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夜間飛行

黒ヤギさんからお手紙が着いたようだが、私は白ヤギさんなので読まずに食べた。

だから、たまにはちょっかい出してもらっていいのです。もっと酷い言葉で辱めていいのです。

(antoninさん、僕のトラックバック消してしまってくださいよ、4つも僕のが入ってるじゃないですか・・・・僕が入れたのが悪いんですが。なんか、汚している感じがするので(笑))


えー、困ったなぁ。とりあえず前者を採用する。

お前の打ったトラックバックはここにまともなTBが10本入るまで野晒しだああああぁぁぁぁっ!

実際ここへ来るのはSPAM-TBばっかりなので、当分消えないと思いますけどね。

ちなみに今だから明かすけれども、当blogは日に200PVを超えることは滅多にない。分裂勘違い君劇場に打ったTBとかYahooのインベーダーゲーム特集からの謎のリンクが注目されたときくらいのものだ。そちらにアクセスピークがあったとしたら、それはおそらくliber studiorum由来のものだろう。exblogのアクセス解析は非常にショボい。

--

関係ないけれども、鬱は、まぁ、病気だよな。彼の語っているのは、比較的良好な状態のものだ。重篤になると、何もしたくなくなるし、かなりのことが実際にできなくなる。人前であることも憚らず、座り込んで動けなくなったりする。感情が磨り減っているので、涙も出ない。表情がなくなる。全ての批判を、ただ黙って聞く。なぜなら、悪いのは全て自分自身であるから。その状態であれば、薬は効果がある。逆に、薬しか効果がない。叱咤激励の言葉は自己否定の正しさを確信させる。同情の言葉は陰鬱な思考を正当化する。周囲の言葉は状況を改善しない。ただ、黙って休ませることしかできない。

そこまで重篤な期間を脱すると、ようやく何かをしようという気力が芽生える。そして、その気力を使って最初に企図しがちなことが、かつてより念願だった、生きるという面倒から立ち去るということであったりする。本当に重篤な期間は、生きるという面倒から立ち去るという面倒にも立ち向かうことができなくなる。現代の向精神薬で、大量服用によって死ねるものというのはほとんど存在しない。存在するとしても、その量は食塩だってそんだけ一気に飲み込めば死ぬだろうよ、というぐらいのものになる。

さらに状況が回復すれば、志望に沿って状況のほうを変えるなどということが可能になってくる。例えば、転職してみるとか。昼間から堂々とプログラムが組めるプログラマになるとか。人目を盗んでデータ解析プログラムを組んで、ときどき見つかっては「それは君の業務ではない」と叱られながら、ソフトウェア業界での人材不足を報じるニュースを聞くなどという状況を脱することができるようになる。生きていて良かった。ときどき落ち込んだりもするけれど、私は元気です。

何書いてるんだろう。

まぁ、生物に限らず、私が在籍していた時期から既に国公立大学の理系学部は大学院重視という文部省方針があって、工学部でもやはり全学科で9割程度の進学率になっていた。教授の肩書きは「某大学某学部某学科」から、「某大学院某研究科某専攻」に変わった。私はちょっといろいろあって学士で終わり、いわば6年制大学中退のような具合になった。学士だけは二つ持っているけれども。でもまぁ、アンケートの最終学歴記入欄で差を付けられるのが腹が立つくらいで、これといって不都合を感じない。

李白 奨進酒

日本人の中にはアセトアルデヒド分解酵素を持たない、下戸という人々がいる。彼らは、見た目ではわからない「障害者」であるのだけれども、彼らの存在に遠慮することなく、私はまさに酒をすすめんとしたい。アッサ夫子、肝臓に余裕があるときでかまいませんので、飲みましょう。去年の年末調整はマイナスだったが、今年はプラスだった。人はこれをヘソクリと呼ぶ。巡りめぐりて今まさに還りきたり。人生に意を得たれば須く歓を尽くすべし。べしべし。
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by antonin | 2008-12-27 04:39 | Trackback | Comments(6)

小さな親切は大きなお世話か

クリントン大西の裏日記 メリー・クアハウス!
「腹式呼吸」より「複式呼吸」の該当数が多いのはgoogleだけ!

コメント欄に書くレベルの話ではありますが。

本来は非常に検索件数が少ないであろうキーワードで、異常に多数の検索結果が出てきた場合は、まずキーワードをクォートすること。これ基本。

複式呼吸 - Google 検索(403,000件)
"複式呼吸" - Google 検索(44,300件)

ちなみに腹式呼吸のほうは

腹式呼吸 - Google 検索(496,000件)
"腹式呼吸" - Google 検索(345,000件)

つまり、クォーテーションなしの検索は、google先生によって自動的に「複式」と「呼吸」に単語分解され、「複式」と「呼吸」のOR検索が実行されます。そのため、「複式簿記の学習前に深呼吸をして気分を落ち着けた」なんていう文章も検索に引っかかってくる。

googleも昔はスペース分割されたキーワード以外は単独のキーワードとして扱っていた時代があったのだけれども、それだと検索結果が絞り込まれすぎて、有用な情報に行き当たらないなんていうことがあった。スペースで区切ったキーワードを並べるという基本テクニックを知らないノヴィスな人々のために、ある時期からgoogle先生は頻出単語レベルで自動分割を実行するようになった。なので、逆にこの機能をはずすために、クォーテーション・マークでキーワードをくくる必要ができてしまった。

クォーテーションだとキーワードを厳密に指定するので、ひらがな・カタカナ・漢字系のゆらぎや、「クォーク」と「クオーク」のようなカタカナ表記のゆらぎも同一視しなくなる。この表記ゆらぎを同一視した検索も自動単語分割と同時期にgoogle先生が身につけた技だったと思う。キーワードをクォートした検索結果が極端に少なかったりまったく見つからない場合は、google先生が親切にも「クォーテーションマークをはずして再検索してみてください」というようなアドバイスをしてくれる。

というわけでした。ご参考まで。

(追記:2008/12/27)
どうやらクォーテートして検索しても、よくある誤変換やスペルミスに関しては、検索リストの最上位だけは「本来の」検索結果が出てくるようだ。以前にNiconで検索してもトップにNikonのサイトが出てくるのが不思議だと書いたことがあったが、あれはNikon側ではなくgoogle側の工夫だったのか。やっぱりかゆいところに手が届くなぁ、google先生。
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by antonin | 2008-12-26 13:04 | Trackback | Comments(0)

不平のインフレーション

なんか、さっき書いた内容が、

クリントン大西の裏日記 携帯電話で映画を観る

ここいらとダブっている。まぁいい。
日本の不幸の発生要因・・・・・大きく「3つ」に絞れると思う。

・公教育の現場で、『論理的思考』といった最も大切な事柄を教えていない(教えてこなかった)。
・マスコミのレヴェルが低い。
・公的意識(道徳心、と言い換えても良い)が低い(あるいは低かった)。

ここは同意。しかし他方で、こういう文言もあった。

クリントン大西の裏日記 やる気マンマングローブ!
「個人の倫理観を高め」・・・は、えー・・・・ぶっちゃけ実現困難。

これも同意。

それでいいのか、という気もするが、いいのだ。もう議論できない、と言っておきつつ、気が向いたので継続。

実際、「実現困難」と「実現不可能」とは異なる。貧富の差が大きくなく、貧者も富者も同じような朱子学的倫理観を持っていたような時代では、どのような時代にも起こりうる凶悪犯罪を別とすれば、日常頻発する軽犯罪というのは驚くほど少なかったという歴史証言もある程度拾うことができるし、私なども子供時代にはある程度治安の良い日本を体感している。(犯罪被害に遭わなかったということはないが)

ちなみに、論理的思考というものはさっき書いた「リベラル・アーツ」の中で重要な、しかし一部でしかないと思っている。例えば、論理的に考えれば次のような推論ができる。

「報道メディアが巨大化(マス化)する」
「マスメディアは国民全体に大きな影響力を持つ」
「国民全体に大きな影響力を持つメディアは選挙結果を大きく左右する」
「選挙結果を大きく左右したい勢力はマスメディアに圧力をかける」
「マスメディアには商業原理以外の偏向が生じる」

というのは極めて自然な流れになる。もちろん、ネットにもマス化したメディアが存在する。しかし比較的目立たない、マスではないメディアも存在する。そこには言論の自由が「ある程度」保証されていて、あまりストレートな言論をしてしまうと、その責任として怖い人に襲われたり脅されたりというリスクは当然背負うことになるけれども、それに対抗できるだけの度胸と戦略があれば、言論の自由を行使することができる。

個人の倫理観を高めたり、市井の個人が国政などというマクロレベルの現象について正常な判断を下すというのは、「えー・・・・ぶっちゃけ実現困難」と言える。

そこで、現在はどういうフェイズにあるかというと、現実を冷静に見るより、悪い部分のみを拡大して連呼し、とにかく人民の不平不満を極限まで蓄積させる。そこで、その不平不満を一括解決できるような、とにかく素晴らしい「感じ」のする指導者が現れる。そして彼が政権を奪取し、人民の支持を背景に警察や軍などの物理権力を掌握し、その強権で旧悪を全て破壊する。完全な悪人など存在しないが、そこはメディアを上手くコントロールして、保守を主張する勢力を悪玉に仕立てて完全に排斥する。そして、掌握した権力に基づいて国家の根幹に迫る大改革を実行する。これを最低5年程度のスパンで実行する。

始皇帝も、レーニンも、ヒトラーも、マッカーサーも、小泉さんも、規模の大小はあれども、皆これをやった。例外はカエサルで、全権を掌握した時点で保守勢力を完全には排斥せず、「寛容(Clementia)」などと言い出した。そして新たな秩序を敵味方をリセットした新体制で立ち上げようとしたが、律儀な若者に刺し殺された。

改革は、まず基本方針の提示から入る。そして少数のプロジェクトグループにより基本法を作り変える。この新しい理念に従って、末端の法律を徐々に改定する。これらの新しい法律体系の中で、既存の組織もいやおうなく新しい理念に従うことになる。最後に教育改革を実施する。過去の教育を墨塗りし、新しい理念を掲げた教科書を学校に配る。この新システムが順調に働けば、社会は繁栄する。

そういう具合で、われわれ民衆にとって最大の武器は、冷静で論理的な思考力ではなく、みんなで怒りを溜め込み、あるカリスマを触媒として集団ヒステリー状態に入る能力である。一人ひとりは穏健な人々も、集団になると特別な心理状態になる。こういう状態で、大きな変革は実行される。戦争もまた同様の心理から発動する。

新国家の樹立後はさまざまな展開があって一律ではないのだけれども、改革の「やめ時」を正しく認識した支配層は、比較的長い期間にわたって安定した統治を実現する。恐怖政治の寿命は短く、穏健政治の寿命は長い。それもいずれ腐敗し、また新しい改革が生じる。平時と乱時のそれぞれに活躍しやすい人材があるが、どちらがより「健全」というものでもなく、状況が異なるのみ、というところだろう。

ええじゃないか、ええじゃないか、えじゃないか。憲法を改正して二院制なんかやめてしまえ。

税制とかそこらはそのうち。考え方のベースはこれでいく予定。
安敦誌 : 仮説メモ1
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by antonin | 2008-12-23 02:52 | Trackback | Comments(0)

人生いろいろ

ちょっかい出したあたりの始末を。

--

皆殺しの天使 : Le Rappel à l'Ordre
内容は、ランダムネスについて。というか、乱雑さは最初から宇宙に存在していなければならないんじゃないか、という話だった。


なるほど、そうだったか。けれどもなんというか、10/3は3.33333...で単純だが、10/7は1.42857142857...となって、いくらか乱雑な感じがする。かといって、10/7が10/3に比べて乱雑さが大きいかというと、どうなんだろう、という気がする。1だけが並んだ十進数を掛け合わせると、

1x1=1
11x11=121
111x111=12321
1111x1111=1234321
11111x11111=123454321
111111x111111=12345654321
1111111x1111111=1234567654321
11111111x11111111=123456787654321
111111111x111111111=12345678987654321

と、非常に規則的に並ぶわけだが、この先は規則性がゆるやかに崩れ始める

1111111111x1111111111=1234567900987654321
11111111111x11111111111=123456790120987654321
111111111111x111111111111=1234567901234320987654321

こういう場合に、「乱雑さの元」というのは、一体どの部分を指してそれとしたらいいのだろうか、という疑問があった。乱雑さの由来はデータと演算規則にあるわけだけれども、どちらかというと演算規則そのものが持つ性質のほうが重要なのではないか、という気がしている。r-ペントミノよりは、23/3ルールのほうに複雑さの本質があるような気がしている。もっともこの場合、余りに不毛な初期配置というものはありうるのだけれども(全面ゼロとか)。

もうひとつは、完全情報がある場合の数理と、完全情報を持たない場合の数理の違い。どんなに精密な物理法則から、どんなに複雑な現象を因果律の成立する決定系としてシミュレートしたところで、現実の系というのはその完全情報を取得することができない。けれども、シミュレートした現象に現れるある種の性質が、現実の系の性質に「似ている」ということはあるだろう。

ここで、「似ている」とはなんぞや、という問題にぶつかる。・・・ような気がする。チェイティンの定理というのを紹介してもらって興味深かったが、他にも「醜いアヒルの子定理」というのがある。

醜いアヒルの子の定理 - 情報論的学習理論と機械学習の「朱鷺の杜Wiki」

「似ている」というのは、人間の恣意的な決定による前提条件に依存していて、ある二つの事柄の比較そのものから「似ている」という性質を引き出すことはできないというもので、これもあるいはゲーデルの不完全性定理あたりと同形の定理なのだろう。スティーヴン・ジェイ・グールドの主張に、多様性と異質性という議論があって、これに対してリチャード・ドーキンス一派からは異質性には客観的な意味がないという反駁があったという。これも似たような話なのだろう。でもまぁ、恣意的に決定しちまえばいいんですがね。人間なんだから。

そんな複雑な非線形系が、それでも人体のように上手く機能するためには、ある程度の階層化も必要だと思う。核力が天体の動きに影響するという話は、太陽の核融合なんかを別にすれば、無視したほうがいい。同様に、塩基配列と哺乳類の形質をいきなり比較するのはやめたほうがいい。けれども、溶液組成とDNAのモルフォロジには強い相関がある。DNAモルフォロジとRNAの生成には強い相関がある。RNAの塩基配列とアミノ酸の配列には強い相関がある。アミノ酸の配列とタンパク質の立体構造には強い相関がある。タンパク質の立体構造やその濃度と細胞膜の機能には強い相関がある。細胞膜の機能と細胞組織の機能には強い相関がある。細胞組織の機能と臓器の機能には強い相関がある。臓器の機能と哺乳類の形質には強い相関がある。

けれども、それぞれの階層を越えて有意差を与えない、階層内に閉じた情報がある。一方で外界から入ってきて有意な影響を与えるコントロール不能な情報があり、それは主要因と混交しないよう統計的に実験水準を組まなくてはならない。ある水準内の挙動や、水準間インターフェイスの解析という世界では、還元的な手法でかなり良好な成果を挙げられるだろうし、化学が物理学に飲み込まれて消えたりしなかったのと同様に、生物学という分野は今後も残っていくだろう。たとえ、日本の大学では腐っているとしても。

--

その、生物系大学院が腐っているという話。これはtwo-face氏渾身の、後進への警告ですよね、「皆殺しの天使」そのものが。「受験生たちは刮目せよ!!」って話。だのに、こんな中年に絡まれて気の毒な話だ。個人的に余りに興味深い話が多いので、知識の浅いことを忘れて、つい手が出てしまう。読むとちょっかい出したくなるので、最近はなるべく読まないようにはしているのだけれども、自制心の甘さから、つい。

で、それはそれとして現実なのだと思うが、大学など当の昔に離れた身からすると、むしろ物理系学科のほうが少数派なのではないか、という気がしている。日本の大学は源流の枯れた湖のようになっていて、最後に残った水溜りが物理専攻とその周辺なのではないかというようにも見える。というのも、文系学科はすでにかなり以前から腐敗が進んでいた。

万学の礎である哲学にしても、日本国内では「哲学学」になって久しい。いわゆる、哲学史。既存の哲学を教えることについては優れているが、自分の哲学を編み出す人というのは、国内では余り見かけない。既存の法令と判例を教えることについては優れているが、なぜ人間は法を必要とするのかを考えている人は、国内では余り見かけない。既存の経済学史を教えることについては優れているが、金融のルール変更を織り込んだ経済学を編み出せる人を余り見かけない。既存の文学史を教えることについては優れているが、未来を拓くような文学を記す人を余り見かけない。

ピペドという言葉を使われるが、こういうものは典型的な「奴隷のための技能」であって、確かに大学院に進む精鋭が学ぶべきものではない。彼らが本来学ぶべきものとして、ギリシャやローマの市民権を持った「自由民のための技能」である、リベラル・アーツというものがある。まず文系三学として、読み聞くための文法、書き語るための修辞法、そして思索するための論理学がある。次に数理系四学として、幾何学、算術、音楽、天文学がある。

音楽だけ少し異質だが、ピタゴラス音律から始まって、純正律、平均律などの音律法、それに作曲技法としての和声法や対位法などを学べば、人間の美意識すら算術幾何と無縁ではないというピタゴラス教団(とカトリック教会)の世界観が学べる。フーリエ変換に始まりシュレディンガー方程式に至る波動の物理も、音楽と必ずしも無縁ではない。天文学は天界の記述であり、自然の哲学であり、現代の物理学の直系の祖先になるだろう。こういう基礎的な素養は、帝国大学や師範大学クラスの大学であれば、大学院に入る前に十分に身に付けておくべきだろうと思う。であれば、特定学科の学問的矮小さなどすぐに見抜けるだろう。

こうした教養を修めた上で専門的研究を行えば、世界的な研究の趨勢の中で、本質的価値に対する研究リソースの過剰や欠乏が見えてくるだろう。広い分野から知恵を借りて欠乏を埋めれば、ビジョンとして世間の5年や10年先を行くことも決して難しくないだろう。それが簡単に評価されるかどうかは別として。研究費の確保は高度に政治的な問題であって、学問とはまた違う問題が立ちはだかる。

日本の大学において「(大学や企業や役所の)奴隷のための技能」ばかりがもてはやされ、「自由民のための技能」が重視されないことこそが諸悪の根源であって、C大の生物は、たまたまそれが閉鎖環境にあって濃厚に堆積しただけに過ぎないようにも見える。理系、文系という言葉が当たり前のように語られるが、それは理系であれば歴史哲学に詳しくなくても許されるとか、文系であれば数学科学に詳しくなくても許されるとか、そういう「住み分け」が悪い方向に現れたのが現在の日本であるように思っている。

もちろん、人間のアタマの容量は有限なので、エキスパートレベルのスペシャリストというのは貴重な人材である。しかし、エキスパートではないが、より周辺知識に詳しいスペシャリストであるとか、特定分野についてのスペシャリティはないが、広範な分野についての浅い知識を有機的に横断できるジェネラリストなどが、バランスよく適材適所で大学なり企業なり政府なりというシステムを運営すべきだろうと思う。一方で現実はどうもそうはなっておらず、餅は餅屋、で全てが動いているように見える。ジェネラリストというのもまた、理解の深さではなく広さに関するスペシャリストであり、そうした水平方向のエキスパートにもやはり重要な価値があるはずではないかと思っているのだが。

という具合なので、生物から飛び出して物理に移籍するなんていうのは国際的に見れば別段珍しいことでもなんでもなく、two-face氏くらいの逸材であれば日本で燻っていないで、極力早く合衆国のどこかでしかるべきポジションを探すべきだろうと思う。南部陽一郎氏のように、国籍上では日本人であることを捨てる羽目になるかもしれないが、それはそれで日本にとっては名誉なことである。

また脱線しそうなので、このあたりで結。

--

本件にレスは要りません。誠実な人にはちゃんとこのあたりを断っておかないと、貴重な青春の時間を中年男の駄弁相手に浪費してしまって良くない。それより本業に邁進してください。
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by antonin | 2008-12-23 01:36 | Trackback(1) | Comments(0)

雑記林

と書いて、「ぞうきばやし」と読む。
おい、山田君、座布団全部持ってって!

--

ラ・ロシュフコーの文庫本が届いて、ざらざらっと読んでいる。読んでいると、痛い。チクチクではなく、ちょうど足裏マッサージで悪いところの反射区を突いたときのような、腫れ物を押し付けて潰すような痛みがある。あの箴言の9割ほどは自分によくある行為を鋭く説明するものであって、まぁ、そういう痛みを伴う。

そしてその読後感もまた、リフレクソロジーのそれに似て、ほてるような脱力したような、そういう快さを伴う。美徳の賞賛と悪徳の排撃ばかりを並べ立てるような、ありがちな説教では決して味わえない種類の快さである。繰り返し読みたくなるような本である。が、おそらくは読みたく思わない日々のほうが健康なのだろう。ムスメの肩を揉むと、くすぐったがる。これが、健康体の反応というものである。

--

寝入ったチョウナンが、足を蹴り蹴り、何やら叫んでいる。今夜だけでも5回ほどになる。

最近は、毎晩帰宅するたびにチョウナンは「なんで~~しないの」とか「なんで~~できないの」などと文句を言われている。"Why don't you ..."というのは疑問文ではなく、命令文である。英語のそれは勇気を促すような温かさを伴うというが、日本語のそれは多分に叱責である。世間は親に対して、当然のようにそうした「躾」を求める。そして親がそれに耐え切れなくなると、虐待だなどといって、よりいっそう圧力を強める。

おそらく夢の中でもチョウナンは、「なんで、なんで」と言われているに違いない。3歳前にして、もうこういううなされ方をするあたり、比較的父親に似ていない性格のチョウナンも、なんとも悪いところが似てしまったようだ。せめて夢の中だけでも、いい子だいい子だと歌いながら背中を叩くが、表情は相変わらず険しい。

「だっこして」とか「パパと寝る」と言い出すときは、無条件に甘えさせるようにしているが、子供や老人の存在を想定していない現代社会では、3歳児が常に3歳児でいることは極めて難しい。全ての道は舗装されて車が走り抜け、歩道は自転車が走り抜け、公園では禁止事項を多数書き込まれた看板が掲げられている。せめて夢の中でだけは、自由に遊んでいて欲しいと思う。

日本社会を云々する動機は全てコドモたちの将来への不安から来るものであって、それ以上のものは何もない。政治とは、悪政を施せば憎まれ、善政を施せば忘れられる存在であるという。誰も政治に興味を持たなかった時代の為政者は、極めて高い尊敬に値する人なのだろうと思う。為政者というのは、やんごとなきに越したことはないのである。コドモたちが親のことをすっかり忘れてしまったとき、私は初めて褒められるに値する親になるのだと思う。

--

「忘れられた世代」だとか、「日本の『大人』事情」だとか、トランジスタ資源の余剰をプロセッサ/ストレージ間帯域不足の補填に生かすためのソフトウェア技術であるとか、いろいろと思うところはあるのだけれども、まぁ、ここは寝ておこう。

--

冬至の東京には、冬とも思えぬ生暖かい南風が吹いた。なんだか、どうでもいいような気がした。
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by antonin | 2008-12-22 02:36 | Trackback | Comments(2)

散財記

少し前になるけれども、地下鉄の駅に資生堂の大型ポスターが貼られていたりして、諏訪内晶子さんの美しさに磨きがかかっている。まぁ、フォトショップなんかも舞台裏で頑張っているんだろうけれども。五嶋みどりさんはもっと評価されるべき。妙に美空ひばりっぽい色艶のある演奏が好き。資生堂のポスターになるかどうかは別として。

いろいろと思うところはあるのだけれども、もう少し寝かせてみよう。

で、散財記。

実家に酒を送った。日本酒を三本。私自身は日本酒の良し悪しなど理解できないし、父もまた寝酒程度に飲んでいるので程々の物でいいのだと言っていた。一応地縁のある酒を選んでみた。

ひこ孫 純米(阿波山田錦)

父が生まれた土地の米を、母が暮らした土地の蔵が醸したお酒。評判も良いらしい。

旭若松 純米原酒 火入れ

私のようなシロウトはこういう特徴のはっきりしたものを好むのだけれども、父はあくまで常用酒として飲んでいるので、こういうのは受け入れてもらえるのだろうか。

19BY秋鹿 霙もよう 純米吟醸にごり生酒

最後にこれ。若い頃に、秋田のにごり生酒、それも近所のおばあさんが自宅で仕込んだという、税法上は「密造酒」という扱いのお酒を飲んだことがあって、まぁ、なんですよ、黒歴史を作ったわけですけれども、多くを語ることはできません。お察しください。

そういう悪魔的な味わいを思い出しつつ発注してみました。クリスマスに夫婦で飲むそうです。そういうのもアリかな。炭酸も出るだろうし。

母にも贈り物を。母は遠慮して何が欲しいとか絶対に言わないので、何を贈ったらいいのかわからない。数年前にヨメが16本骨の傘を贈ったら、あんまり立派で無くしたり壊したりすると怖いから使えないわぁ、とかなんとか言いながら大変に喜んでいた。私にはそういうものを探してくるセンスがないのでどうにも困る。というわけで、とりあえず食えるものを送りつけておいた。

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[冷凍or冷蔵]香住のおっきなキス 大量17匹前後(600g)[きす]

エクストラ・ホタルイカは、年末年始のどこかで実家を急襲してコドモたちに食わせるためのもの。父に比べ、+8dBくらい世話になったはずの母への贈り物の金額が酒より少ないのは心苦しいところだが、これ以上冷凍食品を送りつけても冷凍庫の容量というものがあるし、他に何を送ったらいいのか見当が付かず、やむなくこの程度になっている。

昔、家族で金沢へ旅行に行き、甘エビを箱買いして帰ってきたことがあった。まさに甘エビ食い放題で嬉しかったが、最後には少し胸が悪くなった。生なので、一両日中に消費し切る必要があったのだ。今回冷凍なのは遠き慮り、ということにしておいてください。

最後に、今年も一年頑張った自分へのご褒美(笑) 全然頑張っているようには見えないでしょうが。まぁ、いろいろと内的には頑張っているのですよ。

ご褒美というかなんというか、それ以前に日常必需品を紛失してしまったので、その補充を。会社の忘年会でビールを4パイントくらい飲んで、いい気分になって帰ってきたら、翌日になって愛用のヘッドフォンが見当たらないことに気付いた。安敦は痛恨の一撃を受けた。ダメージ6000ポイントくらい。まぁいい。天の我が材を生ずるは、なにかしら用うべきところがあるんでしょうし、千金を散らし尽くすとも、また還ってくるんでしょう。カネは天下の回りもの。

SONY 密閉型インナーヘッドフォン EX300SL ブラック MDR-EX300SL/B

これは、はっきり言って迷った。以前使っていたMDR-EX85SLは本当に優れていたし、今回もお手頃価格帯であの縦型振動板シリーズを提供してくれることに大変興味があり、MDR-EX300SLに対する期待は大きい。けれども、所詮イヤホンは消耗品である、という感覚もある。なくしたり、コードを切ったり、毎日持ち運んで使うものだけに、いろいろなことが起こる。

それに、EX85は性能が高すぎて、それほどビットレートの高くないMP3を通勤路で聞こうとすると、MP3のアラがもろに聞こえてしまうという結果になった。性能の低いヘッドフォンでは逆にこういうアラが隠蔽されて聴きやすくなる。それから、EX85は密閉型らしからぬヌケの良さで、低音から高音までとても良く鳴った。それはいいのだけれども、これは振動板から鼓膜までは密閉型かもしれないが、振動板の裏側は丸開きなんじゃねぇの? というような大きな窓を持っていて、有名な音漏れ問題を抱えていた。

耳の集音器的な部分に例の窓が開いており、漏れているエネルギーレベルそのものはたいして大きくないにもかかわらず、高い指向性で特定の誰かの耳を狙い撃ちするようなビーム状の音漏れを発しているらしかった。私も一回注意されて、以来プレイヤー側の設定で高音カットのトレインモードしか使わなくなった。

つまり、高音質過ぎて室外で使うにははっきり言ってオーバースペックなのだった。しかも通勤経路の半分は地下鉄でもあるので、最新の地下鉄は低騒音化が進んでいるとはいえ、その実力をフルに引き出せるのは人もまばらな歩道を歩いているときだけ、などという悲しい現実があった。という具合なので、もっと安いやつ、たとえば

SONY 密閉型インナーイヤーヘッドホン EX76LP シルバー MDR-EX76LP/S

なんていうあたりで十分なんじゃないのか、などという葛藤もあった。けれども、なんといっても「頑張った自分へのご褒美(笑)」なので、ささやかに奮発して大口径の振動板を備えたアレに決定した。これを耳に、来年も頑張ろう。

あと、各方面から批判の強かった3サイズ抱き合わせ販売のイヤーピーススペアも、サイズ別でも買えるようになったみたいですね。もっとも、初期の製品と違ってEX85では改善が進んでいて、イヤーピースがお猪口になって裏返ることはあっても、外れたことは一度もありませんでしたけどね。あと、世間ではSサイズでも大きすぎるぞバカヤローという声が多くて意外なのだけれども、私はLサイズでも装着具合によっては隙間が出来た。耳ほじりすぎなんだろうか。

ソニー ハイブリッドイヤーピース サイズL ブラック EP-EX10L/B

残りは、もののついでに。

EPSON ICBK31 インクカートリッジ ブラック

これはまぁ、急ぎでもないしAmazonで買うほどのもんじゃありませんが、面倒なので。

最後に、文庫本で読む古典コレクションシリーズ。

ロウソクの科学

しばらく市場から消えていたのだけれども、角川からちょっとマヌケな表紙で刊行されていたので購入。まぁ、もっとステキな訳がプロジェクト杉田玄白界隈で拾えるわけですけれども、文庫がいいんです、文庫が。

ラ・ロシュフコー箴言集

底意地の悪さ、ここに極まれり。逆にこれくらい極まると、澄み切った美しさがある。液体のヘリウムは、青いのだという。見たいような、見たくないような。ラ・ロシュフコー閣下のような人物が身近にいるとして、彼は付き合いやすいだろうか、付き合いにくいだろうか。おそらく、自分自身の醜悪さに対して極めて鈍感である人と、逆に自分自身の醜悪さに慣れきって、もはや何を言われても動じないような人にとっては、極めて魅力的な人物に写ったのではないか。私のように中途半端な人間は、近づかぬが吉、ではあろうと思うけれど。


あと、当初は重たい本をいくつか買おうと思っていたのだけれど、本棚を見て積ん読のあまりの質量に負けて断念。戯れに「まだ読んでいない本が5キロ(グラム)くらいあります」と言ったことがあるけれど、実際に計量したらきっと冗談になっていないと思う。

以下、「いつかはクラウン」的なリスト。欲しがりません、勝つまでは。

ゲーデル、エッシャー、バッハ―あるいは不思議の環 20周年記念版

これを読むと押井守さんの映画が批評できるとか何とかいうタワケた評判があって、読むのを避けていたのだけれども、「ゲーデル本あれこれ」あたりを読むと、この歳になって改めて興味が掻き立てられる。が、その前にちゃんとSICPとかマンキューの入門編とか読もうよ、ということで今回は断念。でも結局、時間がないんじゃない、気力がないんだ。だいいちこんなの書いてる時間はあるわけですしね。いつかはクラウン。

あと、これ。(2008/12/25追記)
実践ソフトウェアエンジニアリング

これより先にSTLとかTR1とかBoostとかpthreadをしっかり勉強しろと。UNIX標準toolsだけじゃなくて、VSとかEclipseなんかのIDEにも精通しろと。コンパイル時にテンプレート解釈される再帰処理がチューリング完全であることを生かして実行時負荷の軽いコードを書けるようになれと。その前に普通に納期守って仕様を満たして次の仕事につながるようなコードを書けと。でも、CMOSレイアウトレベルからクラウドレベルまで理解したい。人的リソース管理も理解したい。財務管理指標だって理解したい。ボロは着てても心は錦。いつかはクラウン。

もし、今12,000円もらえたら・・・。住宅ローンの繰上げ返済に使うだろうな。あの話、どうなったんだろう。今年も東京都庁から暮れの元気なご挨拶が届いて、奨学金の返済35,000円を年明けに落とすから、年内に耳を揃えておくようにと言われた。はい、それは万端抜かりなく予算に織り込み済みでございます。当時は審査が甘かったとはいえ無利子の奨学金を借りて、税金が注ぎ込まれた実験設備を使って学び、挙句にこんなになってしまって、納税者の皆さんに申し訳ない。

こういう格言があるという。

「会社には二種類の人間がいる。
 会社を養っている人間と、会社に養われている人間だ」

ここで「会社」を「国家」に置き換えれば、私は明確に後者だった。まぁ、最近はかなりプライマリー・バランスを持ち直しているとは思いますが。

「本というものは、自分で買うものである。いくら良書でも、読めと与えられたら、薬くさくなる」

なんていう程度のことであれば、日本にもこういうことを述べる人がいるらしく、薦められた本を馬鹿正直に読むのも癪なので、もっと気の利いたタイトルを冠したほうの文庫本を買おうとしたが、絶版なのだという。区内の図書館に蔵書が一冊だけあると、データベースは答えた。気が向いたら借りてこよう。

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蛇足の故事、もしも足を三十対くらい描いておれば、それはそれで百足として成立したかも知れぬものを。いや、蛇を描こうって賭けなんだから、やっぱり負けは負けだよな。というわけで、蛇足。

Sorekika 【第309回 スーパーカー的なものの呪縛】

私は本来、こういう文章を書く人になりたかったのだった。思えば遠くへ来たもんだ。帰りたい。私は切望する。帰りたい。

だから、そういう書き方じゃだめなんだってば。寝よう。
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by antonin | 2008-12-20 03:19 | Trackback | Comments(0)

情報教宣言

早く寝なきゃ、早く寝なきゃ。

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安敦誌 : 時間論とか

ここらで書いたとおり、私は世界の根源は情報であると思っている。危険率15%程度の水準で、「世界の根源は情報だけではない」という仮説を棄却できる程度の信頼度でこれを信じている。って、別に統計的仮説検定をしたわけではないのだけれども、85%程度の確率で信じているという感じ。

もちろん、カネの本質は情報である。熱力学的エントロピーの本質もまた、ある系について観測者が失った情報量である。つまり、その本質的単位はエントロピー・ユニットなどではなく、ビットである。古典的実験によって観測可能な物理量、温度や圧力や質量は全て統計量であり、各分子原資の運動量と位置、電子状態、原子核の内部状態まで、詳細な個別情報を観測者が得られれば、物理状態は全く変わらずとも、系のエントロピーは下がる。そして、時間の経過と共に観測者が持つ情報と物理法則から計算される推定値と、実際の系の常態の乖離が進むに従い、系のエントロピーは増加する。この間、観測される系と観測者を含めた統合系のエントロピーは短調に増加している。

全ては情報である。世界の本質は情報である。確率とは、系が持つ情報のうち、一部の情報だけを観測者が有している場合に、残りの情報を含めた系全体の挙動を推定する相互情報量の表現である。

ここに面白い記事がある。

皆殺しの天使 : 乱雑さの芽について考えてみた
本質的に計算不可能な数列を、乱数列と呼ぶのかもしれませんね。


うはははは。本質的に計算不可能な数列などありうると思うかね? あるのは、「現実的に」計算不可能な数列だけだ。どのような美しい規則に従った「かのように見える」数列も、漸化式ではなくあくまで数字の羅列として観測したとき、果たしてそれが本当に「ランダムではない」と証明することができると思うかね? 無限の長さにわたって続く数列が全ての計算モデルに合致しないと証明するためには、「全ての計算モデルについて」「無限の長さにわたって」比較する必要がある。このテストをパスできた数列だけが、真にランダムな数列と呼ぶことができる。うはははは。

私が考えるところでは、「乱雑さ」とは、「予測不可能性」を言い換えたものでしかない。予測に必要な完全情報が与えられている数列は、たとえどんなに入り組んで「めちゃくちゃな」数列であろうとも、それはランダムではない。静的な数列である。しかし、どんなに単純な数列であっても、予測に必要な完全情報を有しない系は、徐々に予測の精度が下がっていき、完全な予測が不可能になってくる。その精度低下が緩やかな系もあれば、わずかな情報損失でも急激に予測困難になる系もある。

メルセンヌ・ツイスタ(MT)は、当然に計算可能な数列である。しかし、MTが擬似乱数列計算に利用している変数の値そのものは数列の利用者に開示されない。MTが出力している数列は、内部で利用している「真の数列」のうち、内部情報の推測が困難な程度に情報を削ったものになっている。もちろん、MTのアルゴリズムは公開されているため、プログラムを解析して変数を吐かせれば、ある時点以降のすべての数列を予測可能である。しかしあえてこの情報に目隠しをして、MTが出力する数列を素直にカイ2乗検定などの統計検定にかければ、それがかなり高度に一様乱数の性質を満たしているという結果が出る。だが、最長周期がバカに長いとはいえ、MTも結局は有限の周期を持つ循環数列なのである。

私は情報教信者なので、アインシュタインのように「神は賽を振り給わず」と信じている。つまり、不確定性原理の向こう側には、必ず「隠れたパラメータ」が潜んでいると信じている。局在化パラメータの存在はEPR相関やベルの不等式などによって否定されたが、4次元を超える時空の位相構造や、あるいはもっと乱暴に非局在パラメータなどを想定することで、シュレディンガーの波動関数が統計量を表現する関数となるような、「個別情報」が存在すると信じている。ただし、それがこの時空に物質として存在する我々人間から観測可能である、というところまでは楽観視していない。あくまで、数理モデル化が可能だろうと推定している程度だ。

安敦誌 : 一市民の宇宙論

ある、美しい数理モデルが成立する。それで全てを「説明」することが可能になる。しかし、それが「実用」になるかどうかはまた別の話だ。理学は説明だけで満足できるが、実用にはあまり興味がない。工学は実用だけで満足できるが、説明にはあまり興味がない。相補的な両者が車の両輪となって、科学は進歩してきた。

「彼」は、C大の生物に、説明も実用も存在しないことに苛立っているのだろう。実は、私が今年度の始めに新人研修で指導した後輩も、C大生物のマスター卒だったりする。彼はプログラマーとして配属されたが、実はif文もまともに扱えないほどロジックに弱かった。決して頭が悪いというわけではないのに、である。嗜好作物の根がゴニョゴニョとか言えば通じるのだろうか。

ともかく、乱雑さとは予測の手がかりの少なさであり、予測の手がかりの少なさは、次の二つの要因の影響を受ける。ひとつは、予測に必要な情報をどれだけ持っているかということ。もうひとつは、予測に必要な情報をかなり持っているとして、その予測精度がどこまで継続するかということ。どんなに単純な系であっても、予測に必要な情報が足りなければ、予測は困難である。

1,2,3,1,2,3,.....

という数列がある。この100桁目の数字はいくつか。どうだろう。1だろうか。不正解。正解は、12です。この数列は、

1,2,3,1,2,3,4,1,2,3,4,5,1,2,3,4,5,6,....

というように続く数列だったのです。

頓智のようだが、これはあくまで単純な例でしかない。この例では、予測に必要な情報の欠落の意味を説明するだけの力を持っていないかもしれないが、それでも上記の6個の数字配列に続く無限長の数列の可能性は、無限に存在する。10の23乗個の数列を完璧に説明できた数式も、10の23乗+1を完全予測できるとは限らない。推測に必要な完全情報があれば完全な予測は可能だが、完全情報を持たなければ、上のような有限の数列は皆、乱数列と呼びうる。

一方で、完全情報を持っていても現実的には予測不可能という系も存在する。1兆桁の円周率の数列も、10のアレフ0乗という順列組み合わせを、10の1兆乗で割った組み合わせ数まで減じたに過ぎない。アレフ1を有限の整数で割ったところで、それは相も変わらずアレフ1のままだろう。円周率の1グーゴル・プレックス桁目を求めることは、今のところ現実的ではない。計算量理論の仮説検証次第では、我々の宇宙が熱平衡という死を迎えるまでに計算を終えることは不可能、という結論が出るかもしれない。

円周率の1グーゴル・プレックス桁目を求める計算に必要なエントロピーと、宇宙全体が熱平衡に至るまでに増加可能なエントロピーを比較すれば、「現実的な」計算可能性というものが判断可能になるだろう。もっとも、熱平衡付近で宇宙が再び「インフレーション」を起こし、新しい散逸構造が生まれるなんていう可能性も、無きにしもあらず、ではあるのだけれども。

ともかく、リベラル・アーツに限らず、この世界の森羅万象を記述せんとする学問は全て、情報学の個別適応化に過ぎないと、私は85%くらいの確率で信じている。生物学も化学も物理学も、おそらく神の眼から見れば五十歩百歩に違いない。

世界を記述せよ! 全ての物理量の単位はビットだ! そうでないならば、なぜラジアンが、レイノルズ数が、それら無次元量が物理的意味を持つのだろう!

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そう叫ぶと、Antoninは恍惚の表情を見せながら意識を失った。
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by antonin | 2008-12-18 02:34 | Trackback(1) | Comments(5)

登れそうにない山に登る

いろいろと書こうと思ったが、実家への贈り物を選定したりしていたら時間がなくなってしまった。明日は保育園で祖父母参観のイベントがあるため、コドモたちを早めに連れて行かなくてはいけない。明日の朝起きられないと喧嘩になるので手短に。

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「登れそうにない山に登る」方法。タイトルだけドーキンスのパクリ。

1. ビジョン
 とにかく理想的な状態を思い描く。実現可能性はどうでもいい。Idealに、イデア的に、理想像を描く。そして、現実は複雑だが、理想像はとにかくシンプルに。細かいことはあえて忘れる。理想像には本質が描き出されていなくてはならい。

2. 千里の道も一歩から
 上記の理想像と現状との乖離を分析する。その乖離の根本原因に近い部分と、派生的な部分に分ける。根本原因に近い部分のうち、最も派生部分への影響が大きい部分を探す。そして最初にここを改善する。

3. 小さなことからコツコツと
 上記で定めた変革ターゲットを攻略するために必要な、攻略ルートを探索する。まずは、手を付けやすい外堀から、少しずつ、しかし着実に埋める。

4. 勢いが大切なこともある
 外堀が十分に埋まったと判断したら、一気に内堀を埋め、本丸まで攻め落とす。手を休めてはいけない。妥協してはいけない。ここまで来てから引いてはいけない。ルビコンを渡る。賽は投げられた。

5. 伸るか反るか
 勝負は時の運。負けたら、寝る。が、もし勝てば、寝ているヒマはない。次へ進む。

6. 運を実力に変換
 緒戦の勝利によって理想に一歩近づいたわけだが、ここで勢いを駆って次に進むのは正しい。しかし、暴走してはいけない。戦勝処理は極めて大切である。ひとつは、後戻りさせないための周辺整備。必要なら内堀も外堀も掘りなおす。まずは手に入れた城を頑強なものにする。かつて批判していたものを自分で再興させるようなことも必要。君子豹変す。

7. 理想と現実は違う
 あくまで理想像を目指して進むわけだが、ここで二つの作業を実施する。ひとつは、理想像の修正。ただし、本質は変わってはいけない。神々しいイデアの骨格に、魅力的で現実的な肉付けを開始する。これは緒戦の経験に裏付けられていなくてはならない。もうひとつは、攻略上の戦略と戦術の修正。これも緒戦の経験によって、予想以上に正しく働いた部分と、予想ほど正しく働かなかった部分について、その要因を慎重に分析し、次の戦略と戦術を得る。つまりは「カイゼン」。今後も同様のPDCAサイクルを回しながら理想を目指す。

8. 千里の道も2歩目
 修正された理想像を基に、プロセス#2と同じように次の目標を設定する。そして修正された戦略戦術を引き出しに追加し、かつそれには囚われずに、次の目標のための外堀を攻略する。

9. 信長の野望
 上記のプロセスサイクルを、死ぬまで繰り返す。このプロセスサイクルが進むに従い、最初は攻撃100%だったのが、徐々に保守比率が増し、最後には攻撃比率が限りなくゼロに近づき、保守100%に至る。そのとき、当初設定した理想像に確かに近づいているはずだが、当初設定した理想像そのものとは、遠くかけ離れたままだろう。だが、それでいい。純粋な理想像とは所詮は極論に過ぎず、100%の保守が現実に機能しうるということは、それが優れて中庸であるということだ。

10. 全ての物語には終わりがある
 最善の中庸はありうるが、完全な中庸はありえない。続く誰かが新たな理想像を掲げて攻撃を始めるまで、現状を維持すべく死力を尽くして保守せよ。しかし、続く誰かが一里塚を陥落したならば、保守を託して静かに去れ。それまで生きていられれば、だが。

11. はてしない物語
 ・・・というあたりを日本国の財政改革というシナリオでシミュレート。それができたら、自分自身の物語を開始せよ。国の世話より自分の世話。梵天丸もかくありたい。
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by antonin | 2008-12-18 01:08 | Trackback | Comments(0)

半分くらいがちょうど良い

松浦晋也のL/D: 知っていることと知りたいこと、知らないこと
「他人事じゃないよなあ。僕らの仕事も同じだ。知っていることしか知りたがらない人たちに、知らないことを伝えて行かなくちゃならない」


よくわかる。だいたい人は、こういう周囲の無理解を感じている。けれども、自分自身を振り返ってみても状況は似たようなものだし、松浦さんにしても興味も関心もない分野というものはあると思う。人間誰しも持ち合わせの知識というものがあって、持ち合わせの経験というものがある。

その知識や経験の上に、3点支持で立ち上がるような知識や経験については、理解や共感を示すことができる。しかし、持ち合わせの知識や経験の上には、どうにもうまく接続しない知識や経験というものも当然ありうる。そういうものに対しては、人間は無関心やうっとおしさというものを示す。ある人はベートーベンの交響曲に人間の深みを感じるが、また別の人はJPOPに生きる意味を感じる。それらは相互に無関心で対抗することが多いが、かといって完全に共存不能というわけでもない。

それでも人は、自分の理解や共感を他人と共有したいという欲求があり、さまざまな説得を試みる。説得に成功することもあるが、失敗することもある。失敗も慣れたものなら素直に引き下がるが、ときには苛立ちが攻撃的に出ることもある。

松浦晋也のL/D: 神と悪魔と罵詈雑言

科学を信奉する者も似たり寄ったりのところがあって、科学を自分のためのものとして強く信じるだけでなく、広く人間の信じるところとなるべきだという信念のある人は、科学的知識を遍く普及させようとする。しかしいつまでもその説得に応じない人を見ると、呆れてみたり、思考能力に欠けた馬鹿者であるなどと罵詈雑言を吐いて立ち去ったりする。私もよくやる。誰もがそうかというと、良くできた人もいて必ずしも全員でないところがまた人間の不思議であるわけだけれども。

本などを読んでいて、それを楽しめるためには、いくつかの条件がある。まず、読んでいて意味がわかる程度に、既に知っている情報で内容の半分程度が埋められていること。次に、読むことに意味が感じられる程度に、未だ知らない情報で残りの半分程度が埋められていること。最後に、自分が持っている既存の理解を覆すような情報が内容の1/4を超えないこと。もしこれを超えた場合には、文章を読み進めていても内容に共感することができず、「信用できない」とか「つまらない」という判断を下すことになる。

音楽についても似たようなところがあって、自分の知っている音楽に似ている部分が半分程度で、自分の知っている音楽にはない新鮮な部分が半分程度含まれた音楽を聴くときに、最も気分良く聴くことができるような気がする。もちろん、人間の脳は忘れる装置なので、同じ本を読み返しても毎回新たな発見がある名著があるのと同じように、何度聞き返しても新たな感動をもたらす名曲というものがある。

知りたいと思うようなことしか知ろうとしない、というのは当然として、知っていることしか知ろうとしない、というのは、どちらかというと人間の認知能力の限界によるものなのではないかという気がする。全く知らなかった知識を、一度に知ることはできない。遠い道を歩くように、一歩ずつ進まなくてはたどり着けない理解や共感というものがある。マンガで学ぶ、というステップも、最初はあっていいものだと思う。

けれども、これは性格にもよるのだと思うけれども、知識欲には暴走する性質というものがある。ひとつのことに深く分け入るタイプの人もいるし、多くのことに広く分け入るタイプの人もいるが、とにかく、一度理解の足場が生まれると、その足場から次のステップへと進むことが可能になる。そして、それを際限なく続けてみたくなる衝動に駆られる。

一度足場に上ると、上る前とは全く違った光景が見えるわけだけれども、数段手前からは、その眺めを知ることはできない。その壇上でなにやら物識りげに語っている人間を見ると、それを疎ましく思ったり、興味を持てなかったりする。それはおそらく、自然な反応なのだろう。これを意地の悪い老博士は「バカの壁」と呼ぶわけだが、さほど馬鹿にするほどのことはないようにも思う。それが人間として自然なのだろうから。
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by antonin | 2008-12-16 03:27 | Trackback | Comments(0)

無題

最近、古い話に自己リンクを張るのが自分の中で流行している。いわゆるマイブームだ。マイブームって言ってまだ通じるのかな。よくわからん。「エドはるみ」とかいう人がいて、どうやら同世代らしいのだけれども、ネットニュースの芸能記事でときどき目にする程度で、実際にブラウン管で目にすることはない。(って、最近のテレビは多くが液晶だろうが、我が家は依然ブラウン管なのだ)。で、この人の声を聞いたことがない。もちろんネタも。エドって、普通男名前だよな。エドワードではないのか。よくわからん。

世にあるものをかき集めて、世にないものを構成する作業を、創造と呼ぶ。創造は多くの人間にとって喜びであるが、創造し続けることを要求された人間は、その作業のために自己を崩壊に陥れることがある。

まぁ、なんというか、楽しくいこうぜ。

しかしまぁ、そうは言っても、若いうちには一度くらい臨死体験をしてみてもいいのかもしれない。

もうこの歳にもなると大抵の事態には平静を装うことができるようになるのだが、そうは言っても全ての文章が自分を批判しているように読めてしまう数日を過ごすこともあって、そういう日は薬でも飲んで黙って寝ているようにしている。これができるまでに10年以上かかった。悪夢のような10年ではあったが、今となっては悪くない経験だったと思える。喉もと過ぎれば熱さを忘れるというやつだろう。

学生時代、原発の問題点が事故の発生時の放射能汚染にあるのではなく、正常に運転を続けた際に定常的に発生し続ける高濃度放射性廃棄物であるということを知り、激情を持って原発問題に取り組んだような日も、いくらかあった。そして現在どうなっているかというと、「オール電化住宅」といやつに暮らしている。オール電化住宅とはつまり、原子力住宅である。

原子炉に制御棒をまばらに挿入することによって、原発を定格出力よりも低い出力で運転するという出力調整実験が行われたことがあったが、これを商業炉での実験中に緊急停止を発生させてしまい、以後この手の実験ができなくなるという事件があった。以来、原発は短期的な電力需要に関係なく定常出力で運転を続ける発電デバイスとなってしまった。つまり、昼間のピーク電力時に一定の原子力エネルギー比率を確保しようとすれば、夜間には電力が余ってしまう。

この余剰電力を蓄積し、ピーク時に発電に回すというエネルギー蓄積方式として、水力発電用のダムで揚水するという手段もあるが、その容量も効率も決して満足のいくものではない。そこで電力各社は、時間別電力課金によって日内電力消費量の平準化を図ろうとした。これが、夜間電力を活用したオール電化料金プランの誕生になる。

東京電力の「電化上手」プランでは現在、深夜電力料金は夏季を除く昼間電力料金の約3分の1程度の金額に設定されている。

TEPCO : 個人のお客さま | 電気料金のご案内 電化上手(季節別時間帯別電灯)

このプランが誕生した当初は、昼間料金と夜間料金の比は7:1程度であったようだが、程なく5:1程度に緩和された。深夜電力が余っているから安くできるのであって、順調にオール電化住宅が普及し、それによって深夜電力が多く消費されるようになれば、夜間電力の余剰はなくなる。となれば当然、夜間電力を安く保つ動機もなくなる、ということになる。

しかも、蒸気タービンの脱落損傷事故や中越沖地震による原発の一斉停止を伴う点検などのため、深夜であっても火力発電による発電が必要になっているという噂も聞こえてくる。だとすれば、もはや深夜料金を安く抑える理由もないということになる。あるとすれば、過去の契約に対する義理か、将来の原発運転完全回復への備えだけということになる。

そういう、原子力住宅に暮らして安穏としている自己に気付き、抜刀しかかっている自己を見ることがある。

今の日本文化というのは、新聞が育てたのではないかと思っている。新聞の文化とはつまり、批判的文化である。権力のある政治家を、知力のある官僚を、財力のある大企業を、体力のある若者を、叩けるだけ叩く文化である。そして現在の日本人は、この文化をよく吸収して育った。そして、私もその一員である。

であるので、現代の日本人は皆、批判を能くするのだけれども、概ねその批判というのは外に向いている。これは、大変健全でよろしいと思う。私が書く文章も、平常この則を外れない。だが、15歳に高等学校に進学してからの私を捉えて離さない最大の問題というのは、自分自身の愚かさ、自分自身の弱さ、自分自身の甘さ、自分自身の卑しさ、自分自身の俗悪さ、自分自身の偽善、自分自身の欺瞞、自分自身の醜悪、自分自身の卑劣さであり、またそうした自己を眺めることしか知らない高慢さであった。

それらを一言で表すと愚痴であり、なるべく言わないようにしているが、ときおり表に現れてしまう。どのように現れるかというと、外へ向けて批判を述べることができる人は羨ましい、というような表現になることが多い。しかし多くの人は自己の愚劣さなど知っており、それを克服しようと日々努力しており、その努力する姿勢こそが徳なのであり、それを知って却って自己の不徳に苦しむだけにしかならない。

という具合で、子供と公園で遊ぶのは楽しい。ムスメが補助なし自転車に乗れるようになった。素直に喜びたい。さーて、もうすぐ天皇誕生日とクリスマスですねー。ケーキはどんなのにしようかなぁ。

安敦誌 : 狂気の淵
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by antonin | 2008-12-15 00:59 | Trackback(1) | Comments(0)


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