安敦誌


つまらない話など
by antonin
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これでいいのだ

コドモたちがローカル局の再放送で元祖天才バカボンを見ている。アニメ版バカボンも大雑把に2世代あるけれども、テレビでは私たちが子供のころに見た第1世代のほうが流れていて、コドモたちも意外に違和感なく見ている。私が子供のころにも鉄腕アトムや鉄人28号のリメイクなどを見たが、コストダウンのために白黒の初代作品をそのまま流すということはさすがになかったと思う。ウルトラマンシリーズやルパン3世などを繰り返し再放送していたことはあったが、当時としてはそんなに古いものでもなかった。今でもキー局などではそういう古い作品が流れることもないので、放送チャンネル数の増加による余裕というか、あるいは余裕のなさといったほうがいいのかもしれないが、そういうものが昔の作品の再放送を生んでいるのだろう。

過去にヒットした作品というのは、当然ある水準の品質を満たしているので、あとの世代でそのまま流用しても意外に通用することが多い。そうすると、人間の寿命と同じか、うまくすると人間の寿命を超えて鑑賞される。そういう、世代を越えて共有される作品が、ある地域の文化を形成していくのだろう。何か説明が面倒なことを言葉で表すときに、共有している作品に出てくる人物や場面を挙げれば、それで話が通じることがあって、共通辞書というのか符丁というのか、そういうものを持っていれば簡単に話が通じるが、もっていないと話が通じない。そういう区分が文化の境界を作るし、何か困ったときに作品の一部を思い出して、自然とそれに倣った判断をすることが、行動面の傾向を作る。

江戸時代には歌舞伎や浄瑠璃、長唄や落語なんかがそういう文化を形成していたと思うけれど、昭和には水戸黄門や大岡越前が、平成ではサザエさんやドラえもんあたりが、実質的に日本文化を担う共通辞書になっているんだろうと思う。水戸黄門や大岡越前は江戸時代の話しだし、サザエさんやドラえもんは昭和の話なんだけれども、この手の作品は当の時代の大人から子供まで認識が共有されていないといけないので、どうしてもひとつかふたつ前の時代を描いたような作品になる。男の子的には、明治にはチャンバラが、昭和後期には航空戦あたりが、平成の次あたりにはガンダムみたいな宇宙戦なんかが、共通辞書になるんだろうと思う。

言語や物流の縛りなどもあって、だいたいそういう共通辞書は特定地域内のもので、したがって共通辞書の存在によって形成される文化のほうも、特定地域と強い結びつきがあった。ただ、古い神話の一部は、ある種の宗教が持っていた「布教」という自己増殖能力と結びついて、地域を越えて広く広がったりしている。古代バビロニアあたりに由来があるという旧約聖書の物語は、なんやかやできっと南米あたりまで知られていると思うし、バラモン教の雑多な神話の一部も、仏教に取り込まれて日本までやってきている。

ところが、そうやって長い年月を経て国境を越えた神話というのは、同じ源流を持っていながら、時間的、空間的に長い旅を経ることで、結局独自解釈によってアレンジされたりしているので、これもやっぱり地理的距離に比例した隔たりを持った地域文化を作ったりしている。「サブカルチャー」という単語の定義は、多義的過ぎて正直よくわからないのだけれども、その混乱に乗じてひとつ意味を付け加えると、そうやって地理的な地域と強く結びついた、古いスタイルの「カルチャー」に対して、20世紀初頭の電信やその後のラジオ放送あたりから始まった、地域性よりむしろ時代性や嗜好性によって区分けされた文化区分をサブカルチャーと呼べるんじゃないかと思う。

音声作品や映像作品が楽しまれるようになっても、やっぱり生演奏や舞台演劇や肉声による語りが主流だった時代には、サブカルチャーのほうがあくまで「サブ」で、「メイン」の文化は地域文化のほうだっただろう。ところが、テレビには海外から輸入した番組や映画があふれ、普通の市民の日常生活の中でPCや携帯端末でネットに触れるような時間の比率が高まってくると、どちらかというとサブカルチャーのほうが「メイン」になってきて、地域文化のほうが「サブ」に落ちるというような逆転現象も、だんたんと出てきたのではないかと思う。

もちろん、テレビ局もある程度の戦略性を持って輸入する作品を選んでいるので、まったく無差別にサブカルチャーが世界均一になっているとは思わないけれども、アメリカで作られた映画が世界各国で見られていたり、こちらは完全に日本ローカルだと思っていたアニメ番組が多くの国の子供に見られていたというようなことも考えると、もうどちらがサブなのかわからない地域というのは徐々に増えてきているのだと思う。

で、まぁ、なんの話かというと、そうやって、地域性よりもどんな作品に接して育ったかが所属文化を規定しちゃうような世の中を今現在生きているんだけれど、そんな中で偶然、コドモたちが天才バカボンを見ている、と。もう今の日本人は、国定忠治とか、楠正成とか、弁慶・義経なんかでは感覚を共有しなくなったのだけれども、そういう中でコドモが天才バカボンを見ることで物語の辞書を形成していて、その結果として親子が同じ文化に所属するようになるという現象が目の前で起こっている。なんだか不思議なことだなぁ、と思った。


バカボンのパパは41歳と歌われていて、もうすぐ追いついてしまう。家の外で来年40だよと言ったら、40歳って「初老」なんですよね、と言われてしまう。40が初老ってのは、女が二十歳過ぎると「年増」って言われてた時代の話だろう、と切り返しておいたが、辞書で「初老」を引くと、確かに「四十歳の異称」と書いてある。70歳なら古希だが、70まで生きるのは古来まれなりというような中国の古典から来ているらしい。魏志倭人伝には倭人は百歳まで平気で生きる長生きな民族だと書いてあるから、日本人基準では別にまれでもないのかもしれないが、とにかく古希を過ぎたうちのオヤジは元気にしている。

「慶事抄」の後日談で甥っ子が生まれたので、時間があったら見に行こうと思うが、細切れの時間しか空いていないのでどうなるかわからない。この子が長じてバカボンを見る機会があるのかとなると、なおのことわからない。
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by antonin | 2011-08-18 10:42 | Trackback | Comments(0)

頭の中に鏡があるか

ヲタクっていうのが厳密にどういう人種なのかちょっと見当がつかないが、漠然と考えると、身なりにあまり頓着しない性質の人たちなんじゃないかと思う。コスプレイヤーみたいな人たちもヲタクの範疇に入るのかもしれないけれど、あの姿で人前に出られる神経を指して、「身なりに頓着しない性質」の一種としても、そんなに外れていないと思う。そういう私自身も、あんまり髪型とか服装に頓着しない性質なので、アニメなんかにはあまり興味が続かなかったけれど、どちらかというとそちら寄りにいるのだと思う。で、もう少し掘り下げたコアの部分にヲタクがヲタクである根源が何かあって、そこから派生したものが、服装に頓着しない性質とか、特定の趣味に執着する性質とか、そういう形で外に見えてくるんだろうと思う。

その、コアの部分が何かと想像すると、おそらく、他人の気持ちを想像しにくいという特徴なのだろうと思う。別に私がここで推論しなくとも、多くの心理学者やそれに類する人たちが指摘済みなんじゃないかと思う。自閉症とかアスペルガー症候群とかいう病気があるが、あれは先天的な脳の障害なので病気の扱いになる。ただ、幼児体験として同世代の子供たちとバトルしながら育つ機会をあんまり豊富に取れないような環境で育つと、それはそれで、後天的な学習不全としてアスペルガー症候群に類似の性質を示すようになるんじゃないかと思う。特に、核家族化が進んで母子が隔離されるような都市環境だと、そういうことは結構簡単に起こるような気もしている。

身なりに頓着しないというのは、他人が自分をどう見ているかということをシミュレーションしてみる能力を持たないか、あるいはそういう習慣を持たないか、そのどちらかなのだろう。そうなると、本人さえ気にしなければどんなに地味な姿をしていてもいいし、逆に障害なく本人の希望のままに姿を飾ることもできる。なので、まったく服装に頓着しない人と、逆に常識を外れるほど奇抜な服装で外出できる人という両極端の部分に、こういう性質の人が含まれているのかもしれない。

他人が自分をどう見ているかということを意識しない人というのは、服装だけではなくて言動にもおそらくそういう部分が現れてくるだろうから、ある程度感情の予測がつく平均的な相手に対して、無難な言動よりもぶしつけな言動が多くなるだろうことは、アスペルガー症候群の診断基準からしても明らかだろう。そういうところがあって、見た目に頓着しない人が平均的な人から好かれないというのは、必ずしも見た目だけの問題ではないのだろう。

少し脱線すると、読者の多いブログを書く人というのは、おそらく読者が文章をどう読むかというところを常に意識しながら書いているのではないだろうかと思う。内容が真実や主張と一致するかはもちろん重要だけれども、それよりも読み手がどう受け取るかというのを常に考えながら表現を選んでいるだろう。一方の私のような性質だと、あんまり語弊のあることは書かないようにしているが、基本的に自分の書きたいタイミングで自分の書きたい内容を自分が読みたい文体で書いている。それが人目につけば楽しいと思うからこうして公開で書いているけれども、より多くの読者に読んでもらえるような工夫とか、そういうことは考えるのが面倒だし、実際考えていない。一時はPV欲求などもあったけれども、あんまり不特定多数の人に読まれても、その文脈のないリアクションに耐えられないということも判明したので、開き直っているというのもある。

話を少し戻すと、社会人入門のようなビジネス書の決まり文句は、必ずといっていいほど「相手にどう見えるか常に意識しなさい」というようなところを軸にして書かれていて、ヲタク体質の人間にとっては入り口からハードルが高い。平均的な人にとっては「歩くときは踵から着地するようにしなさい」というのと同じ程度に簡単な指示に感じるだろうが、ある種の人にとっては、QoSを高めるパケットルーティングを意識するとか、トラクションを安定させるクラッチ圧を意識するとか、そういうことよりもむしろ難しい指示になっている。

「空気を読めない」人には、先天的に無理な人と、後天的に苦手な人と、習慣的にできていないだけの人と、おそらくいろいろな水準があって、取るべき対応もいろいろなんだろうけれども、情報化社会というか、後期工業化社会というか、そういう局面で炙り出されてしまう性質というのが、確かにあるんじゃないかという気がする。

他人からどう見えるかを意識するといいというのは理解できるのだけれど、足腰弱いのに「階段はダッシュで上がるといいよ」というアドバイスを見ているような感じもあって、そのうち効果が現れる場合もあるのかもしれないが、ちょっとどうかなぁと思う。ただ、他人の視線を自然に想像できる人にとって、他人の視線を想像しにくい人の気持ちというものは、きっと想像しにくいだろう。なんだか非常にメンドクセー種類の話であるなぁ、と思う。
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by antonin | 2011-08-04 15:27 | Trackback | Comments(9)

淘汰原理と文明

若い女性が、腕や、背中や、足を惜しげもなくさらけ出して歩いている。男性の姿というのは、100年前の写真を見ても古風だなという以上のおかしさはあまりなくて、かなり保守的なところがある。女性の姿というのは、20年もするとこれは同じ国の風俗なのかと疑いたくなるほど変化していて、ときどきリバイバルなどもあるが、100年前の写真ともなると、何かファンタジックな感じすらする。そういう風に女性の服装には流行があるのだけれど、その流行の最先端を走るのはいつも娼婦の世界だという説がある。ブーツは軍人が雨の原野を行軍するときのためのものだったが、それを女が履いてみせたのは軍人相手の娼婦が最初だったという話もあるし、靴の踵を高く上げたのは誰だか知らないが、ハイヒールの踵をピンヒールにしたのも娼婦が最初だったと聞く。そういうものが、10年もすると一般女性の服装として流行してくる。

アイコン的な、特別な意味の紐付けが薄れたからというのが普通に考えるところの理由なんだろうけれども、男を誘うことをナリワイとする女性の選択が、最終的に一般女性にも魅力的に映るということは、何か先天的な女性の性質に訴えかける部分もあるんじゃないかと思う。別に直接に男性へのセックスアピールを意識してはいないのだろうけれども、逆に言うと、無意識にそういうものを求める性質が女性にはあるのだろう。だから、女性というのは本質的に娼婦の部分を持っていると言える。


平和な時代が続いて、戦争経験者が老人ばかりになる。そういう時代に男はどうしているかというと、企業組織に入って、「企業戦士」などと呼ばれている。ひどい現場には過労死や過労自殺などの「企業戦死」というような事態も見られる。覚めた目で見ると、彼らは企業組織の奴隷的存在なのだけれども、強制と苦痛にまみれているだけでもなく、どこか嬉々として目を輝かせながら自律的に働いている男が多い。男が集まって組織を作ると、中央集権的で規律的な組織にしても、フラットで自由な組織にしても、最終目標として競争と勝利を目指す場合が多い。男性の場合は、本質的に生まれながらの兵士の部分を持っているのだろう。

女性の娼婦性というのは、進化と淘汰の仕組みに直結するので当然という感じもあるけれども、男性の兵士性というのも、人類の進化の過程でどこか必然的な理由があったんだろう。自然環境には波があって、状況の良い年には食料が豊富になる。そうすると、人類に限らず動物というのは食料の範囲内で最大限まで増殖する。人間向けの用語で言うと、人口を増やす。ところが波には必ず下り坂があって、食料の減少局面、人間向けの用語で言うと、飢饉が発生する。

そうなると、まずは身の回りで極限まで食料を探し出す。こういう過程で人間はナマコやゴボウの味を覚えていったのだろう。ときどきフグやトリカブトを食べて死んだりなんかしながら。それでもダメとなると、他の土地を探す。それで食料が見つからなければ死滅するが、無事に食料が見つかればそこで暮らすことになる。そのとき、そこが空き地ならば無事解決だが、先住民がいるとなると、別の土地を探すか、先住民と戦うかのどちらかになる。私たち人類の祖先は、そういう場面で結構頻繁に戦ってきたというのが、言葉で伝えられた歴史にも残っているし、遺伝子の中にも色濃く残っている。

結局のところ、死を選ぶのか戦争を選ぶのかという場面が人類史の中に頻発していて、その中で戦争を選び、なおかつ勝ち残ってきた遺伝子が濃厚に堆積しているのが、現生人類の中でも特に文明の中心部分にいる民族なのだろう。日本人も、まずまずその部類に入っている。


で、なんというか、人類の本能的な感覚として、苦しくなると戦いと略奪を選択したり、その戦いの勝者に魅力的に映るように努力したりと、なんとなくそういう感覚が組み込まれているように思う。良いとか悪いとかではなくて、進化の偶然と必然の結果として、そういうふうになっている。一方では、戦いを選ぶより座して死を選ぶとか、なにはともあれ逃亡するとか、そういう草食的な遺伝子も堆積している。このあたりは性別を越えて混ざり合う部分があるらしく、男より男らしい女とか、女より女らしい男というのが、統計学の許す可能性の範囲内で登場する。

人間にはそういう本能的な感情が、個人差はあるにしても、備わっている。その本能のままに生きるのが野生で、そういう本能を克服し、理性が計算して設計する理想を、苦痛を感じながらも守っていくのが、文明というものの本質なんだろうと思う。その結果として人類はひと時にしても地球生命の覇者というような位置に立っている。ただ、なんというか、いま現在私たちが文明だと思って追い求めているのは、それは本当の意味で文明なんだろうか、という疑問がある。

古い因習があって、従来の人類はその因習に従って生きてきた。今の日本が目指している文明というのは、過去の因習は無知が生み出した産物なのだから、文明によってその因習から人間を解放し、文明的な自由を手に入れて発展しよう、というような信念がある。

ただ、この「自由」というやつが厄介で、なんとなれば、究極の自由とは、偶然まで含めたすべての責任とセットにして引き受ける、完全自由競争の世界になる。資本主義者が信じる市場原理の完全性みたいなものを最大限に実現しているのは、ルールがないのがルールという中ですばらしい進化を実現してきた、純粋に弱肉強食の進化論的世界ということになる。もちろん、現実の資本主義者は完全な自由競争までは主張していないので、「究極」の話を批判と取られると面倒なのだけれども、実は資本主義者というのは、市場原理の正当性という、ある種野生的な競争と淘汰の世界を目指すような志向は持っているということになる。

自由競争の創造性というのは素晴らしいもので、自然界にも追うチーターの駆動力と追われるガゼルの跳躍力も産み出したし、花と蜂の相互依存からハゼとエビの共生に至るまで、さまざまな協力関係まで産み出している。虫たちの擬態や孔雀の羽も、全て自由と競争と淘汰の原理が産み出したものだ。人間社会もその延長線上にあって、資本主義と社会主義の競争まで含めた大きな意味での競争原理は、とうとう人類を月に送り込んだ。

一方でその裏側には当然のように競争の敗者たちが累々と横たわっていて、一定数のガゼルはつねづね食われているし、ガゼルに追いつけないチーターの子は、親の頭数を大きく超えない程度に餓死している。蜂やハゼにどういう悲劇が起こっているのかまでは詳しくないが、資本主義と社会主義の競争では多くの人命が失われている。

そういう自由競争の持つ残忍さを拒絶して、理性の力を極限まで信じたのが、ヒトラーあたりまで含めていいと思うのだけれど、社会主義者たちだろう。ただまあ、現実の社会主義国は資本主義国もびっくりの残忍性に陥ってしまったし、そういう事態を見る前に、日本では飛鳥時代に「公地公民」という大陸伝来の社会主義に基づく国家を目指したものの、結局人間の本能的な意欲を生かしきれなくて、なし崩し的にそれを諦めていったという歴史を学校で習っている。

で、結局日本では「一所懸命」とか「お家大事」という原理を抱えつつ、江戸時代の終わりまで続けてきた。これが西洋文明との接触で大変な衝撃を受けて、尻に火のついたような勢いで急激に「文明開化」の道に走り始めた。そしてチマチマした内戦とか4回くらいの対外戦争を経て、「未開の因習」を脱して、すっかり「文明国」の中でも「先進国」になった、というふうな認識でいると思う。

ただ、最終的な着地点が、民族主義と帝国主義を乗り越えた先の自由主義というところにあって、文明化が一周回ってむしろ野生的になってきているように見えるようなところも、一部にある。アメリカとの戦争に負けて最新式の憲法を頭上に戴いた日本は、その源流に当たるアメリカ文化をかなり脅迫的な勢いで取り入れていく。占領軍の兵士たちが勝利の"Victory"サインを示しながら、「米国の勝利による平和の到来」という意味で"Peace !!"と言いながら写真を撮っているのを見て、「写真を撮るときはピースと言うんだ」という具合の貪欲さで、文明と文化をない交ぜにして吸収していく。

一方で化学・機械・電気などの産業を爆発的に進歩させながら、帝国政府が唱えていた男女分権よりはアメリカ的な「女性解放」の流れなども選択していく。「お家大事」で家系の継続を優先していた見合い結婚は徐々に廃れていき、自由恋愛主義に向かう。堅苦しい因習を我慢していた頃よりも、感情のままに恋愛するのが素晴らしいのだという自由の中で、若くて美しい男女が「文明」の魅力に落ちた。ただ、男女の恋愛と自由がセットになると、そこに現れる風景というのは想像以上に野生的なものらしい。強くて活動的な少数の男と、男を惹きつける魅力を振りまく多数の女性と結びつき、男は富を求めて男同士で移動しようとし、女は安定を求めて女同士で定住しようとする。そういう、人類というよりヒトの原型のような世界がチラチラと姿を現し始めているようにも見える。

確かに技術的には今の日本というのは人類史上最大限に文明的なのだけれども、現代の常識から見て数多くの非合理に見える「因習」にまみれていた過去の文化のほうが、どちらかというと人間の原始的な感情を克服しようとする文明の本質に近かったんじゃないかというような推論になってしまう。街の景観などを見るとひどく因習的かつ文明的に見えるヨーロッパだけれども、一方では結婚制度という因習を徐々に破壊して、自由主義にとって心地よい世界を模索していく方向に動いているのが不思議に見える。

日本はこれからどちら側へ舵を切っていこうとしているのかちょっと見当が付かない。アメリカは自由主義の総本山だけれども、もう一方にキリスト教という因習の雄も同居しているので、意外に面白いところでバランスを取っているように見える。一方の日本は、寺社奉行と明治政府によって仏教を骨抜きにされ、占領統治で国家神道も骨抜きにされたので、もう天然自然の自然崇拝とかアニミズムとか、そんなものくらいしか因習的文化が残っていない。この状態で経済的にも何かがロックオンしてしまっているのか、20年くらいゼロ成長を続けるという、ある種の超安定モードに入っている。

この超安定モードがどういう終わり方をするのか、バリッと音を立てて暴れながらどこかにすっ飛んでいくのか、あるいは音も立てずに静かに沈んでいくのか、そのあたりはわからない。わからないのだけれども、いろいろな内部パラメータを動かしながら、当面はこの超安定モードが続いていくんじゃないかという気がしている。たぶん、私たち団塊ジュニア世代とその周辺が苦痛に顔をしかめながら団塊世代をあの世に送り出したあたりでモードが劇的に変わり、その先は、人間働けなくなったらベッドに横たわりながら五穀断ちなんかをして静かに最期を迎えるというような、比較的野生に近い世界に移行するんじゃないかという予感はしている。

「楢山節考」で、捨てられるというよりも強靭な意志を持って自分を捨てさせるばあさんが主人公なのだけれど、2050年に79歳を迎える自分が、どの程度このばあさんに似た心境を持つに至る経過をたどるのか、あるいは昭和とさして変わらない感覚で終わるのか、そのあたりの予測が付きにくい。親の死を見て、「こうやって死にたい」と思うか、「こうは死にたくない」と思うか、結局はそのあたりが分岐点になるんだろうと思う。

死というのは生命に対する淘汰で、廃業というのが企業に対する淘汰になる。競争と淘汰が進化論と市場原理の根源なのだけれども、純粋な競争と共同利益による協力の落としどころをどこらへんに求めるかというあたりが、文明の仕上がり具合を計る目安になるんじゃないかという気がする。例によって、理想的中庸というのは近づくと見えなくなる逃げ水みたいなところがあるので、現在の茹で蛙みたいな状態が数少ない理想状態のひとつなんだという結論も、案外あるのかもしれない。
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by antonin | 2011-08-04 14:36 | Trackback | Comments(0)

ちきりん読み比べ

以下、一度没にした文章を若干手直しして再掲したものです。

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最近は2ちゃんねるのまとめサイトくらいしか読んでなかったのだけれど、久しぶりに自宅でアルファなブログなどを読んでみたので、感想を。本当はfinalventさんの愚痴にも反応しようとしたのだけれど、途中で面倒になって蔵にしまった。そのうち出てくるかもしれないし、そうならないかもしれない。

「税と年金の一体改革」 ちきりん私案 - Chikirinの日記

人生の一発逆転という悲しい夢 - Chikirinの日記

この二つの意見が、根のところで鋭く矛盾してるんだよ、というところを書きたいのだけれども、本題はちょっとあとに回して、まず日本の税制というか社会保障というか、そこらへんの意見から。外国の税制について詳しくないので、これは日本の税制と、理論的にありがちな話との比較なのだけれど、日本の税制には二つの特徴があると思う。それは、日本は平均税率がすごく高いというのと、税の累進性がすごく低いということだと思う。

まず、日本は個人所得に対する税率がとても低い。そして、消費税などの間接税率も、さらに低い。その代わりに、各種保険や社会投資に加入することが、ゆるく強制されていて、それがあいまいな税金として機能している。その最大のものが年金で、国民年金でも学生から老人一歩手前の人までほぼ一律で集金される。サラリーマンだと厚生年金の手厚い保証を維持するために、給与に比例した高い保険金が天引きされていて、それに加えて「会社負担」という美名の下に、給与明細に記載すらされない人件費総額の中から実質的な給与天引きを受けている。

この年金というのはかつての人口ピラミッドがちゃんとピラミッド型をしていた時代には、余剰金がどんどん蓄積するシステムになっていて、その余剰金をせっせと国に貸し出して、社会資本の整備などに使われていた。それがようやく社会資本の維持期に入って、今後は労働人口に匹敵する老齢人口を抱えながら人口減少局面を迎えるという、余剰金放出期間に入る。というか、もう入っているので大問題になっている。過去の余剰金は国に貸し出して使ってしまっているので、今後は国から貸した金を返してもらわないといけない。その原資は、国民からの税金というキャッシュか、将来の経済成長に対する期待を現金化する債権販売か、だいたいどちらかの形になる。

合衆国も債権が憲法か何かの法令が定める上限に間もなくぶつかるので、上限を引き上げないと借金の借り換えができなくなって、返済期限のきた国債が先に焦げ付いて政府が不渡りを出しますよ、という話になってオバマさんが忙しくなっている。アメリカは移民のおかげで人口も上昇基調だし、ソヴィエトも中東もやっつけて、借金は増えたけどしばらくは国際政治の覇者でいられそうなので、法的な上限さえ外せればどんどん国債を売りつけられますよ、という状況にある、らしい。

日本はというと、純血主義を(ゆるく)守っているから、人口は世界最先端の減少傾向にあるので、将来の成長に期待して国債を買ってくださいといっても、今でも経済成長率一人負けの状態なのに、人口が減る局面でどうやって経済規模を増やすんですかという具合で、買い手がいない。今でも国債の買い手の海外比率というのはそんなに高くないらしいので、それを今後さらに伸ばしますといっても難しい。そうなると頼みの綱は国内の買い手になるんだけど、これまで世界最大の余剰資金を持ってきたゆうちょとか銀行は、今後は個人預金者が老後のために貯金をとりくず始めたりして、むしろ国債を売って現金化しないといけないような傾向に入ってくる。

そうなると、税金というキャッシュに手をつける必要があり、これは今まさに与謝野さんが余命を削る感じでライフワークとしている税制改革なのだけれど、はたしてこれから急速に減少していく労働人口で、急増する予定の一般歳出をまかないきれるのかどうか、かなり工夫が必要な感じになっている。基本は「体が動くうちは働きましょう」という方針なのだけれども、そうは言っても限度があり、いつかは大量の労働不能人口と要介護人口を抱えることになる。

で、最後の伝家の宝刀みたいなのが、大蔵省/財務省の外側を流れている、年金@厚生労働省とか、自動車道通行料@国土交通省とか、そういう特別会計の巨大な伏流水になっている。変わったところだと、日本赤十字の募金@厚生労働省だとか、電波使用量@総務省(旧郵政省)だとか、宝くじ@総務省(旧自治省)だとか、あとパチンコ@警察庁とか漢字検定@文部科学省みたいなのもあるらしいけれど、とにかくそういう「法律による強制力と密接な関係のある公益事業」みたいなお金の流れが非常に巨大で、そこに手を出せばかなりの問題が解決するという噂もある。

特別会計というのは、所得税@財務省や消費税@財務省といった一般会計と違い、サービスの提供に対する対価として、国民の自由意志によって支払われているという体裁を取っているので、国内のキャッシュフローに対して非常に大きなダムや取水堰を設置してもあまり苦情が出ないという、非常に優れた現金収集システムになっている。仮に民間企業が介入してきても、安全とか公益とかを理由にして法令を改定すれば、民間企業に競争と発展を負担させつつ、独占的地位は維持させるなどということも可能になっていて、持続性も高い。ここには非常に大きなキャッシュフローと、それなりのストックがあるため、いつでも抜けるこの伝家の宝刀があれば、社会保障費おそるるに足らずという説も繰り返し唱えられている。

ただ、このあたりに不用意に手を突っ込むと、なぜか自宅の前で「偶然」暴漢に殺されたり、あるいは非常に残忍で冷酷な手口で「自殺」してしまったり、逮捕起訴されて初犯なのに実刑判決を受け刑務所送りになったりと、不思議な現象が全国ネットで報道されたりしているので、やはり宝刀を抜くのは最終手段ということになるのだろう。結局、年金の問題は年金の範囲内で、医療費の問題は健康保険の範囲内で、それぞれ解決しなくてはならない。だから、将来の社会保障費を補償するために消費税率を上げるといっても、結局それが年金や医療費に回る可能性は低く、ゆうちょや銀行が取り付け騒ぎを起こして財務省が国際的に白い目で見られるのを避けるために、国債残高を減らすのに使われる可能性が高い。もちろんそのお金はインフレを防ぎつつ銀行口座を潤して、結局国民の老後資金にはなるのだけれど。


次に税金の累進性、つまり収入の多い人ほど税金の税額だけでなく税率も引き上げて、富の再分配をするという、ムハンマドさんも神様から「これだけはちゃんとやっとけ」と言われたという、長者から貧者への施しを社会的制度に組み込むというのが、普通の税金の仕組みになる。ただ、これをやりすぎると、経済を牽引する優秀な人がやる気をなくして海外に逃げてしまったりするといわれているので、貧富の格差が縮まるほどではなく、あまり広がり過ぎない程度に抑えるのが鉄則になっている。

日本の所得税@財務省などはこの鉄則を守り、世界でも累進性の強い税制となっている。しかし、こうした一般会計など国家予算全体の中ではマイナーな部分なので、収入に対して定率だったり、ひどいと定額だったりする各種特別会計のフィルターを通ることで、日本の(広い意味での)税制は、むしろ所得の低い人から所得の高い人に向かって所得転移が発生するという、世界でも珍しい逆累進性の制度になっているらしい。それでもあまり国民からの苦情が深刻にならないのは、欧米のように金額ではなく桁が倍も違うような天文学的な収入格差というのが日本ではあまり見られず、所得は周囲に遠慮しつつ緩い年功序列に従い、あとは税額の控除とか福利厚生とか法人資産の役員個人用途への流用黙認とか、そういう手段で報酬体系を組み立てていたので、あまり目立った所得格差が見られなかったということもある。

それから、年功序列というシステムのために若者が低収入で高い課税を受けても、そこから吸い上げられる資金は親世代に落ちているという家族内循環があり、親がいないなどという事態がない限り、差し引きの収支は保たれているような事情もあった。加えて、扶養者手当てや住宅手当など、仕事量より出費負担の必要に応じて給与を調整するようなシステムが働いていたため、逆累進といっても独身税のような形として婚姻圧力の一種となっていただけで、低所得者がいつまでもそこから抜け出せないという制度でもなかった。最近はこのシステムは徐々に終わりを迎えているので、年々「独身圧力」が高まってきている。これは未婚世代に限らず、離婚圧力としても同じように働いている。


で、ちきりんネタにもどると、貧しい人ほど魅力的に映る宝くじというのは、逆累進性の最も強い公的収入になっているのは、間違いない。宝くじは古くから「富くじ」といって、確率的に正しく設計し、ある程度規模を大きくすれば、何も生産しなくても確実に儲かる手法として知られており、国内では法令で許可された機関以外がこれに該当する商品を販売することはできない。商品についているポイントを集めて抽選というのが民間に許された限度いっぱいのもので、これも少しでも景品法に触れると行政指導などの処罰を受ける。

ただ、薄く広くというのは税制の一方の理想でもあるので、一発逆転の夢を売りつつ、社会保障の受益者からもあぶく銭を回収するシステムというのは、必ずしも悪いものではない。あとは、あんまり射幸性が高くなりすぎないように最大倍率に制限を設けるということが必要なのだけれども、日本はこの点で世界的にもかなり控えめで良心的な水準を維持しており、宝くじの買いすぎで借金まみれになって一家離散というような話は、まず聞かれない。むしろパチンコのほうがいろいろと問題視されている。

宝くじが貧者の税金というのは確かなのだけれども、税金の使い道が、貧者の救済よりも商業の発展(ひいては社長さんの生活の充実)のほうを向きすぎているという、取り方よりも使い方のほうに問題があるから、税金だと思うと気分が悪いのだろう。税金といえば貧者の味方という印象なら、なんだ税なのか、なら夢も買えるし困窮者も救えるし一石二鳥だな、といった感想になるはずなので、根本的なのはやはり使い道のほうなんじゃないかと思う。宝くじという仕組みそのものを批判するのはちょっと筋が違うと思うし、もし税というものを批判するのならば、やはり隠れ税であるところの強制加入による年金なども批判の対象にならなければいけない。

なんというか、ちきりん世代というのは、現行の年金制度が維持された場合にギリギリで受益者となる世代なので、そういう立場からのポジショントークともとらえられかねない。たぶんちきりんにそういう意識はないのだと思うけれども、年金制度に対する苛立ちよりも信頼が勝っているというのは、やはりどうしても親があって子がなくて、なおかつ自分も年金に頼れるというポジションが影響しているのは否定できないと思う。実は私のような団塊ジュニアでも最後の黒字世代で、トントン世代がもう少し下にいるのだけれども、もっと若い世代は不公平感や負担感をひしひしと感じていると思う。コドモたちの世代になると、彼らが年金の受給年齢に達するまで年金制度が現行に近い形で運用されているなどという可能性は、全く考えられない。


という具合で、自分と違うポジションからの眺めって面白いよな、という面白くもない結論でした。たぶん、私と同じ団塊ジュニア世代でも、家族構成の違いによって、またいろいろと意見は変わってくるのだろう。

化石資源云々の話も突っ込みどころが豊富で(批判的な意味じゃなくて、この話題は各種の仮説を立てるのが楽しいので)いじりたいところではあるけれども、長くなったのでこのあたりで。
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by Antonin | 2011-08-01 23:16 | Trackback | Comments(2)


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