安敦誌


つまらない話など
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今日のスカイツリー

大三十日と書いておおみそか。もう工事も休みに入っていると思いますが。
b0004933_10215128.jpg

よく見ると富士とかアサヒビールタワーのオブジェなんかも写ってます。

それでは良いお年を。
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by antonin | 2010-12-31 10:45 | Trackback | Comments(6)

「区別できない」という能力

私たちの住む世界というのは、非常に大きくて複雑にできている。それを、私たち人間の小さな脳漿が、一部にしても理解できているというのは、とても神秘的なことだと思われている。脳が世界を理解するための仕組には様々な工夫と特徴があるが、そのなかのひとつが「区別できない」という能力なのではないかと、最近思っている。本来別個のものを区別せずにひとつのものとみなすことで世界を単純化し、小さな脳に多くの情報をねじ込む。ただしこの高度な能力のために、私たちは無意識のうちに「区別できない」という代償も払っているのだろう。

フリードリヒ・フレーゲが数論と集合論を結びつける鋭い洞察をしている。リンゴの実を3個集めて集合を作る。すると、集合{リンゴA,リンゴB,リンゴC}ができる。人を3人集めて集合を作る。すると、集合{アルバート,ニールス,マックス}ができる。同じようにして要素数3の集合がたくさん作れる。そうした性質を持つ集合すべてからなる集合が、自然数3の正体なのだという。個々に区別できるものから共通の性質を抽出し、そうしたもの全体の集合(外延)を作り出すことを、抽象化という。

アルバートもニールスもマックスも具体的な対象だが、そこから共通の性質を抜き出して、「物理学者」とか「男」とか「人間」とかいう外延を作り出すことが抽象化で、そうして作り出されたものが抽象概念ということになる。抽象概念を持つことで、個々別々のものに関する情報を共通化し、コンパクトにして記憶することができるようになる。抽象概念を持つことのもうひとつのメリットは、未知の対象に出会ったときにそれが何か既知の抽象概念に含まれるなら、その概念が持っている性質をその未知の対象も持っているはずだ、という推論が可能になるという点にある。

アルバート・アインシュタインは常識を「それまでの人生で収集した偏見のコレクション」と呼んだらしい。偏見を"prejudice"とも言うが、これは「先立つ判断」という意味のラテン語から来ている。つまり、対象について知る前に、およその判断がつくようになるという意味で、人間の「偏見」には実用的な価値がある。ただし「偏見」という言葉の実際の使われ方を見てもわかるように、この能力にはデメリットもある。抽象概念を使った判断を信用しすぎ、具体的対象について知ろうとしなくなる傾向が、人間にはある。この場合、偏見を持った人間は誤った判断を生みがちになる。

人間の脳の機構は完全には解明されていないが、徐々に多くの知見が集められている。その中の基本的なものに、脳とそれに連なる神経系は、神経細胞という特殊な細胞が連結して出来ているという知識がある。神経細胞にも多くの種類があるが、人間の意識を司っている大脳新皮質の神経細胞には、多くの入力シナプスと出力シナプスがある。そのどちらも別の細胞に連結されているが、重要なことは、入力信号の種類は接続元の細胞の数だけあるが、出力信号は1種類しかないというところにある。神経細胞は、多入力1出力の関数としてモデル化できる。

個々の神経細胞は、複雑な情報を受け取り、単純な情報を受け渡すように出来ている。そういう神経細胞が多数集まって、脳が作られている。神経細胞の中でも感覚器や運動器に近いものは信号の入口と出口が決まった一方通行のつくりをしているものが多いが、中枢機官では信号がいくつかの神経細胞をめぐって循環するようなネットワークになっていることが多い。

複雑な信号から単純な信号を作り出す神経細胞が循環するネットワークを作ると、そこには信号を安定化する働きが生まれる。脳が感覚器から複雑な情報を受け取ると、まず一方通行的なネットワークが不要な情報を落として情報を整理する。そうして伝えられた情報がバックエンドにある大脳新皮質まで届くと、しばらく複雑な信号のやりとりをしたあとに、単純で安定した信号パターンが残る。これが連想記憶によるパターン呼び出しという機構で、心理学的には「想起」と呼ばれる現象になる。

この連想記憶を利用して、人間は具体的対象を感知すると、その対象に関連する記憶をいくつか連想する。その中には抽象概念も含まれており、抽象概念の信号パターンと目の前の具体的対象の信号パターンが、また別の記憶を連想する。その動作が「先立つ判断」を生むのだが、多くの場合、呼び出された抽象概念を使った推論と、目の前の具体的対象の観察による推論は、細かい点で矛盾する。そういう矛盾が発生した場合、観察による推論が呼び出す連想記憶パターンが優勢になれば人は現実を受け入れるが、抽象概念による推論が呼び出す連想が勝てば、人は現実のほうを否定することになる。

むやみに目前の観察を受け入れてしまう人間は「馬鹿正直」と呼ばれ、それはそれで問題となるので偏見にも十分な理があるのだが、経験豊富で偏見も豊富な年齢になると、人間というのはだんだんとわずかな現実しか受け入れない偏屈になっていく傾向があるらしい。もちろん、これも抽象概念であって、現実にはそういう推論を否定するような「具体例」があふれているのだが。

私たちは、今読んでいるブラウザ上の文字であっても、紙に印刷された文字であっても、手書きされた文字であっても、経験的に得た抽象概念を連想することさえできれば、それらを同一の文字として取り扱うことができるようになる。場合によっては、区別ができなくなる。有名な文字のゲシュタルト崩壊という現象があるが、あれはおそらく、具体的な文字のイメージが抽象概念を呼び出す神経経路が、短時間に続けて刺激されすぎたために疲労反応を起こし、経路が不活化して抽象概念が連想されなくなったために起こっている現象なのではないかと思う。

書き言葉や話し言葉から抽象概念の呼び出しができなくなると私たちは読み書きができなくなるのだが、その便利で強力な機能の影には、それなりの代償を払っているのだということに気づく。ディジタルというのは、センサが観測する物理量を抽象化してから取り扱う方式のことであり、それがシャノンの定理をはじめとする強力なメリットを生むということは、最近のディジタルメディアの発展からも理解できるところだろう。そういう新しいイメージのために、人間が使い始めた最初のディジタル信号が「言語」であるということは、あまり認識されていない。

言語を使った論理的推論の連鎖は高度な学問を生み出す一方で、そういう学問が現実の受け入れを妨げて問題を引き起こすこともある。どのみち私たちの脳は無数にある具象を記憶しつくすことなど不可能で、どこかで抽象化の助けを借りなくてはならない。しかしそれはあくまで「区別できない」という能力なのであり、一定の代償を払い続ける機能なのだということを忘れないほうがいいのだろうと思う。

具象を抽象に割り当てるときに、キーとなる一点を見て判断する西洋方式と、全体を見て判断する東洋方式というものがあるらしく、それもまた非常に興味深い話なのだが、それはまた別の話にしておくことにする。同位体がなぜ同じ元素として取り扱われるか、などという話も含めようと思っていたが、うまく話の流れに入れることができそうもないので、これも別の話ということにしておく。
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by antonin | 2010-12-19 00:42 | Trackback | Comments(0)

シルクの耳ざわり

阿川弘之さんの「葭の髄から」というエッセイを読んでいて面白いものを見かけた。ちょっと引用してみる。
最近聞いた話。
某大学の文学部教室に、大きな帽子をかぶったまま講義聴講中の学生がゐた。
「帽子をとりなさい」教授が注意した。「うしろの者に黒板の字が見えないよ」
学生が答へた。
「とる必要はない。僕の個性だから」
 聞いて、腹が立つた。何が個性なものか。「個性尊重」といふ耳ざはりのいい合言葉を、何の疑ひも持たずに信じて、鸚鵡の口真似してるだけぢやないか。毛沢東の「造反有理」に心酔した一と世代前の連中も同じだが、合言葉を信用すること自体、個性欠如の証左とは気づかない此のお粗末さかげん。

葭の髄から 文春文庫

阿川 弘之 / 文藝春秋


とまぁ、旧仮名遣いで若造の狼藉ぶりを痛罵しているのだが、この文章の前後では女子高生のルーズソックスを醜悪だと言ってるので、つまりそういう時代に書かれたものになる。

ところで、以前、こんな記事を書いたことがあった。

安敦誌 : にほんごであそぼ

で、先の引用をよく見てみると、旧仮名遣いを自在に操る文士が若者批判をする中に、ちゃんと「耳ざはりのいい」という表現が出てくる。若者に苦言を述べる割には自分の言葉もアレだな、などと憎まれ口を利くつもりはなくて、なんというか、阿川御大もやはり私と同時代を生きる人に違いないのだなぁ、という事を思った。

現代日本に「耳ざわりの良い」という言い回しを流布したのは阿川弘之氏である、という仮説も考えられないことはないが、普通に考えれば、阿川氏が文章表現を身に付けた時代には既にそうした言い回しが使われていて、それが現代にまで尾を引いていると見るのが自然だろう。言語というのは水物なので、たとえ文学者といえども、生活の中で吸収する言語表現の中にはこの手の「誤謬」が必ず入り込む。

別の回では、二人か三人という意味の「にさんにん」という言葉を文章で書くときにどう表現すべきかという問題について書かれていたこともあった。こちらでも現代日本語の障害について語られていて、やはり同時代的な興味があった。「象が七八頭」と書いて78頭の象の大群を思い浮かべられてはたまらないので「象が七、八頭」と書いている、というような話だったと思う。

ところがこれも、算用数字で表現すべき数字を縦書きするときに、百や千という位を表す字を省略して漢数字の羅列で表記するという新聞記法あたりに原因があるらしく、戦前に出版された作品の原版を見るとやはり「二三人」とか「七八頭」という表記が当然に使われていたらしい。手許の「中島敦全集」でも確かにそういう表記になっている。阿川さんは書いていないが、個人的には「すうじゅうにん」というのを「数10人」と書く人があるのが気持ち悪くて仕方がない。

データとしての数字は算用数字で書いて、漢数字は日常語の表現に使ったほうが書く側にとっても読む側にとってもお互い幸せな気がするが、どの分野にも「歴史的経緯」というものはあって、そう簡単には解決しない問題なのだろう。

最近になって常用漢字が拡張されたというニュースを聞いたが、「当面の利用を許可された漢字」であるところの当用漢字という歴史的経緯から発したのが常用漢字であって、当用漢字や常用漢字に漏れた漢字が適当な漢字で代用されたという後遺症も日本語には多数残っている。今後は文字使用に関する拘束が緩くなって先祖返りしていくのか、それとも現代の日本語とも違った新しい日本語が再生産されていくのか予測はつかないが、未来の歴史がどのような決定を下していくのか興味深い。
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by antonin | 2010-12-14 00:21 | Trackback | Comments(2)

自虐史観について

世間一般で使われる語義でいくと、日本書紀に始まり、朱子学で味付けされて国学に仕上がった皇国史観こそが日本人の自尊心を高めるもので、対して戦後統治で押し付けられたところの東京裁判史観は日本人の自尊心を貶めるものであり、これを日本国自身が公立学校を通じて教育するならば、それは日本国と日本人にとっての自虐史観である、ということになる。その考え方というのは確かに理解できるのだが、自分自身の気持ちと照らし合わせて考えてみると、どうも直接には納得することができない。

私は敗戦から34年目の春に小学校に上がり、それから12年にわたり政府公認の東京裁判史観に基づく戦後教育を受けてきた。なにぶん子供であるので、正しいものとして目の前に提示されたものを批判的に受け止めることができず、それをそのままストレートに吸収することしかできなかった。そういうわけで、私の考えの根のところには東京裁判と日本国憲法をベースとした歴史観が横たわっている。

そういう教育を受けて、多感な高校生頃には平和のためなら殺人も辞さないほどの熱烈な平和主義者に育っていた。そういう平和主義の少年にとって、授業で伝え聞く日本国というのは、ある程度の矛盾を内包しつつも、やはり世界でも類例のない高潔な平和主義国家であり、東西の冷戦で軍備を拡大して疲弊する国々を尻目に、戦争を放棄しつつ目覚しい経済成長を遂げた、誇るべき祖国であった。

今では自分の中にあるそうした観念というものをある程度客観的に眺めることも可能にはなっているが、やはりどうしても論理と感情の間に介在するファームウェア的なものとして、その観念というのは今も動作を続けているように思う。そういう人間にとっては、平和主義は現実を知らない空想主義であるとか、大日本帝国が軍事力によってアジアを欧米列強の支配から開放したというような歴史観のほうがむしろ、自分が持っていた祖国に対する強烈な愛国心を蝕まれるような、自虐的な歴史観のように感じた。

もちろん、帝国陸海軍が快進撃を続けていると報じられていた時代に無垢な少年期を送った人間にとっては、同様に平和主義の称揚と戦争犯罪観念こそが愛国心を蝕む自虐史観と感じるということは理解できる。けれどもなんというか、どちらからどちらに振れるにせよ、子供心に刷り込まれた美学をのちに否定されるのは、何にしても自虐的な気分にならざるをえないのだということは、実感として言える。

歴史をいろいろ調べてみると、ある時代に信じられていた正義というのはどれも、どこかしら空理を含んだ観念であるということがわかる。一方で、哲学や心理学、生理学などを眺めてみると、人間というものは何かしらの観念を信じることなしには困難を乗り越えて生きられないということもまた、わかってくる。両者を突き合わせてみると、人間というのはなんと厄介な生き物なのだろうという結論しか出てこないのだが、まぁ、そこは時流の流れるままに任せるしかないのだろうという気分になっている。

自国の歴史の中にいくらか致命的な瑕疵があるからといって、直ちに自虐的な気分に陥らないよう、怒らず楽しくやっていけばいいんじゃなかろうかという気がするのだが、その実践の難しさもまた理解できるので、どうしたもんだろうか、などと思う。
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by antonin | 2010-12-11 19:29 | Trackback | Comments(0)

猫の耳に真珠

タイトルに意味はないんですが、なんというか、実際やってる人もいそうな感じはあるな。ネタを説明するのは無粋なんだけど、「猫に小判」と「馬の耳に念仏」と「豚に真珠」を混ぜたら、ちょっとオシャレめになった。

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「アレキサンドライト」という単語を思い出したのでネットで検索してみると、光源によって色が変わって見える宝石だということがわかった。おそらく子供の頃に学研の図鑑「岩石」あたりを見て名前だけ覚えたのだろう。

アレキサンドライト - Wikipedia

意味的には「アレキサンダー鉱」であり、アレキサンダー大王あたりに由来する名前かと思ったが、ロマノフ朝の皇太子アレクサンドル(のちのアレクサンドル2世)に由来するものだった。献呈自体は父帝のニコライ1世宛とのこと。光源によって色が変わるというのは、なにか蛍光作用でもあるんだろうか。

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蛍光といえば、最近我が家のインバーターシーリングライトが壊れた。開けてみると蛍光管自体は生きていて、インバーター基板上のヒューズが切れていた。基板には電解コンデンサー数個が載っていたので、おそらく経年劣化でショートでもしたのだろう。他の部品は劣化しにくい物が多かったので、電解コンデンサーとヒューズを交換すれば修理できそうではあったが、素人工事で火事を出したりすると非常に厄介でもあり、引越し前から10年も使っているということで、寿命とみなして新しいものを購入することにした。

世間ではリモコン式が主流らしいが、リモコンは子供がいじって肝心なときに見つからなかったりするので逆に面倒なことも多く、今回もひも式の安い製品を購入することにした。

NEC 蛍光灯シーリング (6~8畳用) 8LV111SG <33368>

NEC



ところが、この製品に同梱されている蛍光管がホタルックとか言う長残光タイプになっていて、スイッチを切ってもしばらく青緑色に光っている。蛍光灯のガラス管に塗布されている蛍光材は、ブラウン管式テレビで使われているような赤・緑・青の発色をする蛍光体を混合したものになっている。電球色の場合も赤の配合比率を上げてあるだけで、基本は同じである。ホタルックの場合、おそらく緑の蛍光体に長残光タイプを使っているのだろう。

長残光タイプの蛍光体というのは、昔のオシロスコープであるとかレーダー表示であるとか、変わったところではベクタースキャンのコンピュータディスプレイなどにも使われていたもので、電子ビームを照射して明るく光らせると、その後数百ミリ秒から数秒程度、減衰しながらも蛍光が残るタイプの蛍光体を指す。テレビやラスタースキャンのコンピュータディスプレイでは動きに強い短残光タイプが使われるし、オシロスコープも液晶ディスプレイを使うメモリ式が主流になってきて、最近では長残光ディスプレイを目にする機会も減った。昔はコンピュータディスプレイに信号を送り出すビデオメモリの読み出し速度が追いつかなくて、スキャンスピードを犠牲にしつつ高解像度を得られる長残光型のグリーンディスプレイなどもあった。

ホタルックはそういう長残光タイプの蛍光体を蛍光灯に使ってみたというアイデア商品なのだろう。NECといえば、かつて自前で長残光タイプのディスプレイを作っていた時代もあったので、そういうところから移ってきた人材が遊び心から作った商品なのかもしれない。ヨメなどはあの残光が気持ち悪いと言っていたが、コドモたちは喜んでいる。個人的には紫外LEDでも買ってきてホタルック管に向けて照射してみたら、オシロ的な輝線が描けて面白いかな、などと企んでいる。

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最近また電車に乗るようになったので、読書が幾分はかどるようになった。読みかけの「沙門空海」をようやく読み終えることができた。次は、やはり積ん読のままだった「移民と現代フランス」あたりにしてみようか。

沙門空海 (ちくま学芸文庫)

渡辺 照宏 / 筑摩書房


移民と現代フランス ―フランスは「住めば都」か (集英社新書)

ミュリエル・ジョリヴェ / 集英社



現在の東京も移民に準ずる人が大勢住んでいるが、その人口が10倍、100倍となっても現在の認識が通用するかというと、そういう事はないだろう。少数の人は既存文化に溶け込まないと生きていけないが、同質の文化を持った人がある程度の密度に達すると、独自の文化の中で生きていくことができるようになる。固溶体の相図とのアナロジーで理解できるような部分が、おそらく移民の数と質の問題にもあるのではないかと思う。

[材料の地図 「状態図」ってなに?]マテリアル・開発系
はんだマニアックス /A-1DRIVE
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by antonin | 2010-12-10 02:08 | Trackback | Comments(0)


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