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労働の市場化と雇用の市場化を

解雇規制が強すぎることが日本企業の進歩と発展を阻害しているという意見があって、これを解決するためには解雇規制の緩和が必要である、という意見をよく目にする。この考え方には基本的には同意するけれども、解雇規制の緩和が理論通りに企業の進歩と発展に寄与するためにはいくつかの暗黙的な前提条件があって、現状の日本社会ではそれらの前提条件のうちいくつかが成立していない。そのため、解雇規制だけを一方的に緩和すると、企業の進歩と発展は阻害されたまま変わらず、民間企業は衰退し、景気は悪くなり、公務員だけが増加するようになる。このあたりを少し考えたい。

まず、解雇規制を緩和すると、企業が労働者を選別できるようになる。不要な労働力を市場に流し、また市場から必要な労働力を購入することができるようになる。このためには、まず正常な労働市場の存在が前提となる。まず、労働市場が存在するためには、捨てる神あれば拾う神あり、つまり代替雇用を提案する企業があって、企業間の取引によって労働力の需給をバランスさせる市場原理が働く。これによって、一部の労働力を過剰と判断する企業と、同じ労働力を不足と判断する企業が均衡し、労働力は市場原理によって適正に配分されるようになる。

だが、労働力の「買い手」が見つからないままに企業が勝手に労働力を捨てても良いというスタイルの解雇要件になると、捨てられてから拾われるまでの労働力は、生産力を奪われたまま市場にプールされる。この状態が失業である。基本的人権という概念が存在しない原始的な社会では、失業中の個人が起業するなり犯罪行為を行うなりの自助努力によって生活力を保持するしか方法がないが、現代的な社会ではプールされた労働力である失業者の生命と労働品質の維持は国家が保証することになっている。

現在の日本の場合、生命の保証に関しては、短期的には雇用保険が、長期的には生活保護がその機能を担っている。そして、労働品質の維持については、雇用保険の扶助による学習制度など僅かな仕組みがあるが、民間企業が求めるレベルのものは実質的に存在していないと見ていい。

こういう状況の中で、つまり従来通り国家の社会保障による失業者プールの利用しか前提としていない条件のもとで、労働需要と労働供給がバランスしないような、つまり即時的な取引が成立していなくても労働力を失業者として放出できるような解雇規制緩和を実施してしまうと、解雇から雇用までのミスマッチ期間の経済的負担は全て国家による社会保障財政に回ってしまう。

つまり景気が良い時には、労働対価が高騰するのではなく、単に労働力の供給が減少する。そして景気が悪い時に労働力が廉価になるのではなく、単に失業率が上がって稼働労働人口が減少し、社会全体の生産性が落ちる。また実務から離れる期間が労働力の品質劣化という影響に現れないようにする品質保全機構はほとんど存在すらしていないため、高い失業率は景気回復後の生産性の低下という影響ももたらす。

この構造下では、不況時には民間企業の生産性と総生産がともに低下するので、国内総生産の維持のためには国家による財政出動が必要になる。財政出動は国家歳出の形を取らざるをえないので、この状況下での企業努力は、いかに一般市場で競争力を持つ商品を開発するかではなく、いかに国家による発注案件を効率よく受注するかという方向に向けられ、企業の目は一般市場から離れていく。結果として一般市場における企業価値は徐々に低下を続け、民間企業は一般市場における魅力を失い、財政出動による豊富な資金力を持つようになった国家にファイナンスされた公務員の地位だけが、一方的に上昇していくようになる。

こういう状況のもとでは、解雇規制の緩和はメリットよりむしろデメリットのほうが大きい。この現象を避けるためには、適正な労働市場を先に成立させる必要がある。つまり、労働力を一方的に解雇して国営の失業者プールに投げ込むのは、企業解散などのごく限られたケースに限り、その他の場合では必ず市場取引によって別の労働需要者に対して手持ちの労働力を譲渡する取引の成立を義務付ける必要がある。

また、企業が競合企業から現状を上回る賃金での労働力の買い付け、つまり引き抜きを提案してきた場合は、労働者がその買い付けに応じる際の障害となる労働契約などは、最低限必要な秘密保持契約などを除き、禁止される必要がある。解雇規制の緩和は雇用側から労働側への労働契約解除通告の制限緩和であり、これは労働者側から雇用側への労働契約解除通告の制限緩和と必ずバランスしている必要がある。

これにより需要者は自社より生産性の劣る企業から労働力により高い価格付けを行うことによって必要十分な質の労働力を任意のタイミングで買い付けることができるようになり、高い生産性を持った企業が労働力の不足から機会損失に陥るということが少なくなる。また、これに対抗することのできないような生産性の低い企業は企業活動に必要な労働力を保持し続けることができなくなり、雇用維持に必要な生産性を獲得するよう業務を改善するか、さもなくば市場から退出することを余儀なくされる。このことで企業の生産性向上の多くの部分が労働力購入費用に回されることになり、労働者の生活環境も向上していく。

このことは、言い換えれば雇用側から見た労働力だけを市場化するのではなく、労働者側から見た雇用力も市場化されるといえる。このように、雇用側から見た労働力の市場化は、労働者側から見た雇用力の市場化とセットになっていなければならない。さもなければ労働市場は単なる奴隷売買市場に成り下がり、国民の労働力は国際企業に安く買い叩かれ、国民の生活水準は一方的に低下していくだろう。

一方、労働力の市場化の競争圧力と適正にバランスした雇用力の市場化が実現された社会では、企業が労働者を雇用する雇用環境整備についても競争圧力が発生し、優秀な労働者にはその生産性に見合った快適な労働環境が与えられる方向に社会は改善されていく。そして、労働市場ではどうにも買い手の付かない最低限の人々だけが国家による社会保障の対象となる。そして最低価格であっても買い手のつく労働力に関しては、国家補償による健康で文化的な最低限度の生活水準よりは十分に高い生活水準が保証されるようになるだろう。

楽天の三木谷さんの話などを聞いていると、労働力を市場で取引するという感覚が見受けられない。自社で雇いきれなくなった労働力は国営の失業者プールに丸投げするという、現状と同じシステムで理想的な労働の市場化が実現できるという誤解が感じられる。そして、雇用力の市場化によって「ブラック」要素のある企業がどんどんと市場から退出していくという、正常化した労働市場の競争圧力に対する危機感や覚悟というものも伝わってこない。本当の労働市場化は、労働者だけではなく雇用する企業にも雇用力競争による痛みを伴う改革となる。

適正な労働市場が成立して、それでも国際競争に勝てないのだとしたら、そのときにようやく金融制度や不当な規制などを疑ってみるといいだろう。しかし日本社会の現状はまだそういう水準に達していない。

ペルシア軍の兵士に対する方法と、ローマ軍の兵士に対する方法のどちらが実戦で優れているかというのは意見が別れるところだろうとは思うが、今の日本国憲法に書かれている理想というのがローマのそれであることは間違いない。それを捨てて日本がペルシアに倣うという改革が果たしてどれほど正しいのか、市場原理の導入に肯定的な人にはよく考えておいて欲しいと思う。
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by antonin | 2013-04-28 13:44 | Trackback | Comments(0)

創発について

そういえば、『生命起源の科学哲学』を読んだ。 - finalventの日記

↑ここいらへんを読んでの感想。『生命起源の科学哲学』は読んでいない。感想の感想。

創発というのは、概念としては別に面白くもなく当たり前のことを言っているだけのような気がする。1ビットでは2種類の状況が区別できる。8ビットあったら、立っているビットの個数を数えて0個から8個までの9種類の状態が区別できる、というのなら創発は起こらない。が、実際は各ビットに位取りの重みを与えて、順列によって2の8乗である256種類の状態を区別できる。16ビットなら65,536種類、32ビットなら4,294,967,296種類の状態が区別できるようになる。

単独のビットの可能性は2種類しかないのに、他のビットの状態によって1や0がそれぞれ複数の状態として区別されるようになると、状態数は指数関数のオーダーで爆発的に増大を始める。この指数的に爆発する状態数の中から、確率は低くても重要な性質を持った状態が出てくるかもしれない。しかもその重要な状態がある程度の永続性を持つようになると、微小確率は累積し、いつか必ず目に触れる水準にまで上がってくる。

それぞれは単純な要素が、置かれる状況によって意味が変わるというのが創発の入り口になる。そして個々では起こりえなかった状況が状態数の爆発によって無視できない確率で発生しうる、というのが創発現象の意味するところだろう。32ビットでは本来4,294,967,296種類の状態しか区別できないけれども、それだって解釈系が符号付き整数と見るか、単精度の浮動小数点実数と見るかによって変わるし、もちろん他の解釈だって無数に存在しうる。

ただ、創発というものが理論的に美しく示されうるのかというと、それはまだしばらく無理なんじゃないかという気もする。原理は示されたが、道具として使える段階には程遠い。四色問題の証明はその端緒にあるように思えるけれども、本当に創発現象を舐め尽くそうと思ったら、グーゴルプレックス規模の大数を概数ではなく厳密な整数値として手軽に扱えるくらいの数学手法がないと、ちょっと難しいだろう。グラハム数は宇宙がいくつあっても足りないという感じなので、たぶんそこまでは要らない。

ただ、精妙な世界の根本原理が創発現象なのだとして、その全貌をそのまま人間が理解できるとも思えない。たった32ビットの状態空間だって、人間の手には負えない。「1から32までの数字を全て書き出して、並んだ数字を眺めて考えてみよう」というのは人間にも十分実行可能な作業だが、これが「1から4,294,967,296までの数字を全て書き出して、並んだ数字を眺めて考えてみよう」となると、もうこれは人間の手には負えない。1秒に1個の数字を書いて1日12時間年中無休で作業し続けたとしても、10万年近くかかるし、もしそういう作業をやったとしても、あまり深いインスピレーションは湧いてこないだろう。もう忍耐力とかそういう問題ではなくなってしまう。

なので、現実的にヒトの小さな脳漿で世界の現象を理解しようと思えば、どうしても分析的な手法に頼らざるをえない。創発が起こるということは、逆に言えばどんなに複雑な現象でも分析的に捉えれば理解可能な水準が出てくる可能性があるという希望にもなるし、実際に単純な要素の挙動を厳密に捉えることができれば、複雑な総体の挙動も、予測までは困難でもおおまかな推論くらいはできるようになる。

32ビットのデータを1ビット単位に分解すると、もはや元の意味がわからなくなる。このようにあまりに分析を進めすぎるとそれはそれで総体の挙動から乖離しすぎて意味が捉えられなくなるのだけれど、加算のときに隣のビットとどのような相互作用をするか、というような話であれば、全加算器の複雑度で十分説明することができる。

ネットワークのレイヤのように、究極の微小要素から全体の複雑系に到達するまでに、理解可能な相互作用単位を見つけることができる水準が、スケール別に何段階かに分かれて現れてくることも多い。本当にそういう水準がなくて、個別要素が全部個別に相互作用して全体の性質を決定することもなくはないだろうが、そういう場合は全体の挙動がカオティックになりすぎて、あまり人間の探究心の対象となることはないだろう。人間が見て興味深くなるような挙動を示す相互作用の系では、これは単に経験的直感だけれども、だいたい何層かのサブユニット構造を見つけることができる。

創発現象に懐疑的という考え方は理解しづらいが、フェルマーのディオファントス問題よりつかみどころがない、という意味では同意できる。簡単そうだけれど、有用な答えに達するには数百年を要する面倒さを孕んでいる可能性はある。問題の本質を、超大型のコンピュータには理解できるが、生身の人間では脳細胞数の制限によって理解できない、なんていう複雑度の問題の解を目の前に見せられてしまったら、人類はどうしたらいいのだろう。遺伝子でもいじって脳を大型化させるしかないんだろうか。それとも理解した気分になれる心理マジックでこの先数百年も生き延びていけるもんなんだろうか。
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by antonin | 2013-04-27 01:27 | Trackback | Comments(0)

放射能問題はほぼ終わっている

いまさらこんなところで書いてもあんまり意味が無いかもしれないけれど。

福島第一原発の事故で環境中に放出された放射能による、一般市民の切迫した危険というのは、もう終わっていると考えていいだろうと思う。先日の内部被曝量調査の結果を受けて、という面もあるし、理論的に、ということもある。

【放射能漏れ】セシウム、99%で不検出 福島の内部被曝、チェルノブイリを大幅に下回る - MSN産経ニュース

福島第一原発事故が終息したかというと、もちろんそんなことはない。事故現場ではまだ難しい対応が続いているし、相変わらず高い線量の環境中で働く作業者の方たちの安全をどう守っていくかという難しい問題もある。ただ、あれだけ派手な事故を起こしてしまい、事故現場の周囲は人が住めない状態にまでなってしまったので、原発の近くでヒヤヒヤしながら今も生活している市民、という状況は考えなくても良くなっている。

チェルノブイリ原発事故の調査などから、原子炉の放射性物質が環境に放出されて一番リスクが高いのは何かというと、子供の甲状腺ガンだという。子供は甲状腺の活動が活発で、また甲状腺が活動するには大量のヨウ素が必要になる。また、稼働中の原子炉では様々な放射性物質が発生するが、その中にヨウ素131というものが含まれる。このヨウ素131の半減期が8.0日という絶妙の値を持っているため、ガンの原因になりやすい。

同位体というのは、原子核の中の中性子の個数が違うので重さは異なるのだけれど、陽子の数は同じなので、それを取り巻く電子雲の性質もほぼ同じになり、したがって化学的性質もほぼ同じになる。ただし原子核の性質は随分と異なっていて、安定したものもあれば、不安定で勝手に壊れて陽子の個数が代わってしまい、別の元素に化けてしまうものがある。この、勝手に壊れる現象を崩壊といい、崩壊しやすい同位体を放射性同位体という。

この崩壊が起こるときに放射線が放出されて、この放射線がDNAやRNAを傷つけることが病気の原因になる。ヨウ素131の化学的性質は安定同位体のヨウ素127と同じ化学的性質を持っているので、甲状腺に取り込まれやすい。そして、甲状腺の中に留まりながら、パチパチと高速電子線であるベータ線を出しながらキセノン131に化けていく。このとき、崩壊スピードが問題になる。

同位体が非常に不安定で、崩壊スピードが早い、つまり半減期が短い場合というのは、物質量のわりに放射線の発生量は多いが、同位体が崩壊によって急速に消滅していくので、原子炉での核分裂反応が終わってから人体に吸収される前に、自然に減ってしまうので問題になりにくい。また逆に、同位体が比較的安定で崩壊スピードが遅く、つまり半減期が長い場合には、よほど高濃度で吸収されない限り単位時間あたりの崩壊数というのはあまり大きくならず、したがって放射線によるDNA損傷よりも酵素によるDNA修復スピードのほうが早くなる場合が多い。この場合、ガンにはなりにくい。

ヨウ素131の場合、崩壊は活発だが拡散して人体に吸収されるまでの期間に急速に減ってしまう程には崩壊が早くないという、絶妙の半減期を持っている。しかも、ヨウ素という人体が利用している元素の化学特性も合わせ持っている。これが子供の活発な細胞活動と相まって、ガンの原因になる。

そういうヨウ素131なのだけれども、セシウム134などの、年単位の半減期を持つ放射性物質に比べると、かなり半減期は短い。8日で半分になるので、16日後には4分の1になり、80日後には約1000分の1にまで減少する。原子炉での核分裂反応停止から800日近く経過した現在では、およそ1,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000分の1にまで減少している計算になり、自然界には福島第一原発由来のヨウ素131はもう存在しないといってもいいだろう。

なので、日本の子どもたちを甲状腺ガンから救おうとすれば事故後1ヶ月ほどの対策が全てであり、その後は良くも悪くもどうしようもないということになる。それでいてガンが発症するのは事故後4年を経過したあたりからだというから、今はもう、2年後の発症開始時期に備えて検診を怠らないことくらいしか対策の打ちようがない。

一方のセシウム134などはようやく最初の半減期を迎えたばかりで、まだまだ残存量は多いだろうし比較的にしても物質量あたりの放射線量は多い。しかし、その化学的性質というのはアルカリ金属の性質であり、ナトリウムやカリウムに似て、水に溶けやすい。人体は神経細胞や筋細胞などでナトリウムやカリウムを必須材料として利用しているが、そういうものを化合物として蓄積するというよりは、常に水とともに流れ出してしまっており、継続的に摂取しないとたちまち死んでしまうような使い捨て的利用をしている。

セシウムも同様で、食物中の水分も含め、飲食物に溶け込んだセシウムを摂取する機会は多いが、摂取した分とほぼ同量が体外に流れ出していくため、体内で高濃度になるということは起こりにくい。なので、これも高濃度汚染された食品を継続的に食べ続けたりしない限りは心配する必要がない。ストロンチウム90はマグネシウムやカルシウムに似たアルカリ土類金属なので骨などに蓄積しやすいらしいが、そもそもヨウ素やセシウムほどには環境に放出されやすくないらしく、あまり目立った観測報告は聞いたことがない。実はとてもではないが発表できないくらい汚染されていて箝口令が敷かれている、という陰謀論すら聞かないので、これもあまり心配しなくてもいいのだろう。

ということで、少なくとも一般市民はもう、原発事故による放射線を気にしなくてもいい段階に入ったといえる。

ただまあ、この程度の汚染で済んだというのも、早春の福島だったからだよな、という感想はある。チェルノブイリ原発は内陸部にあって、風向きがどうあろうと、放射性物質は陸地に降り注いだ。陸地というのは固体でできているから、一度降り積もった放射性物質は、崩壊で消えたり、水に流されたりしない限り、いつまでもその場所に留まる。たまたま高濃度に堆積した地区は、いつまでも高い放射線量を引きずるだろう。水に流されるといっても、それは地下水として長く伏流したりもする。

しかし福島第一原発の場合、かなりの割合で放射性物質は太平洋に降り注いだ。小笠原でもマリアナ諸島でもなく、ほとんど陸地のない北太平洋に降り注いだ。それも、遠浅の干潟などではなくて、急速に日本海溝へ沈んでいく深い海の上に降り注いだ。海というのは液体でできているから、水に溶けやすい物質は急速に撹拌されて薄まり、水に溶けにくい物質は急速に深海へ沈んでいっただろう。こういう幸運があって、日本の国土の汚染がこの程度で済んているのだろうと思うと、少しだけ背筋が寒くなる。

爆発した原子炉から継続的に放射性物質が流れ出ている期間、ほとんどの時間は太平洋へ向かって風が流れていたが、たまたま数時間だけ南東から北西へ風が向いた時間があって、それで福島県は汚染されてしまった。もしも爆発事故を起こしたのが東日本大震災の福島第一ではなく、新潟地震の柏崎刈羽だったとしたら、東日本はもっとひどいことになっていただろう。日本はまた「神風」に救われたのかな、という気がしないでもない。

なぜ日本の原発関係者があんなに事故想定をタブー視するようになったのかというと、理性的な理屈がほとんど通用しない反原発運動の人たちが執拗に騒ぎすぎたせいであり、福島第一原発が爆発してしまった原因の一端は反原発運動にもあったんじゃないかと疑っている。原子力技術者だって人の子であり、余計な面倒には巻き込まれたくないと思っただろうし、感情的に原発を目の敵にする人々の存在が正常なリスク対策を闇に葬る原因になったのだとすると、強引に原発を推進した人たちと同じくらい、無茶な反原発運動をしていた人たちの罪も重いように思える。

脱原発は総合的なエネルギー問題としてもう少し息の長い議論が必要になるから、今は原発にばかりギャーギャー言っていないで、少しでも津波被害のあった地域の復興を早めたり、そういう地域で取れる産品を積極的に購入したり、同じ騒ぐのでもそういう活動にもっと精を出すべきなんじゃないかと思う。
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by antonin | 2013-04-20 02:34 | Trackback | Comments(0)

ホット&クール

「ファスト&スロー」上巻をやっと読み終える。読書の遅い奴は仕事も遅い。

しかし、"Thinking, fast and slow" だと本書の論旨を的確に要約しているけれど、「ファスト&スロー」だと意味がわからない。直訳すると「考えること、早いのと遅いの」という感じになってしまうが、もうちょっと啓蒙書っぽく「早い思考と遅い思考」でもちょっともっさりしている。新書風タイトルにするなら「論理思考の9割は錯覚」とか「人間の思考は怠惰と粗雑がすべて」とか、そんな感じになるのだろう。

どうせこの手の本は書評とか口コミで売れるのだから、タイトルは適当でもいいのかもしれない。内容は、私個人には体感的に当然と思えることを、実験的に検証した研究者がいたというあたりが新鮮だった。直感が理論を受け付けないということは、直感的に自明な感じがする。まあ、その理解って当然に危ういのだけれど。

「ファスト&スロー」のまねをして、「ホット&クール」という話を書いてみようと思ったが、どこから説明を始めるのかでちょっと困ってしまう。内容的には "Thinking, hot and cool" となって、人間の思考には温度の高い思考と温度の低い思考がある、という話にしようと思ったのだけれど、その考えのもとになっているのがボルツマンマシンなので、ボルツマンマシンとはなんぞや、とか、そもそもホップフィールドネットワークみたいな連想記憶タイプのニューラルネットワークの説明あたりから入らないといけないような気もする。

ボルツマンマシン

ホップフィールドネットワーク

フェルマーの大定理のストーリーに登場する志村さんと谷川さんだけれども、志村さんはたぶん数学者らしく温度の低い思考をするタイプなのだと思う。一方の谷川さんは、比較的高温の思考をするタイプで、数学者としては異色の人物だったのだろう。志村さんが谷川さんを評して、彼は間違いが多いが創造的な間違いをする、というような言い方をしていたように記憶している。たぶんそういう傾向があったのだろう。

ボルツマンマシンによる学習では、温度パラメータを上げて一度熱い思考をしてから、徐々に温度パラメータを下げて冷たい思考へ移行するという、「模擬焼きなまし (simulated annealing)」というのをする。これは、ブレーンストーミングによって雑多で時に荒唐無稽なアイデアを出して、あとから冷静になってアイデアの枝刈りをしていく作業に似ている。

これを一人の人間がやるにはちょっと難しいところがあって、普通は常日頃から思考の温度が高い、エントロピーの大きい人間が常識外れの発想力を使って大局的な最適解を「発見」し、次いで思考の温度が低い人が精度の高い推論力を駆使して真の最適解を追求していく、というパターンが多いように思う。

私やちきりんのような人は思考の温度が高く、普通の人には難しいような発想の飛躍ができるが、細かいところは勘違いだらけで、論理推論の精度が低い。一方、アスペルガータイプの人は思考の温度が低く、普通の人が気にも留めないような些細な間違いを精度よく検出し、非常に緻密な推論を行う一方で、普通の人が難なく乗り越える論理的障壁を乗り越えられず、発想が硬直的になる。

それぞれに得意不得意はあるが、問題解決のフェーズを切り分けることでその能力を組み合わせれば組織として強そうだな、ということを思った。そういう普通じゃない奴らを統合する強烈な知性と情熱を持ったリーダーでも出てこないと、なかなか実現は難しいだろうけれども。

先天的に思考の温度パラメータが高い傾向、あるいは低い傾向というものが個人差としてあるのだろうと思う。けれどもその原因が何なのかといわれると難しい。海馬の大きさが一時的なイメージ保持力に寄与して、それが強い人は抽象概念のイメージが安定的に持続して思考の温度が低くなるが、海馬が弱い人は温度が高くなる、という機構も考えられるし、神経伝達物質や大域的な神経線維の比率などで興奮パターンの疲労が早く訪れるために時間的なパターン間の相関が弱くなって思考の温度が高くなってしまうという機序も考えられる。このあたり、脳科学の研究が進まないとよくわからない。

将来的にこういう脳の特性パラメータがいろいろと計測可能になって、それぞれの適性に見合った仕事が選べたりするようになると幸せなんじゃないかと思う。不得意なことを努力するのもある程度は有効だが、どちらかと言えば適材適所で長所を売り物にしてもらうほうが、本人も社会も嬉しいんじゃないかと思う。まあ、偏差値と同じで、あんまりパラメータ判定に振り回される社会になってもそれはそれで不幸なんだろうけど。

アメリカあたりではポストヒトゲノム計画として、脳神経のマッピングプロジェクトが立ち上がったらしい。技術的に未熟すぎず、かといって成熟もしておらず、ヒトゲノム計画を立ち上げた頃と同様に、とても良いタイミングだと思う。ヨーロッパにもHuman Brain Projectという大規模な神経シミュレーションプロジェクトが存在するらしい。日本でも何かこのあたりに追従していく動きはあるんだろうか。100ます計算とかアハ体験とかが関の山だったりすると寂しい。
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by antonin | 2013-04-17 23:05 | Trackback | Comments(0)

改憲心得

96条の要件緩和はいずれ必要だと思うけれど、まだ時期尚早であるという気がする。改憲に慣れないうちはあまり劇的な変化や頻繁な変化は法制度全体の改定やら役所の運用やらがついていけないと思う。憲法は変化するもの、という前提が法令の運用システム全体に行き渡らないうちに、そのベースとなる憲法だけが急速に書き換えられて行くと、だんだんと実運用される法令との乖離が進んでしまい、単に政党の宣伝用スローガン集みたいになってしまうだろう。

本当であれば先に憲法を制定してから、それに合わせて法令の体系を構築していく、いわゆるウォーターフォール開発のスタイルが理想的ではあるのだけれど、人智というのはそこまでの水準にないという事実がすでに知れていて、ある程度は実運用で鍛えられた詳細な法令の精神を憲法が追認していき、それが別分野にも展開されていく、というような憲法メンテナンスの進め方が現実的だろう。9条なんてそういう追認が必要とされる項目の代表例でもあるし。

で、改憲が通常イベントとなる社会では、ときどきの政権を奪取した政党が過去の憲法理念を破壊して自らが正しいと信じる理念でオーバーライトしていくという編集合戦になってしまうと、憲法は乱れるし、それに追従していかなくてはならない法令体系と役所の業務も乱れるだろう。改憲が普通の世界では、自分の正しいと信じる理念を、従来の理念や対立政党の理念とうまく融合していかないと、次の政権で塗りつぶされるまでの軽い文言となってしまう。そうならないためには、少なくとも立法府議会には適切な水準のディベート文化が育っている必要がある。

自民党の改憲草案などを見ると、「もしもドラえもんが秘密道具を出してくれたら」みたいな奔放な条文ばかりで、見ていて困った。

http://www.jimin.jp/policy/policy_topics/pdf/seisaku-109.pdf

現行憲法下での護憲派の人々の頭が硬すぎて、あるいは人権の行使の仕方がラディカル過ぎて、旧憲法下で穏健な教育を受けてきた人にとって目に余るというのは理解できる。けれども、そういうのは現行憲法にある次の条文が正しく守られていないという一言で片付くように思う。

第十二条  この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。


つまり、現在の人権活動家の人たちは国民の権利を乱用したために社会から疎んじられているという、単にそれだけの憲法運用の問題としていいと思う。そして、こういうタイミングで自民党草案に近い形に憲法を書き換えられないように国民が不断の努力をしてきたかというと、ちょっとそれを怠っていたのだろう。これも運用の問題ということであり、憲法の条文の不備ということではないと思う。

サッチャーさんが亡くなっていろいろの話が出てきたけれども、国家にも無限の力があるわけではないということを告白した勇気というのは賞賛に値すると思う。けれども社会保障より民間努力という題目も、あまり先鋭的に進めすぎると、公(おおやけ)が公であることを放棄するという宣言になってしまう。そこのところのバランスは難しいけれども、サッチャーさんはそのあたりが少し極端だったように思う。でも、そういう極端な力が求められていた局面でもあったのだろうし、首相とはいえ個人にその責任の全てを負わせるのも不適当だろう。

競争を良しとする市場主義の仕組みはとても優れていると思う。けれどもそれは成熟した近代的な社会があってのことであって、原始的な弱肉強食とは違うはずだろうとも思う。重要なのは、最近良く聞く言葉で言うところの "gamification" だろう。日本語でゲームというとコンピューターゲームくらいしか連想できないけれども、野球やサッカーの試合なんかも game に違いない。そういう、ゲームとして楽しめる競争をしながら実社会が発展していくというのが、産業革命から少し距離をおいた時代の市場主義だと思っている。

優れた体操選手を育てるのに、落ちたら確実に首の骨を居るようなコンクリートの床の上で練習をさせるのが良いのか、それとも落ちても痛くもなんともないクッションを敷き詰めた上で練習をさせるのが良いのか。緊張感をもたせるという意味では前者のほうが良いはずだが、それでは怖くて練習する気がしない。失敗した選手の卵は文字通りに死んでいく。一方、クッション敷きの練習場では、選手の卵はどんどん失敗してどんどん床に落ちていく。しかし、それが失敗だったということはわかる。失敗しても痛くないので、成功確率の低い大技も気軽に何度も練習できるし、失敗の経験が豊富なので失敗が起こりそうな状況もよく分かるようになる。

国家が社会保障を切るということは、社会に出てくる若い人やスタートアップ企業に対して、床のクッションを剥ぐのと同じ効果がある。競争競争と煽るのはいいが、失敗すると痛い目にあったり死んでしまったりするのでは、どうしても臆病になってしまう。そういう野生の弱肉強食も究極の競争原理であるけれども、文化的な現代人が目指す方向とは違うはずだ。現代人であれば、コスト的に可能な限界まで「堕ちた人」を救う手段を用意して、そういうギリギリまで失敗を許せる環境の中で、最大限の競争へ誘うのが現代の文明的な市場主義だろう。

日本のデフレも似たような効果が大きいように思う。公がなんとしても私(わたくし)を守ると宣言していればこそ、私は安心して冒険をすることができるし、そういう環境を与えてくれる公を愛し、それに貢献しようという気が湧いてくる。しかし、公がギブアップ宣言をしてしまい、私に「自己責任」ばかりが求められるようになると、私は公の保険機能を当てにすることができなくなり、信じられるのは自分自身と限られた肉親と手元にある貯金だけということになる。だから人は恐怖から貯蓄に走り、消費や起業をしなくなる。当然の帰結だろうと思う。

安倍晋三さんはどうも、鳩山由紀夫さんと人物が似ているような気がする。思想信条的には対極にあるのだけれど、自分の信じている理念だけが正しくて、それに反するものは全て誤りであるという思いが強いように見えて、そういう、信頼できる人に正しいと教えられたことを無批判に信じられる育ちの良さのようなものが、お二人には共通しているようにみえる。

晋太郎さんは長かった外相時代に晋三さんを外遊に連れて回ったらしいけれども、外交が持っている気味の悪い多重性みたいなものについてはあまり教育しなかったものらしい。あるいは教育はしたけれども吸収されなかったのかもしれないが。晋三さんを見ていると、外遊で得た経験というのが外交官の二枚舌三枚舌四枚舌五枚舌の恐怖などではなく、日本の次代のエスタブリッシュメントを担うプリンスとして扱われるという経験だったのだろう。戦後日本ではあまりそういう階級意識というのは明確にされないけれども、外交の場ではそうではない環境が多い。

北朝鮮から拉致被害者の方々が還って来たとき、安倍さんは被害者の方々を一時帰国のあとに北朝鮮へ戻すという事前の約束を破った。これは、「日本国政府は朝鮮民主主義人民共和国政府を信用しない」と明確なメッセージを送ったのと同じことで、それまでに水面下で何年間の交渉があったのか知らないけれども、そういう交渉ルートの大半を一気に断ち切ってしまったことだろう。確かに北朝鮮は信用ならなかったけれども、その後の交渉で更に多くの人が帰国できた可能性を思うと、あそこで交渉を断ち切る決断をしてしまったのはどうにも悔やまれる。

そういう具合で、安倍さんは対立相手の顔を立てるのが上手くない。私は現行憲法下の日本国を、不完全で嫌な所も多いけれども、なんだかんだで愛している。そういう愛国心の根っこの一本である現行憲法を、安倍さんは「みっともない」とか言ってしまう。安倍さんはそういうみっともない憲法に則って選ばれ任命された首相なんであって、なんだか自虐的だなぁと、私なぞは思ってしまう。そのみっともない憲法の公布署名には、時の内閣総理大臣吉田茂さんの名がある。あの人のおじいさんの名を曲がりなりにも帯びた憲法を、そこまで貶して大丈夫なのかなぁとも思ってしまう。

まあ変えるべきところはたくさんある憲法だとは思うけれども、護憲派が涙を流すような名演説をしながら9条をしれっと書き換えるような演技力のある政治家が出るようになってからでも遅くはないな、という気はする。文明国であれば、可能な限り政治もゲーム化して欲しい。真剣な議論は戦わせても、そして腹には一物あっても、少なくとも表向きだけは、試合が終わればノーサイドという文明的な政治を見てみたいと思う。

憲法がWikipediaみたいに感情的な編集合戦の舞台になってしまうのは見るに忍びない。自分自身を思うとあまり偉そうには言えないけれど、民主制下の政治を目指そうという人は、ゲーム的なディベートの、技術ではなくて文化を身につけて欲しいと思う。
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by antonin | 2013-04-14 03:47 | Trackback | Comments(0)

Tortoisesvn 1.7.12 でWordファイルの差分を取ると失敗する

日常的にTortoisesvnを利用させていただいている。非常に便利でありがたい。いつもローカルリポジトリしか使っていないのでショボイ使い方ではあるのだが、Wordで書いた管理文書のdiffが取れたりするので非常に重宝している。

で、なんだかセキュリティアップデートが出たというので、自分の使い方では外部アクセスはしていないのでリスクは低いものの、ログ表示に新しいバージョンがあるから更新しろと赤文字メッセージが出て鬱陶しい。そこで tortoisesvn 1.7.12.24070 にアップデートしてみた。ところが、それからWordファイルのdiffが取れなくなった。

.docファイルのdiffを取ろうとすると、Windows Script Hostのダイアログが出て、

"You must have Microsoft Word or OpenOffice installed to perform this operation."

とかのたまう。原因を調べてみると、

%ProgramFiles%\Tortoisesvn\Diff-Scripts\diff-doc.js

というスクリプトファイルの実行でエラーが発生していた。r23995の改修でWord 2013用の処理が追加されているのだが、その条件文で使われている、

66: if(parseInt(word.Version) >= vOffice2013)

このvOffice2013という定数の定義が存在しないため、条件文が常に成立してしまいWord 2013専用の処理が例外を吐いてcatchされ、しかもそこでWordが存在しない時にOOoを探すとかいう処理に流れて、OOoもインストールされていない場合に上記のエラー表示が出てしまう。

なんでこんなことになったかというと、trunc上でr23995のパッチが当たったのだけれど、これをリリースパッケージに取り込むためのbranches/1.7.x/contrib/diff-doc.js (r23996) へマージする際に、かなり古いコードへ最新パッチの部分だけ取り込んでしまったためにこんなことになってしまったらしい。

これを解決するには、%ProgramFiles%\Tortoisesvn\Diff-Scripts\diff-doc.js の25行目あたりに定数定義を追加してやればいい。

25: var vOffice2013 = 15;

あるいはgoogle codeあたりからtruncの最新版を落として上記ファイルに上書きしても動く。

merge-doc.js - tortoisesvn - A Windows Subversion client, implemented as a shell extension - Google Project Hosting

まあ、上記の問題はbranches/1.7.x/contrib/diff-doc.js (r24094) ではもう修復されているので、次のリリースを待っていても早晩解決するでしょう。
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by antonin | 2013-04-10 22:20 | Trackback | Comments(2)

算術の話

和算の話は好きだけれども、ここでいう算術とは和算術ではなくて単に "arithmetic" の訳語としての意味。まずは少し前に話題になった掛け算の順序の話。

問. 一皿に4個のみかんが乗ったお皿が3皿ありました。みかんは全部で何個あるでしょう。
式. 3 × 4 = 12
答. 12個

小学校の算数で、この回答にバツがついたというのが発端だったらしい。4個のみかんが乗った皿が3皿あるのだから、3 × 4じゃなくて4 × 3が正解だということで、バツがついた。これに理系父さんが噛みついた。個人的な感想から言うと、小学校の教育段階で、3 × 4という式を立てたことにバツをつけるのはありなんじゃないかと思う。ただ、その後のフォローは難しいと思う。

純粋に形式算術で言うと、3 × 4 と 4 × 3 というのは異なる演算であって、ただ乗算という演算がたまたま交換律を満たすから、その条件下では答えが必ず一致するというだけでしかない。理数系の職業に就くと、この交換律を駆使して乗算の左右を入れ替えて計算や式そのものを簡略化するというのは、歩くときに右足と左足を交互に出すのと同じくらい自然な操作なので、この程度でバツを付けられてしまったら商売上がったりという事情はある。

けれども、乗算が加算の繰り返しを簡略化した演算であるという成り立ちに立ち返ると、やっぱり 3 × 4 と 4 × 3 という演算は別のものを指示している。式で書くとこうなる。

(1) 3 × 4 := 3 + 3 + 3 + 3
(2) 4 × 3 := 4 + 4 + 4

こう書いてしまうと、最初に挙げた算数の問題に対応する式が、(1)ではなく(2)が正しいということが明確になるだろう。加算が「1だけ増やす」という演算の繰り返しを簡略化した演算であるという部分まで話を還元すると、次のようになる。

(1) 3 × 4 := (1 + 1 + 1) + (1 + 1 + 1) + (1 + 1 + 1) + (1 + 1 + 1)
(2) 4 × 3 := (1 + 1 + 1 + 1) + (1 + 1 + 1 + 1) + (1 + 1 + 1 + 1)

つまり、乗算に交換律が成立する理由は、加算に結合律があるから、ということになる。

こういう背景があって、4 × 3という式は3 × 4という式で代用可能になり、これによって複雑な式が簡略化されたりして高度な算術が人間に扱いやすいレベルまで変形できる可能性が高まる。ただしそれは技術の領域であって、数式が表す意味表現とは少し議論の階層が異なる。

なので、最初の問題に3 × 4という式を立てるのは、意味論では間違いということでいいと思う。学校で掛け算を習う小学生というのは、まだ引き算を習ったばかりで、割り算はこれからという段階にあるので、大人の常識とはちょっと違う世界に住んでいる。4 ÷ 3とすべきところで3 ÷ 4としてはいけないということを習う段階にあるので、掛け算であっても式の立て方の意味論を厳しく練習していくのはいいことだと思う。

ただまあ、相手は幼い子供であるので、単にバツを付けて終わりというのでは、教育心理学的にどうよ、という問題はあるかと思う。学校がただ単に与えられたルールを疑わずに受け入れるための訓練をする場であるのなら(そしてそういう考え方をする教師が少なくないようにも見えるのだが)、ここはこう決められているのだからこう覚えなさい、の一点張りで正しいということになる。が、もちろんそんなことは思わない。

交換律を満たす乗算や加算であっても、演算の左右を意識して式を立てさせる。けれども結局、加算や乗算ではその配慮は無効になって、答えは必ず一致する。でも、減算や除算ではそうはいかない。4 - 3は小学1年生の算数だけれど、3 - 4は中学1年生の数学になる。3 ÷ 4と4 ÷ 3も、もちろん違う。足し算や掛け算と、引き算や割り算は性質が違う。なぜなんだろうね、ふしぎだね、となると、そこに好奇心が生まれ、小さな学究の動機になる。

すべての小学校教師にそこまで期待するのも酷だとは思うけれども、式が逆順であるのにマルを付けるよりは、一度はバツを付けておいて、そこで生じるモヤモヤした気分を子供が自分で考える契機にできる先生は、より優秀な教育者だと思う。まあ、確かにこれは学問好きのエゴであって、与えられたルールを疑わずに受け入れたり、使える道具を疑うより使いこなすことに専念したりすることのほうが、現代社会が求める社会人の重要な特質の一つであり、そういうことを子供に刷り込むのも優秀な教育という解釈は確かに認めざるをえない。ただ、自分のコドモたちには好奇心を育む方の教育をしたいという気分はある。

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本当は確率論の話もしたかった。人間は "a" の付くものについては詳しく知ることができるが、 "the" の付くものについてはほとんど何も知ることができない、なんていう話にも通じる議論なので、今日みたいに昼間から一人で家に取り残されたりしたら、また何か書くかもしれない。

解釈の仕方まとめ - 箱に入れたカード

10/49派による解答・解説集 - 箱に入れたカード

この問題は、煮詰めるとこうなる。

ジョーカーを除く52枚のトランプをよくシャッフルし、その中から、1枚を引き抜いて箱に入れた。

問1. このとき、箱の中のカードがダイヤのカードである確率はいくらか。

次に、箱を開けて中のカードを見ると、そのカードはスペードの6であった。

問2. このとき、箱の中のカードがダイヤのカードである確率はいくらか。

また別の煮詰め方をするとこうなる。

ジョーカーを除く、普通のフルセットの52枚のトランプをよくシャッフルし、その中から、1枚を引き抜いて箱に入れた。

問1. このとき、箱の中のカードがダイヤのカードである確率はいくらか。

次に、箱を開けて中のカードを見ると、そのカードはダイヤのエースであった。

問2. このとき、問1の答えは1(100%)としても良いか。

「確率」という言葉の意味をどう定義するかという話だけでこれだけ盛り上がるのだから、議論というのは難しい。相互情報量とかエルゴード性とかで比較的明晰に論じることのできる分野だとは思うけれども、自然言語を使って議論をするといろいろな厄介が生じる。このあたり、因果律とか量子力学とかを扱った哲学的議論にも発展する話題なのだけれど、まあメンドクサイ話だと思う。中途半端に理解しやすいのがいけない、という意味では経済学の議論のグダグダにも通じるところがあるかもしれない。
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by antonin | 2013-04-07 14:49 | Trackback | Comments(0)

一切衆生悉有仏性

あるビジネスマンが新人を指導する。ある新人は飲み込みが早く、半年ですっかり一人前になり、優れたビジネスセンスを発揮している。また別の新人は勘が悪く、何度同じようなことを指導しても、相変わらず微妙に的を外した仕事をして、顧客にも同僚にも面倒をかける。さて、この二人の違いとは何なのだろうか。指導の方法に善し悪し、あるいは相性の問題があるだけで、ふたりとも個性が異なるものの優秀なビジネスマンになる素質に差はないのだろうか。あるいは、どうやってもダメで、死ななきゃ治らないようなダメ人間というのも存在するのだろうか。

現代日本に住む私たちは経済原理を至上としていて、その推進組織である会社だの役所だのに努めて、経済にどれだけ貢献する能力を身に付けるかということをとても切実に感じている。だから前段の例えはわかりやすいだろう。かつてあった仏教教団においても似たような状況があって、生きることに苦しむ人々の苦しみを和らげる仏教というものを至上としていて、その能力によって信者からお布施をもらって日々の糧としている集団に属した人々にとっては、どうにも仏教が伝わらない人に対して、これはどうにかすれば教えを悟らせることができるのか、あるいはどうやっても伝わらない人というのが一定数存在するのかというのは、かなり切実な問題だったのだろう。

で、ある切れ者の僧侶はこう言っただろう。悟りを得るには仏性のような潜在的なものが必要で、それを持たない人にどれほど教えを授けても無駄だと。だが、長老部から離反して大乗思想を掲げるようになった部派としては、そういう潜在的不可能性を認める考えは部派の基本思想に反することで気持ちが悪い。経験的には理解できるけれども、それを認めてしまうことは自分たちの基本思想を否定することにもなりかねないし、実務的に見ても、本当は素質のある入門者を誤って門前払いにしてしまうというミスに繋がるかもしれない。

そこで、一切衆生悉有仏性、つまり仏教を理解して苦しみを緩和できる可能性をあらゆる人が潜在的に持っているものととりあえず仮定して、まずは指導してみましょうというルールを作ったのだろう。それが日本に渡る頃になると、密教の影響だとか在来信仰との混淆だとかの影響で仏性を巡る議論が複雑になったのだろうけれど、元を辿ればそれほど面倒な話ではなかったはずだと思っている。答えを求めると難しい問題ではあるが、問題そのものは比較的はっきりとしていたんだろうという意味で。

この悉有仏性の問題は、形を変えて現代にも通じているような気がする。人は誰しも等しく潜在能力を持っていて、現れる能力の高い低いは、全てその人の努力に原因を見出すことができる。福沢諭吉さんが「学問のすすめ」で言っているのも似たようなことであって、現実の生活における格差の原因を、人々の素質より学問のあるなしに原因があるのだから、皆学問をしましょう、と説いた。あの人が本当に人間の潜在的な平等性を信じていたのかはちょっと疑わしいけれども、現実の生活格差ほどには人間の素質に格差はないと信じてはいただろう。

こういう考え方があって、一見どうしようもない無能と見える人であっても、根気強く教育していけばいずれは花開くと信じて、人を指導していく。これが明治以降の日本の教育の骨格になっていく。仏教的な悟りを目標としていないだけであって、基本的な考え方の骨格は悉有仏性と似た構造を持っている。ただこの構造が一方的に良いものかというと、そうとも思わない。

すべての人が能力を発揮する素地を持っているとすると、ある仕事について能力の低い人は、単に知識や努力が足りないだけということになる。となると、ある環境で能力を発揮できない人は、もっと努力しろと逃げ場のない叱咤を受けることになる。が、そもそも潜在的に向いていない人がいるという可能性を認めるとするならば、早い段階で教育から放り出すことができる。そうして放り出されることで、その人の潜在能力に見合った環境に出会う偶然に恵まれるかもしれない。全ての人に可能性を認めることが、ある種の人の可能性を潰す原因になりうる。

このあたりの議論は、仏教が盛んだった昔も、ビジネスが盛んな現代にあっても、だいたい似たような論点の周りを巡っているように見えて面白い。寺が合う人と、軍隊が合う人というのは、直感では先天的に相容れないような感覚もあるが、科学的な分析が進むと、きっと異なる解釈が出てくるというような予感もある。このあたりは難しいなと思う。

お釈迦さん自らが教団を率いていた頃のことを伝えるとされる教典を読むと、どうもその教えはあまり特別優れたものには見えない。もちろん優れたところは多々あるのだけれど、後世に加筆され洗練されていく仏教に比べると、原始仏教というのはいくらか凡庸な教えに見える。それでも仏教が教祖の死とともに散逸しないで伝わった理由というのは、結局のところお釈迦さんの出自によるものという気がしている。

お釈迦さんは精神的に繊細で、地方豪族の王子としての奢侈な生活を自分だけが送ることに耐えられなくなり家出をして放浪するのだけれど、自分の悩みを解決したあとにそれを教え伝えるための教団を持つようになると、徐々に大規模化していく教団を適切に運営できる能力が必要になる。繊細な精神によって人間の機微に触れる人というのは、普通こういう大きな団体の運営能力を持たない。ところがお釈迦さんは王子時代にそれなりの帝王教育を受けているので、その能力が教団運営に遺憾なく発揮されているように見える。そして秩序だった組織と多くの信者を遺すことによって、お釈迦さんの教えは後代に伝わっていく。

一介の仏教徒として、仏教が広まった理由がその教えが優れているからではなくて、教団運営がうまかったらだと言ってしまうのはいかがなものかと思うけれども、私は仏教徒である以前にダーウィニストでもあるので、そういう解釈をしたくなる。そういう目で見ればムハンマドさんだって教団を開く以前はやり手の経営者として貿易業を営んでいたのだし、イエスさんも、彼は比較的純真な宗教者に近いとはいえ、それでも10人を超える弟子と共に暮らしていたというから、ある程度のリーダーシップは持っていたのだろう。

受け入れる人のすべてに潜在的な可能性を認めるのは組織運営の基本だとは思うけれども、それを原理原則としてあまりに堅固なものにしてしまうと、それはそれで不都合も生じるのだろう。安易に諦めないことは良い効果をもたらすが、何があっても絶対に諦めないというのは、奇跡的な成功を生み出す効果がある一方で、現実を直視しないことによる悲惨な結末も招きやすい。「諦める」というのは本来は「真実を受け入れる」ということなのだけれども、人間の感情というのはある程度真実を隠蔽したほうが高いパフォーマンスを発揮することがあって、いろいろと厄介だなと思う。
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by antonin | 2013-04-07 13:20 | Trackback | Comments(0)

逆フリーメーソン

宗教は、臭い。
陰謀論は、臭い。

そういうものが好きだといえば、煙たい顔をされる。
まあ、わからなくもない。

中世ヨーロッパでは、神を脇に寄せて理詰めて考えたり、古代ラテンやギリシアの古い文献を読みあさったりする人々が、きっと臭く見えたのだろう。

煙たがられるので、わかる仲間だけ集まって秘密結社を作った。合言葉だの、握手の時の符丁だのを使って、密かなサロンを開いた。

で、それを外から見るとオカルトだったり陰謀だったり、そういう妄想が膨らむわけだけれども、実体は「良識馬鹿は困るよなぁ」という感じの人々の集まりだったのだろう。

アメリカの中枢というのは当時の秘密結社の思想がオープンになって花開いた組織なので、その文化圏では逆にカトリック的なものが臭く見られる。

宗教は時代遅れだし、陰謀論の9割は妄想だ。けれども、それはバカには見えない知恵の隠し場所にもなっていて、めまいを抑えながら凝視していると、ところどころに面白いものが見える。

finalvent氏はアメリカの中枢、つまりフリーメーソンだったりイルミナティだったり、そういう文化を持った人々の末裔にストレートな信頼を置いているのだけれど、私はそこまでそれを信頼していなかったりする。勉強が足りなかったせいかもしれないけれども。

警察にも、権力に溺れる人がいる。が、それはほんの一部で、たいていは、ちょっと怠惰で保身的だが、おおよそ誠実な人たちだろう。アメリカの中枢も同じようなもので、たいていは、ちょっと怠惰で保身的だが、おおよそ誠実で優秀な人達だ。ただ、その影で権力に溺れている人は一定数いるだろう。

フリーメーソン的なものが持っている権力とは何かというと、武器商人とかそういうのも無くはないが、基本的にはその知性だろう。智者は馬鹿を騙していい生活をする権利がある。ルターに批判された当時の法皇庁のお歴々と似たような人も、きっといくらかはいるだろう。

だいたい、中世のカトリック教会だって、上に登る人たちは貴族出の冷徹な思考の持ち主がほとんどだったのだろうし、バチカンというのもある意味で秘密結社だったのだろう。その秘密を理解しうる知性を持った市井の技術者だとか、オリエントの学芸に通じていた修道騎士団なんかは脅威だっただろう。

民主主義は終わった、とか言う前に、一度陰謀論にまみれてみて、その向こう側の絵姿を想像するのも楽しいんじゃないかという気がする。なぜ日本ではドイツの話があまり報道されないのか、なぜ6時台のNHKニュースは毎朝韓国のドメスティックニュースを紹介するのか。

深読みするのも楽しい。社会的地位がある人は滅多なことを言うべきではないが、凡人にとっては陰謀論の裏読みは興味深いゲームと思える。本気の資料集めは面倒臭いが。

古い教典にも変な話が沢山載っている。宗教説話だと美しい部分だけ紹介されるけれども、もう少し広範に読むと結構気持ちの悪いことが書かれていたりする。

優良企業の中枢にもこういう気持ち悪さはある。広告や取材には美しい部分だけ紹介されるけれども、機会があって内部で働いてみたりすると、美しい部分はもっと美しかったりするが、醜い部分もちゃんとある。

結局は人間のやることだ。人間の奥にある純粋なものとか醜いものとか、それに似たものは法人の奥にもちゃんと潜んでいる。陰謀論は、火のないところには立たない煙なので、直接には嘘ばっかりだが、間接的には何かをきちんと語っている。まあ、そういうもんだろう。

このご時世、陰謀論とか宗教とかをあんまり偏見や盲信にまみれずに論じるには、秘密結社的なサロンが必要だろう。フラットなネットワークにはそぐわない。SNSとは本来そういう秘匿性を保証するものだったはずだが、現代アメリカ人とは文化的に明け透けすぎてあまりよろしくない。

個人の発言もカプセル化して、public, protected, friend, privateなどの属性をもっと細かくコントロールできるネットワークが欲しい。保護レベルも単軸リニアではいけない。家族とだけ話せる話題もあれば、同僚だけで話せる話題、趣味の友人にしか通じない話題、古いサークルの仲間とぼちぼちやる話題などがあるだろう。恋人同士の会話や医師と患者の会話などは秘匿された専用のパイプであるべきだ。

人間が織りなすシステムの最適解と、オブジェクトが構成するソフトウェアシステムの最適解に、さほど大きな違いがあるとも思えない。ミクロでは全然違うが、マクロでは似たようなものだ。今のwebはフラットな階層に並んだグローバル変数の集合体みたいなもので、よくあんな原始的なもので当時の人達は耐えていたな、などと後世の人達は回想するだろう。そういう異常性こそが祭りのような繁栄の原因ではあるのだろうけれども。

いや、私が知らないだけで、そういう秘密結社はすでにネット上のどこかにあり、わかる人にしかわからない違いを持ったプロトコルでシェイクハンドして互いを認証していたりするのだろう。
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by antonin | 2013-04-05 02:29 | Trackback | Comments(0)

エイプリルのバカ

コートの内側にボタン留めのインナーを入れていたのを、旧暦の四月一日頃に外した。四月朔日姓を「わたぬき」さんと読むので、古い時代にも似たようなことをしていたのだろう。たまたま今日の日付は新暦の4月1日なので、ちょっと嘘を書こうと思ったが、あまりネタレベルまで練ることができなかった。適当に羅列する。

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「モールスマウスドライバ」

Appleが世に導入した技術の中で、一番醜いものが「ダブルクリック」だと思う。IEEE1394とかもあるが、まああれはUSBを生んで引退したので別にいい。

Macintoshが登場した当時、そのGUIのインターフェイスを一手に担っていたマンマシンインターフェイスは、ワンボタンのマウスだった。ワンボタンで、いかにもシンプルそうだが、GUIはそこまで洗練されていなくて、結局はダブルクリックとホールド(長押し)という、時間軸方向で複雑な操作をユーザーに要求することになった。これはのちにWindowsによってパクられ、多くの中年サラリーマンを苦しめたらしい。

今でもiOSなどのインターフェイスにはこの時間軸でのアクションに意味をもたせるという悪趣味なプロトコルが残されている。タッチデバイスを指で擦ってスクロールさせるとき、ちょっと考え事をしていると、突然長押しアクションが発動して変なボタンがせり上がってくる。実に鬱陶しい。その因果を辿って行くと、Macintoshの「シンプルな」ワンボタンマウスにたどり着く。

Windows界隈ではMacintoshの長押しに相当するコンテクストメニューが右ボタンという物理デバイスにアサインされたので、長押しという不自然な風習は混入しなかったが、シフトキーを押したまま8秒間ボーっとしていると、マザーボードのBIOSレベルのビープ音で冷や汗をかかされる機能が、あとになって追加された。時間軸アクションというのは物理界にはなかなか存在しない現象であって、決して直感的ではなく、「シンプルな」ワンボタンデザインの代償として作り上げられた、ひどく不自然な動作でしかない。

つまりAppleは、アイコンをステートマシンではなく、通信デバイスとして定義したのだ。そして、短いクリックは選択、短いクリックの連打は起動、長いクリックはコンテクストメニューと、タイミングファクターに意味を持たせた。言い換えると、モールス符号の「E」(・)に選択、「I」(・・)に起動、「T」(ー)にコンテクストメニュー表示という機能をアサインしたのである。であれば、欧文アルファベット26文字と数字と諸記号にも、機能を与えられないという合理的な理由はない。

過去のエイプリルフールで、Googleがモールス日本語入力というのを提案していたが、あれが筋が悪い。本来の欧文モールス符号というのは、欧文における各文字の出現頻度に基づき、出現頻度の高い文字には短い符合を、出現頻度の低い文字には長い符合を割り当てている。これにより、通常の文字出現頻度を満たす文章を符号化すると、最短符号長となるように調整されていた。いわゆる固定辞書方式のエントロピー圧縮が行われることになる。シャノンの数学的解析より数十年前にこういう符合がヨーロッパには存在していたのだ。

Google 日本語入力 - モールスバージョン

しかし当時の日本にはそういう学識がなく、しかし電信の技術だけは導入したかったため、アルファベットのABC順に日本語のイロハを順に割り当てていくという暴挙に出た。仮名はアルファベットより種類が多かったので、奇怪な長符合もいくつか追加された。その出自により、和文モールスというのは欧文モールスに比べて随分と筋が悪い。もちろん明治の通信士たちは勤勉だったから、そういう筋の悪い符号系でも忍耐強く習得し、効率よく使いこなした。が、設計上の筋の悪さは隠しようがない。

アマチュア無線には最上位が1級、最下位が4級という資格がある。3級以上ではモールス通信の技能が求められるが、1級だけが和文モールス電信技能を要求した。かつてのアマチュア無線ブームの中でも、この和文モールスを嫌って2アマ止まりだった人は多い。

license.html

Google日本は今さらその筋の悪い和文モールスを持ち出してきたことでシャノン先生に顔向けできない恥をかいたわけだが、ダブルクリックや長押しを駆使できる若者が欧文モールス符合を駆使するのであれば、それはあながち不合理とも言えない。欧文モールス+ローマ字変換であれば、訓練次第では下手なフリック入力よりもスムーズな入力ができる可能性もある。単純なモールス符合では長符号のためにスピード限界があるだろうが、バグキーやエレキーのような入力方式ではさらに高速化が可能だろう。

ただ、モールス符号を単純に電信式文字入力に使うのは若干もったいないような気がする。というのも、ダブルクリック(タップ)や長押しの使用場面を見ても分かる通り、通常のクリック(タップ)と共存が可能で、それを時間軸のアクションで区別することによって随時機能切り替えができるところに大きな意義がある。つまり、マウスやタッチパネルでのモールス入力は、文字入力という限定された場面ではなく、通常の操作インターフェイスの拡張として盛り込まれるのが最も適しているといえる。あの気持ち悪い時間軸アクションインターフェイスを認めるとするなら、という留保は付くけれども。

PCのインターフェイスにはキーボードショートカットというのが大きな位置を占めていて、某エディタのようにCtrlやAltを駆使したショートカットキーなくしては基本操作もおぼつかないようなものもある。そういう場面にマウスを持ち込むとしたら、アルファベット+数字の36種のシグナルを導入するくらいのことは、むしろ自然なことのように思える。

シングルクリック即ち「E」は選択、ダブルクリック即ち「I」は実行とするなら、トリプルクリック即ち「S」はファイルへ上書き保存、短いクリックの直後に長押し即ち「A」は全選択、というように、Ctrl-*系のショートカットキーを、左クリックのモールス符号入力によって代用させることが、技術的には可能といえる。

Windowsの基本操作系で行くと、コピーは「C」なので「ー・ー・」だし、切り取りは「X」なので「ー・・ー」になり、貼り付けは「V」なので「・・・ー」となる。こういう複雑なクリックアクションが標準インターフェイスに盛り込まれていたとしたならば、PCでのマウス操作は今よりもずっと魔術的なものになっていただろう。

タッチパネルの限られた入力インターフェイスであれば、この魔術の効き目はより大きいだろう。重ねて言えば、個人的にはこうした時間軸ファクターを含んだインターフェイスが大嫌いだ。しかし、毒も食らわば皿まで。ダブルタップや長押しなどという魔術が許されるなら、トリプルタップやクアッドタップといった五十歩百歩の魔術が許されない道理はないと感じる。こういうのが普及すれば、「天空の城ラピュタ」の冒頭のムスカ大佐は、コピペ荒らしをしているようにしか見えなくなるだろう。

試験電波 - Wikipedia
VVV ‐ 通信用語の基礎知識

今世紀のマンマシンインターフェイスは、19世紀後半の最先端技術であったモールス符号の域にまで到達すべきであると、半ば呆れながらここに提案するものである。いやしかし、考え事をしながらスクロールしている時の、あの長押し機能の起動ほど不愉快なものはない。Macintoshのマウスが2ボタンあるいはXのように3ボタンだったらと思うと、今更ではあるが恨めしい。

ということで、マウス左ボタンをモールス符号入力することでキーボードショートカットを自在に操れるロシア製デバイスドライバを見つけた、なんてのをエイプリルフールネタとしたい。できれば、既存のあらゆる時間軸依存をキャンセルして、あくまでステートマシンとして振る舞うGUIを実現するモードなども、そのデバイスドライバには設定項目として持っていて貰いたい。ダブルクリックの存在しない理想郷は、はたして快適だろうか、それとももどかしいだろうか。

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「大阪都法案成立」

大阪が都になるなら、宮城県は宮城府に、広島県は広島府になってもいいなと思った。そして愛知県は中京府に、福岡県は大宰府になる。北海道は道州制下の北海道というセクションになり、その州都として札幌府が誕生する。先述の各府もそれぞれの道州の州都となる。

さて、既に府である京都府であるが、これには千年帝都の深謀遠慮が働く。京都は、近畿道の州都ではなく、日本国の首都を淡々と狙う。皇太子殿下と秋篠宮殿下のどちらが長くご存命であるかは神々のみぞ知る領域であるが、秋篠宮悠仁殿下は明らかに世代が異なる。そこで悠仁殿下を皇太子殿下の養子にお迎えいただき、平成の次の世において正統な東宮と御成あそばし、継承の不確定要素を予め排除する。ここで平成のうちに秋篠宮家を京都御所にお迎えする。

然るに平成の次の世においては京都御所が東宮御所となり、「その次」の御代には晴れて平安京が日本国の首都として返り咲き、関東大震災に怯えることなき新千年王国を樹立する。このとき、京都府は「府」が取れて単に京都となり、東京都は「都」が取れて東京府に成り下がる。政治と経済の中心は相変わらず東京にあるが、元首の在地は京都となり、これが日本国の正式な首都となる。しかし奈良県は奈良府にはなれない。悲しいことである。

そして四国の州都は依然不明である。廃藩置県で徳島藩から失われた淡路を再び四国に戻し、そこに州都を置くという意見も出ているが、淡路市民としては阪神淡路大震災の辛苦を共にした兵庫県を離れる気はなく、当の徳島県民も脱四国・近畿編入を希望しているといわれる。長宗我部家がもう少し踏ん張っていれば高知県が府となったのであろうが、現状では瀬戸内海沿岸に府が置かれることは間違いないだろう。

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「NHK分割」

日本放送協会。その実態は公社であるが、法律上は受信機を保有する国民との契約締結義務を法的に保証された「だけ」の、純然たる民間企業である。ただ任務が少し重要であるため法規による規制が少し厳しいという「だけ」であって、形式はごくごく普通の民間企業である。なので、これを「民営化」することはできない。できるとすれば、競争原理を導入することくらいである。

そこで、NHKを分割する。それも、地上波とBSとラジオで分割するとか、地方ごとに分割するとかでは競争が発生しない。それぞれの領域での小さな独占企業体が生まれるだけだ。そこで、日本放送連盟(NBA:Nippon Broadcasting Association)を作る。これは、テレビ、ラジオの全ての放送業態を網羅する。つまり、総合テレビやラジオ第1放送、BS1などが分割後の新NHKとなり、Eテレやラジオ第2放送、BS2などがNBAの所管となる。そして、受信料は毎年行われる受信者アンケートの結果によって両者への配分比率が決定される。受信料を安くするよりも放送の質を高めることに重点を置いた方式といえる。

てか、BSテレビ放送って本当につまらんのですよね。ゴールデンタイムに演歌とか勘弁してほしい。
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by antonin | 2013-04-01 00:00 | Trackback | Comments(0)


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