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「バグダッド電池」説を擁護する

メソポタミア地方で発見された遺物が電池であったかもしれないという説があるが、久しぶりにネットで調べてみると、意外にも否定的な扱いを受けている。これでは面白くないということで、肯定的な情報をいろいろ集めてみた。古代に電池が発明されていたと考えたほうが楽しいじゃないか。そう簡単に否定してしまってはもったいない。

古代の遺構から電池のような物体が発見されたという話は知っていたが、それ以上の詳しい情報を知らなかった。ところが、「めっき」の語源を調べていたら偶然にこの「古代電池」の情報にたどり着いた。最近はネットサーフィンという言葉もすっかり使われなくなったが、そういうようなリンクをたどる旅があったので、その経路を再現しておく。

めっき - Wikipedia
ついでに「めっき」の語源説のひとつが挙がっていたので引用。
古くは滅金などといい、水銀に金を入れるとアマルガムとなって溶けて消滅する現象から生まれた和製漢語。

バグダッド電池 - Wikipedia

バグダッドの古代電池 - Skeptic's Wiki

バグダッド電池: 世界ふしぎ探検

このあたりの記述を読むと、この古代遺物の電池説は「現在では否定的な見方が主流」というような感じで書かれているのだが、どうも納得がいかない。

本当に呪力を求めるような巻物を収めた金属管をハンダ付けやアスファルト封止で保護しているとするならば、当然その巻物自体が高い確率で保存されていなくてはならない。しかしパピルス紙のような比較的保存性の高い物体が、これだけ厳重に守られた構造の中にありながら、土中の水分などで簡単に腐食してしまったという説明は苦しい。もちろん、何か呪術的な意味があって、故意に腐食しやすいような条件に置かれた巻物を封入したという可能性も否定はできないが、そのような仮定は電池説以上に無理があるものだろう。

異種金属を絶縁性のアスファルトで支持している構造にしても、内部に腐食の跡が見られる点にしても、電池説の裏づけとしては非常に強力なものであり、この程度の反証で電池説を否定してしまうのはあまりにももったいない。上記リンク先では、金属管内部からパピルスの繊維痕が見つかったことと、紙と青銅のロール状遺物が見つかった点をもって、電池説を否定する材料としているが、ある程度電気化学の知識がある立場からすると、これは電池説を否定する材料というよりも、むしろ電池説を補強する材料として読める。

もちろん、電池説を提唱したW. ケーニヒが考古学の専門家ではなく、そのためバグダッドの異物の年代推定が不正確で、実際にはパルティア時代ではなくササン朝時代の遺物である可能性が高いだろうという点には異論がない。しかし、これらの同定を下した「考古学の専門家」が、電池の構造や原理について専門的な知識を持っているとも考えにくい。以下、そうした面からバグダッド遺物の「電池説」を擁護するような周辺情報を並べていこう。

まず、日常生活で使う使い捨ての電池を「乾電池」と呼ぶが、どうして「乾」という字が付くのかといえば、乾電池が発明される以前の電池というのは、全て電解液の中に電極を浸した湿式電池だったことに由来する。電池は電極と電解質の組み合わせでできているが、湿式電池では電解質が電解液という液体になっている。それでは一般に酸性や毒性が強い傾向にある電解液が振動でこぼれてしまったりして使い勝手が悪いので、電解液をゼリー状に固めて流れ出にくいように工夫したものが乾電池と呼ばれるようになった。

電解液を保持するもうひとつの方法に、吸水性の固体に吸わせるという方法がある。この方法の利点は、電池の量電極間に固体を挟むことになるので、両電極が直接接触して電気的に短絡するのを防止することができるというところにもある。現在ではこのような絶縁性の電解液吸収材料をセパレータと呼び、多くの実用電池で利用されている。

多孔質セラミックのような硬いセパレータもあれば、紙のような薄くて柔軟なセパレータもある。電極の種類によっては、電流密度、つまり単位面積あたりの酸化還元反応の速度をあまり高めると、電池としての特性が低下してしまうようなものがあり、そういう場合には電極とセパレータをフィルム状にして多数重ねることで、電極の表面積を稼いで実用的な特性を出すようなものがある。身近なところではニッケル水素電池がそのような構造をしている。そして面白いことに、乾電池と互換性のある円筒状ニッケル水素電池で一般的な内部構造とは、電極とセパレータを巻物のように心棒に巻き付けた形状なのである。

電池セパレータとは? | 日本バイリーン(株)

そして、そのような用途で使用されるセパレータの中には、繊維こそ通常の木質繊維とは異なるものの、いわゆる「紙」が使われているものが存在する。

製品情報【電池用セパレータ】
ニッポン高度紙工業【会社概要】

現代でも紙というのは電池材料として非常に高い有効性のある素材のひとつであり、ましてや古代に電池の性能を高める用途には必須材料と考えてもいいものだったのではないかと思える。現代のような化学面での技術があれば、多様な材料の中から高い電流密度を得られるような電池材料の組み合わせを試すことも難しくはない。しかし古代の素朴な電池であれば、材料の工夫によって電流密度を高めるよりも、構造の工夫によって電極と電解質の界面表面積を増大し、トータルの取り出し電流を高めるような工夫のほうが容易だったと考えられる。

紙と青銅を巻いたようなものも発見されているようだが、単に呪文を書いた紙を収めるだけなら青銅の裏張りなど必要なく、むしろ青銅製の電極と電解液を含浸させたパピルス紙セパレーターを、集電材としての鉄心に巻きつけた構造と考えたほうが自然ということになる。ただし、電極材料としては青銅のような合金材料よりは純銅製の電極のほうが適切なので、青銅が巻かれていたというのはやや具合が悪い。しかし、製造当時は銅箔とスズ箔が紙セパレータを挟んだ対向構造になっていて、歴史的時間のうちにアノード材のスズが完全に溶出し、さらに電解液の喪失に伴ってカソード材の銅箔の表面上に析出したため、化学分析の結果として青銅(銅とスズの合金)の一種と判定されたのかもしれない。

電気化学 電池の理論

そうなるとアスファルトのほうも説明が容易になる。アスファルトには正極と負極間の電気的な絶縁を維持しながら、同時に正極缶の中に浮かべるように負極芯を保持するパテの役割も持ち、電解液の漏出や蒸発を防ぐ気密材料としても働く。疎水性なので電解液への不要なイオンの溶出も少なく、いろいろと利点が多い。電極表面での酸化還元反応は、電解液中のイオン輸送と外部回路を通じた自由電子の輸送で行われるので、空気を遮断して酸素供給を断つと電極反応が止まるという原理がむしろ理解できない。ひょっとすると「酸化反応」という語感から来る誤解なのかもしれない。

酸化還元反応 - Wikipedia

それでも、仮に古代の電池が存在したとして、装飾用のめっき用途に使われていたという仮説には少々無理があるかもしれない。電解めっきの技法を用いて装飾用のめっきを施すには、それほど高い電圧は必要ないのに対し、流す総電荷(電流と通電時間の積に比例)はかなり大きなものが必要になる。そのためには、めっき対象の表面積の何倍にもなる大型の電池が必要になったはずで、実際に出土したような小型の装置では不十分である可能性が高い。

ただし逆に考えれば、めっき対象の面積が微小であれば十分実用になったともいえる。めっき対象に絶縁性の材料で模様を描いておけば、塗り残した通電部分にのみめっきを乗せることが可能になるので、工芸細工的にもメリットは十分にある。銀表面に透明樹脂で微細な模様を描き、その後にこの電池を使って金メッキを施せば、かなり細密な金銀模様が描けただろう。また立体的に入り組んでいるためにアマルガムめっきが難しいような部分でも、電解めっきならめっき液と接触する部分には均一に金属を乗せることができる。

考古学者が否定した電池説というのは、単純なめっき用途という部分まで含めた仮説であって、得られた電気の用途を幅広く考えれば、出土品が電池であるという可能性まで否定する必要はないように思える。どうもこの手の話題に飛びつく人が「オーパーツ」をありがたがるオカルト系の人々ということで、反動的に「と学会」系の傾向を持つ人々から目の敵にされている傾向があるらしく、そのために国内では否定的な見解が流布しているのだろう。しかし、そのまま過去の話題として葬り去るには惜しい、優れた仮説のように思う。

時代推定の正確さがどの程度であるにせよ、当時から製鉄やガラス製造を実現していた文明地域での出土物であるので、古い時代のものだからといって当時の技術者の力量をあまり低く見積もっても判断を誤るように思う。バグダッド電池はやっぱり電池であった、という意見に一票入れて終わりとしたい。

最後になるが、次に挙げる冷静な考察を大いに参考にさせていただいたことをここに表明しておく。

懐疑論者の雑談 懐疑論者の祈り」より「バグダットの電池
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by antonin | 2011-04-24 01:13 | Trackback | Comments(0)

形而上下の閾値

職場の関係で平日から酒を飲んで帰ってきた。翌日も仕事がある大人の飲み会なので泥酔することはないが、それなりに時間をかけてそれなりの量の酒を飲んだ。帰りの電車で、読書のペースが一向に上がらない「宇宙創成はじめの3分間」を読んだ。不思議なことに、こういう系統の本を読むときは、ある程度酒を飲んでからのほうが読みやすい。

酒の飲みはじめというのは酩酊が徐々に進んで言葉が多くなり、読書どころではないのだけれども、飲みはじめからだいたい3時間も経過すると、飲酒のペースは遅くなり、同時に言葉のペースも落ちてくる。この状態で一人になって帰宅することになる場合が多いのだけれども、こういう場合というのは酒の入っていない状態よりもむしろ思考が冴えて、哲学的なことを考えやすくなっている。

哲学というのが何を指すのか本当のところはわからないけれども、今で言う哲学というのは、形而上学のことではないかという気がする。「形而上学」というのは"metaphysics"の訳語で、今日読んだ本は物理学に関する本なのだから曲がりなりにも"physics"であって、形而上学というよりは形而下の学問に関する本ではある。

けれども、この本が語ろうとしている素粒子物理学や宇宙物理学というのは、理論で使われる高度な数学表現や、大規模な実験施設が吐き出す実験データを体験的に理解できるような人にとって初めてphysicsとなりうる。そういう素養や経験のない一般的な人、つまり人類の大部分にとっては、現代の素粒子物理学というのは、想像は可能だが実感の伴わないmetaphysicsの領域に、むしろ入るのではないかという気がする。

同じように、多くの人にとって自動車の走行や飛行機の飛行はphysicsだが、宇宙飛行にもなるとmetaphysicsになるし、文献や遺構の残る時代の歴史はphysicsになりうるが、先史になるとmetaphysicsにならざるを得ない。

結局のところ、経験による正しい推論や、実際の行動による検証が可能な範囲が形而下の理論であって、正しい推論や検証が及ばない範囲の理論は、現実的には形而上学になってしまうのだろうと思う。そして正しい推論や検証が及ぶ範囲というのは、個人の経験や環境に左右されるので、ある人にとって現実的な理論であっても、別の人にとっては空想と差のない形而上の議論になってしまうということもあるだろう。

人間というのは現実的で有効な推論を働かすために、進化論的な意味があって脳を大型化させてきたのだろうが、脳の大型化の副作用というのか、非現実的で実生活上は無意味な推論を働かすことを楽しめるようにもできている。アルコールによる酩酊が引いていくときの哲学的思考がどういう生理的なメカニズムによるものなのかはわからないが、脳の特定の部位はまだ機能低下していて、別の部位は機能低下から回復しつつあるというアンバランスの作用によるのではないかと思っている。

こういうときにふさわしい形而上学的話題というのが、宇宙の構造はどうなっているかとか、宇宙の歴史の最初はどうであったかというような神話的話題であるというのは、今も昔も変わらないのだろうという気がする。そういう形而上学的妄想の中で、比較的出来の良かったものが神話として後世まで残ったのだろう。

酒の席も後半になると政治の話題になることも多いが、ある程度大きな組織を統括した経験のある人間にとっての政治はphysicsの範疇に入るが、そうでもない人間にとっての政治はmetaphysicsの話題になってしまうというのも、こうした傾向の理由のひとつなのではないかという気がする。

同じ話題を共有する場にあって、すべての人にとってその話題がmetaphysicsであれば議論は盛り上がるだろうが、誰かにとってはその話題がphysicsであるという場合もあって、そういう場合にはその人は苦笑しながら話を聞くしかないのだろう。ときにはそういうthresholdをまたいだ会話も面白いと思うが、いずれは議論が噛み合わなくなって飽きてしまうだろう。人間は酒の席の話を適度に忘れるようにできているのが救いだが、まあ、ある程度閾値の近い人間同士で集まってしまうのは仕方のないところなのではないかと思う。

あまり必要に迫られていない楽しい話というのは、だいたいがmetaphysicsに片足突っ込んだところにあるのではないかというような予感があるが、これ自身もまた検証不能なmetaphysicalな話題ということになる。
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by antonin | 2011-04-21 01:26 | Trackback | Comments(0)

不公平な放射能の害

自分は放射線医学の専門家でもないし、原子物理でも原子力工学でも生理学でも医学でも専門家ではないので、これから書くことは素人の考察ということで話半分に受け取っていただきたい。

--

コップを落としたとき、高さ10cmから落とすと2%が割れた。高さ20cmから落とすと20%が割れた。高さ1mから落とすと30%が割れた。高さ10mから落とすと100%が割れた。

これは適当にでっち上げた数字なのであまり本気で分析しても意味が無いのだが、放射性物質が持つ有害性の現れ方は、このように確率的になるということで比喩を持ち出した。放射線被曝量には致死量があって、ある量を超すと、被曝した人は必ず死ぬ。これはJCOの臨界事故のような事態であり、環境被害を考えずに純粋に人間の被曝強度だけを問題にすると、第7水準に達した今回の福島第一原発事故でさえ、この強度の被曝をする可能性というのは小さい。少なくとも原発の修復作業をする人以外には起こりえない。

で、今回の事故で我々一般人が気にしなくてはならない水準というのは、もっと低量の被曝ということになる。この程度の被曝量だと、生きるか死ぬかというのは確率的な問題になる。もっと言うと、影響が出るか出ないかという部分も確率的な問題になる。同じ量の被曝をしても、運の悪い人には障害が起こるし、運のいい人には影響が出ない。そして、もっと突っ込んだことを言うと、運の善し悪しだけでなく、先天的な体質というものも、被害者になるかどうかの分かれ目になることがある。

短期間に死亡してしまうような被曝量を別とすると、被曝による被害というのは、各種のガンとして現れてくる。被曝からガンの発症に到るまでには、いくつかのステップがある。

放射線にはいくつも種類があるが、今回問題になるのは核分裂ではなく崩壊による放射線なので、アルファ線とベータ線とガンマ線ということになる。アルファ線というのはヘリウム原子から電子を剥ぎ取ったようなもの(アルファ粒子)が高速で飛び出したもので、粒子が比較的大きいのですぐにほかの原子にぶつかって止まるが、エネルギーはとても大きいので、アルファ線が通過した部分の影響は強く出る。ガンマ線はX線に似た電磁波で、通過した部分の影響はアルファ線よりずっと小さいが、その代わり遠くまで到達する。ベータ線は電子が高速で飛び出したもので、到達距離も経路での影響も、アルファ線とガンマ線の中間的なものになる。

アルファ線にしてもベータ線にしてもガンマ線にしても、人体への影響の出方としては分子中の電子をはじき飛ばしてイオンにしてしまうというところから始まる。その大部分は無害だが、一部は運悪く細胞核中のDNAの水素結合部分や共有結合部分を破壊してしまう。そのかなりの部分はまだ無害だが、一部は運悪くDNA中で実際に生命活動に使われている遺伝子部分を破壊してしまう。

ガンマ線は外から来るのを防御しづらいという意味では厄介だが、放射線源である放射性物質を体内に取り込んでしまった場合には、至近距離から打ち出される破壊力の強いアルファ線が、より厄介ということになる。これが外部被曝と内部被曝では条件が違ってくる理由ということになる。

人間のように寿命の長い高等生物では、DNAがわずかに破壊されても修復する能力があり、大部分はそこで修復されるが、一部は運悪く遺伝子異常として残る。遺伝子異常が残っても、細胞の生存に致命的な遺伝子の異常にならなければ、機能的に不完全ではあっても普通の細胞と同じように生き残るが、一部は異常細胞となる。異常細胞が生まれても、免疫機構が正常に働いていれば、異常細胞の大部分は除去されて人体の健康に影響しない。

こういった、何重にもわたる偶然を重ねてようやく人間はガンになるのだが、それでも元の放射線量が強いと、結局ガンになる確率というのは無視できないものになる。しかし、ジャンボ宝くじでも当たる人には当たってしまうのと同じように、たとえ低量被曝であっても非常に運の悪い人は最終的にガンになってしまう。

もうひとつの問題は、人はそれぞれ個性があり、まったく同じではないというところにある。最初にあげたコップの実験の比喩でも、コップが全て同じ種類である場合と、薄手のガラスコップや強化ガラスコップやプラスチックコップが混ざっている実験では、出てくる数字の意味が全く違ってしまうだろう。人間も、外面と同じように体内も多様にできていて、ある人は遺伝子損傷の修復力が低く、またある人は異常細胞の除去能力が高い、などといった差がある。しかしその差というのは、現在の医学では倫理的な問題もあって正確に知ることができない。

よく宇宙線や鉱物放射線などの自然由来放射線は無害だというようなことを言うが、これも普通の人にとっては無害というだけのことであって、遺伝的に放射線の影響を受けやすいような人にとっては、自然放射線レベルでも病気になってしまうことがありうる。こういう人は高地に住むと寿命が縮んでしまうというようなことさえあるだろう。一方で、広島と長崎で二重被爆しても90歳まで生きた人もいた。かなりの量の被曝をしても影響が出ない人もいる一方で、少量の被曝でも影響が出てしまう人も、多くの人口の中にはいくらか存在する。

水道水への放射性物質混入のニュースでも明らかになったとおり、大人というのは放射能に対して強く、子供というのは放射能に対して弱い。脱皮をしたばかりのカニなどが天敵に襲われやすいのに似て、細胞分裂中の遺伝子というのは破壊に弱い。子供は成長のために全身で活発な細胞分裂をしているので、放射線による遺伝子破壊の影響を受けやすい。大人でも胃壁や骨髄などでは細胞が消耗品のように使い捨てられていくため、補充のための細胞分裂が活発に行われており、こういう部分はやはり放射線の影響を受けやすい。

そして同じ年齢であっても遺伝子破壊の修復能力や異常細胞の除去能力には遺伝的な個人差がある。親類がみな80歳過ぎまで生きているような家系に生まれた人は、先天的に遺伝子異常の影響を受けにくい体質を持っている可能性が高い。逆にガンや白血病などで若い親族を失った人は、遺伝子異常の影響を受けやすい体質である可能性が高い。

そういう具合であるので、統計的に見て影響がごくわずかという程度の放射線量でも、人によっては無視できない危険にさらされることになってしまう。逆に、結構な量の放射線を受けても全くなんともないような人も、一部には出てくることになる。放射能を怖がりすぎるのも良くないが、あまり甘く見てもいけないというのは、こういう事情による部分もある。

まあ、普通の体質の人であれば、自然放射線量よりちょっと高めのほうが逆にガンの発生が減るなんていうデータもあるらしいから、自分は普通だと思う人は、そっちの可能性に賭けて気楽に生きてみるのも悪くないんじゃないだろうかという気がする。
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by antonin | 2011-04-13 00:14 | Trackback | Comments(7)

東日本大人災

放射能の話の前に、今回の福島第一原発の事故が人災だったという噂について。


福島にタイムトラベラーがいた : 2のまとめR

原発電源喪失)福島第一原発2号機の電源喪失・水位低下事故の情報公開と原因究明を求める申し入れ - 安渓遊地

風のたよりーいわき市議会議員 佐藤かずよし  : あわやメルトダウン、福島第一原発2号機電源喪失水位低下

世迷い言だらけ:Mr.コストカッターが社長に就く東電と元技術者たち


原発に対して特段の関心のない一般市民が気づいていなかっただけで、去年の夏頃から福島第一原発はかなりヤバい状態だったんじゃないかという情報がいくつか転がっていた。たしかに今回の大地震は原発事故の直接の引き金にはなったが、それ以前から福島第一原発の非常電源系統は機能不全に陥っていて、いずれにせよ近い将来に原発事故の危険が高まっていたのではないかという感じがある。特に、外部電力系統とディーゼル発電機の調子が悪かったらしいという話は注目に価する。

福島第一原発の1号炉が、設計寿命を大幅に超えて運転開始から40年という長期間にわたって運転されている老朽炉だったということを、今回の事故報道で初めて知った。反応炉本体の設計の古さもさることながら、周囲の緊急維持装置のメンテナンス不足がかなり深刻な状態だったらしい。震源地に近い女川原発が巨大な本震や余震を耐えぬいたのに対し、かなり距離のあった福島第一原発のほうが大事故に陥ったというのは、空前の大地震のためというより、ある程度起こるべくして起こった事故というようにも見える。

アメリカなどであれば、真相究明委員会を設置して事故原因を詳細に分析、記録するのだろうが、日本の場合には、実担当者と高級官僚が真相を墓場まで持って行ってしまうだろう。アメリカだって真実の全てを国民や国際社会に晒すことまではしないので、発表されるのは適当な婉曲表現になった公式レポートになるのだが、正確な情報は国家によってアーカイブされ、必要な階級の人間には閲覧可能な状態に置かれるらしい。運が良ければ一部は情報公開法によって数十年後に一般公開されるようになる。

そういう具合なので、一般市民としては周辺情報から想像力をたくましくして推測するしかないのだが、まあ、それらしい状況証拠ならたくさんあるのだろう。最近あまりニュースに接していないので例を多く挙げられないが、例えば関東で実施された計画停電などもその手のものと言えるだろう。

まず、東京電力という会社組織が、経済産業省の高級官僚の受け皿になっている公社的な一社独占企業であるということを考えると、時の政府が民主党政権ということもあり、あの短期間であのような輪番停電の計画を立案、実施できるとは思えないということがある。もちろん、世間で多くの批判を浴びたように今回の計画停電は不完全なもので、どの程度の実際的な効果を挙げたのかも不確かなものだった。そういえば今日のニュースで、東京電力は消費電力がピークとなる夏季も含めて、今後の計画停電を原則実施しないという方針を伝えていた。


東京電力、計画停電を「今後、原則実施しない」と発表 | 経営 | マイコミジャーナル


もともと季節が春先ということもあって、雪がちらついた東北地方はともかく、関東地方ではそれほど電力需要の高くない季節の震災だった。それでも火力発電所の稼働率低下などの影響で、地震発生直後には大規模停電寸前の需給状況まで迫ったという速報があったが、結局はそのニュースのために電力消費の自粛が行き渡り、大規模停電に陥ることはなかった。

そういう状況にもかかわらず、地震発生後数日で、東京電力という半官僚組織があのような計画を実施したということは、官僚的な時間で計画された輪番停電計画を、東京電力と経産省は地震発生時には既に持っていたのではないかという気がする。2007年7月には、柏崎刈羽原発が中越沖地震の影響で総停止の状態に陥り、営業運転再開までにおよそ2年半も要した。

加えて2007年の夏は記録的猛暑となり、おそらく東京電力管内は大規模停電寸前の状態まで追い込まれていたのではないかと思う。2003年にはニューヨークを中心としてアメリカ・カナダにまたがる広域で大停電が発生した記憶も生々しく、東京電力はこの夏に相当肝を冷やしたことだろう。最悪の場合、東京電力に相当量の電力を供給している東北電力の管内にまで障害が及んだ可能性もないとは言えない。


柏崎刈羽原子力発電所 - Wikipedia

2003年北アメリカ大停電 - Wikipedia


今回発動された輪番停電の計画は、その際に計画立案された対策だったのではないかという気がする。複雑な電力網の一部を意図的に停止する際の区分けと作業手順を作成するのにはそれなりに事前検討が必要だろうから、一部にしてもそれが実施できたというのは、それなりに時間をかけた計画だったのではないかと思える。それから、被災地である太平洋沿岸部が配慮なしに停電エリアに入っていたり、東京区部の多くが無条件に停電エリアから外れていたりするのも、今回のような災害を想定せずに経済活動を最大限維持することを優先した計画であったためと読める。


「未曽有の大地震の影響により」というと、なんとも説得力のある言葉ではあるが、実は以前から表には言い出せない大問題を抱えていた組織にとっては、問題を表面化させるために絶好の言い訳を手に入れたのではないかという気がしなくもない。東北地方で地デジ完全移行を延期するというようなニュースも流れてきているが、今後も似たような「緊急対策という名の、なし崩し的問題処理」がいくつも見られるのではないかと思うので、ゆるく注目していきたい。
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by antonin | 2011-04-08 22:06 | Trackback | Comments(4)

熟練

ロウソクに火を灯す。その火を使って線香に火をつける。たったそれだけのことなのだけれども、長く続けていると何かしらのノウハウが身に付く。人間というのは妙なものだと思った。

線香に火をつけるときには、最初に炎にかざして火を移さなければいけない。そうすると、普通は線香の先に炎が移る。その炎とは、線香の香りの成分を含む煙を完全燃焼させてしまうものなので、香りを発するためには炎を消さなくてはならない。この時に、大陸の方ではどうなのかは知らないが、我が国ではいろいろと作法がある。息を吹きかけて吹き消すなどというのはもってのほかで、線香を振って炎を消すのが幾分マシで、手扇であおいで消すのが一番行儀が良いとされている。

私は天邪鬼な性格なので、どうも作法通りに炎を消すのが癪に障る。そこで、そもそも線香に炎が移らいような火のつけ方を試してみた。ロウソクの炎の温度が一番高いのは、炎の一番明るい部分ではなく、炎の先端だということは知識として知っていた。炎の明かりの消えかけた部分が一番高温なのだとすれば、そのさらに先の方も相当温度が高いはずだということがわかる。そこで、線香の先をロウソクの炎の先端から少しずつ離してかざしてみる。

いろいろと試してみた結果、ロウソクの炎の先端から4~5センチほど離したところに、5秒前後、線香の先をかざしていると、だんだん煙が出てきて、ついには先端が赤く灯ることがわかった。気が急いでロウソクの炎に近づけてしまうと、炎の先端からは4センチほど離れていても、線香の煙は突然発火して炎に変わってしまう。

そういう事を何度か繰り返しているうちに、だいたいは炎を出すことなく線香に点火できるようになってくる。そういう事ができたとして、あくまで炎を移してからそれを消すというのが作法なのだから、炎を出さずに線香に火をつけるということは結局のところ無作法でしかない。そうなのだけれども、そういう無駄なことにまで人間は熟練してしまう生き物なのだということを感じて、少しだけ感心した。

人間の社会というものは、そこに生きる個々人が持っている知識と熟練によって動いているのだけれども、そのうちのかなりの部分が、実はどちらかというとどうでもいいような、しょーもない種類の知識や熟練によって構成されているんじゃないかという気がしてきた。そして、そういうしょーもない熟練も、実は重要な種類の熟練の下支えをしていて、下らないからと言って取り除いてしまうと、案外社会が回らなくなるような、そういう性質のものでもあるんじゃないかという気もしている。

子供は真面目な勉強よりも遊びを好むものだが、それというのも、しょーもない熟練をいろいろと試してみるための準備期間なのだろうと思って、楽しみながら眺めている。
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by antonin | 2011-04-06 01:19 | Trackback | Comments(0)

明るいナショナル

このところ薬がよく効いており、おかげで悩みも何もなかったのだが、副作用というのかなんというのか、どうも何ごともどうでもよくなってしまう傾向があった。震災のショックも放射能の心配も、まあなんとかなるだろうという、根拠のない楽観があって丁度良かった面もあるが、一方で世の中年には果たすべき義理というものが数多くあり、そういうものもすっかりご無沙汰になってしまっていた。コドモたちにイトコができそうだとかいうような話でも10日あまり放置してしまって連絡もせず、気がつくと芽吹いたばかりの薔薇の木までが枯れ始めていて、これはいかん、ということで、少し(医者には無断で)薬を減らしてみた。

以前掛かっていた医師は不満を訴えるとすぐに処方を変更したので、こちらとしても経験の積み上げがなかったのだが、現在お世話になっている医師は余程でないと処方を変えないので、おかげでこちらもいろいろと細かい観察が可能になった。減薬や断薬をするとどういう事態になるかというあたりまで含めて、体験的にいろいろとわかるようになったので、自分自身と今の処方の関係に限って言えば、おそらくは世界の中で自分が一番詳しいと言えるだろう。あらゆる患者とあらゆる処方の関連を扱う医師とは全く別の次元ではあるが、やはり患者自身が一番良く知っている分野というものはある。

しばらくブログの文章を全く書かなかったのも、震災に対する自粛というのではなくて、何かを書こうという自発的な欲求がほとんど起こらなかったからでしかない。まあ、日々移り変わる非常事態に対してはただ黙っているという態度も悪いものではないので、書く気が起こらないならそれもまたいいだろう、という判断もあったけれども。で、一日減薬しただけで、こうして何かを書こうという気が復活するのだから面白い。

3月11を境に変わった日本について書くのもいいし、身近にもいろいろの変化があったので、そういうものについて書くのもいいのだけれども、なんだか今はもっと浮世離れしたことについて書いておくのがいいような気がしている。もう少し減薬が板についてきたら、浮世の義理を果たすついでにいろいろ書いてみてもいいだろう。あるいは、その状態になって初めて環境の激変に実感が出て、大慌てするのかもしれないが。

--

ということで、お題は「頑張ろう、日本」というあたりの空気について。「頑張ろう」という言い回しは、当初「頑張れ」であったものが、確か阪神大震災の時だったと思うが、「こんなに頑張っているのに、これ以上何を頑張れというのか」というような被災者の意見があったとかで、その対策でオリックスの球団あたりが言い出した表現だったように思う。

最近は「日本は強い国」というような表現も出始めて、要するにナショナリズムなのだけれど、こういう火事場のバカナショナリズムは非常に健全でいいものなのではないだろうかと思う。ナショナリズムの悪いところは簡単に排他的になったり独善的になったりするところで、その原因の大体は嫉妬とかそれに類する気分から出ている。しかし今回のような災害では、その発生源が嫉妬ではなく、もっと生活の危機に根ざしたものであり、加えて諸外国からの同情に満ちた支援などにも囲まれているので、こういう時こそ健全なナショナリズムの出番なのだろう。

ナショナリズムというと単純に否定的な感情を連想するように教育を受けたが、ナショナリズムも要するに効果の強い劇薬のひとつであり、副作用に注意して適切に用いれば、こういう災害時には最大の効果を発揮するのだろうと思う。宗教というとそれだけでカルトや既得権商売を連想して嫌悪感を示す人も多いが、宗教というのをよく調べてみて、そしてその根の部分は今でいう心理療法に相当するものなのだろうということが知れてからは、以前よりいろいろのものを受け入れることができるようになった。ナショナリズムもその手の心理技術のひとつなのだろうという気がする。

もちろん今の日本に広がる災害ナショナリズムの中にも危険な副作用の芽はあって、それはかつて「非国民」という表現に象徴されたような気分であり、今でいう「不謹慎」という言葉に見られるあたりの同調圧力にある。けれどもそういう副作用には注意を払いつつも、同じ土地や同じ組織を共有する者同士で、それまでは恥ずかしくて見せられなかったような、気分の良い仲間意識の発露をしてみるのもいいのではないだろうかと思う。そういう力で災害救助や社会復旧が進めば更にいいだろう。


今回の震災による犠牲者数は、死者行方不明者を合わせ、多く見積もって3万程度とする。福島、宮城、岩手の人口を合わせると600万程度で、人口比にすると0.5%程度の死亡率ということになる。新型インフルエンザが話題になったときに、このインフルエンザと非常に類似しているという歴史上のスペイン風邪について調べていたのだが、そこでもやはり、北半球の人口に対して1%程度の死亡率という数字を見た覚えがあった。なんだ、その程度か、とも思う一方で、突然人口の1%が失われるというのは相当の悲劇なのだな、という印象も持った。

今回の広域災害の状況と考え合わせて、死亡率1%という災害がどの程度むごたらしいものなのかということが、かなり実感を伴って理解できた。世界を100人の村に例えてしまうと、そのうちの一人が事故死したという話になってしまうのだが、180人いた同級生の一人をバイク事故で失ったときの気分を思い返してみると、まあそういうものなのかなという気もする。加えて今回は生き残ったうちの20人くらいも財産をひどく失っているわけで、そういう被害も加わってくるのだから、かなり厳しい状況ということになる。

それでも、99.5%が生き残ったというのは、大きな希望になるだろう。地震だけなら倒れない家、火災が燃え広がらないビル、津波に関する知識と訓練。もちろん今回の事態に対しては不十分な面はあったのだけれど、日本で同様の規模の地震を探すと9世紀に遡るというような大地震に対して、99.5%の人々を守ったというのは大したものだと思う。

被災地ではまだ食料も満足に行き渡っていない地域も残っていると聞くが、食料は欲しいが、炊き出しはぜひ自分たちにやらせてくれ、施しではなく仕事をくれ、というような声も上がっているらしいから、こういう日本人が99.5%も残っていれば、遠くない将来に劇的な回復を見せるだろう。原発などは心配だし、我が家からそう遠くない土地でも下水道が使えない地域が広がっていたりして、予断を許さない部分はまだ残るのだけれども、被災地の人々が自力で回復していくのを、少なくとも邪魔をしないようにしたい。

近所のスーパーへ行くと、茨城県神栖産の、青々として立派な葉振りで美味そうな水菜が一把68円で安売りされていたので、同地産のピーマンと一緒に買ってきてサラダにして食べてみた。市場ではダンボール入りが10円単位で投売りされているなんていう噂も聞こえてきており、こういう事も一日も早く回復して欲しい。関東・東北太平洋沿岸の産品を積極的に買おうという程度のナショナリズムなら、かわいくていいんじゃないかと思う。

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放射能の害というあたりについても、また改めて書いてみようかと思う。巨視的には確率論となる現象でも、微視的には必然の現象の積み重ねであったりして、議論は案外に直感を裏切る展開になる。それはそれで興味深い話になるのだが、時間も時間なのでこれにて。
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by antonin | 2011-04-04 00:31 | Trackback | Comments(0)


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