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ホメオパシーについて

しばらく掛かったが、ようやく書く気が起きたネタ。

--

安敦誌で書き始めた頃の記事に、ホメオパシーをネタにしたものがあった。なんか変なノリの文章になっているが、まだ文体が定まっていなかった頃なのでしかたがない。本来、どちらかというとこういう変なノリのblogを目指していたんだけど、お堅い文体で固定化してしまったのは、実は残念に思っている。

話が逸れたが、リンクを。

安敦誌 : 波動の系譜

ここで「いわゆる波動」と並んで取り上げているのが「ホメオパシー」で、つまりは胡散臭い文脈で登場しがちな単語とみなしている。確かに現代のホメオパシーは怪しい雰囲気が満点なのだが、本来はそんなに怪しい考え方ではなかったのではないか、という観点からちょっと書いてみる。

このホメオパシーという「療法」を開発したのは、サミュエル・クリスチャン・ハーネマンというドイツ人医師であるとされている。研究自体は連続して行われたのだろうが、一応明確な年代を記載したページをネットで拾ってくると、次のようなものが見つかった。

ホメオパシーとは?:ホモトキシコロジーのヤーパンヘール
 ホメオパシーとは、薬のように痛みを無理矢理止めるのではなく、 その痛みを引き起こす成分と同等の薬で人間の自然治癒力を高めるものです。先述の薬はアロパシー逆症療法ともいい、現代西洋医学は アロパシー医学の典型的なもの。熱が出たら解熱薬、便秘には下剤など、出ている症状と反対の効果があるものを投薬する治療法です。

 これに対してホモトキシコロジーは、類似療法と呼ばれ、1810年にドイツ人医師のサミュエル・クリスチャン・ハーネマンによって開発された治療法です。

というわけで、だいたい1810年頃に提唱された療法だということらしい。この時期は重要で、現代医学でも有用な医学知識として定着しているワクチンがエドワード・ジェンナーによって開発されたのが1798年となっている。

天然痘 - Wikipedia

ワクチンによる療法というのは、弱毒化した病原体を健康体の人間に接種することにより、病原性の細菌による感染症に対する防疫を事前に行うというものだった。当時はまだパスツールによって病原体としての微生物が発見される前だったので、「天然痘に似ているが病原性の少ない病気にかかることで、人体に天然痘に対する抵抗力が生まれる」という現象面しか分かっていなかった。この考え方を拡張していくと、人体には弱い毒によってその毒性に対する防御体制が発現するのではないかという仮説を考えることができる。

そして、1810年である。天然痘以外にもこの拡張されたワクチンの考え方を実験してみようとした医師が現れたとしても自然な流れであるし、この当時としては決して「トンデモ」系の発想ではなかったのだろうということがわかる。ただ、ジェンナーのワクチンほどにはハーネマンの弱毒投与による防疫が劇的な効果を上げることができなかったと見え、この弱毒による耐性獲得に関する研究は医学会の主流から外れていく。

そして気が付くと、医学会から見捨てられた弱毒防疫はホメオパシーという民間療法としてかなり非科学的な形で理論が確立し、そして草の根で普及していった、というような展開だったのだろう。現代の「レメディ」と呼ばれる極端に薄められた毒液を用いるホメオパシーの理論系統はそんなに分岐してはいないようだが、おそらくヨーロッパあたりにホメオパシー中興の祖といえる人物があって、そのあたりに源流を持つ理論が日本にも入っているのだろう。

本来的に考えれば、ホメオパシーというのは健康な人間が予防的に取り組むべき医療だったはずだが、現代日本で観察されるホメオパシーの実践方法によると、熱が出てからレメディを飲んで「治療」したり、生まれたばかりで一番弱いはずの新生児にビタミンの代わりにレメディを飲ませたりして、理屈からしても妙なことになっている。

実際、人体には感染症に対する免疫機構の他にも、様々な外来刺激に対する防御機構があって、その多くは実際に刺激を受けてからでないと機能しない。例えば「日焼け」という現象があるが、これは皮膚が紫外線を受けると、DNA損傷の原因となり有害な紫外線が体内に浸透しないように、紫外線を吸収するメラニン色素を多く合成するために、皮膚が褐色に着色する。

しかしこの過程でも人体はある程度被害を受けているし、表皮細胞の分裂が活発になるために、老後にシワが増える原因になったりする。それでも強度の紫外線を受けて真皮組織などが損傷を受けるよりはマシだということで、人体は二三日ほどでメラニン色素を増強する仕組を持っている。適度な強度の日光を受ける日光浴は、避けることのできない紫外線刺激に対しては有効な防御策になる。

また、人体には自然界から食物などを通じて摂取する多様な有機化合物による毒性に対応する仕組も持っている。酒に含まれるエタノールなどのありきたりな化合物については専用の分解酵素を(下戸の人以外は)持っているが、それ以外の種種雑多な化合物を摂取すると、その多くの分解に関与する万能(とまではいかないが汎用的な)分解酵素であるシトクロムp450というものを肝臓に用意していて、これを用いて多くの有機化合物を分解して無毒化することができる。

このシトクロムp450も、この酵素が有効であるような化合物を低量で継続的に摂取していると、やはり肝臓の中に増えて耐性が亢進するようになっている。なので、この理屈で行くと、この手の分解酵素の生産を刺激するが、しかし中毒症状が起こらない程度の有機毒を継続的に飲んでいると、それを飲んでいない人に比べて、中毒が出るほどの量の毒物摂取に対する抵抗力が上がるということは考えられる。これはまさにホメオパシーの考え方と同じものになる。

しかしそれにしても肝臓その他の臓器は小さなダメージを受け続けるはずで、弱毒を継続的に摂取するメリットとデメリットを天秤に乗せて、トレードオフを考慮した予防をすることは必須と考えられるし、一直線に健康になるという性質のものではないことになる。もちろん金属毒などの防御機構が異なる毒物に対しては、同じ方法が使えるとは限らない。

この点はウィルスや細菌に関するワクチンでも同じような考え方が必要なのに、一般市民の中にはトレードオフの考え方がなく、白か黒かの極端な判断をしてしまって問題をこじらせているようにも見える。そういう一般知識に近い人々によって運用されているだろう療法が現代のホメオパシーで、そのためにいろいろな問題が発生しているように見える。これはこれで大問題なのだけれども、「インチキ」の一言でホメオパシーを切り捨てている側の人にも、似たような危うさを感じることはある。

善か悪か、真実か虚偽か。そういう白黒判断は強力な道具で、複雑なトレードオフを吟味すると、結果的には単なる優柔不断に陥ってしまう場合もある。それでもやはり、キレの良すぎる一刀両断の意見には、いつも違和感を持ってしまう。目の前のリンゴには微妙な色彩があるのだが、人間はそれを指して「赤い」と言い切らなくてはならない場面がある。ただ、リンゴが赤いと信じて疑わない人もあって、人間は厄介な問題を起こす。

「赤い」というものがたったひとつの何かであるという感覚は、実は人間の神経組織が持つ、基本的かつ非常に強力な情報処理機構の産物なのだろうという話に続くのだが、それはまた今度。

--

そういえば、ブログの書き込みごときを「記事」と呼ぶのをちきりんが嫌っていたが、なんでだろうと思って辞書を引いてみたら、「記事」は「事実を記したもの」との説明がある。そうだったのか。単に「記した事」だと思ってました。で、そのちきりんは「エントリー」という用語を当てているのだけれども、"entry"がどういう意味で使われているのか気になったので、これも辞書を引くと「(帳簿等の)記載」という説明が見つかる。ふーん。単に「(データベース等に)入力したもの」という程度の意味なのかもしれない。

ここで書いているような内容は「思ったこと、考えたこと」が中心なので、「事実の記載」とはちょっと違うけれども、まぁ考えちゃったのは事実なので、「…と思う」というのもある意味、事実の記載ということになりはしないか。なんだか面倒なので今後も「エントリー」という意味で「記事」という言葉を使い続けていこうと思う。より強力な異論がありましたらコメント等でお寄せください。
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by antonin | 2010-09-26 01:23 | Trackback | Comments(3)

ハイテク怪談ほか

夜の11時頃に、誰も居ない真っ暗なリビングで突然テレビの電源が入って、生活時間に適した音量で番組が流れ始めるという事案が数回発生した。

当初は、ムスコ2号がリモコンのボタンを乱打してオンタイマーが誤設定されてしまったというのを疑ったが、別にそういう設定はされていなかったし、自分で消した数分後に再び電源が入るという現象も発生したので、この線は消えた。

次に疑われたのは新入りのお掃除ロボットで、こいつは周囲のセンシングに赤外線を多用する。特に、充電サイトの位置検出に使う赤外ビーコンが充電サイトの上面に付いており、このあたりから放出される赤外パルスが偶然我が家のテレビの電源オン信号として誤検出されたのではないかという仮説を立てた。この充電サイトはテレビの正面に設置されているし、無人の部屋でテレビの電源が入るという怪現象が発生し始めたのもRoombaが設置されたのと同時期だったということもあって、一時は容疑が濃厚になった。

しかし新証言が現れ、Roombaが我が家に届く前に一度、昼間の留守中にリビングのテレビがやはり付きっぱなしになっていたのを、ムスコ1号2号のお迎えに来てくれた義母さんが発見したということがあったらしい。そもそも、隣の部屋のリモコン信号が誤動作の原因になったような初期の単純な赤外線リモコンならいざしらず、テレビメーカーコードやチャネル信号などを含むヘッダー信号を受信しない限り特定動作をしないようになったここ20年ほどのテレビでは、ランダムな信号がたまたまテレビを動作させる確率というのは限りなくゼロに近い。

ということで現在最も有力視されている仮説は、購入後10年を経たテレビの内部で誤動作が発生しているのだろうということになっている。まぁ近く暇を出される予定のテレビではあるので、消すときにはしっかりと本体の主電源を切ってしまえば問題は起こらず、これで当面をしのげばいいのだろうということになって、原因の特定作業は棚上になっている。

こういう程度の現象でも、ポルターガイスト現象の一種とかなんとか言って説明してしまうと本気で怖がってしまう人もあるかもしれない。幸い理系ぞろいの我が家ではそういうことにはなっておらず、家電って壊れるときは一気に来るのよねぇ、そういえば洗濯機がお風呂の水を吸わなくなったし、ちょっと見ておいてよ、という程度の話で済んでいる。

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「人間界」というような意味で"homosphere"という造語を使ってみたが、検索してみると同じスペルで大気科学の術語が既に存在していた。大気組成が水蒸気を除いて高度に関わらず一定の領域が、「均一圏」を意味するhomosphereで、地上からだいたい高度80kmあたりまでがhomosphereになるらしい。対義語は「異質圏」とでも訳せるような"heterosphere"で、およそ高度80kmを超える領域を指す。この領域になると、地上から遠くなるほど太陽輻射や宇宙線などの影響で主に酸素が分解される度合いが高まり、大気組成が高度に応じて変化するのでこのように呼ばれるらしい。

"homo"はラテン語では人間を指すが、ギリシャ語では「同じ」という意味になってしまうので、ちゃんとギリシャ語で人間を意味する"άνθρωποι"あたりの単語を使って"anthroposphere"というような単語を捏造する必要があった。ん、これもWikipediaに載ってるな。人類が関与する物質循環圏を指す、あまり一般的ではない用語らしい。

Anthroposphere - Wikipedia, the free encyclopedia

ちなみに「人類学」は"anthropology"というらしい。まぁまたムダ知識が増えたからいいか。
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by antonin | 2010-09-25 20:43 | Trackback | Comments(0)

妄想に近い雑談

「『区別できない』という能力」というタイトルでネタが浮かんだが、子守をしながら1時間ほど考えていたら頭が疲れたので後日。ホメオパシーについても少し考えていたが、やはり後日。もう少し躁に傾いたら「ぶどうたろう」の初回あたりを書いてみてもいいような気がするが、このタイミングで躁転というのはそれはそれで具合が悪いので、あまり計画に入れないようにしよう。

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今までC/C++に活動範囲を限定してきたが、久しぶりに手元のPCでプログラムを組んでみたら、C++を使ってみたところでボトルネックがプロセッサ周り以外にたくさんあって、思うようなパフォーマンスを出すのは案外難しいということがわかった。だったらC#なんぞでもいいんじゃないかという気がしてきた。JavaScriptまでいくとまた階層がひとつ違うのでなんとも言えないが、ブラウザに近いというのは別のボトルネックが潰せるような感じもあって、それはそれでいいのかもしれない。VBの性能に関わらず、Excelの機能に乗っかってマクロを書くと結構強烈な処理能力が得られたという経験もあって、そういうのって案外大事なんだと思う。

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そういえばFPGAどうしよう。Gollyのサンプルで見つけたメタピクセルを解析すれば、ピクセルデータを保持するラッチを環状のシフタなんかで囲むことで、逐次解釈ではなく同時並列的な2次元オートマトンをFPGA上に構成できるような気がする。そうすればセル数に対して対数ですらない定数オーダーの計算速度が得られる。これならプロセッサでは実現不可能なハードウェア実装ならではの性能が発揮できることになるが、それをHDLで記述しようとすると気が遠くなる。ボードの接続のために電子工作をちょっとやらなくてはいけないのも微妙に面倒。

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4ヶ月ほど逡巡していたが、そろそろ流通が細ってきた2.5inch Ultra-ATAのHDDを買ってみた。メインマシンになっているノート機のシステムパーティションを容量近くまで使ってしまっているので、無駄なアプリケーションの除去も兼ねてOSの再インストールなどをしてみれば済むのだが、どうせまたすぐに容量が足りなくなるだろうというのと、システムドライブを再フォーマットしてしまうと設定の復元が面倒ということがあって、どうせならドライブごと取り替えてしまうほうが楽だろうということで、結局現状120GBに対して320GBのものを購入してみた。ヒマができたら作業してみよう。

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ヨメが30分で即断したと言ってお掃除ロボットRoombaを買ってきた。今より収入の多かったときに携帯電話の買い替えを6年も我慢したのはなんだったんだろうかと思う。ヨメは私がスーパーへ買い物に行って5円分のポイントをもらい損ねると猛烈に悔しがるのだが、一方で時折こうした衝動買いをするので納得がいかない。まぁ動いているRoombaを眺めるのは楽しいので、これは別にいいのだが。エラーが発生すると英語で何事か言うので楽しい。ようやく21世紀的な生活になった感じ。

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ヨメ的には近くディジタル対応テレビを購入しようという計画があるらしく、かれこれ20年以上使っているテレビ台を破棄して、通販で新しいテレビ台を購入した。これを先日一人で組み立てたのだが、総計で100本以上の木ネジを回したので、今もまだ少し手首が痛む。このテレビ台を選ぶのに1ヶ月くらい検討したらしいが、肝心のテレビのほうは機種選定を丸投げされたので、コストに大きく跳ね返らない範囲で地味に動画処理プロセッサやスピーカーの質に凝る予定。しかしどこから予算を捻出しているのかわからない。

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マンションの管理組合総会がシャンシャンで終了。過去に務めた1年間の理事長経験については、細部が時効になってきたのでそろそろ書いてみてもいいような気がするが、単独で切り出すとあまり面白い話にもならないような気もして、何かの話のスパイスとして利用するのがいいのかもしれない。

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最近2年くらいかけてゆっくり読んでいた「この国のかたち」を、ようやく読み終えた。司馬さんの小説というのはまだ一度も読んだことがなくて、いきなりこのエッセイ集を読むというのはかなり変則的な入り方だとは思うが、結果からすると読んでみてよかったと思う。内容的には、司馬さんの文章を読んだ人々を通じて間接的に流れ込んできているか、あるいは情報の源流を共有しているために見覚えのあるような考察がほとんどだったが、それでも細部に面白い話が多くあった。そのうち妄想になって安敦誌にも影響が滲み出てくるだろう。

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読みかけリスト。並行的につまみ食いしている。

ローマ人の物語〈34〉迷走する帝国〈下〉 (新潮文庫 し 12-84)

塩野 七生 / 新潮社


沙門空海 (ちくま学芸文庫)

渡辺 照宏 / 筑摩書房


新釈 走れメロス 他四篇 (祥伝社文庫 も 10-1)

森見 登美彦 / 祥伝社


遅々としつつも読み進めているのはこのくらい。ざっと目を通して積み上げてあるものやリファレンス的に使っているものは列挙しきれないので内緒。

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「杮経」という遺物があるのを、文字コード関連の事案で知る。印刷のない時代には文書のコピーというのは手間のかかる作業だったが、功徳という動機付けによってその作業を委託するという方法を考えた人はなかなかの策士だったのだろうと思う。もちろん、書いて覚えるという実利は当然あるけれども。信徒を自認する者があんまりこういう事を言ってはいけないのだろうが、信仰の本質はもっと別のところにあると思っているので、これはこれでいい。古い経疏にも「勝慧」とか「下根劣慧」などという言葉が見えて、昔の人も今の人に負けないくらいのリアリストがいたのだなぁという、考えてみれば当たり前のことに最近になって気付く。

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さて、寝よう。
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by antonin | 2010-09-24 00:18 | Trackback | Comments(0)

軟弱でもいい、おとなしく育って欲しい

ワンパク坊主は日焼けして腕も黒いだろうに、「腕白」とはこれいかに、と疑問に思ったので辞書を引いてみた。
(古くはワンバク。「腕白」は当て字)子供がいたずらで言うことをきかないこと。活発に動き回ったり、わるさをしたりすること。また、その子供。浄、生写朝顔話「育ても下種(げす)の━ども」。「━盛り」
(広辞苑 第五版より)

うーむ。当て字か。由来を調べるも不明。ネットで調べても諸説あるというところまでしかわからず、はっきりとしない。

腕白(わんぱく) - 語源由来辞典

たまにはこういうこともある。調べればなんでもわかるというわけでもない。

ヨメがコドモたちを厳しく叱っているのを横で聞いていて、ハンバーグの古いCMの名ぜりふをもじってタイトルのようなことを、つい口走ってしまう。するとヨメは、おとなしく、なおかつ、たくましく育って欲しい、というようなことを笑いながら言うが、はたしてそんな虫のいい話があるだろうか、などと考えてしまう。

コドモたちの腕はこの夏にずいぶんと黒くなったが、都市部の生活で子供の腕白さを許容する度量を大人が持つというのは、案外に難しい。

都市というのは人間同士が生態系を作っていて、そういう人間からカネを集めてくることで衣食住を確保することができる世界になっている。自然界には自然界の厳しさがあるが、人間界には人間界の厳しさがあって、どちらが上でどちらが下ということはないのだろうという気がする。

ちゃんと働くなり、社会福祉システムにアクセスするなりしてカネを調達しなければ、"homosphere"であってもヒトは死んでしまったり子孫を残すことができなかったりして、その個体の遺伝子は淘汰されてしまう。野生の馬の子は生まれてすぐに立ち上がるが、都会の子供は騒いだり走ったり転んだりして体の動かし方を覚える前に、おとなしく椅子に座ることを覚える必要がある。そうでなくてはこの生態系では生きていくことができない。

ただなんというか、それでいて成長してから積極性などというものを求められるのも、なんだか矛盾した話なんじゃないだろうか、なんていうことを感じることはある。
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by antonin | 2010-09-23 01:57 | Trackback | Comments(0)

肉が少ないな楠ヶ国

そんな名前の力士はいませんが。

肉の多い大乃国 / 回文21面相 - 回文総合サイト - 上から読んでも下から読んでも同じ!

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アメリカのマクドナルド(あちら風に呼ぶとマクダノーズか)の密度分布を描いた地図を、ちょっと古いスラドの記事で見つける。アメリカの西部ってのは、今でも人が住むには厳しい大地なのか。ロッキー山脈があるからしかたがないか。

「今日の異口同音」的に「ロッキーのおいしい水」を検索すると434件のヒットがあって、そのトップにこういうページが出るのだけれど、

コトノハ - ロッキーのおいしい水

いったいいつごろのネタなんだろう。一応ページ情報では2009年3月22日となっているが、ネタが投下された時期と一致するんだろうか。

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景気には循環する性質があって、平均株価を見るとおよその傾向が見えるという話になっている。バイポーラーという循環する気質があって、ダジャレの頻度を見るとおよその傾向が見えるという話にもなっている。上げの時はそれはそれでいいのだが、客観的に見るとイカンことも少なくないので、指標を見ながら用心する必要がある。小説まがいの話を書くようになるとだいたい頂点にあって、仕事なんかしている場合じゃないなんていう気分になる。

ニートリトマス3原則 - Chikirinの日記

大丈夫なのかなぁ、という気がうっすらとするが、まぁ大丈夫なんだろう。

--

「自分」の上に「家族」とか「職場」とかすっ飛ばして「日本」とかが来ちゃうのはセカイ系の一歩手前なんじゃなかろうかと思うが、でもそういうのも楽しいんじゃないかとも思う。

実は人間に悪人というのはなくて、ある人は強いけれどもある人は弱くて、その弱さを第三者的に見ると悪に見えるのだろうというようなことを、最近は思っている。人は人に何かを期待するのだけれども、人の弱さのためにそうした期待に応えられないことを指して、悪と呼ぶのだろうと。

悪人正機という言葉があって、善人はまぁ人の世で幸せになるのだけれども、悪人はその弱さのために人の世では幸せにはなれないので、仏のような存在が救うしかないのだろうと。その救いが強さにつながって、その強さが善良さにつながるということも、まぁ一定割合であるのだろうと。

--

月齢を調べると14あたりで、明日が中秋の名月らしい。空を見ると確かに白い月がある。明日はまた写真でも撮ってみようか。

--

半日がかりでテレビ台を組み立ててみたり、ムスコ2号が口から血を吐いて救急車で運ばれてみたり、最近もいろいろあったけれども、案外なんとかなるものだなぁ、という感じに。

--

そろそろ言葉遊び以外にも趣味を見つけないといかんなぁ、という気はする。
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by antonin | 2010-09-22 00:06 | Trackback | Comments(0)

焼け石に打ち水

家に帰ってみると、ユーロが111円台まで上げている。ドルも85円台を回復している。となると円が一方的に下がったという珍しい展開なのだけれども、何があったんだろうと思ってロイターを読んだら、どうやら日銀が為替介入したらしい。へぇ。

これ以上放置できないと判断し為替介入した=菅首相 | 国内 | Reuters

ドル急反発、日本が6年半ぶり為替介入:識者こうみる | Reuters

最近の株価はほとんど為替相場の従属変数みたいな状況になっているけれども、こちらも9500円台まで回復している。今まで介入せずに今介入するというのは、一体なんなんだろう。よくわからない。まぁなんでもいいけれども、通貨価値をもう少し下げて、賃金が硬直してる人と流動してる人の格差をなんとかして欲しい。でも、いつまで強気の介入が続くんでしょうかね。

為替介入もいいけど、やっぱり国内でやるべきことをやらないと、効果が続かないような気がするんだけど。あと5年は思い切ったことできそうにないしなぁ。どうなるんだろうなぁ。
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by antonin | 2010-09-16 01:18 | Trackback | Comments(2)

大人の都合

「都合」という熟語に、「都」という字が含まれるのはなぜなんだろう。そんなことを思って、辞書を引いてみた。広辞苑電子版の説明によると、「都」には「すべて」という意味があるらしい。「都合3万坪」などと言う場合の「都合」という言葉の意味は「合計」と同じになり、こちらが原義になるらしい。すべてをあわせるのが都合ということになるらしい。

念のため漢和辞典の方でも「都」を引いてみると、おおざとが部首になるところからも場所としての「みやこ」が原義になるらしい。へんの方は薪を積み上げたところを象形したものなので、「都」という字は人が集まったところという意味らしい。ここから「都」には集まるとか集めるという意味もあって、転じて、統べるとか全てという意味もあるようだ。

都合が良いとか悪いとか言う場合の方の意味はどのあたりから来ているのか、辞書の簡潔な記述ではわからないのだけれども、諸般の事情を集め合わせたところ、というような意味なのだろう。

ついでに「具合」という言葉も似たような使い方ができるので、「具」の字も字典で引いてみると、「そなえる」とか「ととのう」というような意味が載っている。都合が良いというのは万事うまくいく場合で、具合が良いのは準備が整う場合、というのが、本来的な言葉のニュアンスの違いということになるのだろう。


本題に入るけれども、子供の世界観というのは大人から教えられた世界で完結していて、そこに少々の想像力で大人の予想をはみ出した理解が加えられた世界に生きている。大人でも似たような世界観の中で生きている人もいるようだけれども、多くの人は教えられた世界観では説明しきれない世界の本質を体験していて、体験した事実の羅列を想像力で適当に補完しながら世界観を構成している。

子供の世界観を大人が上から観察するように、大人の世界観を上から見下ろす存在というのは今のところ実在しない(か、あるいは神としてしか存在しない)ので、想像力が補完した部分の真偽というのは侃々諤々の議論になるばかりで、結論が出ることは少ない。

ただ、世界が必ずしも単純なものではないということを多くの大人は知っていて、子供に世界観を教えるときには、自分の頭の中でもまとまりきっていない部分までは説明することができず、もっと簡略化した世界観を子供には教えておく。そこで子供は当然に疑問を抱くわけだけれども、そういう質問には「そういうものだ」とか「大人になればわかる」などと言ってお茶を濁す。

子供に説明する世界観に出てくる因子よりは、実際の大人はより多くのしがらみに糸を引かれながら生きている。結果として、子供に説明した内容と矛盾するような行動もとることがある。もっと単純には、大人とは子供の管理者であることも多いので、管理の「都合」上「都合の良い」ルールを子供に押し付けてみたりするが、当の大人というのは、ある程度他人の管理を受けながらも基本は自分で自分を管理している部分が大きく、子供に押し付けたルールを「都合良く」無視して行動していたりもする。

そういうわけで、子供から見た大人というのは汚く見えるものだが、大人には大人の都合というものがある。管理されている平社員から見た経営層の振る舞いというものは汚く見える場合も多いが、おそらくそこにも同じように、経営者には経営者の都合というものがある。ただし、ここでももっと単純に、経営層は平社員よりもずっと自己管理の部分が多いわけで、単純に自分に都合良く行動しているだけという事例も多いのだろう。

自分で自分を管理する人が、それでも周囲の都合を優先して振舞っているとすれば、その人に何が正しいのかという信じるべき像があるはずで、その像が周囲にとっても望ましいものだということなのだろう。

自分自身にそういう理想像がある人間からすると、その理想通りに振舞わない人間に管理されるのは苦痛だろうが、自分自身がその理想像と同じように行動できるだけの信念を持たない人間が、上に立つ人間にだけそういう信念を要求するのは、あるいは無理な注文なのかもしれない。おそらく、上には上の都合があり、自分自身もそういう都合にまみれてしまえば、きっと同様に振る舞ってしまうかもしれないし、場合によってはもっとひどい振る舞いをとってしまうこともあるだろう。

子供の親にもなるとそういうことも薄々見当が付いてくるのだけれども、そういう都合の存在を理解するというのと、その都合に斬り込んで人を操縦するという地点の間には大きな隔たりがあって、まぁ自分の周囲の具合を気にしておくくらいが、今のところはちょうどいいのかもしれない。
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by antonin | 2010-09-13 01:57 | Trackback | Comments(0)

マクロコスモスとミクロコスモス

子供の頃、寝床の中で眠れずにいろいろな考え事をしていると、とても小さなホコリのようなものが突然視界をふさぐほどに大きなもののように感じられて、その小さいはずの物の巨大さに圧倒される恐怖で冷や汗をかくというようなことが、ときどきあった。

よく、星空を眺めていると宇宙の広大さに比べて自分の抱えている問題がなんて小さいんだろうと気付いて気が楽になる、というような話を聞く。けれども私にはそういう原因不明の微小恐怖というような感覚があって、人間が実は矮小な存在であると気付いてしまうと、どちらかというと何かに押しつぶされるような息苦しい恐怖感を覚えてしまう。

宇宙の広大さを考えると気が楽になるという人は、人間の体がひとつの受精卵から分裂した数十兆の細胞からなる複雑な生命の集合体で、人間の意識が100億個を超える神経細胞の連携からなる中央集権的な情報処理の産物であるということを知ると、国家など軽く凌駕してしまう大規模なシステムについての最終責任を負っているという厳粛さに、思わず気が遠くなったりするんだろうか。

脱線を続けると、赤血球という細胞の滅私奉公ぶりには頭が下がる。動物の体の厚みがある程度以上になると、空気または酸素を含んだ液体を送り込まなければ、体の奥の方の細胞の生存を維持できなくなる。哺乳類のような高度な動物になると、ヘモグロビンに酸素を結合させて体内を循環させている。鉄イオンを核に持つヘモグロビン分子はそのまま血液中に溶け込んでいるのではなく、赤血球の中に閉じ込められている。ところが、この生物個体全体の生存を握っている赤血球には、細胞核がない。

赤血球も他の血球細胞同様に骨髄で細胞分裂して生み出されるが、細胞が成熟すると、赤血球は自らの生存に不可欠な細胞核を抜き取って捨ててしまう。核の抜けた赤血球は球状から中心の凹んだ皿状に変化し、その身を折りたたんで毛細血管の中を進み、炭酸濃度が高く血中pHの低いところでは酸素を放出し、逆に炭酸濃度の低い肺では酸素を吸収する。それを平均120日ほど続けると、掃除屋の貪食細胞に食われて寿命を終える。

また、生体内のエリート士官であるT細胞の生涯も、かなり凄絶なものに見える。赤血球同様に骨髄で生まれるが、若いT細胞は胸腺に集められる。人体防衛軍である免疫システムの士官学校に相当する胸腺で、T細胞は敵味方の区別、つまり自己細胞と外来細胞の区別について教育される。この過程で落第した細胞は、敵味方の区別なく攻撃する危険な細胞になりうるので、この胸腺の中で死を選択することになる。この士官学校を生きて出たT細胞たちは、実戦を経て特定の外敵に対する後天的免疫能力を獲得しながら、人体の健康を維持する役目を果たしていく。

こうした献身的活躍をする細胞たちの行動を統御するのが、新生児段階で細胞分裂を終えると最大で個体寿命と同程度の寿命を持つ、神経細胞たちの役割になる。神経細胞は互いにネットワークを作って合議を行ない、外来情報を元にして筋組織や免疫組織などに向かって電気的あるいは化学的指令を発していく。

小規模な動物では即時的な判断しか行えないが、哺乳類では情報の入出力端から何段も奥まったところにある中枢神経系に、さらに奥まった大脳皮質がある。人間の理性的な意識は、大脳皮質の中でも最も入出力端から遠い前頭前野が司っていると言われている。神経細胞の配下にある体細胞の代弁者とも言える大脳辺縁系が司ると言われる感情の突き上げを受けながら前頭前野は理性的な判断を下し、辺縁系を説得しながらその先にある人体を操縦する。

そういう人間理性の判断によって、人体を構成する100兆の細胞たちの生存と時時刻刻の物質的豊かさなどが左右される。そうした情報システムのバックエンドに当たる大脳前頭前野にある情報処理を一人称的に見たのが自己の意識であり、意識と直結しないフロントエンド部分で行われる情報処理が人間の無意識ということになる。

私たちは体全体の健康のために、あえて苦しい運動を行ってみたり、あえて食事を減らしてみたり、場合によっては傷付いた組織を切り取ってしまったりする。これは上記の視点に立てば、人体という巨大組織全体の命運を預っている大脳の神経細胞たちが、総体の利益のために個々の体細胞たちの不利益を決断しているということになる。また場合によっては、特定の体細胞の利益のために総体の死をあえて選択することもできる。ピアニストなどが腕を切り落とすくらいなら死を選ぶというようなケースは、こちらになる。

と、まぁ、巨大な人間社会のしがない構成員だと思っていた私たち個人が、実は1万人の社員を抱える大企業よりも、1億人の国民を抱える日本国よりも、65億人の人口を抱える人間社会全体よりも、桁違いに大きく且つ複雑なシステムの支配階級という運命を生きていることが、医学や生理学の知見からわかってしまう。

そういう支配階級として、献身的な体細胞たちとの関係をいろいろ想像してみると、大規模な組織の支配階級に必要な感覚というものも、自ずと透けて見えてくる。個々の構成員に対する責任についての厳粛さを忘れないことももちろん必要なのだけれども、ある程度はその責任の重さを感じないで日常を過ごせる鈍感さもまた重要なのだろうということなどは、なんとなく分かってくる。

実際に何かの人間的組織の長になるということは簡単ではないけれども、想像力と少しの知識があれば、自分の体のことを考えてみるだけでも、実は似たような理解ができる。英雄や武将の物語を読むのが好きな男性であれば特に、現場に対する理解のない神経系や愚かな友軍に翻弄されながらも、盟友であるB細胞やマクロファージに助けられて、果敢に外敵の侵入から人体を守るT細胞を主人公にした免疫系戦記などを想像しながら簡単な生理学を学んでみるのも、あるいは楽しいんじゃないかなどと思う。

人体というミクロコスモスの物語はこのように面白いのだけれども、宇宙のようなマクロコスモスの物語も、寿命が1000万年程度の生命があって、自分たちの生活に適当な寿命になるような質量を持った主系列星系を渡り歩いていくというストーリーを想像してみるのも、それはそれで気が遠くなるような感覚があって楽しいかもしれない。そういう生命からは、人間が「生きている」ということが、果たして観測可能だろうか。
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by antonin | 2010-09-12 02:31 | Trackback | Comments(0)

知るということ

お釈迦さんが悟りを開いてからつくった教団に、その名声が高くなってから参加した、お釈迦さんと同じシャーキャ族から出家した若い人がいた。その人が、家を出る時に帰りを待つと言ってくれた美しい娘が恋しいから家に帰りたいというようなことを言った。それに対してお釈迦さんが説法をして、結局その若者は教団に留まった、なんていう話が仏典に残っているらしい。

けれども、お釈迦さん本人は結婚もして子供もいて、そしてその苦しみも知っていて、それから出家した。恋はいつまでも恋ではいられないし、女というのはいずれ老い、そしていつかは死んでしまう。そんな儚いもののために苦しむよりも、そのはかなさを知って欲望の火を消すことで苦しみを離れるべきだ、という教えを説くようになる。

物欲についても似たようなことを言っていて、お釈迦さんは王族の王子として物に不自由のない生活を送ってから、いずれ壊れたり手放したりしなくてはいけない物に執着するのは苦しみの原因になるので、これについても欲望の火を消すべきだと言う。健康や寿命についても然りなのだが、お釈迦さん本人は比較的頑健で、80歳くらいまで生きる。中道を説くお釈迦さんだけれども、極端を廃する中道を悟るきっかけは、その道の修行者も一目置くほどの厳しい修行や瞑想を実際に体験した結果だった。

何事も、体験せずに聞いて知るのと、自分で体験してみるのとでは、理屈では同じでも、実際の感覚としては全く違う。まだ何かを体験していない人に対して言葉であれこれ言うのは、ちょっと酷なんじゃないだろうか、という気が、つねづねしている。極めろ、とは言わないにしても、ひとまず経験してみるということは、それが良いことであっても悪いことであっても、特に若い人については何かしら意味があるような気がしている。

コドモたちを見ていると、日々新しい何かを覚えていく。脳のシナプスの数が増え続けていく子供では、何かを経験すると、かなり高い割合でそれを記憶していく。ところがこの歳になると、脳細胞やシナプスは、増えないというよりむしろ減っていく。だから、何かを経験しただけではそれがあまり記憶になって残らない。

ところが中には、何かを知ると、それまで別個の知識としてあったものが、実は裏側で意外な形でつながっているのに気がつくことがある。そうだったのか、という驚きに似た気づきはこの歳になってもあって、それまで関連していなかったものが関連付けられるようになる。知識に対する解釈が増える。そうすると、ふたつの知識だったものがひとつの知識になり、そしてできた隙間に新しい知識が収まる。そういう因数分解のようなことを繰り返して、記憶は少しずつ効率のよい形になりながら、量は増えないが質としては向上していく。

子供は知るだけで記憶していくこともできるが、大人というのは知るだけではダメで、そのことについて考えないと記憶として残りにくい。その考える過程で、現実とは食い違う解釈によって記憶を効率化してしまうような考え違いが一定割合で起こる。その割合というのは若い頃の思考に関する訓練の質によって異なるが、それでも年齢を重ねるに従ってそういうエラーの蓄積というものは進むし、記憶の効率化にも限度がある。

何でもいいので体験を繰り返して個々別々の知識を増やすべき年代があり、考えれば考えるほど知識の質が向上する年代があり、最後には体力と共に知識の量と質の低下を甘んじて受け入れるべき年代がある。どの段階にあるのかということを意識しないで人を見ると、方法を誤るのではないかという気がする。

何かを知るというのは楽しいことだが、知識が増えるものからつながるものに変わってきているということは、自覚しておくと何かと都合がいいのではないかと期待している。
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by antonin | 2010-09-07 21:47 | Trackback | Comments(0)

経済学について

学問には、大きく分けて二つの方向がある。ひとつは、絶対的な真理があって、一度その真理を発見すれば、不変であり普遍である真理に関する学説は揺るがない、というようなもの。これも学問の進歩によって定説が崩れることがあるが、それは古い説が間違っていたり正確さが不十分だったりしたためで、未知の真理を徐々に暴いていくという方向には変わりがない。物理学などはこの手の学問ということになる。

もうひとつの方向は、細かな知識や技術を作り出し、それを積み上げて体系化していくもの。あるいはそうして人間が積みあげてきたものに対する学問。ある時点で存在する知識や技術の限界がそういう学問の限界を規定するが、それは新しい工夫や発明によって書き換えられていく。古い知識は次々に陳腐化していくが、それは古い知識が間違っていたというわけでは必ずしもなくて、単に新しい知識の方が優れていたり、新しい技術が主流になったりして、古いものが必要なくなっただけということが多い。各種工学や法学はこの手の学問になる。

自然そのものが持つ性質、あるいは人間そのものが持つ性質などはそうそう変わるものではないから、それに対する究明というのは、古いものほど不正確で、新しいものほど正確ということになる。ところが、人間の作る知識や技術を積み上げていく工学や法律では、実際に使われていて利用可能な技術の体系や、実際に施行されていて有効な条文や判例の体系に学問そのものが依存していて、その依存しているところの技術や条文というのは、部分部分ではあるが、日々常に新しく書き換えられている。

こういう、変わらないものに関する学問と変わるものに関する学問という区別で考えると、経済学というのは変わるものに関する学問、つまり理学よりは工学に近い種類の学問なのだと思う。経済学とはカネに関する学問なのだけれども、それは当然カネにまつわる法律の影響を受けるし、カネにまつわる社会通念の影響を受けるし、カネにまつわる宗教道徳的信条の影響を受ける。同じ人間のやることなので大筋は同じ理論で通用するはずだが、各論ではそういういくつかの社会的要因の影響を受ける。

経済学の本場というのはおそらくアメリカで、日本からは数学的基礎の提供などを除けば、あまり本格的な経済学の業績というのは出ていない。もちろん、学問的なものではなくて実務的な実績を探せばかなり影響の大きなものも出ているとは思うのだけれども、国際的な影響力を持った学説というのは出ていないように思う。

そういう日本の経済学で、国際的な学会でコンセンサスの得られた学説がこうであるから、日本でこういう説を述べるのはバカなことである、というようなことを言う経済学者がある。まぁ私自身が経済学に詳しくないのであまりその意見の適用範囲というものが判断がつかないのだが、どうも、まだやってもいないことに対して既存の経済学を振りかざして結論が見えているというようなことを言っている危険性を感じる。

経済学が工学と同じものだとすると、現状の知識を利用して人間の限界や問題対処の定石を推定することは可能なのだけれども、工学が理学と違うところは、既存の技術を駆使して問題を解決するという方法の他に、新しい技術そのものを開発するという方法が使えるというところにあるから、経済学的コンセンサスなどというものも、法規制や人々の意識の変化などで前提からひっくり返ってしまう可能性も常に含み残される。上に挙げたような経済学者さんには、そういう経済学そのものが持っているはずの流動性が見えていないのではないかという気がする。

ではそういう人の言うことが間違いかというとそうではなくて、おそらくはその人が言っていることが正しい可能性が高いのだけれども、そうではない可能性もあって、つまりはやってみなければわからない部分が多分にあるのだろうと思う。現状の法律や企業の構成が全く変わらないという前提か、あるいは既存の経済学が持っている応答だけを社会が見せるとするならば、それは必ず正しいと言えるのだろうけれども、社会はもう少し複雑な要因をたくさん持っていて、しかも日本人はアメリカ人ともドイツ人とも中国人とも違う精神を持っている。

そういうことを言い出すと日本には日本独自の経済学が必要ということになって、そのためには精密な実証データや実験的試行錯誤の結果データなども必要になってくる。そのはずなのだけれど、日本の学問というのは蘭学漢学の昔から外来学問の研究に重点が置かれているので、現場はともかく大学などではあまり柔軟な仮説の積み上げというのは厚くないような印象がある。激しい勢いで変化しながら先行する欧米の経済学に追従するだけで精一杯、というように、門外漢からは見える。

マルクス経済学などというと、もう口にするだけで軽蔑されるような印象があるが、これも単にこの経済学が古いから、その後の取引手法や通貨法規、更には兌換制度の変更などもあって実情に合わない学問になっているというだけで、マルクスの主張した経済学が間違いだったということではない。もちろん一人の主張した学説なので、その全てが正しかったということはないだろうが、当時の経済情勢の分析としてはそれなりに正確なものだったのだろうなという印象がある。ただ、歴史観と革命思想については、やはり勇み足だったのだろうと思う。

ジェット機の設計にライト兄弟の設計を利用するのは間違っているが、舵を機首に置く設計はともかく、プロペラのデザインは今でも低速飛行では効率的なデザインのひとつとして残っている。主翼そのものをひねって操縦する技法も、グライダーなどで一部利用されている。飛行速度や積載重量よりも、滞空時間や低消費エネルギーなどを優先するというような社会背景の変化が起これば、ライト兄弟の設計からでも参考にできる部分はあるだろう。

間違いであると否定された、というのと、状況が変わったので必要とされなくなった、というのは異なる。同じ過去の知識の中にも、間違いであったと否定されたフロギストン仮説のようなものもあれば、扱いやすい内燃機関や電気機関の登場で忘れ去られた蒸気機関に関する技術のようなものもある。

経済学の立場からいろいろと言えることはあるのだろうが、この時代のこの国のために書かれた経済学の教科書というのは、当然存在しない。今はある程度は実験的に進めなくてはならない場面なのだろうと思う。対立する意見を聞けば、失敗する場合の悪影響というのもある程度は予想がつくのだから、失敗に対する備えも可能な範囲で用意してから、あとは思い切ってやってみるしかないのではないかと思う。

そういう意味では竹中平蔵さんは理論を実践に映す機会を得た希少な学者さんであるので、自分が正しくてその後の政権が間違いだったと主張し続けるよりも、経済政策のどこまでが有効に働いて、どこからが無効で、更には予想通りにいかなかった理由が学術的にどのようなものと推定されるのか、そういうところを全力で分析する必要があるんじゃないかと思う。まぁ、これは竹中さん本人のすべき仕事ではないのかもしれないけれども。

ともかく、まだやってもいないことを騒ぎ立てるよりも、これまでにやってきたことの影響を、良いことも悪いことも、予想通りのことも予想外のことも、冷静に分析して後世への知識として残していくことが経済学者の仕事なんじゃないかと思う。先のことは、とりあえずどこかに方向を決めてやってみたらいいんじゃなかろうか。まぁ、声のデカい人が少しはいないとアカデミックな学問は実務家まで届かないから、そういう意味では白か黒かの分かりやすい声明を出す人があってもいいんじゃないかとは、思う。
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by antonin | 2010-09-06 03:47 | Trackback | Comments(0)


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