安敦誌


つまらない話など
by antonin
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とりあえず終わり

帰ってくるけどな。

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by antonin | 2009-08-22 02:38 | Trackback | Comments(0)

苦諦

人間というものに対する、深い諦め。

人間の覚悟。

それでいいのだというより、それより他に手はないのだろうと思う。

だからこそ、神や仏という存在が有用になってくる。

経済学の用語に、合理的期待と適応的期待というものがあり、それぞれ別のものということになっている。適応とはつまり、合理的であることを、一部にしても放棄することなのだろう。合理性ではなく、人間の行動を観察し、適応的に、つまり合理性ではなく観測からの類推によって予測行動を推察し、それを最適化させるように行動することで、最大の期待を得ることができる。必ずしも合理的ではないが、局所的には最大の利益をもたらす。諸学問から得られる結論は、おおよそこういう具合になっている。演じることが利益になる。合理性を捨てて演じるための動機付けとして、信仰が必須になる。少なくとも心の中だけでは合理性を維持していなくては、人間は発狂してしまう。
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by antonin | 2009-08-18 11:12 | Trackback | Comments(0)

バカ親日記

最近、このブログが身内に知られてしまったので、本音が書けない。親バカ写真でも貼っておこう。

--

かつて「石川遼くんに似てる」と言われたこともあるムスコ2号だが、
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最近では小沢一郎さんに似てきたような気がする。
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ちなみに福耳です。
b0004933_23345598.jpg

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by antonin | 2009-08-06 23:35 | Trackback | Comments(4)

ほげー

昔、遊んでいる最中に疲れて一人ほげほげしていると、「ほげー禁止」などと言われたものだった。でも、最近は久しぶりにほげほげしています。たまに禁止命令が出るけど、適度に違反中。

--

高性能のプロセッサ上で動くソフトウェアで書くよりも、性能はそこそこのFPGA上にSRAMパターンとしてハードウェアを描いたほうが、より高速で動作するようなアプリケーションというのはあるのかなぁ。VHDLあたりの書法を覚えたとしたら、どうせならマイコン上で動くソフトウェアを劣化させたようなものよりは、小さくともハードウェアならではのものを書きたい。ついでに、VHDLに影響したというAdaあたりのDARPA御用達言語も、その文法をかじることができたら楽しい。

最近、新聞も読まないしテレビも見ないし、それどころかニュースサイトもあまり熱心には読まなくなったので、インプットの質が落ちている。脳がやられているので、雑誌や書籍を読んでも吸収が悪い。にゃー。

高輝度LEDを64個くらい並べて、そいつを200Hz位で駆動すると、どういう視覚効果があるのかなんてのは興味がある。普通にPWMする場合と、パルス幅を固定してPFM的にする場合と、ランダム因子を使って時間軸にランダム・ディザリングしたような場合と、空間方向と時間方向に誤差拡散したような場合と、CAなんかを使って自己組織的にしてみたりした場合では、視覚的にどのような差があるか、なんてことを試して遊んでみたい。似たようなことはDACを使って音声でもやってみたいけれど、結局ディジタル・フィルタとかΔΣあたりの完成された理論に落ち着くような気がする。もう少し感覚的に遊べるようなものがいい。

まぁ、クロックが数百MHzのマイコンでCのコードを書いても同じことができそうな気がする。つまんねぇなぁ。

だったらGHz級のプロセッサでSIMDなコードを走らせるプログラムでもVC使って書くか。それならこのノート機で完結するし。つまんねぇなぁ。

ハッピーセットのおまけのおもちゃが加速度を検知して発話すると言うのに、このヘボさはなんだ。そして退屈の根源は自分の無能さだという、この苛立たしさはなんだ。

ほげほげー。
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by antonin | 2009-08-04 23:30 | Trackback | Comments(0)

ひねくれ者のための適職相談

パンセ (中公文庫)

パスカル / 中央公論新社


三七四

 私をいちばん驚かすことは、世間の人たちがみな自分の弱さに驚いていないということである。人は大まじめに行動し、それぞれ自分の職務に服している。しかも、そういうしきたりなのだから、自分の職務に服すのが実際によいのだという理由からではなく、それぞれ道理と正義とがどこにあるかを確実に知っているかのように、である。人は、たえず期待を裏切られている。ところが、おかしな謙虚さから、それは自分のあやまちのせいであって、心得ていることを常に自分が誇りとしている処世術のせいではないと思っているのだ。だが、世の中に、懐疑論者でないこのような連中があんなにたくさんいるということは、懐疑論の栄光のために結構なことである。そのおかげで、人間というものは、最も常軌を逸した意見をもいだきうるということを示しうるのである。なぜなら、人間は、自分はこの自然で避けがたい弱さのなかにいるのではないと信じたり、反対に、自然の知恵のなかにいるのだと信じたりすることができるからである。
 懐疑論者でない人たちが存在するということほど、懐疑論を強化するものはない。もしみなが懐疑論者だったら、懐疑論者たちがまちがっていることになろう。

かつて高校の国語の授業を受けている教師がパンセを絶賛していたが、私はその教師が嫌いだった。しかし、大人になって改めてパンセを読んで見ると、非常に面白い。これはどう解釈したらいいのだろう。私を1年間の作文ボイコットに追い込んだ、あのカッコを多用する国語教師は、話してみればいったい面白い男だったのだろうか。今になって改めて話し込んでみようとは思わないが、彼の書いた文章を読み返してみたいような気はある。しかし、そういうものは全て棄ててしまって、手許にはもはや存在しない。

三五〇

 ストア派の人々。彼らは、人がときたまできることはいつでもできるし、名誉欲がそのとりこにしている人たちに何ごとかをやらせるので、他の人たちも同じようにできるだろうと結論する。
 それらは、熱病的な動きで、健康のときにはまねのできないものである。
 エピクテトスは、堅固なキリスト者があるということから、だれでもそのように堅固になれると結論する。

なんというか、現代の経済新聞あたりに論説を書く人々と似たような手合いが、いつの世でも人々の尻を叩いていたのだな、という共感を覚える。パスカルさんも、地所の経営なり、社交界での付き合い上必要な根回しなりの雑務から離れて、日がな一日、信仰や思索や実験に染まった毎日を送りたがるような性質だったに違いない。実際彼は貴族であったので、若い日にはそれが一部にしても実現したわけだが、やはりいつかは現実的な利益を生み出さなければならない立場に立たされる日も来るわけで、そうして思索は書籍としての体裁を得ることなく、パスカルさんは若死にしたのだろう。

芥川龍之介さんにしても似たような性質だったのだろう。実子に加えて親類の遺児なども転がり込んで、思想家や作家である以前に実業家として多忙な日々を送ることになったのだろう。思想家としては適性があったのだろうが、実業家には向いていないことが自分でもわかっただろう。しかし、周囲の期待はそうではない。出版業という情報流通産業の商品を生産する製造業としての作家業を営む業者としての芥川龍之介に対する期待はいやおうなく膨らみ、いや、そこまではできかねますという具合に彼は死んでいったのだろう。

懐疑論者にふさわしい、持続可能な経済上の職種というようなものは、果たして存在するだろうか。

参考:「中島敦 斗南先生
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by antonin | 2009-08-04 22:57 | Trackback | Comments(0)

竹林にあっても清談なんかしない

「あ、オポチュニズムは日和見主義だった、楽観主義はオプティミズムだった」と思いながら目が覚めた。が、面倒なので放置した(今はもう手直ししてある)。このあたりが中年の良さだと思う。10年若かったら、きっと耳が赤くなっていたと思う。もう安敦誌で知識のミスを見つけても、あまりに回数が多すぎて恥の感覚というものが擦り切れてきた。これも芸風のうちのようなもので、悪いことではないと思う。「海馬がやられているんです」ということにしておこう。今後ますます盛んになると良いのではないかと、半ば他人事のように思いつつ、雑談。


バジルと朝顔の葉が大量に食われた。2匹のコガネムシがバジルを食っているのを発見、1匹は現行犯逮捕したが、1匹は取り逃がした。逮捕したヤツはカブトムシ(オス)に逃げられて空室となっていた虫かごに収監した。ムスコ1号は喜んでいる。


妹と義弟がイタリア旅行のお土産を届けてくれるといってくれたが、どうやら義弟が家に置き忘れてきたらしい。きっと彼もストレスで海馬がやられているに違いない。お気の毒に。お土産には罰として米5キロを買ってもらった。特売品の鹿児島県産コシヒカリでいいと言ったが、気をつかってか、気がついたら南魚沼産になっていた。うちは食い物に関しては感度が低いので、そういう気遣いは無用なのだけれども、子沢山の家では5キロの食料を運び込んでくれるという行為自体が大変ありがたいので、喜んで受け取らせてもらった。


海馬増強ホルモンとか開発して欲しい。それで、丸山ワクチン級にタブー扱いされて欲しい。陰謀論渦巻く社会が好きだ。


明日からムスメが2泊3日の旅に出る。可愛い子には旅をさせよ。天気予報は2日とも雨なので、ムスメの新品リュックサックにてるてる坊主(女の子らしいので照子と呼んでいる)を装着した。ぜひとも晴天を呼んでほしい。私も案外こういうまじない事は好きだ。客観的事実と主観的事実というのは、必ずしも一致する必要がない。


「ケミカル・クッキング」という番組をネット上で見つけて面白かったが、竹を調理して食えるようにするような技術なんかがないだろうか。科学の勝利、というか、化学の調理。天然食物繊維を大量に含有していたりするから、多少味が悪くても、ダイエットに効果ありとかなんとか言えば結構いい値段で売れるに違いない。


今日はつねに昨日とは異なり、明日はつねに今日とは異なる。けれども、意外に変わりばえしない日々が、これからもずっと続いていくのだろう。小学校が廃止になった50年後の子供たちも、実は鉛筆を削りながらペンケースを筆箱と呼んでいたりするのかもしれない。案外に、世の中とはそんなものなのではないかという気がしている。
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by antonin | 2009-08-03 23:13 | Trackback | Comments(0)

異常者について

心に欠けたところの無い物書きというのも、無いのかもしれない。

中島敦 狐憑

物書きになろうとしてなれないような人は別として、物書きになろうともしていないのに文を書いてしまう執念の持ち主というのは、少なからず欠陥者のように思う。

IQテストというのがあって、これは本来、知的障害の程度を測定したり、日常観察から明らかではない程度の軽度の知的障害を検出するためのものであったという。だから本来は、平均値である100より下を問題にするはずのテストであったのが、100より上のほうが注目されるという現象を起こしてしまった。これは、多分に不幸なことだと思う。

「異常」という言葉があって、この言葉は正直だと思う。善悪のたぐいではなく、「常とは異なる」ということしか表していない。つまり、正常というのは単に数の多いだけのものであり、異常というのは単に数が少なくて珍しいというだけのものでしかない。良いとか悪いとか言う価値判断は、本来そこには無い。

こう考えると、IQが100よりも飛びぬけて高いというのは、明らかに「異常」ということになる。加えて言えば、人の脳の容量がだいたい誰も似たようなものなのだとすれば、何かが異常に優れている代わりの何かが、異常に劣っているという可能性は高い。つまりは、IQの高すぎる人間は、これもまたある種の障害者なのだろう。EQとかそんなものを持ち出すまでもないように思う。

この障害をカバーできるだけの「何か」があればその人は秀才なり天才なりとして認められるのだろうが、その「何か」が欠けてしまえば、その人は単なる障害者として社会から徐々に排除されていくのだろう。

まぁなんにせよ、昔よりは障害者の生きやすい社会にはなっていると思う。機械の助けも得やすいし、障害に関する正しい知識も得やすい。同類相憐れむ、でもいいから、まずまず生きていこう。
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by antonin | 2009-08-02 04:50 | Trackback | Comments(0)

LSEな人のための、もう少しだけマシな提案

その前に。

自信回復セラピー―なぜか、自信が消えてしまうあなたへ

マリリン・J. ソレンソン / PHP研究所



初めて、Amazonで古書を購入してみる。ありがとう、いい薬です。いや、まだあんまり効いていないんだけれども。

'LSE'ってな何ぞや、というところから話を始めると、これは"low self-esteem"の略で、ぶっちゃけて言うと「境界性人格障害」のことなんだけれども、これをもう少しマイルドに「自尊心が低い」状態と呼んだもの。自尊心の低い状態の人に向かって「人格障害」という呼び名はちょっとひどすぎるので。

でも、結局内容は一緒。障害の持ち主(オレオレ、オレだよ)の主観的な観点から見ると、「自尊感情が低い」という内面の状況で呼ぶのがわかりやすく、一方でその人と付き合う側の人(医者とか看護婦)が外側から見るのには、「人格に障害がある」という対外行動(というか迷惑さの種類)で呼ぶのがわかりやすい、というだけのことなのだろう。

で、この障害を外部対象として分析したり対処したりするためには、対象を「人格障害」として扱い、クリティカルな業務から排除したり、個人としてなら「なるべく関わらないようにする」という対応が正しい。ところが、これが「人格障害」のある本人であれば「なるべく関わらないようにする」というのは不可能であり、この強烈な自己ストレス反応から、自殺未遂を起こしたり自殺完遂を起こしたり、あるいは常習的軽犯罪者になったり無差別殺人犯になったりする。

で、こういう人を哀れんで、無理解な人がどういうアドバイスを与えるかという典型例が、こちら。

【秋葉原連続殺傷事件】 なんで犯人は凶行に至ったのか?彼の独白をよく読んでみる:Birth of Blues
とりあえず予備軍がこれ読んでたら、騙されたと思って、おいらからのメッセージです。手抜きせず一生懸命やっていたら、何か生まれるよ。
人生は偶然の連続だし。
それと、自分から手を伸ばさないと何も手に入らないよ。
空見上げてクチ開けても天から飴は落ちてこない。

まぁ、言いたいことは理解できないでもない。が、この手のアドバイスは、全く実効性がないばかりか、現実にその人生を「人格障害」とともに歩んできた人間にとっては、むしろ追い詰めるだけの逆効果にしかならないだろう。つまり、その手の「妄想」は、十分やってきたんだ。それで駄目だったんだ。これ以上、いったいどうしろと。そういう反応しか得られないだろう。で、

「そんなことだから、お前はいつまでたってもダメなんだ」
「そうだよ、こんなことだからオレはいつまでたってもダメなんだ。そんなことお前に言われないでもわかってる」

まぁ、だいたいこういうオチになる。

だから、ダメのダメ押しみたいな、死ぬほどオプティミズム全開のアドバイスはいただけない。本当にいただけない。実際に効くのは、言い替えると、本当に勇気を与えられる助言というのは、こういう感じになるだろう。

「今までのお前はダメだった。でも、その本当の原因はお前自身にではなく、お前が育ってきた環境にある。でも、いまさら過去を変えることはできない。ただ、それに気付いて自分を許すことができれば、これから先は、少しずつだけど良くなっていく」

と、こういう質のものになる。で、こういう助言をすると、相手は助言者にしがみついてくるだろう。しかし、生身の人間には、この困った「人格障害者」、あるいは「LSEな人」を時間と空間を越えて面倒を見続けることができない。で、どうするかというと、生身を脱した人にすがるという手を教える。別に、神でも仏でも、あるいは死んだばあちゃんでも、なんでもいい。とにかく、どんな夜中でも、たった一人のトイレの中でも、どんな状況でもそういう救いのある言葉を教えてくれるような優しくて立派な人格を思い浮かべるようにトレーニングする。

すると、自分を尊重したり信頼したりするのが難しい"low self-esteem"な人でも、心に思い浮かべた優しくて立派な人格なら、尊重したり信頼したりできる。その人格が、「いやぁ、大変だったね。本当に大変だった。でも、済んだことは仕方がない。悪い面もあったが、良い面もあったじゃないか。これからこうしてみたら、少しはいい方向にいくから、もう少し我慢してみなさい」と語りかけてくれたら、その通りにやってみようという気も起きるだろう。

だが、そんな心に思い浮かべた人格なんていうのは外からは見えない。黙ってその人格の指導に従って行動すれば、それはハタから見れば"self-esteem"にしか見えない。そういうことなのだろうと思う。だから、私は仏法を修めることにした。とりあえず観音経を読んで、最悪の状況でも「念彼観音力」とすればなんだかうまくいくような気がするように、自分をトレーニングすることに決めた。でも自分ひとりでできることには限界があるから、そこは仏像やら経文やら出家在家の信徒の言葉に助けを求めることにも決めた。聖徳太子も十七条憲法に「三宝を篤く敬え」と書いている。

これは別に仏教じゃなくても、なんでもいい。聖書の言葉と教会という空間に安らぎを覚えるなら、キリスト者の集団に入ればいい。御霊が宿るという感覚と神社の空間に安らぎを覚えるなら、神道の徒になればいい。理性が全てを解決すると心から信じられるなら、尊敬できる学者の言動の仔細が思い浮かべられるなら、学術界に身を投じればいい。ただ、信じる対象はすでに死んだ人間であるほうが、実際に会って軽んじられたり失望したりする危険がない分だけ安心できる。

聖徳太子にしても、それが実在するとかしないとかはどうでもいい。とにかくその人格の言動を覚えて、それに倣うことができれば、それで十分ということになる。私の場合は弘法大師空海さんだったり、観自在菩薩さんだったりする。それは単に、子供の頃に笠地蔵なんかの話に感動した体験が残っていたからという「縁」があっただけのことだと思っている。

だから、なんだろう。頑張ろうとして頑張らなくてもいいんだ、頑張らなくてもいいんだけれども、逆にそういう力の抜けた先に、やっぱり頑張ろうと心から思えるような心境がやって来る。頑張るのはそれからでも遅くない。そこへ向かって一緒に何かを考えていこう、何かを探していこう。すぐにはなんともならないけれど、いつかはなんとかなる。今日もまたダメだったのは仕方がない。でも、明日はちょっとだけマシになるといいな。ま、その程度ならなんとかなるかな。

私なら、「予備軍」の人たちに、そういうことを伝えたい。

--

参考:「自尊感情の心理学
性別に関わらず、これを読んで思い当たるところが多い人は"LSE"な人である可能性が高いです。
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by antonin | 2009-08-02 03:48 | Trackback | Comments(0)


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