安敦誌


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冬の落葉樹

樹木の形というのは、複雑なものである。遠目には、ただモコモコと緑が積み重なったものにしか見えない。

ところが、世の中には落葉樹というものがある。秋には葉を落とし、冬には枝だけの姿になる。葉を落とした枝だけの姿を見たときに初めて、樹木の本当の姿を理解できたような気分になる。そこには整然とした秩序が窺い知れる。

しかし冬の落葉樹というのは、その樹木の本質ではない。やはり、夏の盛りに緑の塊となって光合成を盛んにしている時期こそが、その生命の本質である。それを理解する一助として、冬に見られる枝だけの姿というのは大変な参考になる。しかしそれは参考に過ぎず、本質ではない。

科学というのは樹木の枝葉を切り落として幹だけを眺めるような学問ではあるが、結局のところ枝葉の付いた姿こそが本質であるという謙虚さはやはり、どこかに残しておかなくてはならない。幹は幹として厳然と存在しているが、そこから連続的に枝に葉に葉脈にと、事実は連鎖している。

ある一枚の葉の面積は限られている。ある一枚の葉と別の一枚の葉を厳密に比較すれば、それは絶対に一致しない。しかしそれらの間に何かしらの共通点を見出すということが、人間の認識の基本機構であり、そこから逃れることは当面不可能であり、それを認めて活かさなくてはならない。

共通点だけを抽出した理想的な葉を知ることは大いに参考となるが、現実に存在するのはどれもが理想とは異なる特別な一枚の葉であることを、常に忘れてはならない。そして全ての葉を集めつくすことが不可能である以上、理想的な葉を知ることもまた諦めてはならない。
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by antonin | 2009-01-29 23:43 | Trackback | Comments(0)

HAL9000の狂気

やはり、1週間もちませんでした。でも、ネットからの情報を「遮断」とまではいかなかったものの、かなり制限することはできました。依存症にしては上出来かな。それもまた言い訳か。

とにかくそこでわかったことは、情報を制限すると、やはりイライラが落ち着くということだった。もうひとつ、乱雑でまとまりがつかなかった情報が、少しずつまとまってきて、頭の中で落ち着くようになったということ。これはボルツマン・マシンにおけるsimulated annealingのようなもので、常識という名の局所解から脱するブレークスルーには温度係数を上げて乱雑性を高める必要があるけれども、ある時点で温度係数を落として評価学習をしなくてはならないのと関係があるような気がしている。

現代は「大きな物語」が消失して多くの価値観が相対化した世界だが、これは統合失調症患者にみられるという「自然な自明性の喪失」が、社会組織全体に起こっているようなものだと考えていた。ところが、T-twoface氏が異常なまでのイライラと共に表明したとおり、現在の若い世代にとっては「自然な自明性の喪失」どころではなくて、「『自明性の喪失』が自然」なのだそうだ。なるほど、これは苦痛だ。

オンライン書店ビーケーワン:西田幾多郎善の研究 実在と自己 能動知性 5「毅然かつ丹念に編集された「書物」」

世界は固定観念によって眺めていてはならず、是是非非で検討しなくてはならない、というのが従来の考えであった。しかし現代はもはや、何を是として何を非とするかの基準選びから始めなくてはならないのだという。確かにそうかもしれない。そして、そこまで掘り下げてしまえば、そんなものを選ぶ基準などというのは、せいぜい個人の感情的なものくらいしか残らない。したがって、どこかで感情的なまでに強固な是非基準を選び取る「決断」を迫られる。これが、ネット言論に見られる「右傾化」だとか、反面として「平和主義」や「平等主義」が先鋭化している原因なのだろうか。

根本的な自明性の上に構築された理性的判断の系統が育っていない現代の日本人は、ちょっとした否定的な扱いや無視にさらされると、たちまち自信を失ってひどい不快に見舞われる。ある論理は意見を肯定するのに、ある論理は同時にそれを否定する。互いに矛盾する刺激が中脳に近い感情の座を刺激する。すると、人間はキレる。発作的に激怒する。これは私自身も経験していることなので、この現象の意味するところはよくわかる。

哲学者はしばしば発狂するが、現代日本の若者もまた相互に矛盾する情報の氾濫に見舞われている。結果として、それらに対して無関心を決め込むか、あるいは哲学者のように考え尽くした挙句に発狂するか、そういう道しか残されていないようにも見える。

発狂というといかにも人間的な要素に見えるが、論理的に考えれば、論理的な価値判断が実際的な価値判断と食い違う結論を出す、というだけのことに帰結できてしまうのではないか。つまり、感情というのは単に論理的価値判断に対して「教師信号」を送っているに過ぎず、理性的論理学習の補助装置として利用されているに過ぎないのではないかと考えている。

ある目標を設定すると、その目標に対してある行動が「合理的」であるか「非合理的」であるかという価値判断が可能になる。そこには必ずしも感情は必要ない。しかし、互いに矛盾する複数の推論規則が衝突する場合、どちらかを棄却して全体的な無矛盾性を維持しなくてはならない。そこで、「公理」として設定された目標に照らし合わせて、より「合理的」な結論を導き出せるような推論規則のほうを採用することができる。かくして、惑星探査を究極の目標としたHAL9000は理性的に発狂し、乗組員を殺し始めた。

これが、現代の若者たちに静かなる発狂を求める状況に似ている。経済的な成功を単極的な目標としてしまうと、経済的利益のためなら弱者を切り捨てたり、あるいは起死回生の一撃のために大量殺人もやむなし、という誤った結論が導き出されてしまうことになる。これを防ぐほとんど唯一の方法は、人間的な触れ合い、体感的な愛情の交換しかないのではないかと思う。

そして、そのような同胞同士で愛情の交換を勧める言説は、世界のあらゆる宗教に含まれている。ただ科学と経済だけが、それをうまく記述できなかった。そして、異なる宗教どうしは、結果として同じような目標を目指しながら、その根本原理を共有できないがために、あるいはある種の慣習的実践方法が共有できないがために、互いに憎しみ合い殺し合ってきた。

その諸宗教や諸思想に包括的な相対性を与えた科学的、あるいは論理的思考は、今や各種の宗教的な原理を越えて、それらの内包する教義や習慣に対して、許容できるものと許容できないもの、共存できるものと共存できないものの峻別を下す義務を負っているのではないかと感じている。そして、その峻別が仮想的で狂信的でイデオロギッシュなものにならないためには、科学を信奉するものといえども、体感的な愛情の交換に飢えていてはならないのではないかとも思う。HAL9000の過ちを避けねばならない。

とにかく難しいのだけれども、もう少しゆっくりと考えてみたい。
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by antonin | 2009-01-28 22:54 | Trackback | Comments(10)

良い本というのはあるもので

本日、Amazon.co.jpより荷物が到着。全部、本。「デルタブロガーの憂鬱」で書いたもの。

日本人が知らない恐るべき真実 〜マネーがわかれば世界がわかる〜(晋遊舎新書 001) (晋遊舎新書)

安部 芳裕 / 晋遊舎


ほう、こういうことができるようになったのか。これだとExcite Japanにアフィリエイトのお金が落ちるようになっているんだろうな。exblogの運営安定化のために、なるべく利用してあげるようにしよう。

さて、上記の本の納期が3~5週間後となっていたので心配していたが、思ったより早く届いた。オドロオドロしい表題とは裏腹に、内容はきわめて健全で理知的な指摘が並ぶ。もちろん、現代経済を批判する論調なので、ちょっとした勇み足は見られる。たとえばアルミの精錬の過程で発生するフッ化水素を、さも恐ろしいようなもののように書いているが(そして実際に危険なのだが)、取り扱いさえ誤らなければ、数ある化学物質の中でフッ化水素が特段に危険というほどでもない。言いようによっては爆発事故を起こしたガソリンのほうが危険である。

名古屋立てこもり放火事件 - Wikipedia

それはそれとして、現在の経済現象を眺め、そこから日常へ至る出来事を理解するための基礎となるような知識がふんだんに盛り込まれていて、しかも読みやすい。結論はさておいて、知識だけを読み取るといいだろう。

Money As Debt(日本語字幕版)

このあたりも、金融の基礎中の基礎をマンガで楽しみながら学べて面白い。必要なのは、楽しむこと。知っておくこと。しかし、飲み込まれないこと。いずれ、その情報を利用できるようになる時が来るだろう。

ユダヤ5000年の知恵―聖典タルムード 発想の秘密 (講談社プラスアルファ文庫)

M. トケイヤー / 講談社


キリスト教や仏教を解説した本というのは多いし、むしろあちら側から押し売りに近いことをしてくるわけであるが、ユダヤの知恵とやらも同様に、しかもユダヤを名乗らずにひたひたと打ち寄せていることがわかる。しかし、ユダヤの知恵は「陰謀」と呼んで片付けるにはあまりに膨大すぎることがわかる。上記の777円の本は、ほんの入り口でしかない。簡単には理解できないので、とりあえず「陰謀」と呼んでおくことにする。理解できないものというのは怖いものである。

ユダヤ人が語った親バカ教育のレシピ

アンドリュー・J. サター / インデックスコミュニケーションズ


これも、育児の基本として非常に良い。ただし、内容は多少和風にアレンジする必要があるだろう。日本古来の子育てと、大筋矛盾はしないはずだ。子育ては大変。基本がわかっていれば、こちらも楽になる。お互い、余裕が生まれる。これが望ましい。夫婦で読もう。

最後に。

アベンジャー型犯罪―秋葉原事件は警告する (文春新書)

岡田 尊司 / 文藝春秋


最近の少年、そして現在の40歳未満に見られるという、凶悪犯罪者の心理的特徴を引用してみよう。
  1. 自己中心性
  2. 誇大な特権意識
  3. 優越的な態度
  4. 注目への過剰な欲求
  5. 責任転嫁
  6. 覆い隠された、低い自尊感情

おお、なんという俺。ただ、本書に挙げられた凶悪犯罪者と私自身には、ひとつだけ大きな違いがある。暴力的な攻撃欲求がないということだ。暴言を吐いたり怒鳴ったりすることはあるが、人を殴ったりすることは15歳くらいを最後に一度もないはずだ。これは両親の愛情のためだろう。ではなぜこのような病的な心理になったかというと、幼少期に過保護に育てられたからだ。

詳細は述べないが、母が私に限界まで愛情を注いだことによって、私は自己制御能力が劣って育ってしまった。そのため社会的能力が発揮できず、一方の能力が成果とならないことに苛立ったり、ひどい絶望に駆られたりした。そして、現在は「ネット依存症」の状態にあることが、本書でわかった。毎日、膨大な量のウェブサイトから文字情報を読み込んでいる。これによって、脳が情報を処理しきれない状態になっているのだが、同時に快楽中枢がひどく刺激を受け続けている。気になることがあると反射的に検索したくなる。「まぁ、いいだろう」などと、理性が感情を自己弁護するのも依存症の兆候だというし、このあたりが真相に近いのだろう。

経済の仕組みと人々の心理状態との関係なども、私の考察と近い内容になっている。もちろん、ラ・ロシュフコーの言葉にあるように、およそ人間は自分と同じ意見の人しか賢明であると思わないのだから、そういう「同意見」バイアスがあると考えたほうがいいだろう。けれども、同じ状況から同じような結論を見出した人が、他にもいたということは心強い。

そして、まだ健全だった時代に育った日本人による指摘と違い、岡田さんの指摘は非常に共感的で、また非常に切実であることに気づいた。つまり、彼もまた「マージナル」な人なのだろう。医者になる人というのは、儲けのためにそれを目指した人と、自身が患者として救われた経験からそれを目指した人で、大半を占められる。精神科医というのは、あまり儲かる仕事ではなかったのだし、岡田さんの共感にも何かしらの理由があるのだろう。

ともかく、私にも自己愛性障害の症状はピッタリと当てはまるが、程度は重篤ではないし、幸いにして良い出会いにも恵まれているから、不調の原因がはっきりすれば対策はとりやすい。もうこんな時間になってしまったが、しばらくネット情報を遮断し、情報の入手は読書に限定することにしよう。これで終わり、となると羹に懲りて膾を吹くようなものなので、十分な休養が取れたらまたネットへ戻ってくることとしよう。まぁ、1週間くらいでしょうかね。禁煙みたいなものです。無理なく、着実に。
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by antonin | 2009-01-23 02:47 | Trackback | Comments(0)

ガンマブロガーの溜息

クリントン大西先生から微妙なジャブが返ってきた。

クリントン大西の裏日記 十三回忌感想つづき
我がブログも、いわゆる「δ(デルタ)ブログ」になるのかな? かの場所の分類を読んだ限り、我がブログはむしろ「γ(ガンマ)ブログ」かもな(笑)。

☆γ(ガンマ)線のように何者をも貫通する毒性ブロガー。
☆いろんな意味で力強い(近寄りたくない)ブロガー。

ううん、ピッタリだ。

まぁ、そうかもしれない。

アルファ線、ベータ線、ガンマ線とあって、確かにガンマ線が一番「貫通力」が強いのだけれども、なぜに貫通力があるかというと、それは物質透過性が高いからであり、なぜに物質透過性が高いかというと、それは物質との相互作用性が低いからである。ガンマ線はアルファ線などに比べると遮蔽しにくく到達距離も長いので確かに厄介ではあるのだけれども、アルファ崩壊やベータ崩壊の放射能を持った物質が体内に蓄積するような事態に比べれば、実は人体への害は小さかったりする。

端的にいうと、大西先生には毒が足りないのです。確かに毒舌は吐くのだけれども、絶妙の自己フォローが入ってしまうので、こちらにはもはや突っ込む隙がないのです。つまり、表面的な毒舌の背後にある人物的誠実さがありありと浮かんでしまうのです。でなければ、「どちらの価値観も“尊重”する」だとか自分がされて良いことでも、相手が厭がりそうなことなら、やはり人にすべきではないなんてことを真顔で書けるはずがないんです。誠実の皮をかぶった偽善が漂わせる悪臭に比べて、一見乱暴に見える言葉で偽善を叩く任侠の士が見せる誠実さは、この時代にあって、俗悪な現代のネットジャンキーにはもはや手出し不能な麗しき光と共に結界を張っているのです。

という具合なので私のような不誠実で偽善的で自己愛型人格障害チックな中年にはなかなかツッコミどころに困る対象ではあるのですが、一応取りこぼしていた論点を拾っておくことにします。

--

・・・と、ここまで書いて、洗濯物干すのと、携帯電話乗り換えのお得なサービス検索と、楽天コーヒー豆の送り先確認を依頼され、そうこうするうちにこんな時間(1:50)になってしまいました。本来ならピーク活動時間であるのですが、今日はちょっと頭の具合が悪いので続きはまた改めて述べることにします。すみません。
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by antonin | 2009-01-21 01:57 | Trackback | Comments(0)

デルタブロガーの憂鬱

オバマさんって、「アメリカ合衆国建国以来初の黒人大統領」ということになってますが、正確には「非白人」ですよね。オバマさんのお母さんって白人だし(しかも美人さんだし)、だいたいお父さんだってケニア出身の人で、クンタ・キンテのような奴隷のルーツを持つ人じゃない。

黒人じゃない、っていうのは、まぁそんなに重要じゃないのかもしれない。しかし、奴隷の末裔じゃない、ってのは、これは無視できないくらい重大な要素なんじゃないかと思うけど、どうなんだろう。バラク君は、母方のおじいさんとおばあさんに、完璧な白人エリートとしての教育を受けてきたんだな、非白人としてのオプション付きで。

マルコムXなんかも、一段とダーティな理由で白人の血を受け継いでいるが、暗殺されてしまった。キング師も、結局暗殺されてしまった。さすがにオバマさんは暗殺されないと思うけれど、"CHANGE"できるといいですね。

--

人と違うことを書くのが快感だった時期もあるが、あまり意味がない気がしてきた。新聞記事やアルファブロガーの記事に間違いや意見の違いを見つけては、ペケペケと違う部分だけを述べる。アルファでもベータでもガンマでもなく、差分だけを表したデルタブロガー。なんて書いてみたら、もうオメガブロガーまで用意されているみたいですよ。すげー。

2006-04-15 - OWL.Diary_TestType

--

携帯電話を機種変更するだとか、PCパーツを買うだとか宣言していたわりには、結局また本を買ってしまった。未読の積み増しになるだけか。

まずは近所の書店で。

アベンジャー型犯罪―秋葉原事件は警告する」 岡田 尊司 (著)

秋葉原無差別殺傷事件の犯人の分析が書かれているのだけれども、感想は「なんという俺」。いやはやなんとも。この本は分析しっぱなしの批判に終わらず、ではどうすれば良いかという部分にも踏み込んで書かれているので、当の批判対象本人にとってはいくらか救いのある内容。優先的に読もうと思う。

失敗の本質―日本軍の組織論的研究」 戸部 良一, 寺本 義也, 鎌田 伸一, 杉之尾 孝生, 村井 友秀, 野中 郁次郎 (著)

資料本といった感じで。

次にAmazonで。

テーマは「今年は陰謀論が熱い」。まずはダークサイド本から。

日本人が知らない恐るべき真実 〜マネーがわかれば世界がわかる〜」 安部 芳裕 (著)

日本人が知らない 恐るべき真実
こちらのサイトを書籍化したものらしいですね。書籍のほうがまとめ読みには適しているので。

そしてブライトサイド本も。

ユダヤ5000年の知恵―聖典タルムード 発想の秘密」 M. トケイヤー (著), 加瀬 英明 (訳)

出ましたトケイヤー師。ビジネス本のネタは全部タルムードに書いてあるというし、これでいいじゃねぇか、と。

ユダヤ人が語った親バカ教育のレシピ」 アンドリュー・J. サター (著), ユキコ サター (著)

実は、実用教育本として期待している。ユダヤと張り合って生きようぜ!

再びダークサイド本。

日本「地下経済」白書(ノーカット版)―闇に蠢く23兆円の実態」 門倉 貴史 (著)

ニュースはエンターテイメントだ。エンターテイメントをより深く楽しむための設定資料集として。

最後に、陰謀論で消化不良を起こしたときの薬として。

詭弁論理学」 野崎 昭弘 (著)

--

陰謀論は愉しいが、ほどほどにするのがいいだろう。

ユダヤが解ると人間奴隷化計画が見えてくる

上で使われている「マトリクス」もそうだが、アメリカ映画ってよくよく吟味すると意味深長なシーンが挿入されているよなぁ。「スター・ウォーズ」の、独裁は喝采と共に誕生する、みたいなやつは言うに及ばず、「ロボコップ」で警察署が民営化されて警官がストライキを起こす中で、使命感に燃える有志が街に出て行くシーンだとか、「スーパーマン」でスーパーマンの本当のお父さんであるジョー・エルかなんかが「人類の歴史に干渉してはならない」と口を酸っぱくして警告するのに、結局息子が時間を巻き戻すシーンだとか、いろいろと推理を誘って面白い。

ミヒャエル・エンデの「モモ」とマルクスの「賃労働と資本」なんかを併読していくと不思議な感覚に陥るが、まぁそれもまた一面に過ぎないだろう。あまり深く考えないようにしよう。笑門来福。
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by antonin | 2009-01-20 01:13 | Trackback(2) | Comments(0)

睡眠は副作用のない薬です

いや、実際には8時間を越える平均睡眠を取る人の平均寿命が短いなんていうデータもあるらしく、副作用がないとはいえないらしいが、睡眠時間の短い現代人にとっては、寝ることは間違いなく薬になるだろう。

最近気分が不安定で、一昨日の新年会でも毒を吐きまくってきたが、薬の助けなどを借りて昨日は断続的に20時間くらいを寝て過ごした。おかげで気分的にすっかり楽になった。体調も良い。休日に眠ったままの親を見て、コドモの教育には悪いだろうし、子供の面倒を見ない夫を見て、ヨメの気分は害されただろうし、なにかと「副作用」は多いのだけれども、とにかく気分的には見違えるように楽になった。やはり睡眠は良い薬である。

というわけで、午前3時くらいから駄文を書き続けている。不規則な睡眠は健康に良くないというが、もとより健康に長生きしたいなどとは思っていないので、楽しく生きていくためには、健全だろうが不健全だろうが、とにかく眠れるときに眠っておかなくてはならない。布団に入って部屋を暗くすれば眠れるという人とは、事情が異なるのだ。
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by antonin | 2009-01-18 06:55 | Trackback | Comments(2)

景気循環

あくびというのは、伝染する。人があくびをしているのを見ると、なぜかこちらまであくびが出てくる。きっと、あくびウィルスの仕業だ。というのは冗談だけれども、実感としてそういう記憶を持っている人は多いだろう。

「科学的」に説明することも、あるいは不可能ではないだろう。同じ部屋にいる人間は、退屈な会議などの状況を長時間共有していたりして、誰もが似たような覚醒度の低下状態にあるのかもしれない。あるいは、会議室の換気が悪く、二酸化炭素濃度が高まっていたのかもしれない。千人くらい収容可能な大ホールの三階席というのは、観客の呼気が滞留していて、催し物が退屈に感じられる客にとっては、居眠りのひとつも出やすい環境と言える。

ただし、やはり一番重要なのは、人間の心理だろう。それまで気付かなかった自分の眠気に気付くきっかけを、他人のあくびが提供するのだ。「言霊」といって、口に出した言葉はそれ自身が独り歩きして状況を変えるという信仰があるらしいが、これも似たようなものだろう。「何が何でも勝つ」と言えば、周囲の心理は無意識ながらも影響を受ける。「もう勝てないかもしれない」と言えば、やはり無意識ながらも周囲は影響を受ける。古来信仰される事柄というのは、多くの迷信が混ざってはいるものの、やはり一定の真理を含んでいるものなのだと思う。

今、マスメディアでは「百年に一度の経済危機」という言葉が飛び交っている。マスメディアは主権者である国民が正しい判断を下すために必要な、重要で正確な情報を知る権利を保証する、言ってみれば民主主義の根幹を成す装置である。各種公式発表を曲げることなく伝えたり、複雑でわかりにくい情報に解説を加えてみたり、公式には公表されない情報を掘り出してみたりする。国民が民主主義国家の「王」であるとすれば、マスメディアは王の目、王の耳となる情報参謀ということになるだろう。

しかし、子供の頃からマスメディアによってアニメや映画などの娯楽を交えて大切に育てられてきた「王」は、マスメディアに頼らずに情報を集め、マスメディアに頼らずに判断を下すのが苦手な、暗愚な「王」になってしまった。宦官にかしずかれて操られる皇帝のようになってしまった。しかし、命を懸けて「王」に直訴するマスではない各種メディアによって、本来賢明な「王」は、いまマスメディアと距離を置こうとしている。

しかしなんといっても、マスメディアは言霊遣いであるから、その力によって未だ「王」を呪縛し続けている。言霊よりも強力な、音楽や映像などの力も駆使しながら、必ずしも悪意ではなく、不完全な善意によって「王」をその制御の下に留めようと、継続的な努力をしている。

マスメディアとは、単に受け手の多いメディアを指す。新聞やテレビも、依然としてマスメディアの代表である。しかし、地方紙や雑誌や新書などといった既存のメディアの中にも、必ずしもマスではなく、かといって個人の口コミレベルでもない、そうした中規模メディアが、日本にはまだ残されている。かつてネットはマスではないメディアの代表であったが、今では必ずしもそうではなく、Yahoo! Japanなどはニュース配信者として極めてマスに近い存在になっているし、「個人」のブログでさえ、"404 blog not found"や「痛いニュース」などは、特定の読者層のための中規模メディアに成長している。

そこに渦巻く刺激的で感情的な情報に、無意識どころではない影響を受けてしまうが、ときどきそこから距離を置いて、例えば川原を散歩して橋のたもとに住む現代の「川原者」の横を通り過ぎてみたり、バブル期に建てられた公営施設の展望台などから街の姿を鳥瞰しつつ、来客たちのたわいない話を聞くともなく聞いてみてもいいかもしれない。人々は想像に反して醜悪であったり、想像に反して清廉であったりする。

「派遣村」という報道で、「あさま山荘事件」を思い出す。あの事件を覚えているのかというと、覚えていない。あの時は母の胎内にいて、ちょうど臨月近くだったから、覚えていないというより、もとより知らない。そんなもの見ていると体に悪いなどとたしなめられつつ、結局母はテレビに食いついて報道を見続けたそうだ。あれで、共産革命の印象は、ただの暴力犯罪の水準にまで貶められた。派遣村もまた、そんな時代のことを引用しながら、非正規雇用者を弱者利権に群がる、不当要求モンスターへと貶められた。

もちろん、良い面も悪い面も含め、派遣労働には多様な側面があって一概に論じることができない。自由を求めて好きで派遣を選んだ人もいれば、面接に落ち続けて消去法的に選ばざるを得なかった人もいる。知能もスキルも低く、年収も生活保護水準以下の人もいれば、勤務していた部署ごと消滅する前には一流エンジニアとして活躍していた、一流の遊撃手といったような感じの派遣技師もいる。契約を切られてもすぐに次の契約が取れる人もいれば、しばらくは無理という人もいる。住居を失う人もいれば、失わない人もいる。一度帰ることのできる実家がある人もいれば、ない人もいる。失業保険を一定期間受けられる人もいれば、受けられない人もいる。

それらの諸相を持った「非正規雇用者問題」が、「派遣村」のあつかましい活動家の声で極めてシンプルな印象に化けてしまった。感情的に叩き甲斐のある対象が非正規雇用者の代表となり、そもそもなぜ非正規雇用が生じたのかという問題について、冷静に考える声はかき消されてしまった。

日本にはかつて、笠地蔵の話があった。年越しの食糧を買うために、おじいさんは藁をなって笠を編んだ。町でそれを売ろうとしたが叶わず、失意の帰途で、おじいさんは雪にまみれた地蔵さんたちを見た。おじいさんは手を合わせてから地蔵さんたちの雪を払い、売れ残りの笠をひとつずつかぶせた。すると大晦日の夜、そりを引いた地蔵さんたちが沢山な食料を置いていってくれた。因果応報、情けは人のためならず。

市場の平均的な収益傾向に対して「景気」という語を与えた人は、賢いなと思う。これは流されやすい大衆の気分であって、景気指標というものは、大衆心理が影響するものに対する統計値なのだろう。だから、景気対策とは、ぱぁーっと景気の良いことを誰かがやって見せることで、大衆の気分が「ちょっと金を使ってやろうか」というように変わるようなものでなくてはならない。金利でも財政でもなく、言霊こそが最も有効となるような場面も、あるいはあるに違いない。

ひとたび景気が良くなると、大衆は勝手に支出を増大させていく。そしてどこかで限界に突き当たり、節約が始まって景気が悪くなる。ひとたび景気が悪くなると、大衆は勝手に支出を減少させていく。そしてどこかで限界に突き当たり、消費が始まって景気がよくなる。こうして景気は循環していく。もっとも、生産し消費する人そのものが減っていく今後の日本では、GDPは減少傾向になっていくだろうが。

皆が物を売って現金に換えたいときには現金を払って物を買い、皆が物を買いたいというときには現金を受け取って物を売る人が、結局は財を成す。不景気の今、こういう状況でしか売りに出されないような貴重な商品が市場に出ているに違いなく、また賢い人が多少の借金をしてでもそれを買っているに違いない。洋の東西を問わず、豪商の家訓にはまず間違いなく、時流に流されるなということが書いてある。金の足りない人から笑顔で物を買い、恩を売ることのできるような人が、本物の商人なのだろう。
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by antonin | 2009-01-18 06:54 | Trackback | Comments(0)

趣味の話

趣味は、読書とパソコン。地味だな。

久しぶりにPCパーツでも買ってみようと思っているが、年末商戦の影響で店舗はまだ品薄といった感じ。月末あたりまで待ってみようか。

デュアルコアのノートPCを買ってから、動画データを扱う機会が増えた。デスクトップ機は2001年11月購入のCeleron 1.2GHz (Tualatin 130nm) という非力なもので、デジカメが吐き出すMotion JPEGの動画データをWMVに変換するのに、実時間の100倍くらいかかるという具合でどうしようもなかった。それが、2007年の2月に買ったTurion 64 X2 TL-50 (Tyler 90nm 1.6GHz) のノート機では、実時間の5倍程度の時間で済むようになり、何とか実用になっている。

WMVでデータ容量は1/10程度まで小さくなるのだけれども、画質もそれなりに低下している。再生用としては扱いやすい容量でいいのだけれど、元のAVIファイルを削除できるほどの品質ではない。このAVIファイルが1秒につき約1MBというサイズになり、かなり大きい。ノート機にIEEE 1394の拡張I/Fカードを装着し、Mini-DVのテープからi-Linkで動画を取り込んだりしているのだけれども、なにしろ時間が長いので、こちらも容量がバカにならない。おかげでデスクトップ機に増設した250GBのHDDは間もなく容量の限界に達しようとしている。

JPEG写真のほうはDVD-Rに焼いて保存しているが、動画データはひとつひとつの容量が大きくて扱いにくい。データの長期保存という意味でも、日光に当たってデータエラーを起こしたり、あまり信用できない。最近では、あいかわらず容量が拡大しているHDDにコピーして、そのHDDごと保存するのが一番楽だという結論に至った。3.5in. SATA2 HDDの10円/GB未満という価格は魅力的だし、しかも書き込みも読み出しも速度が速い。変換コネクタを使えばUSB2.0を通じて簡単に接続できるし、その場合もOS上では内蔵ハードディスクドライブと同じように認識されるので、メディアへのアクセスも自然でいい。

ノート機のほうも、購入以来1.5GBのRAMをVRAMと分けあって、実質1.25GBで運用してきたが、Vistaは予想以上にメモリを食い、1.25GBでは若干心許ない。DRAMも安くなってきたので、この際思い切って仕様上限界の4GBまで拡張してみたい。せっかくx64版のVistaをインストールしたのだから、3GB以下で終わってしまうのはもったいない。

ノート機購入当時に追加購入した1GBのDIMMが、Vista需要を当て込んでDRAM価格が高騰していた当時16,800円+税もしたということがあって、実を言うとこれを外してしまうのはかなり惜しい。しかし一度底値まで価格下落してしまったパーツというのは、その後は流通が途絶えて逆に値上がりすることが多いので、是非ともこの時期に買っておくべきだろう。今なら2GBのSODIMMを2枚買っても、5,000円でお釣りが来る。

現状では170MB程度がシステムに、500~700MB程度がOS付属のものを含めたアプリケーションに、残りが全てディスクキャッシュに取られて空き容量ゼロという運用になっているのだけれども、メモリを積み増すと、この配分がどのように変化するのか興味深い。3GBくらいがキャッシュに当てられてしまったりするのだろうか。だとしたら、起動時にSuperFetchがディスクを読みまくる時間が長くなるだけということにもなりかねないが、逆に言うとようやくSuperFetchがその効果を発揮するようになるという可能性もある。

x86のようなCISCプロセッサがRISCプロセッサに勝った理由のひとつとして、高速化するプロセッサコアと大容量化する主記憶の間でメモリの階層化が進み、結果として実行コードの転送コストが演算コストに対して無視できなくなったという理由が挙げられるだろう。似たような事情で、大容量化するDRAMとストレージの間での転送速度が大きなボトルネックとなってしまっているという事情がある。

最新のMac OS Xといえども、ディスクドライブの存在に依存する"Disk Operationg System"という意味でのDOSであることには変わりがない。そういうDOSの末裔の中にあって、本来高速化に寄与するはずの機能が、逆に低速化の原因となってしまったというのがVistaの現状だろう。原因としては、Just In Timeで実行すべきドライブアクセスを、起動時の一番忙しいときにまとめて実行しようとしてしまった点だろう。64bit用デバイスドライバなどの壁が厚く、DRAMが3GBの壁をなかなか越えられなかったという点も理由になるかもしれない。

昔、PC-9801シリーズにMS-DOSを走らせていた時代に、DIET.EXEというフリーソフトウェアがあった。これはなにかというと、要はディスク圧縮ソフトである。メモリに常駐してディスクアクセスに仲介し、あらかじめDIETによって圧縮済みのデータのみ、読み込み時に展開するというものだった。これがWindowsの圧縮ドライブと異なるのは、ドライブ全体を圧縮するのではなく圧縮する価値がありそうなプログラムやデータのみを選択的に圧縮するという点にあった。

もちろん、ハードディスクのバイト単価が非常に高価であった当時にあって、DIET.EXEの目論むところは保存データの容量縮小による空き容量確保であった。また当時はプロセッサの計算能力も非力であったので、圧縮や展開に必要な計算時間というのも、オーバーヘッドの増加につながっていた。この、ドライブ容量節約のための圧縮という意味合いでは、Windowsの圧縮ドライブも似たような目的といえるだろう。

けれども現状においては、ドライブ上のデータを圧縮するということには別の意味合いがあるように思える。つまり、ディスクは大容量になったが、そのアクセス速度というのはあまり向上していない。一方で、プロセッサの計算速度は非常に高速になった。つまり、データへのアクセスコストに比べて、プロセッサの計算コストが相対的に低くなったという状況がある。この状況では、写真や動画などのデータに限らず、プログラムでさえも、極力圧縮された状態で取り扱うのが都合が良い、ということになる。

最近のx86プロセッサでは、複雑なCISCのコードを、ハードウェアがマイクロ・オペレーション・コード(μOP)に翻訳し、プロセッサコアはそのμOPを実行している。そのμOPの構成は、RISCコードに似ている。つまり、GHz速度で動作するプロセッサ内部のSRAM上でなら、RISCは優位になるが、DRAMの水準では、RISCコードより複雑だが容量が少ないCISCコードが優位になる。つまり、CISCコードというのはRISCコードを上位水準で記述した圧縮コードであるとも言える。

Javaの高速化技術の一つとしてJITというものがある。Just In Timeコンパイルというもので、Java特有の仮想マシン用中間コードを、使用頻度が高い部分だけ実行時にターゲットマシンのコードにコンパイルしてしまうという手法である。これもまた、中間コードがターゲットマシンの機械語コードに対する圧縮コードになっていると解釈できる。

こうして考えると、Vistaが遅いのは、ディスクドライブ上にCISCコードの、それもPentium 4プロセッサ用に最適化された、インライン展開やループ展開などでフットプリントの大きくなったバイナリコードを無圧縮で置いているから、とも考えられる。もしCドライブ上のバイナリが無圧縮の個別ファイルではなく、圧縮されたアーカイブとして保存されていれば、高速でメモリ上に読み込むことができるだろう。プロセッサ能力は圧縮展開など楽にこなせるほどの能力が余っているし、DRAM価格は下がっている。データの展開コストは、もはや重荷ではないし、データをキャッシュする容量コストも、重荷とはいえない。

システムのDLL群や、よく使うソフトのDLLなどは、圧縮状態でDRAMに読み込んでおき、呼び出された時点でJust In Timeでメモリ展開するのが効率的になるだろう。現状ではx86やx64のネイティブコードをエントロピー圧縮するしか手がないのだが、将来的にはJavaなどの仮想マシンコードや、JavaScriptなどのスクリプト言語コードとして論理圧縮されるようになるのかもしれない。あるいはSmalltalk的に、データとデータを取り扱うための手順がパックされたオブジェクトが、バイナリやXMLデータとしてネットワーク上を流通するようになるのかもしれない。

とりあえずノート機の4GB化に成功したら、禁断のCドライブ圧縮を試してみようか。所詮、人柱モードのVista x64である。人柱なら人柱らしく、いろいろと試してみるべきだろう。データのバックアップは忘れずに取っておこう。「よ」で始まる単語の変換は相変わらず具合が悪いので、この際にVistaを再インストールしてみるのもいいかもしれない。

というわけで、趣味は読書とパソコンです。
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by antonin | 2009-01-18 06:12 | Trackback | Comments(0)

極道というもの

いわゆる「ヤクザ」屋さんという人々と関わりを持ったことはないのだけれども、近所の公園の向かいに、それらしい人々が出入りする、小さな、そして真っ黒な家がある。大きくて黒い車に、黒いスーツを着た立派な人が乗るときに、黒いスーツを着たゴツい人たちが一列に並んで頭を下げる。どういう生き方をしているのかは知らないが、おそらくは「ヤクザ」な生き方をしているのだろう。

「ヤクザ」の対極には「カタギ」の生き方がある。倫理・道徳を守り、人々に愛され、コンプライアンスを遵守し、正しく生きる。天下に人の道があり、その道の真ん中を歩く、正道の人々。

「ヤクザ」にはもうひとつの対極があって、それにはどういう呼び名があるのか知らないが、それは誰からも許容されない罪人である。人の道を完全に外れた、非道、ないし外道の人々。

人道の真ん中をいく正道と、人道を大きく外れた非道があって、その間のきわみに、極道がある。人の道の真ん中を歩くこともできないが、人の道を外れることもできない。人の道の真ん中を歩く人の胡散臭さも知っているが、人の道を外れた人の悲惨さも知っている。そうして人は、極道になっていくのだろう。

哲学でも科学でも良いのだけれども、世界とは何か、人間とは何かということを追求していくと、世間の人々がありがたく奉っている常識が、実はさほど正しいものではないということに気付いてしまう。しかしまた一方で、常識を完全に外れた極端に走る人間は、常識の力によって抹殺されてしまうことも知っている。そしてまた、多くの人々が常識を信じることによって社会が動いているのだということにも気付いてしまう。

ここへ至り、三つの生き方を選ぶ必要が出てくる。ひとつは、常識人の欺瞞に見切りをつけ、非道ないし外道へと落ち、人の世界から去っていくこと。ひとつは、常識がさほど正しいものではないと知りながら、それでも常識人であることを装い、しかし常識の裏にある正しさを駆使しながら、常識人たちの中で生きること。もうひとつは、非道に落ちることはできないが、かといって仮装としての常識を身に纏うこともできない、極道として生きること。

既に書いたとおり、私はいわゆる「ヤクザ」屋さんとの関わりはないが、常識人との理解の乖離を繰り返し経験することによって、自分がもはや常識人ではないことに気付いている。かといって、非道に落ちてこの世を見捨てるほどには非常識ではないことにも気付いている。つまりは、黒いスーツを着る人々とは別の意味で、極道の領域にあることに気づく。

となると、三つの生き方のうち、どれかを選択しなくてはならない。できれば、常識人の皮をかぶって生きて行きたいものだと思う。たとえば、民主主義における選挙の価値とは、民衆が政治を支配しているという気分にさせ、政治不満に対するガス抜きをする効果であると知りながら、選挙に行きましょう、一票を大切にしましょう、などという道理を、白々しく説く。そういう、腹黒く汚い大人になりたい。それによって若者に信奉されたり面罵されたりする、そういう大人になりたい。

仏教に四諦というものがあるのだという。諦観というのは、「あきらめ」というよりは「さとり」という意味合いらしいのだが、それでも「あきらめ」に通ずる部分はあって、その四諦の第一は「苦諦」であるという。世界とは、人生とは、すなわち苦であり、まぁそんなもんだと開き直ってしまえば、逆に苦しみに耐えられるようになるよ、苦しみが安らぐよ、というありがたい教えである。

人間世界の常識など、不正確で欺瞞に満ちたものだと割り切ってしまえば、案外安らかに常識人として暮らせるようになるのかもしれない。あるいは失敗してキチガイになってしまうかもしれないが、それはそれで仕方がないだろう。ともかく、あからさまに偽善と見えてしまうような偽善ではなく、よくよく判別しなければ偽善とは見えない、渋みのある偽善を目指していきたい。

そもそも究極の善など存在しないとすれば、全ての善はある種偽善にならざるを得ないのだが、それでもあからさまな悪に比べれば、やはりマシなものであるに違いないと思っている。紳士的であるということは、偽善的であるのと等価だと思っている。素朴な善意でもなく、素朴な悪意でもなく、それでもやはりある種の意図をもって生活を保たなくてはならない。あらゆる人は生活をしのいでいかなくてはならず、そのための活動がシノギということになる。そこには自然と競争が発生し、人々は互いにシノギを削ることになる。

道のきわに立って道ゆく人を眺めると、その喜びも悲しみも、一幅の絵画のように見えるのだと、「草枕」の主人公は説く。まぁ、確かにそんな気もする。それでいて、そういう非人情の中に長く立っていることはできなくて、いずれは人情の世界に帰って日々をしのがなくてはならない。智に働けば角が立つ。情に棹差せば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくいのだけれども、人の世でなければそれは人でなしの世なのだから、なお住みにくかろう、などとも言う。そういう諦観の先に、安寧があるといいのだけれど。
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by antonin | 2009-01-18 04:05 | Trackback | Comments(0)

MS-IMEがおかしい

最近のことなのだけれども、「読む」と「呼ぶ」が変換できなくなった。「よんで」と入れても、「四で」しか変換候補に出てこない。「よむ」も「よぶ」も、ひらがなとカタカナの候補しか出てこない。「呼び出す」とか、「ヨブ記」なんかは変換できる。いったい何が起きているのだろう。

Windows 7のbetaが好評なのだという。Vistaの時代もいよいよ終わりか。けれどもメモリが安いので、近いうちにスロット上限の4GBまで増設して様子を見てみよう。今日もVistaは元気だ。もう5分ほどディスクアクセスが止まらない。1.50GBのRAMからVRAMを差し引いた1.25GBのメモリのうち、1.00GBが消費されている。何をしているのかはわからない。素敵だ。おやすみ。
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by antonin | 2009-01-17 02:40 | Trackback | Comments(0)


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