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文字の海

大正新脩大藏經テキストデータベース ホーム

「大正新脩大蔵経」がネット上に公開されていて、有り難いやら恐ろしいやらという感じで、ダラダラと眺めてみた。密教部の儀軌だとか、妙法蓮華経だとか、長阿含経だとかを流し読みしてみる。それぞれの文章の意味はだいたいわかるのだけれども、経典として何を説いているのかまではわからない。システム設計の詳細について知識のないまま、文法上だけは理解可能なソースコードを読んでいるような感じに似て、内容の理解には程遠い。

密教の域に達するには阿闍梨の伝法を乞うしかないのだけれども、顕教の範疇であれば、文字の論でもそれなりのことは知ることができる。それにしたって分量が多すぎるわけなのだけれど、まあ玄奘三蔵さまが天竺から命懸けで仕入れた以上の仏典が自宅で手軽に読めるのだから、福智は無辺なれど、ボチボチ読んでいったらいいんじゃないかという気もしている。

大蔵経のような、書かれた年代もまちまちで外来語の音写を多数含むような漢文のデジタル化というのは、いろいろと厄介な問題を含み持っていて、よくぞここまで達成されたなという気がする。学術的成果ではもちろんあるのだけれども、それが宗教的聖典であるという動機なくしては、ここまでの仕事はやはり成されないような気もする。

英語を中心とした表音文字のシステムでは、音素ないし音節ひとつに対して文字コードが与えられていて、それが連なってできた単語の表記をどのようにするかというのは表示側のタイポグラフィー技術に任されている。一方漢字というのは一文字が一単語を成していて、つまり単語ひとつに対して文字コードが与えられるスタイルになっている。そしてタイポグラフィーの問題はフォントセットが一手に担うことになっている。

そういう問題があって、特定の時代の、特定の分野でのみ使われる文字が「発見」されたりすることが、漢文の世界ではときどき発生する。大蔵経などはそういう厄介な文字の宝庫であり、たいていは一般的な文字に置き換えることが可能なのだけれども、それには単語としての漢字をどの意味に読み取るかという解釈研究が必須になってしまう。"color"と"colour"にそれぞれ固有のコードを付与するエンコードシステムを想像してみると、それがどれほど厄介なものかわかるかもしれない。

しかし逆に考えると、現代中国語というのは単語単位で一意のコードを持つという、世界でも珍しい言語エンコードシステムを持っているとも考えられるわけで、ひょっとするとコンピューターによる自然言語処理では今後最先端を走る可能性もありうる。まぁgoogleあたりじゃ既に、各国言語の単語単位で一意の内部コードを与えて処理したりしているのかもしれませんが。

ちょっと面白いのが、超ウラン元素の命名について。私が中学生のころに使っていた教科書では、原子番号の一番大きな元素は確かローレンシウムだった。ちなみに中国語では命名されている全ての元素に対して一文字で表記できるような文字が定められていて、ローレンシウムには「鐒」という字が当てられている。ところが、世界各国の素粒子物理学の研究所が粒子加速器を使って重元素を合成し、ある程度確実なデータが取れたところで命名権を主張している。粒子加速器の発達に従い、命名された元素も徐々に増えている。

ちょっとWikipediaで調べてみたところでは、原子番号111番のレントゲニウムあたりまではUnicodeで文字コードが定められているらしい。化学物質の命名に関する国際的な規約を作っているIUPACが元素名と元素記号を定めると、中国の「国家语委复函全国科学技术名词审定委员会」というところが、それに相当する漢字を定めるらしい。それが中国語のローカルコードやUnicodeに反映されるプロセスまではわからないが、とにかくそういうことは現在も起こっているらしい。

錀 - 维基百科,自由的百科全书

第111号化学元素中文定名为“钅仑”-国家对外汉语网

真言宗でお世話になるサンスクリット語の文字は、伝来当時の悉曇文字による縦書きというスタイルをとっているけれども、そのほとんどはデーヴァナーガリー文字という現代インドで使われる文字で表記可能らしい。古代の漢詩を現代中国語で読むとそれなりに韻を踏んでいて美しく響くのだけれど、仏典にある真言を現代ヒンディー語の音で読んでも、やはりそういう神秘的な響きになるのだろうか。一度聞いてみたい。
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by antonin | 2010-04-30 02:08 | Trackback | Comments(0)

久々に散財

新規機種を手に入れるための最良の方法は、現有機種をぶっ壊してしまうことだ。と、別にそういう意図があったわけではないのだけれど、かれこれ1年くらいガタが目立ちつつも使っていたデジカメをコンクリートの床に落としてしまい、CCDの接触不良で画像が乱れるようになってしまった。

以前からAmazonでFinePix F200 EXRが格安だったので購入しようと考えていたのだが、貧しさゆえに逡巡していたら製造終了となってしまった。その技術を継承しつつCCDサイズを若干シュリンクし、代わりにコンパクトな高倍率ズームレンズを搭載したFinePix F70 EXRを購入することにした。初めて購入したCamedia C-2 zoomは思い切ったコストダウンをしたローエンド機で約3万円だったし、現有機種のFinePix F10はメインストリーム機で3万円弱になった。それが今回はメインストリームなのに¥15,800まで低価格化している。メーカーさんはさぞかし大変だろう。

FinePixシリーズは、特徴のある八角形の感光セルを持ったCCDと、銀塩に似た粒状感を見せる独特のノイズ処理のせいもあって、絵作りにどこかアナログ的な感じがあり気に入っている。解像度とかノイズレベルというスペックでいえば、PN接合にフォトンをいくつ当てられるかという勝負になってしまって大型のカメラには太刀打ちできないのだけれど、それでも家族のスナップ撮影を主たる業務とするコンパクトカメラとしては非常にいい仕事をしてくれる。

ところで、最近はすっかり眠ったままになっている銀塩の一眼レフはどうしよう。たった24枚程度の撮影に1500円程度のコストが掛かり、重さゆえの機動力の無さからファミリーイベントに駆り出される機会もなく、すっかりお蔵入りという状況になってしまっている。レンズ資産を継承できるデジタル一眼を発売しているメーカーでもなし、全く先が見えない。もっとも、古くて安いレンズなのでデジタル時代に見合った分解能は持っていないから、仮にデジタル一眼が存在していたとしても専用のレンズを買い直すことになっただろう。

車もコンパクト、カメラもコンパクト。あとはテレビがコンパクトになれば完璧か。書棚をコンパクトにするという、電子ブックが我が家にやってくるのはいつの日か。
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by antonin | 2010-04-29 23:28 | Trackback | Comments(0)

プロパガンダとプロパンガスは似ている

その臭いでたいてい気付くのだが、知らないうちに下層部に蔓延して一気に火がつくと厄介だ。

とまぁバカなことを書いているうちに4月も終わりかけているわけです。どうしたらいいんだろう。喧嘩せずに済む程度に金持ちになりたい。しかし、来年の夏休みにはテレビが見られなくなるという恐怖のうちに育ったコドモたちは、ひょっとするとたくましい人間に育つのかもしれない。

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BFグッドリッチというタイヤメーカーがあって、"BF"とはベンジャミン・フランクリンの略だと聞いたことがあった。けれども100ドル札に肖像のある、あのベンジャミン・フランクリンではなく、ミドルネームがフランクリンというベンジャミン・グッドリッチ博士が創業したゴムメーカーなのだということがわかった。ネットはこういう雑学を調べるのには便利でいいが、おかげで余計な知識だけが増えて実利を損ねているような気がしないでもない。

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60代のインターネット利用率が急伸、PCより携帯を活用 【平成21年 通信利用動向調査】:MarkeZine(マーケジン)

こういう調査を見るたびに思うのだけれど、「60代」とか「20代」というのは、ある意味移動平均なんだということを忘れがち。つまり今年の60代というのは、去年の69歳の人達が70代に抜けて、去年の59歳の人達が50代から入ってきている。そこで統計をとると、もともと60代だった人達が新しくネットを利用するようになった部分も当然統計には入ってくるのだけれども、69歳と59歳の人達の違いが変動として繰り込まれる率もかなり大きい。

Windows 95が発売されてインターネットが身近な存在になった頃、現在60歳を迎えた人達は45歳の現役世代だったわけで、仕事でWindows 3.1と一太郎なんかを強制的に使わされていた世代だったりする。となると、当時55歳でワープロはちょっと、という世代が抜けて、代わりに現役PC世代が入ってきたのだから、そりゃネットの利用率も高まるというものだろうと思う。その寄与率が20%上昇したうちのどのくらいなのかというのは、60歳きっかりの人達のネット利用率を見てみないと判断がつかないけれども、とにかく年代統計の比較にはそういう問題がつきまとうことだけは間違いない。

「若者の~離れというが、今の若者はそもそもそこに近づいてすらいない」という話もこれを極端にしたものだろうと思う。今は65歳以上と言っても若い頃からテレビやオーディオなどに凝っていたような世代が入ってきているわけで、昔みたいに自宅では和服でくつろいでいるような世代はもはや絶滅危惧種というような状況でもある。60代のネット利用が増えたと言っても、そのうちのかなりの部分は「既に起こってしまった未来」が顕在化しただけなんじゃないかと思う。

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明日吹く風は、どこか西の町で今日吹いている風だ。だからどうだ、っていうわけでもないけれど。
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by antonin | 2010-04-28 17:22 | Trackback | Comments(0)

ふけいきのうた

被害者が騙されたことに気付いて憎しみを抱くようだとそれは凡百の詐欺師であって、一流の詐欺師ともなると、被害者の心には一生のうちで最もエキサイティングな日々を送れたことに対する甘美な感傷が残るのだという。そういう意味では、ひょっとすると私が育った時代の日本国というのは稀代の詐欺師であり、私はその被害者であったことに、あるいは今も心のどこかで感謝しているのかもしれない。

人を疑うということは心を蝕むことであって、人に期待するから疑いを持つのだとすれば、そもそも期待しなければいい。人はその弱さのために結果として他人の期待を裏切る可能性が常に伴うのだとすれば、結果に対して期待することをやめれば人を疑うことも避けることができる。結果には期待せず、しかし弱さを伴った不完全な善意が嘘ではないと想定することが「人を信用すること」なのだと定義すれば、人間に対する苦痛のかなりの部分は解消するようにも思える。

家庭を持ってしまった男に必要とされる強さとは獅子のそれではなく、駱駝のものなのだという。特定の敵が現れてどうこうという場面はむしろ避けて、砂嵐のような避けようのない災害を黙って耐え、再び日差しの中を荷を負って歩き続ける強さなのだという。見通せる範囲にオアシスがないからといって、歩くのをやめない強さなのだという。

仏説には「犀の角のように一人歩め」とあるのだけれども、それはあくまで出家のための法説であって、在家者は犀の角よりも駱駝の瘤のように歩くべきなのだろう。ゆさゆさと、砂まみれの毛を揺らしながら。


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by antonin | 2010-04-24 00:16 | Trackback | Comments(0)

与太話

また古い記事をほじってみる。

安敦誌 : 無題

まだオバマさんが大統領になる前の記事で、トヨタの株に市場が低い値を付けてますけど、この先どうなるんでしょうね、というような話だった。で、案の定というかなんというか、アメリカで派手なトヨタ叩きがあったのだという報道があった。あれは本当にアメリカでそういう動きがあったのか、あるいは国内で広告宣伝費を絞ったことへの国内マスコミによる報復行動なのか、ちょっとそこまでは調べが及ばなかったのだけれども、とにかくそういう騒動があった。

しかし日本も過去に狂牛病騒ぎなんかをかなりしつこくやってしまった前科があるので、アメリカのああした報道があってもお互い様というようにしか見えない。日本人がクロイツフェルトヤコブ病に冒されて大問題になっているとかいう状況ならまだしも、果たして本当に牛肉に蓄積したプリオンが原因で発病するのかさえ未知の病気に、あれほどまで徹底的な恐怖反応を示してしまったんだから、実際に事故で人が死んでいる乗用車についてあの程度の応酬があるのは、日本人としては甘んじて耐えなくてはならないだろう。

それは別として、なぜ今この時期にトヨタ叩きが起こったのかということについて、野次馬的興味が湧く。もちろん日本の屋台骨である世界企業のトヨタ様があんまり大変な事になってしまうとマズいわけではあるが、それでも国益意識がひときわ薄い現政権下の日本に対してアメリカが放ってきたパンチの結末が、いったいどうなるのか興味がある。

上にリンクした過去記事のSF的予想シナリオでは、トヨタを含む日系企業に選択的な課税法案が通ってアメリカの国民医療保険制度の財源の一部とされ、最後はトヨタの米本土工場の一部がビッグスリーないしインド企業に買収されて、工場自体が持っている製造ノウハウが吸い取られ放題という結末だった。さて、小説よりも奇である現実世界はどのように推移していくのか。そういう目を持ちつつ、あまり力を入れずにフォローしてみたい。ダイムラー陣営にエース・デザイナーたちを奪われて衰弱しきったクライスラーあたりが、低燃費エンジンを武器に華麗なる復活を遂げたりしたら(野次馬的には)面白い。

まあ、結局のところはどうなるのかわかりませんけどね。
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by antonin | 2010-04-21 23:18 | Trackback | Comments(0)

儲かりたい

どんどん稼いでがんがん使おう - Chikirinの日記

日本ではまだ仏教的な思想が残っていて、人は儲けることに貪欲な人に対して厳しい見方をする。しかし本来仏教というのは極端を嫌うので、儲けるということに執着しすぎるのを否定する一方で、儲けることを憎むのもまた否定する。

カネというのは人の欲を数値化したもの、というようなことは既に書いた。

安敦誌 : おかねのはなし

「欲」という単語は「期待」とか「信用」とか「見込み」とか、そういう修飾を伴った表現をされることもあるけれども、突き詰めると人の欲というところに落ち着く。人があるモノやサービスを購入して対価を払ったとき、得たものが払った金額より価値が高いと思えば得をしたと感じるし、得たものが払った金額より価値が低いと思えば損をしたと感じる。

経済には規模の原理というのがあって、ある程度まとめて仕事をした方がコストがかからないということがよく起こる。そういうところに敏感な人が商売をすると、作り手はモノを多く売り上げ、売り手は多く利潤を得て、買い手は価格以上の価値を手に入れるという「三方得」が発生する。もっと良くできた経営者であれば、働き手は手間が減って、収入が安定して、客にも感謝されるという得まで発生する。

ところが日本人が苦境に陥ると、ちょっと面白いことが起こる。注文を減らしておきながら売り手に価格を下げろと言い、価格を下げる以上に価値を下げておきながら買い手にもっと買えと言い、結局うまくいかずに商売人も利潤を下げる。こういう「三方損」みたいな事態が起こるのだけれども、そのうえ働き手の手間が増えて、収入が不安定になって、客にも迷惑がられるという損まで発生する。

こういう、誰も得をしない状態で「儲ける」という目標を設定するのは本当にやめてほしい。有価証券市場のようなゼロサムゲームならまだマシだが、実業界でこういうネガティブサムなゲームを続けるのは本当に勘弁して欲しい。ポジティブサムの経営ができる企業に市場を譲って欲しい。そのための原理が自由な市場競争ということになっている。

ここで市場競争に対して極端に自由であると、市場の変化が激しくなりすぎて市場原理が正常な淘汰力を発揮する以上のスピードで詐欺的な新興勢力が市場環境を破壊してしまったりするから、ある程度の保護的な規制は必要になる。しかし規制が強すぎると、今度は市場の淘汰力が働かなくなってサービスが停滞してしまう。

だから、良いサービスを提供して結果として「儲かる」のはよろしいけれども、サービスそっちのけで「儲ける」ことばっかり考えていると、そのうち市場に淘汰されてしまって結局損をしますよ、というのが先人の知恵なのだろう。これは倫理的な空理というよりも経済的経験則であって、市場原理が正常に働く環境下では提供するサービスの価値と顧客が支払う対価は均衡するから、長期的に見れば結局企業がやることはサービス向上に努め適正な利潤を得る、という面白くもない結果になってしまうのだろう。

だから、社会に存在しなかった新しい価値を創出して儲けている人は、ちゃんと尊敬される。儲け重視で市場の期待を裏切ったりする人は、ちゃんと軽蔑される。だから、嫌儲する文化が悪いというよりも、やはり嫌われるような利潤追求の仕方をする方が下手なのだろうと思う。

真言宗では、人の心は本来清らかなものであり、人の欲もまた例外ではないと見る。欲というのは炎に例えられて、それが燃え盛ってみだりに物を焼いたり煤煙を撒き散らしたりするから問題なのであって、ろうそくのようにきれいに燃えれば害にならないばかりか益になると見る。人からあらゆる欲を取り去ってしまえば、その人は死んでしまう。欲に飲まれないように心身を鍛え、欲を暴走させない程度に欲の対象を遠ざけて生きていれば、欲は清いものになる。

カネについても同じことなのだろう。欲を出しすぎるのは問題だが、欲を消してしまおうなどと考えるのもまた問題であって、節制できる範囲でしっかりと欲を出すのが人間の正しい姿なのだろうと思う。と、偉そうに書きつつ、自分がそれをできているのかというと全くできていないんですけどね。合掌。
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by antonin | 2010-04-21 15:59 | Trackback | Comments(0)

浮上

水って案外重いよな、と思う。それ自体はそんなに重い物じゃないんだけど、液体なもんだから、いくらでも変形して充満する。隙間ができにくい。そうすると、予想に反して結構重たくなる。

鉄は体積あたりでいうと水の7倍以上も重いのだけれど、変形しにくい。うっかり中身が空っぽであったりすると、水が次々に下に回り込んで、鉄は上へ押し上げられてしまう。船はこうして水面に浮かぶ。

時には波風にさらされて、内面が水に侵食されて沈んだりするが、空っぽでいられればいずれ平らな水面に浮かぶことができる。

浮いてるってのはある種特権かもしれず、まあいいんじゃなかろうか。
頭上を航行されて水は細波立つのだけれども、まあいいんじゃなかろうか。
腐食されないようにフジツボそぎ落として、塗装を直したらいいんじゃなかろうか。
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by antonin | 2010-04-21 14:59 | Trackback | Comments(0)

ラーメン屋の接客

人間には色々なタイプがあるが、それでも人間の脳の構造にそうそう大きな違いがあるわけではない。人間の脳には喜びを感じるサイトというのがひとつしかなくて、人間が区別しているつもりの喜びの感情というのは、実はないまぜとなって感じられている。つまるところ、喜べるのか喜べないのか、というところに決着する。人間の感受性の多様性は、そのたったひとつしか存在しない喜びのサイトに、どのような経路で神経が接続されているかという、プログラミングデータの違いでしかない。

ラーメン屋があって、私たちはその味や栄養を購入していると思っている。しかし、店内の清潔感であるとか、店員の接客とか、そういった意識的無意識的ひっくるめた感覚情報が総合されて、結局はただひとつしかない喜びの感情を呼び起こすかどうかということで価値判断される。私たちの意識はそこに適当な理由付けをおこなって、これこれこういう理由でここの店は良いとか悪いとか言う。

しかしそういう意識に上るレベルの思考とは別に、結局ラーメン屋のラーメンに満足できたかどうかというのは、ラーメンの味、香り、価格、店内の雰囲気、店員の接客、同席した客の態度、壁紙の色彩、照明の照度、店内の気温や湿度など、複数の意識的あるいは無意識的な刺激が、同時に複数の経路から脳の快楽中枢を刺激している。その中にはポジティブな刺激とネガティブな刺激があって、トータルとしてポジティブな刺激が勝てば私たちはラーメンに満足するし、ネガティブな刺激が勝てば私たちはラーメンに満足しない。

私などはあまり躾がいいとは言えない家庭に育ったが、それでも母の作る料理はなかなか凝っており、食卓では家族団欒という感じで楽しく食事をしていた。だから食事をうまいと感じるためには精神的なリラックスが欠かせない、というように無意識下でプログラミングされている。したがって私には、店員の人当たりが良かったりすると、もうそれだけで気分良く食事をすることができ、したがって食事もうまいと感じられる。

そういう具合なので、「味覚にこだわっているので接客にまで力を入れる余裕がない。こちらが全力を賭けている味を味わう客の方も、味を感じ取るのに全力を賭けるべきである」なんていう態度の店に入ると、もうそれだけで気分が悪く、結果としてどれだけ「味」として凝った料理が出てこようとも、それをうまいものとして感じ取ることはできなくなる。味覚というのは五感のうちのたったひとつでしかない。

ところが世の中には、こういう店を絶賛する人がいる。どの程度本気なのかという部分は確かに考えなくてはならないが、本当にそういう店の料理を好む人というのが、数としては多くないが確かに存在するらしい。そして数が少ないというあたりがまた、彼らの選良感覚を刺激して気分が良いらしい。しかしもう書いたとおり、私はそういう店を生理的に受け付けることができない。

これを同じように無意識下のプログラミングという見方でとらえると、こういう店を好む人というのは厳しい大人に育てられたのではないか。食事中もリラックスして歓談するというより細かいマナーを厳しく指導され、そういう厳しさをクリアしたときに初めて大人に褒められ、そして喜びを感じるという育ち方をしてきたのではないだろうか。であれば、ヘラヘラした店員が愛想を振りまくような環境で食事をするよりも、店側が厳しいルールを客に押し付けてきて、それを客が高いレベルでクリアしたときに最高の味が感じられる、などという条件下で食事をするときの方がむしろ喜びが増し、結果として本当に食事までうまく感じられるのではないか。

どちらが良いとか悪いとかではなく、彼らにとって本当に快適な環境というものが、フランクであるよりもスパルタンであるという、生育環境などの影響によるそういう個性の違いなのではないか。道を挟んで我が家の向かいにある「ラーメン二郎」には連日長蛇の列ができるのだが、そのレポート記事などをネットで読んでも、あんまり入ってみたいという気が私には起こらない。しかし、そういう環境こそが快適であるというような人もまた、この国に一定数存在するからこそ、あの連日の行列が続くのだろう。

わたし、そういうの向いてないのよね。とは思うのだが、それで生きていけるようなニッチに果たして出会えるのだろうか。
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by antonin | 2010-04-17 14:24 | Trackback | Comments(2)

短縮URLとハノイの塔

似てる、というか、考え方として同じだよね、という。情報ブロックに対して登録順に通し番号をつけていくだけで、ハッシュテーブルさえ持っていればどんな情報の圧縮もできる。グローバル・ネットワークが当たり前に存在する現在ではそれが当然のような顔をして使われているという。

まあ、これに関しては多くを語る方が無粋という気がするので、リンクを再掲。

TextPage/Misc/Tower of Hanoi

せっかくなので、これも短縮URLで。

http://j.mp/aiPuCi
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by antonin | 2010-04-15 12:39 | Trackback | Comments(0)

なぜ若者は不甲斐ないのか

まず最初に誤解の無いようにしておきたいのだけれども、現在の若者が過去の若者に比べて質的に劣っているとは思わない。いつの時代にも、優れた若者もそうでない若者も一定程度の比率を大きく離れずに存在するはずで、それにも関わらず大人たちには「最近の若者はまったくなっとらん」と感じる理由がきっとあるはずだろうと思う。その理由もいくらでもあるのだろうけれども、その理由のうちのいくつかについて思うところを書いてみよう、というのが本文の趣旨になる。

そのひとつは、「登山効果」というもの。どの世界にも優秀な人間というのは一握りで、それに対して平凡な人間が大勢を占める。山の麓には低い土地が広がっているが、山の頂上ではごく狭い土地があるに過ぎない。そういう頂に立ってみると、下界の様子を広く見渡すことができる。これに似たようなことが人事においても起こっていて、それによって「最近の若いものは」論が出てくるのだろうという仮説。

というのも、世間で声が大きくなる人間はどういう人かというと、当然出世してある分野の頂点に近い位置に達した人間ということになる。自分の専門分野ですら目立った成果を出していない人間の言い分など、誰も聞きはしない。誰も聞きはしないというのは大袈裟だとしても、少なくとも大勢の人に聞かれることはない。というわけで、一般的には多くの人が目にする意見というものは、ある分野で目立った成果を出して頂点に立った一部の優秀な人間の声、ということになる。

そういう人がどういう履歴をたどったかを想像してみると、若い頃から優秀な友人たちと交遊し、互いに切磋琢磨しながら何事かに邁進し、そこで成果を上げて人の上に立つ地位へと進むことになったのだろう。ところがそういう人は、自分が若者の一人として生きていた頃には既に優秀な友人と小さなコミュニティを作っており、優秀な先達からの指導を受けていたが、そういうコミュニティからこぼれ落ちる平凡な同世代の人々というのは、彼の目からは恐らく見えていなかったのではないか。

それが人の上に立つようになると、優秀な人間だけではなく平凡な人間の面倒も見なくてはならなくなる。そうすると自分が若かった頃に見えていた人々に比べて多くの若者の様子が眼に入るようになる。となると勢い、今の若者は不甲斐ないという感想を自然と抱くようになるのだろう。しかしこれは山頂に登って初めて低地の全容が見えるのに似て、単に若い頃に同世代の全貌が見えていなかったことによる影響のほうが大きいのではないかという気がする。確かに彼が若い頃に身近に見ていた若者たちに比べて長じた彼が面倒を見なくてはならなくなった若者は劣っているのだが、それは単に彼が平凡な人を指導すべき立場に立たされたからに過ぎない。これを「登山効果」と名付けてみた。

これは東大生が地方大学の教授になった場合よりも、母校の教授になった場合の方がより顕著に見られるのではないだろうか。つまり、若い世代が自分の若かった頃の友人達と同レベルであるという思い込みがある分だけ、現在の若者の様子が不当に低く見えてしまう。これがもし地方の私大の教授などに着任したのであれば、そもそも学生たちが優秀であるわけがないという先入観があり、実際に彼らが自分たちの若い頃よりも優秀ではないとしても別に驚くには値しないというわけである。

こういう「登山効果」以外にも、歳を取ってから若者が劣って見える場合が考えられる。それを「斜陽効果」と名付けてみよう。産業革命以来、というよりも有史以前から、人間社会には勃興する分野と衰退する分野というものがあり、勃興する分野には優秀な人が集まるが、衰退する分野には優秀な人が集まりにくい。もっと正確にいえば、黎明期にある分野では、必ずしも優秀とは限らないが面白い人が多い。そしてそういう人々がその分野を盛り上げて絶頂期に達すると、今度は面白いとは限らないが間違いなく優秀な人が集まるようになる。そして衰退期においては、面白くも優秀でもないが保守的な人が集まりだすようになる。

そういう一般的な傾向にあって、勃興期に若い時代を過ごして人の上に立つまでに達した人は、「最近の若い奴は確かに優秀だがチャレンジ精神に欠ける」というようなことを言うだろう。最盛期に若い時代を過ごして人の上に立つまでに達した人は、「最近の若い奴は意欲に欠ける。我々の若い頃には意欲のある優秀な人間が多かった」という感想を持つだろう。ある分野で成功した人間ほどその分野にどっぷりと浸かって生きてきたわけで、過去においても現在においても、他分野の若者というものにあまり接していない。したがって、面白かったり優秀だったりする若者が他分野には相変わらず存在するのだということに気づきにくい傾向にあるだろう。

この現象に「斜陽効果」と名付けてみたのだが、別に衰退過程に限らず、その分野が取り込む若者の傾向が変化するのなら、その分野の興隆過程でも似たようなことは起こるだろう。しかし最近目立つのはもっぱら「若者のなんとか離れ」だから、それはもう確実に衰退過程で起こっている現象であって、そういうわけで「斜陽効果」と名付けておいた方が面白いのだろうと思う。

最後にひとつ付け加えておくとするならば、自分たちが若い頃に比べて最近の若者が不甲斐ないという声は大きくなるものだが、自分たちが若い頃に比べて最近の若者は優れているというような声は大きくなりにくい。そういう場合には「最近の優秀な若者を集め育てたのは我々だ」という形の声になりやすいからだろう。この現象にはあえて名前をつけないことにする。調べればおそらく先達によっていい具合の名前が付けられているのだろうから。
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by antonin | 2010-04-15 10:18 | Trackback | Comments(5)


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