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そんなに難しい話ではないと思う

金融クライシスを引き起こしたのは「非線形」:NBonline(日経ビジネス オンライン)

宮田さんの意見というのはエンジニアの意見だけあって非常に馴染みやすいのだけれども、しばしば大きな穴が開く。この点でも私の意見に似ているので、なおのこと親しみやすい。で、今回も穴があるように思えた。確かに相場ものというのは非線形の事象だと思うし、それゆえ予測不能の挙動を見せているのだとも思う。けれども今回の金融危機というのは、別に非線形だからどうこうという性質を持ち出すまでも無いように思う。

重ねて言うけれども、一応今回の世界的な金融バブルだって、市場に渦巻くさまざまな思惑が綱を引き合って起こった非線形現象のうちだとは思う。けれどもそれ以前に、これはキャッシュフローの過剰が主要因だったのであって、それをいよいよ引き締めなくてはならないという段階でこういうことが起こるというのは以前から目に見えていたと思う。特にバブル景気とその崩壊を経験済みの日本人にとっては。

安敦誌 : 面白いような恐いような

例えば先物取引などの仕組みを導入することで、コストを払ってでもリスク低減を買う実業家と、リスクを買ってでもゲインを得ようとする投資家とのバランスが生まれ、結果として実業家にも投資家にもそれぞれの立場からメリットが生じる、というのが考案された当時に想定されていた本来のリスクヘッジの姿だったように思う。

けれどもこれには当然の前提事項があって、それはある商品の取引量の規模に対して、投資家の資金が十分小さいという暗黙の仮定があったのだろう。実業家のリスクを引き受けられないほどに小規模では機能しないが、かといって投資家の先物売買が相場形成に支配的な影響を及ぼすほどに大規模になっても、やはりこれは機能しない。

サブプライムローンだって原油だって結局のところ、市場規模に匹敵するか、あるいはそれを上回るような巨大資金がヘッジファンドに流入してしまったところが、市場崩壊の最大の原因のように思う。本来は堅実な実業家から手数料程度の利益を得て、代わりに豊富な資金に物を言わせて分散リスクをかぶるのが投資家の役割だったはずだが、実際には規模が大きくなりすぎて相場を無駄に変動させ、挙句に対象物品の流動さえも不安定にしたりして、実業家たちは大迷惑をこうむることになってしまった。

大筋、今回の事案にも「ハンロンの剃刀」は適用できるのだろうと思うのだけれども、世界金融の中枢に座っている人々が少し落ち着き払いすぎているようにも見える。新聞などは「世界的に巨額の損失が発生」ということしか言わないけれども、投資で損が出ているということは、実は誰かが得をしているということでもある。債権が破綻するというのは、100%ではないにしても借金の棒引きを意味し、どこかの誰かの手元には、そのカネが流れたまま戻ることなく終わるということを意味する。

例えば、住宅ローンを組んだサブプライムクラスの消費者が保護されるのであれば、その消費者が住宅を手に入れるという形で得をすることになる。あるいはローンが返済できずに破綻すれば、家は担保に取られて誰かがその家を安く手に入れる。だいたいこんな感じで、ひょっとすると社会保険庁の使い込みなんて屁に思えるような規模で、日本人の貯金を借りた誰かが借金を踏み倒して喜んでいる可能性もある。日本のバブル景気華やかかりし頃に地上げで現金を手に入れて、今も地方で安穏に暮らすバブル成金の存在だって知らないではない。

油井を握っているイスラムと、カネの湧く泉であるFRBを握っているユダヤの間の「経済戦争」に巻き込まれてオロオロしているだけなんじゃないのか、世界は。日本は世界に先駆けてバブル経済を経験したけれども、まず狭い日本で実験してから世界展開をしたのだと考えたら、今回の流れもまた違った風景に見えてくる。CO2削減なんていうのも、単にアラブに富をもたらし続ける石油依存経済を叩こうとしているだけなんじゃないのか。

まぁ、そこまでは考えすぎか。なんでもいいや。私なぞは流動資産なんてこれっぽっちも持っちゃいませんから。押しなべて生活は退屈である。
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by antonin | 2008-10-30 00:44 | Trackback | Comments(0)

「人民网」面白すぎ

人民网

最初は26年ぶりの株安について書こうと思っていたのだけれども、なんだか人民网を見てたら面白すぎて株価について書く気をなくしてしまった。

検索で見つけた人民網日本語版のトップページが壊滅状態だったので、さては日本に隠したい情報でもあるのか、などと思ったら、別のところにトップページが存在していた。なんだそれ。

人民網日本語版(現在壊滅状態)

人民網日本語版(こっちはOK)

いきなり面白すぎる。リンクをたどれば、お約束の「今日の『お前が言うな』」もある。

卓南生氏、民衆を「画一化」させる日本メディアの「画一性」

赤いページもちゃんとある。

http://jpn_cpc.people.com.cn/

その一方で、簡体字版のメインページを見ると、ずいぶんと派手なことになっている。

人民网

「美腿」なんて添えてあるコンパニオン写真が貼ってある。おそらく「美脚」みたいな意味なんだろう。なんにしても中国語というのは表意文字全開なので、意味的にストレートすぎて笑える。リンク先はこうだ。

性感水手服!中日韩手机MM通信展大PK--手机频道--人民网

性感水手服!
おそらく日本語に訳すと「セクシーなセーラー服!」ぐらいなんだろう。確かに性別を感じさせる水兵さんの服には違いないんだが、「性感水手服」と書かれると夜の街の看板みたいだ。「手机」ってのは「ケータイ」なのだろう。

あとは、広告リンクなんかが結構あって面白い。といってもこちらなんかは人民網公式サービスなので広告と言っていいのかわからないけれども、著作権的にちょっと心配なサービスもあった。

天语杯——《随我拍,2008我的百变主场》表情大赛

かなり企業広告っぽい翻訳事業の告知ページもあるのだけれども、ここに出てくる「15ヶ国語の翻訳員」イメージ写真が胡散臭くていい。ネットで拾ってきたんだろうな。

神译 多国语言互动智能翻译机 2秒钟就会英语、法语、德语、西班牙语、葡萄牙语、俄语、印尼语、阿拉伯语、越南南语、越南北语、泰语、日语、韩语、蒙古语。

各国のイメージはだいたい了解なのだけれども、ドイツ人と韓国人は怒ってもいいと思う。

写真ニュース一覧なんかも、中国人民がかなり「解放」されてきているのが伝わってくる。

国际图集--国际--人民网

北京オリンピック美女図鑑みたいな特集があり、卓球の愛ちゃんの写真が4枚もあってトリをつとめている。やっぱり「おしん」みたいな顔して中国語も堪能となると、あちらでも人気が高いのだろう。

台媒:京奥赛场惊艳 漂亮宝贝目不暇给(图) (17)--海峡两岸--人民网
8月17日、試合中の日本の福原選手。この日、日本チームは北京オリンピック卓球女子団体の3-4位決定戦で、0対3で韓国チームに敗れ銅メダルに手が届かなかった。 新華社記者、徐家軍撮影


もちろん、日本からアクセスするのと中国国内でアクセスするのでは情報開示度が異なるというような可能性もなきにしもあらずだが、まぁ人民網でそこまではしていないだろう。次のような衝撃ニュースを目にすると、なんとなくそんな感じがする。

グロ注意
组图:全球最震撼的诡异食物--国际--人民网

アイヤー、中国も遂に食人文化を世界に向けてネット公開する日が来たか、というともちろんそんなわけはなく、記事本文によると次の通り。
バンコク西部Ratchaburi省にある一軒のパン屋で最近、頭、胴、手足などが含まれる一連の人体に似せた新型のパンを作った。パン屋の主人の紹介によると、彼らがこのパンを作った目的は仏教の教義を表現するためであるという。その教義とは、目に見えるものや心に映るものは全てうつろな幻であり、物事の正体ではないので、目に見るものを信じてはならないということ(色即是空、空即是色)。パン屋によれば、このパンはただ展示用だけに使い、本当に市場に売り出すつもりはないとのこと。

さすが南伝仏教の教えは一味違うぜ。

あとは上海の海軍には上戸彩みたいな「女戦士」がいるとか、

韩国舰艇编队访沪

とにかく面白くて仕方がないのだが、キリがないので今日はこのあたりで。

なお、簡体字のページを徘徊するにあたって自動翻訳ページを活用させてもらいました。どうもありがとうございます。

中国語翻訳 - エキサイト 翻訳
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by antonin | 2008-10-28 02:38 | Trackback | Comments(0)

ミウラ疾走

こいつとは随分と長い付き合いになってしまったが、基本的にああいう正義が似合うような顔をした男というのは嫌いだ。言っている言葉はあらかた胡散臭いものだが、その真摯な眼差しとセットで語られてしまうと、その言葉が正義の輝きを放ち始める。するとどうだ、周囲の凡人たちはみんなしてこいつの言うことを信じて動き始めるのだ。俺はこいつが嫌いだ。

「あなたの国ではどのような法律がどのように運用されているか知らないが、ここはアメリカだ。全ては法の下に平等で、我々は公正と真実を愛する。私は、何をどうやっても、あなたを法廷に引き出し、真実を白日の下にさらすまでは死ぬことができない」

「あんたの国ではどのような法律がどのように運用されているか知らんが、私は日本人だ。アメリカも国連に加盟しているのだろう? いいと思っているのか?外国籍を有する市民に対してこういう扱いをして」

「アメリカの法には根拠と正義と実績があるが、国連憲章などといったものにはそうしたものがない。なにより、私はアメリカ国民としての正義と秩序に対する信念に根差して動いているし、国家はそうした行為を保証している」

「あんたに何をいっても聞く耳は持たないと思うが、私をこれ以上絞ったところで何も出んぞ。もう真実とやらは全て知っているだろう。多少の尾ひれは付いたが、世間にも公開されているだろう。これ以上何を望んでいるんだ。公正か? 国籍を問わない無差別に公正な裁きか?」

「国籍は無論重要な要素だが、我が国はアメリカ市民権を有しない世界の人間に開かれた国家だ。当然、外国籍を有する人間に対する法も充実しているし、実績も厚い。法の正義に則ってあなたを裁くことが十分に可能だ」

「勘弁してくれ」

--

「まずは、ご契約頂き感謝します。基本的に全てお任せいただきますが、今後の弁護方針について手短にご説明いたします」

この弁護士は信用ならないが、この国では信用ならない人間ほど有能な弁護士になる。派手に弁護してくれ。ありえないぐらい声高に無罪を叫んでくれ。そして、世間に俺が犯罪者であるかのような予断を強烈に植え付けてくれ。裁判官や陪審員に、自己の公正さに対する自身を失わせるまでに予断を染み渡らせてくれ。あとはそこを突いてやれば法廷の公正などイチコロだ。リーブラの天秤も、片側に大きく振れば、反動で逆に振るのもたやすい。裁判が終われば、残るのは灰色の名声だ。これは俺によく似合っている。

「わかった。説明はいい。全て任せるからよろしく頼む。私の今後の言動に関して注意すべき点があったら指導して欲しい」

「わかりました。まず、あらゆる質問に対して否定も肯定もしないで下さい。そして、質問の内容を私と共有するようにしてください」

衆人環視の状況でなら、質問をはぐらかすよりも真実なり嘘なりではっきりと質問の答えを断定しなければ不利になるが、密室に限られたメンバーが籠もって話をするときは状況が全く変わる。別に新しくもない情報だが、こいつが基本を押さえているということだけはわかった。それで十分だ。

--

(中略:サコタとの応酬)

--

「彼はお前を一般の容疑者として丁重に扱おうとしているが、私にはそのつもりはないので、その点だけは初めに伝えておく」

この小生意気な男の顔は見たことがない。そもそもこの世代に知り合いはいない。アメリカは日本と違って若い国だ。権力の中枢に近い部分でも、実力さえあれば若いやつがいくらでも入り込んでいるのがこの国だ。俺たちが若い頃にも、この国では若い連中が随分と派手に活躍していて嫉妬したものだ。思えばその嫉妬が間違いの原因だったんだが。

弁護士には何ごとも否定も肯定もするなと言われているが、それ以前にこいつの言うことが気に食わないので黙って聞いている。こいつはそんなことも全く気に留めない風で、いろいろとしゃべりやがる。

「私はお前がロサンジェルズで過去に何をしたかということに全く興味がない。お前が日本でどう過ごしてきて、日本の誰が何をしていたかを、どこまで知っているのかという、ただその一点のみに興味がある」

「あんたは何の根拠と権限があってそういうことを言うんだ! 弁護士との通話を要求する!」

俺は声を荒らげて叫んだ。顔も真っ赤になっていることだろう。面倒な質問を受けたときに表情を変えまいと努力する奴がいるが、はっきり言って馬鹿だ。相手が水面下にある物を覗き込もうとしているのに、わざわざ水面を鏡のように静かにしてやるように努力するような馬鹿だ。水面下にある物も見えやすくなるだろうし、もし見えないにしても、水面下にある物が少しでも動けば、すぐに水面の波となって現れてしまうだろう。

だから俺は、相手が下手な探りを入れてきたときには迷わずに叫ぶようにしている。水面にわざと大波を起こすようにしている。水面下の物は見えにくくなるだろうし、水面下の物が動いて水面を揺らしても、大波の中の小波など見えなくなるものだ。眉の動きや瞳孔の開き具合を読まれるくらいなら、顔を真っ赤にして叫んでおいたほうがいくらかでも得をする。

俺は、質問の内容を否定も肯定もしなかった。弁護士野郎との約束はしっかりと守ってやった。俺はなかなか優秀なクライアントだろう。

--

(中略:ロスへの移送とかその他色々)

--

「我が国の司法制度には司法取引があるということは知っているだろう?」

「さあ?」

「それ以前に、我々は超法規的なルールに則って動いている。しかし私は合衆国市民だ。超法規的なルールに従ってはいても、お前と取引をする余地は残されている。単刀直入に言えば、これまで重ねてきた質問の答えを、法廷で記録に残るように陳述して欲しい。そうすれば我々も州法や連邦法を超えた譲歩ができる。最後に確認する。我々の要求を受け入れるか?」

これは、質問ではない。取引であり、駆け引きだ。私もひとつの世界でひとつの時代を作ってきた男だ。還暦過ぎた今頃になって、自分の命を惜しんで安っぽい取引に乗るようなことをする気はさらさら無い。単なる質問ならはぐらかす場面だが、ここはそういう場面ではない。

「断る」

「それが永遠の別れを意味することはわかっているな? 確認する。我々の要求を受け入れるか?」

「断る」

「了解した」

--

独房に夕食が運ばれてくる。いつものように米国産と思しき牛肉メニューだが、今日はそれがしぐれ煮になっている。脇の小鉢にはボタンエビが乗っていやがる。「最後の晩餐」はこんなに気が利いているものなのか? いや、こっちの人間にそういうデリカシーはない。なるほど、超法規的な待遇だ。

翌朝は朝食が出ない。水も出ない。その意味はなんとなく理解している。日本では最後まで食事が出るそうだが、それに手を付ける人間も少ないという。そういう意地の悪いことをしないのが、配慮によるものなのか合理性によるものなのか見当が付かない。どうでもいい。

見慣れない男が来て、見慣れた手つきで手錠を掛けて俺を独房から連れ出す。拘置所の中をずいぶんと歩き回り、窓の無い小さな部屋に入る。俺を連行した男と入れ替わりに5人の男が入ってくる。木製の寝台を運んでいる。男のうち3人に右半身と左半身と下半身を拘束される。俺は特に暴れたりしないので所在無げだが、手の力は抜かない。その間に残る2人が寝台を立てて俺の背に当て、ベルトで全身を固定していく。最後に黒い布袋が頭にかぶせられ、首に輪が掛けられる。

牧師も坊主も神主も来なかった。信仰の無い人間に最後の祈りの機会を与えないというのが、配慮によるものなのか合理性によるものなのか見当が付かない。どうでもいい。

勘違いをしていたが、どうやらこの部屋にはひとつだけ窓があったようだ。床に。カリフォルニア州では最近にも死刑の執行があったらしいが、麻酔注射の大量投与による安楽死であったように記憶している。しかし古い設備が残されている場所というのもあるのだろう。なるほど、超法規的なやり方だ。

人の気配が消える。死ぬのは怖くないはずだが、全身が硬直して息ができない。早く終わってしまえ。ブザーが鳴る。Farewell, farewell.

重力の喪失。風のような感触。鈍い衝撃。無。

静寂。わずかな反響。ピリピリとした意識の痺れ。

あの世が存在するとは思ってもみなかったが、俺の推測は外れだったのか。今感じている世界はなんだ。天国か、地獄か。どう考えても天国ではなさそうだが、さて出てくるのはケルベロスか閻魔の手下か。

炭酸のような喉の刺激。刺激。刺激。

「炭酸のような」ではない。炭酸だ。二酸化炭素だ。俺はまだ息を止めていた。苦しい。どういう意味だ。ブハッという音と共に息が爆発する。

息苦しいが、呼吸はできる。心臓の音も聞こえる。ここはどこだ。「2001年宇宙の旅」という映画があった。木星に到達したはずのボウマンが、突如小さな一室に出る。見慣れた地上の空間であるようにも見えるが、全く落ち着いた感じがしない。そしてどれも贋物の作り物であることが判明する。そんな場面を思い出す。

鈍い衝撃? 絞首刑の最後は全体重に拘束台を加えた重量が全て首にかかり頚椎が外れ、脊髄が断たれ、頚動脈も切れて速やかに感覚と意識を失うはずだ。なんだか嫌な予感がする。

ドアが開く音。複数の靴音。首から輪が外れる。頭の布袋が外される。地獄よりもはるかに面倒な世界へ来てしまったようだ。

--

(後略:
「生物学的には生きているが、法的には死んでいる」ロボコップ的な法解釈
「骨は適当に用意しておくから問題ない」

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by antonin | 2008-10-25 11:41 | Trackback | Comments(0)

人生ラクダ色

タイトルに意味はありません。

で、今日は久しぶりにsageを起動してあちこち見てみたら、Excite BLOGのRSSフィードに広告が混ざってる。
b0004933_11155255.jpg

がび~~ん。

いつからこういうのと一緒に配信されていたんだろう。まぁ、無料だから広告が入るのは仕方がありませんね。折角だから表からもリンクを張ってあげよう。

辞めてからの転職に警告です【人材バンクネット】

いろいろと書き物のネタはあるのだけれども、自宅でPCに向かう時間が取れない。自分のことで精一杯。BLOG巡回とか全くできていない。あんまり義理を欠いていると、老後が寂しいぜ、きっと。平静時の平均心拍数が90超えていたりして余り長生きするような実感もないのだけれども、実はこういうヤツほど人間を卒業できなくて現世に長く留め置かれたりするのだろう。現世留置の刑。

さて、来週開く管理組合の理事会で決議予定の、重大事項の告知文書作成のお時間だ。あと掃除機も掛けて。雨が降ったら洗濯物も取り込んで。んな感じで。

--
(2013/10/27 追記)
リンクの品質に問題があるとの指摘を受けましたので、RSSから採取した生URLをトップページへのリンクに差し替えました。
個人的な記録もあるのでエントリー自体の削除は致しません。
まだ問題があるようでしたらご一報ください。
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by antonin | 2008-10-25 11:39 | Trackback | Comments(1)

「こいねがう」の野蛮性

漢文化というのはエジプト文化と同じで古代先進文明の文化なので、その周辺諸部族というのは当然野蛮に属するという扱いになる。かつてのエジプトでユダヤ人というのは田舎者の羊飼いたちだったのだし、かつての中華文明からの認識では、呉越より南に住む人々というのは米を食うような野蛮人だったのだ。

そもそも「蛮」という字そのものが「南方の異民族」という意味を持つらしい。南蛮というのは日本に漂着したヨーロッパ人ではなくて、本来は中原の南方にあって米を主食としているような人々を指しているという。字の中に「虫」を含んでいたり、蛮人という単語の意味からも明らかなとおり、中華文明の外部に属する人々というのは総じて文化的に劣った人々という扱いを受けている。

蛮といえば南方の異民族ということになるが、西方の異民族なら戎、東方の異民族なら夷というようになる。東夷というと東に住む未開民族ということになって、かつての日本人なども当然その一種ということになるのだけれども、この島国の中のミクロな諸国を平定したヤマトの王(おおきみ)が天皇を名乗るようになり、日本における東夷とは鎌倉武士なんかの母体になる関東・東北の民族に置き換えられていくのだが、この屈折したミクロコスモスの感じはまた別の話になるので割愛する。

そして北方の異民族となると狄(テキ)と呼ばれるのだが、北方の騎馬民族たちは他の異民族と違い、古代より幾度となく漢民族との戦いを繰り広げてきたので、他にも色々な呼び名を持っている。もちろん「北方の異民族」という概念が広すぎるので、匈奴や蒙古のようにその中の諸部族が別々に名前を持っているということもあるのだが、それらをひっくるめて呼ぶ名前の中にも、狄の他に冀(キ)という字がある。

文芸春秋誌の筆頭コラムにて阿川弘之さんが「驥尾に付して」なんていうカッコイイ日本語遣いを見せるわけだが、これは名馬の尻尾に蝿がくっついて千里を渡るようなことを指す故事成句から来ている言葉なのだという。謙遜の情が美しい日本語表現だが、その根底には漢文化が横たわっていて、驥というのは冀の馬、つまり北方の異民族が乗りこなしているような名馬を指しているという。北方の異民族は憎たらしいが、北方の馬はとにかく素晴らしいという認識は漢民族も持っていたようだ。

そしてこの、「北」の「異」という字面からも明らかなとおり、北方の異民族を指す冀という文字に、なぜか「こいねがう」という訓が当てられている。なぜだろうか。「承る」が「請け賜る」あたりの意味からできていると考えられるシステムと同様に、「冀う」もまた「請い願う」といった意味からできているのだろう。ここで、「北方の異民族」と「請い願う」の関連性が自明ではない。

想像をたくましくすると、おそらく漢民族というのは古来から合理的で現実主義的で自助努力を好む文化の持ち主だったのだろう。現代日本文化に顕著な「甘えの構造」というものに、中国の古文でお目にかかる機会というのは少ない。一方の北方民族はというと、その勇猛果敢な印象に反して案外に信仰が篤い。これは実は自明の理なのかもしれない。自然を改造することで文明化した農耕民族よりも、リーダーの下に団結して自然とうまく調和して生きる牧畜民族のほうに、より超越神信仰が強くなることに全く不思議はない。

どこの古代文明でもそうなのだけれども、それまでの狩猟採集生活から、灌漑などの技術を駆使した農業の発達によって人口を増やし、財産の管理に数字や文字などを発達させることで文明が誕生している。金属製の農機具を作る一方で、一年分の食料を略奪から守るために武器を発達させたりもしている。人間の力は天の力には敵わないと知りつつも、それでも人事を尽くしてからでないと天命を待たないような感覚が、どこかしら古代の文明人にはあったのだろう。

現在のモンゴル人などがどういった宗教構成になっているのかは知らないが、共産主義の洗礼を受けてしまう前の文化を維持している地域では、色とりどりの布で飾った石積みのストゥーパを巡る仏教的な祭事を行っているような映像も見たことがある。

スリランカなどから南方へ渡った仏教は自分の救済は自力ですべしという自己研鑽を中心としているのだけれども、そんな実践哲学っぽい感じがあった仏教も、北伝ルートではクシャーン人が仏像を持ち込んでみたり、ありがたい経典の文字が書かれた旗がはためくだけで功徳が積めたりと、だんだんと他力本願な感じが染み付いてくる。自己研鑽を重ねて無常を知る境地に至るよりも、みんなで救われるように呪文を唱えて祈ろうよ、という風が、あるいは仏教伝達の前から北方民族には色濃く見えたのだろう。

だから、人間が自力で天地人を鑑みて手足を動かすのではなく、何か強大な力に「請い願う」のは未開民族の悪習に映ったのかもしれない。そういう蔑みの気持ちが「冀う」という字義につながったのかもしれない。

「だろう」と「かもしれない」の連発で相当に怪しいが、素人のブログに多くを期待してはいけません。このあたりの実情が研究されているいい本があったら教えてください。
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by antonin | 2008-10-25 00:14 | Trackback | Comments(0)

退屈の原因

かつて書いたことがあった。「世界はきわめて面白く、そして生活はきわめて退屈である」と。一方で、こういう意見もある。対象を退屈だと思うから退屈なのであって、目の前の課題を面白いと思って積極的に関われば、やはり面白さがにじみ出てくるものだよ、と。まぁそういうものかもしれない。

もう少し別の意見としては、やりたいことがある人は退屈しないのだから、やりたいことが見つかれば、人間は退屈しないものだ、というような意見もある。私はこれを信用しない。やりたいことがあるからこそ、人は退屈するのだ。

目の前の課題がやりたいことそのものであれば、それはもちろん面白いだろう。やりたいことが脇にあって、そのための手段として目の前の雑用をブンブン片付けていくのも爽快だろう。けれどもまぁなんというか、世の中それほど気楽なものでもないのよ。

特になんだ、継ぐほどの家はないにしても日本の長男に生まれてしまったり、日本の長女と結婚して20代のうちに子持ちになってしまうと、なかなかに理想状態からは乖離が進んでくるものである。高温低圧の自由闊達な気体はなかなかに理想状態に近いが、液化寸前にまで濃縮された気体というものは、いろいろなビリアル係数が有効になってきて、なかなか理想的には取り扱えないものである。イデアの美しさが透けて見えるようなPV=nRTでは済まされない、浮世のあれこれが見えてきてしまう。

私にはやりたいことがある。それは、夜遅くまでネットの文章を読み漁り、昼過ぎまで眠って、起きれば適当に飯などを食って、あとは日が沈むまで本を読み漁り、いらん想念が湧き上がったらそれを文章にしてネットに曝すというものだ。まずこれをやって、これに飽きたら車を飛ばして海や山に旅してみたい。帰ってきたらその風物の思い出を胸に、ヘンチクリンなニューラルネットワークモデルに基づくプログラムなどを書いてみたい。うまくいけばVerilog-HDLなどに書き下してFPGA上に実装してみたい。

これが、私のやりたいことである。上記より自明であるが、こんなことをしていたら生活が成り立たない。家庭を維持するどころか、自分ひとりの口に糊するのも危うい。現実的な妥協として私は平凡な会社員として働くわけだが、やりたいことの輝きの影で、現実的な日常というのはどんどんとくすんでいく。

日常にもやはりそれなりの輝きがあるはずだが、理想の輝きというのはいかんともしがたいほどに眩しい。昼間の空に星の輝きは見えないのである。そして理想の輝きとやらが、山頭火の句のように美しく昇華するようならそれなりに生きる道もあるのだろうが、のび太的ユートピアは現実と共存不可能なものに違いない。

平凡な会社員としての生活を送ることが真の理想につながる一歩であるとすれば、目の前の課題に対してより真摯に向き合えるものだろうか。あまりそういう気がしない。こういう自分勝手で無益な馬鹿は死ねばいいのに。というわけで殺そうとしたこともあったがなかなか死なないで、子供は3匹にもなった。あとは憎まれっ子として世にはばかるばかりである。憚らずに幅借る中年男たちの胡散臭さがこういうところに起因しているのだとしたら、歴々のタヌキ親父たちを眺める視点というのも少しずつ変化してくるというものだ。

「私には夢がある」 "I have a dream"。なんだか美しい言葉であって、黒人牧師が演説に使う。「夢とは夢見るものではなく、夢を実現させるべく夢に向かうという姿そのものである」みたいなことを麒麟麦酒のCMが謳う。麗しいことである。が、人がまだ見ぬ理想を夢と呼ぶのには、一段生々しい由来というものがある。

人が現状に満足せず、ある物やある状態を切に切に、喉から手が出たり幽体離脱して生霊が飛んだりするほどに渇望すると、人間というのはそれを寝床にあっても夢として見るのである。まさに「寝ても醒めても」の境地である。これほどに強い人間の欲望を婉曲に「夢」と呼ぶ。床を共にする男女とて、見る夢は異なるのである。美化されて麗しく語られるものには、たいてい注意を要する。

とまぁ、いつものように愚痴ったわけであるが、例によってこうしたことはパスカルさんによって「機械的退屈」として300年以上も前に書き記されているらしい。

退屈 - Wikipedia
機械的退屈とは、パスカルが『パンセ』の中で述べているように、おこないたいと思っている活動を邪魔され、その時間的継続性を繰り延べざるをえなくなってしまうゆえに、ついつい他のことをしたくなってしまうときに生じるものである。

パンセの中にあるというから、今度拾い読みしてみよう。新旧の聖書や大蔵経をくまなく読めば、おそらくはそこからもこれに似た記述が拾えるに違いない。全くゲンナリである。
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by antonin | 2008-10-20 23:58 | Trackback | Comments(0)

スミスチャートと仙術

以前も株式の勉強を始めてみようかしらん、なんてことを少し書いてみたが、実際の相場データを利用したシミュレートを実行したりしているかというと、全然していない。また、自由資金がないため、実際の取引なども全くおこなっていない。かといって何も知識が増えていないかというとそういうこともなくて、いろいろとお勉強させていただいている。

株初心者、株情報、株投資、株価チャートで3695万稼ぐ

こういう広告ページがあっていかにも怪しいのだが、プロではない個人の投資心得という意味では、内容としてはおそらく健全であるように見える。投資というのは、ミクロで言うとカオスで予測不能な現象ばかりであるが、統計的に処理すると徐々に予測可能な部分が増していき、これをさらに進めていくと最小のリスクと最大のゲインを設定することができるようになる。

かといって絶対安全かというとそういうこともなくて、どんなに最小化しようと一定の損失リスクはあるのだけれども、そのあたりを覚悟して健全な運用システムを組めば、大きな利益を上げることはできなくても、一定の利益を上げることは実際に可能なのだろう。人類が繁栄してきたというのも、そういう偶発的な幸運と不運を乗り越えてきた上での統計的なアドバンテージによるものなのだろうから。

重要なことは、頭に血を上らせずに、理知的に冷静に事態に当たるということなのだろう。そういう意味で、おそらく上記の怪しい広告ページの言うことは正しい。けれどもその先にアクセスして技術情報を買う必要もないだろう。その手の情報は公開情報としていくらでも転がっているし、損切りについては微妙ではあるけれども、参考になる手記なども転がっている。

参考:
[新生銀行] 意外と簡単!?「テクニカル分析」講座
FX 経済指標で勝負!! 損切りしました。

機関投資家のような大きくなりすぎた組織は、自分自身の引き起こす取引によって相場やそのトレンドが変動したりして、非常に複雑なフィードバック系を形成するから、その制御は通常の指標では無理なのだろうが、個人投資家の場合は自分の売買が市場を左右するなどという影響はほぼ無視できるから、比較的にしても受動的で安定したコントロールが可能になってくるはずだ。あとは自分の心理を制御し、冷徹に判断すること。これができればまず大損はしないのだろう。

これは風力発電や波力発電のシステムに似ている。または、脈流を微分回路に通して交流成分を取り出し、それを検波整流して直流成分に変換するような半波整流器にも似ている。ダイオードのように機械的で冷徹な判断ができ、なおかつリスクを分散してゲインを少し落としてでも出力を安定させれば、けっこう使いものになる出力が得られるに違いない。そしてその出力が、現代ではカネでありうるのだ。厄介な世の中である。

あとは、自分の資産規模とリスク耐性と手数料率などを勘案した上での、自分専用の売買判断システムを設計するという作業が肝になるだろう。これはあまり機械的にはできなくて、かなり算術的なあれやこれやが必要になってくるはずだ。ただまぁ、全投資額が消失しても路頭に迷わないあたりを上限にして、大当たりして利益を確定したら1年で現有と同等の車が買い替えられるあたりに下限を設定すれば、まずまず妥当なのだろう。

もちろん、計算結果として下限が上限を超えているようなら、普通に貯金で資産を貯めるのが先決になるのだろう。残念ながら私は今おそらくこの状態にある。欲しがりません、住宅ローンが終わるまでは。コドモも3匹になってしまったことだし。ある程度まとまったリスクを買わないと、投資はできないのだ。コドモを質に入れて株を買うわけにはいかない。

まぁ、事前シミュレートである程度の利率を叩きだせるような運用システムを持てれば、その運用利率に安全率を掛けたあたりの限度内でレバレッジをかけて運用システムを始動してもいいのかもしれないが。始動に失敗したら、また資金がチャージされるまで一定期間待てばいいだけの話だ。

脈流からエネルギーを取り出す場合、入力信号のうち直流成分の高低というものにはあまり影響されることがなく、むしろ交流成分の振幅が重要になる。平均株価が高かろうと低かろうとあまり関係がなく、一定の振幅で株価が変動することが最重要となる。これを整流するシステムの応答性能というものがあるので、あまり高周波成分や低周波成分は利用できないだろうから、特定の周波数帯幅の中でのエネルギーが一定範囲になるようであれば、ここからエネルギーを取得することができる。

つまり、ある程度の基礎資金があれば、有価証券取引市場から一定の効率でカネを吸い上げることができる。その供給源とは常に、誰かの労働力であり誰かの損であるわけだが、取引市場というのは公開された賭場であるので、ここから胴元の利益を損なわない程度の収益を上げることは合法的な行為である。

つまりなんだ、これは現代社会における「霞を食う」という行為なんじゃないか。成功するデイトレーダーとはつまり、現代の仙人なんじゃないか。株取引などで生きていくだけの収益を上げる方法とはつまり仙術であり、これを少数の他人に教えても仙人は損をしないが、誰もが知るところになれば霞は薄れて仙人は死ぬ。なるほどねぇ。

働くことに嫌気が差したら、霞を食って生きていけばいいなどと言うが、仙術というのは難解ではあっても、決して存在しないものでもないのだろう。15年程度先には、霞を食って生きていけるようになったらいいのに、などと俗欲を出すと妖魔に幻惑されて死に至るのだろう。これも仮想的な比喩ではなくて対応する現実が存在するに違いない。

手許には置いていたが、なかなか読み始められないウンベルト・エーコの文庫本などをパラパラとめくって、はて仙術とは如何に、なんていうことを考え始めている。まぁ、先は長いのだし慌てることもないのだろう。
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by antonin | 2008-10-17 02:36 | Trackback | Comments(0)

一匹狼の会

そういう言葉があって、これはジョークなのだという。この言葉をジョークとして笑える人というのは決して一匹狼的な性質を有していなくて、かなりうらやましく思う。

なぜこれがジョークになるのかというと、自己矛盾を孕んだパラドックスになっているからなのだという。しかしこれは非常に古典的なパラドックスなのであって、哲学者は笑えるかもしれないが、科学者が笑えるものではない。工学者なら泣き出してしまうかもしれない。

仮定1.「一匹狼は群れに馴染まない」
仮定2.「会とは群れである」
命題「一匹狼は会を作る」
命題は仮定と矛盾する。
結論「命題は偽である」

てなところか。これは、ウィトゲンシュタインなどからこちらの現代的な論理ではなく、アリストテレスやスコラ派が愛した古典論理の世界の話になっている。現代の論理学は哲学者の領分から理数学者の領分に移っていて、必ずしもこういう具合にはならない。

100個の部品を製造すると、1個の不良品が発生する場合がある。この製造プロセスで、100ロットの生産を繰り返した。すると、全体で30個の不良品が発生した。この30個を分類すると、うち20個でケース嵌合の不良が見られた。

何かおかしいだろうか。何もおかしくはないだろう。例を変えてみよう。

100人からなるグループがある。そのうちの1人だけが組織全体の方針と折り合いが付かずに飛び出した。そして100人からなるグループが100組織存在する。そのうち30のグループでは、組織の方針と折り合いが付かない人が1人ずつ飛び出した。その30人を集めると、うち20人は組織のあり方に共通した問題意識を持っており、新たなグループを作った。

何かおかしいだろうか。何もおかしくはないだろう。なぜだろうか。

一匹狼の会というものを現実的に考えてみれば、特に異常な感じはしない。しかしこれを古典論理で考えてみると、自己矛盾が検出される。なぜかといえば、古典論理が現実世界に比べて簡単に出来すぎているからだ。ただし、これは古典論理を批判しているのではない。道具というのは概ね、簡単であればあるほど優れていて応用が利くものなのだ。ただし道具というのは使いようなのであって、この鋭利な刃物で「一匹狼の会」という言葉を両断するのは、おそらく間違っている。

世の中には定性的な評価と定量的な評価というものがある。そして、定量的評価を簡単にして要点だけを切り出したものが定性的な評価であるとも言える。究極的には、この世の中には複雑極まる量的現象しか存在しないが、それでは人間の小さな頭ではいつまでかかっても世界を理解することができないので、仕方なしに問題を単純化する。科学とはそういうものである。

だから、「一匹狼の会は自己矛盾」などと笑える人があれば、その人は古典的な思考の中で生きている常識人なのだな、ということがわかる。これをわかってしまった現代的な人というのは、実はかなり不幸な存在なのではないかと、最近では考えるようになっている。「一匹狼の会は自己矛盾ですよね」などと表面上は笑いながら、羊の群れの中で窮屈に暮らしている狼などもいるのではないかと、ひそかに想像している。
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by antonin | 2008-10-17 00:36 | Trackback | Comments(0)

生物と無生物のあいだ

皆殺しの天使 : 「生物と無生物のあいだ」・酷評1/2

皆殺しの天使 : 「生物と無生物のあいだ」・酷評 2/2

上記で酷評されているので、ゆるやかに擁護してみる。結論からすると、これは「講談社現代新書」なのであって、「ブルーバックス」ではないのだ。そこには、かなり決定的な意味があるようにも思う。読者が求めるべきなのは、生物と無生物のあいだに横たわる複雑性の臨界などについてではなく、現役科学者の書く美しいエッセイなのだろう。

そして気付くべきは、この本は生物と物質たる無生物の臨界を論じている一般向け解説書なのでは決してなく、生物学と非生物学の対比の中で、生物学とはいかにロマンあふれる学問であるかという物語を通じて、予算や学生を生物学領域へと引き入れようという、プロパガンダ作品でもあるという点なのだろう。正確さよりも強さや美しさが優先される領域というものは、確実に存在する。

そういう限定付きで、私は本書を大変な良書とみなしている。繰り返すが、本書はブルーバックスではないのだ。だって、文章がうますぎるだろう、これ。

参考に、本書に関連した過去記事へのリンク。

安敦誌 : 書籍往来
どちらかというとコメントの対話に注目して欲しい。

そして本書に影響を受けた妄想。
安敦誌 : 常在ウィルス仮説
安敦誌 : 続・常在ウィルス仮説
こうした妄想のネタになったという一点だけでも、本書を買った価値があったと個人的には思っている。

それから、野口英世さんが日本で言われているほどには偉大な発見をしていなかったということが判明したのも、本書からの大きな収穫だった。もちろん、こちらも傍証に当たれば、外れも多かったが当たりもあったという、冒険的な研究者にしてみれば当然というような点を批判しているだけということが知れるのだけれども。

それから、用語としての「動的平衡」批判をひとつ。
安敦誌 : 時間論とか

全体的に、人文学分野をカバーする講談社現代新書にあって、これだけ読ませる文章で生物学を論じたということ自体が賞賛に値するように思う。学術的内容のほうは、極論してしまえば、どうでもいいのだろうとも思う。もちろん、この分野の専門家にはそれでは不満だろうが、この本には、広く売れることそのものに大きな意味があるのではないかと思う。本書を読んで疑問を感じる人がいれば、それが本物の分子生物学への入り口となるかもしれない。

なにより、これだけ良質の批判的書評が読めてしまうというのが、こうした書籍が世に流布する価値のひとつであるとも考えている。大手ニュースサイトが限定的ながらも読者の声を書き込めるようにしている場合があるが、こういう場合ニュースは単なる呼び水であって、それに付けられるコメントのほうが100倍おいしいということも珍しくないのだ。本書もそういう役割を存分に果たしているように思う。

最後になるが、ノックアウト実験への擁護をひとつ。

差分解読法 - Wikipedia

あまりにも複雑な未知の系に対し、正攻法で論理的かつ因果的な関係を暴いていくのでは、非常に多くの時間を必要とする。そういう場合に、まず原因となるであろう側に実験者の支配の及ぶごく微小な変化を施し、それが結果となるであろう側にどの程度の影響が及ぶかを、地道にちまちまと調べることができる。いきなり真理には到達しないまでも、真理の傍証となる幾許かの情報を少しずつ集めることができる。そしてこの差分情報というものは、未知の系を理解するための重大な鍵が含まれていることもあって、あまり軽視すべきではないようにも思っている。

脳科学の研究でも、言語野などの特定部位の損傷を研究することが有意な知見をもたらしたのと同じく、ノックアウト実験もまた、特定部位のDNA塩基配列が大きな影響を及ぼす表現領域を同定するという程度には意味があるだろう。それは更なる解析のための重要な足がかりとなるはずだ。もちろん、その変化がノックアウトした遺伝子のみが直接に支配する表現形であるなどと素朴な誤解をしてはならないが、それはまた別の話だ。

Amazon.co.jp: 生物と無生物のあいだ (講談社現代新書 1891): 福岡 伸一: 本
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by antonin | 2008-10-16 03:26 | Trackback(1) | Comments(0)

特アを越えて

まぁなんというか、そういうことなども考えてみると、朝鮮半島とか中国などで反日活動が激しいなんていう報道を繰り返して、日本人がついに嫌韓や嫌中に傾くとなると得をするのは誰か、なんてことにも思い至る。もちろん、民団だの総連だのという団体もあれば、公明党だの民主党だのが外国人参政権を推しているというのも知ってはいるのだけれども、それ以上に「第三極」の発生を恐れている人がいるんじゃないかという気もしてくる。

ヨーロッパにはかつてローマ帝国というものがあって、ラテン語を共有していた人たちがいた。アメリカが強くなってロシアが強くなって、結局どうなったのかというと、あれほど自意識の強かった国々が千年以上の時を超えてEUになってまとまってしまった。

アジアにはかつて秦という帝国があって、漢字を共有していた人たちがいた。刀銭でも蟻鼻銭でもない丸い銅銭を祖先に持つ通貨として、元だの円だのウォンだのがあるわけだけれども、この文化と歴史を共有する国々が反目し合って喜ぶのは、ひょっとすると「分割し、支配せよ」の文化を持つ人々なのかもしれない。

米中の狭間で面倒な地勢ではあるけれども、メディアとしてはアメリカ側に付くのを善しとしており、民意も順調にそれに従っている「ようにも見える」。韓国や中国にあまり気を許すのは良くないにしても、感情的に嫌うのもまた、それはそれでうまく乗せられているような気がするのだが、これもまたいろいろと釣り針に引っかかった痛みのせいかもしれない。

まぁ、中国も韓国も嫌いじゃないですよ、私は。主権を乗っ取られない程度には仲良くしてみてもいいんじゃないかしらん。
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by antonin | 2008-10-15 00:44 | Trackback | Comments(0)


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