安敦誌


つまらない話など
by antonin
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30
検索
最新の記事
アキレスと亀
at 2017-05-02 15:44
受想行識亦復如是
at 2017-05-02 03:26
仲介したことはあまりないが
at 2017-04-29 03:36
サンセット・セレナード
at 2017-04-12 23:17
水分子と日本人は似ている
at 2016-06-04 01:49
ほげ
at 2015-06-05 03:46
フリーランチハンター
at 2015-04-17 01:48
アメリカのプロテスタント的な部分
at 2015-04-08 02:23
卯月惚け
at 2015-04-01 02:22
光は本当に量子なのか
at 2015-03-17 23:48
記事ランキング
タグ
(295)
(146)
(122)
(95)
(76)
(65)
(59)
(54)
(45)
(40)
(40)
(39)
(32)
(31)
(28)
(27)
(25)
(24)
(22)
(15)
最新のコメント
>>通りすがり ソ..
by Appleは超絶ブラック企業 at 01:30
>デスクトップ級スマート..
by 通りすがり at 03:27
7年前に書いた駄文が、今..
by antonin at 02:20
助かりました。古典文学の..
by サボり気味の学生さん at 19:45
Appleから金でも貰っ..
by デスクトップ級スマートフォン at 22:10
以前の記事

<   2012年 12月 ( 4 )   > この月の画像一覧

円高の正体

代休っぽい理由で、自宅にいる。で、朝から読書なんかをしている。検診の結果、中性脂肪が高くて動脈硬化リスクが高まっていますよ、なんていう警告が出てしまったので、少しは運動などしないといけないなぁ、とも思っているが、運動のための運動というのは大嫌いなので、自転車に乗ってお寺参りにでも行ってこようか。

--

finalventさんが推していた「円高の正体」という新書が気になっていたのだが、古書価格が結構高止まりしていたので二の足を踏んでいたら、AmazonでKindle版が得られていたので、早速購入してみた。

円高の正体 (光文社新書)

安達 誠司 / 光文社


私個人の場合、内容的にあまり好ましくないが成り行き上目を通さざるをえない本というのは、意識的に古書で書い、読み終わったらすぐに売ってしまうケースが多い。こういう場合、私が払った代金というのはすべて流通業者に流れ、保証金のようなどんぶり勘定のフィードバック経路がある場合を除いて、版元や著者には流れない。ところが、電子書籍では代金が販売店の取り分を除いて発行元に流れる上、古書が流通して市場を食い荒らすことも未然に防止できる。

なぜ既存の出版社が電子書籍に積極的にならないのか理解し難いが、おそらく、過去の経験で身につけたノウハウが役立たなくなることを恐れている中年以上のスタッフが反対しているか、長年一緒に仕事をしてきた印刷や流通業界の幹部からの接待に、幹部クラスがほだされているからとか、そんなあたりなんだろう。


さて、本題。

本書の内容だけれども、日本のデフレの主要因は金融政策にあり、日本の不景気の原因の全ては日銀の不手際にある、という極端な主張をする人たちの理論的根拠がある程度把握できるという点で、参考になった。けれども、新書という形態の制限からある程度当然なのだけれど、議論が大雑把で、正当性を検証できるレベルではなかった。

つまり、「そのとおりですね」とも言えるようなデータではあるのだけれど、また同時に「こういう見方もできますね」と言えてしまう程度の単品データでもあるので、要するに緻密な議論ができない。新書で緻密な議論ができるようなデータを提出されても困るのだけれど、それとは別に、データの前後に主観的な主張が強すぎて、そもそも客観的な議論ができるような文脈ではないという問題もあった。

過去に読んだ「デフレの正体」でも事情は似たようなものだったので、結局は両者の意見を念頭に置いた上で、結局は基礎的な経済理論から、現下の社会モデルに参照して、事前仮定が成立しない理論を丁寧に除去して、成立する理論もその成立範囲をある程度確定して、その上で現実を説明可能な理論を再構築するしか、結局のところ手はないのだと感じた。このあたりがキリリと示されることを若干期待していたのだけれど、それは過ぎた期待だったようだ。

本書で、ライバルとなる「デフレの正体」に対する反論のようなものもあったのだけれど、思ったよりあっさりとしていて、1ページ分の文章と、表が1枚添えられているだけだった。つまり、日本より生産年齢人口が減少している国はあるが、その国でもインフレ率はプラスになっていて、デフレが起こっているのは日本だけですよ、という、あっけないほど簡単な「反論」だった。

デフレの正体 経済は「人口の波」で動く (角川oneテーマ21)

藻谷 浩介 / 角川書店(角川グループパブリッシング)


けれども、日本よりも生産年齢人口の減少が大きいとされる国は、主に東欧諸国であり、日本のような経済成長を終えた成熟国家ではなかった。そういう国では、社会資本も個人所有物も、まだ十分に揃っていない段階にあるのだから、人口が多少減少しても、国内需要が本格的な縮小に転じるまでにはまだ余裕が残っているだろう。

そういう意味で参考になるのは、日本に近い生産年齢人口の減少が始まったドイツくらいなのだけれど、ドイツのインフレ率も1.6%と非常に低いレベルになっている。そして、現在のドイツというのは既にユーロ圏内にある。独自通貨のマルクが生きていた時代ならいざしらず、通貨圏内に独仏などの成熟国家だけでなく、ポーランドや旧ユーゴスラビア諸国などの発展途上国を抱えた経済圏にある。ユーロ圏内にあるドイツのインフレ率を見るということは、円圏内にある関東のインフレ率を見るという処理に似ている。

そしてドイツ国内にも旧東ドイツ圏の発展途上エリアを抱えている。この地域ではまだ社会資本に対する需要がいくらか残っているだろう。さらにドイツは1560万人の移民を抱え、その割合は19%にも達している。元からのドイツ人4人に対し、移民1人が同居していることになる。移民たちは基本的に家族で定住し、ドイツ国内に残ることを希望しているらしいが、彼らが国内需要に対してかなり貢献しているだろう。また、移民の中にはドイツ国内で稼いだ賃金の一部を、故郷の家族に仕送りしている人もあるだろう。これは、通貨的には労働力の輸入と同じ効果をもたらす。こうした状況も、現在の日本の状況とはかなり異なる。

参照:【ドイツ】外国人・移民人口が19%に拡大[社会]/NNA.EU
(2010年2月のニュース)

非生産年齢人口には、未成年と老齢者の2種類があり、需要を押し上げる効果の大きい未成年と、その効果が小さく、むしろ保有資産の売却圧を生じる老齢者人口では、その効果が異なる。なので、単純な生産年齢人口の増減だけではなく、多産多死から少産少子への移行による生産年齢人口の現象という、人口オーナス状態の例を探し出して比較する必要がある。しかし、こうした状況に対して無対策で放置されている国家は、現在の日本と10年後の韓国くらいしかないので、データが少なく直接的な反証はできない。それに対してごく簡単なデータで反証しているということそれ自体が、むしろ不誠実に感じられる。

また、本書のテーマのもう一つは、円高は常に悪で、良い円高など存在しない、というものだった。この点が強調されすぎて、論がずれているところも多々あった。産業構造が輸出超過であれば、円安のほうが良いに決まっている。中国の元が安値誘導を続けていて、それが欧米に批判されてるのもそうした理由だろう。ただ、それを解消するのが金融政策にしかできないという理由が知りたかったのだが、そうした説明はなかった。

円安になれば輸出が増大してGDPを押し上げるというグラフが出ていたが、そんなのは当たり前であって、金融緩和の拡大が必要という論拠にはならない。また、掲げられていたグラフは、長期的には正弦波振動に近い波形をしており、円安が黒字の拡大方向に押し上げ、次に黒字拡大が為替を円高方向に押し下げるという循環振動に過ぎない、としても説明可能なグラフだった。つまり、ひとつの振動のサイン波とコサイン波を見ているだけではないかと。

むしろこのグラフの語るところは、円高基調でも円安基調でも、常に貿易黒字超過の状態が続いているという点ではないかと思う。日本の貿易市場には不当に過剰な輸入障壁が存在するために、本来の為替相場がもたらす適正な貿易収支より過剰な黒字超過の状態に陥っており、それが原因で適正な為替水準よりも円高に傾いてしまっているのではないか。日本の高い規制水準も、一部には不当に強い非関税障壁として残っているし、米の輸入は関税障壁しかないが、その税率は常識的な関税率の水準を大きく超える値になっている。

日本は外国人労働者の入国にかなり厳しい制限を課しているが、これは労働力に対する輸入障壁と見ることができる。外国人労働者が母国へ送金する際に税金を課せばそれは関税障壁に相当するが、入国段階で厳しく審査して入国を絞るのは非関税障壁に相当する。これらの輸入障壁が貿易不均衡をもたらし、人為的な貿易黒字体質によって、輸出産業が一方的に不利益を被っているというのが、今の日本の状態なのだろう。

そういう状態に対して、市場が本来要求する水準よりインフレ方向へと、金融政策によって人為的な為替相場の操作をするという対症療法をすることを本書では主張するのだけれど、不均衡な輸入障壁を取り除き市場による自然な相場調整力によって為替水準を均衡させるという、根治療法の方が適切だと思う。TPP加盟は、少なくとも根治療法の推進力として使うには妥当なものだろうと思う。

短期的には投機取引による相場調整力が主要因となるが、長期的には結局相場を上下する要因は実需が支配的になると考えるのが妥当だろう。先物取引にしても、最終的な損益を確定するのは現物の受給なのだし。外貨を円に替える必要のある輸出ばっかり積極的で、円を外貨に替える必要のある輸入を一方的に制限していたら、短期的にはともかく長期的には過剰な円高に傾くのは当たり前だと思うのだけれど、本書ではそんな話が「嘘」や「誤解」だとされている。

それから、本書ではFXの取引に関する意見などがコラムに書かれていたが、これは思い切り蛇足だろう。経済学が対象とするような、短くても月単位、場合によっては10年単位の傾向を扱う理論と、FXが意識するような、長くとも月単位、短ければ分単位の取引が示す傾向は、原理が全く異なる。そういうものに対して本書のようなマクロ指標を説明する本が意見を述べようとすべきではない。通貨取引など、本業のトレーダーはパケット遅延時間が問題となるようなミリ秒単位の取引でも勝負しているのだから、明らかの本書の議論対称を外れる。

と、批判が山のように噴出するのだけれど、逆に本書を「知ってた」と思いながら読める人にとっては、「デフレの正体」が突っ込みどころ多数で読めたものではないと感じるのだろう。とりあえず批判的な目で一読したので、今度は参考になる意見を抽出しようという目で再読してみる必要があるだろう。おそらく、「円高の正体」も「デフレの正体」も、6割の真実と4割の誤謬で構成されているのだろうから、その6割ずつを抽出して合成していく必要があるだろう。


結局のところ、需要過多では価格が上昇し、需要過少では価格が下降するという基本原理で説明がつくのだろうが、あるパラメータが別の経路を通じて需要や供給に対して再帰的なフィードバックを起こすので、そのフィードバック経路や寄与率をどう算出するか、というのがキモになるのだろう。特にデフレ下ではインフレ率の符号が逆転しているので、正数域を暗黙のうちに仮定していた関係式のうちいくつかはすでに破綻している。

また、経済学では市場のプレイヤーが合理的判断をすると仮定しているが、初歩的な物理学が摩擦や空気抵抗を無視するように、初歩的な経済学も同様の仮定を持ち込んでいる。例えば、法令による制約や、会社同士やキーマン個人間のお付き合いなどによる、取引の非合理性による効果は無視されている。現在の経済学の体系というのは基本的にキリスト教圏の生まれなので、キリスト教圏の、特にプロテスタント圏の商取引の特性を忠実に表している。しかし、ちょっと京都的なお付き合い精神が随所に残されている日本経済では、多くの指標がもう少し膠着性優位の特性を示すので、既存の経済学の単純な適用は難しい。

たとえば、経済学の常識では金利を下げると資金調達しやすくなり、銀行の貸出が増え、結果として市場に出回る資金量は増えるとされている。そして逆に、金利を引き上げれば市場から資金が回収できるとされている。しかし、その理論の前提として、資金借り出しの主導権を握っているのが需要サイド、つまりお金を借りる企業側にあるという暗黙の仮定が存在している。しかし日本では実質、借り出しの主導権は企業側ではなく、供給サイドの銀行側にある。ここで、ごく基本的な経済原理でさえも、その有効性が大きく制限されることになる。

企業が、今は低金利だからぜひ資金がほしいといっても、貸し手である銀行にとって金利による利潤が手数料として成立しない条件下では、銀行はなかなか資金を貸し出そうとしない。特にデフレ環境下では、国債を買ったり日銀口座に塩漬けにしておくのが一番高い実質金利を産んでしまう。企業は資産が不足しているからそれを増強するために資金を借りようとしているのに、担保として過剰な資産を要求されたりする。つまり貸し渋りが発生する。

一方高金利下では、市場の旺盛な需要によって潤沢な現金資産がある企業が多い。そのような状態でも、銀行にとっては予想インフレ率が高い状況で高い金利による金利収入が見込まれる。そのため、貸し出しノルマを課された銀行の営業員が、企業に対して本来必要とされない資金を貸し出そうとし、場合によっては貸し出し済み資金の引き上げなどをちらつかせて脅しを掛けながら、レバレッジの利いた冒険的な事業展開を半ば強制的に提案したりもする。つまり押し貸しが発生する。

一斉に行われる押し貸しによって潜在需要を超えるバブル景気が発生するが、それを沈静化しようとして中銀が金利を引き上げても、金利上昇によるインフレ期待から、銀行の貸し出しはむしろ積極的となり、市中の現金は増大する。そして総量規制などの直接的な金融的引き締めを実施すると、今度は銀行主導による貸し剥がしが発生し、各種相場は雪崩をうって暴落、最後には潜在需要を下回るレベルまで資金供給が滞るようになる。個人の感覚としても、銀行系クレジットカード会社などが高金利のリボ払いを執拗に薦めてくる態度などから、そういう傾向は明らかだろう。

このように、資金の供給サイドにある銀行の社会的な権力が、需要サイドにある企業や個人よりも目立って強い場合、良心的な経済学が仮定するような、両者が対等な立場にあるか、あるいは実業の側が若干優位にあるような状況が成立せず、金利政策のような極めて基本的な理論でさえ破綻してしまう。リフレ派の意見は大部分が経済学の理論による演繹から成立しているのだけれど、日本の状況を考えると、成長企業に対する妨害として働く法令や商習慣によって、論拠の多くが破綻しているか、または限定的な寄与に留まっているように見える。

なので、現在の日銀がリフレ派の言うような大規模なマネタリーベース拡大を拒否しているのは、今の日本がデフレに陥っている主要因が、金融要因ではなく法令体系などの政治要因にあると考えており、そうした諸々の政治要因を解決することなく金融政策だけインフレ側に倒すと、きっと後悔することになると考えているからではないかと思う。

日本の中銀のレベルはFRBに比べると見劣りする、などといってリフレ派の人は日銀を口汚く批判するのだけれど、日銀というのは単なる造幣所ではなく、各種の通貨指標を時々刻々と収集しているモニタリングセンターでもあるので、自分たちの金融政策が実体経済に対してどのような影響を与えているのかということについては、外部に公開されるサマリー情報しか見ていない人に比べ、ずっと高い精度で認識しているだろう。また、過去の金融政策の失敗について、多様なレポートを読んでいるはずだ。

なので白川さんとしては、どのような批判を受けてようと、政治サイドが適切な法改正などによって産業の成長方向にある障害を取り除き、供給資金が変なところに流れ込んで終わるような市場構造を是正するまでは、絶対に過剰な金融緩和はしないという覚悟を決めているのだろう。実際に日銀が管理調整しているパラメータは物価だけではなく、もっと多岐にわたるバランスを見ているが、リフレ論者の意識は物価にしか向いていない。


今回、総選挙の投票率が過去最低だったらしい。それはなぜかというと、自民党に投票しようが民主党に投票しようが、党内選挙によって誰が首相になるかによって主な政策が決まり、選挙公約が守られないということを実感したからだろう。どこに投票しようが、投票結果とは関係ないところで政策が決定されるなら、投票するだけ無駄ということになる。そういう意味では、野田さんは日本の間接民主主義を破壊してしまった。私は野田さんの取った政策を強く支持するけれども、プロセス的にはひどかったと思っている。

過去、堀江貴文さんがIR情報を偽装したことで逮捕された。そのあたりまでは妥当だったと思う。実業を撹乱するマネーゲームというのは制限されるべきだと思っている。けれども、彼がその程度の罪で、しかも初犯で実刑を食らって服役中だということは、日本の若い人たちに、日本国は新規事業の発展による経済成長よりも、既存権力の維持に注力しているということを高らかに宣言してしまった。そんな情況下では、誰も革新的な事業を起こそうなどとは思わないだろう。なにしろ1回のミスでムショ行きである。そんな危ないものに手を出すほうがバカである。

今の社会制度設計のままで大規模な金融緩和をしても、(リフレ派にとって)想定外の結果が生じ、また別の意味で日銀批判が沸き起こるのは目に見えている。過去の金融緩和によって、日銀は金融政策の無力感を骨身にしみて感じているだろう。リフレ派は単に規模の問題としているが、それを直接語るデータは存在しない。

獲得された無力感というのか、自分の行為が結果に影響をもたらさない、あるいは悪影響をおよぼすことを学習したとき、人は消極的になる。そういうあたりの学習をクリアして、あなた達は成長できると思わせるような制度的サポートをしないと、日本が再び経済成長することはないと思う。それを、日銀の口座に見せ金が溜まっただけで日本の景気が良くなると考えているなんて、どれだけ楽観的なんだろう、などと思ってしまう。


本来の市場主義というのは競争による社会発展を目指していて、必ずしも自由主義を取らない。つまり、本当に市場を無制限に野放しにしてしまうと、最後は寡占企業によって市場を独占されてしまい、市場が成立しなくなってしまう。そこで、市場に参加する企業の権利を国家がある程度制限し、複数の企業が競争状態になることを強制する。そうした強制の代表的なものが独占禁止法になる。完全な自由主義であれば、独占であろうがなんであろうが常に一番強いものが勝つのだけれど、市場主義は市場に参加する強すぎるプレイヤーの権利を制限し、2番手以降のプレイヤーを常に確保することで、取引の選択権確保による競争の活発化と、競争による社会発展を目指している。

今の日本でリバタリアンを自称する人が増えているというのは、今の日本では本来の市場主義にとって適正な規制のレベルを超えた、過剰規制が実施されている実情の反映なのだろう。本当に優れたパフォーマンスを示すシステムというのは、少数の厳密なルールと、その範囲内での自由がバランスよく成立している。国家経済というのも一種のシステムだから、そこでリバタリアンが増えるということは、雑多なルールが過剰になっているという証拠だろう。

自由主義の果てにある極端な資本主義社会では、社会主義が理想像になる。社会主義の果てにある極端な共産主義社会では、自由主義が理想になる。20世紀の社会主義の敗因は私的な産業資本を壊滅させてしまったことにあるし、21世紀の資本主義の混乱の原因は、社会主義的要素を排除し過ぎて中小企業や消費者個人の体力を奪いすぎたことにある。社会主義国が国際社会から退場してしまい、自由主義の寡占状態になったことで国家システム間の競争が弱まり、結果として寡占状態にある自由主義の品質が劣化した、というのが正直なところだろう。

理想的な市場主義というのは、なかなか理想的な中庸を備えていると思うけれども、なにしろ中庸というのは相対的な目標でしかないので、絶対的な目標点を掲げる主義主張に比べて説得力に乏しい。そろそろフォーディズムあたりの中庸に回帰して欲しいと思うけれど、果たしてうまくいくかどうか。

けれどもなんだか一方で、こういう誘惑もある。使える手はなんでも使って、もう一度狂乱物価を呼び、銀座にドンペリが乱れ飛び、目黒にフェラーリが列をなし、地方には大観音が林立するような社会を再現してしまえ、と。もし本当にそんなことになったら、若い人たち、あるいはこれから生まれてくる人たちは、さぞ迷惑だろうけれども。
[PR]
by antonin | 2012-12-21 14:13 | Trackback | Comments(2)

金言プラス

既出多し。

--

【朝令暮改】 ちょうれいぼかい

 ルールがめまぐるしく変わって安定しないこと。小規模なシステムであればアジャイル開発でもいうことを聞いてくれるが、大規模なシステムや人間のような学習型知能では、新しいルールの解釈が定着する前により新しいルールを適用してしまうと、詳細な判断に混乱が生じるため徐々に言うことを聞かなくなる。


【臥薪嘗胆】 がしんしょうたん

 目的を果たすまで、自分を苦しめることで強い意志を保とうとすること。戦に負けた復讐を果たす日まで、固い薪の上に寝て、苦い肝を舐めて過ごしたという故事による。人の恨みはなかなか消えないが、満ち足りた環境を与えられると、意外に恨みを忘れてしまうことも多い。


【嘘つきは泥棒の始まり】 うそつきはどろぼうのはじまり

 嘘をつくような小さな悪行に慣れると、最後は泥棒のように大きな悪行に手を染めるようになってしまうということ。速度制限や公職選挙法などの軽微な違反に対する罪悪感を失ってしまうと、いつかは消防法や憲法などの重大な法律を犯してしまう結果につながるので、注意が必要になる。


【盗人にも三分の理】 ぬすびとにもさんぶのり

 どんな悪人にも、その人が悪人にならざるを得なかった理由がなにかしらあるということ。どんな犯罪にもそれなりの理由は付けられるので、それだけで犯罪者を許すことはできない。しかし、そういう理由に耳を傾けて社会を改めていくと、徐々に社会から犯罪は減っていく。


【罪を憎んで人を憎まず】 つみをにくんでひとをにくまず

 罪は憎むべきだが、罪を犯した人を憎むべきではないということ。人は誰しも罰を受けたくはないので、罪を犯した人だけが厳罰を受けるようになると人々は罪の存在を隠すようになり、そして誰もその罪を罰することができなくなる。犯罪行為と人を切り離すことで、犯罪が明らかになりやすい社会となり、その対処も進めやすくなる。


【失敗は成功の母】 しっぱいはせいこうのはは

 大きな成功をおさめるためには、実際に無数の小さな失敗をした経験がものを言うという格言。後輩が取り返しのつかないような大きな失敗をしないように陰ながら助け、小さな失敗を体験できる機会をたくさん与える人が成功する。そういう人も、一度は後輩を育てそこねて痛い目を見ている場合が多い。


【時は金なり】 ときはかねなり

 時間はお金と同じものであるという格言。より多くの時間を効率良く他人のために使うことで、より多くのお金を得ることができる。しかし、自由になる時間が多い生活は、自由になるお金が多い生活と同じくらい豊かなものである。


【貧乏暇なし】 びんぼうひまなし

 お金に余裕がない人ほど、時間にも余裕がないということ。そんなもんだよね。
[PR]
by antonin | 2012-12-20 04:00 | Trackback | Comments(0)

デフレの終わりの始まり

最近なんとなく、長かったデフレの時代の終わりが近づいている感じがする。

まず、円がドルやユーロに対してジリジリと値を下げている。この要因は日銀への追加緩和圧力だとか自民党政権への期待だとかで説明されているが、そのあたりの心理的要素がいまさら効いてくるとは、どうも思えない。もっと単純に、日本の構造的な貿易黒字体質が消えつつあるのが原因としてもいいように思う。

東日本大震災の影響で福島第一原発が盛大に爆発し、そして民意も盛大に爆発し、すでに燃料棒に仕込んである燃料を電気エネルギーに変換することを暗に禁じられている。しかも、この傾向は原子力エネルギーの縮小方向へと向かっている。とすると、メタンハイドレートなどの国内燃料の開発が十分に進むまでの期間、天然ガスなどの輸入を大幅に拡大していくことが必至になる。そうすると電力価格も上昇し、いくらエコとはいえ、発電所にエネルギー転換を依存する電気自動車の普及にもブレーキが掛かるだろう。そうすると、当面は原油の国内需要も高止まりを続けることになる。

今後、日本はもっぱらエネルギー資源の輸入によって貿易赤字体質が慢性的に続いていく。ある程度円安に振れると、そこで輸出額も増大するだろうけれども、なにしろ産業の血液である電力価格がかなり高騰するはずなので、工業的な産品のコストは、円安の効果を打ち消す方向に働いてしまうだろう。ソフト製品であれば、そういう問題は軽減されるにしても。

日本のデフレの最大の要因はプラザ合意によってドル追従型の為替が禁止された影響だと思うけれど、ここまで長引いてしまった要因というのは、どうしても隣国に抱えた「世界の工場」からの、安い労働力を背景にした馬鹿みたいに安い工業製品がもたらした価格破壊だろう。そして今、その中国の労働力も相当に高コストになっており、ある程度自由のきく企業は、より賃金水準の低いタイ、ベトナム、ミャンマーなどの東南アジア各国へとシフトを続けている。しかし、こちらも工場の流入と貿易黒字が累積してくると、近い将来にコストメリットが飽和してくるだろう。

その先にはインドが世界の工場を担う時代が来るとは思うけれども、上海あたりから日本海を渡るだけで日本市場を直撃していた頃に比べると、インドというのはやや距離がある。マラッカ海峡よりあちらに工場が移れば、日本もいくらかその影響から解放されてくるだろう。先進国でこれほどデフレを続けているのは日本だけだ、なんていう指摘もあるが、中国との地理的な貿易距離がこれほど近い先進国は世界でも日本だけだ。まあ韓国もあるけれど、あちらの国内市場というのはちょっとアレなので、分けて考えてもいいと思う。韓国も近いうちに人口ボーナス期間が終わるので、その時にどうなるのかというのは少し心配があるが。

そういうあたりを考えると、アジア由来の産品の価格破壊力が、かつての猛威に比べて徐々にマイルドになってくるのだろう。牛丼の安値競争も一息ついたし、マクドナルドもセットメニューへの回帰を急速に進めていて、ユニクロの商品も今ひとつお値打ち感がない。デフレの牽引役であったような大量消費財が少しずつ値を上げ始めているのを、私のような貧乏人は肌で実感している。

今年は1.58ショック世代がそろそろ大学を卒業するというタイミングだったが、本格化した少子化のために学生バイトが集まりにくくなっていたりして、学生バイトの時給水準はジリジリと上昇を始めている。高齢アルバイトの供給力が急激に拡大しているので、こういう圧力が全体的な給与水準にまでフィードバックしてくるのにはまだ時間がかかるだろうが、消費者物価の裾野では、少しずつインフレ圧力が高まってきているのを感じる。このあたり、鮮度のいいデータがあるといいのだけれど。

でもまあ、いざデフレが終わったら、俺達が金融緩和を指示したからなんだと、立法府のお歴々が自慢げに語り出すのだろう。で、次には国債の金利爆発をどう処理するかという段階に入り、また侃々諤々の議論が再開するのだろう。

まあ、なんとかなるだろう。
[PR]
by antonin | 2012-12-18 21:11 | Trackback | Comments(0)

ヨタヨタ話

昨日は投票に行ってきた。猪瀬さんに投じた都知事票以外は、だいたい死票になった。ただ、「違憲状態」というものがあるときに、議会に送り込む代議士の人数だけを勘定すると地域格差がひどいのだけれど、死票に集まった票数の絶対値などは、目立たないものの確定した統計値として記録に残る。そういう獲得票数の数値を直接比較したとき、選出議員の人数とは別に、投票した一人ひとりの数字が生で表れる。それは厳密に一人一票で数えられ、地域格差は存在しない。

当選を生んだ投票というのは、その代議士の生きた人格という、時間とともに変化する流れに飲み込まれてしまうのだけれど、逆に死に票は投票時点での票数としてしか表現しようがなくなる。下手に勝ち馬に乗るよりも、どうせスレッショルド以下に埋もれる市井の民意表現としては、死票表現というのは案外に割がいいんじゃないかという気もしている。

開票時間中は、久しぶりにテレビを眺めていた。NHKなんかは極力常識的な態度を守ろうとしていたけれども、テレビ朝日は本当に悔しそうに開票状況を伝えていた。今年の隠れ流行語に「ステマ」というのがあったけれども、局として「推し」があるとすれば、形式的には公正中立に見える態度の中に、巧妙に偏向を混ぜるというステルス性が求められるんじゃないかと思う。なのに、朝日系列さんは、もはや聖教新聞や赤旗に匹敵する勢いで旗幟鮮明に民主党を推していた。ある意味、今回の選挙で民主党を殺した要因の3割くらいはこのメディアにあるのではないかという気もする。

紳士が紳士然としているのは、自分の表面的な欲望を押さえつけられるほどに強い、より根深い欲望があるからであって、そういう真の強欲さがないと、表面的な欲望を押さえつけられるだけの動機というのはなかなか得られない。表面的なステルス性を失っているメディアの人たちは、その基礎生活が案外に恵まれていて、夢にうなされたり喉から手が出たりするような動物的な渇望が、もはやないんだろうなという感じがある。

逆に、最後に石原さんを孕んでしまった維新を絶対に国政の中心にはおかないぞ、というような恐怖心は各メディアに共有されている感じがあって、最後の最後で第三極への風をきっぱりと断ち切った見事なステルス性の奥にある渇望というか恐怖心というか、その根深さが伝わってくるような気がした。

今後を考えると、憲法をどうするんだ、という話になるんだろうか。いきなり9条や前文に手を付けるのは軽く内戦状態を誘発するので、まずは第百条以降を削除するなんていうところから手を付けてみたらいいんじゃないだろうか。ここを削除しても法令体系の論理的整合性に対してなんの害もないし、議員にとっても国民にとっても、日本人にも憲法を書き換えられるんだという実感が持てて、先の話が面白くなると思う。官僚機構は先例主義だから、まず正規の手続きを踏んで国民投票を経て憲法を改正したという実績を残しておくのは良いことだと思う。

そういえば、この国は愛と平和を旨とする憲法を戴く国になって久しい。だから我が国では、正しくは愛と平和を何より尊重する人たちが立場的に保守派であり、必要とあらば勇ましく戦える誇り高き「普通の国」を目指す人のほうがむしろ改革派ということになる。後者は明治政府を範とする復古主義的な性質も強いので、必ずしも「革新」とは呼べないが、現状を打破して改めたいと願っているという点では、現行憲法下における「真正保守」という人々は、最も先鋭な改革派だといえる。

そういう目で見ると、「9条を守る会」だとか、その他の護憲派という人たちは、日本国憲法という「不磨の大典」を是が非でも守ろうとする態度を取っているように見える。第百条以降のフランクな条文を読むと、まさか70年近くもメンテナンス無しで放置を食らうとは、公布当時には想定されていなかった憲法であるということが明らかなのだけれど、「進歩的」な護憲派の人たちがかなり屈折した形ながら、大日本帝国憲法の時代にあった「不磨の大典」という文化を継承しているというのが、なんだか奇妙で面白い。

日本語の「保守」という単語も面白い。これを英単語に戻すと、文脈によって "conservative" になったり、あるいは "maintenance" になったりする。護憲派の人は、本当に平和憲法を守り続けたいのなら、頑なに conservative に拘泥するよりは、ときどき適切に maintenance を入れてみたほうがいいんじゃないだろうか。本当に日本が民主主義の国であると信じるならば、国民が望めば適宜憲法を改正していく権利があるはずなんだけれど。

ただまあ、憲法改正というのはOSのバージョンアップみたいなところがあって、その効果が正しく法令のレイヤーに反映されてくるまでは効力を持たないんだけど、そういうことを考えると、大日本帝国憲法下で制定された法令をベースにツギハギしてきた現在の法令体系を一度棚卸して、分量を一度現在の10分の1以下まで削減しないと、とてもじゃないが改正憲法との整合性なんて検証できないと思う。

世界最初の総合大学とされるパリ大学の、中心的学部は神学部だったらしい。中世ヨーロッパを単なる暗黒時代だと信じていた年頃には、フィクションである神について学問を編み出すなんて不毛だな、なんて考えていた。けれども、ある水準を超えると論理的に主張の善悪や当否を判定できなくなることがあるのを知ってからは、神学という学問に対する見方が変わった。

中世ヨーロッパというのは、王国や共和国より上位にカトリック教会を置き、あらゆる価値判断の根底にキリスト教の信仰を置くと決めた社会だった。それはもう決め事という以上の根拠はないのだけれど、とにかくそういう価値判断の根底にある「神の意志」と、現実的な状況判断の際に求められる判断基準との間に、論理的な整合性を取ってやらないといけないような社会だった。そういうカトリック世界における神学というのは、近代国家における憲法学や法学に相当する学問だったのだな、ということが、ようやく見えるようになってきた。

現状、日本の法令はおびただしい項目に膨れ上がり、道交法や労基法などのように、もはや取り締まることすらできないで放置されているような法令もいたるところに転がっている。杓子定規に規定通りに運用される法もあれば、超拡大解釈で恣意的に運用される法もある。最近の日本は、あまり法治国家とは言えなくなってきているようにも思える。

憲法改正もいいけれども、そういう法令体系の論理矛盾を整理するような虫干しを先に実施するのが筋だろうとも思う。イデオロギーじゃなくて、単に論理整合性だけを基準に論じるような。けれども、そういう作業ができるほどの憲法学者や法学者って、この国にいるんだろうか。そういう、利権を切り崩す危険な作業に着手する学者を保護できる政治家って、この国にいるんだろうか。

やっぱり、次善の策を求めて積み重ねていくことしか、実際にはできないのだろうなぁ。
[PR]
by antonin | 2012-12-18 03:50 | Trackback | Comments(0)


フォロー中のブログ
外部リンク
外部リンク
ライフログ
ブログパーツ
Notesを使いこなす
ブログジャンル