安敦誌


つまらない話など
by antonin
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31
検索
最新の記事
アキレスと亀
at 2017-05-02 15:44
受想行識亦復如是
at 2017-05-02 03:26
仲介したことはあまりないが
at 2017-04-29 03:36
サンセット・セレナード
at 2017-04-12 23:17
水分子と日本人は似ている
at 2016-06-04 01:49
ほげ
at 2015-06-05 03:46
フリーランチハンター
at 2015-04-17 01:48
アメリカのプロテスタント的な部分
at 2015-04-08 02:23
卯月惚け
at 2015-04-01 02:22
光は本当に量子なのか
at 2015-03-17 23:48
記事ランキング
タグ
(295)
(146)
(122)
(95)
(76)
(65)
(59)
(54)
(45)
(40)
(40)
(39)
(32)
(31)
(28)
(27)
(25)
(24)
(22)
(15)
最新のコメント
>>通りすがり ソ..
by Appleは超絶ブラック企業 at 01:30
>デスクトップ級スマート..
by 通りすがり at 03:27
7年前に書いた駄文が、今..
by antonin at 02:20
助かりました。古典文学の..
by サボり気味の学生さん at 19:45
Appleから金でも貰っ..
by デスクトップ級スマートフォン at 22:10
以前の記事

<   2010年 10月 ( 6 )   > この月の画像一覧

偽善について

忙しい期間が過ぎて、雑念をまとめるだけの時間が取れるようになった。幸か、不幸か。

--

偽善というと非常に嫌な印象のある言葉だが、何度か書いているように、人はむしろ偽善的であるべきだとさえ思っているので、なぜ人は偽善を嫌うのだろうかということについて少し書いてみたい。

まず、偽善とは何を指しているのか。一般的にこの言葉は二つの意味で使われているように思う。ひとつは、表向きは善であることを標榜している行為が、当事者の隠された意図としては悪であることを自覚しているというもので、つまり善に身を隠しておこなわれる悪というもの。もうひとつは、表向きの言葉も当事者の本心も偽りの無い善意であるのだが、思慮が浅いために結果としては悪影響をもたらすというもの。

前者は詐欺や搾取に類するものなので、分かりやすいタイプの偽善と言える。後者は立場の違いによって見解が相容れないので、より厄介なタイプの偽善と言える。自ら悪と知りながら悪行をする者と、自ら悪とは知らずに悪行をする者ではどちらがより罪が重いかという問答が仏典にあるらしく、その答えは、際限を知らない分だけ知らずにする悪行の方が罪が重い、となっているというから、議論すべきは本心の善意から発する偽善の方なのだろう。

災害救助の募金を募っておきながら集まったカネを寄付せずに持ち逃げするのは、知って行う悪に属する偽善になる。「災害地で困っている人にできることがあります。このメールを一人でも多くの友人に転送して下さい」というチェーンメールの転送者になってしまうのは、知らずに行う悪に属する偽善になるだろう。知って行う偽善者を、知らずに行う偽善者が取り囲んで組織をなすという形態もあるだろう。一番問題になるのはこのタイプの偽善構造かもしれない。

ただし、本心からの善意に発する行為というものを、善と判断するのか悪と判断するのかということは非常に難しいもので、軽々しく偽善と批判したり、偽善という批判に軽々しく屈したりするのも問題であると思っている。

個人的に、善とか悪とかというものは、ある美的感覚に対してプラスに作用する行為が善、マイナスに作用する行為が悪、とみなしている。なので、ある行為や考えが善であるとか悪であるとかというのは、なんらかの美的感覚に依存するもので、同じ行為でも基準となる感覚によって善であったり悪であったり、あるいはどうでもよかったりするのだと考えている。善悪とは基準となる感覚に依存する相対的なものであって絶対的なものではない。

善悪にはそういう相対性があるので、ある感覚を基準に善であるものが別の感覚からは悪に見え、したがってあらゆる善は偽善に陥る可能性があるということになる。ただしこれは、同じような美的感覚を共有する人々からなるコミュニティを大きく外れた経験のない人には理解できない構造でもあって、問題は厄介になる。

善悪は美的感覚に依存するという考え方からすると、自分の美的感覚に照らして醜悪である行為が、別の人々の間では善行であると評価されていることに対するいらだちと、自分の美的感覚にとって醜悪なその行為が自分にも課されるという苦痛が、偽善が嫌われる要因なのだろう。

善悪が所詮は局所的なものでしかないという考え方からすれば、自分の感覚に基づく善悪の判断と、他人の感覚に基づく善悪の判断が食い違うということは、不快ではあるが受容しなければならないだろう。一方で、その善悪を行為として他人に強いる場合には、これはお互いに慎重さが求められるのだろう。移民を受け入れる際の苦痛というのも、こういう民族文化に根差した美的感覚の相違をどうやって共存させていくかということだろうし、近隣国家との軋轢も幾らかはそうした文化摩擦の面があるのだろう。

失敗をしたときに謝罪を先にすべきなのか弁明を先にすべきなのかというのは単に習慣と美的感覚の問題だが、事実関係や個別事情を明確にする前に謝罪を先に立ててウヤムヤにするのが偽善なのか、あるいは相手に対する思いやりの気持ちと事態を収拾させる努力を示す前に事実関係を述べ立てようとするのが偽善なのか、その判断基準はそういう美的感覚の違いに帰するのであり、そこは無視できない問題なのだろうと思う。だとすれば、その手の「偽善」に対する嫌悪については、甘んじて飲み込む訓練も必要になっていくのではないかという気がしている。

医師という立場を考えてみると、弱った人を賢明に救う人々と考えることもできるし、弱った人に対する優位を利用して利己的行為をする人々と考えることもできる。しかし、医師が得る権益と、市民が得る医療という利益を天秤にかけて、あまりひどいアンバランスが無いようであれば、そこに偽善を見出して排斥しようとして医療体制を損害することこそが、むしろ偽善ということになってしまう。

ペットボトルのキャップだけを回収することで寄付金を集めることが、エネルギー収支的にも物質収支的にも非合理な行動だとしても、その行動が広がることでペットボトルリサイクル現場の作業員が無数のキャップを外す作業からいくらか解放されているのだとすれば、キャップ集めのインセンティブを誰かが提示するのにも合理性があることになる。そうであれば、キャップの分別回収を偽善として排斥することが、ペットボトル本体の体積圧縮作業を破綻させるという、より大きな視点から見た場合の偽善行為になってしまう可能性もある。

人間の思慮には限りがあるので、誰かの意見と別の誰かの意見ではどちらがより良いのかという判断は、簡単にはできない。明らかな欺きや悪意のある偽善は別として、本心からの善意に基づく行為というのは、推し進めるにしても押しとどめるにしても、かなりの慎重さを要するのだろう。

ただし、そういう含みは残しながらも、結局のところ人は自らの美意識に照らして善いと思うことをしたいと思うように出来ているのだろうから、見方によっては偽善になるとは知りながらも、それでもやはり善と感じる方向へと進んでいくしかないのだろうという気はしている。
[PR]
by antonin | 2010-10-26 13:49 | Trackback | Comments(0)

夜想

なんか、Direct2DだQuartzだ言う前に、Pythonでいいんじゃねぇかという気がしてきた。日本人なら愛国心を発揮してRubyを使うべきところだろうが、Pythonの妙に潔癖なところは嫌いじゃないし、エグいコードを書くならPerlのほうが楽しそうだし、まぁどのみちLLというのはライブラリの質で決まるのだし、webよりスタンドアロンが好きならPythonじゃなかろうかというところに落ち着きつつある。エディタのTAB幅は4でいいんでしょうか。

暇だった頃にライフゲームを触ってグラフィックの伴うプログラミングをリハビリ運転してみたが、エピステーメー師匠がなんだか同じようなことをやっているのを発見した。

.NETでマンデルブロ集合を描く(番外編)(1/3):CodeZine

私の場合は「昔は遅いマシンで頑張ってライフゲームのプログラムを組んだ」「今のマシンなら劇的に早いに違いない」「・・・思った程でもないな」「x64のSSE2でも使うか」となったのだが、師匠の場合は「昔は遅いマシンで頑張ってマンデルブロ集合のプログラムを組んだ」「今のマシンなら劇的に早いに違いない」「・・・思った程でもないな」「OpenCLでGPGPUでも使うか」となって、演算方面では劇的な効果を得られたらしい。複素数だものな、あちらは。表示方面はまだこれからお勉強だそうですので、関心を持ってウォッチ。

--

いつの頃からか、PCで音楽を再生すると妙なイメージ映像が動くようになった。あの手のリアルタイム動画のほとんどはポップスとかロックとかその辺に合わせた作りになっているので、クラシックを再生したりすると間の悪いことになる。なのであまり表示させる機会はなかったのだが、素朴なスペアナ表示に近いモードがあって、しかも分解能がかなり高いので面白いことになっている。弦楽セレナードのように全て同種の弦楽器からなる音色のシンプルな合奏の場合だと、個々のパートが演奏している音が見えてしまったりする。

b0004933_17075.jpg


楽譜も読めないのにスコアを買ってみたりした頃があって、手許にチャイコフスキーの方のスコアが残っている。安敦誌の周辺には音楽に詳しい御仁もいるので下手なことは書けないが、第一ヴァイオリンや第二ヴァイオリンがスプリットする箇所などは確かにスペクトルのピークが分裂スプリットしているのがわかる(ような気がする)。

これがフルオーケストラになったりすると、基本周波数が同じ所に倍音比率の異なる楽器を複数重ねてきたり、シンバルみたいなブロードなピークを持つ楽器が鳴り出すと小さいピークが見えなくなったりして音符の解読は難しくなるのだが、それはそれで今度は楽器ごとのスペクトルパターンが見えて面白い。「打楽器の音色は雑音である」とうような旨が楽典にも書いてあるらしいが、それってスペクトルパターンの話ですよね。昔はPSGで乱数を二値音源に流し込んでノイズを作り、減衰エンベロープをかけてドラム音を作ったりしたものでした。

--

宇都宮にいた頃は11月に入ると帰宅時に車のガラスに霜が降りたものだが、今では電車の中で汗をかいたりしないように注意しないと風邪をひくという生活になった。その前に、今年の11月にはどこにいるものやら皆目見当が付かない。

--

古い知人の名前を検索していると、新聞社と宗教法人と芸能プロダクションの名前が出てくるのだが、どれもこれも、陰と陽の対比のきつい業界だな、という感じがする。

美しいものの周りには、美しさを求めて醜い欲を持った者が集まり、醜い者の周りには取り残されたような清廉さを見出すことがある。もちろんそればかりではなくて、陰陽表裏はコーヒーに浮かべたクリームのように複雑な濃淡を描く。

強い人間がいつも強いわけではなく、弱い人間がいつも弱いわけでもない。そこに、小さな渦が結んでは消える。

--

さて、明日は録画用のハードディスクでも買ってこようか。来月は倹約が必要になるだろう。OSの再インストールなど、手持ちの資産でチマチマした作業をするには良い頃合となるかもしれない。
[PR]
by antonin | 2010-10-26 02:04 | Trackback | Comments(0)

樫と狢

寝ようと思ったが、寝る前に少し。

--

小さな電子辞書の中に、膨大な情報が詰まっている。そしてその大きさの大部分は電源や入出力のための装置であって、本当に情報を記憶しているのは小さなシリコンチップでしかない。そういう独立した機器にもたくさんの情報が蓄えられているし、ネット上にはより多くの情報が公開されている。記憶容量としてはネット上の記憶のほうが段違いに大きいが、著作権という金銭面の制約もあって、その情報が電子辞書のものよりも上質であるとは言えない。

とはいえ、明確な事実についてはかなり簡単に手に入るようになった。むしろ、人間が処理しきれないほどの事実が次々に提示され、最近では事実の羅列に辟易するようにさえなった。よく調べられ確かめられた事実には高い価値があるはずなのだが、そういう確固とした事実には目を向けず、溢れ出てくる情報の受け止め方を変えてしまうような、変わった物の見方というもののほうをありがたがるようになってくる。

物の見方が変わったところで、検出する情報の種類が変わるだけで事実が変わるわけではないのだが、それまで見えていなかった情報が検出されるというのは愉快な体験なので、ついついそういう変わった物の見方ばかり追い求めるようになる。多角的視点といえば聞こえはいいが、3D映画を見て飛び出す映像に喜んでいるような感覚にも似ている。

変わり映えせず単調な見方で淡々と事実の羅列を提示されるのは退屈ではあるのだが、後世に評価されるのはそういう淡々とした事実の羅列の方であったりする。一定の視点から多くを眺めた成果であったりする。

退屈に耐える力というものがあるとするならば、それはある程度天賦の才と言えるのではないかという気がする。高いところから飛び降りて喜ぶ大人がいるが、その要因のある程度までは、子供時代に高い高いと持ち上げられては下ろされた楽しい経験が影響しているのだろう。それでもある種の研究によると遺伝子の繰り返し部分の長さが危険を楽しむ性格的傾向と相関があるという話もあるから、遺伝的な要因もあるのだろう。

退屈な作業を好む人間と、めまぐるしく新しいものを求めることを好む人間があって、それぞれに「継続は力なり」とか「変化する者が勝つ」とか勝手なことを言うわけだが、あえて不得意なことをさせようと強いるよりは、それぞれに得意なことをやって分担協力したほうがいいのではないかという気がする。

そういう気はするのだが、単極的な理想を描きたがるのも人の恒なので、まぁ、あまり期待しないでおくほうがいいのだろう。
[PR]
by antonin | 2010-10-17 05:09 | Trackback | Comments(0)

散財ほか

本邦のアナログテレビ放送も残すところ半年余りとなり、とうとう我が家にもデジタル対応のテレビが届いた。集合住宅なのでアンテナは早くからデジタル対応が済んでいて、BSと110°CSのIF信号も配信されている。BSはまぁ分かっていたのだけれども、CSのチャネル数に舌を巻く。ナショナル・ジオグラフィックとかディスカバリーなんかには惹かれるが、月極で契約するほどゆったりとテレビを眺めている余裕もないだろう。

テレビ周りの配線を一通り接続して映像を見ていると、画面のど真ん中に画素欠陥がひとつだけあって目立つ。液晶デバイスでは数点の画素欠陥は不良にカウントされないのだが、一応クレームを付ければ初期不良として交換されるのだろう。だが、この大きな物体を再梱包して送り返して交換する作業自体が面倒で、1メートルも離れれば認識不能の画素欠陥については、忘れてしまうことにした。

手持ちのDVDなども再生してみたが、案外見られる。スクイーズ記録されているので解像度は案外に高いし、最近の機種だからディスプレイ側でも高解像化処理のようなことをおこなっているのだろう。スピーカーの質は、悪くもないが別段優れてもいなかった。まぁテレビスピーカーがあまり高音質だと男性アナウンサーの声がズンズン響いて気持ち悪かったりするので、この程度でいいのだろう。ツイータがあって高音が強いので、オーケストラなんかを鳴らしてみると面白いかもしれない。

USB経由でハードディスクを増設すると録画ができるが、ちょっと秋葉原あたりまで出掛けてきたときに買う予定にしていて、まだこちらには手を出していない。けれども我が家には多数のハードディスクドライブが転がっているので、試しにノートPCに乗せる予定でいたUltra-ATA 320GBのドライブを接続してみると、難なく録画できた。アクセスランプの様子などを見ると、速度的にも特に問題はなさそうだ。2.5インチドライブはバスパワーで動くので、かえって楽かもしれない。でもまぁ、結局は筐体電源付きの3.5インチドライブを買うことになるだろう。円高だし。

数年前まではプラズマ前提で考えていたが、もう液晶でも動画性能は必要十分な水準に達していて、カメラマンが走りだして画面全体が動くような状況ならともかく、野球中継でピッチャーやランナーが動く程度なら問題ない映りになっていた。倍速液晶の効果ももちろんだけれども、情報量の少ない動体の後ろ側あたりのノイズ処理が相当頑張っているのだろう。たいしたもんだ。

あとはHDMIケーブルを買ってくれば、録り溜めてあったビデオカメラの映像なども本来の解像度で再生できる。カメラがハイビジョン化してからテレビがハイビジョン化するまでに4年も経過してしまった。まぁいいだろう。

エコポイントの申請が面倒だが、これも極限まで価格を絞ったのでしかたがない。下にリンクするAmazonよりは幾分安かった。年末商戦向けの新機種発表に伴う値崩れを期待したが、このクラスには後継機種が発表されなかった。3D関係の開発で忙しかったのだろう。

【エコポイント対象商品】 TOSHIBA LED REGZA 42V型 地上・BS・110度CSデジタルフルハイビジョン液晶テレビ 42Z1

東芝



退役になったアナログテレビの方にも引き取り手があって、余計な出費をせずに済んだ。今世紀はじめに3万円程度で買った記憶があるが、サイズの割には映像の良い機種だった。アパーチャグリルの間隔よりも細かいビーム解像度を持っていて、DVDの信号などを送り込むとモアレが発生するほどだったから、捨てるには惜く、ちょうど良かった。

--

義母に貸したままになっていた杉浦日向子さんの本が数冊、手許に戻ってきた。百物語の分厚い文庫本もあって、杉浦さんはどこかで百話目を話してしまったのかな、などと想う。皮がめくれ上がっていないから、これは死んでから切り落とした首だ、なんてことが分かってしまう女性というのは、日本中で何人くらいいるのだろう。

百物語 (新潮文庫)

杉浦 日向子 / 新潮社


[PR]
by antonin | 2010-10-11 02:01 | Trackback | Comments(2)

月より密かに

何も言わないというのは何も想わないというのとは違うのだけれども、何も言わずして何かを伝える芸があるわけでもなくて、それを誤解だというのは無理があるだろう。

金木犀は香るのだが、花を探すと見つからない。
そういうことはあるのだろう。
[PR]
by antonin | 2010-10-04 03:28 | Trackback | Comments(0)

南無阿弥陀仏

死後の魂というのは、それ自体が存在するのではなくて、ある人の死後に残された人々の中にある、その人の生前の言動の記憶にある。ATOKだったら叱られそうなほど「の」を続けてしまったが、ともかく、最近ではそういう解釈をしている。人々の記憶に分散している状態でもそれなりに存在はしているが、複数の人の記憶を寄せ集めて会話に上ったりすれば、記憶された人格はより活動的なものになって再現できるようになる。お盆に親類が集まって先祖の霊を迎えるというのも、同じ人物の記憶を共有する人々が集まって、年に一度くらいは故人の話をして記憶を呼び戻す儀式だったのだろうと思う。

それでどうなるというわけでもないが、長老になってしまった人々にも先輩のあった頃を思い出して厳粛な気分になる機会にもなるだろうし、間もなく死んでしまうだろう人にも、こうして死後も人の口に上るだろうという安心感を与えるに違いない。人が死んで無に帰すということは古代の人も一定割合で気付いていただろうが、実際に死に際して無に帰すというのは恐ろしい感覚だろうし、そういうものを薄めるための知恵として、死後の世界を演出するということは必要なことだったのだろう。あの世にも極楽と地獄があるとすれば、信じる人には善行をさせることができただろうし、そういう人ほど死に際して安心感が強くなるなら、一石二鳥というものだったろう。

人の脳の中にあって外面から見えないのが第一の魂で、西洋的な脳死の概念が人の死と定義するのも、この第一の魂ということになるのだろう。一方、人の言動を通じて周囲の人々の記憶に分散して残るのが第二の魂で、人の脳が機能停止に陥っても、その肉体の形や体温や、場合によっては骨の一辺が拠り所となって記憶が呼び出されることで生き続けるという、東洋的な精神というのはこちらの第二の魂ということになるのだろう。記憶が消えて無くなるのに要するのが、およそ三十三年という推量でもあったのだろう。

西洋的に内面を重視すれば、たとえどのような孤独な環境にあっても意識が鮮明でありさえすれば、その人の魂は生きていると言える。東洋的に外面に拡散した魂を重視すれば、肉体的な脳が停止しても縁者の記憶を通じて、骨にでも生前に愛用していた遺物にでも魂は宿って生き続ける。その一方で、肉体的には生きていても、周囲の人々の記憶から消え去り話題にも上らない人物というのは、生きながらにして死んでいるのと同じということになる。

年に一度も人の話題に上らず、人々の記憶からも徐々に消えている人というのは、どんなに健全な肉体と頭脳を維持しているとしても、東洋的な第二の魂としては既に死んでいて、徐々にニギタマに近づいていく存在になっている。こちらの方がむしろ東洋的な脳死というものに相当するのかもしれない。

人々の記憶に生々しい、活動的な人であれば死は恐怖だろうから、突然無に帰す即物的な生死観よりも、別世界ではあるけれども時間的に継続していく死後の世界を信じた方が、死に際して救いになるだろう。しかし、人の記憶に疎い、生きながらにして緩やかに死んでいる人にとっては、死後にさえ世界が継続するという生死観よりも、むしろ何も残さずきれいに消えてなくなるという死を信じた方が、むしろ救われるという場合もあるだろう。

学生時代に数式を理解できなかったという人には、その後に数式をほとんど目にしない人生を過ごすのも難しくはないが、人情が理解できなかったという人が、その後に人情をほとんど気にせずに残りの人生を過ごすというのは、非常に難しい。むしろ年齢を重ねるに従って人情がらみの厄介に巻き込まれていくことの方が多く、何かと面倒になる。

老いると頑迷になる人も多いのだけれども、そういう頑迷の背後にあるのがいろいろの喪失であると気付くと、いたたまれない気分になる。気付くのは気付くのだが、こちらがその喪失を埋め合わせるほどの強さを持っているわけでもなく、面倒は続く。

おんぼうじしった ぼだはだやみ
おんあみりた ていぜいからうん
[PR]
by antonin | 2010-10-03 22:07 | Trackback | Comments(2)


フォロー中のブログ
外部リンク
外部リンク
ライフログ
ブログパーツ
Notesを使いこなす
ブログジャンル