安敦誌


つまらない話など
by antonin
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本の話

あかね空 (文春文庫)

山本 一力 / 文藝春秋



読了。内容については、2002年の直木賞受賞作ということらしいので、いまさらここで書評っぽいことをする必要もないでしょう。で、さすが直木賞というか、面白いですよ。内容も濃いし、そういう濃さを忘れさせるエンターテイメントも満載。が、それはそれとして。

人に勧められて本を読むことはたまにあるし、それがベストセラーだったり文学賞受賞作だったりすると、自分では絶対に手に取らないけれども、読んでみるとさすがに面白かったりする。そういう場合もたいていは自分で買ったり図書館で借りたりするのだけれど、今回は薦めた本人から借りた本で、しかもしばらく書棚に積んだ挙句にようやく読んだものだった。

で、これ、まっすぐだけど不器用な家族愛の物語なんだけれど、その家族構成はというと、我が家のそれになぞらえて読むことができなくもないという程度に似ている。で、その本を貸してくれた人というのが、義理に母であったりして、このリアル世界の、印刷された文字の手前側の物語がなんとなく文字の向こう側の物語とリンクしていたりして、「はてしない物語」化しているこの状況をどうしましょう、みたいなことになっている。

作中の物語に負けず劣らずの軋轢が生じている家庭ではあるけれども、それぞれの根の正直さというのはそれぞれに知れていて、それを物語として読んでいる分にはいいのだけれど、自身の生活に反照してくるこの状況というのは参った。どうしましょう。

--

ファスト&スロー (上): あなたの意思はどのように決まるか?

ダニエル・カーネマン / 早川書房



リンク先は書籍版だが、実際に購入したのはKindle版の方。もう書棚は飽和状態なので、本を買うときは価格とともに体積の方も気になる。150cc超えるとちょっと躊躇してしまうな、みたいなことはある。で、こちらは体積ゼロで、価格も書籍版よりちょっと安くてお得な気分になる。両手でないと持てないハードカバーでもないので通勤電車でも手軽に読める。

内容はまだ上巻の半分程度しか読んでいないのだが、6割の「知ってた」と4割の「へぇ」で構成されていて、まずまず良い感じ。程よいイングリッシュジョークが随所に散りばめられているのだが、訳文はお堅い論文調。まあ、それがいいのかもしれないけれど。

知らない間に自分でAmazonのカートに放り込んでいたのだが、どこでこの本を知ったのか覚えていない。たぶん、脳とか認知とか心理とか、そういう関係の本を購入したときに関連商品か何かで出てきたのだろう。しばらくカートで腐っていたのだが、Kindle化を契機に購入してしまった。しばらくはこういうことが続くのかもしれない。

本書では、脳の働きに直感を司るシステム1と、論理思考を司るシステム2があること、そしてそれぞれの長所と短所を様々な研究事例とともに説明してくれる。個人的にはシステム0とかシステム-1とか、もっと低位のレイヤーがあると思っているし、そのあたりは著者も知っていると思うけれど、啓蒙書だから話はシンプルにした方がいいのだろう。人間の知能というのは、理性という主人が感情という馬にまたがっているようなものだと常々思っていたのだけれど、それを客観的なデータで裏付ける研究事例がいくつも紹介されていて楽しい。

本書に書かれた話題を少し離れるけれど、駄馬に至高の人格が乗っているように、筆は走るが実務ではボロボロというような人もあれば、名馬に愚者がまたがっているようで、主人は落馬しないようにしがみついて、あとは馬の走るに任せていれば万事そこそこ順調というような人もある。世の中いろいろあって面白い。

--

一度書籍化されたものを電子化されると、それを割安だと思って購入するのだけれど、はじめから電子化するのが当たり前の世界になると、それはよくデザインされたサイトの連載記事と、いったいどの程度違うのだろう、という気もする。アプリケーションソフトウェアがアプリと呼ばれて消耗品になったのと同じように、文字主体の書籍も、85円から600円くらいなら購入してもいいけど、なんていうところまで相場は落ちていくのかもしれない。

月々定額で読み放題というような雑誌スタイルのほうが、案外ネットとは相性がいいのかもしれない。あとは、立ち読みとか店頭平積みとかの誘引システムをどう継承していくか、とかいう問題はあるだろうけれども。

パソコン通信時代から、ソフトコピーはスクロール(巻物)形式に慣れ親しんできたので、ページという内容と関係のない区切り単位が電子書籍に引き継がれているというのが、目下の不満。ハードコピーではこういう不満は感じなかったので、不思議なものだと思う。電子書籍上でも「ページ」という紙っぽい仕組みをエミュレートするモードがあってもいいけれど、章単位のデータを継ぎ目なく素直にスクロールしてくれるモードも備えるようになってくれると嬉しい。縦書き横書きは、別にどちらでも構わない。

ただまあ、無用の用というか、そういう今となっては無用の儀式を守らないと、それこそ一気に値崩れしてしまうのかな、という気もしないでもない。「これは本ではない」と消費者が気づく契機になってしまうと、それはそれで面白くないことになるのかもしれない。

--

震災前は「Apple嫌いのカラクリ」が人気記事だったけれども、「NGワード」認定のためか、あれ以来アクセスがめっきり減った。まあ、食人ネタ書いてからこの傾向は全般的に続いているわけではあるけれども。googleによるフィルタリングは概ねありがたいのだけれど、いくらか世の中をつまらなくしているのかもしれないな、と思うことはある。陰謀論というのとは違うのだけれど、認知の閾値の下に沈んでしまった情報というのも多々あるのだろうな、という。
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by antonin | 2013-03-21 02:33 | Trackback | Comments(0)

私は忘れたい

あまりに退屈なので、花粉症の薬を飲み始める頃から少しだけ処方を戻してみた。吉と出るか凶と出るか。花粉症の薬との相乗効果なのか、睡眠の具合はあまり良くない。

--

「知っている」と「わかっている」の違いが既存の知識とのネットワーク化にあって、「知っている」のは単独の知識、それが周囲にある既存の知識や概念と「なぜ」というリンクで結節して、知識の想起が連想の数段階で扁桃体かどこかを刺激して、快と不快の情動に到達できるようになった時点で「わかっている」知識になる、みたいなことも書こうと思っていたんだけど、勢いで流れてしまった。まあいいや。若さの無駄遣いの話もあれでは不十分だし、惚れるパワーみたいなものについてはまた別の議論だし。それに、あの本の力は「簡単はパワーだ」みたいな部分もあるし。話を複雑にしてしまっては元も子もない。

--

震災についても書いたけど、やっぱりグダグダしたので一度消した。要約すると、「忘れない」とか言ってないで、そろそろ少しづつ忘れていこうよ、ということになる。悲惨な記憶は、当事者ならどうやったって忘れない。それを少しでも緩和するのは、結局は生活の安定感、豊かさだと思う。生活保護でパチンコ打っても全然OKだし、震災太りと言われて叩かれるぐらいでちょうどいいので、被災者の皆さんは国の金を使ってどんどん豊かになってほしい。彼らにはその権利がきっとある。

だいいち、「忘れない」とか言い出すのは忘れ始めたのを自覚した傍観者の取り繕いみたいなところがあるのだし、むしろ2年も経てば忘れるのが正常だ。被災地がいつまでも被災地然としているのが問題なんであって、そんなものとっとと復興させて、やっぱり日本スゲーとか言わせて、後ろめたさなくすっかり忘れてしまおうよ。防災の教訓とかそういうのはまた別の問題として。

死んだ人の言行というのは、生きている人の記憶に残っていて、ふとした瞬間にそれは動き出す。それを比喩的に言うと死後の霊魂になる。記憶の中にある死者が微笑んでいればその霊は天国にあるのだし、それが怒りや恨みや悲しみの形相なら地獄にいる。完全に忘れてしまえば極楽浄土にいる。そして、記憶の中の像が良い感情なのか悪い感情なのかは、生きている人の精神状態を反映する。

つらい記憶を忘れないためには「臥薪嘗胆」が一番利く。物理的あるいは精神的にひどい状態に人を置けばいい。でもそんな「忘れない」は嫌だ。物理的にも精神的にも幸せに過ごして、故人への後ろめたさより感謝や温かい記憶が沸き起こるような状況を作るべきだし、追悼とか供養とかいう儀式はこの世に残された人の心理を和らげるのが本義でもある。つらい記憶を思い出して涙を流すと、脳内にリラックスを促す物質が流れる。それによってつらい記憶が緩和される。むしろ忘れるために、ときどきはっきりと思い出そう。それでいいじゃないかという気がする。

悲惨な経験を忘れない、なんて言ってみても、120年もすれば人は死に絶える。関ヶ原までの数十年、戦乱のつらい時代の記憶を忘れない、なんていう人はもういない。どんなに頑張ったって、あの震災を知らない世代は生まれる。自分で経験した人は、完全に忘れようったって忘れられるわけがないし、経験していない人は、忘れないっていう前に体感として知りようがない。

津波で肉親や友人を失っていないし、放射能に故郷を追われたりもしていない身からすれば、震災の被害に対して今できることはといえば、徐々に高くなる税金をきっちり払うとか、徐々に高くなる電気代をきっちり払うとか、そういう充実感も達成感も連帯感も得られない、嫌になるほど地味なことしかないような気がしている。

この種の貢献にある、おそらくは復興に一役買ってはいるのだろうけれども全然実感が無い、という性質は、被災地の人達が全国の人達の負担で助けられているという時に、それに対して負い目を感じずに、システマティックに淡々と補助を受けられることの裏返しなんだろうし、それはそれでいいことなんだろうと思う。

東日本大震災。私は早く忘れたい。つらい人には特に早く忘れてほしい。まだ難しいとは思うけれども。

おんあみりたていぜいからうん
おんあみりたていぜいからうん
おんあみりたていぜいからうん

おんかかかびさんまえいそわか

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そういえば、今年は昭和88年。12年後、無事生きていたら何を思うんだろうか。
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by antonin | 2013-03-13 01:58 | Trackback | Comments(0)

自分のドタマで考えよう

ちきりん著「自分のアタマで考えよう」を先週Amazon kindle storeで購入、翌日一気に読了。購入前に一番興味があると言っていた、両親への感謝の言葉は書かれていなかった。別の本と勘違いしていたみたい。

自分のアタマで考えよう

ちきりん / ダイヤモンド社


内容を字義通りに解釈すると、未読の人にはこう言わなければならない。

「この本に書かれている内容を信じてしまうような人は、この本を読んではいけない」

論旨の構成はこういう具合で、論理的にはいろいろとグダグダした部分が多く、錯綜していたり矛盾していたりする。こういう部分が、「ちきりんって自分と同じ匂いがする」と感じさせる理由なのだろう。これが理屈にうるさい人にかかると、たぶん無教養の極みという感じで違和感を持たれてしまう。

で、ちきりんには彼女なりの成功体験というものがあって、自分のアタマで考えることを他人に勧めるわけなのだけれど、個人的には自分のアタマで考えるというのは宿命みたいに感じている部分があって、人に勧められてどうこうというものではないような気がしている。こういう本に勧められてようやく自分のアタマで考え始められる人がいるものなのかどうなのか、ちょっと疑わしい。

この本に書かれていることを一言で言うと、「考えるためのツール」がサラッと説明されたハウツー本ということになる。考えろと言われてもどうやったら考えられるのかわからないという人がいて、そういう人に対して「こうすれば考えられるよ」ということが説明されている。それでいて、最後の章になって、名著を読んで答えを知るのはやめよう、先に自分のアタマで考えよう、みたいなことが書かれている。この本は名著だろうし、考え方の答えが書かれているのだし、じゃあこの本を信じてしまうような人はこの本を読んだらダメじゃん、というのが第一印象だった。

私にも、自分の頭で精一杯考えたことが、古典にあっさりと、そして数段エレガントに書かれていたのを見つけてはガッカリしていた時期があった。で、答え合わせをするときには自分の答えを持っている方が楽しい、というようなことは書いたことがある。

考える葦 : 安敦誌

ただこれ、若干負け惜しみみたいなところがあって、古典をサクッと読んでスッと理解できる情報網と頭脳があるなら、そのほうが手っ取り早いとは思う。しかし実際のところ、古典というのはあまりにも膨大な量があって、どれを読んだらいいのかがまず分からないし、苦労して読んだだけの知識が得られるかどうかもわからない。「この本に答えが書かれているらしい」という情報にたどり着くのがまず難しく、それにはある程度問題を自分のものとして捉えている必要がある。

しかも、コロンブスの卵の話のように、思いつくのは大変だが、知ってしまえば馬鹿でも理解できるような答えもあれば、オセロゲームのように、ルールや勝ち方の理論を知るのは一瞬だけれども、それを本当に理解したり、試合の中で実践するまでには、嫌になるほど多くの時間を必要とするようなものもある。

買ってくる花には、切花のように根がなく、枯れて消えてしまうか、押し花にして永遠に変わらないようにしなければ蓄えられないものがある。また、鉢植えのように、根を張って水を吸い、陽を浴びて次々に花を咲かせ続けるものがある。そして、更に実を生じて株を増やしたり、食事に色を添えたりするものもある。

知識も花に似ている。ただ言葉として知っているだけの知識は、切花に似ている。「管理する」は英語で"manage"または"control"とか言うというのを知っていれば、簡単な試験問題には答えられる。"manage"と"control"という単語を、英語話者はどういう場面で使っていて、どう使い分けているのかまで理解できていると、「管理しろ」と言われた時に、manageすればいいのかcontrolすればいいのかという考え方ができるようになる。これは鉢植えに似ていて、単なる言葉の組み合わせとしての知識が、他の経験や知識と結びついて、単語の意味を訳す以外のいろいろな場面で力を発揮し始める。

そして、実際に"control"ではなく"manege"をしなくてはいけないという時に、実際にそれを遂行するには種々雑多な知識の援用が必要になる。こうなるともう、「管理する」が"manage"と訳されるなんていうのはどうでもいいくらいの要素になっていて、膨大な知識がその知識の断片と有機的に結びついている必要がある。

知識には、「知っている」と「わかっている」と「使える」の3段階があって、知ったからといってわかっているわけではなく、わかったからといって使えるわけでもない。知っている状態からわかっている状態へ持って行くには考えるというプロセスが必要で、だから論語にも「学びて思わざるは即ち罔(くら)し」とある。でも、種もないのに水をまいても花が咲かないように、「思いて学ばざるは即ち殆(あやう)し」ともあって、極端な我流も良くないと言っている。

名著と呼ばれてしまうような作品に書かれているのは、コロンブスの卵的に効果覿面という類いのものが書かれている割合というのがとても低くて、大抵は一読したところでは意味がわからず、そこから著者との勝負が始まる。ただし、予め自分の答えを持っていると、一読目で勝負がつくこともある。(この場合、大抵は読者が負ける。良くて引き分け。だから名著と言われる)

「わかっている」を「使える」に昇格させるには、とにかく実践経験しかない。実際に失敗してああでもないこうでもないと、無数の細かい経験を積むしかない。逆に、実践で使えない経験がより確かな理解を要請するし、理解できない経験がより豊富な知識を要請するものだと思う。

「自分のアタマで考えよう」の冒頭では、ちきりんがアメリカで学んできた哲学がストレートに書かれている。つまり、「人はなぜ学び、考えるのか」という問に対して、「判断し実行するためだ」という答えを、あまり疑わずに信じているような書き方がされている。このあたり、私が大学に入った年に英語の授業で読まされた、ウィリアム・ジェイムズの「プラグマティズム」の完成形が、今もアメリカでは連綿と生きているのだな、という感じがする。

アメリカというのはプロテスタントの国だし、ローマを範とした軍事の国でもあるので、議論のための議論を嫌い、功利主義的な議論を好む傾向はあるらしい。このあたり、ヨーロッパ人のねちっこい議論に比べるとかなりスッキリしていて小気味いいのだけれど、そのスピード感から離れて、ちょっと落ち着いて考えてみると、なんだかおかしな所も多い。

私も大学生の頃に誤差伝搬の計算方法と有効数字の取り扱いだとか、データに騙されないグラフの描き方だとか、まずはそういうものから教えられた。理工系のグラフの描き方というのは、とにかく定量的で、量的なものを長さや面積などで正しくアナログ表現し、それにより視覚を通じて直感的にデータを認識したり比較したりするのが目的だった。なので、実験で取得したデータを数表などで提出すると手抜きだと怒られ、今度は棒グラフにすると原点が0ではないので面積と数値が比例関係にないと怒られた。大量の数値は必ず図にして把握しろと、口を酸っぱくして教えられた。

社会に出ても、統計的品質管理手法の講習を受け、QC7つ道具の使い方などを習った。実務と並行していたのでなかなかキツかったが、データがいかに人を騙すかというのがわかって面白かった。そういうデータに騙されない方法というのが、データを見て納得している自分に対して、「本当にそうか?」という強制的な疑問を義務的に向ける作業で、これがなかなか難しいものだった。で、まあ、やってみると気付かなかった疑問点がザラザラと出てくる。グループ討議などでやってみると、さらにいろいろと見つかる。

そういうツールを使うと確かに色々なものが見えてくるし、問題を考えることそのものより問題解決を優先するなら、恐ろしい勢いで問題を片付けることもできるので、確かに楽しい。ただ、それは本当に「考える」ということなんだろうか。

かなり前に読んだ「算法少女」という本が、まだ左列のライフログに棚晒しになったままになっているが、そこでは、江戸時代に実在した、少女の名による算法書をめぐるストーリーにからめて、「学ぶとは何か」ということが隠れたテーマになっている。復刊を果たした文庫の帯には「楽しいからよ」と高らかに書かれているし、確かに主人公の少女もそういうセリフを言うのだけれど、完全に算法を趣味として楽しみ、「壺中の天」にとどまる主人公の父を見て、あるいは九九を教わって喜んでいる町人の子供たちを見て、楽しいだけが学問の価値でもない、ということも語られる。

自分のアタマで考えるのも、基本は楽しいからであって、それがなくてはいけないが、それだけでもいけなくて、必ずいつかどこかで役立つものでなければいけない。一方で、功利的になりすぎて、判断をもたらさない思考は結局何も考えていないのと同じ、というのも極端が過ぎる。アメリカというのは伝統的にこちらの極端に近いところにいて、ヨーロッパのねちっこさに比べると、非常にはっきりとしている。

聖徳太子を降ろして福沢諭吉を掲げるようになってからの日本の嫌味なところはこういう部分なのだけれど、福沢諭吉が、イギリスにいいようにやられた清を見て、ああいう形で学問を薦めたのと同じように、平成の日本が、ドルにいいようにやられた円を見てこういう形になったのも、似たような恐怖に駆られた結果であって、まあ仕方がないのかな、とも思う。

関係ない話になってしまった。まあ、道具なんていうのは、仕組みを考えるより買ってくるほうが早い。要は、考えて何かを理解することそのものに情熱を感じるのか、理解したことによって小気味良く現実の問題をバッタバッタと解決していく方に情熱を感じて、手段として考えることを利用するのか。そのあたりの動機の問題だろうと思う。

ある人の動機(motif)というのは、幼年期の終わりに初めて自分の手で何かを成し遂げた喜びとか、あるいはウィリー・ウォンカのように子供の自然な欲求を不自然に抑圧されたための渇望とか、そういう偶然の結果がズルズルと尾を引いているだけで、大人になって他人の書いた文字を眺めたからって、そうそう変わるものではないのだろうという気がする。

変わる要因がただ一つあるとしたら、それは青春期に固有の「惚れる」という体験だろう。それは異性でも同性でも良いのだけれど、同性だからといって薔薇とか百合とかになるタイプのものではなくて、「この人ってすごい」という無批判な惚れ込みようってのは、ハタチ前後にはよくある話だろうし、ある程度歳を取るとほとんど失われてしまう能力でもある。

そういう、心底惚れられる人か、自分がうちに秘めた動機と合致する仕事か、20代の貴重な時間にそのどちらかがない職場にいるなら、躊躇はあるだろうけど思い切って辞めてしまえ、という話を「若さの無駄遣いはやめよう」というタイトルで書こうとしていたのを思い出して、脱線してしまった。

ちきりんは、幸福な20代を送ることができたのだろう。善き哉。もうちょっと、その惚れたあたりの話を読んでみたかった。この本も、若い人を惚れさせようと口説いている内容なのであって、私が読んでもしかたがないのだろう。

ツールなんかは、必要な人が必要に応じて使えばいい。分解して仕組みが知りたい人もそうすればいい。薬を飲みながら11年を過ごし、若さを無駄遣いして終わってしまったおっさんは、歌を歌おう。ぬぬぬーーん、ぬぬぬーーん、ぬぬぬーーん。

マーラー 交響曲第5番より 第1楽章 - YouTube
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by antonin | 2013-03-11 01:34 | Trackback | Comments(0)

「簡単なこと」ほど難しいことはない(補)

こういうのを書いた。

「簡単なこと」ほど難しいことはない : 安敦誌

深夜というか未明というか、そういう時間帯だったので面倒でグダグダになったので、もう少し補足を。

もしある人になんらかの理由があって、普通の人にとって「簡単なこと」とされていることができない場合、それは「難しいこと」とされている場合に比べて、ずっと難しい立場に立たされる。そなことが言いたかった。

まず、普通の人にとっても難しいことというのは、できなくても恥ずかしいことではないし、異常なことでもないから、仮にできなかったり苦手だったりしても、普通の人もそれを理解してくれる。また、難しいと感じる人が多く存在するから、難しいけれどもなんとかうまくやる方法なんていうのをどこかの誰かが懇切丁寧に教えてくれる本や教室があったりもする。

そういう具合で、世間で難しいとされていることができなくても、案外なんとかなる。難しいのはその逆で、世間では簡単とされていること、あるいはできて当然とされていること、あるいは、そういう能力があると気づかないほど自然にできてしまうようなことなどが、もし何かの理由のために、全くできなかったり、できるにしても大変な苦労が必要だったりする場合、その人は非常に苦労するハメになる。

理由の方も難しいことが実は易しい理由の反対で、普通の人にとって簡単なことというのは、できないと恥ずかしいことや変なこととされている場合がある。口うるさい人たちの警告に従ってあからさまには口に出さなくても、本音では変だと思っていたりする。そして、そんなことはできて当然なので、できない場合にどうしたらできるようになるか、あるいはどうしたら少しでも楽にできるようになるかということを教えてくれるような、本も売っていないし教室も開いていない。

そういう中で、簡単なことだからと誰もがそれを当然できるものとして社会が構成されていく。例えば、複数のタスクを同時並行に処理しながら進めていくのは、多くの人にとってそれほど難しいことではない。そういう複数タスクの同時進行ができれば仕事の能率が上がるので、時間要求の厳しいビジネスの現場ではこういうスキルが誰に対しても要求される。けれども、作業に熱中すると気づかないうちに日が暮れてしまうよなタイプの人も世の中にはいて、そういう人はビジネスという枠からこぼれ落ちていくことになる。

簡単なことには、本当に簡単なことと、できる人が多数であるというだけで、実は途方もなく難しいことという2種類がある。そして、生命の神秘のワザと言うのか、人間社会で要求される基本能力というのは、大半が後者の、実は途方もなく難しい部類に入るように思う。二足歩行なんていうのはその最たるもので、ロボットのあのぎこちない歩き方をみれば、普通に歩くというのがどれほど高度な技能かということがわかる。

でも、赤ん坊は歩けないし、老人も杖を突くし、事故で歩けなくなる人もある。だから、歩くことが実は難しいということは、簡単とされる事柄の中では、まだ理解されやすい方の部類に入るだろう。

簡単と思われていて、でも実は難しいということはたくさんあるだろうけれども、情報革命後の時代に急激に顕在化してきたのは、情報処理をする内臓、脳の性能に関する作業能力だろう。理解力や判断力に関する性質のうち、数値やマルバツにして簡単に測定できないような能力で、暗黙的に最低基準がどんどんと作られていく。そういう最低基準をクリアできない人たちが、結局のところ、淘汰されて死んでいく。

淘汰といったけれども、ビジネス社会から脱落して自殺する人なんていうのはいかにも競争原理によって淘汰されたようなイメージがある。けれども、より原則的に進化論を適用すると、淘汰を生き残るということは、長生きすることではなく、遺伝子の一部を遺すというところにある。なので、子供を残して自殺する人は、実は淘汰を生き残っており、多くの財を残したが子を残さずに死んだ人は、純粋なダーウィニズムからすると淘汰された個体ということになる。

ただし人間は遺伝情報だけで生きているわけではなく、そもそも地球に生きる数十億人の人間の間で、遺伝子の構成要素にそう大きな違いがあるわけではない。人間の中だけで比べれば、どういう遺伝子を持っているかというよりは、どういう教育を受けたかという、ハードウェアよりはソフトウェアの性能の違いがモノを言うから、ゲノムよりはミームを多く拡散した人のほうが、淘汰を勝ち残った個体という言い方のほうが実情に合っているだろう。

脱線したけれども、とにかく現代というのは、肉体を司る遺伝子の優劣よりも脳を動かす教育の優劣のほうが、生きていく上で重要という時代になっている。けれども、生まれつき速く走るのに適した体型というのはありそうだし、生まれつき山登りに強そうな体型というのもありそうだ。同じように神経系の働きにもいろいろの生まれついたクセがあり、それぞれに長所短所があるだろう。そういう短所が「簡単なこと」に大きく影響してしまった場合、それは難しいことができないという場合よりも、ずっと厄介な結果になる。

私の家系には、そういう厄介な遺伝子が濃厚に堆積していて、父を見ても、母を見ても、かなり厄介な感じであり、自分自身を振り返ってみても、やはりそうだった。そして、コドモたちも当然その傾向が高い。特に上の二人はかなり厄介だ。一番上のムスメと、二番目のムスコ1号は、それぞれに全く違う性格をしているのだが、しかしそれぞれに厄介を抱えている。

好き嫌いが激しくて好きなものを目の前にすると他のことが見えなくなるだとか、ついさっき見たり聞いたりしたことでも覚えていられないだとか、そういう性質が強い。もちろんそれが長所として生きる分野というのはあるのだけれども、そういう長所が短所を補って余りあるような社会環境というのは、残念ながら日本国内には少ない。海外ならどこにでも楽園があるかというともちろんそんなわけはないけれども、まあ、列島の中だけを見て絶望しない程度には広い視野を持たせてやりたいな、などという程度のことは考えている。
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by antonin | 2013-03-06 00:05 | Trackback | Comments(5)

「簡単なこと」ほど難しいことはない

簡単なこと、というのは、世の中にたくさんある。息を吸うとか、指を曲げるとか、10まで数えるとか。あるいは、朝の15分で1日の仕事の段取りをつけるとか、割り込み仕事が入った時に、その優先順位を考えるとか。そういうのは「たいして難しくないこと」で、もしもそういうことができないのだとしたら、一時的な病気か、あるいは単にスキルを学んでいないから、と思われる。

が、意外とそうでもない場合がある。ある種の先天的な形質であるとか、体の一部の不可逆的な損傷などによって、そういう「簡単なこと」ができない人がいる。そして、それが全くできないのだとか、できない理由が傍目に明らかな場合には、まだ救いがある。が、意外とそうでもない場合が多い。中途半端にはできてしまうのだが、ひどい苦労が伴う、だとか、内部的には理由があるのだが、外部からその理由を知ることができない、などの事情で。

そういう場合、できないことが「簡単なこと」であればあるほど、それができる人にはあまりに自然で簡単に感じてしまうため、なぜできないのか、あるいはできないなんてことがあるということそれ自体が、なかなか理解できない。そして、そういう簡単なことができない当人にとっても、その理由の本当のところが理解できていなかったりする。

そういうことを、現代社会は人間生活の「標準(standard)」として多々組み込んでいる。その標準から外れる人、特に、全く疑いの余地なく外れる人ではなく、ぎりぎりこぼれ落ちる間際で踏ん張っている人にとって、「どうしてそんな簡単なことも出来ないのか」という常識的な感覚は、非常に大きな苦痛になる。

そういう、標準の縁にいる個体を遺伝的にふるい落とすことで遺伝的平均値を高め、より高度な能力を身につけるというのが進化論の根本原理でもあり、また人間がこんな高度な生物になった原動力でもある。だから、人類の進歩のためにはそういう劣った個体を優遇する理由などないのだが、どんなに汚い技を使ってでも生き残る生存競争をするのが生物の定めでもあるので、際にいる個体も、なんとか理由を見つけて自分を生き残らせる戦術を使わなくてはならない。

「悪平等」と言われる思想や制度は、そういう際にいる人間たちによる巧妙な生存戦術が昇華したものであるようにも思える。社会システムのパフォーマンスに悪影響を与える平等は、標準個体にとっては全くの害悪に見えるが、辺縁個体にとっては自己の生存可能性を高める支柱でもある。簡単なことが難しいということを、「じゃあ生きるのやめれば?」と言われずに、標準個体たちの矜持あるいは美的感覚に訴えて理解させていくということが、辺縁個体にとっては必須の生存戦術になる。

難しく、そして卑賤なことでもあるが、そうでもして生き残らなければ絶滅するだけであって、そうである以上はそれをしなければならないというのが生命の掟でもある。その辺りの汚さを理解して受け入れていくのが老成ということで、嫌なことではあるけれども、死なずに無事老成できた辺縁個体が引き受けるべき運命でもあるのだろうという気はする。

片づけられない女たち

サリ ソルデン / WAVE出版


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by antonin | 2013-03-04 03:52 | Trackback | Comments(0)


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