安敦誌


つまらない話など
by antonin
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二番底は来るか

130円付近で推移していたユーロが、急に120円前後まで落ち込んだ。速報値だともう121円台まで回復しているけれども、また一波乱あるんだろうか。年度末の季節要因もあるようだけれど、ギリシャの国債格付けが下がるとかいうニュースもあって、ちょっときな臭い。ドルも弱ってきた。また国内でカネのめぐりが悪くなってくるのかもしれない。

ギリシャ国債格下げの可能性、円高/株安に波及 | Reuters

個人的にいろいろと考えている。儲けるのではなくて儲かる仕事をしないといけない。社会のニーズを掘り起こしてサービスを提供し、カネを巻き上げるのではなくカネを払ってでも利用したいと思ってくれるような仕事を見つけないといけない。手持ちの札と社会の状況を睨みながら、なんとかうまい組み合わせはないものかと考えている。GPLで公開されているテキストを翻訳してみたり、カウンセリングやコーチングの資料を読んだりしながら、それなりに手と頭を動かしてはいるけれども、まだ「これだ」というアイデアには到達していない。

煮詰まったときにはゲームで遊んだりもしている。遊んでいても昔ほど上達しないが、一時期よりは純粋に楽しめるようになったのも確か。「楽しい」という感情が残っているのを再発見したというのがここ一週間の大きな収穫。嵐の中でも希望を持てば生き残れるというのは聖書にも観音経にも出てくる話で、そういう境地になれるようトレーニング中。

「やる気」に必要なのは「希望」であって、それは根拠のある希望であるのが一番望ましいのだけれども、根拠がなくても希望を持つ方法があって、希望さえあれば実績はあとから着いてくるものらしい。根拠のある希望だけにすがっていると、思うようにならないときに希望の根拠としていたものが崩れてしまう。絶望してしまうと、やる気も消える。しかし根拠のない希望は、根拠を持たないがゆえに、失敗や苦境にも左右されない。するとやる気だけが残って、いずれは苦境を乗り越えられる。だから最初は根拠のない希望があれば十分なのだという。

「そんな考えは甘い」
「これまでの結果から見ても上手くいくはずがないだろう」

というありがたい忠告を周囲の人から頂いてしまうわけだけれども、

「それでもなんとかなる」
「これまでの結果があるからこそ今後が良くなる」

という底抜けに楽観的なアドバイスをくれる神やら仏やらを心の中に彫り込んでおくと、悲観的な忠告を「死刑宣告」ではなく「参考意見」として適切に受け入れて活かすことができるようになるのだろう。

二番底どんと来い。きっとなんとかなるさ。
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by antonin | 2010-02-26 12:15 | Trackback | Comments(0)

安敦誌 再放送スペシャル

ちょっと古い記事をひっくり返してみた。

唯物主義から相対主義へ、相対主義から真言密教へ。
哲学的なスタンスの変遷がわかるような流れで。

(1) 科学の時代
工学部出身のエンジニアとして、まだありがちなスタンスにいた頃の書き物。科学と哲学と信仰の話題がときどき出てくるので抜粋。

一市民の宇宙論 (2005/4/8)
離散的な複雑系として物理法則を捉えられるのではないか、という素朴な議論。

雑感~分析と分類の間 (2005/6/26)
「自分は理解できないが専門家には理解できていること」の正しさを判断する難しさについて。

雑感 (2007/3/31)
今この国のこの時代に生きる私は何を信じるべきか。

個性の話 (2007/6/11)
二人目の子供を育ててみて初めてわかった「三つ子の魂百まで」の意味。

天皇制の話 (2007/6/26)
何かを感覚的に信じている人の理屈に、理屈の水準で反駁しても意味はないのだろう、という話。

情報とカネ (2007/8/4)
経済学における「情報の非対称性」の議論と、熱力学における「マクスウェルの魔」の議論は似ている、というような話。

(2) 相対主義の時代
社会問題だとか政治問題を議論するうちに、議論の前提をいろいろと疑うようになり、結果として科学思想から相対主義に向かっていく過程。

それはそれで平穏な日々 (2008/4/18)
買い物日記。「コーランを知っていますか」と「哲学の誤読」を読んでの感想。

妖怪の99.9%は仮説 (2008/5/3)
現代から見れば荒唐無稽な江戸時代の文化も、意外に現代の状況と似たり寄ったりなんじゃないかという話。

意識の謎を解いてみました(別解) (2008/5/3)
「分裂勘違い君劇場」の記事にトラックバック。クオリアとか哲学的ゾンビとかそのあたりの話題。

信仰とか (2008/5/26)
科学が示すような「客観的事実」だけを信じていればそれでいいのかというと、そうでもないだろうという話。

時間論とか (2008/5/30)
「最近1年が短くてさ」というネタから入って面倒な哲学論議に到達。「一般市民の宇宙論」と共通の話題。

相対主義者の告白 (2008/11/18)
トラックバックを受けての返信、といいつつ持論をぶちまけて終わり。思い込みの強い主張のぶつけ合いに辟易していた頃。

小人論 (2008/12/7)
男は天下国家を語る政治議論が好きだけれども、それより目の前にある家庭や職場の統治のほうが喫緊の課題だよね、やれやれ。

トヨタから全てを学んだ (2008/12/1)
昨今の不景気の遠因に、トヨタ式カイゼン経営の流行があるんじゃないか、ということを寓話的に表現。

半分くらいがちょうど良い (2008/12/6)
半分くらいは知っていて理解できるけれども、半分くらいは知らないことについて書かれているような本を読むのが一番楽しいんじゃないだろうか、という話。あるいは科学者の押し付けがましさについて。

情報教宣言 (2008/12/18)
クロード・シャノンが定義するところの「情報」が、物理的存在までを含めた世界の全てを記述する鍵となるのではないか、という妄想。

(3) 真言密教の時代
祖母が亡くなり、真言宗に接触する。観音経の現代語訳を読んで、科学思想と相対主義と個人的な信仰の折り合いを付けていく過程。現在進行中。

漸悟 (2009/6/5)
職場や家庭のストレスが重なって面倒な精神状態になっていた時期。

相対主義の彼岸 (2009/6/15)
ようやく自分の信じるべきものが見つかった、ようやく辿り着いたという安堵感の表明。

真言宗と科学の子 (2009/7/5)
真言宗在家の勤行を始めた頃。

苦諦 (2009/8/18)
人間嫌い、ここに極まる。収入ゼロ(というより月5万円くらいのマイナス)が続いて苦しかった時期。

轍は時に有難い (2009/9/11)
だんだんと、現代科学と仏教の折り合いがついてきた時期。

十善戒 (2009/9/25)
ライフハックとしての真言宗。迷いつつもなんとか生きていこうと決めた頃。

宗教とは何か (2010/2/23)
そして現在の考え方。健康で文化的な最低限度の生活が保証されているのが、心理状態にも反映されている。しかし将来はまだ不安定。

--

こういう感じに、あたかも文学部の研究者が偉人の作品を研究するように、自分自身の過去の書き物を時系列でまとめて分析してみると、なんだか少しケツのあたりがむずがゆい。けれどもなんとなく全体的な流れがわかった気になるのも確かで、これはこれで面白い試みかもしれない。

上に挙げたような面倒な文章の大群を読もうというような酔狂な他人はいないだろうが、私と同じように数年にわたって書き溜めてきた過去ログを持っている人は多いだろう。そしてそれが時系列に埋れてしまっていて、他人に自分の思想背景を説明することに面倒を感じている人は少なくないだろう。そういう人に対して、こうやって自分で自分の過去ログを虫干ししてもるのもいいかもしれませんよ、という程度の提案としてなら価値があるかもしれない。
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by antonin | 2010-02-23 13:03 | Trackback | Comments(0)

宗教とは何か

宗教というものを、「人間が信じるべき事柄の体系」というように無機的に定義することもできる。「信じる」とはどういうことかというと、ある事柄を疑いや迷いの余地なく正しいと考えること、と定義できる。この定義に従うと、学校で教えている科目は正しいと信じるべき事柄であり、授業で教えられていることをまとめた全体は一種の宗教であるとも言える。

人間が何かを信じるためには根拠が必要だが、その根拠というのは必ずしも客観的な事実である必要はなく、ある人の精神的な動きの中で「腑に落ちる」という経験があれば、それ以降その人はある事柄を迷いなく信じることができるようになる。また、人はすでに信じている事柄と論理的に矛盾すると考えるようなことは、新たに信じることが難しい。論理をねじ曲げるような屁理屈を考えるか、あるいは「それはそれ、これはこれ」と論理を切り離すようなことをしないと、すでに信じている事柄と矛盾するようなことは信じることができない。

子供はそういった「すでに信じている事柄」というのが少ない上に、論理的な考察の経験が少ないので、新しく提示された事柄を信じやすい。そうして信じたことは、よほど大きな精神的衝撃がない限りは、その人の人生の中で信じ続けていくことになる。皇国史観で教育された子供は一生それを引きずるし、人権尊重平和主義で教育された子供も一生それを引きずる。この両者の論争は宗教論争に近いものになる。

そういう信じている事柄の枝をたどっていくと、最後に根の部分に達する。それは人が人生の最初に認識した事柄で、赤ん坊が母親とのやりとりの中で学習した経験ということになるのだろう。赤ん坊は、ひどい仕打ちを受けると死んでしまう。死なずに成人したとなれば、赤ん坊の頃には必ず誰かによって手厚い保護を受けていたということになる。その後にいろいろと苦しい経験を積む中で単純な善良さや信頼は崩れていくが、やはり一番根底の部分に、愛情と善良さというものを誰しも持っている。

自分が赤ん坊だった頃の具体的な記憶が残っている人というのもいないだろうが、そういう頃の経験は記憶の奥底で感情をコントロールし続けている。「快」と「不快」ぐらいしかないという赤ん坊の感情が、成長にともなってより複雑に分岐していくのだが、その根底の部分を赤ん坊時代の体験が支配しているとすれば、この時期の影響が無意識レベルに残っていると解釈することもできる。

そういう、人間が心理の根底に必ず隠し持っている善良な部分があると見て、それを最大限に引き出そうとするのが性善説ということになる。そうは言っても人間は油断すればすぐに動物的な利己的行動に走ってしまうから、それを押さえ込もうとするのが性悪説なのだろう。おそらくこれはどちらも正しいが、どちらも一方だけでは足りないものなのだろうと思う。古典的で長く続いている宗教は、この性善説と性悪説のバランスが整っていて、アメとムチの使い分けによって人間の能力を社会の中で正しく引き出すための手法が研究され、伝承されている。

現代の日本人はストレス耐性が低くなっていると言われる。その原因は、困難な状況に置かれたときに自分はその状況を解決できるだろうと思える感覚、つまり自己効力感と呼ばれるものが足りないのが直接的な原因になっている。自分はその状況を解決できると思えば、無駄に落ち込んだり怒ったりしないで、その解決行動を始めようとする。しかし自己効力感が足りないと、もうダメだということで欝になったり、追い込まれてキレたりする。

自己効力「感」というだけあって、それは感情的なものでしかなく、必ずしも客観的に見てどうこう、という性質のものではない。あくまで本人の心の中で、それは「なんとかなりそうだ」と思えるか、「どうにもならない」と思えるか、という内面的な問題になる。とはいえ、それは「なんとかなった」経験と、「どうにもならなかった」という経験からの学習の積み重ねに影響されることは間違いない。

ただし現実の経験ではどうしても成功より失敗の方が多くならざるを得ない。良い教育者が失敗より成功が多くなるように適切なレベルの試練を順に与えるというようなことはできるかもしれないが、そうすると良い指導者から独り立ちしたときに混乱してしまう可能性が残る。どうして自分は失敗ばかりするようになってしまったのだろう、というように。

そこで、現実的な成功体験だけではなく、歴史上の成功者の話であるとか、失敗を切り抜けた話しであるとか、そういったものを繰り返し意識的に思い浮かべる訓練が有効になる。ここで重要なのは成功の具体的な方法を学ぶことではなく、失敗を恐れない自己効力感を身に付けることだから、なまじ現実的な話よりも、おとぎ話的に非現実的な話のほうが、目前の問題に対して先人の方法を単純に適用しようとする愚に陥らない分だけ良いということになる。


人間の心は、理性と感情で構成される。理性は意識的に考えることができるが、感情は無意識的に感じられるだけで、理性には簡単には従わない。「意識」と「無意識」というのは精神分析の用語だが、最新の神経科学でも、大脳の新皮質が司っているのは意識の部分で、その中でも特に論理的な考慮をするのは前頭前野といって身体につながる神経から経路的に一番遠い部分が担当しているようだ、ということがわかっている。

皮質が畳み込まれた比較的シンプルな形をしている大脳半球に対し、それに囲まれた中心部にある大脳辺縁系と呼ばれる部分は、もっと複雑な形状をしている。この部分は人間以外の哺乳類や爬虫類などの脳とも形が似ている部分で、この部分が精神のうち感情面を司っていることもわかっている。全体が均一でどこに何があるかが見た目ではわかりにくい大脳半球と違い、大脳辺縁系に含まれる器官は扁桃体や海馬など形状がはっきりしている。その上、目、耳、鼻などの感覚器や全身の感覚をまとめ上げる脳幹と直結してる大脳辺縁系の器官は、外界からの刺激に対して比較的わかりやすい応答をする。

この大脳辺縁系が司る感情は、人間が動物の一種として生きていくためには必須の働きをする一方で、文明的な人間社会を運用していく上では邪魔な働きをすることが多い。人間の葛藤のほとんどが、この理性と感情の不整合から起こる。これを理性の側から解決しようとしたのが、在来の宗教ということになる。つまり、理性的に説明可能なものを信じる訓練を積むことにより、理性が考えるとおりに感情をコントロールして精神的な苦痛を取り払うことが宗教のミクロな目的であり、それを通じて人間社会全体を円滑に運用することがマクロな目的ということになる。

ただし科学技術が発展するに従い、従来の素朴な信仰が通用しなくなっており、理性的に説明可能なものに感情を従わせるという宗教の原理が崩壊してしまったという歴史の流れがある。この世界はなぜ存在し、どのような全貌を持っているのか。それは誰もが知りたいことである一方で、そんなものは誰にも説明できない。だから、理知的な神官が伝承神話と論理的に矛盾のない理論体系を作り上げ、一般市民はそれを全面的に受け入れるということが続いてきた。

ところが、一般市民によって「矛盾のない事実」として受け入れられてきた神話が、客観的知識の積み上げにともない、現実世界の状況と整合しないということが増えてきた。「創造主が世界を想像し、世界は人間のために存在する」というのがカトリックの教義で、それに整合するように作られたのがアリストテレス以来の天動説だった。しかし精密な天体観測データの積み上げによって、天動説が現実世界と矛盾することが指摘されるようになった。

天動説を否定する地動説は、科学的に見れば単に天体運動の精密な計算に都合がいいだけの説明だが、宗教的には創造主信仰より太陽信仰の方が妥当であるという結論に整合してしまう説明であり、単純に受け入れてしまうと社会秩序が崩壊してしまうという危険なものであった。

そういう「蟻の一穴」に端を発して、イスラム世界との接触であるとか旧約聖書などの東方文化の影響もあり、カトリックに対するプロテスタント運動が展開されていく。大学の最高分野は神学にあり、神学を究めるための哲学と科学、哲学と科学を究めるための諸学問、という序列になっていたものが、工業技術などの発展にともなって徐々に立場が逆転していく。

そして、与えられたものを無批判に信じるという従来の宗教性を否定しつつも、それでも新しい何かを信じることで新秩序を人間社会に構築しようとしたのが、イデオロギーだった。二度の世界大戦と冷戦を経て、信じるべきものは経済的繁栄だけというような状況になってしまった。そして、経済的繁栄のためには自己の感情的欲求を厳しく抑えることができる「熱心な拝金教信者」と、拝金教でさえ信じることができなくなってしまった、もはや信じるべきものが何もなくなってしまった「無信仰者」、そしてその中間でなんとか生活している「受容的な拝金教信者」で構成されているのが、現在の日本の状況なのだろう。

この「拝金教」の根底には、プロテスタント運動前後のユダヤ教の教義が潜んでいる。ユダヤ教は聖典時代(旧約聖書)の古いものと、ローマに神殿を破壊されて祖国を追われ、民族の伝承を絶やさないためにタルムードを編纂して以降の新しいものとに大別することができる。この新しいユダヤ教は、日本語でいう「方便」として神への信仰心を利用し、寸暇を惜しんで民族の知恵を学び、実際に起こっていることを科学的に分析し、経済的繁栄は民族を守るために重要である、という基本的な意見を持っている。

もちろん、それさえも絶対的に頭から信用すべきことではなく、随時研究によって書き換えられるべきことであって、頭から信じるべきなのは、学び、考え、それを子供に伝えて代々続ければ、どれだけ時間が必要になろうとも必ず民族の大望は実現できる、というのが、どうやこの新しいユダヤ教の核になっている。国家百年の計と言うけれども、二十世紀のイスラエル建国は二千年近く昔の遺恨を晴らしているのであり、百年どころではない執念が基本になっている。

ユダヤ人のラビたちは自分たちの「宗教」がなんであるかを正確に知っており、その内容については一生を捧げて研究しているが、文化的にその下流にある戦後日本では経済的繁栄に必要な知識が断片的に受け入れられている一方で、それが本来「宗教」に属するということはあまり知られていない。

元寇以降の日本で起こったナショナリズムは、室町江戸期を通じて国学として静かに発展し、明治維新で日本仏教という母胎を食い破り、国家神道として誕生する。これは日本の伝承神話とヨーロッパの立憲帝政とアメリカのプロテスタンティズムを論理的に合成して体系付けたもので、これは学校教育を通じて全国民が信じて疑わない絶対宗教に発展していく。宗教とは自明的に名乗らないが、当然と信じて疑うべきでないと教えられる意味で、これは宗教の一種であると考える方が理解しやすい。

そして対米敗戦で伝承神話と立憲帝政との結合が切り離され、プロテスタンティズムだけが残っていく。国家が教科書を検定し、当然正しいと信じるべき内容が学校を通じて全国民に教育される。これもまた新しい宗教と考えた方が理解しやすい。神は出てこないがこれは明らかに現代的な宗教体系のひとつとみなすことができ、その実態はプロテスタンティズムであると考えられる。

しかしプラザ合意後の経済的な混乱を経て、日本古来の宗教的信仰心と切り離されたプロテスタンティズムは徐々に力を失い、一方は明治的なナショナリズムに回帰し、一方はスピリチュアルというアニミズムにまで回帰していく。そしてどこにも回帰できない一群が、何も信じることができなくなって現実世界に絶望し始めている。近年の自殺率が高止まりしている背景はこのあたりにあるのではないかと思う。アメリカ合衆国の強さというのは、最後の最後にはキリスト教やイスラム教の民間組織によって精神的な保護が与えられるという、精神的なセイフティーネットにあるのではないかと思う。


弘法大師空海が直接著した文章を読むと、その思想の基本は個人の葛藤を克服するミクロ面での宗教家という立場にあるのがわかる。その一方で空海という個人の歴史的な動きを見ると、社会が要請している加持祈祷を行うまじない師としての仏教者の力を利用しつつ、日本社会全体を円滑に動かすマクロ面での国家宗教として真言密教を見ていたように思える。

その流れは結局、後継者の質の問題などのために比叡山の方に飲み込まれてしまったが、台密を通じて明治維新以前の日本文化の根底に流れ続けているように思える。日蓮が主張していたのも、僧侶が権力に取り入って利を貪るばかりで、法華経が持っているマクロ面の効用が薄れてきたので民心が乱れ、ひいては権力機構も乱れるのだ、というようなことが要点だったと思える。

現在を生きる日本人として悩ましいのは、アニミズムでも、密教でも、国学でも、プロテスタンティズムでも、絶対的に信じることができるならばどれでもいいのだが、勢力が分散しすぎてどれも主流になりきれていないというところだろう。歴史の常識では、最後には戦争や内乱になって、武力によって生き残った者が思想としても主流になるしかない。

あるいは、多神教は許さないが守護聖人信仰は許したカトリックだとか、本地垂迹で神も仏も元は同じとしてしまった日本仏教だとか、そういう屁理屈に限りなく近い論理的寝技で敵対勢力を包み込むやり方もある。日本人は一般的にこういう和を以て貴しと為すやり方が好きだと言われているが、いざとなれば斬り合うというのが武士の本分でもある。歴史を見てもやはり、平時は和合するが経済的に苦しくなると結局は「乱」や「変」が起こっている。


そういう具合なので、ミクロな個人としてはしっかりと信じられるものを持つべきという意味で正当な宗教の復権を望む一方、構造的な経済危機が今後も続くと予想される状況である以上は、マクロな国家権力をめぐっては思想集団間で暴力の応酬に近いことになってしまうのだろう、という諦めの気分もある。むしろそういう混乱した状況だからこそ、個人の思想的な立ち位置を決めて、周囲に流されることのないように強く念じる必要があるのだとも言える。

理性は倫理の相対主義的な姿を正確に理解し、一方で感情は強い信仰によって安定している。そして感情は教義を通じて理性の管理下に置かれている。それが徳のある人間の理想の姿なのだけれども、それを体現するのは難しい。自己の非を認め、言動に関する戒を受け入れる素直さが必要な一方で、その素直さを生み出すだけの自己肯定もまた必要になる。過去の自他の罪業を全て許し、将来に向かって楽天さ失わない感情の源泉は、人間の心の一番内側に隠れている善良さの存在に気付き、それを最終的に信頼することにある。そしてそれをいついかなる場面でも思い出せるようにするための反復的な訓練としての、精神身体を協同した日常儀式としての、祈り。

神秘力による脅しを用い、他人からの安易な制御を許すマインドコントロールは危険だが、自分自身のマインドを適切にコントロールするために仮想的な超越力を仮定して利用すれば、精神的な強さが養われる。精神的な強さがあれば結果として社会的な成果もついてくる。古典的な宗教の説く現世利益というものも、結局のところはそういうものなのだろう。超自然的な存在がオカルト的に利益をもたらすのではなく、超自然的な存在でさえ信じられる信念の持ち主は、必然的に実社会で成功する。これは、若い時の寸暇を惜しんだ勤勉と労働価値を度外視した労働が、将来的な経済的成功と人間的信頼の獲得を約束するという、「会社主義共和国」の教義とも一致する。

仏教では仏法僧の三宝を敬えとあるが、これが「拝金教」になると、カネ・法律・職場の三宝を敬えというふうに置き換えることができる。仏とは、実在はしないが実在することにしておくと便利なもので、単なる数字であるが信用によって成立している通貨に似ている。法とは、自然や人間が従っている本当の法則のことなので必ずしも人為的な法律のことではないけれども、ブッダという権威者が問いた説とも言い換えられるので、国家という権力が制定し、信じ守るべきとされる法律に似ている。僧とは、同じ信仰を持つ共同体のことで、会社などの職場組織に似ている。

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スターウォーズのエピソードIで、聖堂騎士団や聖ヨハネ騎士団のような修道騎士団を模したジェダイ・オーダーに入ろうとするアナキン少年が、「この子は修行を始めるには歳をとりすぎている」と言われるシーンがある。その後実際に、高すぎる能力と自己感情のコントロールの未熟から高慢や疑心暗鬼を生じ、シスの甘言にほだされてダークサイドに落ちていく。そして息子のルークが、アナキンのときよりも更に歳をとってからオビワンとヨーダに師事し、「成果を強く念じること」を学びながら、最終的に怒りを信頼に転化することで事件を解決していく。ルーカス監督はシナリオを書く前にいろいろな神話を研究したらしく、確かに人間に普遍的なテーマが潜んでいて興味深い。

去年から真言宗の勤行を始めたものの、自分自身を御するにはちょっとトウがたちすぎている。けれども、輪廻と言わずとも子や孫の代で問題が克服されることを目指して、今からでも遅くはないと信じて福智を集め続けるしかないのかもしれない。「宗教は心の弱い人間が頼るもの」であると自信を持って言える人が、自分が信じていて自分の心を強くしている根源である事柄の宗教性に全くと言っていいほど無自覚なのは、正直うらやましい。彼らが疑いを持たないのは、社会の要請と自己の信仰が一致しているからなのだろう。

けれども、人は人、我は我。

夫れ仏法遥にあらず 心中にして即ち近し
真如外にあらず 身を棄てていずくんか求めん
迷悟我にあれば 即ち発心すれば即ち到る
明暗他にあらざれば 即ち信修すれば忽ちに証す

南無大師遍照金剛
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by antonin | 2010-02-23 12:59 | Trackback | Comments(0)

火星小接近

最近星を見てないなぁ。

去年の秋は木星がいやに明るく光っていたけれど、今は火星が2年ごとの接近シーズンなので、どこかに赤く光っているはず。晴れた夜があったら探してみよう。

【特集】2010年1月28日 火星接近


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by antonin | 2010-02-22 17:26 | Trackback | Comments(0)

時間軸の距離感

2010年。後ろを振り返り、25年ほど先に、1985年が見える。バブル華やかかりし頃で、それも爛熟期の退廃ではなく、まだ今後に対する期待の大きかった、上り坂の最大斜度という辺り。

筑波で科学万博が行われていて、当時リアル中二だった私は夏休み最大のイベントとして現地に乗り込んだものの、農協ツアーの老人力に恃んだ長蛇の列に跳ね返されて、十分満足できるほどには見物できなかったという思い出がある。

嘱託というシステムによって2007年問題を遅延させた団塊の世代から見る1985年というのは、まだ40歳くらいだった自分たちの黄金時代として輝いて見える光景なのだろう。

1985年に立って後ろを振り返り、やはり25年先を見ると、1960年が見える。1964年の東京オリンピック開催を控え、東海道新幹線、首都高速が建設中で、東京タワーは一足先の1958年に完成したばかり。国産車が時速100キロ走行可能な品質をそろそろ身に付け、特急こだまが狭軌における最高時速163キロを実現する、そういうスピード感。

1985年というのは、そういう高度経済成長の黄金期に壮年期を過ごした老人が権力の中枢に座る中で、夢よもう一度という具合で権力を発動したのだから、あのような経済になるのはある意味当然だったのかもしれない。そういう流れに乗った壮年は企業戦士として果敢に戦ったし、流れに抗った壮年は「マルサの女」や「風の谷のナウシカ」という作品で時流に抗議した。

自民党は正統派企業戦士のための政党だったから、当然に企業幹部との連帯感を持っている。一方で、「でも・しか」教師や、似たような記者・ライター業に身をやつしていたかつての革命戦士も、長い雌伏の時から目を覚まして民主党に圧倒的な支持を送っている。

2010年現在、日本中がそういう戦いに巻き込まれているような状況になっている。かつての巨人阪神戦のようなもので、今の壮年の中には自民・民主両チームの熱心なファンが多い。一方でそれが所詮エンターテイメントとしての戦いであることも、たいていの人が理解している。理解した上で、大声を張り上げての応援合戦を楽しんでいる。

2020年になるとどういう日本になっているだろうか。2020年に立って後ろを振り向き、25年先を眺めると、見えてくるのは1995年だ。日本は「失われた十年」がまさに失われつつある最中で、グズグズと崩れ落ちる経済に足元をすくわれている。年頭のニュースは、都市から炎と煙が上がり高架道路が横倒しになる異様な風景だった。住宅地や地下鉄には猛毒がばらまかれる。

そういう緩慢な撤退戦を現場で戦っているのは、団塊世代に振り回された「しらけ世代」の先輩と、高度経済成長の盛りに生まれた「新人類」の後輩。またしても勢いだけで動く上の世代の後始末を任され、バブル景気に入社した部下を動かしながら、絶望的な戦いをしている。

そういう世代が老境に差しかかって権力を手にしている2020年。彼らが対応している主要な政治問題は、やはり団塊世代の置き土産である、コントロール停止寸前の累積債務と機能停止寸前の年金と消滅寸前の教育環境。彼らは誰もが最善を尽しているが、それが明るい成長のためではなく衰退を悲劇にしないための殿戦(しんがりいくさ)であることを、これまでの経験から肌身で知っている。

現場を切り盛りしている現役世代は、バブル期に入社した50代リーダーと、就職間氷期に入社した30代サブリーダーたち。ここから25年先を眺めると、80歳近辺の元老と60歳近辺のエグゼクティブが日本を動かしているのか、あるいは氷河期世代が最後の復讐を果たしているのか、そこまでは見えてこない。見えているのは、団塊の世代は100歳近いおばあちゃん軍団として元気闊達としているのと、60代後半になった団塊ジュニアは愚痴ばかり多い困った老人として若い世代に疎まれているという、そういうことだけ。

安政の大獄から明治政府初代内閣発足まで約25年。日露戦争終結から満州事変勃発まで約25年。時代の空気が循環するサイクルがあるとすれば、人間の寿命と年齢ごとの役割からしておおよそこの程度の周期になるのではないかという気がする。

日本史の中の2010年を考えると、人口減少問題なしと見る攘夷派と、労働力の移入は避けられないと見る開国派の均衡が動き始める時期に当たるように見える。定住外国人の権利を尊重するのが民主党、批判するのが自民党だと見てもいいのだけれども、明治以来の薩長土肥利権と都市住民の対立であるとか、アメリカと中国の両帝国による大陸東岸諸国の取り合いであるとか、そういう内外の綱引きもおそらく重なっていて、話はもっと面白いことになっている。

まあどちらにしても山の上の雲をつかむような話なので、せいぜい観戦を楽しむことにしたい。
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by antonin | 2010-02-22 13:42 | Trackback | Comments(0)

心理療法としてのメガビタミン

数年前から、ビタミンCのサプリメントを飲むようにしている。ときどきビタミンB類やカルシウムなんかも飲むことがあるけれども、習慣的に飲んでいるのはビタミンCだけ。気のせいか、ビタミンCを飲んでいないときに限って熱を出して寝込んだりしているような気がする。

では、ビタミンCを飲むだけで健康になれるのか。もちろん、そんなことは信じていない。けれども、いくつかの理由があって、やっぱり毎日朝と夜にビタミンCを飲むようにしている。その理由を書いてみたい。

理由1. ビタミンCは安い。

大塚製薬のネイチャーメイドなど、製薬メーカーのビタミンCはそれほど安くはないのだけれど、ファンケル、DHC、小林製薬の3社から出ている袋入りサプリメントだと、かなり安い。ファンケルの場合だと3ヶ月分のお徳用パッケージが800円台で買えるので、1日あたり10円しないくらい。家でコーヒーを飲む程度のコストで、お手軽。

理由2. ビタミンCは過剰摂取リスクが低い

そもそもビタミンCをいっぱい飲むと体にいいぞという説を言い出したのはノーベル化学賞受賞者のライナス・ポーリングさんで、このポーリングさんは93歳で亡くなったのだけれども、白人男性としては非常に長生きの部類に入ることは間違いないだろう。ポーリングさんがビタミンCを大量に飲んでいたという話は大学の後輩に教えてもらったのだけれど、その時に聞いた「メガビタミン」というキーワードをネットで検索してみると、たしかにそういう話が見つかる。

「だからビタミンCを飲めば長生きできる!」ということを単純に言う気はないけれども、少なくともビタミンCを大量に摂取して、なおかつ長生きした人もいるという参考になる。ただしそれを言い出すと100歳以上まで生きたヘビースモーカーだっているのだけれど。生理的に見ても水溶性のビタミンCは過剰摂取しても尿から排泄されるというし、成人がグラム単位の摂取をして問題になることはまずないだろうと思う。逆に油溶性のビタミンA系サプリなんかは、あまり大量に飲むと脂肪に蓄積してしまってよろしくないらしい。

理由3. ビタミンCを飲む習慣が生活リズムの指標になる

私は子供の頃から宵っ張りの朝寝坊体質で、今でも簡単に睡眠サイクルが乱れるのだけれど、そうすると食事の時間もまちまちになり、当然食後のビタミンCを飲み忘れるということも増える。ビタミンCを飲んでいないときに限って熱をだすというのは、確かにビタミンCの不足というのもあるかもしれないが、それよりも生活リズムの崩れによる体力低下とか、どちらかというとそういう方面の影響のほうが強い気がする。


というわけで、ビタミンCを飲む理由の多くは「やめる理由もない」という消極的なものばかりになる。けれども、自分の気持ちの中では「ビタミンCは健康に良い」と思うことにしている。風邪なんて引かないぞ、という気持ちでいると、本当に免疫の活性が上がるなんていう話もときどき聞こえてくる。こういうニュースが話題になる一方で追試や反証実験は話題に上らないので正確なところはどうなのか分からないが、昔から「病は気から」というぐらいだから、病気の心配でおびえているよりは気楽にしている方が体にいい、というくらいのことはあるかもしれない。

「トクホ食品」なんてものが宣伝されているが、ビタミンCはこの手の商品よりずっと安い。しかもビタミンCは必須栄養素の一種なので、不足するよりは足りている方が健康にいいことは医学的にも認められている。だからといって必要以上に飲んだら更に健康になるという保証はないのだけれども、少なくとも過剰摂取が逆に健康リスクにつながるわけでもない。その上うまく買えば値段も安い。

だから、仮にビタミンCの効果が「気のせい」だとしても、買ってもなかなか読まれないまま貴重な収納スペースを消費し続ける書籍なんかに比べれば、決して悪い買い物ではない。むしろ「そういう気分になるための薬」なんだとだと思えば、「健康になった気がする」と思えた時点ですでに「効果あり」ということになる。なんだかサプリメントのあり方として間違っている気がしないでもないが、実際の平凡な人間にはこういう薬があってもいいんだと思う。いや、もっといっぱいあった方がいいとさえ思う。


さらに話を進めると、ビタミンCと同じように「そういう気分になるための薬」が各種の仏像や線香なんじゃないかという信仰上の持論に発展するのだけれども、それを言い出すとまたサプリメントのダークサイドに落ちてしまいかねないので、この話はまた改めて。
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by antonin | 2010-02-21 08:58 | Trackback | Comments(0)

音声的な、あまりに音声的な

アクセス解析を使って逆リンクを検索していると、「音声言語的な文章が云々」という議論にぶつかった。これはひょっとして自分のことだろうか、と、また自意識過剰気味に反応してみる。

いろいろと本を読んだり、ウェブサイトを巡回したり、そういう事は毎日やっている。そうすると、寝る直前だとか目覚めた直後だとかに、面白かったり厄介だったりする様々な考えが浮かぶ。そういう考えを個人的に「妄想」と呼んでおり、生活圏内の人間に話してもまず理解されないので、ここに書き記して公表することで満足することにしている。

ところが、この作業に平均して1時間くらいを要する。それ以前に純粋に思考している時間が2時間くらい加わるので、都合3時間くらいはひとつの妄想ネタに費やしていることになる。ところが、日常生活の中で3時間という時間をまとめて確保することは難しい。ほとんどが家事や育児や睡眠という必須作業の割り込みによって中断されることになる。

となると、どうしても頭で考えていることを頭で考えている速度で打ち込み、後日余裕があれば推敲する、という運用スタイルになってしまう。私は、自分の文章を読み返して日本語としてまともな形式に修正するのに、だいたい書き下しの3倍程度の時間を要する。となると、これにも平均して3時間ほど必要ということになる。そこまでしてようやく、文章が一般書籍のような文体になる。これを週に2本以上書いてしまうと、生活が崩壊する。

そういう推敲を掛ける前の文章というのは、思ったことが思った順で単純に書き並べてある。そういう文章は一文が長くなりがちで、最初に書いた句と最後に書いた句が重複して変な日本語になってしまう、というようなことも多発する。句読点による区切りが変なことになっているということも多く、結果として、意味を取りにくい、誤解を招きやすい文章になってしまう。もちろん誤変換や単純なタイプミスもある。そういう単純なものでも、最低2回くらいは文章を読み直さないと除去しきれない。意味を追う過程と、字面を追う過程というのは、どうしても別々に用意しないとそれぞれの精度が上がらない。

という具合で、書き上がって見直しスウィープの1巡目あたりで割り込みが発生したような荒っぽい文章が多数、ネット上に晒されていくことになる。時間があれば後日推敲するが、あまりそういう時間をとる機会は多くない。それよりはむしろ新しいネタを投下するほうに時間を割いてしまいがちになる。それでも書き下し時間内に割り込みが発生し、非公開設定のまま中断しているようなネタが月に数本分は眠っている。

そういった、会話と同じように思考の速度に近いスピードで打ち込んだ文章が、おそらくは「音声的」と捉えられているのではないか。それが逆に音声読み上げを利用している読者に好評だったりすることもあって、まぁ別にいいやという態度をとっている影響も、少しはあるかもしれない。こういったものを視覚的に読んでいる人の中には、「句読点の多い文体」と呼んでこれを忌み嫌う場合もあるらしい。太宰治の書くものが、ちょうどそういう文体なのだそうだ。

漢字と送り仮名で文節の切れ目を明示できる場合は句点を使わないが、平仮名が多い文章の場合には文節区切りの明示という意味で、音声的なリズムとは別の意味の句点を使う場合がある。さらに修飾語の修飾範囲を示す場合とか、そこまで気を回して句点を打てる場合もあるが、それはだいたい推敲の3巡目以降となる場合が多い。


という具合でして、箇条書き主体の技術文書以外を職業的に書いたことがない私は、論説的作文でも勢い重視の音声言語的文体になりがちである、という話でした。
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by antonin | 2010-02-17 15:13 | Trackback | Comments(0)

腰パンに思う

久しぶりに時事ネタ。

あの姿は、「個性的」と呼んでしまって良かったのだろうか、という話。というのも、東京生活ではついぞ見かけなかったあの「国母スタイル」も、数年前の宇都宮駅では数百人規模で見かけたような、ある意味「典型的高校生スタイル」だったからだ。

今は見なくなったが、ルーズソックスが大流行したこともあった。今は制服ミニスカートが全盛だが、我々が小学生の頃に見たのは床まで届くかという制服ロングスカートだった。ともかく、学校の制服が想定する範囲を逸脱してはいるのだけれども、かといって個性的というほど希少なものでもなく、まぁ、流行してるからよく見掛けるよね、という程度のものでしかない。「腰パン」も「裾出し」も「ゆるネクタイ」も、全部そういう種類のスタイルであって、別に個性的でもなんでもない。

あの姿は別に個性的ではないと思う一方で、オリンピックという国際的な場で見てしまうと、非常に日本的なものかもしれない、とは思う。というのも、ヨーロッパ圏ではフォーマルな服装というのが非常に長い歴史を持っているから、ルールによって制定された服装というのは別として、フォーマルを着る以上はこういうスタイルだろう、という定形が非常にガッチリと定まっている。お坊さんといえば袈裟でしょう、というレベルで文化的に染み込んでいるから、フォーマルウェアをフォーマルスタイルで着るか、カジュアルウェアをカジュアルスタイルで着るか、のどちらかになるのだろうと思う。

ところが日本では、スタイルではなく学校の自治令である校則によって服装規定が定められていて、それに従わないと授業に参加出来ず、最終的には退学になってしまう。それでは困るということで、フォーマルウェアを着つつも、フォーマルスタイルから少しでも逸脱していこうという生徒と、それは許さんという教師との不思議な戦いが始まる。で、過去にはボンタンがあり、近くには腰パンがある。きっと、そういう程度の感覚で国母さんはあの「着こなし」をしていたように思える。

だから、校門で風紀係の先生に怒られる程度のことは当然想定範囲内だったのだろう。それが「日本中で話題になってお母さんが泣いているぞ」級の問題に発展してしまい、今頃になってマジ謝罪に発展してしまったのではないか。

自発的に法を整備した民族は、法を犯していても法の精神を犯していなければ穏便にはかり、場合によっては法を修正したりする。一方で、法を守っていても法の精神を守っていなければ、何か別の手段をもってしてでもこれに報いることになる。ところが、法は天から降ってきて民は唯々諾々と従うという民族では、法の精神を犯していても法を犯していなければ渋い顔をする程度で済み、法の精神を守っていても法を守っていなければ気まぐれに罰せられる。

だから、自発的禁制を旨とする服装規定の精神を優先していれば、教師は服装を正しく保つ意義を「良い心を持てば良い行動ができる」という教育の基礎理念なのだと説明し、カウンセリング的に生徒を説得するという作業に期初の多くの時間を割くことになるだろう。ところが服装規定の精神を生徒が受け入れるかどうかより、規則の限界を超えて教師の責任問題になるかどうかの外見判定を優先するなら、学校指定以外の色のズボンは厳罰だが、腰パンは言ってるとキリがないし他校でも似たような状況だから許容するか、という具合になるのだろう。

あの姿でも、「本当に申し訳ありませんでした、(閉会式あたりまで)あのスタイルは自粛します」という会見が先に立てば、恐らく日本の視聴者は許してしまったんだろう。で、成田で再びあのスタイルを見て「奨励金返せ」と騒ぐ展開になって面白かったのではないかと思う。個人的には、謝罪するかどうかよりも「反逆心」でやっているだけなのか、それとも本当の「美意識」でやっているのかという差のほうが気になった。前者だと「いわゆる確信犯」で、後者だと「辞書的な確信犯」ということになる。

アメリカなどは多民族多文化の国家なので、辞書的な確信犯、つまり国家の法には反するが宗教的あるいは個人的信条には反しない、という難しい問題を日々経験しているのだろう。一方、わざとやってみた「いわゆる確信犯」というのは、情状酌量の余地がない。でも、「ごめんなさい。こんなに大ごとになるとは思っていませんでした。心から反省しています」と模範解答をすると、再犯傾向がすでに低下しているとみなされて減刑される。これは日本の裁判所で典型的な量刑基準だろう。

なんだろう、この展開がいかにも日本の少年裁判風で、海外メディアから見るとどういう印象になるのだろうかというところに、少しだけ関心がある。国母さんに足りていないのは、モラル(道徳)ではなく、モラール(心の平穏)なのではないかという気分が、少しだけ滲み出ている。


【おかわりリンク】
「裾出し腰パン」を「皿仕上げ」でおいしくいただきましょう:日経ビジネスオンライン
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by antonin | 2010-02-17 00:57 | Trackback | Comments(0)

ネット時代のコンテンツ提示方法

また、頭の運動的な。
陳腐なタイトルだが、それが効果を持つ場合があることも知っている。


さて、個人的にはニコニコ動画のアカウントを持っていないので詳しいことは知らないのだけれども、あれは結構興味深いことをしている。もう誰かが書いていたけれども、非同期的に寄せられたコメントを、映像コンテンツのタイミングをキーとして同期的に再生することで、擬似同期的なコミュニティ形成を実現しているという点が面白い。そのコンテンツを今まさに見ているのが自分ひとりだとしても、画面上では賑やかにわいわいがやがやとコメントが乱れ飛んでいるのを眺めることができる。

インターネット以前のコンピュータネットワークが持っていた主要コンテンツは、電子メールと電子寄せ書きだろう。「電子寄せ書き」と見慣れない用語を使ったのは、電子メールが比較的単一の名称で呼ばれてきたのに対し、後者は掲示板だとかメーリングリストだとかネットニュースだとか、複数のシステム形式と名称を持っていたからだ。技術的なものは別として、機能としてはどれも共通していて、特定のトピックに興味のある複数の人が書き込んだものを、メンバー全員が読み出せるという仕組みになっている。書き込み読み出しともに、プッシュ型とプル型だとか、登録型と非登録型など手法面での細かい違いはあるが、目的としているコミュニケーションのスタイルはどれも同じようなものである。

電子メールは、電子メディアを使った迅速で低コストな通信を実現しつつも、電話と違って発信者と受信者が同じ時間を共有せずに情報の交換をすることができる。電子寄せ書きもまた、電子メディアを使った迅速で低コストな通信を実現しつつも、電話会議などと違って全員が同じ時間を共有せずに情報の交換をすることができる。インターネット時代に新しく発生したコミュニケーションメディアの多くは、こういった特徴を活かして従来のメディアが果たしてた役割のいくつかを引き継いできた。

ニコニコ動画がやっているのは、テレビを一人で見るのではなく、家族や友人と一緒にテレビを見ながら番組の内容について(いわゆる「茶の間」で)わいわいと会話をするという楽しみ方を、電子寄せ書きと同じようにして非同期化したものと言える。アメリカ人などは映画館で映画を見てもあれやこれやとリアクションして、一人でビデオを見るのと劇場で映画を観るのとでは、明らかに違った体験をするようだ。

ここで少し理屈めいた話をすると、理論的には「記録」とは「過去から未来への片方向通信」と等価であると言える。通信では、途中でデータエラーが発生するかもしれないし、通信路が故障するかもしれない。記憶では、読み出し時にデータエラーが発生するかもしれないし、記録デバイスが故障するかもしれない。そういう場合には「そこから先への通信」は途絶することになる。

「そこから先」とは、通信では距離的なものになるし、記録では時間的なものになる。そして必要なコストを掛ければそうした故障による通信の途絶を回避できるのだが、そこで使われるのはエラー訂正符号であったり、デバイスの二重化であったりと、技術的に見れば通信でも記録でも同じようなものになっている。

記録の世界では昔から、記録された情報は未来の「いつの時点で」「どの情報を」利用するのかがはっきりしていないため、「必要になった時点で」「必要な情報だけ」を、膨大な過去の記録から取り出す検索技術が発達している。この検索技術、もっと還元してしまえばデータベース技術を、通信路に組み込んで活用したものが現在のネットワーク技術の根っこになっている。

そういう見方で考えると、ニコニコ動画は過去の膨大なコメントの中から、特定の映像コンテンツの特定シーンという非言語的な検索キーを使ってデータベース検索をしている、というように一般化してとらえることができる。ニコニコ動画では「動画ファイル名」と「開始時点からの秒数」という、一意のインデックスに還元可能なデータが抽出でき、これによってユーザーは過去のユーザーたちからのメッセージを受け取り、擬似的な共感体験が可能になる。

これを電子書籍でやるとどうなるかというと、電子書籍を読みながら最下行に目をやると、今まさにユーザーが読んでいるその文章を過去に読んだユーザーが、そこで思った感想を注釈のように書き込んだコメントを発見する、というような感じになるだろう。もちろん、読書に集中したいからそのコメントが鬱陶しくなるユーザーは、過去のユーザーによるコメントの表示を停止することができる。

言ってみれば、数千人が書き込みをしながら読んだ古書が、新品同様の品質で届けられるというようなイメージになる。だから、自分は著者のこの意見に納得できない部分があるとか、あるいはこの一文で目から鱗が落ちたとか、まさにそういう感想を持った瞬間に他のユーザーの膨大な意見から検索して表示することで、あたかも輪読会でわいわいと議論しながら本を読んでいるような体験をすることができるだろう。

そして特にコメントが見当たらないようであれば、自分が一筆書き足すことができるようになり、場合によってはそのコメントを著者自身が目にする、などということになる。読者からのフィードバックはすでに豊富だが、このページのこの文章について、というピンポイントのフィードバックがリアルタイムで入るというのは、やはりこれまでにはない経験だろう。翻訳本で意味の通らない部分などがあっても、電子書籍なら毎日改訂版を発行するということも可能だろうから、いずれ翻訳本は電子書籍でベータ版をある程度流通させ、誤訳を訂正してから印刷開始、などということになるかもしれない。

こうして概念として一般化した技術は、横展開がいくらでも可能になる。予備校の衛星中継授業というようなものはすでに存在するが、録画されてネットで放映される授業映像に対し、生徒の質問と回答が徐々に追加されていく、というようなものも考えることができる。すると質疑応答が活発で、しかも授業の進行そのものが中断されないというような、新しいスタイルの擬似同期授業クラスが実現されるかもしれない。地理的に離れている生徒同士が参加するのは当然として、数年前に同学年だった生徒でさえ「クラスメイト」にすることができる。もっとも、このスタイルでは授業内容さえ理解できれば年齢は関係ないだろうけれども。

ネット上で、リアルタイム通信ではなくサーバー上のストレージデバイスを介して非同期的に配信されるありとあらゆる情報に、このような擬似同期システムを取り付けることができる。個別の配信システムがこのコメントシステムを最適化した上で組み込むということも当然できるだろうし、この擬似同期コメント機能に特化したサービスを単独でネット上に提供し、ブラウザから特定サイトの特定場面にユニークな検索キーを送信することもできる。検索キーに対して1秒以内のレスポンスでコメントが返ってくるようにしておくと、ネット上のありとあらゆるサービスにこのような機能を付与できるようになる。しかもコンテンツの提供側ではなく、受信するユーザーの意志で付与できるようになる。ここまでくるとかなり面白いネット体験になっているだろう。

非英語圏で活動する日本人としては、コメントはいったん全て中間言語に落としてから記録され、入力時の言語にネイティブなユーザー以外には翻訳コメントとして表示されるようなサービスになっていると、より世界が広がるような気がする。まぁ、もちろんこれも設定でオフにできる必要はあるだろうけれども。

googleかSFCあたりでシステム開発して、ベータサービス提供してくれよ。もちろんいきなり英語版と中国語版からローンチという具合で。収益モデルが難しいような気はするけれども、結構面白いと思うけどな。
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by antonin | 2010-02-15 12:03 | Trackback | Comments(0)

パスカルの乗合馬車

参考:ブレーズ・パスカル - Wikipedia

まぁ、ネタということで。頭の体操的な何か。


【アジェンダ】
 都市部における乗合タクシー事業の立ち上げに関する検討

【ヴィジョン】
 モータライゼーション社会と高齢化社会を同時に迎えるなか、既存交通システムが拾い切れないニッチ需要を満たすサービスを提供することで民生の向上に貢献する。
 また、上記社会背景が今後一層高度化するに従う、事業利益の健全な発展を期する。

【背景分析】
 人口密度の高い都市部における旅客輸送目的の交通システムは、以下のように分類できる。

 ●公共交通機関
      ・鉄道系(一般鉄道、地下鉄、路面電車、モノレール、新交通システム)
      ・バス系(路線バス、シャトルバス)
      ・タクシー系(一般タクシー、乗合タクシー)

 ●私的交通手段
      ・乗用車
      ・自動二輪、原付
      ・自転車
      ・徒歩

 これらの交通機関のうち、人口密度の低い地方では乗用車等私的交通手段の普及により公共交通機関の維持が難しくなったため、鉄道からバス、バスから乗合タクシーへのスケールダウンによる固定費低減対策が実施されている例がある。しかしこれらの事業は公共福祉事業として赤字運営が続けられていたり、安定した需要が見込める空港発着などの限定路線のみ営利事業運営がなされているケースが多い。

 これらの公共交通機関が公共福祉事業として提供され続ける背景には、体力や認知力の低下によって私的交通手段の利用が困難になった高齢者の生活維持に必要な移動手段確保という目的がある。しかし公共交通機関の維持が難しい過疎地域では、利用者数が少ないのに対し利用地点間の距離が長いため、交通手段の乗合によるコスト削減効果が乏しく、スケールダウンを実施しても事業の黒字化が困難な状況となっている。

 一方、通信や運輸などの国内ユニバーサルサービスを提供している企業では、人口過密地域で上げた利益で人口過疎地域の損失を補填しつつ、サービスの全国展開を実現している。この種の企業においては、単独ブランドが全国くまなくサービスを到達させているという状態そのものが、サービスのターミナルとなる都市部においても付加価値性を発生しているため、過疎地域におけるサービスの維持が単なる赤字垂れ流しとはならない有効な事業価値を生み出している。

 したがって、このような人口過密部と過疎部のサービスを同一企業体において有機的に結びつける事業展開が可能となれば、都市と過疎地域の双方の住民に利便をもたらしつつ収益を上げる民営事業を開発することが可能であると予想できる。

【マクロ事業計画】
 上記の背景分析に基づき、事業立ち上げのステップを以下のように想定する。

 ●立ち上げ段階
   ・都市部において、公共交通機関のアクセスポイント間をつなぐ乗合交通サービスを提供する
   ・このプロセスにおいて以下の目標を実現する
      - サービスの実運営に必要なノウハウの蓄積
      - サービスの黒字化と資本の増強

 ●拡張段階
   ・都市部におけるサービスを他の都市に横展開する
   ・地方の既存民間事業者との業務提携を行う
   ・このプロセスにおいて以下の目標を実現する
      - 地方での運営ノウハウの蓄積
      - 都市部と地方での運営システム一体化

 ●ユニバーサル化段階
   ・都市間交通との連携強化
   ・過疎地へのサービス延伸
   ・サービス需要に対する人口カバー率99%達成
   ・このプロセスにおいて以下の目標を実現する
      - ナショナルブランドの確立
      - 市場寡占化による利益率の向上
      - 交通機関以外のサービスとの融合による次世代事業の育成

【ミクロ事業試案】
 上記計画におけるコアサービスの試案モデルを検討する。

 ●事業形態は「乗合タクシー」とする
   ・駅、病院、大型商業施設などの公共施設付近をターミナルとし、住宅地と結ぶ
   ・ターミナル発は定期運行とし、利用者は自由乗車する
   ・住宅地発は予約者が場所を指定すると車両の到着予定時刻を通知し、利用者は予定時刻までに乗車場所で待つ
   ・需要状況(時間帯、利用者密度)によってはポイントツーポイントの乗合サービスも提供する

 ●料金形態は、都度料金と定期料金の併用制とする
   ・定期料金は月額4000円程度とする(新聞、インターネットと同程度)
   ・都度料金は月額料金に対して割高であるが、一般タクシーに対して割安となる範囲で調節する
   ・コストコントロールは定期利用の利用制限範囲や都度料金で調節する
   ・家族割引や法人会員等の優遇策を用意する
   ・課金及び定期利用は既存電子マネーのシステムを流用する(Suica等交通機関との連携必須)

【規制関連】
 法令、自治体条例との整合性が必要。当初は既存法令の範囲内で実施するが、類似事業者の乱立を防ぐためにも国土交通相及び地方自治体、さらにGMS等との連携による参入障壁をある程度設ける必要もある。ただし健全な競争によるサービスの急速な向上のため、市場の独占ではなくイノベーション競争による寡占化を目指す。

 短期的には交通安全関係法規の許認可を正しく受け、長期的には乗合利用による環境負荷および交通量の低減インセンティブ条項などを企画する。国内自動車販売台数への影響なども懸念されるため、既存業界との摩擦にも注意する。

【必要な資本の確保】
 タクシー台数規制の緩和によるタクシー運転手及びタクシー車両の余剰分巻き取りに期待できる。

【残された課題】
 誰かやってみる?
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by antonin | 2010-02-11 08:04 | Trackback | Comments(0)


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