安敦誌


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愛国者とか(笑)

と、まぁ、心の叫びを書いたところで誰も理解せず、「うわ、こいつ気持ちワリ」とか言うのが精々だろうから、気にせずプロトコルに則った日記を書いていこう。

--

都議選があるらしい。自民も民主もどうでもいいので、いつもどおりに行動しよう。結局そういうところに落ち着いてしまった。国政選挙があってもおそらく同じ行動を取ると思う。日本国は一応自由の国だ。私企業が首都の3D地図を作って世界に配信するなんてのも自由だ。シーボルトが聞いたら大喜びだろうな。

--

子供かわいいよ、子供。犬猫なんて目じゃありませんよ、このかわいさ。自分の血を分けたこの子供のかわいさに駆動されて、身を削るのが生命ってもんなんじゃございませんか、と思う。血を分けた子供のかわいさを知らない奴はうらやましいね。愛の苦しみを知らないのにも似て。どっちも知らねぇ、って人も多いんだろうけどさ。日本国は一応自由の国だからね。

--

アメリカあたりはルータにバックドア仕掛けられてようやくサイバー軍を公けにしたらしい。まぁそうだよね。機械的戦力というのは、現代戦では20世紀における歩兵のような役割で、つまりは「詰み」の状態を作るためのものでしかない。物理攻撃が始まったら、勝負の大半は終わっていると考えたほうがいい。まぁ、昔からそうかもしれないけど。石油のアラブか、貨幣のユダヤか。佐藤マサルさんを放擲したということは、日本は一応アラブのほうにウェイトを置いているということになっているが、最新状況は一般人の知るところではない。乞うご期待。

--

なんでもいいや。
と、投げやりになってしまうあたり、まだまだ精神修養が足りないなぁ。良い師が欲しいが。
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by antonin | 2009-06-28 23:22 | Trackback | Comments(0)

人間とは謎である

やっと校正の時間が取れた。子供3人の養育というのは予想以上に身を削る行為だった。あと30年生きなければならない。これは義務だ。

もう、他人に理解されようとか、他人を理解しようとか、そういう無駄な努力は放棄する。無理なことに努力するほど無駄なことはない。何を行うか、ただそれだけを考えれば良い。

南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛

そう念じていれば心が落ち着く。人間では人間を理解することは到底不可能だが、大師様、観音様のようなバーチャルな存在を心中に置き、そのバーチャルな存在があたかも自分を理解してくれるがごとく念ずる。これが念仏であり、それをより視覚的に行うのが観念である、そういう当たり前のことにようやく気付いた。

人間には体がひとつしかないが、バーチャルな存在である大師様や観音様は念じ想う人の心の数だけインスタンスを持つことができる。この仏のインスタンスに縋ることで、我々は精神的な安寧を得ることが可能になり、したがって安定した言動を繰り出すことが可能になる。これにより、周囲の人間とのプロトコルを確保することが可能になる。信仰とはつまりそういうことである。

人間は結局他人の言動のみを見聞きして、言動のみを示す。心を通じ合わせることは、成人には事実上不可能である。物質的身体を持つ人間は現実的な諸々の拘束によって規定されており、自分と同容量の他人の精神をケアすることは現実的に不可能である。したがって、これを解決しうる方法とは、心の中に超越的な存在を仮定することで大脳辺縁系をコントロールする、信仰のみということになる。

これを知ることを悟りと呼んだのだろう。そして、苦行を終えていない凡夫は、悟りだけでは煩わしい悩みが消えて涅槃の境地に入ることはできない。つまり、習慣として、脳の反射的挙動として信仰対象を思い浮かべて感情の平静を取り戻す訓練が完了しなければ、安定した言動を繰り出すことができない。このため、自己コントロールの異常を持つ人間は、呼吸や視覚といった随意神経の制御によって自律神経系を制御し、そして結果的に感情を司る大脳辺縁系の発作的動作を抑え、定常的な人間間のコミュニケーションプロトコルを維持する訓練を重ねなければならない。こうした訓練を可能とする静寂を確保し、先人の認識転換技術集であるところの説話を堆積した空間として、この国には寺社仏閣が存在している。そういうことを理解した。

ゴータマ・シッダールタは、まず瞑想を行い、それに満足できず苦行を行い、それに満足できず仏法の悟りに至ったので、すでに訓練が完了した状態でこれらの内容を理解したのだろう。ヒッポのアウグスティヌスは、まずマニの教えに倣い、それに満足できずキリストの教えに倣い、それに満足できず新プラトン派の教えに倣い、ついに国教としてのキリスト教概念の構築に至ったのだろう。

人間に理解されることなく心の平静を保ち、人間との関係性の中に生命を存続する義務がある場合、信仰が必須になる。技法として完成され十分な資質を持ち、なおかつ現世社会とのプロトコルが確立している宗教に帰依することが、「中年の危機」を生き延びる唯一の方法に違いない。

生きる。人間はそれでも生きなければならない。
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by antonin | 2009-06-28 23:08 | Trackback | Comments(0)

親愛なるテオ

ゴッホの耳を切り落としたのは、ゴーギャンだという説が湧いているという。

Van Gogh's ear was cut off by friend Gauguin with a sword - Telegraph

まったく、人の心のわからない奴だ。なんという、常識的な奴だろう。確かに、普通の人間の感覚からすればそう考えるのも無理はない。だが、彼はフィンセント・ファン・ゴッホだ。彼がどのような気持ちで自分の耳を切り落としたか、その心情が私には手に取るようにわかる。情景が目に浮かぶ。おそらく、ヨメも同感だろう。ただし、ゴッホの視点ではなく、ゴーギャンの視点から。

ゴーギャンはおそらく、ゴッホの優れた感性と、その情熱に強い共感を示していたはずだ。しかし、共に創作意欲の翼を広げるはずのアルルで起居を共にするうちに、ゴーギャンが示すほんの些細な、極めて自然な不平に対して、ありえないほど強い感情の起伏を繰り返して過剰反応するゴッホに耐え切れなくなり、彼の元を離れることを告げたのだろう。

そして、またしてもそのような結末になってしまった原因であるところの自分を呪い、そして哀れんで欲しい気持ちが抑えきれない感情の起伏となり、気が付いたときには、つねづね夢で見ていた「自分の耳を切り落とす」という情景が、もはや覚めない夢のように目の前に広がっていたのだろう。もちろん、その行為はゴーギャンを引き止めるよりは立ち去るきっかけとなったに違いない。

数日は心を落ち着けようとしていただろうが、包帯の巻かれた自分の姿を描き終わると、包帯の下から出てきたのはどうしようもなく醜く変わった自分の姿と、友の不在というどうしようもない現実だ。終わった。芸術も南国も、何もかも状況を変えてはくれなかった。もういいだろう。よくやった。ありがとう。さようなら。享年37歳。ゴーギャンとの別れから7ヵ月後。

--

萩野(伊藤)純一郎。IPv6の有力な実装者。享年37歳。

過ぎていった人へ

--

恥の多い生涯でした。津島修治、享年38歳。

--

ノーマ・ジーン、享年36歳。

--

まぁ、そんな具合で危機だったのだけれども、私には理解ある妻があり、3人の可愛い子供があり、観世音菩薩も付いている。仕事もそれなりにできていると思う。実に幸運なことだ。

人身受け難し、今既に受く。
仏法聞き難し、今既に聞く。

以前なら「なぜ人に生まれてしまったのか、なぜこれほどに苦しみの中に生きなければならないのか」などと思ったところだったが、今では素直に仏法を聞くことができる。これは大きな進歩だ。

安敦37歳。もう、キリスト教やユダヤ教や明治神道の布教に惑わされることはない。彼らは彼らとして勝手にやればいい。こちらも仏教徒となった今ではこちらの立場から自分の生き方を貫かせてもらうことにする。

他者との関係は、信仰などどうでも良いのであって、どのような言動が取れるか、結局のところはそこに尽きる。それでいいだろう。それが信仰の自由だ。
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by antonin | 2009-06-28 03:30 | Trackback | Comments(0)

物欲戦隊カネナインジャー

心が平静を取り戻したら、物欲が蘇ってきた。
冬のボーナス払いあたりで考えてみるか。

F200 / FinePix F200EXR | 富士フイルム

何も考えずにオートで撮りまくると、中には芸術的な作品が混ざるという不思議な一品らしい。最初に持ったデジカメが起動に時間がかかり、しかもニッケル水素電池だとフラッシュの充電に異常に時間がかかるトロい機種だったため、現在使用中のF10を買った。で、目論見どおりこのカメラは大活躍してくれた。ISO800は室内で自然な表情が得られるし、屋外で晴天なら高精細な景色が撮れた。電池も大容量で電池切れを起こしたことは一度もなかったし、動画も手軽に撮影できて文句なしだった。

が、先日カメラ大好きのムスコ1号がカメラを落としてしまい、レンズ筒が折れた。ムスメがどうやったのか復元してくれたおかげで今は使えるのだけれども、なんだかちょっと各所の動作が怪しくなり始めている。気がつけば、もう4年も使っている。今年中には機種更新の覚悟をしておいたほうがいいような気がする。テレビのほうは家計費で(例の定額給付金の家族全員分を突っ込んで)買えるらしいので、冬のボーナスから奨学金返済と生命保険掛け金と学資保険の積立金を差し引いた残りは自由に使える(夏のボーナスはもう嫁ぎ先が全て決まっている)

価格.comで調べると最安値で¥22,000程度まで値下がりしている。安いなぁ。動画性能やネットワーク機能が全く進化していなくて、ひたすらstill cameraとしての品質だけが向上しているあたりに富士写真フィルム社の意地を感じる。そういうのは好きだ。ただ、私に気に入られる製品や企業はいつも没落していく傾向にあるので、富士フィルムもそろそろ方針を見直したほうがいいのかもしれない。

ま、今日は遅いのでこんなところで。
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by antonin | 2009-06-18 01:53 | Trackback | Comments(0)

相対主義の彼岸

会社を3日休んで、高野山へ上ってきた。というわけで、信仰を得た。別に神秘体験のようなものもなかったし、今も世界観は変わらない。けれども、なぜ人類には信仰があったのか、それを今では理解できるし、自分が信頼を置ける宗派も見つかった。浄土真宗あたりに流れるかと思ったけれども、結局真言宗に落ち着いた。

これは別に何宗でも構わないし、神道でも構わない。キリスト教でも構わないし、イスラム教でも構わない。しかし、自分が成長する過程で心に沁みこんでいた物語は、キリスト教でも明治神道でもなく、日本的な大乗仏教だった。それでなぜ真言宗だったかというと、それはたまたま祖母の葬儀が真言宗の寺で営まれ、たまたま真言宗の解説書が実家にあったから。ただ、それだけ。違和感がなければなんでもいいのだけれども、それがたまたま真言宗だったというだけだ。

これからは、心置きなく信仰を持つことができる。なおかつ、これは科学的信念と、一切相反するものではないということも納得できた。このあたりを書き始めると長くなるので機会を改めるけれども、とにかくデカルト的に信仰を獲得できた。これで、阿弥陀如来と観音菩薩と大日如来と弘法大師が味方に付いたことになる。

現実世界の人間は、いつでも頼りになるわけではない。親というものは、子供の問題をほとんど全て受け止め、そしてそれを解決し、子供の心を満たすことができる。しかし、大人の問題を全て受け止め、そしてそれを解決し、大人の心を満たすことができるような偉大な人間はいない。しかし、神仏の慈悲は深淵無辺である。要するに、バーチャルで完璧な人格像を心の中に描き、それをいつも思い浮かべることができるように訓練を重ねることで、現実の厳しい場面で大人であってもその心を守ることができるようになる。心に安定さえ得られれば、現実には多くの問題を解決することができる。それでも解決できない問題とは、まぁ、どうしようもないのだと諦められる。

そういう理想像に、とりあえず弘法大師と観世音菩薩を置くことに決めた。これは、単に決断するだけに過ぎない。あとは仏を念じて、呼吸を整え、雑念を払い、恐れを取り除けば、万事うまくいく。少なくとも、人並みには生きられる。ときどき寺に参って、線香でも焚けばいい。ヤハウェでもなく、イエスでもなく、アマテラスでもなく観世音であるのは、単に「縁が深かった」からで、違和感が最も少ないからでしかない。これでも信仰であるということが、そしてそれが極めて重要なものであるということが、ようやくわかった。あとは、心身の訓練を習慣的に続け、認知行動療法的にパーソナリティ障害が障害とならないように努めていけばいい。

今の日本には胡散臭い宗教が多いが、宗教そのものは決して胡散臭いものではなかった。「武士道」にある、「宗教を持たずして、どうして道徳が守れるのか」という言葉の意味がようやくわかった。武士道も、その根本は禅にあり、神仏に依って無を知ることで人事の最善を尽くす方法のひとつに過ぎないということがわかった。

まぁ、そんな具合ですけれども、この歳でようやく大人になる権利を得たような気がしています。
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by antonin | 2009-06-15 22:53 | Trackback | Comments(9)

漸悟

ムスメと一緒に、自宅のあるマンションの1階でエレベーターを待っている時だった。

「あのね、このまえ夢でね、この下に階段があってね、下におりると、木の板が立っててね、そこに頭がツルツルのおじさんが5人ぐらい立っててね、手をこうやって(合掌しながら)、『あ~~え~~~う~~』って言ってるのを見たの。金ピカの、頭がツルツルのも立ってた」

とか言う。

ムスメを、彼女の曾祖母であるバァさんの遺体を見せに連れて行ったりはしたが、ムスメは葬儀には参列していない。なんで坊さんの読経を知っているんだろう。マンションにはポンプや配電施設がある地下室が無いではないが、築3年のマンションの地下で坊さんがお経をあげている夢を6歳のムスメが見たなどと聞いたら、普通なら背筋に寒いものが走ることだろう。

ところが、その話を聞いた私の口を突いて出た言葉はこうだった。

「それは、いいものを見たねぇ」

自分でも意外だった。生きた人間より、死んだ人間のほうに親しみがわく時期というものがあって、あまり健全なものではないような気がする。





その後、頭を丸めてみた。それで、いくつかわかったことがあった。





まず、この剃髪という行為は、リストカットなどと同じ自傷行為であるということ。別に頭を丸刈りにしたところで死んだりはしないが、ストレスが臨界点を越えているというメッセージを自傷行為によって周囲に発している。悪く言えば、「構ってちゃん」行為になる。

睡眠薬とマイナー・トランキライザーの効果に任せてこういう行為に走ってしまうあたり、私は結局のところ、昔に指摘された「境界性パーソナリティ障害」、もう少し古い表現をすれば「境界性人格障害」、もっと古い表現をすれば「人格異常」であることがわかった。

そしてその人格異常の主要因は母親による過保護で、優しさ以外の対人関係に耐えられないという結果に現れている。成人として正常な対人関係を維持するためには、プライベートで誰かに異常な依存をする必要があり、かつては母親に、そして結婚後は妻にその役目を負わせていた。しかし大人同士の関係である夫婦関係ではこの依存関係は長期に成立しえず、依存する先を失ったことによって感情の異常が発生していたということがわかった。

そして、現在一般的な科学的精神医学では、このパーソナリティ障害に明確な治療スキームが存在しないことがわかった。そして、「治療」が不可能な「人格的に一般的でない」という意味の「人格異常」が、社会的に実害を及ぼさないように、つまりは「病気」が「発症」しないための方法は存在するということがわかった。

そして、それは信仰であるということがわかった。しかし、私が私自身を信仰によって救うには、まだ数段のプロセスが必要であることがわかった。

デカルトは「考えている私は存在する」という以上の何ものも絶対的真理ではないという絶対的真理に到達したのち、周囲の人々のうち、最も賢く最も穏健な人たちが信じる道理を自分も信じればそれで良いのだという認識に達した。そして、「考えている私は存在する」という懐疑の底から、「聖書が説く神への信仰が正しい」という周囲の人々が信じる穏健な道理への論理的再構成をおこなった。そして、理性的に信仰を獲得した。

パスカルは「デカルトが許せない」と書いた。「聖書が説く神への信仰が正しい」ということを、「理性によって疑いうる真理」ではなく、「何ものによっても疑い得ない真理」として、文字どおりの信仰を貫いた。

一方現代の日本では、「最も賢く最も穏健な人たちが信じる道理」が存在しない。過激な信仰が群雄割拠の体を成している。つまり、デカルト的な懐疑をする人間が、最も妥当な選択として決断できる、主流となる宗教が存在しない。量子論、相対論、原子論、情報論、各種工学、医学、経済学等々、現実世界を動かしている学問的知識と整合する宗教学が存在しない。

成人が人間社会から受ける否定的扱い、つまり、承認の不足、意見の否定、成果の無視等の、それぞれは些細なものであるが、集積してしまうと個人の堪忍の容量を超えるような状況が常態化すると、その鬱憤は人間へと向けられる。この「負感情の貨幣」は人間社会を流通し、利子を取って太りながら社会に蔓延する。

しかし、信仰のある人間は、鬱憤を人間ではなく神仏に向けることが出来る。また、神仏から変わらぬ承認を受けることができる。これにより、閉じていた「負感情の貨幣」の流通経路に穴が開き、社会全体としてのストレス総量が無限に増大することが防げる。

ある人間が他人の些細な言行に傷つけられたとき、神道やユダヤ教のような父性的な宗教では、「お天道様」や「父なる神」が「見守ってくださる」、あるいは「見てござる」。認証欲求を満たす、non-zerosum-sourceになる。大乗仏教やキリスト教のような母性的な宗教では、「阿弥陀仏」や「マリア様」によって「許される」、あるいは「往生を遂ぐ」。怒りを受容する、non-zerosum-drainとなる。

上座部仏教やユダヤ教では、現実の苦難は変えられないが、人の認識を変えることで感情としての苦しみは消せるという認識論の立場に立ち、人間が苦悩を感じたときの認識を転換するための知識データベースを三蔵経ないしタルムードとして蓄積した。

大乗仏教やキリスト教では、三蔵経やタルムードの膨大な知識を理解し、厳しい戒律を守ったものだけが救われ、弱い大衆は救われないことに対する違和感に端を発し、知恵のあるものが自分を救ったあとは、知恵のないものさえ救う知恵を獲得して大衆を救うことを最終目的として、上座部仏教、あるいはユダヤ教パリサイ派に対して異議を唱えた。

しかし、結局のところは、ヤハウェ、キリスト、アッラー、ブッダ、マリア、毘盧舎那、阿弥陀、大日、天皇などの超越的な存在を心中に据え、自分の言動、他人の言動のいちいちに対して、宗教的に説かれた言葉を当てはめることで認識のあり方を変え、理性によって感情の爆発を抑える「技法」の体系が既存宗教の本質である。

これら世界の種々の宗教のどれをとっても、長い歴史の試練に耐えた伝統宗教であれば、この「技法」は十分な水準にあると考えられる。しかし、現実の社会習慣および常識体系としての文化との整合性の関係から、実生活上で選択可能な在来宗教の数は実生活する社会の性質によって制限される。

またより難しい問題として、産業革命以降爆発的に進展した科学技術のもたらす新しい知見を、在来宗教が吸収し切れていないという問題がある。また同時に、異なる宗教どうしが異なる文化背景を持ちながら摩擦を起こし、かえって人心に苦悩をもたらしているという問題がある。

ここで、「まったく疑いようがない」という「信仰」は必要最小限に留め、「精神衛生上信じておくべき」という「信仰」は豊かに持つというアンビバレントな欲求を満たす、「技法知識の体系」としての新宗教が求められる。これは、脳科学、神経科学の水準から、実験心理学、精神分析学などを経て、各種宗教が説く認識転換が脳内分泌にまで影響をもたらして人間の苦悩を軽減し、人間の実際的精神活動および肉体活動を良好に保つという学問体系を構築するということに他ならない。

この一貫した体系に、物質的取引に伴う感情バランスを盛り込み、さらに非線形現象の説明までおこなった上で学問を構築することで、経済学と、経世済民学としての政治学が成立する。これは、ソフトウェア工学の知識体系整理よりも格段に難しい作業となり、人類が生物的な脳を使って研究を行ううちは、有効な成果が得られる速度が、その知識が失われる速度を超えることがないだろう。電子的、あるいは生体工学的ではあるが非生物的な知識プロセッサが必要とされ、それが得られるまでの時間を考えると、あと200年から1000年程度は必要と見積もられる。






つまり、まずは安敦は親鸞あたりを学んでおけ、ってこった。

安敦、発狂まであと500日。残された時間は少ない。
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by antonin | 2009-06-05 00:46 | Trackback | Comments(2)

パソコンってやぼそうだよね。

パソコンってやばそうだよね。 - Chikirinの日記

上の話、技術系の、特に情報系の人にとっては、もはや耳にタコができ始めた話だと思う。けれども、次の部分は真実を捉えていると思う。
違う言葉で言えば「一般消費財化しつつあったパソコン」という商品は“終わり”かなと。

ただ一方で、「一般消費財化しつつあったパソコン」という商品は、案外に永続するんじゃないかな、という気もしている。

パソコンが普及する以前の世界はどうだったかというと、一般市場に普及していた会計計算機械としては、電子卓上計算機、つまり電卓が利用されていた。一方、巨大な統計データや科学技術データを処理する、政府や大企業の命を帯びた巨大な計算機として、大型汎用計算機が存在していた。その大型汎用計算機が徐々に小型化と同時に廉価化を起こしながら、ミニコン、オフコン、パーソナルワークステーションへと変化し、最終的にパソコンになった。

また、パソコンの普及率が爆発的に増大するにしたがって、電卓はパソコンの一アプリケーションへと変化していった。こうして計算機の二極はパソコンという場所で合流したのだけれども、この小型化と高性能化の波は、ホイヘンスの原理よろしく、今後もまだ進行していくらしいということがわかる。小型化の流れはスマートフォンや一般の携帯電話へと引き継がれ、最終的には何か他の持ち物の一機能にまで達するだろうと思う。また一方では、個人が所有する汎用計算能力も高性能化を進め、いずれはテレビや固定電話のように、住宅の一部としての計算能力、あるいは電気や水道のようなインフラ資源としての計算能力にまで発展していくのだろうと思う。

ちょっと動画編集でもしてみれば、現在の高性能パソコンの計算能力が、まだまだ未熟なことに気付くだろう。大型汎用機だってスーパーコンピュータなりクラスター計算機なりに「アップサイジング」の道があったのだし、パソコンにそれが起こらないという道理はない。けれども、現在のパソコン程度の汎用性と計算能力というのは、案外に使い勝手が良い。今の隆盛に比べれば今後の落ち込みは避けられないのだろうが、実は見方を変えればこれからも成長産業として生き残る道もあるのだと思う。

実は、電卓も大型汎用計算機も、地味ではあるがホソボソどころではなく大活躍しているという事実がある。

IBM System z - Japan

大企業のように、ある程度は中央集権的な処理をせざるを得ない組織というものがあり、そういう場で使われるソフトウェアに対しては、今でも大型汎用機の使い勝手が良いらしい。そして、残存者利益を稼いでいるのが、上記のようなシステムらしい。1円入札で世間を騒がせたN社やF社は、今頃どうしているのだろう。

そして、電卓。

電卓販売台数 世界累計10億台を達成 - 2007年 - ニュースリリース - CASIO

このページの情報を見ると、CASIO単独の資料ではあるけれども、1965年の電卓販売開始から15年後の1980年に販売1億台を達成しているのに対し、その26年後の2006年には販売10億台を達成している。つまり、電子製品市場に占める電卓の相対的な割合はある時期をピークに減少に転じたものの、絶対的な電卓市場としてはむしろ、その後も成長を続けているということになる。この、相対的には縮小するが、絶対的にはまだ伸びるという商品は、実は日本が得意とする商品に多数存在しているような気がする。

つまり、国内で競争している場合ではないが、一村一品ならぬ一社一品運動を展開すれば、余裕で世界一を狙える専業メーカーが日本には多数あるのだと思う。そのような策をとれば、今後も日本は「市場残存者利益」だけで相当の稼ぎを続けることができるのではないかと思う。モータリゼーションは確かに起こったし、蒸気機関車は消えた。でも、ディーゼル機関車と電車は生き残った。在来線はかなり消えたけど、新幹線はむしろ規模を伸ばして、今も現役バリバリの交通機関だ。

これからレッドオーシャンになるような有望市場に漕ぎ出すのも威勢が良いが、レッドオーシャンのあとのブルーオーシャンがこれから目の前に広がってくるのだったら、そこを目指してみるのも悪くないのではないか。テープ式レコーダーが作れるのは今や日本だけ、であるとか、高信頼性真空管が作れるのは今や日本だけ、であるとか、はたまた高信頼性ノートパソコンが作れるのは今や日本だけ、となれば、それはそれで非常に競争力の高い製造業が成立するのではないかと思う。高信頼性レシプロエンジンが作れるのは、今や日本とドイツだけ、なんて30年後の世界は、考えただけでもワクワクする。

ドイツなどでは既にそうした「ニッチ・グローバル」を実現した企業が高収益体制を支えているらしく、BoschであるとかBASFであるとかいった「産業インフラ企業」が、自動車や半導体などの花形企業の浮き沈みを下支えしているという情報もある。こういった情報がほとんど広がらないというところを見ると、日本がアメリカの51番目の州であるという説を信じたくなってしまうが、もし本当に独立国家として今後もやっていく気があるのだとすれば、ユダヤ式グローバリズムだけではなく、120年ぶりに独仏英のスタイルを学んでみるのもいいように思う。

地域経済圏というと、円、元、ウォンの統一市場などと大風呂敷を広げたくなるけれども、実は円経済圏だけでも1億人を越える先進国生活者を抱え、一千万人規模の外国人労働者を養うだけの規模を持っている。一方、上流から下流まで、ありとあらゆる産業が、強弱の差こそあれ、くまなく存在している。この「円経済圏」のなかで、ドル、ユーロ、元との関係を勘案しながら、道州制といわずとも都道府県単位の政治的独立性を認め、同時に緩やかな経済的統制を図るという道で十分だと思う。まぁ、調べると大前研一さんの「平成維新」あたりと同じ結論で面白くないのだけれども。

ま、なんですよ、維新なんて話は横にのけとくとして、落ち目のパソコンだって、1社か2社の日本企業を養うには、十分な市場を今後も維持していくんじゃないかな、と。かつてのような産業の主役の座は降りても、終生「往年の大スター」として地方巡業で暮らせんじゃないかと。ヤボったくはあるけど、ヤバいって程でもないんじゃないかと。まぁ、そんなことを思いましたよ、っと。
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by antonin | 2009-06-04 22:35 | Trackback | Comments(0)

地雷を踏んでも生きる

「地雷を踏んだらサヨウナラ」という表題があったが、多くの場合、地雷を踏んだ程度では人は死なない。もちろん、匍匐前進などをしていれば頭部を損傷して即死する場合もあるが、普通に歩いていて地雷を踏んだ場合には、多くは膝下が吹き飛ぶ程度で、正しく処置すれば命には別状がない。実際、この表題で描かれたカメラマンの死因にしても、銃殺であったとされている。対人地雷とは、そういう兵器である。

現代日本は、と書きたくなるけれども、おそらくは古今東西問わず多くの人間社会は、精神的な地雷原である。その地雷を踏んで、日本では年間3万人が死んでいく。しかし、地雷をひとつ踏んだからといって、その場で即死するほど人間はヤワにはできていない。そこで心の一部を吹き飛ばされながらも、なんとか傷を癒し、また人間社会を生き抜いていかなくてはならない。傷は痛む。吹き飛ばされた何かを失ったことで自由が利かない。が、それでも人は生きる。これがつらい。古今東西の悲話とは概ねこの地雷を踏む話なのだろうと思う。

世界が完全に思考停止する前に (角川文庫)

森 達也 / 角川書店



愚者の道 (角川文庫)

中村 うさぎ / 角川書店



こういう本を買ってしまったわけだが、この森さんと中村さんの壮絶な記述を読んで、その痛さに目眩がする。要するにイタいという語感ではあるのだけれども、それを他者への揶揄としてはこれっぽっちも意味しない、気味の悪い共感としての、イタさ。

イタい、イタすぎる。

子供の頃から「常識を疑え」という言説に近しいものを感じてきたのだけれども、これは宿命でないのだとしたら、間違った事だった。常識を疑ってはならない。疑うとしても、一時の気の迷いとしてでなくてはならない。人は山野あるいは平原あるいは海原で自活する自信がなければ、決して常識を疑ってはならない。信じる者は、救われる。信じないものは、傷つけられる。傷つくことに耐えられないのであれば、常識を疑ってはならない。人として当然のマナーを守りましょう。

しかし、それが宿命に近いものだとすると、どうしても地雷を踏むことになる。あとは、地雷に吹き飛ばされつつも生き続ける術を学ぶ必要がある。これは、心が満たされている人間からは、決して学ぶことができない。どこかで、一部を吹き飛ばしてしまった人間だけが、その解答を模索する必要に迫られるのであり、必要に迫られなければ、解答も見つからない。解答が見つからなければ、死んでいく。死なないためには、生きる術を学ぶ必要がある。地雷に吹き飛ばされた傷口の治療法を知らなければならない。残念ながら、抗うつ剤は大した役には立たない。

中村さんの説によれば、「普通に生きられない」というのは、要は自己コントロールの甘さであって、それを「卑金属すら貴金属に変える賢者の石」の対極である、「貴金属すら卑金属に変える愚者の石」と呼ぶ。おうおう、タイプは少し違うけど、私も持ってますよ、その「愚者の石」とやらを。それを持った者はどうなるのか。「『表現者』になるか『犯罪者』になるか『廃人』になるしかない」らしい。まぁ、そうだろう。私はここである種の表現をして気を紛らわしてはいるものの、いずれは廃人になるような気もしている。

森さんはまた別の宿命を持っていて、それを「鈍さ」と表現する。今で言う、KYである。常識を疑ううちに、場に存在すべき常識を察知できなくなったのかもしれない。これも当てはまりますよ。常識を察知できる人間が、その能力に頼りすぎてはならないという意味で発せられた「常識を疑え」という警句を、常識を察知できない人間が得意げに「常識を疑う」などとやっているうちに、単に非常識な人として社会から浮き上がってしまう。乳化されない油滴のように。

なんだ、私は2発も踏んだのか、地雷を。痛ぇよぅ。痛ぇよぅ。でも、残ってる部分があるんで。まだまだしばらく生きて行きますよ。

傷口を観察すると、壊死し始めているのがわかる。が、傷口が徐々に小さくなっているのもまた、わかる。ときどき傷口をぶつけて血を流すが、普段はじくじくと血漿を滲ませる程度だ。ひどく痛むが、死にはしない。が、放置すればいずれ死んでしまうだろう。なんとか治療しなくてはならない。火で焼かなくてはならないかもしれない。死なないために。
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by antonin | 2009-06-01 03:04 | Trackback(1) | Comments(2)


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