安敦誌


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CDMA(符号拡散多重接続)

技術的な説明は後半にあります。まずは随筆から。

--

LTEも当初は3.9Gとか言っていたのが、2010年あたりから公式に4Gを名乗るようになり、最近では変調方式の主流は3Gの中心だったCDMAからOFDMに移りつつあるが、CDMAを使ってみたら技術的に問題があったというよりは、Qualcommの特許がガチガチ過ぎて他社の技術者が嫌ったから、みたいな要素が強いらしい。GIFがLZWの特許を避けてPNGになったり、bzipが算術符号化の特許を避けてbzip2になったのと似たような事情なのだとすると、CDMAというのも特許失効以降はまた興隆してくる技術なのかもしれない。

著作権が死後50年とか70年とか言い出すのと比べると、特許の知財権が出願20年というのはいかにも儚い。値付けを誤って客に逃げられるのもどうかと思うが、パブリックドメイン技術で急場をしのいで特許権が切れるのを待つというのも、なんだか技術者が報われない話だな、とも思う。特許権も発明者の死後50年間にしろ、なんてことは言わないが、著作権との不均衡も度が過ぎるとちょっとなんだかな、とは思う。特許権にしても著作権にしても、知的財産権とは本来、時限独占権の国家保証とのバーターで長期的にはパブリックドメインの知財を豊かにするための文化政策でもあったのだけれど。

Qualcommという会社は、「情報理論の父」クロード・シャノン先生だとか、「サイバネティクスの父」ノーバート・ウィーナー先生がまだ現役の教授だった時代にMITで学んだ、アンドリュー・ヴィタビさんが起こした会社らしい。「畳み込み符号のビタビ復号化」というと符号論の教科書などでお馴染みだが、こちらも最近は低密度パリティ検査符号(LDPC)なんかに押され気味という印象がある。

符号拡散多重化を、誤解を受けるのを承知で、あえて日常語で言い換えると、「分かる人にはわかる形で情報をノイズに乗せて送信する方式」といえる。符号拡散というのは、意味のあるもともとの信号にノイズを乗せてわけわからん信号にして電波に乗せるのだが、受信側も送信側と同じノイズを発生させる仕組みを持っていて、そのノイズ発生器(擬似乱数系列)の番号を合わせておくと、自分宛の信号に乗ったノイズのみキャンセルすることができる。このとき、他の受信者向けの信号は相変わらずノイズ様の波形なので、十分なS/N比が確保できる程度の混信であれば通信が成立する。

CDMAは混信信号をノイズとして押し込める通信方式なので、目的信号の強度がある程度確保できることが前提となっている。LTEでCDMAが選に漏れたのも、収容局数の増大によって通信可能な範囲が縮小して見える"Cell Breathing"という現象があって、携帯電話用途に使うには基地局配置計画が難しいというのも一因ではあるらしい。OFDMであればセグメントごとの制御が容易なので、通信チャネル当たりで使用するセグメントの個数を制限すれば、通信速度は低下するが接続は維持しやすい。

--

さて、本題。Wikipediaの日本語ページにもCDMAの項目はあるが、定性的な説明しかなく原理はわからないので、英語ページの方を参照すると、簡単でわかりやすい原理説明がある。CCライセンスで参照可能な図があったので拝借してみる。
b0004933_15404398.png

この図にあるように、目的の情報を含むベースバンド信号より十分に高い周波数成分を持った擬似乱数信号を重畳して、信号をノイズ様波形に変換する。そして受信側でも同じ擬似乱数信号を発生できるようにしておいて、受信波形に擬似乱数系列をもう一度XORで重ねると、ノイズ成分がキャンセルされ、原信号が復元される。

ただし、CDMAのMA(多重接続)たる所以は、こうして作られた複数の信号波形が、互いに異なる擬似乱数系列を持ってさえいれば、それらが同じ周波数帯域に重なっていても通信可能というところにある。多重度が高まると、ノイズが増えたのと同じ状態になるけれども通信自体は可能となる。面白いので、このCDMAの原理で画像を符号化、復号化してみる。

まず、画像を用意する。高柳健次郎さんに敬意を捧げ、最初の信号はイロハのイとしてみる。2値画像なので、1ドットずつ時系列に並べるとベースバンド信号みたいなものになる(ツールの都合で文字がアンチエイリアスされて若干グラデーションになっているけど…)。画像の解像度よりは空間周波数が十分低くなるように、300x300ピクセルのフィールドに大きく1文字だけ書いてある。
b0004933_15492017.png

次に、擬似乱数系列から生成したノイズ様データ(拡散符号)を用意する。1ピクセルずつランダムな白黒に塗り分けてある。
b0004933_15523833.png

そして、XORを取って変調符号を得る。
b0004933_1553232.png

裸眼で立体視ができる人なら、適当な距離に上の2枚のノイズ様画像を並べて重ねてみると、昔流行したステレオグラムみたいに「イ」の字が浮かび上がってくるのを確認できるだろう。

この段階では単純なXOR信号なので、拡散符号をもう一回XORしてやると、完全に元通りの信号が復元できる。それでは意味が無いので、もう一つ変調信号を作ってみる。
まず、原画像。今度はひらがなで「あ」にしてみる。
b0004933_15552220.png

フォントは「たぬき油性マジック」です。素晴らしいフリーフォントの提供に感謝します。

次に、さっきとは違う値で初期化した乱数系列で作成した拡散符号。
b0004933_15573754.png

そしてXOR合成して変調信号を作成する。
b0004933_1558035.png


今度は、「イ」の変調信号と「あ」の変調信号を単純に加算して合成信号を作成する。画像としては3階調のノイズ様画像となる。
b0004933_1621694.png

これが、2チャネル重畳した出力信号ということになる。このようにディジタルの状態で混合することもあるだろうが、実際に電波として送信する場合にはもう少しアナログ側のプロセスで混合波を生成する場合もあるだろう。送信局が別の場合には、単に複数の送信局から同一周波数帯に送信することで空中で合成されることになる。

続いて、復号化処理。さっきの合成信号に、最初の「イ」画像の符号化に使った拡散信号を重ねてみる。もはや2値データではないので、XOR演算ではなく「差の絶対値」を計算させてみる(元から2値画像ではなかったので、実は最初からこれを使っていた)。すると、こういう信号(画像)が復元される。
b0004933_1662514.png

このように、明らかに原信号は復元できているのだけれど、「あ」の変調信号がノイズとして乗っている。これは、ベースバンド信号と拡散符号との周波数の差を利用して、低域通過フィルタ(LPF)で除去することができる。画像処理として「ぼかし」を入れるのはLPFと同じことを意味するので、画像にぼかしを入れてみる(本当は1次元的な信号にLPFを掛けるので、画像の2次元的フィルタとは処理が異なるが、フィルタ処理を書くのが面倒だったのでペイントソフトのぼかし機能を利用した)。
b0004933_1616372.png

最後にコンパレータを通して2値化し、原信号を復元する。
b0004933_16173139.png

ちょっとエッジが揺れているが、だいたい元通りの図形になった。この図形だと、空間周波数はともかく解像度は拡散符号と同じ図形を使ってしまったので信号にブレが残っているが、位相の同期まで考えて復号化すれば、この程度の混信なら完全に原信号が復元できるだろう。通信に伴う空間ノイズなんかは全く考慮していないので、当たり前だが。

次に、同じように「あ」の信号も復元してみる。
拡散符号の除去でとりあえずこういう信号が取り出せる。
b0004933_16211324.png

これもLPFを通してノイズを抑制し、
b0004933_1831822.png

コンパレータを通して2値化すると、原信号が復元できる。
b0004933_16223220.png


最後に、同じ周波数帯域に収容する信号が増えるとどうなるかを試してみる。同じように「永」の字を符号化してみる。
まず、原信号。
b0004933_16234940.png

今度は明朝体ボールドで。

次に、先ほどの2種類どちらとも異なる擬似乱数系列で作成した拡散符号。
b0004933_16254855.png

XOR合成した変調信号はこう。
b0004933_16315017.png

そして今度は、「イ」「あ」「永」の変調信号を全て加算して、3チャネル同時使用の信号を作成する。今度は4階調データになっている。
b0004933_16333478.png


ここから、再び「あ」の信号を抽出してみる。
b0004933_16365019.png

やはり信号は取り出せているが、2チャネル収容の場合に比べると、全体的にノイズが強くなり、S/N比が落ちているのがわかる。

これにLPFを掛けて、
b0004933_16414434.png

2値化して復号化完了。
b0004933_16421550.png


ここではチャネル多重による擬似ノイズしか考慮していないので復号品質にそれほどの差は出ていないけれども、ここに通信で生じる外来雑音などが混入してくると、やはりS/N比の低下が効いてきて、エラー密度が上がってくるのだろう。

3信号重畳信号画像からは「イ」も「永」も復号可能だけれど、同じことの繰り返しになるので、気になる人は画像をダウンロードして自分でやってみてください。

(以上の画像処理にはPixia Ver.5を使用しました。使いやすいツールを継続的に提供していただきありがとうございます。)

--

以上でCDMAの技術的な話は終わり。で、ものの考え方としてこの符号拡散というのが面白いという話を少し。ランダムに見える文字がびっしり並んだ手紙があって、それを受け取る人はあらかじめ多数の穴が開けられたマスキングシートをもらっている。手紙にマスキングシートを重ね、穴から見えた文字をつなげていくと、その人向けのメッセージが読める。別の人は別の位置に穴のあいたマスキングシートを持っていて、それを使うと同じ手紙からその人向けのメッセージを読み取ることができる。CDMAというのは雑に言うとそういう原理になっている。

そこまで完全なランダムノイズとは見えなくても、今ひとつ何を語っているのかわかりにくい詩のような文章があって、作者の心にある何かと共通したものを持った読者だけが、そのわかりにくい詩文の中に隠された明確なメッセージを読み取る、なんていう文化は昔からあったような気がする。そして、複雑な心理を持った作者の綴る文章では、複数の読者がそれぞれの心理に応じてに独立のメッセージを読み取れる、なんていう「多重接続」もありえたかもしれない。

仕事を持って初めてわかる、子供を持って初めてわかる、家族や恋人や住まいや仕事を失って初めてわかる、なんていうコードを隠し持った文章も、世の中には多いのだろう。ノストラダムスの詩を予言書として読むのは誤検出の部類だと思うが、あからさまに言えない心情をあえて不明瞭な言葉で綴ったような詩を単に馬鹿にする人というのは、やはり拡散コードのような「言い得ぬもの」を内に持っていないと見たほうがいいのだろう。

「この作者は、実はこういうことを言っているんですよ」としたり顔で解説する人の声が大きいと、自分に向けて送られた別チャネルのメッセージがS/N限界に沈んでしまって気づかなかったりとか、あるある、それあるよね、という感じでもある。

CDMAも、初期には軍用の通信秘匿技術だった。スペクトルがブロードで、パワーピークが目立たないので、共産圏の通信傍受技術者はそこで通信が行われていることすら当初は気づかなかったらしい。現代的な意味での暗号強度は強くなかったのだろうけれども、わからない人にはわからないが、わかる人にはわかる公開通信、というのも面白いものだと思う。
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by antonin | 2013-09-29 18:10 | Trackback | Comments(0)

鶏頭となるも牛糞となる事勿れ

3歩歩くと、それまで覚えていたことを忘れてしまうのを鶏頭(ケイトウ、じゃなくて、とりあたま)と言うけれど、最近どうも、この症状が強い。

もともと、子供の頃から注意欠陥障害的な性質があった。けれども多動性はなくて、どちらかと言うと過集中の傾向だった。普通の人はある事象に集中していても、回りから声を掛けられればそれに気付くし、ちょっと物思いを巡らせても、すぐに目の前にある作業なり会話なりに戻れる。けれども過集中の場合、文章を読むにしても物思いを巡らすにしても、そちらに全神経が集中してしまって、その他の環境刺激に対する感度が非常に鈍くなる。ムスコ1号にもこの性質が遺伝しているらしく、テレビに見入っている時に声を掛けてもなかなか反応しない。

普通の人の「集中」の仕方が拡散照明みたいなもの、つまり中心がやや明るいけれども前方が全体的に明るく照らされているような照らし方だとすると、過集中の人の「集中」はスポットライトのようなもので、集中している点は非常に明るく照らされているけれども、その周囲は真っ暗、というような注意の払い方になってしまう。これはこれでひとつの課題を完璧に済ませるには良い特性ではあるのだけれど、普通の環境ではむしろ「周囲が真っ暗」の弊害のほうが強く出てしまう。

そういうスポットライト的な注意の払い方をする脳を持っているので、スポットライトの向きを変えてしまうと、それまで注意していた作業がすっかり頭から消えてしまう。で、新しくスポットライトを当てていた作業が一段落すると、仕掛りの仕事がぜんぜん進んでいないまま放置されていたことに気づいて慌てることになる。場合によると、仕掛りの仕事を思い出させるような物(reminder)が目の前に存在しない場合、そのまま仕掛りの仕事の存在を忘れてしまうようなこともある。

そういう傾向は子供の頃からあったのだけれど、最近になって、本当にいろいろのことを忘れるようになって、ほとんど短期記憶障害と呼べるんじゃないかというレベルになってきた。軽く痴呆になってしまったような感じもして、まずい。

20代の半ばから抗鬱剤みたいなものを飲み続けているけれども、大うつエピソードみたいなものは最初の3ヶ月ほどで終わり、あとはだらだらと新型うつ病を続けてきた。この新型うつ病と呼ばれる症状は、個人的な考えだと、昔で言う神経症の人にSSRIみたいなセロトニン強化型の新薬を適用することで、それまで社会的な圧力に合わせて本来のFree Child的な性格要因を抑圧してAdaptive Child的な性格を前面に出して生きてきた人が、セロトニンの効果によって抑圧が解け、Free Child全開の人格になってしまったものなんじゃないかと考えている。

これはアメリカなどの社会文化では恐らくあまり問題にならなくて、「精神が自由になって良かったね」というように肯定的に見られるのだろうけれども、日本の社会文化では「病人らしくない、遠慮がない、しおらしさがない」というように批判的に見られ、新型うつ病などと名付けられ、治療の結果が結局は新たな社会復帰の障害となっているように見える。

日本社会ではFree Child的であることは余程の才覚がある人以外にとっては悪い特徴とされ、Adaptive Child的であることは「真面目」と捉えられる傾向がある。最近良く目にする「『いい人』をやめよう」というのは、このAdaptive Childを解放しようという話なのだけれど、日本社会は解放されたFree Childをすんなり受け入れてくれるNurturing Parent的な社会ではなくなっていて、全体的にCritical Parent優勢であったりするので、そんなに簡単な話ではない。みんなAdultになればそれがいいのだが、そんなバルカン星人みたいな人間はそもそも少ない。

それは別として、比較的短い期間にしても大うつエピソードや拒食に近い生活エピソードを若いうちにやってしまうと、どうも海馬が萎縮してしまうらしい。海馬は大脳の中でも珍しく可塑性の高い組織なので、萎縮の具合が軽度であれば回復もあるらしいのだけれど、重度であると回復にも限界があるらしい。もともと加齢によって海馬の機能というのは徐々に落ちてくるのだけれど、若い頃に海馬の萎縮をやってしまうと、機能低下が早いうちから現れてくるものらしい。ひょっとすると最近の鶏頭現象も、若いころの大うつエピソードが影響していたりするんだろうかと、最近思い始めた。

もしそうだとすると、このまま進めば80歳前後で痴呆の症状が出始めることになるから、健康に気遣うよりは、程々に不摂生をして70代のうちに身体的な要因で天に召されるように仕組んでおいたほうが良さそう、という具合になる。まあ、客観的な根拠はないのだけれども。

海馬を長持ちさせる対策は散歩と会話らしいのだけれども、日常なかなかそういう時間を取るのも難しい。なにかうまい手はないだろうか。
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by antonin | 2013-09-29 12:25 | Trackback | Comments(0)

UIが規定しているのはファンクションではなくプロトコルである

私ははてなのツール類はあんまり使わないので対岸の火事なんだけど、こういう議論があったらしい。

はてなブックマークのリニューアルデザインにはみんな慣れただろ

はてなだと対岸の火事なんだけど、Microsoft OfficeのリボンUIはそろそろ此岸に延焼しそうなので、そういう面からちょっとした話を。

UIってのは、他のテクノロジーとはちょっと役割が違う。UIってのは、人間の理知的な部分だけが対応しているんじゃなくて、人間の動物的な部分も重要な役割を演じている。大脳だけでなく、小脳が学習する運動制御や、ある種の高等な反射が重要な機能を果たしている。UIというのはアプリケーションからユーザーである人間に対するプロトコルを提供している。そのプロトコルの基本的な部分は、小脳そのものや、大脳の中でも小脳と直結している辺りが運動記憶として受容していく。そうすると、キータイプをミスった瞬間に指がCtrl-Zを打ってくれるというように、大脳にほとんど負担を掛けずに、効率のよいマンマシン間の情報伝達が生じてくるようになる。

このUIというプロトコルが普及していないうちは、互いに互換性のないプロトコルが利便性を競う状況というのは悪くない。しかし、特定のプロトコルが十分に普及し、ユーザーの脳にプロトコルに対応した運動学習が組み込まれ、何かのアクションを起こそうとしたユーザーが無意識のうちにUIにアクセスできるような段階になると、話は違ってくる。ちょっとしたUIの改変がユーザーの意図しないプロトコルエラーの乱発につながり、高いストレスと高い労働コストの浪費という結果に至る。

それが少数の「人柱」に対するロスであればまだいいのだけれど、MS Officeなどのように億単位のユーザーに普及してしまったツールのUIプロトコル変更ともなると、その変更にオタオタするユーザー(ソフトウェア以外の分野で何かしらのプロフェッショナルである人々)のタイムロスの累積が引き起こす経済損失は、場合によっては数千億ドルという単位にのぼる可能性もある。

ユーザーインターフェイスがより良い方向を目指すのはもちろん良いことなんだけれど、その移行というのはとてもデリケートな作業だということを、市場のデカいソフトを扱っている人たちはぜひ覚えておいてほしい。新しい機能は提供しつつも、しばらくは従来のインターフェイスは使えるようにしておくのが基本だろう。初期のExcelは設定画面にLotus 1-2-3互換機能の設定項目を持っていたし、それは結構最近のバージョンまで残っていたように思う。Obsoleteと言いながらも、それでもしばらくは古いプロトコルもサポートしていく義務というのは、これほど普及したソフトならば、やっぱりあるんじゃないだろうか。

Python 3が出たからPython 2は使用禁止、とはならなかった。Pythonも3.3ぐらいからすっかり実用的になってきたけれども、それまでは2.xのシェアが圧倒的だったし、2.7では3.xへのマイグレーションを促すための工夫が数多く施されている。マイクロソフトの若い(に違いない)インターフェイスデザイナは、そういう作業の価値を理解できなかったのだろう。

OfficeのリボンUIは使いやすくて優れているとは思うのだが、まだこれをインストールしたマシンというのは少なくて、個人的に普段は古いインターフェイスを使っている。ところが稀に、借り物のマシンでいきなりリボンUIに出会うことがある。こういう場合、本当に何をどうしたらいいのかわからなくて、旧UIだったら0.5秒で済むような操作に30秒くらい要したりする。これは本当に馬鹿らしい時間だ。もちろん、新Officeにも新UIをナビゲートするような機能も付いてはいるのだけれど、そこで学習している余裕がある時と、1秒とは言わないけれども本当に比喩でなく1分を争う時があって、そういう時にリボンUIに出くわすと本当に参る。

戦闘機の操縦桿が、センターハンドルからサイドスティックに変更されたのはF16 ファイティング・ファルコンあたりからだったと思うが、おそらく運用として、F15までの機種で実績を積んできたパイロットに対して「今日からスティックで操縦してもらうから」とか、そういうことは言わなかったはずだ。中堅以上のパイロットは退役までF15のように従来型の操縦桿を持つ機種に乗り、経験の浅いパイロットと、彼らを指導する教官くらいがF16の新しいスティック操縦を覚えたんじゃないだろうか。

マイクロソフトは歴戦の勇士に対してもF16を薦めているように見えて、それはやっぱり馬鹿なんじゃないかと思う。体が覚えた操作感覚というのは、ユーザーにとって大切な資産であり、商売道具なんだ。そのあたり、わかっているんだろうか。Officeツールとは、個人的な遊びで使っているスマホのアプリとは違って、経済戦争用の武装なんだ。新しく改善されたツールを導入するのは歓迎だが、それはUIに干渉しない範囲で行われるか、あるいはどうしてもUIに干渉してしまうなら、それは新しく訓練された兵士とセットで導入されるべきだ。

遊びで使うなら、まあ新しいほうが何かと楽しくていいとは思うけれども。電子ピアノが、なぜ今もわざわざアコースティックピアノ互換の大きな鍵盤を並べているのか、よく考えてみるといいだろう。
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by antonin | 2013-09-29 01:19 | Trackback | Comments(0)

月と塔と箱

久しぶりに写真でも。

b0004933_02844.jpg


中秋の名月ということで。

あと、スカイツリーとか。

b0004933_024541.jpg

Finepix F800EXR にて撮影。Rawで撮って、適当に現像した。
月の方は、f5.3, 1/640s, ISO100 で、スカイツリーの方は f6.1, 2s, ISO100。
この程度の写真の撮影情報に意味があるのかどうかはわからないけれども。

月の写真なんかは、昔はコンパクトデジカメで撮影するとただの光る円盤になってしまってどうしようもなかった。ある程度距離があって明さもある、スーパーの看板なんかでシャッターボタン半押しにして焦点と露出を固め、それでレンズを月に向けてエイヤっと撮影すると、ようやくなんとか月面の模様が映る、とかそういう具合だった。

最近は安いコンパクトカメラでも絞りとシャッター時間をマニュアル設定可能なモードがあったりして、明るい満月を撮影するのもそれほど面倒ではなくなった。このF800EXRは、後継のF900EXRが出てから型落ちで購入したので、¥15,000もしなかった。ポケットにスッキリ入る薄さでありながら、テレ端は20倍、35mm換算で480mm相当という光学ズームも付いて本当に面白いのだけれど、これだけ至れり尽くせりになると、今度は逆に一眼レフに大口径望遠レンズを付けて撮影した画像などと比べて、「解像力がないなぁ」なんてことを考え始める。人間というのは欲深いものだ。

そんな名月の晩、ムスコ2号が5歳になった。早いなぁ、という定番の感想も思うのだけれど、同時に、まだ5歳なのか、という感想も同時にあった。ムスメも体は大きくなったがまだ小学生だ。先が長すぎてめまいがする。

20年後、カメラは今より進歩しているのか、あるいは現在のオーディオ製品のように、進化の方向がひたすら便利さの方へ傾いて、安くて高性能なカメラというのはもはや、開発エンジニアの食い扶持を支えるだけの利益を生み出すことができないロストテクノロジーと成り果てているのか。どうだろう。

そういえば、簡易スピーカーを買った。

ONKYO WAVIO アンプ内蔵スピーカー 15W+15W ブラック GX-D90(B)

オンキヨー



どうせPCとかポータブルオーディオとかを接続して、ヘッドフォンなしでも音声を聞けるようにするためのデバイスなんだから、鳴ればいい、というのはある。そうなんだけれど、最近、いい音で鳴るスピーカーというのが我が家からなくなってしまった。MDオーディオは壊れてしまったし、もっと古いPanasonicのダブルデッキラジカセはまだ動いているが、ヘッドフォン端子の接続が悪くて片チャンネルが消えがちだし、スピーカーもリムのスポンジ材が破れていて、大きな音を出すとビリビリと鳴る。

最近は耳が悪くなってストリングスの艶なんかも段々と聴き取れなくなってきているけれど、そろそろ思春期に突入するムスメとか、その下の弟達なんかにも、いい音を聴いてみるきっかけのようなものがあってもいいんじゃないかと思った。あんまり高価なものは買えないけれども、安物ほど、ちょっと味を付けると格段に性能が上がったりする。というわけで、Amazonで安売りされていたパワード・スピーカーを購入してみた。光ディジタル入力などはおそらく使わないと思うが、ツイータがあるだけで音のきらめき方というのは格段に変わるので、このくらいの装置がいいのだろうと思った。

鳴らしてみると、ピュアオーディオの感動的なサウンドには程遠いけれども、それでもPCペリフェラルとしてのスピーカーなんかとは別水準の音がちゃんと鳴る。高音を少し強めにしてやると、圧縮音源でもそれなりに残響も含めて音を聞き分けられるようになる。ポップスやロックを聴かないので低音の具合はなんとも言えないが、オルガンの通奏低音などは変な共鳴などせずにしっかりと響く。いい買い物だったと思う。
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by antonin | 2013-09-20 00:54 | Trackback | Comments(0)

アメリカ組曲ほか

音楽の話を書いたが、昔話が混ざったりして話が煩雑になってしまったので、今日久しぶりにCDから取り込んで聴いた曲だけ記録することに。

Amazon.co.jp: American Suite, B.190, Op.98b: II. Allegro: Royal Liverpool Philharmonic Orchestra: 音楽ダウンロード

YouTubuなんかで探しても出てくるが、リンクしたために削除されたりすると悲しいので、ここには出さないことにする。

音楽を聴くから気分が落ち着くのか、気分が落ち着いてきたからじっくりと音楽が聴けるのか、どちらでも妥当なような気がしてわからない。まあどちらでもいいか。

--

Brainfuckなんかもコツコツ進めている。非常に早い処理系を見つけたのだが、そこで使っているC++用のJITライブラリなんかも見ていて面白い。RPythonでBrainfuckというのもあった。

hogelog/fast-bf · GitHub

XBYAK

PyPy を使ってインタプリタを書く

BF用バックエンド・ライブラリの実装はちょっと後回しにして、有名なmandelbrot.bの生成用マクロコードを解読していたりしている。複素数演算はバイトを1ビット扱いしてキャリー計算することで実装しているらしい。面白い。

なんというか、平和です。
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by antonin | 2013-09-06 02:24 | Trackback | Comments(0)

音楽

考えない練習もぼちぼちと進んでいて、というよりは処方が安定している方が影響は強いと思うのだけれど、ともかく、余計なことを考えすぎる頻度は下がっている。本は、読んでいるけれどもペースは遅い。ただ、それだといくらか退屈する。孤独も死もさほど嫌ではないが、退屈は嫌だ。耐えられない。というわけで、ネットで検索とかは日常的に繰り返している。

そうしたら、変なところで自分の書いたページがヒットしたりする。そりゃまあ確かに、自分の興味関心と一番マッチするのは自分の書いたものだよなぁ、と、そんなことを思った。最近はWeb上のターゲット広告が阿呆なのでちょっとゲンナリすることも多いが、そうは言ってもそういう広告のお陰でネットは事実上の無料アクセスを実現しているのだと思うと、文句ばかりも言えない。

さて、そういうわけで、「音楽」タグなんかをひっくり返して、非公開記事に貼ってあるYouTubeの動画などを再生している。動画と言っても、画面は真っ黒で音楽が流れてくるだけなのだけれど。まだどこかのレコード会社が版権を持っているような録音なので、一人でこっそり聴いている。しかしまあ、CDでも持ってたよな、これ、ということで、CDケースから久しぶりにCDを引っ張り出してきてiTunesに食わせてみた。

本当は、40分くらいかけてゆっくりと交響曲なんかを聴く余裕が生活のどこかにあるといいのだろうけれど、なかなかそういう具合にいかない。公私共にいろいろな付き合いがあるし、最近は外出先でもネットに繋がったりして、刺激が多い。19世紀の音楽に耳を傾けるような余裕が取れる瞬間というのは、そんなに多くは巡ってこない。

でも、やっぱり、若い頃に聴いた音楽をゆっくり聞いてみるってのは落ち着くな。学生時代に一人音楽を聞きながら読書していた頃の気分を思い出す。

「考える生き方」にも書いてあったが、私が最初に通った大学にもキャレルを備えた図書館があり、いつもそこに入り浸っていた。元々都心に校舎があったのだが、バブルの影響で郊外に移転させられた。その時に建てられた真新しい図書館で、バブル期特有のコンクリート打ちっぱなしの外壁に、コンクリートに直接彫り込まれた文字で "VERITAS VOS LIBERABIT" と書かれていた。当時はなんのことやらわからなかったが、後になって調べてみると、ラテン語で「真理が諸君を自由にする」というような意味らしい。

クローズドタイプのヘッドフォンで音量を控えめにして音楽を聴いていても、それが5時間にもなるとやはり耳が痛くなってくる。日が傾く頃になってヘッドフォンを外すと、外からヒグラシの声が聞こえてくる。だいたいそんな夏の過ごし方をしていた。バイトなどもしていたが、熱心というには程遠く、1年次のバイト代はPCの購入で全て消え、2年次のバイト代は運転免許の取得で全て消えた。

PCを買おうとしてバイトしていた1年次に、当時はまだ都心にあった校舎に併設の図書館からC言語の教科書を借りてきて、ノートにコーディングしてプログラミングの練習をしていた。当時はコンパイラも安くなかったし、いろいろと苦労はあったが、それでも若さというのか、とにかく楽しかった。まだ技法というほどのものは身に付いていなかったが、構造化プログラミングくらいなら実験データ処理用のポケットコンピューターのBASICプログラムでも実践できたので、Newton-Raphson法とかRunge-Kutta法とかの数値解法プログラムを組むのにもいくらか役に立った。ゲームも少しだけ作ったが、機械語は当時はまだ知らなかった。

んー、昔話がしたかったわけではないのだけれど。音楽は、脳の中でもより身体的な部分に効いてくるので、もっと積極的に聴いたほうがいいんだろうな、なんてことを、久しぶりに思った。ちなみに今聞いているのはこれ。

Amazon.co.jp: American Suite, B.190, Op.98b: II. Allegro: Royal Liverpool Philharmonic Orchestra: 音楽ダウンロード

USに比べると倍ぐらいするんだなぁ。

American Suite, B.190, Op.98b: II. Allegro

うちのは過去のCDを寄せ集めた交響曲全集的な6枚組のやつですが、録音は同じはずです。

ドヴォルザークは大器晩成型で、名曲は50代に集中しているんだけれど、彼の晩年はもう20世紀に頭を突っ込んでいて、国民楽派とか後期ロマン派というのは時代的にもう飽きられていた。なので、新世界とかチェロ協奏曲みたいな大作を別とすると、案外いい曲が知られないままに眠っていたりする。一部の曲はクライスラーが小編成に編曲してくれたおかげで有名になり、現代でも演奏される機会が多いけれども、それ以外の無名の曲でも有名な曲とそれほど質的に変わるものではなく、ドヴォルザーク好きにはたまらない名作が多い。

そういうのを探してみると楽しいのだけれど、時代はいよいよビート系ポップス全盛で、クラシックは電子メディアにもあまり真剣に相手にされなくなりつつある。ビート系って、子音の多いゲルマン系の言語には実によく合う音楽なのだけれど、ラテン語とかギリシア語とか日本語とか、母音の多い海洋系の言語にはちょっと合わない。日本で音楽が売れなくなっている一因に、楽曲のゲルマン化が進みすぎているというのもあるんじゃないだろうか。「んあ~~」とか「ぅお~~」とか鼻歌歌える曲って減っている気がする。クラシックもメロディアスな系統は基本がイタリア音楽なので、日本人にも歌いやすいものが多い。
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by antonin | 2013-09-06 02:09 | Trackback | Comments(0)


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