安敦誌


つまらない話など
by antonin
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ガザとリスパダール

タイトルに意味はありません。

--

仕事と家事育児に忙しい中年なので避けたいと言っていたtwitterとtumblrだったが、甚だ不本意にもヒマになってしまったので、両方とも始めてみた。とりあえず登録してみたが、まだ何をしていいのかわからない状態。まぁ、追い追い。

安敦, Antonin (antonin_jp) on Twitter
Tumblr

ヒマといえば、Windows XPの発売直前に購入したデスクトップマシンのマザーボードを抜いて、単身赴任していた当時に使っていたマシンから引っこ抜いてきたマザーを入れてみた。Tualatin Celeron 1.2GHzからNorthwood Celeron 2.4GHzへアップグレードしたが、Tualatin Celeronが優秀だったためか、あまり体感的な差はない。FSBが100MHzから400MHzになってSDRAMがDDR1になったのは、いくらか効果があるのか。

ともかく古いマザーはCPU周辺の電解コンデンサが塩を吹いていた状態だったので、これであと5年は安心して使える。DDR1-512MBのメモリがあれば入手したいが、オークションでも結構いい値段だったのでがっかり。まぁ、現状でもさほど不自由はないので、気長に探してみよう。だれか余っているようなら恵んでください。

マザー換装後に音が鳴らないので変だなと思っていたら、以前のケースでフロント端子へライン出力を引き出していたために、リア端子が無効になっていたらしい。秋葉原でジャンパピンを買ってきて、端子を2対ショートしたら無事に音が出た。ハード的な原因だと気づくまでにドライバだのOSだのをさんざん再インストールしてしまったが、はじめからマニュアルを読んでおけばよかった。とはいっても、ハードウェアに原因があると感づく前にマニュアルを読んだところで、気付かないものは気付かないのだろうけれども。

もう個人情報がどうとかデータマイニングがどうとか情報監視がどうとか、そういうことは気にしないことにして、googleなtoolsにも手を出してみることにした。身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。とりあえず今はRSSをせっせとリーダーに仕込んでいるところ。きっともっと効率のいい方法があるような気がするのだが、なにしろヒマなので、今はこれでいいだろう。
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by antonin | 2009-09-30 13:54 | Trackback | Comments(0)

十善戒

不殺生(なるべく殺さない)
不偸盗(なるべく盗まない)
不邪淫(なるべくエロいことをしない)
不妄語(なるべく大きなことを言わない)
不綺語(なるべくお世辞を言わない)
不悪口(なるべく汚い口を利かない)
不両舌(なるべく矛盾したことを言わない)
不慳貪(なるべく欲張らない)
不瞋恚(なるべく怒らない)
不邪見(なるべく裏を読まない)

こういう戒があって、在家の人でもこれは守りますよ、という受戒をしないといけない。でも完全を目指すのは仏法の説くところと違うので、努力目標ということになる。人間完璧は無理だけれども、一応目指すことはしてみましょう、というのが受戒なので、「もうだめだ、できない」とか「やっぱりそんなの無理だよねぇ」とならない限りは、破戒とはならない。出家の人はまた水準が違うんでしょうが。

で、この順番は重要だと思う。大事な順に並んでいるように見えるかもしれないが、あるいは殺さないことよりも怒らないほうが大事かもしれない。そうではなくて、実は上へいくほど簡単で、下へいくほど難しくなっているような気がする。殺さないというのは、菌とか虫とかまでは無理かもしれないが、人を殺さないというのはそれほど難しい戒ではないと思う。一方で、言葉や行動の背後に隠れた意味を邪推するなんていうのは、ついやってしまいがちで、なかなか自分でも気付きにくいと思う。

自分では、細かいことを言えば全ての戒を犯しているし、なるべく控えようという戒を、師を持たないながらも受け入れたけれども、あまり改善している風でもない。まだ日々の行が必要なんだろう、というのが正直なところだ。線香を焚いた灰の量でしか、それはまだ量れないのだけれども、まぁ、少しは進展しているのだと信じておこう。


とりあえず、不殺生の戒を受け入れました。実は今月はじめくらいから、家族旅行も終わり、マンション住民総会も終わり、1日の整理日を置いて本日25日、殺生を計画しておりましたが、ここで私が殺生戒を犯してしまえば、真言密教ひいては大師遍照金剛空海さまに面目が立ち申さんということで、中止いたしました。殺されないでよかったな、長生きしろよ、俺。

というわけで。

南無大師遍照金剛
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by antonin | 2009-09-25 23:35 | Trackback | Comments(3)

微笑

いつも心に微笑を。無理なときは真言を。

--

さて。まだ邪見が消し去りきれていないものの、それなりに世の中悟った状態で眺めるに、色即是空、空即是色なのでございます。色とは手で触ったり目で見たりできるもの、絶対普遍の実体で、空とは人間が考えた意識の産物、ということらしいですが、これは解釈のひとつであって、色と空はもう少し応用の利く概念のようであります。

そもそもゴータマ先生が出家(というか家出、というか家庭放棄)して瞑想と苦行三昧の日々を送られたあとにたどり着いた結論は、「なんだ、悩むほどのことは何もないじゃないか」というあたりでございました。まぁ、家庭から逃げ出して苦行で毒気を落としたからこそ体感できた境地なんでしょうが、人間の集団生活ではルールは必要だが、それはあくまで人間が便宜的に決めることであって、無理なら放り出していいんだよ、でも全部を放り出すのもまた無理だから、適当に残してもいいんだよ、的な「ゆるさ」が本来の出発点だった、と。

けれどもゴータマ先生の没後、結局頭のでかいバラモン階級によって仏説はいいようにいじくり倒されて、来世での幸福のために厳しく戒律を守らなくてはならないだとか、自分の体を肉にしてまで出家の聖人に尽くすのが美徳でございますね、などという具合に解題されていく。一方でそういう上座部の意見に染まっていく仏教教団から逃げ出した実践主体のグループは、インドを離れて布教の旅に出る。

で、「先生の教えは、そういう仲間割れをさせるようなものではなかった」なんて嘆きながらアーナンダさんは焼身自殺してしまったなんていう伝説もあるらしい。まぁ、享年120歳だったらしいから、あまり信頼できる話ではないのだけれど。ともかく、日本に根を下ろした仏教というのもまた文字学問であったので、密教的なお手軽念仏とは別に、教養高い高僧の皆様におかれましては、かなり上座部臭い話も好まれている。説教とは本来ありがたい話であるはずなのに、「説教臭い」という言葉が嫌な感じに捉えられているというのも、ちょっとどうなんだろうという気がする。

翻って現代社会は、「マトリクス」、つまり法令や慣行や社会常識という論理的なシステムで多い尽くされているが、絶対の正義、つまり「色」であると思われているそれは、実ははかりそめの決め事の集成体、つまり「空」に過ぎないわけでございまして、生きる上で有用なものは利用すれば良いし、邪魔なものは無視すれば良い、という具合になるのであります。

ただ、現代のマトリクスはかなり構造が複雑になっているし、極めて堅固なものであると信じている人も多いから、邪魔な決め事を無視するためには、別の決め事を振りかざして邪魔者を切り払うといった、ちょっと回りくどい方法も使うことができる。空即是色だし。

さて、どうしたものか。

国家権力と喧嘩しない範囲で、いろいろと遊んでみましょうか。ヒマだし。
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by antonin | 2009-09-25 23:07 | Trackback | Comments(0)

東京遠心力

まぁ、平日のこんな時間から文章を書いているわけですが。


連休中は、親戚といえば親戚かなというくらいの人が住んでいる魚沼市へ行ってきました。ちょうど狭小な家庭田の刈り入れが行われており、親子で見物させてもらいました。年に1回だけのことだし、運が良かったね。親子で秋晴れの中を遊びまわり、真っ黒に日焼けした上に虫刺されで腕や足をプックリと腫らして帰ってきました。

晴れた夜には星が見え、シリウスが水銀灯のように刺すような光で輝いていました。デネブはしっかりと白鳥の尻尾になっていたし、その背後には天の川まで平然と見えました。ああ、あれが太陽系の属する「天の川銀河」の中心部の明かりなのだな、と思いつつ眺めていたら、夜になって夢を見ました。


東京の空は、街明かりで空自体がぼんやりと明るく、星が見えない。地方の空は、空自体がとても暗く、星が明るく見える。その暗い空からぼんやりと明るく見えるのは、星が密集する銀河系中心部の明かりなのだ。そう思うと、天の川が急に色濃くなってきて、薄ぼんやりした筋の中から無数の淡い輝点が見え始める。天球にペッタリと張り付いていた模様に過ぎなかった天の川が、立体感のある雲のようになってくる。

その雲の中に入っていくと、私たちの太陽系と似た星系が見えてきて、惑星軌道の内軌道に小さな青い星が見える。その大気の中に降り立ってみると、ちょうど日が沈むところだった。地球と同じ赤い夕焼けが鎮火すると、空に星が浮かび始めるのだが、ちょっと様子がおかしい。シリウスよりも桁違いに明るい星がいくつも光り、余りの明るさに足元に人影が落ちる。星の数も妙に多い。空の半分が雲のように光っていて、目を凝らすと砂岩のようにざらざらして見える。

そうか、ここは銀河系の都会の星か。この星系をつくる恒星の強い光のために、昼は地球と同じ青い空が広がっているが、夜になると、密集した近隣の恒星が放つ光のために、星明かりが明るくなりすぎているんだ。地球の夜の空の心地よい暗さは、銀河系の中心から程よく離れた、私たちの太陽系の位置がそうさせているんだな。銀河系の中心の人たちも、ときどき太陽系へ遊びに来たらいいのに。恒星団の喧騒を離れ、どことなく星恋しいこの惑星まで遊びに来なさいよ。


と、そんな感じの夢を見たのでありました。

原子や分子には、距離の2乗に従う引力と、距離の4乗に従う斥力が働きます。人も、まぁ、似たような具合なのでしょう。草木にも仏心あり。引力よりむしろ斥力の目立ちたるは、非人情有り難き現代かな。
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by antonin | 2009-09-25 11:30 | Trackback | Comments(0)

風景

過去の大接近ほどではないにせよ、火星が地味に接近している。今月も始めごろには日没後の空にシリウスが馬鹿に明るく光っていたが、次第にベランダからは観測しにくい上空へ上がっていってしまった。火星はどのあたりに見えるんだろう。これからは大気の透明度も上がってくるし、来年2月あたりの再接近に向けて急速に等級も下がってくるだろうから、赤い星を探しながら夜歩きしてみるのもいいかもしれない。

夏場の天気のいい夜に、今日は星がかすかに見えるな、などと機嫌を良くしていると、実はそれが夏の大三角だったりして、なんだよ一等星を集めてその程度かよ、という具合で東京の空は寂しかった。金星だの火星だのが出てきてようやく夜空を見上げようかという気になる。

下手な星などより、看板照明などの反照で光る低い雲などのほうが、よほど明るくて困る。子供のころ読んだ図鑑に、成層圏だか中間圏だか忘れたが、とにかく対流圏より高空の雲が日没後や日昇前の太陽に照らされて光る「夜光雲」という現象が載っていた。そんなものがあるのかと感心したが、東京では低い雲ほど良く光る。

それから、羽田に発着する飛行機のライトなども良く光る。機体を横から見ると移動している様子が良くわかるのだが、着陸態勢のため高度を下げながらまっすぐ我が家のほうへ向かってくる航空路があって、前照灯と思われる電球色の明るい輝点が、じっと空の一点を占めるなどという現象も珍しくない。最終的には旋回して滑走路に向かっていくのだけれども、連休最終日ともなると次々に輝点が現れて、管制塔や各種地上業務が、さぞ忙しいのだろうなどということを想像させられる。


逃げ出すように自転車を転がして自宅から三ノ輪、そして浜離宮まで走ってみた日があったが、隅田川沿いに奇妙な巨大建築が建造中だった。帰宅して調べてみると、新東京タワーのスカイツリーの建設現場だったらしい。子供を乗せるシートをつけた安いママチャリで離宮見物をしていたのは私です。

建造中のテレビ塔に映画「三丁目の夕日」のような風情はなく、むしろ夕暮れ時のように衰退していく日本経済の様子に足元の寒い思いをする民放各社の状況などを連想させながら、あの塔はまだ6倍程度の高さを目指しているのだなぁなどということを知る。気付いてから我が家からそのあたりの方角を見てみると、確かに太い何かが建造中なのが見える。完成したらさぞ目立つランドマークになることだろう。どうでもいいけど。


さて。41時間ぶりに眠るとするか。脳を中心にいろいろと故障しているので、薬を飲み忘れるとすぐにこのザマだ。どうでもいいけど。
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by antonin | 2009-09-18 01:42 | Trackback | Comments(0)

乾いた月

ドラえもん誕生日記念スペシャル。
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参考:http://limitedxlimited.blog22.fc2.com/blog-entry-89.html

あ、今月はSep.だったなぁ。まぁいいや。寝る。
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by antonin | 2009-09-11 23:05 | Trackback | Comments(0)

轍は時に有難い

「一読の価値がある書物は再読の価値がある」

学生時代に読んだ新書本を開くと、挟んであったしおりにそういう格言が書いてある。確かにそうに違いない。世の中には万巻と表したところで桁違いに足りないほどの書物があふれていて、そのうちの一冊を読みこなすにも骨が折れる。それなのに、一度理解したつもりの本を読み返すと、内容の詳細を忘れているばかりか読み取れる内容まで変化している。確かに良書というのは再読の価値がある。

となると、実際に読書に割ける時間なども勘案すれば、いかに速読術などを駆使しても、もう絶望的な何かを感じざるを得ないということになる。あの時代の空海さんでさえ、こう書いていらっしゃる。

悠悠たり悠悠たり、太(はなは)だ悠悠たり。
内外(ないげ)の縑緗(けんしょう)、千万の軸あり。

空海コレクション 1 (ちくま学芸文庫)

空海 / 筑摩書房


限りなく限りなく、とても限りがない。仏教その他の経典は、千万の巻物になる。書いてあることも、それぞれにもっともなことが書いてあるのだけれども、内容はそれぞれに異なる。そんな嘆きのような詩文から、秘蔵寶鑰という書が始まる。

そういう具合で、本というのは嫌になるくらい多くあるのだけれども、大きく分けて本には3種類のものがあるように思う。

ひとつは、読めない本。もちろん言語として読めないものもあるし、言葉としては読めるが内容が難しくて理解できないものもある。言葉もわかるし内容も理解できるが、その内容に納得できないというものもある。

もうひとつは、得るもののない本。なるほど納得できるが、その内容は先刻承知、何も新しく得るものがなく、退屈極まりないという本も、中にはある。

最後は、面白い本。読めないということもないし、退屈ということもない。内容が理解でき、新たに得られるものがある。それが役に立つかどうかは別として、とにかく読んでいて楽しい本というのがある。

考えてみればはっきりしているのだけれども、これというのは書物そのものが持つ性質ではなく、あくまで書物とそれを読む人の関係が3種類あるに過ぎない。だから同じ本を再読してみても、読む側の人間の状態が、経験や感情やその他もろもろのものによって常に変化しているから、かつて理解できず面白くもなかった文章が面白く感じられるようになったり、逆にかつて面白かった本が退屈に成り下がったりする。

時を経ても変わらず面白い本もあるが、どの部分に面白さを感じるかというところまで言えば、やはり読み手の変化に応じて変わってくる。この手の変化というのはほとんどありとあらゆる事象に当てはまると見えて、音楽しかり、絵画しかり、料理も飲み物も、スポーツも旅行も、あるいは仕事であっても、やはり同じ対象に異なるものを感じるようになる。


仏法に因・縁・果という考えがある。同じ原因、要因から発しても、そのときの状況という縁が異なれば、結果も異なるという解釈がある。だから因だけでなく縁も大事なんですよ、という感じの説教になるのだが、cause, condition, resultというような語を当てはめてみると、意外に科学の方法と似ていることに感心した。諸法が空であるなんていうのも、人間の意識から見ればすべての事象は情報と解釈できるとした個人的結論と馴染みがいい。

結局は自分に都合のいい解釈ではあるのだけれども、不動明王を本尊とするお堂の脇の説明を読めば、人の心は人の数だけ異なる相があるけれども、肉体に縛られない不動明王さまは人の心の中に人の心の数だけ現れて、人の心に随いながらも人を導いて救うのだ、というような内容の言葉が書かれているのに気付く。

そういう意味の言葉に気付くのも、自分で苦しみ、自分で悩み、自分で考え、そして不動明王の真言を無心に繰り返して唱え、その結果を体感した経験があるからこそなのだろう。真言が備え持つオカルト的なご利益というよりも、短い真言を唱えるといった単純作業の反復に言語野の入力と出力を割り当てることで、無心という冷静な脳の状態を得る、といった解釈の方が実際に体験した感覚に近い。答えは先人の智慧の中に既にあったのだけれども、それでもやはり、そこにたどり着くためのプロセスは一人ひとりが通ってみる必要があったということなのだろう。

けれどもまぁ、そういうことは大人がちゃんと教えてよね、という気がしないでもない。長い道のりだったし、悟ればそれで終わりということではなく、今後も反復訓練によって自律の精度を高めるという行は日々繰り返す必要があるということも理解できた。

よく、哲学的疑問の答えを探すことに意味がない、というようなことを言う人があるが、そういう人はおそらく、本当の意味で哲学的疑問を発したことがないのだろう。疑問を発していない人には答えは必要がない。当たり前だ。しかし、本当に疑問を発してしまった人は、あくまで哲学的に答えを希求しなければならない。そうしなければ、苦しみに終止符を打つことはできない。議論のための議論をもてあそぶことは確かに不毛だが、切実な疑問の答えを求めることはやはり不毛ではなかった。


コメントには改めて応答いたします。寝る。
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by antonin | 2009-09-11 00:34 | Trackback | Comments(0)

セブンスターの香り

二つの可能性を考えていた。

ひとつは、帰ってくると言いつつ、帰ってこないという道。廃刊ではなく、無期休刊のような、誰も期待していないが、とりあえず終止符は打たないで置くという。

いまひとつは、明るく帰ってくるという道。ネタは、終了後数日で考えついていた。「かえって こいよ~、 かえって こいよ~、 却って 濃~いよ~~」というオチ。

が、どちらというわけでもなく、淡々と再開することになった。現実の人生というのは、小説より奇でありながらも、必ずしも劇的にはならない場面のほうが多い。

半年ぶりくらいに、タバコを吸ってみた。まだ例の星模様が印刷されたセブンスターの箱に紙巻が数本残っていたので、部屋の外に出て1本吸ってみた。強く吸って肺に入れるというほど実用本位の吸い方ができないので、副流煙が消えない程度にゆっくりと空気を吸い込み、フィルターの脇からわずかに空気が入る程度に緩くくわえる。すると、案外にこのタバコは良い香りの煙を出す。煙は口腔内に蓄え、緩く吐き出しながら鼻で吸う。

喫煙の作法としてどうなのかは知らないが、フィルターがあってもなくても、葉が湿っていても乾いていても、パイプを経ていてもフィルターを経ていても、非日常的喫煙者にもそこそこ煙を楽しむことができる吸い方として、少ない経験の中で見つけ出した方法なので、個人的にはまぁ満足している。

そうは言っても、火が消えてしまったあとのタバコというのは、やはりどうしようもない臭いがするもので、部屋に戻ると先ほど焚いた線香の残り香が快く感じる。

いろいろと積もる話はあるのだけれども、それは追い追い。
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by antonin | 2009-09-09 23:10 | Trackback | Comments(6)


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