安敦誌


つまらない話など
by antonin
検索
最新の記事
アキレスと亀
at 2017-05-02 15:44
受想行識亦復如是
at 2017-05-02 03:26
仲介したことはあまりないが
at 2017-04-29 03:36
サンセット・セレナード
at 2017-04-12 23:17
水分子と日本人は似ている
at 2016-06-04 01:49
ほげ
at 2015-06-05 03:46
フリーランチハンター
at 2015-04-17 01:48
アメリカのプロテスタント的な部分
at 2015-04-08 02:23
卯月惚け
at 2015-04-01 02:22
光は本当に量子なのか
at 2015-03-17 23:48
記事ランキング
タグ
(295)
(146)
(122)
(95)
(76)
(65)
(59)
(54)
(45)
(40)
(40)
(39)
(32)
(31)
(28)
(27)
(25)
(24)
(22)
(15)
最新のコメント
>>通りすがり ソ..
by Appleは超絶ブラック企業 at 01:30
>デスクトップ級スマート..
by 通りすがり at 03:27
7年前に書いた駄文が、今..
by antonin at 02:20
助かりました。古典文学の..
by サボり気味の学生さん at 19:45
Appleから金でも貰っ..
by デスクトップ級スマートフォン at 22:10
以前の記事

<   2010年 05月 ( 24 )   > この月の画像一覧

現在のスカイツリー

ISO100
8″, F5.6
3616x2712→1599x1066(上カット)
b0004933_224523.jpg


制限サイズぎりぎりでのアップロードに挑戦してみました。
[PR]
by antonin | 2010-05-31 22:46 | Trackback | Comments(4)

クルマとかカメラとか

我が家の愛車デミオ君に、初めての車検が迫る。しかし我が家にはカネがない。洗面台が割られてみたり、今年はなんやかんやと出費が多い。走行8000kmあまりのこの車にどのような車検を受けさせるか悩みどころ。来年こそは地デジ化を実現したい。電子工学科卒だというのに何だこの体たらくは。

しかし強引に更新してしまったデジカメが楽しい。FinePix F70EXRの27mm相当の広角はまぁ記念撮影用の実用品という感じだが、270mm相当のズームは純粋に遊びとして楽しい。自宅からチョビっとだけ見える東京タワーや、根元からバッチリ見える下町名物スカイツリーなどを撮影して遊んでいる。あくまでカメラというメカの特性を分析するのが楽しいだけであって、出来上がってくる写真の芸術性などにはこれっぽっちも興味はないのだが、それでも夜景や花の写真などをやたらと撮りまくっている。

ランニングコストがほぼゼロというのが何よりありがたい。銀塩時代ならおそらくコスト面の問題で趣味にはなっていなかっただろう。電池寿命が前の機種のFinePix F10に比べると半分ほどになってしまったので、楽天で安い互換品を見付けて2個ほど買い足してみた。これで演算量の多いオートEXRモードを多用しても4GBのメモリがいっぱいになるくらいは連続撮影できる。

【楽天市場】【メール便発送可】FUJIFILMフジフィルム NP-50対応互換バッテリー:エスペランスインターナショナル

カメラが吐き出すEXIFデータの概要はフリーのデータ解析ソフトで判明するのだけれども、機種特有の細かいモードデータなどが未解析で"unknown"としか表示されない。PerlやPythonで書かれたメタデータ抽出スクリプトなどもあるらしいので、元気があれば機種独自コードを解析してみようかと思う。元気があれば、というところが問題で、なかなか思うようにならないのだけれども、まぁなんとかやってみようと思う。

b0004933_23412058.jpg
スカイツリーと富士山。
EXRオートモード(風景・HR)。
縮小後4:3を3:2にトリミング。

b0004933_02724.jpg
夕暮れの筑波山。
SP夕焼けモード。
縮小後3:2にトリミング。

b0004933_23413637.jpg
夜の東京タワー(の先端)。
マニュアルモード(ISO100/DR100%/4″/F11)。絞ったのは輝点の滲みを防ぐため。
20%ちょっと縮小してトリミング。
[PR]
by antonin | 2010-05-31 00:19 | Trackback | Comments(0)

印刷個人史

ガリ版: 気がつけば82歳

ガリ版というものが、確かにあった。正式には謄写版というらしい。小学校の卒業文集で最終モデルに近いガリ版式輪転機の原版をこれで書いたことがある。

仕組みとしてはほとんどプリントゴッコと同じようなものだが、油性インクをシルクスクリーンのようなものを通して印刷する。スクリーンのインクを通さないロウの部分を取り除くのに、プリントゴッコでは炭素インクと赤外フラッシュによる熱転写を利用したが、ガリ版では鉄筆を使って手書きで文字や線画を書いた。そういえばプリントゴッコの使い捨てフラッシュも金属繊維の燃焼熱を利用していたりして、時代ドラマに出てくる乾板写真機のマグネシウムフラッシュのイメージをリアルに感じることができる貴重な体験だった。

プリントゴッコの話はそのくらいにして、ガリ版。私が書いた原版は青くてネットリとしたマスクで塗り尽くされていて、5mm四方くらいの方眼が描かれていたように記憶している。それを鉄筆で削っていくと、筆跡が白く残る。書き損じをすると溶剤臭のきつい修正液で塗りつぶし、それを乾かすと元のマスクが復元される。かなり必死の思いをして原版を作り上げると、先生がそれを集めて印刷室の輪転機で印刷をした。

その時代の輪転機は既にセミオートマチックになっていて、原稿をセットするだけで自動的にインク充填と紙送りがされるようになっていた。しかし普及機ではインク粘性や質の悪い藁半紙のハンドリングに失敗することも多く、しばしば紙詰まりなどで印刷が中断していた。そういう場合は詰まった紙を取り除き、モーターに代わって手動ハンドルで慎重に紙送りをしながら印刷機の調子を整え、状態が良くなったら再び自動印刷を開始するという具合だった。印刷開始前にも手動で数枚の捨て印刷をするという手順があったような気もする。

担任の先生はそういうガリ版原稿を毎日削って、父母向けの日刊クラス通信を発行していた。その先生は定年近くだったのでフリーハンドの達筆で原稿を書いていたが、比較的若い先生の中には、格子目のついた筆記台を使って直線を多く含んだ独特のガリ版文字を書く人もあった。

中学校に上がった頃には既に新式の印刷機が配備されていて、原稿こそ手書きだったが原版の作成は電子式で、鉄筆の出番はなかった。けれども若い先生の書く筆跡は、おそらくは学生時代にガリ版原稿を多数書いて鍛えられたと思われるガリ版文字で、東京湾で発生する青潮などの環境問題を生物学や化学の側面から生徒たちに紹介していた。

私などはそういう刷り込みにすっかり影響され、大学では原発問題などのかなり「赤い」問題提起をするグループに属することもあった。結局その団体は純粋理学に近いノンポリな自主ゼミ活動へと移り変わっていたので特段過激な活動に巻き込まれることはなかったが、昔から環境問題というのはやはりそういう傾向の人達が担う活動領域だった。

大学では流石にガリ版を使うことはなかったが、24ドットフォントのワープロで書いた原稿を印刷したのは、やはり文化部サークル連合の所有する輪転機だった。大学生協で購入したプリペイドカードを使って1枚いくらで学祭用の冊子原稿を印刷し、ホチキスで止めて製本した。テーマは素粒子論とか宇宙論とかそういうあたりだった。先輩の供出してくれた東芝Lupoの特徴的な24ドットフォントが好きで、必要以上に熱転写インクリボンを消費して迷惑を掛けていたような覚えがある。VistaのメイリオフォントがLupoフォントに似ているという意見もあるが、横棒が太くて縦棒が薄い変態フォントのメイリオとは比較にならないほどLupoフォントは美しかった。

大学の卒業論文を書く頃に、キヤノンが初めて販売した個人向けインクジェットプリンターを購入した。厳密にいうと1号機のBJ-10vではなくマイナーチェンジ品のBJ-10v Selectというモデルだったが、ノートタイプのこのプリンターはずいぶんと長く愛用した。本体からグラフィックとしてフォントを送り込んで印刷することもあったが、通常は本体に登録された明朝体とゴシック体のフォントをプリンターコマンドで利用して印刷していた。

PC-9801のDOSからこのプリンターコマンドを利用して簡単なワープロ印刷をするソフトにPRTというフリーソフトウェアがあった。これは初期のHTML程度の簡素なマークアップコマンドをテキスト中に埋め込んでおくと、それを適切なプリンターコマンドに変換してパラレルポートに送出してくれるというもので、個人レベルでは非常に便利に使っていた。フォントを見ると、それを印刷したハードウェアがどこのメーカーの製品であったかを推定できた最後の時代だったように思う。

大学を出て会社に入ると、古くは電子写真と呼ばれた静電吸着トナー方式のレーザープリンターが原稿印刷の主力になった。もはやインクの出番すらなくなったが、カラー印刷だけはインクジェットプリンターが使われており、こちらは印刷精度の低さや印刷不良の多発という部分も含めて、なんとなく昔ながらの手作り印刷の空気が色濃く残っていたような気がする。

我が家にもカラーインクジェットプリンターは2台ほどやってきたが、インクコストの高さからあまり活用はされなかった。今では先祖返りしてキヤノンのモノクロプリンターが鎮座している。すっかり図体がでかくなったレーザープリンターだけれども。


今の大学生世代が自身の成長と歴史を共にした技術というと、携帯電話あたりになるのだろうか。個人的には携帯電話に対してあまり深い感情はないので、そういう思い入れの深い人が書いたケータイ論などを読んでみたい。外出先での通話と連絡メールくらいにしか使ってこなかった人間とはかなり違う意見があるのだろうから。
[PR]
by antonin | 2010-05-27 17:06 | Trackback | Comments(8)

輪廻~現代的な視点から

統計力学にも不可視な世界を前提とした妄想と言われた時代があって、まぁなんというか、そういう移り変わりというのはあってもいいのだろうと思う。

以前には私の勤務先とヨメの勤務先が直線距離にして100kmほど離れていたことがあって、そういう状況でムスメが生まれて、ヨメが難儀する姿を見てきた。そういう具合なのでヨメの勤務先も実家も近い今のロケーションに集合住宅の区画を購入して定住した。そういう具合で、コドモたちの世話の一部をヨメのお母さんにお願いしたりしている。

ムスメは私に似て段取りが悪く、反ゆとり政策を敷くヨメのもとでムスメはかなりストレスフルな生活を送っている。ヨメがムスメに対して苦言を呈する時には、そんなのできて当たり前なのになんでできないの、何度言わせるの、というような具合になることが多い。なんでかというと先天的な脳の造りの問題があるからなんだと私は思うのだが、そんなのは言い訳であって正しく気合を入れれば解決できる問題なのだと言われる。いわゆる甘え問題であって、そして半分は正しいのだけれども、半分は正しくないので、いろいろと厄介である。

そういう厄介の中で、ヨメは子供の将来を心配しているのだという。その心配による圧力の方がよほど将来の心配の種なんじゃないかと私は思うのだが、その将来の心配という強迫観念のような感覚をより強く持っているのが、ヨメのお母さんである。箸を持って立ち上がると転んで目を刺して死ぬ子もいるんだからやめなさい、というようなことを結構本気で言う。確かに医療現場ではそういう事例も報告されるのだけれども、確率的には限りなくゼロに近い。単に作法の問題でいいと思うが、1歳半でどの水準の作法を満たせばいいのかというのは難しい。

で、いろいろと話しを聞いているうちにわかったのは、お義母さんには幼くして死んだお姉さんがあって、そのお姉さんは母親が目を離した隙に煮えたお湯をひっくり返して、やけどで死んだらしい。そういう事件があって、ヨメのおばあさんに当たる母親はひどい衝撃を受けただろうし、なぜ小さい子供から目を離したのだということで周囲から責めの言葉を受けたこともあっただろう。そういう母親に育てられたのがお義母さんであって、その性格に強迫神経症的な部分が強いのも仕方のないことと思える。そういう母親と、苦労人の祖母に育てられたのがヨメであって、自分の子供に対してヨメが厳しく当たるのも、結果の善し悪しは別として、理解はできる。

私には妹があるが、妹が生まれたのは私が9歳の時で、それまでは一人っ子として過ごした。父には姉と兄がいたが、ともに離婚して独身だったので子供がなかった。母はやはり一人っ子だった。母が生まれた辺りは母が1歳になったばかりの頃に東京大空襲で焼けてしまい、その後家族は各地の親戚を転々として過ごしたらしい。そういう事情で、私にはイトコというものが一人もいない。小さい頃には兄弟もいなかった。自宅は賃貸マンションだった。そういう、かなり現代的な文脈で私は育った。私は気が利かない方で、頑張って気を利かせるとたいがいが裏目に出るのだが、それも私と両親それぞれの生育歴まで含めると仕方のない部分が多い。

そういう具合で、ある人の精神の土台には、その人を育てた精神というものが当然に影響する。これは再帰的なものであり、祖父母の影響というものが当然に発生する。間接的には教師なども影響してくるが、やはり根本的な性格の部分に影響するのは幼児期に育てた人物の精神だろう。それはだいたいが血縁者ということになるが、多産多死できょうだいが多かった時代に比べて、少産少死の現代ではその因子になる人物もより限定的になってくる。さらに地域社会が融け出して核家族が子供の精神世界の過半を占めるようになってくると、その影響は更に強くなってくる。

そういう意味で、現代というのは血縁者の人生で起こった精神的なイベントの影響が、世代を超えて子や孫の世代に伝わる程度が、実は過去の封建的な、高速交通が発達していなかった村社会に匹敵するほどに、強い時代なのかもしれないと感じる。

農耕型の村社会では、例外的に活動力の多い人物を除くと、人は生まれた土地からほとんど外に出ることなく一生を終える場合が多かった。そういう社会では当然に、ある人物の精神は両親を含めた血縁者祖先の影響を代々、少しずつ変化しながらも受け継いでいる。先祖崇拝は当然であるし、先祖の精神が形を変えて生き残っている場というのが、現に生きている子孫の精神の中であるというのも当然の考え方だっただろう。それを比喩的に言えば、道祖神とか輪廻転生ということになるのだろう。

やけどで死んだヨメの伯母であるとか、戦争で死んだ私の大叔父であるとか、そういう人達の霊魂が存在して何かをしているということは考えないが、そういう人達の死が生き残った人たちの精神に影響を与えたことは間違いのない事実だし、その影響が子育てを通じて今の自分やコドモたちに伝わっているということもまた事実だろう。そういう影響が隔世遺伝的な先天的特徴も手伝って色濃く再現する場合があるとすれば、そういうものを輪廻転生と呼ぶことも、比喩としては妥当な範囲だろう。

今まさに育ちつつあるコドモたちの精神に、私を含む祖先の精神の再帰的影響が刷り込まれていく現場を、私は日々観察していることになる。

そういう精神的痕跡の伝達というのは本来家庭という場で発生するものだが、かつては村社会という少し大きな場でも起こっていたのだろうし、現代では学校の教室という人工的な高密度空間で起こっているのだろう。そこでは教科書を通じて、時の政府が受けたトラウマのようなものが、親の知らない間に直接的に子供たちに受け継がれている。愛国主義にしても反国家主義にしても、近代日本人の精神には学校教育を通じて刷り込まれた国学者や無政府主義者の亡霊が刷り込まれているのだと、比喩表現を使えば、そういうことになるのだろう。

そういった影響を否定しても否定しきれるものではなく、自分の心の深いところにあるそういう感覚との対話を地道に繰り返していくしか、精神的な苦しみからの開放はないのだろう。それを輪廻からの解脱と呼ぶことも、まぁ可能なんじゃないかと思うようになった。

こういう個人的主観に基づく一見合理的な解釈がオカルト世界にまで及ぶというのは、あんまり健全な感じはしないのだけれども、そういうものに接近せざるを得ないような現実的状況に留め置かれたという事情もあって、やっぱり仕方が無いんだろうとも思っている。中道が守れれば、あまり実害もないだろう。リアリズムにしてもスピリチュアリズムにしても、何事も極端になってしまうからよろしくないのだと、先人たちは語っている。
[PR]
by antonin | 2010-05-27 12:34 | Trackback | Comments(0)

星新一・チャップリン・バッハ

星新一さんの作品を収めた文庫本は、中学生時代にずいぶんと楽しませてもらった記憶がある。物語そのものはほとんど忘れてしまったので、今になって読み返してみればまた新鮮な楽しさがあるはずなのだが、未読の山に押されてショートショートにまでは手が出ない。

その星新一さんは、小説家にとってはある種迷惑な存在なのだという話を目にした。というのも、フィクション作家なら誰しも思いつくようなストーリーの基本骨格を、ほとんど骨格のまま千本も出版してしまっているから、構想した基本骨格に細かい修飾を施して一編の小説にする作家としては、あらぬ盗作の疑いを掛けられてしまう危険性が高く、したがって実に迷惑な存在なのだという。

しかしまぁ、基本骨格が同じだからといって作品の価値が下がると考える傾向があるのだとしたら、その傾向の方がどちらかというと間違っているような気がする。しかしそれが世間の常識なのだとすると、世間の常識に異議を申し立てたところでどうしようもないのだが、似たような状況はすでに音楽の世界では起こっていたりする。

というのも、現代の音楽のほとんど全てが、言ってみればバッハの作品の変奏曲のようなものになってしまうものらしい。楽器編成とかリズムの取り方にはいろいろなバリエーションがあるが、基本的なメロディ構成はほとんどバッハが骨格として作品に残してしまっているので、テクノだろうがレゲエだろうが、基本骨格としてはバッハの何かしらの作品と共通のものを持っている可能性が高いのだという。

これにはある程度仕方のない理由があって、というのもバッハの生きた時代というのは、現代音楽のほとんどが利用している平均律の誕生した時代だった。それまで使われていた純正律やピタゴラス律という、技術的な制限の強い調律法から、ほとんど無限の自由がある平均律に移り変わる最初期に当たった。そういう自由度を、最初に、かつ最も深く理解したのがバッハだと言われている。私は音楽的な詳細はわからないのだけれども、考えうる作曲の基本骨格はバッハの手によってほとんど絨毯爆撃されてしまっているらしい。

そういう、カンブリア爆発にも似た自由度の急激な拡大と多様性の爆発が、バッハの作品の中に存在するらしい。カンブリア紀のあとには生物種のバリエーションは落ち着きを見せるのだが、音楽でも同じように、平均律爆発のあとはバッハ自身もブランデンブルク協奏曲のようなイタリア的バロック音楽の典型を作曲するようになる。

昔は「だれそれの主題による変奏曲」という作品は当たり前に存在していたのだし、今でもカヴァー曲というのか、編曲と演奏を変えた音楽というのは数あるのだから、「星新一の主題による長編小説」というのがあっても一向にかまわないような気がする(タイトルはそれなりのものを考える必要があるだろうが)。文芸の世界ではそういう具合にはいかないのだろうか。

映画の世界でも似たような爆発点が存在する。写真フィルムの製造技術が高まり、尺の長いフィルムが生産されるようになると、連写写真から活動写真が生まれる。そして映画のスタジオ撮影の基本技術が確立して作品的な自由度が急拡大すると、チャーリー・チャップリンのような才能が現れて、自由度を駆使した映画作品の基本骨格を量産するようになる。現代の映画作品も、やはり基本骨格はチャップリンによって総ナメにされているという。

という具合なので、日本語小説という世界にソフトSFという新分野が誕生して作品の自由度が急拡大した時期に、星新一という才能が現れて奇想小説の基本プロットがカタログ化されてしまうというのも、ある意味必然なのだろう。現代の音楽とバッハの音楽の共通点に素人が全く気づかないのと同じで、よく練り上げられた文学作品の基本骨格が星新一のショートショートと共通しているからといって、作品の創作性に傷がつくとはどうにも思えないのだけれども、現実的にはそうでもないのだろうか。
[PR]
by antonin | 2010-05-25 22:42 | Trackback | Comments(0)

言霊じゃ言霊じゃ

考えてみれば、「1日が30000時間あればいいのに」なんてことを連日述べていたことがあったっけなぁ。嗚呼、言霊よ、我今汝の力を得ん。そうか、1日が30000時間ってこんな感じなのか。夢が現実になってしまうと、まぁ実際こんなもんですよね。夢の30000時間を得て未読のページ数が減ったかというとそういうわけでもなく、だらだらとUNIQLOCKなんかを眺めています。そろそろ24時間に戻してもらってもいいよ。

言葉というのは、実際に耳や目を刺激してしまうと、その言葉の持つイメージが脳内で顕在化する。その現象は一時的なものとして消え去るのだけれども、その影響というのは意識下の深いところで論理の結線をこっそりとつなぎ替える。その影響は本人も知らないうちのその行動を変え始め、行動は環境に反射し、しかして思わぬ形で現実となって目の前に現れ出る。

輪廻とは、ある人が生涯で残した言動が記憶となって、世代を超えて人間の意識に影響を残していくということ。天国とは、故人の生前の言葉や表情が、残された人々の記憶の中で穏やかなものであるということ。地獄とは、それが憎々しいものであるということ。言霊とは、言語の持つ具体的なイメージが半強制的に人の無意識を染め上げる影響力のこと。そういう解釈をすると、迷信は迷信ではなく、高度な洞察を言語的に表現するための比喩表現というところに着地する。

もちろん、比喩を比喩として取り扱う人もいれば、極めてストレートに理解する人もある。後者は迷信と言えるわけだが、前者はなんと言ったらいいのだろう。

私は貪らず、しかし豊かになる。
私は怒らず、しかし尊厳を持つ。
私は誤らず、しかし畏れさせない。

そんな私になったらいいのに。毎日願い続けたら、私の無意識はそんなものまで現実に引き寄せてくれるものだろうか。
[PR]
by antonin | 2010-05-25 00:23 | Trackback | Comments(3)

連想もやもや

最近になって、「オノマトペ」という単語をよく目にする。擬音語とか擬態語とか、そういうものを指す術語らしい。たしかに日本語にはそういうものが多い気がする。「はらはら」とか「てかてか」とか、擬態といってもあまりリアリティのあるような感じでもない。ハワイのカメハメハ大王の名前は「カ・メハメハ」という区切りになっていて、この「メハメハ」というのが寂しい様子を示す形容詞、というか擬態語なのだという。これも日本語の擬態語に似たような響きがある。

フィリピンのセブに行ったときには、ラプラプという地元の英雄の像を見てきた。セブ島に隣接する有数のリゾート地であるマクタン島の中心市街はラプラプ・シティーといった。この英雄の名前が擬態語なのかどうかまでは調べがつかなかったが、どうもミクロネシア周辺諸部族の言語にはこういう構成の単語が多いような気がする。やはり島国の言葉である日本語の源流の一つにも、ひょっとするとこういう海洋民族の影響が残っているんじゃないかと夢想する。

国語学の用語に「上代特殊仮名遣い」というのがあるらしく、それによると、日本人が文字を使い始めた当初の日本語では、母音の種類が7,8種類はあったのではないかと言われているらしい。そういう面倒な母音構成をしていた上代日本語が、徐々に音韻変化を遂げて母音が5種類でオノマトペの多い現代日本語になった。ひょっとすると、稲作文化の影響を色濃く残す上代日本語が、文字の歴史に現れてこない島文化の日本語と交雑してできたのが現代日本語なんじゃないか。

そういう目で見てみると、奄美あたりの琉球方言では母音が3種類しかないなんていう話が思い出されて面白い。この地方では、「い」と「え」、「う」と「お」の区別があいまいで、これに「あ」を加えた3種類の母音で構成されているらしい。母音が7種類ほどあった弥生語と、母音が3種類しかない島言葉が融け合って、間を取って5種類の母音が残った、というのはあまりにも荒っぽい推論だけれども、場合によってはそういう過程があったんじゃないかと想像してみるのも楽しい。

そして、その融合の過程で日本語にオノマトペが定着したんじゃないかという想像も巡らせてみる。そういえば、いつか流行した島唄風の歌謡曲のタイトルは「涙そうそう」だった。大和朝廷の男たちは、その教養の証として漢文(真名)しか使わなかったようだが、女たちは女手とも呼ばれた仮名を使って、言文一致体の文章を書き残した。そういう流れから、漢文では書き表しようのなかったオノマトペが、徐々に文字の世界に上り始めたんじゃないのか。

肯定的でも否定的でもいいのだけれども、こういう疑問に答えを出してくれるような、国語学の雑学を簡単に教えてくれる新書などはないだろうか。おそらくそれらしいものはあるんだろうけれども、数千冊ある新書の山から狙った本を引き当てるのは難しい。まぁ当面は国語学よりもJavaScriptとかUnicodeの勉強をした方がいいんだろうけど。
[PR]
by antonin | 2010-05-21 02:37 | Trackback | Comments(0)

FinePix F70EXR

先日購入したコンパクトカメラでいろいろと写真を撮って遊んでいる。これまで使っていたFinePix F10をとうとう壊してしまい、CCDの接触が悪くてときどき画像が乱れるようになったので、新しいものを購入した。値段でいうと半分ほどまで下がっているのに、機能・性能でいえば格段に向上しているので、その変化を実感するのが楽しい。

FUJIFILM デジタルカメラ FinePix (ファインピックス) F70 EXR ブラック F FX-F70EXR GM

富士フイルム


上のリンクはブラックになっているけれども、購入したのは生産終了したブラウン。落ち着いていていい色です。

購入前の検討をされている方は、プロの意見をご覧下さい。

富士フイルムFinePix F70EXR - デジカメWatch

レビュー:高感度でも高画質なお手頃デジカメ――「FinePix F70EXR」 (1/4) - ITmedia +D LifeStyle

富士初の薄型高倍率ズーム機「FinePix F70EXR」、新機能の実力は? - デジタル - 日経トレンディネット

まず、全体的な印象。

・広角が27mm相当まで広がったので、スナップ写真が撮りやすい。
・なんといっても270mm相当の望遠は楽しい。
・マクロに強くなって便利。
・液晶がきれいになった。
・バッテリーが小さくなった分、こまめな充電が必要になった。
・格段に演算量が増えたな、という感じ。

どれもF70EXRの特徴というよりも、あくまでF10との比較という面が強いのだけれども、そこはご容赦を。

広角が27mm相当というのは、最近のミドルクラス・コンパクトデジカメでは一般的になっているスペックなので、24mm相当まで撮れる一部のカメラに比べると控えめだが、あまり広角過ぎると周囲の歪みが気になるので、景色を取り込んだ記念撮影に便利な28mm程度までカバーしてくれれば十分。従来の35mmでは、一歩下がって撮影しないと風景が入りきらないことが多かった。

270mm相当の望遠は運動会で使うくらいかな、と思っていたのだけれど、実際に使い始めてみると非常に楽しい。これまではデジタルズームでしか得られなかった景色の細部が、光学で寄れる。CCDシフト式の手ぶれ補正も入ったので、明るい場所であればそれなりの画像は手持ちでも撮影できる。細部まできれいに撮ろうとするとちょっと難しいのだけれど、そういう場合には高速シャッターで撮影したものを複数枚重ね合わせてS/Nを改善する面白い撮影モードを持っているので、動きの無い風景などを撮影する場合にはこれも使える。

手ぶれ補正があるので、手持ちでも高倍率時でそれなりの画像が得られるのだけれども、1000万画素ということもあって、ピクセル単位まで拡大していくと細部はさすがにブレている。そういう場合、屋外の風景などある程度の明るさが稼げる場面では、「高感度低ノイズ+手ぶれ補正」の場合よりも、「重ね合わせ補正+高速シャッター」の場合の方が、細部の描画がブレずにシャープな映像が得られる場合がある。けれども、必ずこちらのほうが良い結果が得られるとも限らないので、通常はオートで撮って、このモードは趣味的に望遠撮影したいときに楽しい機能という感じがする。

楽しいといえば、この複数画像の重ね合わせモードでは画像が一致する部分を検出してデータを積分しているので、多重露光のような効果が得られる。なので、わざと一部に動きのある場面を撮影したりすると、なかなか面白いことになる。回転する風車の写真や、道路の風景で走る自動車をとらえたりすると、その部分だけストロボ多重露光のような画像が得られて面白い。

F10では、最大の欠点として30cmより近い撮影では手動でマクロモードに入る必要があったり、マクロモードではAFにやたらと時間がかかったりして、とにかくマクロ撮影にはめっぽう弱いというところがあった。それがF70EXRではすっかり直っていて、被写体が近いと自動でマクロモードに入ってくれたり、マクロモードでもAFが特に遅いということもなく、植物の成長記録の撮影などは格段に簡単になった。花に止まる虫なども難なく撮れるようになった。

F10のもうひとつの欠点として、液晶の解像度が低すぎるという問題があった。これはF10のマイナーチェンジ版だったF11から徐々に改善が進んだのだけれど、F70EXRではそれなりの解像度とそれなりの画面サイズと、それから素晴らしい発色を得て、すっかりマトモになっていた。ワイドVGA液晶を搭載している携帯電話に比べるとまだ見劣りするものの、遠目にも画素のプツプツが見えていたF10に比べると大きく改善している。

それから、F10の長所として異常に大型のバッテリーを搭載しており、フラッシュ不使用時に連続撮影枚数500枚という恐ろしいバッテリー寿命を持っているというのがあった。泊まりの旅行でも基本的に充電器は持たずに出て、メモリーカードがいっぱいになるまでは安心して撮影できるというのがこのカメラの特徴で、今までの約5年間で、外出先でバッテリーが切れて撮影不能になるということは一度もなかった。

そういう、F10ではある意味やりすぎだったバッテリーサイズが、コンパクトカメラのコンパクトさを優先するという妥当な戦略に落ち着いたF70EXRでは、通常のスナップ撮影ペースで1日の運用に耐えるという程度になった。遊びで写真を撮りまくって、撮った画像の確認などをしていると2時間ほどでバッテリー警告が出る。まぁ、これで十分でしょう。旅行では充電器を持ち歩けばいいし、場合によっては1年くらいしたら予備バッテリーを買っておいてもいいかも知れない。

肝心の画質については、F10が銀塩風のアナログ風味で自然なノイズ処理をしていたのに対し、F70EXRではこれでもかというほどの画像処理演算が施されていて、フレーム全体としての破綻がないように高度な処理をしている反面、細部を拡大してみるとノイズフィルターその他もろもろのデジタルっぽい味付けが目に見えてしまう。けれどもこれは欠点というよりやはり長所であって、そういう画像処理の高度化とCCD配列の最適化が効果を発揮している。

中でも最大の改善事項は、ISO感度1600が実用レベルに達したという点だろう。これはノイズフィルターが高度化したためなのか、あるいはEXR方式の新CCDの性能のせいなのか、おそらくは両方なのだろうけれども、細部はともかく、L版プリントレベルではノイズも色ムラも気にならないレベルで撮影できる。F10のISO1600モードは偽色が目立ちすぎて、結局怖くて使い物にならなかった。F10のCCDは1/1.6インチだったが、F70EXRの20%シュリンクしたCCDのほうが、ISO1600でもF10のISO800並みの画質が得られる。

この高感度撮影もそうなのだけれども、オートEXRモードというのを使うと、最大解像度が1000万画素得られるものを必要に応じて自動的に500万画素に落として、代わりにS/N比やダイナミックレンジを改善する方向に振り向けてくれる。これのおかげで、何も考えずにバシバシと撮影しても「見られる」写真を得られる率が高くて面白い。屋外で晴れの日にコントラストの強い画像を撮るときに、白飛びや黒潰れが起こりにくくなっていて助かる。もちろん条件のいい時には自動で1000万画素にしてくれる。

一方で、モード判定やCCDのモード切り替えなどのオーバーヘッドが発生するためか、シャッターボタンを押してから実際に撮影されるまでのタイムラグが若干伸びた。実用上苦になるレベルではないが、画質はともあれシャッタータイミングだけは意のままになったF10に比べると、思ったタイミングで撮れていないというケースが増えた。まぁ、これが気になるようならEXRモードから通常のオートモードへ変更すればいいのだろうけれども。

最後に、演算量の増加とか液晶バックライトが明るくなったという影響もあってか、定格消費電力がF10の4WからF70EXRでは5Wに増加している。その上バッテリー容量も小さくなっているので、電力をムダにしないように気をつかう機会が増えた。その点F10では電池残量を気にしたことはほとんどなかったので、そこがほんのりとストレス。まぁこれは予備バッテリーを購入すれば解決する問題なので、いずれ買い足すことになるでしょう。ただ、純正と互換品で価格が倍も違うのが悩みどころ。

それから、メモリカード界のデファクトスタンダードになったSD/SDHCが使えるようになったのは便利。F10は本体で充電していたのが、F70EXRでは電池を取り外して充電するようになったので、充電を待ちながらメモリカードをカードリーダーに挿してデータを吸い上げるという使い方ができるようになった。SD系はスマートメディアやxDピクチャーカードのようにNANDフラッシュ・インターフェースむき出しという危険な仕様になっていないので、カードを直接取り扱ってもデータ破壊の心配が少なくていい。

これまで携帯電話に挿していた4GBのmicroSDHCがちょっと容量過剰という感じだったので、秋葉原で999円で買ってきた2GBのmicroSDを携帯電話に突っ込み、取り出した4GB microSDHCをSDアダプターに入れてF70EXRで使うことにした。4GBもあれば容量的に不足はないが、もし買い足すとしても安いmicroSDHCで済むので、これはありがたい。motionJPEGだと4GBで最大約60分撮影可能だが、FAT32のファイルサイズ制限から、連続撮影は最大30分ちょっと。まぁスチルカメラで30分も動画のノーカット撮影なんてしないですけどね。

F10では2GBのxDを使っていた。静止画には最初に購入した512MBで十分だったのだけれど、motionJPEG方式の動画容量が大きく、512MBでは7分40秒でいっぱいになって残り容量の心配をする状況だった。そこで余裕をもたせるためだけに2GBを買い増した。こいつは死にかけのF10と最後まで一緒に働いてもらう。まだ機嫌が良ければちゃんと撮影できるので。

F10の動画撮影中はズームもオートフォーカスすらも固定になっていたけれども、F70EXRでは撮影中のズームもフォーカスも動くようになって、撮影を開始してからのシーン変化に強くなった。AFの反応はちょっと遅いが、静止画撮影に力を入れてコストダウンしたこのカメラでは動画機能はおまけみたいなところがあるので、撮影中にあんまりズームを動かしたりしない方がいいんだろう。でも、撮り始めてからちょっと画角を修正したいという機会は多いので、機能があると無いとでは大違いなので助かる。

操作性では、ズームレバーやモード切り替えスイッチなども一般的なものに変わり、F10に比べるとかなり使いやすくなった。メニューもFinePixユーザーにはわかりやすい。ただし、フラッシュがF10では(撮影者側から見て)レンズ左上にあったのに対し、F70EXRでは右上に移ったので、男の手で持つと指でフラッシュ部分を隠してしまうことが何回かあった。両手で持つなど、持ち方を工夫すればなんとかフラッシュに指がかからないようにできるのだが、それでもときどき失敗する。これは純粋に慣れるしかないのだろう。

あと、一眼レフカメラなどの「ボケ味」を擬似的に作り出す「ぼかしコントロール」というモードがあるのだけれど、AFが狙っている距離から離れた被写体が写っている部分を画像処理でぼかすだけなので、なんだか不自然な感じ。花などの入り組んだ形状にはうまく対応できないので、食べ物写真など構図が単純な写真を撮らないのであれば、面白いけれども実用価値はない。ただ、ネットで見たところではこの機能を一押しする人もいるので、色々なユーザーがいるんだなぁという感じ。

最後に、F70EXRにはマニュアルモードがあるので、夜景撮影が楽しくなった。三脚夜景モードでだいたいの当たりを付けて、そこからマニュアルで露出をいじくって撮影していくと、いろいろな画像が得られて楽しい。開放時間が2秒を超すと熱雑音が目立ち始めるが、逆にコンパクトカメラでそういう領域まで遊ばせてくれるというのが楽しい。最大で8秒までだが、1万5千円のコンパクトカメラとしては頑張った方でしょう。

そういう感じで、デジタル一眼には経済的に手が出ないオヤヂの趣味としては、大変楽しめる一台であります。新機種のFinePix F80EXRのほうも、若干機能が追加されたマイナーチェンジ品なので、絵作りとしては似たような性能を持っているんじゃないでしょうか。

FUJIFILM デジタルカメラ FinePix F80EXR シルバー FX-F80EXR S

富士フイルム


[PR]
by antonin | 2010-05-19 12:22 | Trackback | Comments(0)

花と種

昨日はヨメの誕生日だったので、窓辺のバラの枝を何本か刈り取って、花瓶に生けてみた。

b0004933_10385198.jpg


当日は風が強くて、きれいに開いた花が擦れて少し傷んでいたのが残念。でもまだまだつぼみがたくさん残っているので、もうしばらく花が楽しめるだろう。

b0004933_10553051.jpg


種を蒔いておいたバジルと日日草も芽を出した。双葉が虫に喰われたりしていて予断を許さない感じではあるものの、種の数もそれなりにあるのでなんとかなるだろう。

b0004933_10525878.jpg

b0004933_10532042.jpg


新しいカメラを手にして、いろいろと写真を取ったので、久しぶりにこのタグを使ってみた。カメラのネタはまた別途。
[PR]
by antonin | 2010-05-19 10:58 | Trackback | Comments(0)

問答無用

ネットでは「炎上」とか「祭」ってのが昔からよく発生しているが、これは、メディア化した個人によるメディアスクラムなんだろうなぁ、というようなことを、ちょっと思った。新聞や雑誌やテレビによるメディアスクラムは、メディアスクラムという単語が発生する以前から起こっていたわけだけれども、それが2ちゃんねるや有名ブログなんかの「視聴率」の高いサイトでネタ化されることで、ネット上の個人によるメディアスクラムが発生しているという。

旧来のメディアに属する評論家はネットスクラムを、ネット上の個人はメディアスクラムをそれぞれ批判するのだけれども、性質としては似ているような気がする。お互い様だろうという感想を超えて、なんだか人間の本質的な何かに根差した現象なんじゃないかという気がしてくる。魔女狩りや異端審問なんかも、そんなようなところがあったんじゃないだろうか。

ある発言の後ろには、長い長い前提条件というのがあって、その文脈を知っていると、なんとなく納得してしまうのだけれども、そういう文脈から切り離して特定の発言だけを切り出してみると、それがなんだか非常に悪質なものに見えてしまう場合がある。ちょっと珍しいパターンとしては、それなりに平凡な気付きを述べているだけなのに、文脈から切り出すことによって素晴らしい金言のようになってしまう場合もある。

毎日が取材と編集の日々であるマスメディアのスタッフには、取材される個々人の背景にまで気を配る余裕はない。仮にそれができたとしても、読者にはそれができないわけで、売れる記事にするためにはあえて無視する必要というのも出てくる。同じように、毎日ネットのネタを眺めている個人には、ネットに現れる全ての発言の背景にまで気を配る余裕はない。仮にそれができる人間がいたとしても、その発言は勢いの良い流れにかき消されてしまう。

個人が大勢に流されないためには懐疑的態度が必要なのだけれども、勢いに乗って事を成し遂げるには、懐疑よりも迷いのない確信と、それに安直に乗ってくれる大衆の力が必要になったりもする。たった一つの真実は、大抵の場合は人間には手出しができないくらいの複雑さを持っているのだけれども、人間が瞬時に判断して事態を切り開くには、真実に対して思い切った単純化をする必要がある。

鈍重で軟弱な正しさと、軽快で強硬な単純さを比べると、強さで言えば短期的には確実に単純さの方が強い。善は善で悪は悪、疑う余地がないほど単純な強さが増す。複雑な背景があって単純には判断できないと言うばかりでは結局何もできないわけで、どこかで思い切りよく単純な論に乗ることが必要な場面というのも、やはり現実的にはあるんじゃないだろうか。間違いなら間違いで、あとで反省するしかない。
[PR]
by antonin | 2010-05-19 01:13 | Trackback | Comments(0)


フォロー中のブログ
外部リンク
外部リンク
ライフログ
ブログパーツ
Notesを使いこなす
ブログジャンル