安敦誌


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統計学は最恐の学問である

ちきりんがアンケートを取って、集計グラフを描いたりなんかしている。そこに何やら臭くて面白いものがあったので、統計学の話なども絡めて書こうと思っていたら、長くなりすぎて収集がつかなくなった。これから風呂に入って洗濯して、明日は書類を書いたり無線LANのレイアウトを変更したりしないといけない。時間がないので手短に。

--

未来の働き方アンケート (001) 結果サマリー 2/2 - Chikirinの日記

ここに出てくるグラフの一部に手抜きがあり、そのためにちょっと奇妙な結論が導かれています。

そして、その比率を年代別に比べて見れば、若いほど「フルタイムワークは、せいぜい50代まで」と考えているとわかります。20代の人なんて、半分の人が50代までで・・・と回答しています。

まじですか。さすが、ちきりん読者! ですね・・。

とはいえ、年を取るごとに「フルタイムワーク終了年齢」が上がってくるのは、

・現実的に考えて早期引退なんて無理だろ? という状況が見えてくる

・実際にその年齢になってみたら、自分としてもあと10年くらいはフルタイムワークでOK! と思えはじめた、

といったあたりでしょうか?


これ、どうなんでしょうか。まあ単純ミスだとは思いますが、一応指摘を。この項目の質問を引っ張ってくると、こう書かれています。

Q4) 現在の状況として、当てはまるものを選んでください

現在、フルタイムで働いている
現在は、フルタイムで働いていないが、今後、フルタイムで働きたい
現在はフルタイムで働いておらず、将来もその予定はない (世帯主である)
現在はフルタイムで働いておらず、将来もその予定はない (世帯主ではない)

Q5) 自分は何歳までフルタイムで働くことになる(であろう)と思いますか?  (もっとも自分の感覚に合うものをひとつだけ選んでください)

注1)この質問は、Q4で、最初のふたつの選択肢を選んだ方のみ、回答してください。注2)今はフルタイムで働いていないけれど、今後フルタイム勤務に戻る予定(意思)のある方は、最後にフルタイム勤務をいつまで続けると思うか、について回答してください。 注3)「そんなこと考えたこともない」という人は、今、考えてください。

働き続けられる限り、できるだけ長く
一般的な定年年齢(年金支給開始年齢)まで
70歳くらいまで
65歳くらいまで
60歳くらいまで
50代まで
40代まで
30代まで
20代まで


該当する項目はQ5の方ですが、注釈でQ4を参照しているのでそちらも引用しました。ここに引用したとおり、Q5の回答には質問者からのふるい掛けがなされています。

20代の人から見れば40代というのは将来予想に属するのでQ5の回答対象になりますが、50代の人から見れば40代というのは過去実績に属するので、Q5の回答対象には成り得ません。それでも、40代ですでに引退した人が統計対象に含まれていれば、まだバイアスは最小化可能なのですが、ここではどういう意図かわかりませんが、すでに引退済みの人を回答者から除外する要求が出ています。

20代の回答者はすべての選択肢が有効選択肢ですが、50代の回答者は40代以下の選択肢は無効選択肢です。つまり、Q5の問題設定では年代によって選択可能な選択肢の個数が異なり、「100%」の範囲も異なっています。それを手を抜いて等しい幅の帯グラフを使ってプロットしてしまったので、期待確率(無作為に選択肢を選んだ場合の確率)がそもそも違うことが回答分布のパーセンテージに混入してしまっています。

20代の回答者は選択肢が9個あるので、「60歳くらいまで」という選択肢の期待確率は約11%ですが、50代の回答者は3つの選択肢が無効化しているために「60歳くらいまで」という選択肢の期待確率は約17%になります。「50代以上」の回答者の中には、有効選択肢が「働き続けられる限り、できるだけ長く」しか残されていない「70歳くらい」超の回答者が混ざっている可能性も棄却できないのですが、50歳以上の回答者の年齢分布はアンケートからは読み取れないようになっているため、データからは検証不能です。

この手抜き集計(あるいは手抜き質問設定)によって、アンケートの設定者であるChikirin自身がグラフに騙されてしまい、最初に引用したような不正確な結論を導いてしまっています。結論が無効なので、結論に対する解釈も当然無効です。(つまり「誤りである」とすら言えない状況になってしまっている)

--

こういう具合で、「統計学は最強の学問である」というのは正しいのだけれど、最強のツールは正しく使っても誤って使っても、やはり最強なのであり、とても恐ろしい。統計学のパワーには原子力に似た恐ろしさがある。統計学とは、人間の主観的洞察力を全て排除するところから入らないといけないので、主観的洞察力のある人間にとっては扱いが難しい。(主観を排除せずに測定者の主観そのものも測定対象にしてしまうという荒業はあるのだけれど)

統計学が最強の学問なのだとして、統計学が素晴らしいと言うよりは、人間が編み出した学問というものは、現時点ではたかだか統計学以下の水準に甘んじている、と言ったほうが正しいような気がしている。

「ファスト&スロー」の下巻も読み終えたけれども、その中に「おばあちゃんなら『私はそんなこと知っていたわよ』と言いそうな事実」みたいな表現があって、なるほど、と思った。まあそんな直感的命題を客観的データで有無を言わさず実証していく本格的学問の凄みが本書の醍醐味なのだけれど、それとは別に、現実の複雑さに背を向け、単純化によって切れ味を増した理論の駆使に没頭し、客観的データによる実証を受け流す経済学者の動向が衝撃的だった。これが本書で得た一番の知識という気がする。

例えば、リフレ理論というのは、経済理論としてあまりにも美しい。学会でのコンセンサスもおおよそ取れている。それに対して学のない人たちが「だって国は借金だらけでヤバイだろ」と文句を垂れるわけだが、それは「王様が裸だよ」と見たままを口にしてしまう子供のような愚かな行為であり、おそらく経済学者の操る高度な理論の方に理があるのだろうと思っていた。しかしある時期から、どうも子供のほうが正しいのではないかと疑うようになってきた。幸い、日本でも「実証実験」が始まったので、数年以内には結論が出るだろう。これは喜ばしいことだ。

未来の働き方についても、サッチャーさん以来の新自由主義が経済の発展を促すことは経済学の世界でコンセンサスが取れているのだけれど、「良い経済の定義」について議論することは、恐ろしすぎてあまり人前ですべきことではない。社会経験のない愚者どもはこのあたりについて声高に叫ぶわけだけれど、そんな態度では経済的には成功しない。愚者どもがソーシャルブックマーキングで悲鳴のような意見を述べても、実力者の前ではあっさりとマスキングされてしまう。社会とはそういうものだ。

仏説へ帰ろう。

ぎゃーてーぎゃーてーはーらーぎゃーてーはらそーぎゃーてーぼーでーそわか

おやすみ。
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by antonin | 2013-06-30 01:36 | Trackback | Comments(0)

最近の若くない者

昔のお年寄りというのは、なんというのか、明るい人が多かった。

栃木県にいた頃、週末になると原付スクーターで駅まで行って、1日100円で駐車して、在来線か新幹線に乗って東京に帰っていた。駅前にはでっかい駐輪場があって、入り口の受付にはシルバー人材センターあたりから派遣されるバイトのおじさんたちが働いていた。

そのおじさんたちは、いくらも給料なんてもらってないんだろうけど、いつも威勢がよくて、利用客にも元気に挨拶を返してくれた。ああ、外国から尊敬されていた日本人ってこういう人たちなんだな、自分の世代ってこの文化をあんまり継承できてないな、残念だな、みたいなことを思っていた。

ところが、平成18年あたりから、なんだかおじさんたちの様子が変わってきた。挨拶しても、不機嫌な顔をして「うぃっ」みたいな声を出すだけの人がボチボチと現れるようになった。最初は、まあそういう人もいるわな、みたいに思っていたのだけれど、そこから1年くらいで、だんだんとそういう人が増えてくる。これはなんだろう、と思った。

最初は年金だか給料だか減らされたのかと思ったが、よく考えたら2007年問題っていうのがあった。都内にオフィスビルが多数竣工して、オフィスの供給過剰になる問題、ではなくて、団塊の世代の第一陣が60歳を迎え、大量の定年者が出るというやつだった。新聞では得意客に配慮して、熟達した労働力が抜けることで職能の伝承がどうこう、という問題とされていたけれど、実は年金どうなるんだ、というような問題だったと思う。結果としては雇用延長だとか嘱託だとかいろいろの手が打たれて、2007年問題は緩和されて、大きな混乱は発生しなかった。

それはそれとして。駐輪場の雰囲気がこんなに変わってしまったのは、ひょっとして2006年定年組がシルバー人材センターに供給されたせいなのか、なんてことを考えてしまって、ちょっと驚いた。世代で人を括るのは、それが年下だろうと年上だろうとあまり気持ちの良いことではないけれども、そうは言っても世代文化というのはある。

私が実際に付き合いがあって見知っている数人の団塊世代の人達は、大体において愉快な人達だったけれども、それでもときどき妙に強硬な態度を示す場面があって、あれは不思議だった。強硬な態度を示す場面というのが人それぞれではあったのだけれど、大正生まれの人が見せる心配性とはちょっと違った、怒りのようなものが多かった。

人格の基礎はだいたい15歳くらいで確定してしまうから、好々爺は15歳くらいの時にはニコニコと人好きのする少年だったのだろうし、毅然とした爺さんは15歳くらいの時にはすでに毅然とした少年だったのだろう。で、戦時中の教科書が黒塗りされたのを使っていた世代からちょっと下って、新憲法が公布されてNew World Orderな世界になった日本で、最初の教育を受けた世代が団塊世代という人たちらしい。

そこでどういう教育がされたのかは、よくわからない。ただまぁ、明治大正とは違うだろうな、というのはある。明治が江戸を否定したのと同じような勢いで、昭和後期は明治から昭和前期を否定したんだろう。

石原慎太郎さんみたいな人は変だけれど、あの良いとこのお坊ちゃんが下賎の教育を受けた人を軽蔑しているのはわかる。たぶん彼が大正時代を生きていたら、欧米の文化を学ばずに朱子学っぽい国民教育に没頭する下賎の庶民を軽蔑していたんだろう。

それはいいのだけれど、あの敗戦の影響が、60年経過してこういう形で出てくるものなのかな、というのは思った。団塊世代は良きにつけ悪しきにつけパワーがあるから、死に絶えるまでいろいろと話題を振りまいてくれるだろう。

ジュニア世代になると、あんまりパワーはない。ロシアの40代は、思春期までをソビエトで育ち、大人になったらいきなり自由圏に放り込まれて困惑しているらしい。日本の30代(そろそろ40代も)は、オイルショックからニクソンショックのあたりに誕生して、バブルの絶頂期に思春期を迎え、いよいよ我々の番だ、というところでバブルが崩壊する。好景気に踊ることもできなければ、後に続く超氷河期世代のような苦しみにも同調できない。中途半端な境遇にあって、国民栄誉賞の松井選手以外はこれといって突出した有名人もいない。

古き良き日本人も去りつつある。個人的には80后の「さとり世代」が日本復活の鍵を握っていると思う。彼らは朝日新聞のような偏向にも産経新聞のような偏向にも嫌気が差しているから、そこそこバランスの良い道を歩んでくれるだろう。
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by antonin | 2013-06-25 04:47 | Trackback | Comments(0)

反骨って難しい

どんな社会にも、社会の常識っていうもんがある。同調圧力もある。これは、真社会性動物の一種である人間の先天的な性質に基づくもので、どうしようもないものなんだろうと思う。ただ、すべての個体がこの同調に一致して一糸乱れず動くのかというと、そうでもないというあたりが人間の面白さであり、厄介さでもあるのだと思う。

昔、エジプトからメソポタミアにかけて広がる文明世界が発生した。その地域には古くから、部族の神が他のどの部族の神にも優越すると信じる牧畜を主体に生活する部族があった。その独立心旺盛な部族も、いつしか拡大する文明世界の中に飲み込まれていく。文明世界に飲み込まれていく中でも自分たちの部族の独立性を確保するために、よくよく考えた人たちが、自分たちが守るべき戒律を考えた。

そしてその末裔たちには、そういう戒律は面倒だと感じる人もいれば、そういう戒律が素晴らしいと感じる人もいたが、それぞれの世代に属する考える人達が戒律をより良いものに改良していき、それを守ることが徐々に生活を豊かに安らかにするようになった。そしていつしか、部族の誰もが戒律を守ることは普遍的に正しいと考えられるようになり、戒律を守らないことは罪として厳しく罰せられるようになる。

そういう時代になると、戒律を面倒と感じる人も、悪いのは自分の方であって、決して戒律が間違っているわけではないと思い込むようになる。そういう時代に現れた、よくよく考える人のうちの幾人かは、よくよく考えた末に、悪いのは戒律を面倒に感じて苦しむ人のほうではなく、多岐にわたり厳しすぎる戒律の方ではないかと気づく。その次の世代あたりに、人は必ずしも戒律の定めるとおりに生きる必要はなく、神と自分の対話によって、自分が正しいと信じる生き方をすればそれで良い、というようなことを言い出す。

そういう人の中で一番目立ち、そして死刑に処されたのがイエスさんだったのだと思う。イエスはユダヤの知恵者が何世代も考え続けたことで豊かになった戒律に我慢できず、反骨を示したプロテスタントの人だったのだろう。彼の言いたかったことは、「人が全て守るべきとされている戒律のすべてを守る必要はなく、自身と神の対話で正しいと思えたことを行おう」ということだったのだろう。

それからしばらくの間、キリスト派はユダヤ教に対するプロテスタントの立場を取る。けれども誰かがこの信仰を皇帝の権威付けに利用しようと考えるようになり、キリスト教は徐々にローマ世界の人が普遍的に守るべき戒律を定める立場へと逆行していく。それから長い年月の間にカトリック(普遍派)の戒律は人の生活を豊かにするものへと洗練されていくけれども、同時に些細な事で人に罪の意識を植え付けたり、人を罪人に仕立てあげたりする原因にもなってくる。

そこで今度は、東方に残っている、イエスさんが生きて語っていた頃の資料を読んで、キリスト教がそもそも厳格な戒律に対する反骨の宗教であったことを知る人達が出てくる。次の世代あたりになると、ヤン・フスのように反骨の言葉を堂々と晒して、その結果死刑になってしまう人が出てくる。彼の言いたかったことは、「人が全て守るべきとされている戒律のすべてを守る必要はなく、自身と神の対話で正しいと思えたことを行おう」ということだったのだろう。

で、自身と神の対話をした結果として、被造物である世界に対して「実験」で求めた答えだけが正しく、聖書のように人の言葉を集めたものや、それを元に教えを説く聖職者の言うことを無批判に受け入れて従う必要はない、ということに正しさを見出した一群の人々が出てくる。この考え方をする人々が現在の世界で主流をなす勢力になっている。

仏教の世界にも似たような反骨の歴史があって、インドの考える人々がバラモン教を作り、それが歴史を重ねる中で厳格すぎて逆に一部の人々を苦しめるようになると、ゴータマさんのような人が出て仏教が生まれる。仏教も考える人々の手によって厳格すぎる長老部に至ると、反骨を示して万人の救済を説く大乗部が生まれる。大乗部の教義もいつしか厳格な信心を要求するようになり、そうすると今度はゴータマさんの生きた時代の古い仏典を探しだして、自分の心との対話から見つけた答えだけが正しいと主張する禅が出てくる。

他の主だった宗教にも、そういう厳格化と反骨が循環する歴史が、探せば見つかるものなのではないかと思う。

で、15世紀あたりに始まり、アメリカ独立あたりで完成したプロテスタント運動も、もう成熟の時代に入っている。戒律に従うかどうかは、自分の頭で考えてもいいんだ、という初期の動機が、「すべての人は遍く自分の頭で考えるべきであって、伝統的な戒律を守るのは誤りである」というあたりにまで純化が進み始めている。科学者が宗教を毛嫌いするのも、この「反骨の果ての戒律」に従わない人への嫌悪感であったりもする。

そして、かつて反骨であった考えを継承する人たちは、自分の頭で考えることを普遍的真理のように考え、それが苦手だったり落ち着かなかったりする人にも強制しようとし始める。また、「自分の頭で考えることは正しい」ということを無批判に受け入れてしまう、従順な人たちが扇動者につき従い始める。現代社会は、だいたいそういうフェーズにある。

人生を無駄にするための10の方法 - Chikirinの日記

この、不合理な因習から人を自由にするはずの格率を受け入れない人を、あたかも罪人のように断ずるという、奇妙な行為のもとにあるのは、現代の宗教である科学、あるいはカトリック成分を完全に抜き取った残滓であるアメリカ式のプロテスタンティズムへの信仰心なんだろう。

人生が無駄だと感じたら、その無駄の原因は、実は世間で良いとされている生き方に無理に合わせているというところにあって、世間で良くないとされていることであっても、あなたにとっては良い生き方かもしれませんよ、あなたが考えた末に良いと思うように生きていいんですよ、それによって困難はあるかもしれないけれど、きっと良い面のほうが多いですよ、と、初期の反骨精神は "may" を説く。ところが成熟し普及した反骨精神は、かつて世間で良いとされていたことを無批判に受け入れて安住しているあなたは罪人ですよ、というようなことを言い出す。成熟した反骨精神は、古い因習の放棄を "must" で主張するようになる。そこに新しい因習が生まれる。

Chikirinは悪いことを言っているわけではないので気分は複雑だけれども、「自分の頭で考えよう」というのは誰にでも普遍的に成立する真理などではなくて、考えない人のように生きると苦しい人への助言なのだろう。「自分の頭で考えて、その答えが世間の常識と違っていてもいい」というのと、「世間の常識と違う答えを出せないあなたは自分の頭で考えられない愚か者である」と断罪するのとでは、かなり意味が違う。

気持ちはわかるけれども、まあちょっと。
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by antonin | 2013-06-23 13:02 | Trackback | Comments(0)

Information

英和辞典を引いてみると、informationという語の語源はinformatioというラテン語とある。それ以上の説明はない。で、動詞型のinformの項を見ると、「in-(中に)+form(形作る)=心・頭の中に形作る」とあって、informalのような「in(非…)+formal(公式の)」という語源説とは別の説明になっている。そうなのか。英語の語源説の研究者もバカじゃないから間違いはないんだろうが、なんとなく腑に落ちない。

人に告げる言葉の内容、今で言う「情報」をinformatioと表現しようと考えたのは、実はラテン語圏の人ではなくて、都市国家時代のローマが文化的な師と仰いだギリシア語の中に既にあった単語を、ラテン語に直訳したようなものだったのではないか。そんなことを考えているのだけれど、証拠がない。古代ギリシャ語と英語のネット辞典を頼りに、informationに相当する古代ギリシア語を探してみると、aggeliaという単語が出てくる。逆引きし直すとmessageの意味だとあるので、人に告げる言葉の内容を指すものとして、ラテン語のinformatioと同じようなものと見ていいだろう。

Ancient Greek Dictionary Online Translation LEXILOGOS >>

Woodhouse's English-Greek Dictionary Page Image

atomosはa-tomosで、非分割の意味だといわれるように、ギリシア語で接頭辞のa-はin-formalのin-と同じ否定の意味があるのだが、aggeliaからa-を外したgeliaに類する単語で「形」という意味を持つものがあるかと調べてみると、そういうものが出てこない。「形」というと、eidosとかideaとかmorpheとかのよく目にする単語が出てきて、ガンマで始まる単語は見つからなかった。aggeliaというギリシア語をinformatioというラテン語に「直訳」したとは考えにくい。

ちなみに、aggeliaを伝える人、つまりメッセンジャーをanggelosと呼び、これが後にキリスト教で言うところの天使(angel)の語源になったらしい。エヴァンゲリオン(福音)という単語も、anggellioという語幹にev-(良い)という接頭辞を付けたもので、良い知らせという意味らしい。gelosというと「笑い」になってしまうので、anggelosが「笑えない話をする人」とかいう語源を持つとすると面倒な話になる。そんなことはないんだろうけど。

aggeliaという単語に「非形」の意味が無いとすると、informatioという単語はラテン語圏の人が独自に考えたということになる。in-という接頭辞が否定ではなく「中へ」という意味だとすると、in-formの対義語としてex-formatioみたいな意味の単語が自然に派生したのでないか。で、調べてみると、確かにexformationという単語は出てくるのだが、「会話に必須だが、明確に意識されない知識の体系」とかいう近代哲学者の造語っぽい単語が出てくるだけで、ラテン語に起源を持つような古い単語は出てこない。

ちなみに、現代英語ではinformationというのは情報、お知らせ、というような意味にしか取れなくなっているので、「無形重要文化財」とか「無形資産」とかいう場合には、intangibleという単語を使っている。これもラテン語に起源のある語らしいのだが、intangibilis(触れることのできない)というのが語源らしい。対義語としてのtangible「触れることのできる」「有形の」という単語もある。

tangには「味」とか「におい」という意味もあり、intangibleも源流のある段階では「味わえない」とか「嗅げない」とかいう意味があったのかもしれない。まあ英単語のtangの方はtongueと同源であり、こちらはラテン語ではなく純ゲルマン系の古英語が起源らしいから、これはあんまりもっともらしい説とはいえない。

で、informationが「非形」という意味だとすると、眼が受ける色に対立する空という意味として適切なのだけれど、「中に形作る」だと具合が悪くなる。一方のintangibleは「非可触」という意味なので、身が受ける触に対立する空として、まあ妥当ということになる。

空の元になったサンスクリット語は数字のゼロと同じ意味のシューニャという語で、これは空っぽとか泡とか、そういうような意味だったらしい。ウパニシャッドとかの話を聞きかじると、ある限られた空間そのもの、あるいは形から物質的な要素を取り除いて残ったもの、みたいな表現が出てきて、これは古来インドでは定番の哲学ネタだったのだろう。

「ディラックの海」の仮説が失敗に終わって以来、真空がなぜ寸法(dimension)を持っているのかという話題はタブーに近い扱いを受けているけれども、そういうあたりを論じることができるような時代になると、空とか色とか、そういう思考訓練をしたことがある人には幾らかの有利があるような予感がある。真空中には色は何もないのだけれど、空がぎっしりと詰まっていて、そこにガンマ線なんかを打ち込むと、ときどき電子と陽電子の対が生成したりする。反対の電荷を持った対は電磁気力によって互いに引かれ合って衝突し、対消滅して再び質量のない光子に戻る。色即是空、空即是色。

因が独立変数、果が従属変数とすると、縁は関数(function)になる。過去の情報が因であり、物理法則という縁を経て、現在の色を作る。現在の色は再び因となって、未来の果を生む。その再帰演算により生成される情報の移ろいが物理現象であり、物理現象の持つ局所情報の一部がそれ自身を主観的に認識しているのが人間の意識(五蘊)ということになる。

吉村先生の影響で、考古学というと昔の人の発想をなんでも呪術に結びつける印象があるけれども、現代人だって呪術を否定できずに生理的に信じる人がたくさんいるのと同様に、古代にあっても奇跡や神を比喩的な用法以上には信じていない冷徹な人は一定数いた、というのが正しいのではないかと思う。エジプトの神官の中にさえ、というより、神官ができるような人のほうがむしろ、そういう発想法に接する機会は多かったのではないかと思う。それで、イクナートンのような一神教の狂信家を官僚的に追放したのだろう。

「報せ」に "information" という語を作って当てた人がどんなことを考えていたのか、興味はあるが、今となっては決して知ることはできないのだろう。
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by antonin | 2013-06-16 19:45 | Trackback | Comments(0)

似ている

"PRIDE" というのを、「矜持」と訳すのか「驕慢」と訳すのかで、随分と印象が変わる。英語には詳しくないので、どちらがどの程度正しいのかというのはわからない。

疑う人が確信を得て、信じやすい人に真理を教える。それで丸く収まる。しかし、丸く収まりすぎると、教えられるところの「真理」というのはどんどんと変容していく。で、また疑う人が出てきて、いろいろと考えた末に真理を再発見する。昔インドにバラモン教という発展があった。で、疑う人ゴータマが出てきて、プロテスタントする。それがいつの間にか大乗という発展を遂げ、仏教の原点とはだいぶ異なった成熟を見せる。で、疑う人ボーディダルマが出てきて、プロテスタントして、禅になった。

ユダヤ教という民族信仰があって、文明の辺縁で発達して成熟していく。で、疑う人イエスが出てきて、プロテスタントする。それがいつの間にかローマの権力に取り込まれて、「普遍派」というキリスト教の原点とはだいぶ異なった、成熟した体系が練り上げられていく。で、疑う人ルターが出てきて、プロテスタントして、新教になった。アメリカ的な「自分のアタマで考える」べきだという風潮は、キリスト教文脈のプロテスタント運動の下流にある。

「信じる者は幸いである」というのを客観的に言ってしまう冷静さというものがある。信じやすい人が信じている教えを説いている当の本人は案外に疑う人であって、真理という無機質なもの以外は比喩的にしか信じていなかったりする。

科学を信仰する人が宗教を嫌悪するのは信じる人の見せる動物的な信仰に対してなんだろうけれど、その嫌悪感は宗教が宗教の範疇に留まるうちはあまり激しくならなくて、宗教が科学的体裁を使って人々を説得しようとしているのを見聞きした時に頂点に達する。自分たちの信仰している科学的真理そのものが冒涜されていると感じるからだろう。キリスト教徒が仏教徒やヒンドゥー教徒ではなくユダヤ教徒やイスラム教徒をより強く憎むのは、前提が共通しているのに結論が異なるからなのだろう。

似通っているからこそ憎たらしい、というのはあるのかもしれない。

ムスコ1号の性格を見ると、笑っちゃうほど私の子供の頃にそっくりだ。で、私はこの子の最良の理解者かつ協力者になれるのかと思っていたが、実際に接してみるとそうでもない。同病相哀れむ、という程度の共感はあるのだけれど、実際に対人術として良い接し方ができるのかというと、そうでもなかった。欠けたところのある人間は、同類よりは相補的な性格を持った人と接したほうがいいのだろう。なるほどムスコ1号は私の妻であるところのママ大好きである。一方、ヨメとはいつも言い争いをしているムスメはパパ大好きである。そんなもんか。

血は水よりも濃くて、それがなければ離散してしまうものなのかもしれない。いやはや、生命ってよく出来てるな、と。
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by antonin | 2013-06-16 12:27 | Trackback | Comments(0)

遺言

今日、こういうのを読んだ。

もし明日死ぬとしたら、という問題設定について - 脱社畜ブログ
僕が最近思っているのは、「5年後に自分の人生が終わるとしたら」ぐらいの問題設定が、多くの人にとっては一番建設的ではなかろうか、ということだ。明日死ぬとか、あるいは1週間後死ぬとかだと、行動はやはりどうしても刹那的にならざるをえない。1週間後死ぬと決まっているのに、勉強をしたりは普通しないだろう。何かやりたいことがあったとしても、それをするために勉強や入念な準備が必要なものについては、諦めるしかなくなる。



一方で、5年という期限設定だと、ある程度腰を据えて死ぬまでにやっておこうと思うことに取り組むことができるようになる。もちろん、そんなに長い時間があるわけではないので、無為に過ごしたり、やりたくないことに時間を使ったりはできない。ただ、やりたいけれど能力が足りないというのであれば、その能力を身につけるために時間を使うことだってできる。人によっては、5年間のうちの最初の2年間を勉強に充てるとかもありだろう。



また、別な理由で人間が予測できるのはせいぜい5年ぐらいが限界だろう、というのもある。それより先のことは、考えても想定通りは行かないので、5年スパンぐらいで人生を区切って考えるというのは決して悪いやり方ではない。

なるほどね。うまい条件設定だと思う。で、自分がもしも5年後に死んでしまうならどうするだろう、と考えてみた。結論として、今のままで良いということになった。30代までに数回は三途の川のほとりに立ち、周囲の支えもあってようやくここまで来たという感覚があり、このペースであと5年生きてお陀仏というのは、実は理想の人生という気がする。上の引用部分にもあるが、人間が予測できるのはせいぜい5年くらいというのがあって、自分の場合も5年以上未来の生活というのは想像がつかない。

社会情勢というのは統計的なあれやこれやで漠然と予測が利くけれども、唯一無二の個人についてはこの統計的手法が使えないので、全く想像がつかない。自分は、無意識に5年先くらいまでを見て生活していたんだな、というのがわかって面白かった。日々の生活に追われていて、それ以上を考えずに済んでいる幸福ということでもあるかもしれない。で、逆に80歳過ぎまで自分が生きる状況というのを想像すると、なんだかゾッとして、自分はあまりそういう事態を想定していないということがわかる。

自分のコドモたちに白髪が生えたり皺が目立ったりして、生意気で愛想の無い孫が生まれていたりするかもしれない。知っている人はどんどん先立ち、自分自身の身体にも大小の不具合が目立つようになる。思考力は徐々に衰え、昔話が多くなり若い人に疎んじられ、昔は目をキラキラさせていた最新ガジェットも意味が理解できずに手が出せなくなる。人に頼られる機会というのはすっかり無くなり、徐々に赤ん坊のように周囲に頼る生活になっていく。改めてこういう想像をすると、厳粛な気分にさせられ、老いた人との関わり方を再考させられる。

平均寿命が長い今の時代、あんまり大往生というのは自分にも周囲にも負担が大きい。若くして死ねば、多少面倒な奴でもある程度は惜しまれつつこの世を去ることができる。50歳前後というのは、死に時としては理想的な気がする。そういう時期に自分は死ねず、長生きしてしまうかもしれない。統計的に見るならそちらのほうが普通だ。私の場合は、そちらの場合のほうを真剣に考えてみるべきなんだろうと思う。死ぬ瞬間というものは色々な感覚が巡って恐ろしいということを私は知っているが、それは別に20歳でも100歳でも大きく変わらないものだと思う。

一方、普通に明日死ぬなら今日をどう生きるべきだろう、というのも考えてみた。結論として、遺言を書いておいたほうがいいだろう、ということになった。たとえばこうして駄文を書き綴っているBLOGサービスにしても、外からSPAMコメントは付け放題である一方、親族によるコントロールができない状態になってしまう。自分が突然死んでしまった場合にそれを知らせて欲しい人の連絡方法なども、あまり自明ではない。利用しているサービスのパスワード一覧や連絡先リストなどを作っておき、そのありかをわかりやすく伝えておく必要があるだろう。

他にも月額や年額で利用料が自動引き落としされるサービスなどもいろいろと契約しているので、必要のなくなったものを速やかに解除できる連絡先のリストも必要だろう。もちろん、貯蓄や保険金類を適切に受け取るのに必要な書類などもまとめておく必要がある。明示的に契約した個人加入の保険だけでなく、健康保険などから支給される給付金の請求手続きなども事前に調べてあると便利だろうし、不動産の名義を書き換えたり相続税をどうこうしたりという面倒を誰に任せるかという手配もあるといいだろう。

明日死ぬというのをリアルに想像するとき、一番心配なのはそういう面倒な事務手続きで、あとは適当でいい。死んでしまった側にとっては墓とかは特に要らないが、残された側にとって拠り所が必要だったり社会的体裁が必要だったら、どこか安くて安心なところを探してあると便利かもしれない。両親ともに健在なので、妹夫婦に両親の世話をお願いする代償みたいなものも確保しないといけない。自分が早死にしてしまったら自動的に両親の財産の相続権を放棄するような手続きもしておいたほうがいいのかもしれない。自分の分は妻子に回すしかないだろう。余裕もないし。遠くにある父の実家の土地は家の名前を継いているうちのコドモがコミットしているほうがいいのか。そこは迷う。

死ぬまでに自分が自分のためにしておきたいこと、というのは特に無い。もう大抵のことは済ませた。BrainFuck処理系の実装ができなかったのが心残りだが、あの世での楽しみということでいいかもしれない。時間だけはいくらでもありそうだし。コンピュータサイエンスの大家もだいぶ鬼籍に入っているから、あちらにもマイクロプロセッサやコンパイラくらいあるだろう。あの世の存在を信じるのは妄想だが、死の前日ぐらいはそういう妄想が許されたっていいだろう。

というわけで、本気で明日死ぬとは思わないが、いつ死んでもいいように手はずを整えておくのはいいことだと思った。気が向いたらやっておこう。もし間に合わなかったら、面倒掛けてすまないけどよろしくやってください。
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by antonin | 2013-06-11 01:08 | Trackback | Comments(0)

余録

なんというか。

いろいろと思うところはあるし、憲法について考えることだって日本国民としての自治の一環という感覚はあるのだけれど、妄想の類いではないかとも思う。

コドモたちが言うことを聞かない。親の言うことも聞かないし、先生や友だちのお母さんなど、大人全般の言うことを聞かない。その原因はヨメが家庭で始終怒鳴り続けているあたりにあって、ヨメが始終怒鳴り続けている原因は私が家事の負担を共働きのヨメに任せすぎているあたりにある。

卑近なところを突かれると、非常に具合が悪い。やっとコドモが寝たからといって、こんな時間にこんな文章を書いている場合ではなく、早く寝て明日の朝にはコドモを公園に連れて行き、体力を思う存分発散させてやらないといけない。あるいは掃除洗濯に精を出すべきで、庭の植木の世話なんぞをしている場合ではない。食事は作らない。一人暮らしは何度か経験したが、料理だけは全く上達しなかった。料理ができない代わりに掃除洗濯くらいは主体的にやるべきなのに、要領が悪く、5人分ともなるとなかなか終わらない。そういう具合なので、仕事だって平凡以下のパフォーマンスだ。いろいろと具合が悪い。

何を言っているかには大した意味がなく、誰が言っているかにこそ意味がある。それは知っているからこそ具合が悪いのだが、わかっちゃいるけどやめられないのがダメ人間のダメ人間たる所以であって、就寝前に妄想が走りだすと、ひと通り文字に落とすまで眠れない。文字に落としてもディスプレイのバックライトにやられてしまい、しばらく眠れないことも多い。

この眠りにくく起きにくい体質はムスコ1号にのみ遺伝しているようで、なんだか気の毒だ。ムスコ1号は他にもいろいろな面で私に似ていて、とにかく扱いづらい。同じ性質を持った自分は最良の理解者になってやれるのかと思っていたが、意外にそうでもなかった。同族嫌悪というのか、自分自身の嫌な部分の体現者のようなムスコ1号の強情に、こちらも強情で接してしまう。ストレスのないときはお互いユルユルなのだが、着替えや宿題をなかなか始めないムスコ1号へのヨメによる罵倒が始まると、それをトリガーとしてムスコ1号も私もノルアドレナリンが噴出してしまって戦闘状態に入り、ムスコ1号が泣き寝入りするまで紛争が続く。具合が悪い。

ムスメは私の父に似て、ガサツで短気でキレやすいが後に引かない性格で、自分の問題では大騒ぎするが他人の問題にはあまり口を挟まない。我が家で唯一精神的な欠陥の少ないムスコ2号は、困った人達に囲まれていつも難儀している。
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by antonin | 2013-06-09 02:57 | Trackback | Comments(0)

憲法改正に賛成する理由

なぜ改憲が必要なのか、というような言い方でも良かった気もするけれど、まぁ、あくまで個人的な意見ということで。

個人的に、「憲法改正に賛成ですか、それとも反対ですか」という質問があったら、「賛成」と回答すると思う。ネット上に公開されている自民党の草案に賛成かと問われたら「反対」と言うだろうけれども、ともかく改憲の必要は強く感じる。その理由は憲法のせいで自衛隊という名の軍隊を集団的自衛のために海外派遣できないから、ではない。

2期目の首相に返り咲く前の安倍さんの言葉を聞くと、日本国憲法第9条のせいで日本は世界秩序維持のために紛争地帯に軍隊を派遣することができず、そのために首脳会議などで恥をかくから嫌だというようなことを言っていた。日本国憲法を「みっともない憲法」とする理由の一つはそこにあるのだろう。他にも、個人と国家の権利定義で個人に重きを置きすぎているとか、日本の国体が民主制ではなく立憲帝制であることが明瞭に宣言されていないとか、条文が英文和訳であるとか、そういうところも問題にしているらしい。

個人的に、幕末の動乱を勝ち抜いた若い志士がプロシアなどの憲法を研究して作成した大日本帝国憲法と、2つの世界大戦を経過したアメリカの若い研究者が日本人学者と丁々発止の議論の末に作成した日本国憲法に、特段の優劣があるとは思えない。ただ、両者の間にはいくつかの共通点があるものの基本的な発想に違いがあり、日本国憲法のほうが構造的にややいびつな形をしている。そのいびつな部分もいずれ改正が必要になってくるとは思う。しかし最も憲法改正の必要がある部分は、日本国憲法のいびつな全体構造ではなく、言わずと知れた第9条だろう。

第9条の何が悪いのかというと、日本を戦争のできない異常な国として定義しているから、ではない。たとえばスイスなども永世中立などという無茶な宣言を憲法に謳っているが、スイスの場合は、国民皆兵制でも、ナチスドイツへの消極的協力でも、実際に戦争の当事者となった周辺諸国からは苦々しく見られるようなことであっても、実際に困難な努力を払ってまで実行し、それによって憲法に謳った理想を実現しようとしている。つまり、憲法の条項と国家運営の実体にズレがない。これは実は、法治国家として当然のことでしかない。

ところが日本の場合には、憲法は明らかに軍隊の保有を禁じているが、警察予備隊が保安隊を経て自衛隊になったあたりから、日本国は事実上の軍隊を保有することになり、これ以来60年近くも違憲状態が続いている。これに対して司法は、高度に政治性の事案であって司法判断に適さないだとか、他にもいろいろの憲法解釈論でこの違憲状態を無視し続けている。

憲法は軍隊の保有を禁じているが、現実問題として軍隊が必要になった場合に、法治国家が取ることのできる選択肢は2つしかない。一つは憲法を遵守し、軍隊を持たずになんとか軍事的脅威に対抗すること。もう一つは憲法を改正し、軍隊を持つ必要がある現実に憲法を合わせること。ところが、日本はこのどちらの選択肢も取ることができず、法治国家であることを一部ながら放棄した。

法治国家というのも極端に言えばフィクション、あるいは共同幻想と呼ばれるものの一種なので、現実を前にすれば一時的にはその体裁を乱されることはある。しかし、それが60年も続いてしまうということは、もう構造的に幻想が破れているということになる。つまり、日本はもう法治国家ではない。

あるビジネスホテルが自治体の定める条例に違反したことを指摘された時、社長が記者会見の席で、自社の条例違反が軽いスピード違反をしたようなもの、というような弁明をしていた。この話は確かにいろいろなものを象徴していると思った。時速60キロ制限の道を時速65キロで走るというのは確かに軽微な違反だが、違反は違反だろう。仮にそれが正当なプロセスを経て不起訴になるとしても、だからといってやって良いことではない。これが法治というものだろう。

こういうことを言うと、じゃあお前は時速60キロ制限の道路を一度も1キロもオーバーせずに走っているのか、そんなノロノロ運転をする奴はかえって迷惑だ、という話が、日本の場合は出てくる。正常な法治国家の場合、人々は法を守って時速60キロ以下で車を運転し、しかしそれだと色々と具合が悪いので市民が大騒ぎし、程なく規制が緩和されて時速80キロ制限あたりになり、人々は余裕をもって法を守れるようになる。

ここでもまた、今時速60キロ制限の道路をすべての車が時速80キロで走ったら危ないだろう、事故が増えたらどうするんだ、という話になる。しかしこれも、制限時速が80キロだったら80キロ近辺で運転しないと周りに迷惑という今の日本での常識で考えるからおかしなことになるだけであって、制限時速が80キロであろうと100キロであろうと、免許を与えられた全てのドライバーには状況に応じた安全速度で運転することが義務付けられている。だとすれば、時速75キロでも安全だと判断できる車両はその速度で走ることができるし、時速60キロでも危険だと感じる車両は、より遅い速度で走ることができる。

法治国家とは、法律でなんでもかんでもがんじがらめにする国家のことではなく、本当に害悪をもたらす行為だけに最小限の規制をかけ、それを厳格に守り、ただし守ることが不都合だとわかれば遅滞なく改正する、そういう国家のことを指すのだと思う。その厳格な法が許す範囲内で、国民は自己の良心的判断を常に求められ、その良心的判断によって自由に生きることができる。

現在の日本というのは、何か問題があるとすぐさま規制を定める法律や政令や条例が定められ、そしてその規模が大きくなりすぎてしまったために、時の為政者や行政組織の上級官僚が個人的に注目した項目だけが厳密に運用され、その他の膨大な法令はほとんど無視される状態となる。法令の大部分は無理があった場合には単に無視されるため、苦情を寄せられた行政府は立法府に直接働きかけ、単純な規制法を制定することで責任に対して十分な言い訳を確保し、その運用や効果検証には関心を示さない。

こういう具合に乱発され膨大になった法令を手繰れば、普通に生きている国民や普通に営業している企業も、必ずどこかに抵触してしまう。そしてそれを問題視して公権力を発動するか否かは、公権力に属する個人の裁量に帰せられる。これは人治国家であって法治国家ではない。

そういう意味で、日本国というのは実はアジア的な人治国家であって、程度の差はあれども五十歩百歩、中国などのことはあまり馬鹿にはできない状況にある。少なくとも、欧米からはまともな法治国家とは思われていないフシがある。誠実な人治国家というのもありうるので、日本は概ねそのように見られているのだろう。つまり、システム的に統治しているのではなく、個人の力量の積み重ねでどうにか運用されていると見えているのだろう。今はかろうじて機能しているが、仁と義と忠が失われれば、国家は崩壊する。

そこで、安倍さんは日本国憲法に義と忠を盛り込もうとしているように見える。世界最高水準の人治国家だった大日本帝国の再興を目指しているように見える。だが、一方で日本はグローバル化を目指している。グローバル化と国民文化の関係というのは難しいところがあって簡単な結論は出ないのだけれど、古くから異文化との闘争と融合を繰り返してきた大陸の国家が選びとったのが、民族によってバラバラになる仁義や忠誠などではなく、少数の、しかし厳密で客観的な法律に依存して多様な国民を束ねようとする、法治国家というシステムだった。

イスラム革命の影響などでキリスト教圏とは随分とスタイルの異なる国家も大陸には多いけれども、それでも厳格なイスラム国家というのはイスラム法を厳格に守る法治国家という面が強い。クルアーンの記述言語であるアラビア語は特別視するけれども、アラブ人を特別視するという習慣はない。ラテン語は特別視してもラテン民族は特別視しなかった古代ローマに似た仕組みを持っている。イスラム法学者による裁量はあるけれども、これにしても裁判官の裁量と似たところがあって、法解釈の裁量を下す権利を法的に与えられた人々によって行われている。

危険なイスラム国家は、たいていキリスト教圏にある国家のテコ入れによって成立した独裁国家に分類されるが、これは本論を離れた話なのでどうでもいい。ともかく、まともな大陸国家はたいてい法治国家というシステムを採用しているし、国際紛争についても極力国際法を尊重しようとしている。国際法というのは強制権を与える組織がなく、戦争を発動する要件とそれを終結させる要件が書かれているだけという話もあるが、ともかく法を尊重する国家は国際的にも尊重される。日本国が本当にグローバル化を目指すなら、法治国家へのより一層の成長は必ず必要になってくるだろう。

もしも日本国をより法治国家に近いものにしようとするなら、もはや共産党だって廃止を表立って言うことのできない自衛隊を憲法という最高法規から禁止している、現実に合わない9条を改正する必要がある。そして、同様に憲法と現実がすっかり合わなくなっている1票の価値の問題も、1票の価値が国土の面積に比例するように憲法を現実に合わせるのか、あるいは住む場所にかかわらずに個人の平等を謳う憲法に現実を合わせるのか、どちらかを選択しなくてはならない。

自分が東京に住むからあえてこういうことを言うけれども、利己的な都市の住民の投票価値は、実際に日本の国土を支える地方在住の人よりいくらか軽いくらいが合理的だろうと思っている。けれどもまぁ、これは法治原則の話とは別の議論になってしまうのでこれ以上は触れない。

ともかく、多くの国民を戦争で失った大日本帝国臣民が八紘一宇の壮大な理想を掲げて世界を相手に戦争をしていたところから一転、平和を希求する日本国憲法を受け入れ民主主義国家の市民になったのも、あながち占領統治政府による単純な押し付けとは言えなかったんじゃないかと思う。現に、国体の宣言たる天皇条項については、様々な日本人がGHQと粘り強い交渉を続けていたらしい。そしてそれは、ある程度は叶えられたと見ていいのだろう。

なので、自民党の改憲派が目指すような、より優れた人治国家を再興するための憲法改正には反対するけれども、もろもろの法令が制定においては乱発され、運用においては軽視されるような現状を是正し、より本格的な法治国家に成長するための改憲なら賛成したい。

思うに、法令というのは一種の宣言型プログラムになっている。そこには社会運営を定義する論理構造だけが示されていて、実際の解決手続きは公務員というエージェントがそれを知っていて、実行される。ところが現状の日本の法律には内部矛盾が多く、不具合に対して場当たり的なパッチが多数当てられたプログラムと化している。エージェントはプログラムの最下層の条文だけを参照し、それにより隠蔽されている上位クラスのプログラムとの矛盾を検出できていない。日本国の法令は適切なリファクタリングが必要な段階にあり、その必要性は基底クラスである憲法にまで及んでいるという状況なのだろう。

まず最初に修正する条項として最適なのは、前文や9条のような大物ではなく、もちろん96条でもなく、100条から103条だろう。もし日本国憲法にみっともない部分があるとしたら、こんなテンポラリな条文を60年も手を付けずに抱え込んできたというあたりが該当すると思う。私たちはまだレガシーコードの基底クラスのリファクタリングという難しい作業を行うのに十分な経験を積んでいない。本丸である9条の修正は、もう少しだけ改憲の経験を積んでからのほうがいいだろう。

そして、前文の書き換えというのは一種の革命でもあるので、これは軽々にできるものではないと思う。もしもそのあたりが流血を伴う維新ではなく理性的なビロード革命になるようなら、日本国もいよいよ成熟してきたな、と思われるのだろう。そういう将来を望みたい。その一歩としての改憲なら、私は歓迎する。
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by antonin | 2013-06-09 01:32 | Trackback | Comments(1)


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