安敦誌


つまらない話など
by antonin
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ヨタ話

いろいろと仕掛りが溜まっている。風邪を引いたりしてマンキューの再読もペースが上がらないけれども、少し軽口を叩いてみようかと。

選挙の話。個人的にはまだどういう投票行動をするか決めかねているのだが、それはさておき、野田首相がなんだか面白いな、と思った。解散宣言が飛び出たあの党首討論を見て、「野田ちゃん馬鹿正直だな」なんていう感想を速攻アップした人もあったし、個人的にもあの討論にはグッと来るものがあった。が、なんにしろ野田さんである。そこまで直球だとは思えない。

首相になった当初はどんな人物なんだかよくわかっていなかったが、その後、過去の言動なんかが細かく調べられていくと、やっぱりこの人、相当にタヌキだな、というのが今のところの結論になっている。そういう目で見ると、馬鹿正直なのは野田さんではなくて、野田さんの演説に挟まれたエピソードを直球で受け止め、正直すぎるとか良い人すぎるとか言ってしまう人のほうなんじゃないかと思える。

例えば、自民党から民主党に政権が移ることになった総選挙での演説なんかを拾うと、当時の民主党の「いわゆるマニフェスト」に即した内容を力説している。で、いざ首相になってみると、完全に手のひらを返したような政策を打っている。公約違反という意味でも国民への裏切り行為だし、増税という誰も喜ばない政策に血道を上げているという意味でも国民を裏切っている。

確かに、短期的に、といっても国家の計なので5年10年というスパンになるのだけれど、そういう範囲では経済にも国民生活にも、何もいいことはないと思う。けれども、ここで現在の国民にいい顔をしても、30年50年というスパンになってくると、人口オーナス解消後の経済復活の芽を摘む愚策になりかねない。

今は増税の時ではないというけれど、じゃあいつなら増税できるのか、という問題がある。例えば公債残高が国民貯蓄の総計を大きく超え始める段階で一気に消費税率20%超えの大ジャンプができるのかというと、もちろんそんなことはできない。熱い湯に体を慣らすように、ゆっくりと税率を上げていく必要がある。法人税減税と物品税廃止あたりに始まった直間比率是正の終着点が消費税25%あたりとして、現行円債破綻のデッドラインも20年先くらいだとすると、今増税のアクセルを踏んでおかないと、いざ国債崩壊という時に借金をチャラにした先の健全な国家経営ができなくなる。

というわけで、今のうちに増税をやっておかないと次の世代に禍根を残すわけだけれども、そういう大志のために、野田さんは今の大衆をかなり巧妙な手段で騙しに来ているように見える。TPPのほうはまだよくわかっていないけれども、今のところ「ガイアツ」を使った、国内の過剰規制を切り崩す口実を見つけようとしているようにも見えて、そうすると「短期的不利益と長期的利益」という統一的な理念で説明がつくようになる。

おそらく野田さんとしては、「民主党をぶっ壊す」という戦術で進んできたのだと思う。政治家個人としての評価も著しく下がる政策を打っている以上、与党の評価も著しく下がるわけで、野党よりも与党内の軋轢のほうが政治生命に関わる部分が大きかったと思うのだけれども、そのあたりも論功行賞人事だの、なんだかんだで乗り越えてきた。小泉さんが基本的に郵政以外の政策について丸投げだったのと似て、野田さんも増税以外の政策は基本的に力を抜いていた。このあたりは権力の向けどころという本丸が定まっているからこそのコントラストなんだろう。

で、選挙が終わればもう与党民主党も野田総理もありえないということを前提と見て、それでいて最後まで民主党の党首として自民党や第三極相手に議論をしている。このあたり、すでに決まった勝負を白けさせないための演技のようなところがあって、そういう目で見るとなかなかの役者に見える。

まだ疑問の余地は多いのだけれども、今理解できている情報をかき集めると、20年前後未来に国債が破綻するが、それは国民貯蓄の塩漬けになっていた部分の切り捨てだけであって、このあたりはモラトリアムとか無利子特法などで切り抜け、ウヤムヤにしつつ棒引きにすることになるらしい。かといってハイパーインフレなどにはならず、20年先現在の日本国民の付加価値生産率に応じた為替を維持するから、「暴動を起こさない国民性」を最大限に生かした、現金資産保有層に損害をなすりつけて無事手打ち、という結末が有力らしい。もちろん、世情に長けた層は現物資産や海外資産などでしっかり担保を取っているだろう。

このとき、政府が相変わらず単年度赤字ダダ漏れだと赤字国債発行による資金調達の道も塞がれていて経済混乱に陥るが、国債償還の負担さえ取り除けばいきなり健康体に戻るような税制になっていると、国債に吸い取られていた流動資金が市場に流れ込んで、戦後のような大復興がやってくる。だいたいこういう流れになるらしい。

与謝野さんが麻生政権で運悪くサブプライムショックに遭って、自らの手で日本国債にとどめを刺してしまった事を心底悔やんでいたのだろう。恥も外聞も捨てたような形で政権中枢に返り咲き、声を失いながらも増税の筋道をつけて、自分のしたことに落とし前をつけるという壮絶なことをやってのけた。ただ、ここに来て、小泉・竹中改革で一度鎮火した国債膨張に再点火してしまった人が次期首相最有力候補でもあるので、なんだか巡り合わせってのは恐ろしいものだなと思う。
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by antonin | 2012-11-26 21:46 | Trackback | Comments(0)

マジョリティ・リポート

はるかぜちゃん云々、JAL機に乗り合わせた赤ちゃん云々。子供や赤ちゃんに対して、優しさで接する人が多数でいくらか安心するのだけれども、そういうものにどうにも我慢ならない人や、怒りではなく冷静な意見として子供や赤ちゃんは公共の場に出てくるべきでないと唱える人もいて、モヤモヤとしたものが残る。

この傾向、この先どんどんと加速していくに違いない。

赤ちゃんが泣くのは当然で、泣き止ませることができないのも当然。これは誰もが理解している。これに対して、周囲の人が赤ちゃんの親の事情を慮って場の快適さを犠牲にするのか、赤ちゃんの親が公共の場の快適さを慮って個人的事情を犠牲にするのか、そういうところで意見が分かれているように見える。この部分は、明確な答えはないだろう。ただ、一度育児の大変さを経験した大人というのは、多くが赤ちゃんを抱える親に同情する方へと流れる。

赤ちゃんは痛かったり寒かったり喉が渇いたり、あるいは慣れない環境で眠れずにいるだけのことで泣いたりする。これは生物として未熟なためで、仕方がない。いずれ成長すれば解決する問題である。子供を持つ親の事情が理解できない人というのもこれに似て、子供の面倒を見た経験のない人には想像の付かない苦労でもあるから、経験の未熟によって状況が理解できない段階があるというのも避けれられない問題であり、言葉で説明して理解できる性質のものでもない。これは親の側も辛抱が必要となる。

ただ日本ではすでに、ほとんどの人がいずれ親になるという社会ではなくなった。社会が誰の子とも区別せずに地域共同体で子育てし、自分が子供を作らなくても子育ての経験なら共有できる社会でもなくなった。核家族化社会の中で、子持ちの大人は少数派に転落している。本当の子育ての苦労を知らない人が既に多数派であり、子育てを経験しないまま社会的に重要なポストを占める人がこれからますます増えていく。少数派である子持ちの親は多数派に配慮し、郷に入りて郷に従う必然性が高まっている。

私は赤血球型がABなのでよく感じるけれども、酒や食事を取りながらの軽口のたぐいである血液型性格判断でさえ、A型4割、O型3割、B型2割、AB型1割という序列の中で、A型は几帳面で真面目、O型はおおらかで寛容、B型は自己主張が強くマイペース、AB型は二重人格で変人と、少数になるほど扱いが悪くなる。このあたりは笑って済ませる範囲だけれども、逆に言うと、こんなところにまで少数派の置かれる立場というものが如実に現れてしまう。過去の社会で子供を持たない人の置かれた立場を想像すると恐ろしくなる。

子供は泣くし騒ぐし、何かというと走るし余計なことをして物は壊すし、挙句に自分でしたことの始末も十分にできない。その上働きもしないのに教育だなんだで税金をたくさん使う。大人に対する物差しをそのまま当てて考えれば、非常に迷惑な連中である。自分の子でも親戚の子でもいいけれど、身近な子供の面倒を見た経験がないと、子供という、この凶暴な生物の存在を、なかなか感情的に受け入れることは難しいだろう。

だから、もう既に起こってしまった未来として、子持ちの親はこれからますます肩身が狭くなっていく。正直、この傾向に抗うことはできないだろうと観念もしている。東京というのは全国平均よりもさらに少子化傾向の進んだ社会なので、子供を3人も育てるとそういう空気というものを痛いほど感じてきた。たまたま居合わせた人に助けてもらったりして感謝する場面も少なくないのだけれど、それは海外旅行先で同郷人に助けられたような安堵であって、どちらかというと例外事象に近づきつつある。


人の晩年と死を看取る経験がもっと豊富にあれば、宗教の本来の意味を知るのがもう少し早かったのかな、などとも思うけれども、僧職の世襲などというむごいことをして既に400年以上にもなるので、いろいろと仕方がないよなぁ、などとも思う。あの世というのは /dev/null に似て、馬鹿正直に無いものを無いよと言うと具合の悪い場面のために、仮にあるものと信じておきましょうというライフハックだったのだろうと思う。

自分の怒りを鎮めて他人の事情を思いやるには、脳の過程をある程度ソフトウェア的に制御してやる必要があって、その技術を脳の外部に書き出すと神になったり仏になったりするのだろうと、今では思っている。信じやすい性質の人を騙して操る技術ではなくて、自分の中の爬虫類的な脳の構造を新皮質側からコントロールする技術体系としての説教というのが、日常から失せて久しい。

「覚悟する」というのと「諦める」というのはどちらも、本来は同じものを指している言葉なのだけれど、今ではまるで正反対のような意味に使われていて、説教というのはなんだか難しいものだなと思う。つまりは「そういうものであると知る」という事なのだけれども、少数派として育児をしていくしかないと知ることは、覚悟なのか、諦めなのか、どちらなのだろう。
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by antonin | 2012-11-20 21:46 | Trackback | Comments(0)

必要悪としての正義

暴走トロッコの議論なんかがあって、正義が論じられる。個人的に、正義というのは主観的なものであって、客観的に答えが出る性質のものではないと思っている。だからこそ主観的に決着するための議論が必要になってくるのだけれども。実は、数学的論理でさえ、ある種の主観の延長なんだと思っているが、それはまた別の話なので省略。

歳を取ると、言い訳が多くなる。多くなるだけではなくて、言い訳が上手になって、あからさまな破綻を見せることが少なくなる。子供の言い訳というのは見え透いていて、教育の義務を負った大人たちにその言い訳を指弾されるのだけれど、大人の言い訳というのは大人を超える超越的な知性によって見透かされる機会というのは少なくて、どちらかというとお互い様という空気の中で消極的に承認されていく。

自分の弱さに言い訳をするのは感じの悪い態度ではあるのだけれども、言い訳もできずに自責の念に苛まれて暴れてくれるよりは、適度な言い訳で自分をごまかしてくれる方がずっと扱いやすいという事情があって、まあ、どちらかというと必要なものなのだろう。こういうものを必要悪と呼べるとすると、国民が遍く守るべき正義というのは、国家が強権を以って人の生活や財産や生命を支配するための、うまい言い訳であり、それもまた必要悪だと呼べることになる。

国家に正義がなければ、国家権力を執行する人間は自責の念に苛まれ職務を遂行する意欲を失い、組織は自律を失う。国家が自律を失えば、結局別の国家によって支配されたり、あるいは小さな権力が乱立したりして、社会は乱れる。ミクロな視点で言えば正義というのは個人を支配するための言い訳なのだけれども、マクロ的に言えば、社会の秩序を守り国民の生活の基盤を守る原動力になる。

正義に論理的解を見出す根拠というのはおそらくなくて、必要なのは説得力だけということになる。感情を揺り動かす力が最大にして唯一の力ということになる。もちろん、マクロな秩序を守るという大目的に反してもいけないが、それは説得力の前にはもはや二次的なものでしかない。ただ結果として、ある正義がマクロな秩序を明らかに乱したとすれば、それが説得力に欠ける主張として人々に記憶される。

合衆国のケネディ大統領が暗殺されたのと、古王国のクフ王の歴史的痕跡が抹消されたのには、いくらかの共通点があるような気がしている。彼らは説得力のある正義を唱えて、それは国民の共感によって人類史に残る偉業を達成したのだけれど、その成功によって正義の暴走を招き、結局は正義に共感した国民に後悔の念を引き起こしたというのが、だいたいの事情なのではないかと思っている。

どのような正義にも三分の理があって、どのような正義も純度を高めすぎれば毒になる。純度の高まりすぎた正義を薄めるための補色のようなものが、その時代に求められる正義ということになる。選挙が近いというけれども、なんとなく気分が乗らないのは困ったことだと思う。短期的に、何か鋭い正義を処方する必要があるのかもしれない。
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by antonin | 2012-11-20 00:51 | Trackback | Comments(0)

無題

若い人の恋について、あるいは女性チームの心理について、みたいなことを書いていたら、Emacs式にCtrl-wしたはずみにタブを削除されてしまい、復元しても文章は戻って来なかった。職場ではXKeyEmacsを入れてあるのだが、個人ノートにはまだ入れていなかった。うっかりしていた。ある時期のFirefoxは、この程度の復元ならできていたのだけれど、最近の省メモリ化でそういうのもなくなってしまったのかもしれない。まあいいや。

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「天才柳沢教授の生活」が、Kindle storeでDeAgostini的な商売を始めていて面白かった。で、脈絡なく「テルマエ・ロマエ」なんかを購入してみた。場所を食わないのはいいが、ちょっと解像度が低すぎるように思う。あんまり極端に高解像度でもダウンロードの障害になっていけないのだけれど、もう少し文字が見やすいような解像度が選択肢として盛られていてもいいんじゃないかという気がした。

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また星が明るい季節が巡ってきた。確かに、東京には本当の空がない。悔しいが、これは事実なので仕方がない。

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もし自分の姓が、「渡辺」とか「鈴木」とかだったりしたら、ひょっとすると少し違う人生を送っていたのかもしれないと思い、少しだけ気になる。

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いろいろ思うところはあるけれども、うまくまとまらない。
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by antonin | 2012-11-19 01:46 | Trackback | Comments(0)

日常的妄想のあれこれ

時間がない。手短に。

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国債全然OK学派の人々の最大の論拠とは、国債の大部分が国内で消化されているから大丈夫、という説にある。比喩的に、お父さんがお母さんから借金しているようなものだから大丈夫、とある。これが、家計を預っている主婦たるお母さんが、経済労働の主体であるお父さんから借金して使い込んでいるという比喩に置き換えてもまだ同様に借金無問題という結論が出るのか、そのあたりはよくわからない。

わからないわからない言っていてもしかたがないので、久しぶりにマンキューを引っ張りだしてきた。流し読みしてみて、少し分かる部分もあるのだけれど、まだマクロ経済の問題を理解できるほどには理解が進んでいない。このあたり、喉に小骨が刺さったような異物感を時々覚えて具合が悪い。

国内で債券が消化される場合、債権者を国外に持つ場合との相違点は何か。箇条書きにしてみる。

・債権者が国民であれば、国家の定める法律に従う義務があり、国民は立法府が公布する非常事態法(預金引出制限や一定資産の接収など)に逆らうことができない。

・円通貨を発行しているのは日本銀行であるが、非常時においてはその政府に対する独立性を制限することができるため、国債の額面を記述している円の価値を下げるために、紙幣増刷を命令することができる。

・国家は国民に対し情報統制が可能であり、国債の保有に心配はないとする、債務に対する国民の信用を維持する方法を有している。

というあたりか。マクロ経済においては、通貨圏の中で通貨流通が閉じているので、開放系の数学ではなく閉鎖系の数学が適用される(開放系の数学に対して、通貨の循環を前提とすることによる暗黙の境界条件がいくつか付加される)という違いがある。しかし、現在の国際経済は、地球全体ではもちろん閉じているけれども、国家単位では解放度合いが大きく、通貨統合したヨーロッパ連合ほどではないにしても、日本円も為替の影響を大きく受けている。

たとえば、わかりやすく発電所の発電機で考えてみると、1次冷却水は復水器によって循環するが、そこで加熱される2次冷却水は外部環境へと放流される。こういう場合に、1次冷却水の質量系は閉鎖系になるけれども、エネルギーの系は、ボイラーからの熱流入、タービン内膨張によるエンタルピー流出、復水器での熱流出によって、開放系になっている。円も同様で、取引通貨としての円は日本国内に閉じているが、貿易と投資を通じた価値の交換は為替を経由した開放系になっており、古典的なマクロ経済が前提としている閉鎖系依存の境界条件の一部は既に成立しなくなっている。このあたりの加減がまだよく理解できていない。

日銀の量的緩和も、キャリー・トレードによって国内ではなくスペインやギリシアでの不動産価格高騰を招いただけに終わり、ヨーロッパの中銀各行に迷惑だからほどほどにしてくれと注意されたから続けられなくなったという説があって、もしそれが本当だとすると、日本国内だけを向いた政治家の口から、あの時もっと緩和を続けていれば日本の経済が自律回復したのに途中でやめた日銀の不見識は云々という意見が出るのは、国際経済の規模に対して無視できないほどの規模に成長した円の番人としての、日銀の重要な役割を過小評価した意見なのではないかと思える。説が正しければ、だけれども。

分子が分母に対して十分に小さいうちは成立する近似式が、分子が大きくなると成立しなくなることがあり、逆にそれまでは成立しないと言われていた近似式が徐々に成立してくるという現象も、工学の世界にはしばしば見られる。そういうビリアル係数的なものが経済学ではどうなっているのか、このあたり、真相を知りたい。

--

Brainfuckの処理系の仕様がだいたい固まったのだけれども、規模が大きくなりすぎて、実装する時間がない。素直に実装するとgcc-coreくらいの規模になってしまう。これはこれで美しくないような気がする。あと、やっぱり安全なコードと速いコードの両立は難しいと実感した。処理系とユーザープログラムが暗黙の契約を結んだような(契約を破ると即座にsegmentation faultで堕ちるような)コードは、処理系が水も漏らさぬような処理をするコードに比べると、やっぱり10倍くらい速い。工夫によってこの差はもう少し縮められると思うが、それでも2倍は割らないだろう。

Javaの、遅いがネットにさらしても安全に動く処理系というのは、素人が世界のいかなる道路を運転しても破綻しない乗用車のようなもので、その速度というのはどうしても限度がある。しかし、道路に陥没もなく、横断する歩行者もなく、ドライバーが事故を起こしてもドライバーがメーカーを訴えないことが保証されているような、つまりサーキットレーシングの世界では、同じような排気量のエンジンでも数倍速く走ることができる。これは、実はFortranの世界であり、こういうスパルタンな環境下では、Brainfuckのような非効率な言語でも結構な速度で問題を解くことができる。

最初は現代的で安全重視の処理系をstd::dequeなんかを使って書いていたのだけれど、これだと有名なmandelbrot.bの実行に3分くらいかかる。これをstd::vectorに変更して、segmentation fault上等な(代わりに開始アドレスから±1GBのアドレス空間を確保した)処理系でこれを実行してやると、30秒を切る。そこから最適化などをしてやると、最終的に10秒を切るあたりで落ち着く。これとは別に、BFからCのコードへ直訳するコンバータを書いて、出力されたコードに2GBのstaticメモリを与えてやると、gcc 4.5.3 の -O3 オプションによって処理時間は1.2秒ほどにまで縮まった。やっぱりコンパイラは強い。

この過程で最適化技法などについても思うことが多々あったのだけれども、CPUパフォーマンスを古典的な意味で引き出す方へ興味が行ってしまい、ここ2週間ほどはopenmpだとか、sse2だとか、汎用レジスタのSIMD的手法による演算(32bit intを8個の4bit intとして加算や論理演算を行う)だとかを試行していた。ネタは再びライフゲームに里帰りしている。今のところ睡眠不足のためにパフォーマンス測定できるところまでコードが書けていないが、L1キャッシュの32KBからデータを落とさないように注意しながら3個のALUを占領して走り続けるコードなんかを考えていて、何かと楽しい。

もはや「公道を走る」タイプのプログラミングにおいて、こういうあまりにも趣味的なコードを書くことは許されないのだけれども、ひどくプライベートな空間を走るプログラムというのは今の時代にもわずかに残されている。それにしたってプログラムの方を極度にチューニングするよりは、最新のアルゴリズムを適用してみたり、適正な従量コストを引っ張ってきてプロセッサのスケーリングで解決する方が主流ではあるのだけれども、素人に毛の生えたようなレーサーが週末に筑波を攻めるようなプログラミングスタイルというのがあってもいいのだろうと思う。

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育児とか仕事とかもいろいろと厄介ですが、まあそのあたりはアレということで。
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by antonin | 2012-11-11 17:31 | Trackback | Comments(2)

空論

昼間はプロセッサ周りの遊びばかり考えているが、夜になって落ち着いてみると、仏教周りの概念について考えたりしている。このあたりも興味深いことがたくさんあるのだけれど、まだまとまった文章にできるほど煮詰まっていない。そのうち「空」という文字で伝えられている概念が、情報というものに対応しているように読めるので、このあたりを詰めていくと面白いのではないかと思っている。

1という数字はただのデータだけれども、0x1000000 と書いたときの1というのは、符号なし32bit整数のbit-28が1であり、bit-29からbit-31がゼロであるという情報を持っている。あるいは、「バッファの中身が空でない」という意味を持つフラグであるかもしれないし、あるピクセルのアルファ値が50%を超えているという意味かもしれないし、1円玉が1枚という意味かもしれない。

こういう文脈では、解釈を伴ったデータのことを情報と定義する。レントゲン写真はただのデータだが、その濃淡を読み取って肺癌の疑いがあるという解釈を伴うと、それは検査エビデンスという情報になる。そういう情報は、生化学検査の実施指示であるとか、手術手配であるとかという、判断と行動の原因となることができる。空とは、データと解釈が一体となって、別のデータの変化を誘発するような情報、と考えることができる。そうすると、私達が実体とか実在とか物質などと呼んでいるものも、実は空であると言える。

炭素原子が窒素や酸素ではなく炭素の原子であると言える根拠というのは、原子核に+12eの電荷があり、そのまわりに12個の電子が局在した時に電気的に中性になり、原子構造が安定するというところにある。なぜ質量ではなく陽子数が原子番号であって原子の種類を区別する基準になっているかというと、原子核に電子が取り巻いて原子を構成するとき、パウリの排他律に従うフェルミオンである電子は同一原子核を共有する電子数に依存する電子雲の構造を形成する。その構造に原子核の質量はほとんど影響を与えないが、原子核の電荷は支配的な影響を与える。

そしてなぜ電子雲の構造が人間にとって重要かというと、太陽表面のようなプラズマでも中性子星のような核子化合物でもなく、原子かイオンで構成される物質が安定に存在する地上環境下に生きているために、そういう原子やイオンの化学的性質を決定する電子雲の性質が、物質の実際上の性質の大部分を決定するというところにある。

化学結合は最外核電子の形状に強く依存しており、地上の低エネルギー環境では大部分の電子が基底準位にいるから、最外殻電子の形状による化学反応の性質を決定しているのは間接的に原子核の陽子数ということになる。もしも、化学結合が滅多に起こらず、原子質量の影響のほうが支配的な環境に人間が生きていたら、原子種別は陽子数だけに依存する原子番号ではなく、中性子数にも左右される質量数によって区別していただろう。

そういう意味で、物質ですらその性質という情報によって人間と相互作用しており、むしろそういう、人間の意識と相互作用できる情報を有しているからこそ、その情報の性質によって物質として認識可能になっている。本当は一つひとつの原子に宇宙全体の物質構造に相当する複雑な内部構造と個性があるかもしれないのだが、そういうデータの大部分は人間と相互作用可能な情報として解釈されず読み捨てられているために、存在しないかのように扱われているだけなのかもしれない。

解釈が定まることで別のデータと相互作用が可能になったデータを情報とすると、そういう解釈、あるいは関係性、もっと簡単に言ってしまえば情報そのものを指すのが「空」であると言えるのではないか。そうすることで、歯切れの悪かった般若心経の解釈なども比較的すんなりと腑に落ちる。存在を存在であると認識できるのはそれが情報だからであり、情報があればその存在を認めることができる。存在とはすなわち情報であり、情報とはすなわち存在である。これが、自己流の「色即是空空即是色」の解釈になる。

こんな即物的な解釈を、古い時代の仏教者が本当に考えていたのか謎だが、ギリシャ系の血が混ざったインドのバラモン階級はこういう哲学的思考が大好きで、特別な観測装置を使わないでも認識可能な人間と物質の問題については、古代であっても十分に可能だったと考えられる。一般の信者は別として、研究職にあった高位の部派仏教僧は結構ドライなものの考え方もしていたらしいから、こういう解釈ができないこともないのだろうと思う。

「無色声香味触法」と言ったとき、色も声も香りも味も感触も性状もない、と訳すけれども、それは存在しないという意味の「無い」ではなくて、「男も女もない」と言う場合と同じ、区別がないという意味なのだろうと思う。人間が知覚可能な存在を一般に「情報」と呼べば、視覚情報も聴覚情報も嗅覚情報も触覚情報も他の感覚情報も、全て情報というくくりで一元化できて、そこにあえて区別を残す必要もなくなる。

それが「度一切苦厄」、つまりどんな人間的な苦しみもコントロールできるようになるという仏教の根本テーマにつながるところまではまだ解釈が進んでいないけれども、昔の賢い人の話を楽しむには良い取っ掛かりがつかめるレベルになってきたのではないかと思う。

「色」という語の用法に3種類あるとか、「意」と「法」ってなんだ、とか、五蘊のそれぞれがなんだとか、そういうところにも自己流解釈があるが、頭が痛くなってきたので今日はここまで。
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by antonin | 2012-11-05 04:00 | Trackback | Comments(0)

補遺:1と9/9が等しくないことの証明

等しい数を小数表現したとき、全ての桁で値が一致する。
1は10進法で 1.00000... という循環小数として表記できる。
1/9は10進法で 0.111111... という循環小数として表記できる。
9/9は1/9の9倍であり、10進法で 0.999999... という循環小数として表記できる。
1の10進小数表現と9/9の10進小数表現を比較すると、1の位から右の全ての桁において異なる値となる。

以上より、1と9/9が等しい数とする命題は矛盾する。
よって1と9/9は等しくない。

--

1と9/9が等しいと仮定すると、この証明のどこかに誤りがあるはずなんだけど、もし冒頭にある命題を否定してしまうとすると、カントールの対角線論法が破綻してしまう。このあたり、大丈夫なんだろうか。

n進法の小数表記において、ある桁より右が全てn-1となる表記を禁止しておけば、第4命題が偽となって上記の証明は破綻するからいいのだけれど、そういう追加条件をおいた場合にも対角線論法は保持されるのか。

対角線論法の対角線要素は自然数iに対してiと等しい線形速度で右へ進むが、整数を小数点に対して対称にコピーして作った小数の、連続した0とならない最大桁数はlog_n(i)にとどまる。よって、あるi以上では対角要素は全て0となってしまい、それを反転した数字は2進数では全て1になってしまう。となると、その循環する1をゼロと置き換え、循環する1が始まっていた桁の一つ左の数字を1だけ繰り上げた値と等しくなる。

これって、対角線論法破綻してないか? 大丈夫なのか?

--

ほほいの補遺(11/3追記):

その後ももう少し調べてみたら、大丈夫だということがわかった。上記の小数表は有理数のリストであって無理数のリストではないから、カントールの対角線論法そのものに瑕疵はない。けれども同時に、連続体仮説は証明不能問題であり、仮に仮説が真であるとしても偽であるとしても、数学が内包する他のいかなる命題の真偽にも影響しないということが証明済みということもわかった。つまり、無限集合の濃度という概念そのものはある程度有用だが、定義が不十分であってその詳細を深く詮索することは全く不毛であるらしい。

そういうところを敢えて突っ込んで考えることによって数学そのものが発展を見せる潜在価値は持っているにせよ、現状での顕在価値はない。ということで、現状の定義における濃度を云々するのはやめて、もっとエレガントな濃度の定義を思いつくまでは、放置しておくのがいいのだろう。それはそれとして、テトレーションの諸性質からその逆関数に要請される性質を定めて、それを満たす数の集合が複素数の内にあるのか外にあるのかを調べてみるという問題は面白そうだ。また魔が差すタイミングで考えてみることにしてみよう。けれども結合則の成立しない世界での逆関数を求めるのは面倒だなぁ。
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by antonin | 2012-11-02 07:07 | Trackback | Comments(0)

BFから始まる妄想

睡眠不足のところに深酒をしてしまい、あちこちの電気をつけたまま眠って変な時間に目が覚めてしまった。相変わらずBrainfuckが可愛すぎて生きているのが辛いのだけれども、一時のような過剰集中の時期は去って、興味の対象はいろいろと拡散している。けれども、単純な言語処理系から少しずつ複雑なものに仕上げていく過程を経験してみると、いろいろと得るものがあって面白い。

個体発生は系統発生を繰り返す、という名言があって、多細胞生物が成長する過程というのは、その生物の進化過程となんとなく似ているという説がある。人間も、280日目くらいに生まれてくる頃にはだいたい人間の姿をしているけれども、初期の胎児はシラスみたいな形をしている。そういう時期になると、人間も犬も猫もコウモリも、胎児の形状はだいたい似通ったものになっている。もっと遡れば、自称高等生物である人間も、原始海水を模したと言われる羊水に浮かんだ単細胞の受精卵から始まっている。

進化が漸進的に高度なプロセスを獲得してきた過程だとすると、高等プロセスの動作には低位のプロセスがひと通り動作する環境が必要になるのだから、古いシステムを一度作り上げてから一つだけ新しいシステムを作るということを繰り返すという方式は理にかなっている。あるプロセスのビルドプロセスにのみ必要となり、ビルド後はデストラクトされるプロセスなどというものもあるだろう。進化の過程で退化した仕組みが、個体発生の一時期だけに見られるというのも、理にかなっている。PCなどでも、システム運用中にはもはや使わないような古いシステムを、起動時の貧弱な環境下で利用するためだけに保持しているなんということが見られる。

BFのひどく単純な処理系を少しずつ複雑にして実用度を上げていこうという工夫は、言語処理系の個体発生過程を見ているのだとも言えると思う。それは過去の言語処理系がたどった発展の歴史と完全に一致はしないものの、そういう時代のソフトウェア技術者がどんなことを考えながら現代的な処理系を仕立てあげていったのかという理屈の一端を体感することができる。言語処理系の系統発生をなぞるようにして、自分の言語処理系の個体発生を体験してみるのは楽しい。

BFの言語処理というのは、現代的な機械語よりも一層低水準の記述レベルしか持っていないので、どちらかと言うとソフトウェアの発想よりはハードウェアの発想と親和性が高い。もちろん、基本的な仕組みが並列手法のディジタル回路ではなく逐次手法のチューリングマシンなので、直接の対応は取れないのだけれども、極端に単純な処理を膨大に組み合わせると結局は複雑なこともできるというのは、ハードウェア的な発想だろうと思う。

チャーチ・チューリングのテーゼというのがあって、チューリング完備なマシンがあれば、計算可能などんな問題も解ける。BFというのは、十分な量のメモリと、十分な処理時間があれば、チューリング完備の条件を満たす。それからブール代数系というのがあって、ANDとORとNOTという3種類の論理ゲートがあれば、それらを十分な量だけ用意すれば、計算可能などんな問題も解くことができる。表現方法によると、NANDかNORか、どちらか一つだけあればANDもORもNOTも作れるので、要するにNANDだけがたくさんあれば、どんな計算もできることになる。こういう性質がBFとディジタル回路で似ている。

ディジタル回路の最も基本的な演算はANDとORという二項演算だけれども、BFではインクリメントとデクリメントという単項演算がこれに相当する。以前、加算から乗算、累乗と発展させる方向を延長して、テトレーションとかペンテーションとかいうハイパー演算について考えたことがあったけれども、こういうn階のハイパー演算の最下層は、1階のハイパー演算である加算ではなくて、0階のハイパー演算である、インクリメント演算ということになる。2を1回インクリメントすると3になるが、2をインクリメントするという演算を3回繰り返すというものをマクロ表現した関数が、2+3=5という加算だと定義できる。

加算には逆演算として減算があって、乗算にも逆演算として除算が、同様に累乗にも累乗根がある。この話は後でちょっと別の展開をしたいけれども、今はBFの話に限定すると、デクリメントというのが0階のハイパー演算であるインクリメントの逆演算ということになる。なのでBFは逆演算を持った可逆的な0階ハイパー演算系を完備していて、その単純な繰り返しによって加減算でも乗除算でも累乗でもテトレーションでも、初等関数の範囲に収まるどんなハイパー演算でも(膨大な繰り返し回数さえ実行できれば)実行できる。

整数の集合と0階ハイパー演算の組はある種の代数的構造を構成するはずなんだけれども、普通の数論で使われる代数的構造は加算のような2項演算を持つようなものしか想定していないので、単項演算しか存在しないような自明な代数系については、代数系の範疇には入らずに単に全順序集合という性質を持つ集合の一種として分類される。一方ブール代数の方は、数値の集合は0と1の2要素しかないが、演算の方は一応ANDやORという二項演算を備えているので、束(lattice)という代数構造が定義されていて、ブール代数はその一種であるとされている。

現代的な文法を持った高水準言語でソフトウェアを書いている感覚では、加減算とか乗除算はアプリオリな基本演算であって、それ以上は分解不可能なものなのだけれども、基本論理しか持たないディジタル回路だとか、インクリメントとデクリメントしか持たないBFなんかを扱っていると、乗算や加算それ自体がハイパー演算であり、その実装というのも素朴なものと高度なものでは効率が随分と変わってくるということを体感できる。足し算の方法にも工夫の余地がある、なんてことに気づくのには、このレベルまで降りないといけないのかもしれないと思うと面白い。

BFでは一応8bit整数を要素として持っているので、インクリメントから加算を生み出すことにそれほど選択の幅はないのだけれども、これがディジタル回路になってくると随分と様子が変わってきて、マルチビットの加算器だとか、そもそも全加算器や半加算器の設計ひとつ取ってみても、いろいろなトレードオフを持った複数の設計が考えうる。しかも、論理ゲートよりもう一段下層レベルにある、MOS-FETと配線のレイアウトあたりまで視点を下げると、さらに工夫の余地は広がってくる。

現代的な半導体設計では、その機能のほとんどはHDLで記述されるのだけれども、ソフトウェアの世界にもアプリケーションを書く人とコンパイラそのものを書く人がいるように、ハードウェアの世界にもHDLで機能を書く人と、HDL処理系を書く人がいる。そしてソフトウェアの世界にライブラリやデバイスドライバを提供する仕事があるように、ハードウェアの世界にもRTLレベルでHDL用のライブラリ機能を記述したり、マスクパターンレベルでフィンゲートなどの最新リソグラフィ技術に対応した論理ブロック設計をしたりする仕事が存在する。

そういう水準の仕事を勉強している学生の論文がときどきネット上に転がっていたりして、よくまとまっているので読んでみると面白い。そういうものを読むと、プレーナICの世界ではたった32ビット整数の加算ひとつでも、要求性能によっていろいろな回路を書き分けられるということがわかる。そういう単純な回路を積み上げていくことで、スマートフォン用の省電力型マイクロプロセッサやメディアプロセッサ、それからPC用のハイパフォーマンスプロセッサやGPUが作られる。そういうものに乗っかって、本来効率の悪いLLインタプリタがラムダ式などの抽象プロセスを含むコードを解釈しながら、実用アプリケーションをゴリゴリと実行している。気の遠くなる話だが、部分部分はそれぞれ理解できるような気がして楽しい。


で、数論の話に移る。インクリメント、加算、乗算、累乗というように、一方向のみのハイパー演算をどんなに積み上げていっても、それらは全て自然数の中で閉じた演算になる。ところが、インクリメントの逆演算であるデクリメントであるとか、加算の逆演算である減算を定義した途端に、負数というものの存在が要請されてしまって、演算は自然数の範疇を食い破って、整数の世界に飛び出す。同様に、乗算の逆演算である除算を考えてしまうと、有理数という集合が要請されるし、累乗に対して累乗根を考えてしまうと、実数集合が要請されて、そうやって算術の拡張が数そのものの世界を拡張してしまう。

ただ、実数というのはちょっと大雑把すぎる分類で、円周率πというのは実数だけれども、自然数や有理数の累乗根としては表すことができなくて、こういうものは超越数と呼び、累乗根が要請する数の集合からははみ出している。一方で、負数の累乗根というのはすでに実数範囲に収まらなくなっていて、虚数が要請される。演算を累乗に限定せずに多項式演算を考えると、逆演算は多項式解を求める演算になって、値域は複素数集合に広がる。

複素平面にベクトルやテンソルのような積演算を定義すると、その逆演算は四元数のようなより複雑な集合を要請するけれども、こういうものは複数の実数の直積とそれを対象とする演算が定義された代数系を構成するだけであって、直積の個々の要素が実数より広い集合を要請するということはない。そこで思うのだけれど、もしテトレーションの逆演算みたいなものを導入するとすれば、ひょっとしてその値域というのは実数より本質的に広い集合に拡張されるんだろうか。そんなことを思った。

xとyのテトレーションを演算子「丁」を使って「x 丁 y」と書くものと定義する。同様にテトレーションの逆演算も演算子「卯」を使って「x 卯 y」と書くものと定義する。すると、1 丁 2 = 1 となり、2 丁 2 = 16、3 丁 2 = 7625597484987となる。n 丁 2のnを自然数に限定すると、解の集合は小さい順に1, 16, 7625597484987と並んで、2 卯 2 から 15 卯 2 までと、17 卯 2 から 7625597484986 卯 2 は自然数には収まらないということになる。この一部は複素数に落ち着くかもしれないが、別の一部は複素数をはみ出してしまうかもしれない。

負数というのは-2というように書くけれども、これは「0 - 2 の解」ということを表す記号であり、 5 - 7 = -2 というのも、5から7を引いた解は 0 - 2 の解と同値であるということを表現しているに過ぎない。分数というものも同じような表現で、2/3 というのは「2 ÷ 3 の解」というのを表す記号で、それ以外に表現のしようがないということを意味している。2/3にはいろいろの性質があって、0.66666...という循環小数で記述できたり、「4 ÷ 6 の解」と同値であることなどが知られているけれども、値そのものの表現としては、「2 ÷ 3 の解」という方法しかできない。

√2 は「2の平方根のうち正値」という意味だし、これこれこういう逆演算の答え、という身も蓋もない表記という意味では、-2 や 2/3 と同じということになる。「x 卯 2 の解」という記号を「兎x」と定義してやれば、新しい数を記述することができるようになる。あとは、その値が複素数の範囲におさまるのか、あるいは実数の直積として表現できるのか、ということを調べていくことになる。で、もしそれが既知の集合とは別のものになるとしたら、新しい数論的集合が構成されるということになる。単純に予想すれば、たぶん複素数とは別のものになっているだろう。

そして、その新しく定義された集合が「有限個の実数の直積」として表現可能ならば、集合の濃度は実数濃度と等しくなる。ただ、無限階のハイパー演算とその逆演算が構成する代数系なんてものが無矛盾性を満たしてしまったりすると、その代数系が逆演算の方についても閉じるような数の集合というのは、果たして実数濃度に収まるんだろうか、という疑問がある。

小数記法で、桁数が有限ならば必ず有理数の範囲に収まるが、無限桁で循環しない場合には、無理数になる。同じように、有限個の実数の直積として表現できる数の集合は実数濃度を持つけれども、無限個の繰り返しのない実数の直積として表現される数を定義すると、それは実数濃度では収まらないんじゃないかという気がしている。

連続体仮説というと、可算濃度と連続体濃度の中間濃度の無限というものは存在するか、という話になっているけれども、連続体濃度の上、というのはどういう議論になっているのだろうか。21世紀にもなると、このあたりは数学的に解析が済んでいたりするのだろうか。どうだろう。


参考:
冗長2進加算器と乗算器の性能評価
無限のステップ
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by antonin | 2012-11-02 06:22 | Trackback | Comments(0)


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