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安敦誌


つまらない話など
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本の話

先日、所用で出かけた新宿の書店で、平積みの本を一冊購入。

家族の練習問題―木陰の物語

団 士郎 / ホンブロック


模範解答は、ない。ただ、どの家族も、潜在的か顕在的かは別として、問題は抱えている。そういうものを並べて見てみると、そこに通じている問題の根のようなものは見えてくる。根は見えるのだけれども、竹の根のように入り組んでいて、そう簡単に解決できそうにもない。

他に、面白そうな本が多数。経済的にも場所的にも諸問題あり、購入は差し控えた。メモを残しておこう。

奇界遺産

佐藤 健寿 / エクスナレッジ


写真集。内容は帯のあおりほど下品ではなく、まぁ見ようによっては下品ではあるけれども、大航海時代末期の博物学的な要項スケッチ集に似た面白さと美しさを併せ持った写真集。笑ってもいいけれども、それを言ってしまえば東京の街なども冷静になってみれば相当に笑える風景を含んでいると思う。

仏典をよむ―死からはじまる仏教史

末木 文美士 / 新潮社


日本仏教史」の末木さんの著作。複雑に入り組んだ大乗仏典のトピックを通じて、その複雑さについて伝えてくれるような内容に(立ち読みの範囲内では)読めた。ハードカバーなので体積的に自宅には置きにくい。図書館で借りて読むか、新品を買って印税を払い、読後に売るか。

できる男の活力マネジメント (ディスカヴァー携書)

朝倉 匠子 / ディスカヴァー・トゥエンティワン


内容は別として、あとがきに注目。「朝倉版『男たちへ』です」という旨のことが書かれている。元ネタはというと、塩野姐さんの書いた「男たちへ」。

男たちへ―フツウの男をフツウでない男にするための54章 (文春文庫)

塩野 七生 / 文藝春秋


この本は手許にあるのだが、「フツウでない男をフツウにするための」本というのはないものだろうか。フツウでないと、なにかと不便でいけない。遺伝子組み換えでもしない限りは無理なものなのかもしれない。このフツウでない遺伝子はどうやらムスメが一番色濃く受け継いでいて、先が心配される。
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by antonin | 2010-01-26 15:57 | Trackback | Comments(10)

会話のマッハ数

マッハ数というのは、流体の流速を流体中の音速で割った無次元数。

マッハ数 - Wikipedia

つまり、マッハ数というのは固定的な速度値ではなくて、その場の流体の温度であるとか密度であるとか、そういう流体の条件によって変動する。逆に考えると、例えば大気よりもめちゃくちゃ音速が遅い流体があったりした場合、そこにパンチを繰り込むとスーパーソニック(超音速)パンチが打てるのか、なんてことを考えていた。

で、「音速 遅い」なんてあたりを検索していると、けっこう多数のページがヒットして驚く。なんだ、ということで調べてみると、とあるギャルゲーでそういうセリフが出てくるのだそうだ。詳細はわからないが、会話のレスポンスが遅いとか、そんなような意味らしい。

会話に音速があるとして、マッハ数は1を超えることができるのだろうか。友人の持っている音声読み上げソフトが電子的文書を読み上げるときの発話が、人間離れした滑舌の良さでもって結構な高速で読み上げていたのに驚いたことがある。まあ視覚的に文章を読むときの「流速」に比べると、そうおかしくない速度でもあった。

そういう技術を駆使して、喉と舌を使って発話するという生理的制約を解除し、中枢神経系のレスポンス能力の限界のみに依存した速度で会話を繰り返すという近未来SF的な状況において、機器の取扱について充分な経験を積んだ人間が一対一で会話するとき、果たしてどれくらいの会話速度が得られるのだろうか。

すでに、筆記具を用いた手書き文字よりキータイプによる入力の方が早い人は多いと思うし、かな漢字変換などは除外してキーボードからのローマ字入力速度だけで見ると音声会話の速度を超過しているような人もいくらかいるだろう。そういう場合、多少の打ち間違いは辞書が吸収して音声発話してやれば、発話の限界速度は相当高くなるに違いない。ジャズピアニストが即興演奏する指さばきなどを見ると、その点に疑いはない。

受話速度の方も訓練によって相当上げることができるだろう。読み上げ装置の音声はすでにその傾向を示しているし、英会話の聞取りやアマチュア無線の免許試験でモールス信号の受信練習をした経験から考えても、機械音声の聞取りに慣れない人と慣れた人、さらに特別に習熟した専門家との受話速度を考えると、その比はかなり大きなものになるような気がしてならない。スラングやQ符号のような符丁の使用を認めた場合には、その差はより拡大するに違いない。

様々な技術や訓練を経ると、最終的には通信路のS/N比で決まる通信容量という理論限界が見えてくる。意識レベルで思い浮かんだことが、思い浮かんだそのままの速度で他者と会話できるとする。理論限界に近い発話能力を持った話者が発した「言語」が、一般人レベルのまどろっこしい受話者に向けられたとき、そこで「超音速」現象が発生するだろう。

発話のマッハ数が1を超えると何が起こるかということについては、私たちはよく知っている。つまり、早口言葉の速度を上げていくと、ある時点で「舌が回らない」という現象が発生する。脳からの発話命令を咽頭口腔が処理しきれなくなり、「衝撃波」が発生して言葉が乱れる。

これが受話サイドになるとどういう感じなのだろう。耳という装置自体は相当能力が高いし、訓練によってあまり性能が上がるとも思えない。どちらかというと言語野の復号化回路のほうが律速になっているだろうから、「言語」が単なる「音」になってしまい、意味を聞き取れなくなる。

ただ、マッハ数が1前後の状態でどんな現象が起こるのか、ということには興味が引かれる。発話速度が「音速」付近になると、「言い間違い」とか「舌を噛む」ということになる。受話速度が亜音速の場合は、「聞き漏らし」とか「聞き違い」というようになるだろう。だが、大きく破綻していなければ、冗長性を持った自然言語で会話しているうちは、多少の誤解の危険性をはらみながらも、会話は続行できる。

機械発話の「声質が一定」で「滑舌が超いい」という特徴を持つ音声を、若い頃から繰り返し聴いて訓練した受話者がいるとする。その人が限界速度付近で受話し続けた場合、言語野よりもバックエンド側にある統合関係の部位の処理速度が律速になってくるかもしれない。そういう状況で受話速度が「音速」に達すると、意味の統合レベルで「処理落ち」が発生してくる。そういう場合、やはり一時的にしても「統合失調」的な、トランス状態のような精神状態に陥るのだろうか。

ネットなどで雑多な文字情報を意味統合の限界能力に近い速度で摂取するとき、摂取情報が一部崩れて統合された妄想状態が発生するなどということは、日常茶飯事とまでは言わないまでも、個人的には過去に繰り返し経験してきたことでもある。こういう現象が、前頭前野の処理が入力に負けて「衝撃波」を発生しているという事なのかもしれない。

普通の精神はこの衝撃波に負けて、それを壁として正常側にフォールダウンされるわけだが、中には特別強靭な思考力で「超音速」状態に深く突入する「統合失調」タイプの人や、あるいは大脳辺縁系を突破して延髄の方にまで衝撃波が到達し、身体症状を発生する「てんかん」タイプの人もあるのかもしれない。ニーチェなどはひょっとすると亜音速で巡航し続けていたのかもしれない。

音速の他に粘度というアナロジーを持ち込んで、レイノルズ数が関与してきて乱流が発生すると話題が錯綜する「ADHD」タイプであるとか、いろいろ論を重ねたいところではあるが、ネットで拾った比喩に乗っかってここまで変な論を進めてしまうのも恐らく「亜音速飛行」の一種であって、今日のところは「妄想」タグを打ってこの項を終わりとしたい。
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by antonin | 2010-01-24 00:43 | Trackback | Comments(0)

8つのユーモレスク

寄席を訪れると言いつつ、まだ実行していない。ミニカーにランプを付けると言ってまだ付けていない。ライフゲームのプログラムを書くと言って、まだ書いていない。Vistaの再インストールをすると言って、まだしていない。最後のは必要が無くなったからなのだけれども。有言不実行、ダメ人間の面目躍如というかなんというか。

落語は聞いていないが、代わりに音楽を聴いている。チャイコフスキーの弦楽セレナードを適当に聴きながら掃除機をかけてみたりすると威勢が良くていい。一息つくと、ここらでまたドヴォルザークを聴いておきたくなる。

ドヴォルザークの音楽は、日本の演奏家はともかく聴衆には愛された作曲家で、有名な作品も多い。「ユーモレスク」というとオムニバスの名曲集などには頻繁に入る曲だけれど、実は「8つのユーモレスク」Op.101という作品の第7曲だというのを知ったのは、ずいぶんと前だった。ドヴォルザークの愛好家としては、残りの7曲が是非とも気になるところなのだけれども、その演奏というものになかなかお目にかかれない。第7番だけが絶品で、あとは駄作なんだろうかと怖い思いもあって、深追いはしていなかった。

最近ではネット上の情報も増えてきたことだし、そろそろ何か手に入るかもしれないと思い、久しぶりに検索してみた。すると、まず没後100年以上を経たアントニーン・ドヴォルザーク、その作品の演奏はともかく、楽曲自体は著作権が失効している。ということで、フリーの楽譜がネット上に公開されているということがわかった。そこに「8つのユーモレスク」の全曲スコアが登録されていた。

8 Humoresques, Op.101 (Dvořák, Antonín) - IMSLP/ペトルッチ楽譜ライブラリー: パブリックドメインの無料楽譜

しかし、ピアノ楽譜だけ提示されても、それがどんな曲なのか私にはさっぱりわからない。もう少し探してみると、ヤマハから楽譜データが販売されていて、そこでMIDI音源の試聴ができた。

8つのユーモレスク Op.101 (ドヴォルジャーク) - [ピアノレパートリーガイド]

ここで第7曲以外の曲を試聴してみると、どの曲もいかにもアメリカ期のドヴォルザークらしい個性と魅力に溢れる曲ばかりで、なんでこれらの曲が埋れたままなのかと惜しい思いがする。試しにYouTubeを検索してみると、アンコール曲と思われる第1曲の演奏が見つかった。



プロの演奏を聴いてみると、確かに素晴らしい。

クラシック音楽の博物館レーベル、NAXOSに一応CDがあるらしいのだけれども、ディスクだと在庫はないらしい。

Amazon.co.jp: ドヴォルザーク:ユモレスク Op. 101/影絵 Op. 8: ヴェセルカ: クラシック(現在お取り扱いできません)

ミュージック・ライブラリのほうには音源があるのだけれど、月額制なので躊躇する。ディスクをゆっくり探してみるか。
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by antonin | 2010-01-21 00:06 | Trackback | Comments(0)

ネクラフィリア

どうもいけませんな。

そんな私を尻目に株価がメキメキ上昇している。

メモリの消費量が2GBを超えっぱなし。たいしてアプリ起動してないのに。4GB積んどいてよかった。

ムスメが布団に足を突っ込んでくるのでこんな時間に目が覚めた。自分の布団で寝ろと。(愛)

こんなオヤジに誰がした。俺がした。自己責任。

四十歳になると、自分の顔に責任を持たないといけないらしい。それは断る。断じて。

正月は銭洗弁天で初詣をしてきました。ゼニ洗ってきました。

福澤先生に顔を洗って出直してもらいました。最近働きが悪いですよ、先生。

「おん そらそば ていえい そわか」と百遍唱えてきました。変な目で見るなよと。

今日はモルモン教宣教師のお兄さん達になぜか呼び止められて、ちょっとお話してきました。

「ナイスガイですね」と言われました。握手されました。本当に虹彩が青かった。

うちは真言宗ですけど、仲良くやりましょう。

根暗大好きネクラフィリア。
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by antonin | 2010-01-15 05:51 | Trackback | Comments(3)

若者以上、中年未満

私は団塊ジュニアの最上級生世代であるが、個人的には中年にどっぷりと浸かっている感覚でいるので、「中年未満」という気はしない。けれども、三十代もまだ前半の人たちであるとか、私と同年代、あるいは私より年上であっても、気分は中年未満という人は少なくないに違いない。

「友達以上、恋人未満」であれば、ロマンスの一番美味しいところであって素敵に違いないが、これが加齢現象ともなると、その一般性に対してもはや悲劇性に似た響きを持ってくるのではないかという気がしている。私はいわゆる団塊ジュニア世代に属する年齢であるからこのような表題を持ってきたが、「中年以上、老人未満」というところで似たような逡巡をしている世代も少なくないに違いない。そういう世代にはすでに「熟年」という語が公募によって設定されているのだが、あまりこの語を積極的に受け入れている人というのも少ないようだ。例外的に「熟女」という言葉はよく見掛けるのだが、さてそれが熟年を女性に限定したものかというと、そうでもないような気がしないでもない。

中年というのは、言い様によっては壮年とも言える。壮年というと現代では五十代あたりを指すことが多いが、本来的には人生の中で一番脂の乗り切った年代、ギリシア語でいうならacmeであるから、四十歳前後の年代を指すのが正しいのだろうと思われる。脳の活性においても青年にそうそう劣ることはなく、経験においても熟年にそうそう劣ることはないこの年代が、本来世界の中軸となって歴史を動かしていくべきなのに違いない。

であるが、長く安定の時代を続けていくと、若さゆえの機動力よりも経験に基づく老獪さの方が尊ばれる場面というのが多く、結果として壮年は老年の一歩手前にまで登りつめていく。そういう状況に現代もある。あるのだがしかし、そういう時代の終りがすでに霞の向こうに透けて見えていて、その先をどうするんだという決断の気配は、我々頼りない中年未満の世代に向けてずっしりと迫り来ている。

個人的な話になるが、私はこれまで単純に年齢を重ねてきて白髪なども増えており、正月に半年ぶりに会った義妹には白髪が目立つようになったと言われたが、それでも組織の最小単位を統括するリーダー業務に就いたことは一度たりとも無いままこの歳になってしまった。子供は三人も生まれたが、長の付く役職に就いたのはどれも学生時代のことばかりで、社会に出てからは万年ヒラの道を歩いてきた。

そういう我々が、いよいよ先代の残した課題に直面するこの先二十年、さてどうしたものか。もちろん、我らが同期には素晴らしい経歴を引っ下げ、リーダー役はおろか社長職さえ果たしたツワモノがゴロゴロとしているのだから、心配に及ぶには当たらないという気がしないでもない。だがしかし、そのリーダーたちの決断の手となり足となって実地に走るのは、結局頼りない我々中年世代なのであって、失われた二十年が即ち人生の基礎を築く時期だったという冷徹な若い世代の上に立って、果たして私たち、いや、私は何が出来るのだろうか。

芥川は毒をあおった。太宰は女と上水に入水した。バカヤロウ。死んで名の残る奴はいいが、ウチに残るのは厄介な遺伝子を受け継いでしまったムスメひとりとムスコふたりだけだ。私は未だ名も財も残していない。学は多少あるが、この時代のこの世界に必要とされる人間であるという気がしない。どうしたらいい。どうしたらいい。一体どうしたらいい。


今は酒が入っている。酔っている。果たしてタイピングは正常に行えているだろうか。校正は正常に行えているだろうか。噪状態よりは酩酊状態の方がまだ確度は高いのかもしれない。酒は未婚の時代に旅した高千穂の、地場の焼酎が近所で売っている。値段も手頃で愛飲しているが、最近はストレートで飲むことがあったりして、どうなのだろうと思わないでもない。それにしても旨い酒だ。

 麦焼酎 長期貯蔵 くろうま

来年の正月も、まだ下らないことを言いつつムスコの誕生日を祝いたい。まだ生きていたい。まだ生きていたい。早春には近所の公園に植えられた河津桜の花が咲くだろう。河津の春は早い。あと、ほんの少しだ。
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by antonin | 2010-01-14 00:06 | Trackback | Comments(0)

錦は着てても心は襤褸

いやはや。タイトルはあんまり関係ありません。

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芸術というのはある程度まで、作り手と受け手、あるいは買い手と言ってもいいけれども、生産する側と消費する側の間に共通したルールが存在する必要がある。たいてい最初はありふれた日用品や娯楽の品質に関する緩いルールであったものが、偶然の積み重ねであったり変人の偏執であったり、そういうものが時間の経過とともに積もりに積もって、最終的には針をも通さないような複雑なアレやコレやの決め事になってしまったものが、高度な芸術になる。

そういう、高度な芸術に含まれる高度な「お約束」とは、客観的な視点、つまりそうした高度なルールを理解しない視点から見ると、一般に滑稽に映る。京劇のメイクアップと頭のてっぺんから出るような声であるとか、歌舞伎の見栄切りやそれに応えて役者の屋号を叫ぶ観衆であるとか、そういう慣習というものは、ほとんどが冷静になってみれば馬鹿らしいようなものばかりである。

しかしだからといって、そういう客観的に無意味な決まりごとに縛られた芸術が馬鹿げているのかというと、決してそういうことはない。そうした予定調和が高度に調和したとき、人の心には得も言われぬ昂揚感が起こる。この感情こそが芸術の正体なのであって、約束事というのはそのための道具立てに過ぎない。しかし高度な道具ほど完璧に扱うことは難しく、そこに人間は芸術を見る。

だから、芸術を扱う人々はふたつのことに気を付けなければならない。ひとつは、ある芸術がどんなに高度な美を表していると感じられても、その芸術が内包するルールを理解しない視点から見れば、それは極めて滑稽なものでしかなくなるということを忘れないこと。もうひとつは、周囲から冷ややかな評価を与えられていても、自らの感覚が美しいと訴えかける芸術には、必ずなんらかのルールに支配された本物の美が潜んでいるのだから、周囲の評価に過大に影響されないこと。


そんなことを、夜郎自大にならずに自己暗示するということは、果たして可能だろうか。芸術家や職人の煩悶のうちのいくらかは、このような問題によるものなのではないかという気もする。
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by antonin | 2010-01-12 19:21 | Trackback | Comments(0)

モロゾフ、トロイ

そういう検索キーワードでここへたどり着いた人があった。おそらく、洋菓子メーカー「モロゾフ」の公式サイトが改竄されてトロイの木馬が仕掛けられていた件を探していたのだろうけれども、おそらくヒットしてしまったウチの記事はこれ。

安敦誌 : 勇者と甘味

最近はgoogle先生の検索精度が高止まりして、こういう誤爆の機会が減ってきたので、当方としては若干寂しい思いがあるが、まぁこれが正しい姿なのだろう。
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by antonin | 2010-01-06 18:46 | Trackback | Comments(0)

ミリンダ王と渡辺夫妻の問い

去年の後半は脳がパンク状態で本など読めた状態ではなかったが、最近は少しずつ本が読めるようになってきた。文章を読んでも内容が頭に入りにくかったのが、集中して読めるようになってきた。図書館に行って本を読むのだが、つい魔がさして本を借りてきてしまった。これでは未読が減らない。

時間と人間 (自然選書)

渡辺 慧 / 中央公論新社



三部構成になっていて、第一部と第三部が夫の渡辺慧さん、第二部が妻の渡辺ドロテアさんによるもの。各部が三章構成になっていて、各章は雑誌に寄稿された論文を若干改訂したもの。

第一部は物理的な時間と人間から見た時間に関する情報物理学者さんの考察で随想形式になっている。第二部はドイツ文学、特に近代哲学と仏教の関係を時間論も交えて論じていて、これも興味深い。第三部は確率論を通じた時間解釈で、慧さんがIBM在職中のシミュレーションで得た知見をもとに時間論が記されている。条件付き確率で若干の数式というか記号が出てくるが、説明上使われているだけで演繹や証明は無いので読みやすい。

時間論、可逆・不可逆論、確率的情報論、ボルツマンのH定理、生体のネゲントロピー現象などの興味深い話題に加えて、奥さんのドロテアさんによるドイツ哲学と仏教の関係に関する論文が挟まれていて、どれも非常に興味深い。偶然、同時に借りてきた「ミリンダ王の問い」にさえ言及されている。なんという奇遇な、なんという縁深い。遅読の私には2週間程度では読み切れないので、できれば手許に置きたい本だが、Amazonで中古価格を見ると¥8,000よりとなっていて手が出ない。まぁ他に借りる人も少ないだろうから、図書館から繰り返し借りてくればいいだろう。

ミリンダ王の問い―インドとギリシアの対決 (1) (東洋文庫 (7))

平凡社



世界史の雑学本を整理していたら、「ミリンダ王の問い」という仏教経典があることを知ったので、図書館で借りてみた。アレキサンダー大王の東征によって獲得された地域は大王の死後分割されたが、そのうち最も東になる西北インド、今のパキスタン東部まで差し掛かる領土を引き継いだのが、ギリシャ人の王メナンドロス(ミリンダ)。そのミリンダ王が当地の賢人を招いて問答をしたうち、最も優れた答えをしたことで歴史に名を残した仏僧、ナーガセーナとの問答集。3分冊になっている第1冊だけを借りてきた。

ギリシャ哲学を理解するミリンダ王が、ギリシャ的常識から見た仏教哲学の根本思想に対する疑問と、それに答えるナーガセーナの問答があまりに優れていたので、その対話がパーリ語仏典として残されたという。漢訳仏典にもいくらかの資料があるらしい。この対話にはミリンダ王も感銘を受けたらしく、その後は仏教を保護する善王として扱われている。死後にはその遺骨が仏舎利のように仏教徒に求められたという伝説も残っている。

ゴータマ・ブッダはバラモン教の複雑な教義や戒律を否定し、絶対的な真理などない、不可知な世界にとらわれるな、というような事を説いたが、ブッダ入滅後に再発展した仏教は、必要なら神秘世界への信仰も利用して、理解が可能なようであれば絶対的真理はないという仏教究極の悟りへ至るのもまた良し、という具合のところへ回帰していく。

ミリンダ王とナーガセーナの対話では、比較的原始仏教の世界に近い、唯物にも近い無常の仏説が比喩を多用して説明される。翻訳も現代的で、仏典らしからず水の如く読みやすい。この本もまたいずれ読み返してみよう。
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by antonin | 2010-01-06 18:39 | Trackback | Comments(0)


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