落とし穴に落ちて泥んこになったりしても、笑ってしまえば楽しい部分もあって、なぁんだ釣りかよ、なんて笑ってみると釣られてみるのもまんざらじゃなくって、つまりはまだすれっからしじゃない自分に喜んでみたりする。常々老いることを肯定していて若くあろうとすることを否定している身としてはなんだかくすぐったい加減ではあるけれども、まぁいいじゃんよ。
[PR]
by antonin | 2008-09-23 06:09 | Trackback | Comments(0)

書くという病

そこそこ文章は読んでいるが、考え事が巡ってしまって読書が進まない。草枕にしても、ようやっと3割程度読み進んだだけだ。今までに読んだあれやこれが、頭の中で巡り巡って、想念になって渦巻いている。異常なほどに気の散った文章を書き散らしているが、これでも想念の半分にも満たない。

雲雀は屹度雲の中で死ぬに相違ない。登り詰めた挙句は、流れて雲に入って、漂うているうちに形は消えてなくなって、只声だけが空の裡に残るのかもしれない。

前の職場では、遅い春の昼休みに漠然と工業団地の空き地を散歩していると、ひばりの声だけが聞こえたりした。ただ声だけがして、その声のほうを見るのだけれども、姿が見えない。しばらくすると声が変わって、急降下して空き地の草の上へと降りてくる。そしてまた忘れた頃に、歌いながら旋回しながら、また空高く上って空のまぶしさの中に消えてしまう。なんだあれは。

あまりに下らない、誰も読まないような書き物ばかりして夜更かししても、いずれはwebの中で死んでしまうのかもしれない。書き詰めた挙句は、流れてutf-8に乗って、漂うているうちに形は消えてなくなって、只言葉だけがネットの裡に残るのかもしれない。

ただ救いというものはあって、幸いに仕事には集中できている。現代的とはいえないCのコードを書いて、ちょっとしたアイデアとチューニングで出力精度と処理速度とメモリ消費を鼎立させたりして喜んでいる。こんなDOS時代を髣髴させるようなチマチマしたコーディングが許されている場というのは、現代では稀少だろう。こういう作業をしているときには、液晶にやられて目が痛いという以外の苦痛がない。

生きるために働く。食うためにではなく、休むために働く。職場では子供を抱っこする必要もないし、無駄な思索に脳を疲れさせる必要もない。どこかの教授にヘッドギアを付けられてテトリスをやっていた学生のように、雑念を払って集中しながら仕事をしている。ゲーム脳ならぬ、プログラム脳になって、呆けている。いずれは管理職的業務や営業職的業務などの人間味あふれる仕事も回ってくるのかもしれないが、まだしばらく猶予があるだろう。

書くという行為はもはや病気の症状でしかないのだけれども、この歳になるとそろそろ持病との付き合い方というものにも慣れていく必要が出てくる。歴史に名だたる偉大な文筆家に比べれば、質・量ともに屁のようなものなのだけれども、糞のような脳にはこれでもなかなかに負担が大きい。博士前期課程が最低要件だとして、あと24年掛かる。まぁぼちぼち養生していこう。
[PR]
by antonin | 2008-09-23 04:48 | Trackback | Comments(0)

来たるべきユビキタス時代に向かって

いまさら「ユビキタス」なんて言ってみても全く新鮮な感じがしないが、ある用語に味がなくなるということには2種類の現象が含まれている。ひとつは、計画倒れ。ユビキタスなんて騒いだけど、結局実現しなかったね、という場合。もうひとつは、陳腐化。ユビキタスなんて騒いだけど、もう当たり前だからわざわざ語るまでもないね、という場合。ユビキタスはどちらだろう。

個人的に、後者だと思っている。もちろん、バーチャルリアリティのようなSF的な夢物語を描いた研究者たちは、あまりに地味な現状に満足していないだろうが、これこそが地に足の着いた普及技術というものだ。マルチメディアだの高度情報化社会だのというものは、もうすっかり現実のものとなってしまって、わざわざ特別な用語を持ち出すまでもなく、誰もが理解できるようになった。

一台の電話機が、音声だけでなく文字情報や静止画像や動画などを双方向に通信し、それも同期通信と非同期通信の双方に対応している。地下街から観光登山の登山路までそのサービスは及んでいる。そして、携帯電話端末は近接非接触通信を利用した電子マネーシステムを取り込んで、チャージによる小額決済、クレジットカードによる信販決済、普通預金口座による銀行決済と、段階的な応答時間を持った決済システムを取り込んでいる。これが地に足の着いたユビキタス社会の姿である。

そして、こうしたユビキタス社会を支えているインフラが、携帯電話網である。携帯電話網のラスト・ワンマイルはUHF帯の無線通信だが、そのバックボーンは光ファイバによる交換網である。これが固定電話の交換網や電話会社独自のディジタルデータ網に接続しており、ゲートウェイを通じて公衆IP網に開いている。そして、こうしたインフラ網が世界一発達しているのが、狭い国土と、高い人口密度と、高いGDP水準と、高い産業技術水準と、消費者の高い教育レベルを全て併せ持った日本社会である。

その日本社会で世界最先端のユビキタス社会を支えている携帯電話端末が、世界水準から浮き上がった進化をとげていることに対して、よく「ガラパゴス化」という表現が使われるが、これはアナロジーとしてはあまり適切ではないだろう。ガラパゴス島の生態系は、絶海の孤島という閉じた世界で大陸とは違った進化が起こっているという意味では日本の実情を表しているが、日本の情報社会はガラパゴスの生態系よりはるかに規模が大きい。

日本で生じている現象は、世界最先端の現象である。日本の携帯電話端末で生じている競争は、世界で最も熾烈である。この開発戦争に巻き込まれて、少なくない技術者が比喩ではなしに死んでいる。日本発の携帯電話機は世界で成功してはいないが、それがなぜかといえば、日本市場の中での競争があまりに苛烈であるために、国内競争を捨ててかからない限り海外での鈍重な市場の相手ができなかったからである。日本市場を捨てたのは、現状ではソニーだけである。

しかし、日本市場が最先端を走る時代は、間もなく終わりを迎えようとしている。私が一番欲しかった機種であるN905iμは、日経エレクトロニクスの最新号などを読むと、どうやら売れ行きが芳しくなかったようである。その理由は、私が高く買った「ワンセグ機能無し」という部分が、市場から否定的に受け取られたかららしい。つまり、ワンセグ機能には日本市場における「拒否権」があったということになる。

拒否権を持つ機能が搭載されていない機種は、売れ行きが劣る。昔ならば、住宅街の外れであるとか、都心の地下街であるとか、そうした場所でも電波が通じるということが、強い拒否権を発動する機能であった。他がどんなに良くても、この機能が欠けてしまえばその機種の価値は台無しになってしまう。ワンセグテレビの受信機能は、そうした拒否権をもっていることが判明した。

iPhoneなども、好事家たちの前評判の高さとは裏腹に、結局のところワンセグや電子マネー機能などの「常任理事」機能を欠いたために拒否権が発動され、売れ行きは低い水準で頭打ちになった。しかし、日本で拒否権を発動する「常任理事」機能としては、ワンセグあたりが最後になるのではないか。「全部入りケータイ」が出たということは、逆に見れば「これだけあれば十分」ということも意味するのではないか。

市場は飽和し、量的拡大は終結した。機能は飽和し、革新的機能が追加される余地は非常に少なくなった。今後、通信速度やエンターテイメント機能が追加されたところで、そこに拒否権は生じないだろう。あってもいいが、別になくてもいいような機能として認知されるだろう。市場の構造が変わった。技術も変化していくだろう。通話、メール、アプリ、簡単なwebアクセス、音楽や動画の再生、カメラ撮影、そしてワンセグテレビ。これら常任理事機能たちが、これからしばらくこの世界を支配していく。

先号の日経エレクトロニクス誌の特集タイトルが、「ケータイが迎える種の爆発」というものになっている。しかし、世界的に見れば確かにそうした種の爆発がこれから起こるのだろうが、日本でそれが起こる可能性は非常に低いように思う。もし日本でそれが起こってしまうとすれば、それは非常に悲観的なシナリオとなる。

本棚にはグールドの「ワンダフル・ライフ」があるのだが、まだこの厚い文庫本まで読書の手が回っておらず、冒頭文しか読めていない。したがってバージェス頁岩の生物群については十分な知識がないのだが、仮押さえの知識からすると、生物の爆発的多様性の発生には、おもに二つのシナリオがあるように思う。

ひとつのシナリオは、全く新しい進化的な「大発明」が起こった場合である。それまで全く影も形もなかったような新規システムが誕生した場合、それらは従来存在していなかった生存領域に爆発的に量的拡大を見せる。この量的拡大の過程で、進化スピードの揺らぎのために多様な生物が発生するが、そのどれも互いにあまり干渉することなく、未開の世界に向かって順調に拡大していく。これが種の大爆発の第一のシナリオである。

このシナリオには、当然終わりがある。未開の世界とはいえ、それは有限である。光合成という大発明があって、光と水と無機物から有機物を生成するという離れ業が実現した。無尽蔵に思えるこれらの材料を使って、光合成生物は爆発的に発展した。しかしある時点で、無尽蔵に見えた無機物が消尽した。かつて大気の主成分のひとつであった二酸化炭素は、現在では0.04%程度しか残されていない。もう一方の主成分であったメタンやアンモニアさえも酸素と反応して消え去り、窒素と酸素だけが大気に残った。二酸化炭素は今やアルゴンよりも稀少な成分となってしまった。

ここで、光合成生物は互いに競争を始めることになる。同じ資源を巡って奪い合いをするしか道がなくなる。具体的にどのような過程があったのか私は知らないが、単独の光合成生物というものは絶滅した。現在まで残されているのは、セルロースでできた細胞壁を作る生物に取り込まれた葉緑体であるとか、石灰でできた珊瑚石を作る生物に取り込まれた褐虫藻であるとか、そういった「部品」としての光合成生物だけである。

そして、ここに生命種大爆発の第二のシナリオが登場する。あるひとつの生命種が地上を支配した後、大絶滅を起こす。すると、その屍骸が大量に残され、新たな未開の世界が地上に誕生する。ここに、絶滅により残された資源を効率的に利用することのできる数種の生物が、互いに競い合うことなく自由に量的拡大を見せる。その量的拡大の過程で、多様な種が許されるようになる。

ここにもいずれ成長の飽和が訪れ、ほんのわずかな優劣が競争の勝敗を決するようになり、多様性は単調さへと収束してゆく。そして幾許かの均衡が続いた後、自己崩壊あるいは天変地異などの外部要因により、地上の王者であった種は突然の大絶滅を起こす。結局のところ、多様性というのは量的拡大の過程でしか生じない。小規模なニッチであっても、大規模な飽和であっても、ともかく長期安定の中での多様性というのはたかが知れている。確かに種類は多いかもしれないが、本質は似たり寄ったりになる。

バージェス頁岩を彩る多様な生物群も、例えば有性生殖の発明などによって多細胞生物の指数関数的な変異速度を獲得した結果としての、量的拡大に伴う多様性だったのだろう。そして世界は多細胞生物で満たされ、餌となった単細胞生物は見る影もなく激減してしまう。ついには多細胞生物同士の食い合いが始まり、世界は最強の数種で塗りつぶされるようになる。それに勝ったのが、例えば脊椎動物だったのだろう。

数年前から量的飽和に達した日本の携帯電話業界では、それまで驚くほどの多様性に彩られていた携帯電話端末が、「全部入りケータイ」という、デファクトスタンダードと呼べる機能セットに落ち着いた。ワンセグ受信機能が付いていないという、たったそれだけの欠点を持った機種が死滅している。これから日本の携帯電話端末は、かつてのPCのように均一化していくだろう。差別化が可能だとしたら、料金だとか色だとかバンドルソフトだとか、そういう枝葉の部分だけになっていくだろう。あるいはもうなっているのかもしれない。

次代にLTEなどによる携帯電話端末種の大爆発が起こるとすれば、それは現状の携帯電話市場の大絶滅を意味する。順調な移行などではなく、大絶滅である。多様化した電卓市場が崩壊し、マイクロプロセッサを載せた多様な電子機器が派生するだとか、多様化したディジタル時計市場が崩壊し、水晶振動子や液晶デバイスを載せた多様な電子機器が派生するだとか、そういうシナリオになる。生き残るのは部品だけである。

PC市場でも同様のことが起こった。現在でもPC市場は成長しているが、単品の装置としてはコモディティ化が進んでいて、利益を上げているのは部品屋と流通屋とシステム屋だけである。システム屋であり流通屋でもある通信キャリアなどは、今後とも現状維持程度の商売を続けていくだろうし、部品屋も多少の浮き沈みはあっても何とか生き残っていくだろう。ただし、セットメーカーには生存の余地があまりない。食い合いが起こり、製造業からサービス業に業態を変化させることに成功した、わずかな生き残りが市場を支配して終わるだろう。

この段階になると、乾いた雑巾を絞るようにコストダウンを重ね、どんなに小さな要求にもわずかなコストで応える柔軟さを備え、市場を独占しなければ生き残ることができない。同じようなプラットフォームから最小限の変更で高級車から大衆車までを作り出し、部品作りから流通から販売まで全てに口を出すトヨタのような組織しか生き残れなくなる。あるいは、プロセッサ作りに集中して他には何もしない、Intelのような組織しか生き残れなくなる。そうした組織が生み出す面白みの少ない製品が市場を席巻するようになる。

このように、種の大爆発と大絶滅、あるいは種の寡占化というのは、ひとつの現象の異なる段階を見たものに過ぎないように思う。しかし、携帯電話そのものは世界に広まっているが、日本で成熟を見たようなマルチメディアだとかユビキタスだとかいったものを受け止めるためのインフラは、まだ世界には広まっていない。それを受容する消費者の文化的な素地も広まっていない。日本で飽和した技術は、これからようやく世界に広がっていくだろう。国内の競争は終わったが、世界市場の大部分は、まだ早朝の薄明かりの中にある。

世界には世界の難しさがあるだろう。テレビ放送の受信機能が拒否権を持たない国も多い一方で、Bluetooth機能がある一定水準を満たしていないことで拒否権を発動されるような国もあるだろう。ヨーロッパなどでは旧来のSMSとの相互運用性は当然に大きな問題だし、各国言語に最適な入力機能や、各国独自の商習慣に合わせた決済システムの導入なども欠かせない。日本国内の常任理事メンバーと海外各国での常任理事メンバーとでは、その構成はまた異なってくる。

そうした多様性を吸収しながらも、基本的なプラットフォームは最大限に共通化し、面白みには欠けるが経済性なら抜群という、地味なシステムが世界を焼き尽くすだろう。それを実現する上では、iPhoneのような「機能のソフトウェア化」は大きな力を発揮するだろう。同じハードウェアを持っていても、追加ソフトによってその機能が変化し、より多くの人の要望に、より少ない変更で対応できるようになる。ただし、技術に悲しい世間の実状を鑑みれば、世界を焼き尽くすのは「地味なiPhoneもどき」になるだろう。もちろんそこには各国向けの常任理事メンバーが揃っている。

そうして世界市場をなめるようにユビキタス化していく過程の中で、量的な拡大を見せる市場があれば、量的拡大が続く期間に限って、いろいろな遊びを許す余地も出てくるだろう。そして世界をユビキタス社会が焼き尽くしたとき、携帯電話端末は携帯電話端末としての時代的役割を終えて、ポストユビキタス社会の中では基本的な部品としてその姿を残していくことになるだろう。

そういう時代の無線電話網は、現代の葉緑体のような存在になっているはずだ。3GがLTEになって高速通信を実現しようとも、それはトウモロコシなどのC4植物が持つ葉緑体が、高い気温と強い日差しと少ない水分という環境下で、植物界では最強の部類に入る光合成効率を達成するのに似て、非常に地味な存在になっているだろう。確かにトウモロコシは稲類や麦類やイモ類などと並んで最高の作物のひとつだが、その理由のひとつが高性能な葉緑体の働きによるものであると知る人は少ない。そしてそういったものこそが、地に足の着いた技術というものだろう。

まだ爆発は期待できる。しかし、程なくその勢いは終わりを告げるだろう。その後を見据えた準備を始める時期が来ているように思う。IntelになるかHPになるかIBMになるか、はたまたトヨタになるか。選択の時は近い。
[PR]
by antonin | 2008-09-23 02:39 | Trackback | Comments(0)

dullい日曜の午後

子供が生まれた2日後にこういうことを言うのもなんだけれども、人生いよいよこれからだと思う一方で、なんだか長く生き過ぎたような感じもあって、ドレッシングのようにあいまいに入り混じっている。結局のところ、疲れているのだろう。月末には夏休みを2日取ったので、ゆっくりと休みたいが、またいろいろと考え事をして眠れないのかもしれない。

春先になると2年に一度はインフルエンザに罹って熱を出すが、40度の熱が下がって体がだるいときというのは、首筋の後ろが重く痛む。けれども一日中考え事が続いて頭が痛いときというのは様子が違う。脳天が熱を持ってズキズキとし、運動が続いてカルシウムの具合がおかしくなった筋組織に似たような張りを示す。酸素が足りないのか糖が足りていないのか代謝物が蓄積しているのかわからないが、硬膜あたりの血流が増えて脈打っている。

バルカン星人が中指と薬指を離して「長寿と繁栄を」などとやっているが、あれはユダヤの風習なのだという話を読んだことがある。繁栄はともかく、長寿というのは有難いのか迷惑なのかわからない。姨捨山というと感情的な反発があるが、楢山節考などを読むと、貧しい村にあって老いても頑健な自分の歯を呪うような主人公があって、いい加減に山へ棄ててくれと嫌がる息子に頼みこみ、その背に乗って山に赴く描写があって驚いた。

ローマ人の物語にも、老境に達して理性が消える前に自分の意思で断食して死を向かえるローマ貴族がいたということがたびたび書かれている。食べるために吐き、吐くために食べるなどと言われていたローマ人に、そんな即身仏みたいな人間がいたということ自体が驚きだったが、これはまた自分の寿命は自分で決めるという「自決」なのであって、なんだか奴らは日本人に似ているとも思った。

地球温暖化とは困った話だが、なぜ困るのかといえば、人間の文明が20世紀現在の自然状態に依存しすぎているからだ。かつて温暖化や寒冷化で地球の海水面は100m単位で昇降している。沖積平野というものは海面上昇と河川の氾濫が作ったもので、堤防を築いて河川を固定化するという現象自体が歴史上初めての異常な状態なのである。海面が上昇して平野が水没したり、海面が低下して平野が寝食されたりするのは、地球の歴史で見ればごくありふれた現象であって、それで右往左往するのは人間の事情に過ぎない。

地球から見れば人間もまた生物の一種に過ぎず、その生物の一種が爆発的に繁殖することで地球環境が激変するということさえも、実は珍しいものではない。ただただ、人間にとって都合の良い環境を自然に無理強いしてでも維持していきましょうというのが、エコロジーの正体である。

いにしえより死なき者なし。それが10年20年早いからといって嘆くことはないと自らを励ました偉人がいたが、同じように自分を甘やかすのは無しだろうか。無しだろうな。仕方がない、まだしばらく生きていくとするか。
[PR]
by antonin | 2008-09-21 13:17 | Trackback | Comments(0)


フォロー中のブログ
外部リンク
外部リンク
ライフログ
ブログパーツ
Notesを使いこなす
ブログジャンル