安敦誌


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湿度70%の午後

電力問題のために、職場が輪番休日を採用していて、海の日の代休もあって自宅にいる。多少時間もあって、3本ほど記事を書いたが、ちょっと不安があって3本とも没にした。

言論が「日記」に留まるのか「メディア」となるのかは、その質よりもPVの桁数のほうがはるかに強く寄与する、だとか、宝くじは貧者をターゲットにした税金というけど、日本の年金制度はもっと悪質な税金だよね、とか、そんなことを書いた。2ちゃんねるのまとめサイトはたくさんあるけど、「痛いニュース」がメディアになるのは、その内容の質というよりは、多くの人が読んで話題にするというシェアのせいだよね、とか、宝くじは貧者をターゲットにした税金だから良くないというけど、日本みたいな賞金倍率シーリングの厳しい宝くじより、世代によって勝ち負けが確定の年金制度のほうがよっぽど悪質な税金だし、税金の集め方より使い方が杜撰なのが問題なんじゃないの、とか、そんなことを書いた。

けど、ここで上に書いた簡潔な内容で十分なような気がしてきた。それぞれ単独記事のボリュームになったんだけど、たぶんお蔵入りすると思う。一応ネタにした文章へのリンクは出しておこう。

(1)
終風日報編集後記 他者をメディアとする風潮 - finalventの日記

(2)
「税と年金の一体改革」 ちきりん私案 - Chikirinの日記
人生の一発逆転という悲しい夢 - Chikirinの日記

ちきりんの親御さんが亡くなっていて、かつ子持ちで、ついでにあと10歳若かったりしたら、だいぶ意見が違ってたんじゃないかと思った。自分とあからさまに違うポジションの意見ってのは、なんか大胆で面白い。

--

最近買った本。あ、先日買った「はじめての仏像鑑賞入門」は楽しく読めた。ただ、イラストがちょっと版権使用料をケチりすぎなんじゃないかと思った。ちょっと絵の上手な人のメモ帳みたいな図説や、紹介している仏像の写真が有名なのに、あえて写真じゃなくてトレース画だったり、乾いた雑巾を絞った形跡が痛々しかった。

閑話休題。今度買ったのはこれ。

ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

橋爪 大三郎 / 講談社


やはり新書の「はじめての構造主義」でお世話になった橋爪先生に、「キリスト教とはなんぞや」を知識ゼロから読めるように問う対談集。面白いけど、もう少し若いときに読みたかったような内容。子供のころ、初めて英語を習ったときに感じたような、言語の違いというより考え方の仕組みが違うという感じが、日本とアメリカの間にはある。その全てが宗教の違いに由来するわけじゃないんだろうけれど、「因果」と"cause and result"じゃ意味合いがきっと違うし、"Trinity"と「三位一体」でもたぶん意味合いが違う。訳せるんだけど、文脈が変わってしまう。そういう、宗教というよりも文化レベルに根付いた思考習慣というか、そういう意味合いでキリスト教とか密教というのは調べる甲斐がある気がする。

読みかけ段階でももう少し感想があるんだけど、また没になりそうなのでこれで終わり。
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by Antonin | 2011-07-28 16:00 | Trackback | Comments(2)

雑記

最近、2チャンネルのまとめサイトなんかしか読んでなくて、自宅に戻ったので久しぶりにアルファなブログなんかを読んでみた。簡単なリアクションを少し。

終風日報編集後記 他者をメディアとする風潮 - finalventの日記

はてぶにも少し書いたけど、100文字では若干消化不良なので続き。気分的には理解できる。理解できるんだけど、批判は的が外れている。わざと外しているところはあるんじゃないかと推測するので、ネタにマジレス的な野暮は感じるんだけど若干意見を。どうせ本人読まないんだろうけど。

メディアは日本語で書くと「媒体」ということになっていて、社会と個人を結びつける役割を持っている。新聞には当然そういう機能があって、ある社会で支配的な発行部数を持つことで、世論を形成する。その力というのは伝える情報の質と、伝える相手の量の積みたいなものに比例すると思うのだけれど、たかだか1日に30ページくらいの新聞の力の源泉は、やっぱり読者の人数というものが支配的になっていると思う。

「極東ブログ」とか「finalventの日記」も同じで、たかだかブログの情報量というのは知れているから、PVの物量というものがfinalventという人物のメディア性の源泉になっている。もちろん、書かれる文章の内容とか更新頻度といった質がPVの物量を担保しているのは当然なんだけど、ここに出てくる誹謗中傷なんかをする人たちが集まってくる意味というのは、けっこう誰もが話題にしているという部分に理由があったりして、文章の内容そのものというのは比較的どうでもいいのだろうと思う。

特にネット上の媒体は読者が話題に割って入る仕組みが標準装備みたいなところがあって、要するにfinalventに喧嘩を吹っかけると、ブログのPV量が媒体になって読者層に檄文を飛ばせるような仕組みが、実際のところ機能している。まあ、内容が気に食わないから著者をいじめてやれ、みたいなものは単純に読者数に比例する確率で発生するから、そちらが主要因かもしれないけれど。

誰かがどこかで書いていたけれど、平凡な情報から特異な本質を見抜くには鋭敏な感性が必要とされるのだけれど、そういう人ほどネット上の雑音の被害を受けやすいから、物書きにとってネットというのはあんまりよろしい環境ではないんじゃないかという話だった。有名税というのは昔からあったから、別にネット社会に限ったことではないと思うけれども。芥川龍之介なんかの最後のほうを読んでみると、なんだかいろいろ言われて疲れちゃったんだろうな、と思う。

無線の受信機でもそういう問題があって、あんまり受信感度の高い受信機というのは、信号強度の強い入力があると壊れてしまうから、そういうときはアッテネーターという減衰回路を通して、少し静かにした信号を入れてやるような仕組みがある。人間も同じで、感度の高い人というのは雑音源の近くではアッテネーターを導入して、精神を保護しておくべきなんじゃないかと思う。芸能人が自分でtwitterやるなんていうのは、その人自身が相当鈍感じゃないと勤まらないんじゃないだろうか。アメブロあたりじゃアッテネーター的な仕組みもちゃんと入っているらしいし。

--

なんか似てる・・・ - Chikirinの日記

「ダンシャリ」とか「在庫刑事シャリダン」とか一時期よく耳にしたけれども、個人的にはこういう考えを、理性的には理解できても生理的に受け付けないところがある。出された食事を残さず食べるとカロリーや塩分が取りすぎになるから残しましょう、だとか、着なくなった服は捨てるかリサイクルに出しましょう、だとか、そういうことが平気でできる人が苦手だ。なので、我が家は夫婦そろってそういう傾向を持っていて厄介なのだが、お互い相手の捨てられないものを邪魔に感じている利己的な部分が抑止力になっていて、なんとなく一定の限度内で済んでいる。が、ダンシャリの理想像とは程遠い。

こういう性質の人間にとって、捨てられない物が特定のサイズや質量を持たないディジタルなモノに化けてくれるのは福音となる。本当は物にも愛着があって捨てたくはないのだが、せめてモノだけが残ってくれれば、物を捨てる諦めがつく。子供のころ、半年間親にねだって買ってもらったオモチャはもう捨ててしまったが、雑誌の広告ページが擦り切れるほど物欲を迸らせた物というのは、今でもときどき脳裏をよぎる。人間に絡む思い出というのはどんどん忘れてしまうのだが、物にかかわる思い出というのは、なかなか消えない。

先日亡くなった伯父の思い出も、キヤノンの双眼鏡ケースのにおいだとか、「大字典」の革表紙の手触りだとか、ビニールベッドのチューブの弾力だとか、そういう物の質感を通じたものは多く残っているが、直接の表情とか会話とか、そういったものはほとんど記憶にない。子供のころの思い出も、どんなテレビ番組を見てどんな本を読んでどんなゲームで遊んだかとか、そういう記憶をキーにしないと、なかなか思い出せない。この点、私には若干自閉性スペクトラムの傾向があるのかもしれない。

ともかく、そういう人間にとっては、物とか文字とか映像とか、そういうものは過去の人間関係を維持持続するために必要不可欠なものであり、記憶の鍵となる物を捨ててしまうのは、知り合いの人間を失うより一段と喪失感が強い。人間というのは時間とともに変化が激しいので、現在を表していても過去を表すことが少ない。旧知の人が今日知り合った人と違うというのは、過去につながる何らかの記憶を共有しているからで、そういう記憶の媒体となるのが、物であったり、映像であったり、文章であったりする。

最近は一度喪失したマイナー情報がネットを介して復元されたりするので面白いことになっているが、それでも極度に個人的な情報というのは、今でもやはり個人が責任を持って保管維持していかなくては、永久に失われてしまう。人格というものに記憶が必須なのだとすると、私などが余り極端に物を捨ててしまうと、人格も大きく崩れてしまう。

私が初めて読んだSF本は「ジェダイの復讐」のノベライズか「砂の惑星」の原作あたりだったと思うが、その付近に読んだSFで鮮明に覚えているのが、「太陽移動計画」という、1950年代の古いSFだった。まだ道路も舗装されていなかった埼玉の片田舎にある祖父の家に滞在しているときに、近所の書店に売れ残っていた本をタイトルだけ見て買ってもらったものだ。今でもアメリカのSFには適度なお色気シーンを挿入して読者サービスするのが伝統になっているが、その本でも主人公がなぜか完全に人間型の異星人女性といい関係になるシーンがあり、しかもそのシーンのイラストが裏表紙に印刷されていたりして、当時中学一年生だったが買ってからそれに気づいて、親に裏表紙を見られないように緊張しながら読んだ記憶がある。

「太陽移動計画」をネットで検索すると、一応書店のリストには挙がってくるが、さすがに在庫はなさそうだ。あっても古書を買う気はあまりないが、もし機会があれば、すっかり忘れてしまったストーリーや文体がどんなものだったのか、軽く読み返してみたい気もする。

そんな具合なので、予備役のハードディスクには20年前のパソコン通信時代のチャットログだとか、40年近く前の、よちよち歩きの自分が映ったカラー動画だとか、そんなモノが後生大事に保存されている。確かに日常はその存在すら忘れているのだけれど、数年に一度は見返してみたりすることが確かにあって、そういうときはやっぱり保存の手間をかけた甲斐があったなと思う。特に、業者に頼んで8mmフィルムから起こしたMPEG2動画からWindows Vista標準のオーサリングツールで焼いた簡素なDVDは、両親にも好評だった。S-VHS-Cで記録した妹の成長記録なども、アダプターを介して実家のビデオデッキに入れ、両親が鑑賞しているらしい。

twitterとかFacebookなんかのメリケンツール群はどうも性に合わないので登録したきりほとんど使っていないが、もし今後興味を惹かれるようなツールが登場したら、是非使ってみたいと思う。
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by Antonin | 2011-07-28 12:24 | Trackback | Comments(0)

なんだか

今度の独り暮らしの仮住まいにはPCがない。ということで、前回の文章は携帯電話のブラウザアプリで入力してみた。いわゆるガラケー、もう少しお上品に言うとフィーチャーフォンという代物だが、T9方式のお陰もあって、なんとか言いたいことが書けるようになった。

しかし、前に使っていたケータイに比べれば格段に入力しやすいものの、フルキーボードを使っての、ほとんど考えるのと同じ早さで入力する場合に比べると、ケータイでは頑張ってキー入力しているあいだに考えが霧散してしまう。今どきのケータイの変換辞書は確かに性能が上がったが、それでもやっぱりgoogle IMEの語彙力には負ける。単語を頑張って探しですうちに、考えていたことを半分くらい忘れてしまっている。このあたりは、たぶんスマートフォンでも似たり寄ったりだろう。

twitterの140文字制限というのは、GMSのショートメールに収まる長さというのが由来らしいし、日本で言うとiモードメールの250文字制限みたいなものなのだろう。今後しばらく、移動体通信でも考える早さで文章入力できるようなデバイスが登場するまでは、細切れの言葉をパケット交換するような感じのコミュニケーションが主流になるんだろう。

まあ自分も書籍レベルはおろか、論文レベルの長さの文章も書けない、ブログサイズに最適化された作文しかできない人間なので、ある意味ケータイ文化の人たちと同類ではあるのだけれど、同類ゆえの互換性問題というのか、なまじ近いだけに、この微妙な違いが気になる。
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by antonin | 2011-07-26 22:55 | Trackback | Comments(0)

幸せな王子

秋の深まりと共に南へ帰ろうとするツバメを引き留めて、身に付けた宝物を貧しい人に届けてほしいと頼む、王子の像の話がある。

こういう話を好む人は、自分を犠牲にして貧しい人を助ける、感動的な物語として読むだろう。一方、こういう話を好まない人は、自己満足のために身を滅ぼすばかりか、関わった相手にまで迷惑をかけるという教訓話として読むだろう。

本来なら、自己犠牲を良しとする人には限度をわきまえさせる教訓として、貪欲な人には他人のためになる幸せを知らせる物語として、それぞれ読まれるべき話なのだろう。しかし、実際にはそれぞれが自分の感覚に都合のいい部分だけを感じとって、結局両者がさらに両極端へと離れていくように見える。

文字に書かれた訓話にはどうしてもそういう部分があって、またそこがいいところでもあるのだけれど、やはりある種の危うさみたいなものがある。生身の師匠というものは煙たいのだけれど、それでもやはり必要なものなのだろう。

人間、年齢を重ねるとだんだんそういう煙たい存在から自由になってくるのだけれど、耳の痛い話にも、気力の許す限りは接していかないといけないだろう。

優れた先人の残した言葉が、知らないうちに奸佞の輩の言葉になって身を滅ぼしてしまうというのは、案外気がつきにくいものなのかもしれない。

仏典などを読んでいろいろ気づくことはあるのだけれども、どこをどう読んだらいいのかということについては、もう少し裏を探る必要があるかもしれない。
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by antonin | 2011-07-26 01:27 | Trackback | Comments(0)

切実さについて

絶対的な真理というのは到達不可能なのであり、何が正しくて何が誤りかということに対して、あまり真剣になっても仕方がないとは思うのだが、世の中には何が正しくて何が誤りかということを追究したり教育したりすることを本業としている人もあって、そういう人々の切実さというのもまた仕方がないな、とも思う。同じように、人の罪の程度を厳しく同定して、それにきっちり見合った罰を与えようとするのもどうかと思うのだが、そこにもそれを本業とする人々がいて、その切実さというのももっともだという気がする。


自宅の近くに一方通行の道があるのだが、最近道交法が改定されて自転車の走行が基本的に車道側とされたのに合わせて、この一方通行の狭い道の両側が自転車通行レーンとして色分けされた。そしてその道路の出口付近に3台分のタクシープールがあるのだが、利用者の頻度と待機台数のバランスが悪く、この自転車通行レーンを埋めてタクシーが列をなして駐車している。この道路は歩行者も自転車も通行量が多く、路上駐車で道幅が狭くなっている部分ではかなり危険な状況も見られる。

自転車通行レーンは当然駐車禁止で、時折通報されてパトカーに追い払われているのだが、それも一時的なもので、すぐに待ち行列は復活する。要するに慢性的な違法行為なのだけれども、タクシーの運転手たちにも生活というものがあり、後付けの法令で排除されるにはあまりにも法令と実情が乖離していることもあって、なんというか、ここでもやはり客待ちを本業とする人の切実さを想って考え込んでしまう。


部外者は気楽で当事者は切実なのだが、傍目八目というのか、部外者の意見のほうが大筋マトモに見えることも多い。もちろん、部外者が勝手気ままに出来もしないことを言う場合もまた多いのだが、そういう部外者による余計な口出しの部類が法律として制定されるなんていうことがままあり、どうしたものかな、と思う。

こういう場合の運用として、いくつかの方法が提案されている。ひとつは、ソクラテスばりに「悪法もまた法なり」という具合で、ルールはルールとして厳格に適用していくという道になる。ゼロ・トレランスとも呼ばれて、それなりの評価もある方法ではあるのだが、歴史上の法家の故事などを知っている東洋の文化の中では、あまり受けがよろしくない。

また、理想的な解決として、運用開始されたルールの問題点を素早く吸い上げ、実情に即したルールへと日々改善し、法令が設定当初に持っていた目的を現実的な形で実施できるような形へと仕上げていく方法がある。民主主義の覚悟ができた国民としてはこれが理想なのだけれども、これもまた支配と恭順の伝統が残る日本の文化には合わない。

それから変わり手として聞こえてくるものに、確率的罰則、あるいは見せしめ的処罰というのがある。違法行為の大部分は見逃されるのだが、ときどき気まぐれに厳しく処罰される。こうすると、大多数の善良な人は不合理な処罰を嫌って違法行為から距離を置くので、個人の節制によって法の定める罰則水準に近づきすらしないのだという。西洋的なフェアネスに則って全てのケースを合理的に判断してしまうと、その合理的判定ギリギリまでが当然に許されるものと、人間は心理的に考えてしまうかららしい。

日本の道交法というのは見事にこの確率的処罰の方法で運用されているのだが、本当に理論通りになっているとは言いがたい。時速50キロ制限の道路を40キロで走るのが主流とはなっていないし、最近になって路上駐車が減ったのも、違法駐車摘発部隊を雇って確率的罰則から合理的判定にいくらか近づけたためのように思える。


ルールが実情を無視して運用され続けるとき、人は最初にルールを遵守するか無視するかの選択を迫られるのだが、結局のところ無視するしかないという結論に至る。すると、次第にルールを無視することに対して鈍感になってしまい、本当に重要で適切なルールまで踏み外してしまうようになる。「嘘つきは泥棒の始まり」ということわざはそういう事を言っているのだと思うし、ユダヤの格言にあるという「誰も守ることができない法を定めてはならない」というのも、やはりその手の意味があるのだと思う。

それはまあ、泥棒をする人間が悪いのは確かなのだけれども、どこかに悪法を放置してしまった責任というものもあったのかもしれないと考えるような、そういう反省の仕方があってもいいんじゃないかと思う。問題を見つけたときに「対策」と呼べそうなものを考えるのは案外簡単なのだが、その実際の影響、特に副作用的な影響を推測するのは難しい。もちろん勘の鋭い人はそれに気付くわけだけれども、かといって問題を放置するわけにもいかず、結局は無理を通すことになる場合も多い。


最近では脱原発がどうのこうのというニュースが聞かれてくるけれども、そこにもやはりそれを本業とする人々の切実さというものがあり、そういう切実さを考慮しながら、それでも全体的な仕組みというものを理解しつつ制度を作り上げていくというのが政治というものなのだろう。社会に歓迎されない産業には人材が集まらないから、放っておいても自然に衰退していくものだ、というのが自由経済の原則なのだけれども、それには職業人としての寿命に相当するスケールの時間を要するので、問題解決に急を要する場合には、やはり政治の出番となる。重大事故を起こした原子力事業に対して、つらく厳しく当たるのは当然としても、一方的に厳しいだけでは問題は解決しないのだろうから、そこは政治交渉の腕の見せ所になるのだろう。

で、そういうわけなのだけれども、どうも政治をする人に生活の掛かった切実さが感じられないような感じがあって、そのあたりのバランスの悪さが今の政権が抱える問題の根っこの部分なのだろうと思う。庄屋とか名主とか、昔の国家レベルの組織構成で「中間管理職」的な位置にあった人々には、政治的な交渉に相当する活動が生活の中で大きな部分を占めていて、そういう人たちが国政に参画した場合には、切実さから発するような政治交渉をしていたのだろう。先祖伝来の「票田」を守るような世襲議員は、対立する立場から見ると実に老獪で厄介な相手なのだが、政治を実行する上での切実さを持った人間という意味では、実に適格なのかもしれない。

特定の地域や職業団体を背景に持たない人は不偏不党のクリーンな印象を与えるのだけれども、結局そこには深刻な切実さがないという特徴を伴っていて、そういう人には主流より傍流にあって傍目八目を保っていてもらうのが全体としてはよろしいんじゃないでしょうか、というのが今回の教訓になったように思う。まあ、国民を殺してでも何事かを成し遂げたいというほどの切実さを持った人よりは、何もなさない人のほうがまだましだというのが、より長いスパンの歴史を見たときの教訓でもあるので、ほどほどがいいのだけれども、しかし中庸ほど難しい目標もないというのがつらいところではある。
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by antonin | 2011-07-14 13:48 | Trackback | Comments(0)

不肖不精日記

なんだか、3本くらい非公開状態のネタが眠っているのだけれども、書くコツを忘れかけているのと、ちょっと睡眠不足というのが重なって、うまくまとまらない。まあ、そのうち再利用してみよう。

鈍行列車で3時間ほどのたびの途中、駅ナカの書店を散策して、新書を一冊買ってきた。Amazonのおすすめ機能も悪くないが、新しい買い物をしないと内容が固定化されてしまって面白くない。そういうときはやっぱりある程度規模のある書店の店頭を覗いてみるのも面白い。で、買ってきたのはこれ。

仏像はここを見る―鑑賞なるほど基礎知識 (祥伝社新書 (024))

瓜生 中 / 祥伝社



信仰としてニュートラルな立場から美術品として仏像を鑑賞する人のために、教養としての日本仏教の概要と、それに関連する仏像の記号的なあれこれを紹介する作品。しかし私は真言宗の立場から信仰の対象として仏像を見たいので、そういう意味での無知を埋めるための初歩的な資料として買ってみた。感情という内なる動物を理性が飼い慣らすための技術が信仰なので、せっかく使える道具は有効に使いたい。

あと、技術書を買ったり除湿機を買ったりもしたが、そちらは省略。

しかしまぁ、一人暮らしに最適な都内で子育てをし、子育てに最適な地方で一人暮らしをするというのは、なんだか屈折しているなぁ。逆ならいいのに。
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by antonin | 2011-07-07 13:50 | Trackback | Comments(11)

車輪を再発明してみる

プログラミングの世界で有名な原則のひとつに、DRY原則というやつがある。"Don't Repeat Yourself"だか、そんな感じの言葉の略だったと思うが、要するに同じ作業を繰り返すようなことをしないで済むというのがコンピューターを利用する目的なのだから、同じようなプログラム単位を何度も書き直すようなことをしないで、共通化したり再利用したりして生産性を上げましょう、という鉄則がある。「車輪の再発明をしない」というともうちょっと進んでいて、"yourself"に限らず、誰かが仕上げたことのある仕事はそれを利用させてもらって、同じことを繰り返すのはやめましょう、という原則になる。

ということで、職業プログラマは基本的に先人の成果が存在するような基本的な作業を避けて生産性を上げるべきなのだけれども、一方で、常に新しい未知の分野に挑戦しないと陳腐化して価値が下がっていくのもまた職業プログラマの宿命なので、先人の成果を利用するための学習という部分にも一定の労力と時間を割くべきである、という鉄則もまた存在する。この場合、掛け算を学ぶ子供が計算機を使わずに相変わらず九九を暗誦させられるように、あるいは毒性を取り除いたワクチンを接種して伝染病に備えるように、ダイジェスト化された車輪の再発明をあえて実行することが深い理解への近道となっている。

で、フレームワークやらライブラリやらの代表的な機能をあえてスクラッチで書いてみたり、それを再利用できる資源に仕上げてみたりという練習をしてみるテキストが広く読まれたりするわけだが、ここでは、本当に「車輪の発明」の過程を追体験してみたい。もちろん、人類の歴史における車輪の発明というのは、おそらく文字の発明より古い時代の出来事なので、その正確な様子など知りようもないのだけれども、別に史実でなくとも車輪の発明を考察してみることはできる。つまりそういうことをしようと思う。


車輪が発明される以前の状況を想像してみる。馬やロバやラクダなどの家畜は、あるいは運搬労働力として利用されていたかもしれないが、重い荷物を運搬する労力として主流だったのは、やはり人力だっただろう。現代日本人として家畜を使った荷物の運搬を正確に想像するのが難しいということもあるので、やはり人力で少しでも効率よく荷物を運ぼうという状況を考えてみることにする。

まず、一番単純な運搬の方法というのは、荷物を手や肩や背中、あるいは頭の上などに乗せて、普通に歩いて運ぶ方法だろう。ただ、これもある程度大きくなってしまうと、人一人の手に負えなくなってしまう。そこで、紐などを結んで、それを複数人で引っ張り、荷物を地面に引きずるという形になるだろう。古代以前では舗装道路などもなかっただろうから、路上の草や土が潤滑剤となってそれなりに荷物は運べただろう。けれども普通に荷物を引きずるのでは、荷物が削れてしまって破損するし、設置面積が大きいので引っ張るにも強い力が必要になる。そこで、第一の工夫が生まれる。

第一段階の工夫は、おそらくソリのようなものだっただろう。平滑で滑りやすい材質の板であったり、あるいは接地面積を減らして摩擦抵抗を減らすように工夫された、シュー(スケートのような細い板)の付いたソリだっただろう。ただし、工夫によって従来の限界が突破されると、次の限界にぶつかるまで利用方法がエスカレートしていくのが自然だから、まもなくソリでも運びきれないような重い荷物の運搬を工夫する状況が生まれただろう。そこで、第二の工夫が生まれる。

そこで出てきた工夫というのは、おそらく、丸太のようなものをソリの下に並べて、コロとして利用するようなものだっただろう。これで摩擦抵抗は転がり抵抗に置き換わり、重い荷物を引きずるときの力は格段に低減されただろう。最初はいびつなコロだったものが、次第にきれいな円柱形に整えられ、その効率が向上していっただろう。しかしこの方法には大きな問題がある。引っ張る力は確かに軽くなるのだが、後ろに残ったコロをソリの前方まで運ぶという作業を、延々と繰り返さなくてはならない。どう考えても、これは引っ張る力を軽減するというメリットを打ち消して余りあるような面倒な作業だったに違いない。ここで、そろそろ車輪を発明する下地が完成する。

コロの上をソリが滑っていくからコロは後ろに吐き出されてしまう。だったら、コロをソリに固定してしまえばいいではないか、ということを誰かが思いついただろう。しかしこれをやってしまうと、せっかく地面との摩擦抵抗を転がり抵抗に置き換えたのに、再び固定化されたコロとソリとの摩擦抵抗に逆戻りしてしまう。とはいえ、そりはシューの全体で接地していたのに対して、固定コロではコロを固定する小さな部分だけの摩擦となるので、その部分を集中的に磨いたり油を塗ったりなどすれば、かなり摩擦抵抗は低減できただろう。

そうはいっても、重い荷物を乗せている以上、摩擦抵抗はかなりの大きさだっただろう。そこで、コロを固定する部分だけコロを細く削り、接触面積をより小さくするとともに、てこの原理で軸部分を回す力を増強することができるようになる。しかしあまり軸を細くしてしまうと、今度は強度的に重い荷物に耐えられなってコロが折れてしまうので、今度は軸部分を細くする代わりにコロの全体を太くしてみる。そうすると、コロを太くすれば太くするほど、そりを引く力が軽くなっていくことに気づいただろう。ころの外径が固定部分に比べて太くなるにしたがって、てこの原理で増幅される回転トルクが大きくなっていくからだ。

ここまでくると、コロがソリの底面にぶつかる面倒を避けるために、ソリの下の部分はもう軸だけになり、ソリの外側にはみ出した部分だけが太い円形になる。最後には、丸太の軸だけをソリに固定して、その軸の両端に大きな円盤を組み立てて取り付けるだけというスタイルに行き着く。その円盤を、後世の私たちは「車輪」と呼んでいる。このようにして、私たちは車輪を再発明した(気分になった)わけである。


もうひとつ、最近面白い再発見をしたのだけれど、それは「煙突はなぜ細長いのか」という疑問の答えを見つけたことだった。以前は漠然と、有害な排気を人間の生活に影響がない程度の高度まで運んでから大気中に放出するのが煙突の目的だと思っていた。ところが、金魚の水槽の水を一部入れ替えるのに、プラスチックポンプ(灯油などを入れる、赤い頭のアレ)で水を捨てていたとき、ポンプのホースの先を水槽の水面より下にして、水の重みで勝手に水を吸い出すようにしているのを見て、煙突もこれと同じことをしているのだと気づいた。知っていればなんと言うこともない常識なのだろうが、気づいてみるとなるほどと思う。

煙突の下では普通何かを燃やして、その熱を利用しているのだけれど、煙突から排出している排気もまだ相当の熱を持っている。そういう排気を細長い煙突に通すと、熱くて軽いガスは煙突の中を勝手に上っていく。それは長ければ長いほど強い力となって、ボイラー部分から燃焼ガスを抜き取るような力となって働き、さらには新鮮な空気をボイラー内に引き込む力ともなる。結局のところ、高い煙突というのは、廃熱を利用してボイラー内を換気する、一種のエンジンとして機能しているのだった。

そのためには、上から冷たい空気が入ってこない程度の細さも必要になるし、軽い排気の上昇力を一定レベルに高めるための長さも必要になる。そういう結果が必然的にあの煙突の形状を要請していたのだった。古い時代の陶器を焼いていた登り窯も似たような仕組みなっていたというし、そういう工夫が積み重なって煙突という発明につながっていったのだろう。


すでに発明済みのものを調べもせずに、なんでもかんでも自分で作り出してみるのは効率が悪いが、調べて見つけた道具を使ってみることだけで満足していると、理解が浅くなる。余裕のあるときでいいので、先人の気持ちになって真剣に再発明に挑んで見るのもいいだろう。

電子機器の接続端子にはなぜ金メッキがしてあるのかというのと、鉱石ラジオはなぜダイオード検波できるのかということには、一定の関連がある。表面の材質や酸化状態の違う導電性端子を接触させると、そこにダイオードが形成されるというのは、実は一般的な性質らしい。そのダイオードを意図的に作り出して検波に利用したのが鉱石ラジオだし、接点の抵抗を下げると同時にダイオードの形成を極力避けようとして、あえて高価な金を利用したのが金メッキ端子ということになる。液晶パネルのような、材料が多彩で信号が微弱な世界になると、"Ohmic contact"の確保というのは意外に慎重さを要求される作業になるらしい。

参考:ショットキー障壁

結果だけを見ると天才の仕業にしか見えないようなものでも、同時代的な流れを見ると、それにしたってやっぱり天才的発明ではあるにしても、いつかは誰かが見つけたのだろうなと思えるようなものが多い。今もいろんな分野で機の熟している知恵があって、天才に発見されるのを待っているのだろう。
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by antonin | 2011-07-07 13:27 | Trackback | Comments(0)

本能の当てどころ

「子供というのは、3歳までに一生分の親孝行を済ませている」という話があって、なるほどな、と思う。

まあそれをあまり真に受けて、生きている親への孝行をないがしろにする言い訳にすべきじゃないんだろうけれども、自分の子供に対する態度としてはそれでいいのかなという気がする。期待しなければ裏切られることもない、というのが「諦」の分かりやすい解釈だと思っているので、子供に余計な期待をしないという意味でもいいんじゃないだろうか。

子供の3歳までの記憶というのは、当人はなかなか覚えていないものだが、親は一生それを忘れない。よく「3歳神話」というのを聞くけれども、あれは子供の脳の発達云々というよりも、成長に連れて徐々に可愛げのなくなっていく子供に対して、一生変わらぬ愛情を持って接していけるだけの「孝行」を親の記憶にどれだけ収めることができるのか、とか、どちらかというとそういう親の側にとって切実な話なのではないかという気がしている。

「猫可愛がり」という言葉を使うが、小さい子供というのは勝手気ままで、それでいて最後には絶対親を頼ってくるので、その振る舞いというのは猫のそれに似ている。というよりも、大人の脳に組み込まれた本能的な感情を刺激するような動作をする、やはり本能的な仕組みが子供の中にもあり、そしてその仕組を真似るように進化しつつ人間と共生してきたのが、猫という生き物なのだろう。

20年生きた猫は化猫になると言うが、うまくいけば親より長生きする子供と違って、猫の寿命は人間より短い。それが人間の本能的な感情に20年も入り込み続けた挙句に消えてしまうとなると、残された人間の側の喪失感は大きいだろう。そういう喪失感が引き起こす現象を客観的に説明しようとすると、化猫というモデルになってしまったんだろうと思う。

昔は子供が巷にあふれていたから、そこら辺で遊んでいる子供を構ってもそういう本能的感情は満たされたんだろうが、最近ではなかなかそういう事もできなくなって、それで猫が売れていくのだろう。個人的には猫に対して特別な感情がわかないのだけれども、それは単にその手のvacancyがないからというだけのことなのかもしれない。逆に言えば、猫によってvacancyが埋められているから、子供に対してこれといった感情がわかないという人もいるかも知れない。

一方、犬というと帰属とか序列とかそちら側の感情に関与する生き物なので、仕事とか競争とか、子育てとはまた別の方面で効果を発揮している気がする。まあ小型犬なら猫がいるのと同じ位置を占めているのかもしれないが。
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by antonin | 2011-07-07 09:49 | Trackback | Comments(0)


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