安敦誌


つまらない話など
by antonin
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31
検索
最新の記事
酔論
at 2017-08-22 01:23
婦人画報創刊号
at 2017-07-07 01:36
アキレスと亀
at 2017-05-02 15:44
受想行識亦復如是
at 2017-05-02 03:26
仲介したことはあまりないが
at 2017-04-29 03:36
サンセット・セレナード
at 2017-04-12 23:17
水分子と日本人は似ている
at 2016-06-04 01:49
ほげ
at 2015-06-05 03:46
フリーランチハンター
at 2015-04-17 01:48
アメリカのプロテスタント的な部分
at 2015-04-08 02:23
記事ランキング
タグ
(296)
(148)
(122)
(95)
(76)
(65)
(59)
(54)
(45)
(41)
(40)
(39)
(33)
(31)
(28)
(27)
(25)
(24)
(22)
(15)
最新のコメント
>>通りすがり ソ..
by Appleは超絶ブラック企業 at 01:30
>デスクトップ級スマート..
by 通りすがり at 03:27
7年前に書いた駄文が、今..
by antonin at 02:20
助かりました。古典文学の..
by サボり気味の学生さん at 19:45
Appleから金でも貰っ..
by デスクトップ級スマートフォン at 22:10
以前の記事

<   2010年 03月 ( 17 )   > この月の画像一覧

家出日和

今日は、家出。出家ではなく、家出。単に外出とも言うけれども。

東京スカイツリーが順調に育って、窓の外に見える景色が面白い具合になってきた。

b0004933_857398.jpg


公式サイトの計画図によると、そろそろ展望台などの入る逆円錐台形状の構造物の建設高度に達するようだけれども、建設現場の外見も変わってくるのだろうか。

TOKYO SKY TREE
b0004933_8572158.jpg


完成したら子供を連れて登ることになるのだろう。あまり行列に並んだりということはしないので、ブームがある程度去ってから、ということになるだろう。
[PR]
by antonin | 2010-03-30 09:01 | Trackback | Comments(0)

注意欠陥優位型ADHD

自分の好きなことや目新しいことには集中できるが、他人から指示された作業には集中できないということを調べていくと、子供の発達障害の一種である注意欠陥多動性障害(ADHD)という情報に行き当たった。どうやら私は子供時代この症状を持っていたようだ。当時はADHDという診断名は日本でほとんど知られていなかったから、特にそれに対する対応を受けることなく、自分でなんとか自分をコントロールしようと試行錯誤しながら苦労していた。

ADHDは脳の発達障害によるもので、よく知られている症状に多動性がある。小学校の授業中に席に座っていることができず立ち歩いたりしてしまう。ADHDには多動性と注意欠陥を併せ持ったケースが多いらしが、中には多動性あるいは注意欠陥の一方が優位に現れるタイプも少ないながらあるらしい。私の場合は多動性はなかったが、注意の対象が短時間で移ろいやすい注意欠陥の症状が本に書かれている通りに当てはまった。

ADHDの原因は、先天的な要因と、胎児・乳児期の外因的な影響が考えられるらしいが、母も同じような問題を抱えているので、私の場合はおそらく遺伝的なものだろう。この注意欠陥優位型ADHDは、教育現場で問題となるような多動性が目立たず、注意力の維持が難しいという内面的で観察しにくい性質であるため、診断されないまま本人と親だけが苦しむという場合が多いらしい。

このADHD自体は、中枢神経刺激薬というものを与えると一時的に症状を改善でき、その状態で正しく自己コントロールする行動療法的な訓練を適切に行うと、障害の症状が緩和されて、問題なく成長できるらしい。しかしこれを本人の怠慢とみなして頻繁に叱ると、本人が自信をなくし、低い自尊感情、つまりLSE(Low Self-Esteem)の状態になってしまう。LSEになってしまうと、自我が自己を抑圧する方向に働いて不安神経症やうつ病になったり、自我が指示に反発する方向に働いて反抗挑戦性障害や行為障害、簡単に言うとグレるという状況になってしまう。

私の場合、LSEのために神経症になったり、それを克服しようとして過剰な努力をして結果として自己愛型の過活動状態に入ってはその反動で抑うつ状態になったりして、結果として双極性障害の症状になってしまったのだろう。LSEの影響で神経症が出たり回避性が出たり依存性が出たり自己愛性が出たり、そういう態度に周囲が反発すると孤立して妄想性が出たり境界性が出たり、とにかく人格障害のデパートみたいな事になってしまった。

しかし高ストレス下ではそういう障害が出まくりなのだが、ストレスがなければ特にそういう人格上の問題は起こらない。ちょっと発想が変わってるとか、約束をときどきすっぽかすとか持ち物を無くすとか、そういう注意欠陥本来の症状だけになる。

小学校で受けた知能検査では指数がクラスで一番高かった、と担任の教師から父母面談で聞かされたというから、そのあたりの特性がADHDの障害を部分的にカバーしてしまって、客観的には問題なしとして放置されてしまったところに、中年になった今にまで影響が残ってしまった理由の一つがあるのだろう。小学校卒業時の担任には、「ペーパーテストだけはできるからなぁ」というようなことを言われたらしい。宿題などは大嫌いで、図工も体育も苦手だったから、妥当な評価ではある。

そういう、瞬発的には能力が高いが、しばらくすると飽きてしまうというチグハグな脳味噌を抱えて、これからどう生きていったらいいんだという大問題が残る。しかも、この性質がどうやらムスメにも遺伝してしまっているらしい。そちらも大問題だ。学校の先生は専門的な知識を持っているかもしれないが、ヨメはそういう知識も経験もないから、ムスメは毎日怒鳴られっぱなしになっている。LSEにならないようにうまく育てていくのも大問題だ。

18歳未満は中枢神経刺激薬が処方可能らしいのだが、成人への処方は乱用問題があったため現在禁止になっているらしい。過去に医師にADHDの可能性について質問したことがあったが、「リタリンね、あれはダメだ」と却下された。もっとも、認知療法や行動療法で解決していくのが根本的な解決につながるらしいから、ストレスコントロールがあれば投薬が必須というわけでもないのだろう。しかし、医師は投薬しかしないし、カウンセラーは保険が利かないので高額な費用が必要になる。

さて、どうしたものだろう。やはり仏典を広く読んで実践してみるのが一番の方法なのかもしれない。

はじめに読むADHD(注意欠陥多動性障害)の本 (発達障害を正しく理解する)

榊原 洋一 / ナツメ社


[PR]
by antonin | 2010-03-27 21:30 | Trackback | Comments(7)

愚痴

歳のせいか薬のせいか、最近、新しい知識が頭に入らない。Visual C++で簡単なプログラムを作ろうとしたのに、異常に遅いグラフィックになってしまって前に進めない。C, Win32API, GDI+で行くべきなのか、C++/CLI, .NET, Direct2Dで行くべきなのかという時点で、もう決められない。そもそもGUIアプリケーションに関してはExcel VBAのフォームエディタで簡単なデータ編集アプリケーションを作ったくらいの経験しかない。そこからスクラッチでWindowsアプリを書くためには多大な事柄を学習する必要があることがわかり、ぐったりしてしまう。これが学生時代なら2週間くらい寝る間を惜しんででも貫徹していたのだろうが、今はどうもそういう勢いがなくなっている。

Webアプリケーション・プラットフォームの勉強のために、ネット上にGPLで公開されているガイダンス本を翻訳してみたりしたが、イントロの第1章を訳すのに1ヶ月もかかってしまって絶望的になる。HTML5や本格的なJavaScriptも勉強したいが、XHTMLとCSSとDOMですでに手一杯になってしまう。学生時代の集中力というのはつくづく大したものだったと感心する。

言い訳したいことはいくらでもある。掃除洗濯育児などの家事が挟まるだとか、薬で頭の働きに強制ブレーキを掛けられているだとか、不安定な身分で神経が落ち着かないだとか、いろいろある。けれども冷静に考えて、神経を集中して問題を考えるという行為自体に、脳が二三時間程度しか耐えられなくなっているということもわかる。昔なら嫌な勉強なら30分で飽きても、好きなプログラミングや読書なら、インターバルは挟んでも12時間くらいは平気で乗り切れたはずだ。

技術書や学術書も、文庫や新書も、ときどきめくるだけで読みきれていない本が部屋にたくさん積まれている。手嶋龍一さんの「ウルトラダラー」だとか、平岩弓枝さんの「西遊記」に至っては、ハードカバーを購入しておきながら読み終わる前に文庫が発売されてしまって、悔しい思いもした。

とりあえず生きていくことには決めたのだけれども、何をして生きていったらいいんだろうという不安が消えない。あまり興味はなかったが身入りのいい仕事を当てがわれた経歴は11年で捨てた。身入りはいまいちだがとても面白い仕事は2年で捨てられた。家族も家も手に入れたが、社会的には何も残らなかった。プログラムが組みたい。ハードウェアを効率的に動かす美しいコードを書きたい。しかし、どうすればその機会が与えられるのかわからない。困ったことだ。

--

tumblrにTech-On!の古い記事が流れてきた。

ムダと一緒に捨てたもの - 産業動向 - Tech-On!

この内容なら自分も書いたな、と思い出して検索してみた。日付としては自分のほうが少し早いのを確認して、無意味な満足感を覚える。

安敦誌 : スリム幻想とか

こういう洞察力が生きていく上で役に立ったかというと、むしろ目先の仕事を邪魔する邪念となってしまって、今までは社会生活の足を引っ張る原因になっていた。そして最近ではこういう洞察力すらすり切れてきたような気がしてならない。それでいて集中力も落ちているのだから、どうにもならない。もはや妻子を捨てて林住するしかないのか。21世紀にもなってそんなことしてもなぁ。困ったものだ。実に困ったものだ。
[PR]
by antonin | 2010-03-27 00:47 | Trackback | Comments(0)

台風1号

b0004933_23452093.jpg

台風情報 - アジア広域 - Yahoo!天気情報

小笠原の皆さんは波にご注意ください。
けっこう日本列島向きの進路なんですね。
[PR]
by antonin | 2010-03-25 23:47 | Trackback | Comments(3)

宗教と迷信

クラークの三法則 - Wikipedia
1. 高名だが年配の科学者が可能であると言った場合、その主張はほぼ間違いない。また不可能であると言った場合には、その主張はまず間違っている。
2. 可能性の限界を測る唯一の方法は、不可能であるとされることまでやってみることである。
3. 充分に発達した科学技術は、魔法と見分けが付かない。

3つとも味わい深い法則だけれども、今回は第三法則を取り上げる。

この「法則」は私も若い頃に独自に発見したことで、文章に書いたこともある。私がCDプレイヤーの再生ボタンを押したとき、世界屈指のエンジニア数千人が知力を尽くした技術が次々に呼び出されて、結果として私は音楽を聞くことができる。そのこと自体に私はまったく疑問を覚えないのだが、そこで駆使されている詳細な技術について、私はほとんど何も理解していない。つまり、CDプレイヤーの再生ボタンを押してあのキラキラした円盤から音楽を引き出すという行為は、もうある種の魔術なのだろうな、という実感を持った。すると、そういうことはすでに先人によって気の利いた箴言として発表されていたのだった。

この、利用できることと理解できることの間にある、あまりにも深い溝は、科学技術に限らず、専門分野が高度に発達した現代文明では、ありとあらゆる分野に存在している。科学技術の粋を集めたガジェットは言うに及ばず、飲食店で食事するということひとつだけでも、多くの専門家が持っている理解不能なほど多様な知識と経験に依存している。しかも、上流から下流まで全部を俯瞰できる専門家がおらず、そういう専門知識の全容は「現代社会という装置」だけが理解している、などというグロテスクな場合さえある。

それはともかく、高度な技術が機能パッケージとしてまとめられ、それを組み合わせることでまた新しい機能パッケージができる。有形無形のものを含めて、現代社会にはそうした機能パッケージが溢れている。そういうパッケージを作るエンジニアなどのプロフェッショナルは、当然に「魔術師」なのだろう。一方で、プロフェッショナルが思いもよらないような使い方をするユーザーもまた、別の意味で「魔術師」なのだろう。

PCの画面上には多くのアイコンが並んでいて、そこにカーソルを合わせてクリックすると、高度なソフトウェアが起動したり、データファイルにアクセスできたりする。しかし、画面に表示されているのはあくまで「絵」でしかない。エンジニアがソフトウェアを作成し、その絵にプログラムの起動プロセスなどを関連付けているに過ぎない。このアイコンという「絵」の存在によって、一般ユーザーは高度な技術を簡単に利用できるようになる。


さて、ここまでが前置き。本題は、宗教論になる。クラークの第三法則を少し書き換えてみる。
 充分に発達した宗教は、迷信と区別がつかない。

こんにち日本では、「宗教」というと古臭く、胡散臭く、財産の危険を感じる言葉として捉えられている。宗教は馬鹿が信じるもの、とさえ思われている節があるし、私もかつてはそう思っていた。

だが、自分自身が生きるか死ぬかという状況にまで追い込まれ、最後の手段として仏教に接してみると、全く考えが変わってしまった。結論から言うと、「仏像」とはアイコンであり、「真言」とはコマンドである。そしてそうしたアイコンやコマンドによって呼び出されるものは何かというと、「ある精神状態」ということになる。

アイコンの絵やコマンドのシンプルさに比べて、そこから呼び出されるソフトウェアというのは一般的に複雑なもので、開発にも多くの費用と時間が必要とされる。そしてアイコンやコマンドは単にソフトウェアの起動条件を指定するだけのもので、メモリ上に呼び出されてプロセッサで実行されるプログラムのほうが真の実体ということになる。

同じように、「仏像」や「真言」は「ある精神状態」を呼び出すための入り口に過ぎず、その「ある精神状態」を実現するためには、整えられた環境で、繰り返し時間をかけて、ある特定の精神状態に入る訓練が必要になる。これを「修行」と呼んでいる。

観音経を読むと、どんなに困難な状況に置かれても観音菩薩の法力を念じれば、たちまち困難が解消するというようなことが書いてある。火の海に落とされそうになっても、観音菩薩の法力を念じればそこが池に変わるから大丈夫、などということが例を変えながら延々と繰り返されている。それを素朴に信じられる人はそれで構わないが、普通の人はそんなことが現実に起こるとは信じることができない。では、観音経は馬鹿が読むものなのかというと、実はそうではなかった。

生きていると、いろいろと困難な場面に出くわす。そこで、さらなる困難や死の恐怖を連想してしまうと、パニックに陥る。困難の解決が無理だと感じてしまうと、無気力になり何もできなくなる。こうなってしまうと、困難な場で適切な対処が取れなくなる。冷静であれば対処する方法に気付くような場合でも、そういう適切な対処が取れない。

それを避けるために、日常から観音経を読み、「困った時もなんとかなる」という状況を思い浮かべる訓練を積んでいると、実際に困難な状況に置かれても冷静でいられるか、あるいは混乱してもすぐに回復できるようになる。すると多くの場合では適切な行動が取れるようになり、ついには現実に困難が解消する。そして、あらありがたや、となる。

過去の失敗に気を取られ、いつまでも気分が晴れず、結果として怒りっぽくなって他人を傷つけ、さらに気が滅入る、ということもある。こういう時には地蔵経が効く。どんな悪人であっても、地蔵菩薩の名前を唱えて敬い念じれば、過去の罪業は水に流され、どんな利益でももたらされるというようなことが地蔵経には書かれている。

地蔵経を毎日読んで、どんな悪行をしてしまっても地蔵菩薩の名号を念じれば救われると日頃から考える訓練を積んでおくと、自分の過去の悪い行いも悪いものは悪いと受け入れつつ許して前向きに生きることができるし、他人の過去の悪い行いも悪いものは悪いと受け入れつつ許して前向きに生きることができるようになる。結果として人間関係の厄介な場面でも争いにならず、結果として実際に社会的な利益がもたらされる。そして、あらありがたや、となる。


昔、まだWindows 95が普及し始めた頃、こういう要望があった。会社でBMPの画像をメールで送りたいのだが、容量が大きすぎるのでJPEG形式に変換したいというものだった。それを誰かが、ファイル名を書き換えて".BMP"を".JPG"にした。すると確かにアイコンが変わった。しかし当然だけれども、ファイル容量は全く変わらない。ソフトを使うと確かに開けるのに、おかしいな、というようなことになっている。

実は画像表示ソフトが拡張子を信用していなくて、ファイル内部のフォーマットを検出しているのでたまたまうまく表示されているだけ、という具合だった。一方Windowsのシステムはファイル名の最後3文字を見ただけでアイコンを選んでいたから、見た目だけは変換できていた。今の時代ならそんなことをする人もいないかもしれないが、当時のWindowsユーザーは手探り状態でウィンドウシステムを使っていたから、こういうこともときどき起こっていた。

同じように、ソフトをインストールせずにアイコンだけ別のマシンからコピーしてきても、そのアイコンは使い物にならない。アイコンはあくまで起動用のシンボル(象徴)であって、ソフトウェアそのものではない。かつては高度なソフトウェアを利用するには高度な知識が必要だったけれども、アイコンなどの便利なインターフェイスを持ったソフトは、中身を理解するためには高度な知識が必要であるにもかかわらず、利用するだけなら基本的な知識だけで足りる。機能について多少の誤解があっても、利用するだけなら問題ないこともある。


宗教とそのシンボルにも同じような関係があって、神学をはじめとした宗教論を本当に考え出すと、結局「世界とは何か、人間とは何か」という議論に行き着いてしまい、そう簡単に理解することができない。そして高度な宗教知識を利用するためには、それを知識として理解するだけでは不十分で、それを生かすための日々の修練も必要になってくる。それは、誰にでもできるというものではない。

ここで、宗教はたいてい二つの形式に分裂する。ひとつは、このような修練を終えた人だけに救いが与えられるのだから、誰しも修練すべきである、という考え方。もうひとつは、修練を終えた者たちがよく判断して、無理解な者あるいは未熟な者を救うから、一般大衆はただそれを信じ、供物を捧げていれば良いという考え方。当然、国家権力と相性がいいのは後者なので、広く普及する宗教はこのスタイルのものが多い。

こうした宗教も善良に運営されている限りは、信頼できるプログラムをアイコンから起動するのと同じように、確かに大衆を救い利益をもたらすので問題がない。宗教の真髄は何かを信じることによる心の安定だから、神や仏などを信じる人の心が安定し、社会規範と矛盾しない行動が取れるように人々を導けるような宗教指導者がいれば、宗教は良い道具であり続ける。

ところが、とにかく信じればいいのだ、という表面的なところだけが暴走すると、宗教は社会の中でトロイの木馬のような悪影響をもたらす存在になってしまう。信じないと地獄へ落ちるぞ、祟りがあるから払わないと災難に遭うぞ、という脅しや金集めを中心としたものは、たいていこの手の物ということになる。

善良な宗教であれば、地獄とはつまり自分の心の中にある罪悪感だとみなしているから、罪悪感を取り除くための儀式をして罪悪感を取り払い、以後その人は落ち着いた心で正しく生きていける、という解釈をする。亡くなった親や先祖に対して、生きている遺族の心に未練や悔いがあれば、それが自分の心の中で自分自身を責める苦痛になる。そういう苦痛を取り除き、心の中に残る死者の印象が苦しみや恨みから笑顔や安堵に変わるような精神的ケアのための儀式が、葬式や法要というものになる。

あくまで本来的な宗教がケアすべき対象は生きている人間の心であり、人々の心が健全であることを通じて高まる社会の治安にある罪の告白が有効であれば、懺悔ののちに許しを与える。懺悔(さんげ)とは本来仏教用語である。そういう心の転換に儀式が有効なのであれば、宗教指導者は五感に訴えかける厳粛な儀式を執り行う。仏教ではこれを方便と呼ぶ。

現代日本では、宗教界はもはやウィルスだらけの地雷源という様相でもある。宗教団体は詐欺集団のように扱われ、実際にそういう団体も多い。健全な宗教が持っていた伝統的な倫理観が崩れ、人々は他人の些細な失敗や無作法に憤り、自己の利益のために汲々として他人の利益に嫉妬し、結果的に経済の活力まで削がれている。


生きている自信がなく、怒りや悲しみに押し潰されそうなときには、香を焚いて、不動明王の像を念じて、不動明王の真言を唱える。自分の心にあるネガティブな感情が、炎の中で徐々に消えていくところをイメージする。自分の愚かさを不動明王の剣が切り裂くところをイメージする。そうしてしばらくすると、声を出すという身体的な動きの影響もあって、最初のネガティブな感情はだいたい消える。

次には、様々な形をとって大衆の前に現れるという諸観音の真言を唱える。最初は聖観音の真言をとなえながら愚痴を聞いてもらう。次は社会にはいろいろの手助けをしてくれるシステムが有ることを念じながら千手観音の真言を唱える。最後に如意輪観音の真言を唱え、片膝立てて六臂のうち一本の肘をついて如意輪を下げる観音菩薩の笑顔を念じながら、まあなんとかなるさと考える。

安いロウソクと線香、それから真言宗勤行法則(しんごんしゅうごんぎょうほっそく)というテキスト以外はほとんど宗教的な支出はしていない。ときどきお寺を回って賽銭を投げたり線香を焚いたりはしているが、その程度だ。本当はありがたいお説教をしてくださるお坊さんに供養をしたいところなのだけれども、残念ながらそういう人は身近にいない。

現代生活の中から宗教的なアイコンがどんどんと撤去されているけれども、それは宗教的シンボルたちが背景にある信仰心の実態から切り離され、単に古臭い美術品にされてしまったからなのだろう。そうなれば、それはもはや削除されそこなったソフトのアイコンや、拡張子を偽装されたデータのアイコンと変わらない存在になってしまう。

現代日本の凋落の原因の深いところには、神仏分離をした明治維新と、国家神道の抹消を図った戦後統治が色濃く影を落としているように思えてならない。

神々の明治維新―神仏分離と廃仏毀釈 (岩波新書 黄版 103)

安丸 良夫 / 岩波書店



GHQ/SCAP機密文書 CIEカンファレンス・リポートが語る改革の事実―戦後国語教育の原点

東洋館出版社


[PR]
by antonin | 2010-03-25 13:44 | Trackback | Comments(2)

雨の水曜日

不動明王の真言を20分くらい唱えて、ふさぎ虫を退治。ハイフェッツ氏の怪演で笑う。



何か甘いものでも食べよう。
[PR]
by antonin | 2010-03-24 15:29 | Trackback | Comments(0)

ふさぎ虫



中島敦さんの「ある生活」という短編に登場する音楽を知らなかったので、ネットで検索してみた。それだけ。

 それは、長い列をつくって、雪のシベリヤの曠野をおびえながら、さまよって行く囚人達の跫音です。あからがおの老人がペチカの側で、粥をすすりながら語り出すおおまかな、併しどこか暗い蔭のあるささやきです。ふさぎ虫。スラヴ民族の憂鬱です。

[PR]
by antonin | 2010-03-23 23:58 | Trackback | Comments(0)

above the ground

Yahooが「ネタりか」というのをやっているのに今日気づいた。そのページに「みんなのマーカー」というサービスがあって、Yahoo IDを持っている人が寄ってたかってマーカーラインを引き続けると、ついには注目ワードに濃い色が付くというアイデアらしい。らしいのだが、現状ではこのサービスを利用している読者が少なく、全体に薄いピンクのマーカーだけが広がっていて、出来の悪い生徒の教科書のようになっている。

横浜中華街に異変!伝統失われ「食べ放題」急増のワケ - ネタりか

マーカーのところにカーソルを載せることで読者の付けたコメントが流れるようだと、先日挙げた「ニコ動式」コメントシステムのアイデアになるのだが、ここでは色を少し濃くするだけしかできないらしい。それではあんまり盛り上がらないような気がする。そうでもないのかな、天下のYahoo様だし。

いにしえのウェブページの特徴といえばなんといってもハイパーリンクで、テキストに付けられたハイパーリンクをたどって情報を渉猟していく行為をウェブサーフィンと呼んだが、最近はあんまりそういう経験をすることがなくなった。リンクを踏んでもあまり遠くへは行けなくなった。

ウェブが進歩したのに、日々新しい情報に出会う衝撃というのは、年々かすれていっているような気がする。うっかりするとブラクラ踏んでえらいことになる、あの暗夜行路な感じが良かった。けれども最近は、テレビニュースを見て一喜一憂するような、時事ネタ中心の世界がウェブにも広がってきたような気がする。まあ情報アンテナの感度が高い人は今でも刺激的な情報を刻々と集めてるんだろうけど。

ありきたりの時事ニュースから読み始めると、あるワードに読者が勝手に埋め込んだリンクが仕込んである。そのリンクをたどっていくと、思わぬ裏情報やサイケなネタのページに突入してしまう。そんな世の中は、すっかり普及してしまったハイパーテキストの世界にはもはや戻ってこないんだろうな。子供も見てるしね。
[PR]
by antonin | 2010-03-20 17:06 | Trackback | Comments(0)

江戸前近景

浜離宮公園を一人で散歩すると、案外寂れた感じがする。浜離宮公園は「恩賜公園」であって、かつては天皇家の離宮だったのが下賜されたということになっている。離宮となる以前は将軍家の狩場で、更に以前はどこかの大名の土地だったらしい。それが今では東京都の管轄する都立公園の一つとなっていて、有料公園として運営されている。都立公園だと思えば手入れの行き届いているほうだが、天皇家の離宮にしては荒れている。

木々はどれも樹齢を重ねていて、枝振りも窮屈な剪定を受けていないためか自然な感じがする。足元に切り株があって、上を見上げると、周囲の木の枝が円く空間を空けている。その空間が何かというと、足元にある切り株がまだ生きた木だった頃に、枝を広げて日光を受けていた領域なのだろう。

花畑なども幾つかあるのだけれども、そのうちの一つが荒れていた。タイル状に花壇があって、花壇の中には銘柄の札が掛けられた苗木が植わっている。その花壇の中の苗は枯れ果てているのに、花壇の間を縫うように作られた通路の方に、勢い良く雑草が茂っていた。その雑草を靴で踏み倒しながら歩いていくと、少しグロテスクな外見をした大きいコオロギの類いが飛び跳ねて逃げていく。

ほぼ方形をした公園の一番海側に出ると、海が見える。かつて鴨場があった公園の周囲は海水なのだけれども、今では海というより運河の一部という感じしかしない。海沿いに並んだベンチから海の方向を見ると、埋立地に立てられた倉庫街が見えるばかりで、海面にも波がない。波がないので波音もない。ときどき魚が跳ねてビチャンというような音がするだけで、その音の響きによって周囲の異様な静けさに却って気付く。

そういうヌメヌメとした海面にときどき波を起こすのが水上バスで、突堤に開けられた船幅ぎりぎりの通路から公園脇の停留所に向かって入ってくるときにだけ、ヌメッとした水面に波が立つ。かつての灯台跡地には正確に八等分された位置に礎石が残っている。その小高いところに立って、水上バスの航路を眺める。

公園内には外国人観光客が多い。東京にはもはやオリエンタリズムを感じさせる場所が少なくなっているから、観光客はこういう場所を見つけてくるのだろう。池の中島には茶屋があり、抹茶が飲める。そこで一人で正座して茶を待っていたら、正面にフランス語らしき言葉を話す一団がやってきた。こちらを見真似て正座する。正座ではつらかろうと思ってこちらが胡座に座り替えると、その動作をすっかり真似て彼らも胡座に座り替えた。これも何かの作法だと思っているらしい。神妙というよりゲラゲラ談笑しながら真似しているのが、見ていても面白い。

東京湾には今も埋立の土地が広がっているから、古い埋立地の周辺にはもはや海辺という感覚が残っていない。かつては海に向けた砲台を据える場所だったというお台場にも海浜公園があるが、そこから眺める海も似たような感じになっている。ここにはまだ緩やかな波が到達していて、羽田に向かう海底トンネル入口の背面に渡された人道橋から海を見ると、いくらか波の当たる音がする。人工的な磯を眺めると、昔に比べて東京湾の水も透明になったのがわかる。

竹芝のフェリー乗り場から海を眺めていると、東京湾クルーズに乗り込もうという、同窓会と思しきご婦人の一団が談笑している。フェリー乗り場というのは駅にも似ているけれども、駅と違うのは波風によって頻繁に欠航があるというところだろう。その日も東京は晴れていたが南洋には台風が迫っていて、伊豆諸島へ向かう便は欠航していた。それでもベンチにはそれなりの密度で人が座っていて、こういう空間というのは都区内では貴重なのだろう。
[PR]
by antonin | 2010-03-19 10:42 | Trackback | Comments(0)

役立たずな日曜日

S-VHS-Cで撮り溜めた実家のビデオ記録を、HDD経由でDVDに落とす作業などをしている。本当は子供たちを遊びに連れて行かないといけないのだけれど、どうにもしんどくてヨメに任せてしまった。このビデオカメラを買った頃には私はもう高校生になっていて、記録のほとんどは歳の離れた妹の分になっている。

一部を再生したところ音声だけが聞こえてきて画像が映らなかったので、しばらくダビング作業をせずに放置していた。今日気が向いて改めて再生してみると、そういう現象が起こったのは先頭部分の消去不良部分だったらしく、大部分は正常に再生できた。というわけで、アナログからデジタルへのコピーを実施してみた。記録時間とコピーに要する時間が同じだけ掛かってしまうのは仕方がない。全部で50時間分はあるだろうけれども、編集は後回しにするとすればテープの交換以外は流しっぱなしで済むので、それほどの手間にはならないだろう。非常に無駄な時間ではあるけれども、心に溜まったアクの処理としてはちょうどいい作業時間になる。

ネットの喧騒を少し離れ、小説などを読んでいる。

中島敦 虎狩

中島敦全集〈1〉 (ちくま文庫)

中島 敦 / 筑摩書房


私小説的な作品なので、客観的な記録とはまた違った、時代特有の雰囲気のようなものが伝わってくる。並行して、現在の人物の自伝も読んでいる。

在日 (集英社文庫 か 48-1)

姜 尚中 / 集英社


自伝なので、本人に都合のいい部分しか書かれていないのは仕方がない。それでもこういう情報を知っているのと知らないのとでは、こちらの受け止め方も変わってくる。実家の近くにうまい焼肉屋があって、在日韓国人が経営している。こちらは単に焼肉を食っているだけで、その店を経営しているのが何人かなどということは気にならないのだけれども、そういう態度だけでは通用しない場面というのもあって困る。非暴力主義でインドを独立に導いたマハトマ・ガンディーを撃ち殺したのは、ヒンドゥー側の強硬派だったらしい。

公明党・民主党と朝鮮・韓国利権の問題はユダヤ陰謀論と似ていて、どうも捕らえにくい。虚実いろいろと情報が入り交じっていて、しかも表裏どちらの情報も一方的で感情的な声になりがちなので、どこまでが本質でどこからが虚飾なのか区別がつかない。結局は人間のやることなので、身内に対する誠実さと部外者に対する貪欲さが入り交じった、ごく普通の政治力学の一種に違いないという気はしている。

先日、お手軽な日本史の本を読み終えた。

2時間で教養が身につく 日本史のツボ (青春新書INTELLIGENCE)

童門 冬二 / 青春出版社


私は日本史の知識が薄いので、少しでも全体的な流れに付いて知りたいと思ってこの本を手に取ったのだけれども、歴史解説というより歴史エッセイという感じで、教養になったかどうかというと怪しい。けれども確かに短時間で楽しく読み終えることができたので、それは良かった。ここでわかったのは、歴史上で天皇が担ぎ出される状況というのは、純粋に天皇への崇敬というよりも、時の反体制派が大義名分を我が物にするために正統性の権化である天皇を担ぎ上げるだけのものなのだな、ということだった。

制度疲労した政権を破壊して新政権を樹立する、国家の新陳代謝に天皇制が何度も利用されてきたというとはわかった。恐らく現在もそういう文脈上にあるのだと思う。現在の反体制派が攻撃している疲労しきった制度とは、肥大化しすぎた社会主義的再配分システムなのだろう。このシステムは実際に日本経済と日本国民の生活に大変な重荷になってしまっているので、それはそれで意義があると思う。

その一方で、生身の人間がその属性によって罵詈雑言や憎しみの対象になってしまうことについては、どうも生理的な嫌悪感がある。けれどもこれもお互い様という部分があって、どうも一筋縄にはいかない。経典を読んで心の平静を養っても、なかなか人間の本性というのは変わらない。瞋恚、邪見、妄執は簡単に改められるものでもなく、相変わらず日替わりの感情を抱えながら不便に生きている。

気温が上がって、バラの木に新芽が出てきた。スギ花粉も相変わらずだが、歳のせいか、最近は以前ほど過激な反応は出なくなった。精神的にはともかく、気候的には一番いい季節になってきたようだ。
[PR]
by antonin | 2010-03-14 14:45 | Trackback | Comments(0)


フォロー中のブログ
外部リンク
外部リンク
ライフログ
ブログパーツ
Notesを使いこなす
ブログジャンル