安敦誌


つまらない話など
by antonin
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
検索
最新の記事
婦人画報創刊号
at 2017-07-07 01:36
アキレスと亀
at 2017-05-02 15:44
受想行識亦復如是
at 2017-05-02 03:26
仲介したことはあまりないが
at 2017-04-29 03:36
サンセット・セレナード
at 2017-04-12 23:17
水分子と日本人は似ている
at 2016-06-04 01:49
ほげ
at 2015-06-05 03:46
フリーランチハンター
at 2015-04-17 01:48
アメリカのプロテスタント的な部分
at 2015-04-08 02:23
卯月惚け
at 2015-04-01 02:22
記事ランキング
タグ
(296)
(147)
(122)
(95)
(76)
(65)
(59)
(54)
(45)
(41)
(40)
(39)
(33)
(31)
(28)
(27)
(25)
(24)
(22)
(15)
最新のコメント
>>通りすがり ソ..
by Appleは超絶ブラック企業 at 01:30
>デスクトップ級スマート..
by 通りすがり at 03:27
7年前に書いた駄文が、今..
by antonin at 02:20
助かりました。古典文学の..
by サボり気味の学生さん at 19:45
Appleから金でも貰っ..
by デスクトップ級スマートフォン at 22:10
以前の記事

<   2013年 11月 ( 6 )   > この月の画像一覧

先天と後天

かつて先天性障害と思われていた病気が、その後の調査で妊娠中の感染症によるものだとわかった、なんてものが結構あるらしい。そして、それがわかったからといって、特に名称の変更もないらしい。「先天性」というと遺伝子起因のものだけだと考えていたので、出産前の異常は全て「先天性」だと知った時は少し驚いた。まあ、古典的にはそうだよな、というのはわかる。医師に手出しのできない期間の原因は全部先天性とするしかなかっただろう。

受精から出産までの環境要因が「先天異常」になるのだとすれば、精神については、自分で自分をコントロールできる年齢までに受けた環境要因というのは、「先天性」ということになるんじゃないか。生老病死の四苦で、「生」の苦というのは、こういう本人の意志ができあがるまでの環境を指すんだろうと、最近は考えている。産院の取り違え訴訟のニュースなどを見ても、生苦の困難さというのが伝わってくる。

精神にも、脳の器質的な遺伝性の影響というのが少なくないのだろうけれども、学習性の臓器である脳のことだから、発育期の教育環境の影響というものも大きいのだろう。だらしない、弱い自分を振り返っていると、「いろいろと文句を言っているが、問題なのは環境ではなくお前の精神の方ではないか」というような、戒めの言葉が世にあふれている。で、普通の人はそういうのを読んで奮い立ち、変わっていくのだろう。

が、もう本当にダメな人間は、それで落ち込むことはあっても、一念発起して生まれ変わることができず、一生グダグダしていく。もちろん、成人してからでも本人のダメさを超越するようなスーパーメンターに出会えたりしたら、あるいは変われるのかもしれない。毎日励ましてくれたり悪いところを指摘してくれるかもしれない。しかし、本で読んだ言葉に感銘を受けたくらいでは、なかなか変わらない。変わるとしても、とてもゆっくりと、ほんの少しずつしか変わっていかない。

そういう、自分の悪い点に気づき、しかし改善しない自分の精神と付き合いながら生きるのは辛かった。つい言い訳や弱音を吐くのだが、それが強い精神を持った人たちをより一層イラつかせ、より一層辛辣な言葉をいただくことになる。辛かった。

最近になって、自分の悪い部分のうち、知識や装備ではなく、気力や注意力に関する部分は、遺伝的、あるいは幼児期の環境による、「先天性」の問題だと意識するようになった。これで、いくらか楽になることができた。私は原因と責任は切り離して考えるので、原因である遺伝子の組み合わせや、育ててくれた親を恨むこともないし、すっかり大人になった今になって、老いた親に何かの補償を求めるようなこともない。原因の一部は親にあるが、今存在する私自身を多少でも変えられるのは、ダメなりに私自身しかなく、責任は自分自身にある。

親にしても、当時の社会状況や家庭状況などの中で精一杯頑張って育ててくれたわけで、感謝することはあっても恨むことなどない。遺伝的にも気むずかしい気質の第一子を、親類も近所にいないマンションの一室で育てるのは大変だっただろう。それでも、雑誌や書籍や吉岡たすくさんの番組などを見ながら、母は一生懸命育ててくれた。それでも失敗だったのは気の毒だが、遺伝的気質からして、難しすぎるタマだったのだろう。

うちのコドモたちも厄介者揃いだ。まだ大教団に発展する以前のお釈迦さんも、生まれるから病気になる、生まれるから老いる、病気になったり老いたりするから死ぬ、とそういう因果を説いたのだけれど、人が生まれるそもそもの原因が愛着であると説いた。後の仏教による解説ではかなり哲学的なのだけれど、十二因縁説をストレートに読むと、なんとなく、恋をして所帯を持って子供を生むからまた苦が生まれるのだ、というようなニヒリズムを含み持っていたような印象もある。初期の教団は男所帯でもあった。死の間際にはもう少し鷹揚になったようだけれども。

でも、悩みは多いが、コドモたちが生まれてきてくれて良かったとは思う。まともに教育できない親に育てられて申し訳ないとは思うが。昔は、ある程度の年齢になると、実の親はダメでも、人格の優れた人が多くの丁稚を使った商売をしていて、そういうところに奉公に出すと、子供が人格的にも大きく成長して帰ってくるなんていう制度があった。渡る世間に鬼はなし、親は無くとも子は育つ。そういう時代があったのだなあ、と羨ましくも思うが、それはそれで気苦労も多かったのかもしれない。

東京大空襲の間接的な影響などもあって、私は常に子供を心配する視線の中で育った。生活にはいつも母の心配が寄り添っていた。祖母はもっと輪をかけて心配症だった。戦後、日本各地の親類を頼って、転々とした。母にきょうだいはなかった。祖父母は母を溺愛した。そういう人が、初めて子育てをする。アメリカなんかから入ってきた、今ではかなり否定されているような育児理論がどんどんと入ってくる。そういう中で精一杯育ててくれた。そして、ダメな男に育った。申し訳ない話だ。

テレビでの科学番組などは毎回見せてもらったし、科学技術館の1階で開かれるバーゲンのついでに連れて行ってもらい、一人で科学技術館を見学して回った。プラスチック製鉛筆立ての成形デモンストレーションなども印象深かった。顕微鏡も、天体望遠鏡も、無線機も、おもちゃのコンピューターも、年に1回だけ買ってもらえた。図鑑も、学研の科学も、買ってくれた。あれはありがたかった。

誰も恨む必要がない。自分自身に責任があるが、原因であれば半分くらいは自分の外にある。そう思うと楽になった。まだ言い訳は多いが、少しずつ前進はしている。しかし最近またヨメの具合が悪く、一日中コドモたちに怒りをぶつけている。私もそれを見て不機嫌になってしまう。家事でも手伝って、子どもとサッカーでもすればいいとわかっているのだが、体がダルい。最近また眠剤を戻したので、睡眠は比較的取りやすくなった。最近また少しずつ勤行を再開しているが、ペースも集中力も悪い。が、なんとか継続していったほうがいいだろう。

運動が神経系に与えるような単純な刺激が、脳の作用には案外に効く。運動に関しては不愉快な記憶しかないのだが、唯一自転車で走るのだけは楽しかった。末っ子が自分の自転車に乗れるようになったら、子供イス付きのママチャリをまともな自転車に買い替えてみたい。そうすれば、浜離宮からディズニーランドくらいまでは休日の日常的な行動圏内に入ってくる。まあママチャリでもいいのだけれど、そこは気分で。
[PR]
by antonin | 2013-11-25 00:05 | Trackback | Comments(0)

続・諦めない心

また考えが変わった。

諦めない心 : 安敦誌

学校とは、真実を見抜く知恵を与える場だと思っていて、そこで「諦めない」という言葉が出るのは奇妙だな、「諦める」という言葉の意味はそうじゃないのにな、というような感想を書いた。が、本当に、本来の意味でも「諦める」よりは「諦めない」方が、普通の人としては良い人生が送れるのではないか。そういうことを思うようになった。

【全世界の女性必見!?】自己の美しさを認識できる感動の動画、 1週間で視聴回数1500万回以上を達成 – SNN(Social News Network)

以前、こういう動画を見て思ったのだけれど、「あなたが見たあなた」「他の人が見たあなた」というのがあって、どちらが実像に近いかといえば、圧倒的に「あなたが見たあなた」の方だった。この映像に出てくる「他の人」というのは、モデルプロダクションの採用担当でも、VIPをもてなす窓口業務の採用担当者でもなく、特に利害関係のない普通の人々だ。そういう人たちは、客観的で的確で残酷な評価を下すことはない。人間関係を和やかに保つために、悪いところは言わずに良いところばかりを伝えるように、無意識のうちに訓練されている。だから、どうしても真実よりは評価が甘くなる。

ところが、現代人は常に「役に立つかどうか」「売上の向上にどれだけ寄与できるか」という評価軸で評価され続けながら生きている。だから、嫌でも自分自身の客観的で正確な評価を思い知らされ続けながら生きている。そして、自分自身の理想像からは程遠い、現実的な自己評価に傷付きながら生きている。しかし、経済的な利害関係のない他者は、社交辞令的で甘い評価を下してくれる。そういう評価を聞いて、人はほっと胸をなでおろし、笑顔になれる。

経済的功利主義で人を評価するとき、その評価軸は競争原理によって厳しく磨かれ、多くの場合により正しい評価を下すようになる。そして、残酷なほど正しい評価に、人は傷つき、うなだれる。が、そういう評価を下すことを恐れれば、経済競争によって組織は出し抜かれ、衰退し、崩壊していく。組織人は、個人的な感情は抑圧して、クールに振る舞い、真実を告げなくてはならない。

一方で、経済的目標を共有しないような、単に近所に住んでいるだけだとか、趣味で同好の仲間だとかが集まると、相手に多少悪い評価を持っていても、それより楽しく過ごす方が重要になってくるので、いちいち真実を告げる動機がなくなる。そういう場にいると、人々は心安らかに過ごせるようになる。

より生産性の高い経済活動は人々の生活を向上させる原動力なので、これを高めていくことは良いことだが、ひとりひとりの生活者にとっては、過酷すぎる場でもある。だから、いったん仕事を離れれば、経済的な利害関係を抜きにして、誰かの欠点が組織の命取りになるような緊張から解き放たれる、居心地のいい場所を持っている方がいい。

昭和の男たちは会社とか軍隊とかに属して、命を懸けた厳しいやりとりをする場と、一杯飲んで憂さを晴らす場でメンバーを共有していた。それによって家族的な結束を固めて最強になる組織もあったが、公私の区別がつかなくなって腐敗する組織も少なくなかった。

今はいろいろと制度も変わって、企業がそういう家族的な結束を保証することは難しくなった。そういう環境で、個人が経済競争に基づく冷酷な評価判定を下されても生きていける力を持つためには、職場とは別に、「役に立つかどうか」という原理で人を評価しない、馬鹿話で盛り上がれる、間違いに目くじらを立てずに済む、そういう場にも籍を置くことが重要になるんじゃないかと思う。

人は、客観的で正確な評価を受け続けるだけでは耐えられない。ある程度、甘い嘘を摂取しないと死んでしまう。一方経済的主体というのは、そういう甘い嘘が混入すると腐敗して死んでしまう。だから、入社しただけで「同じ釜の飯を食う」ことが前提だった時代の「会社主義」国家が滅びつつある日本では、経済から一歩脇に逸れた場所にも身を置くことが重要になってくるのだろう。

「諦める」というのが身も蓋もない真実を知ることなのだとして、それが良いことなのかどうかというと、あまり良いことではないかも知れない、と、少しずつ思い始めている。大人になってもサンタクロースの存在を信じているのはどうかと思うが、「サンタクロースなんているわけないじゃないか」と子供に教えて悦に入る大人もどうかと思う。それと同じで、大人でもどこか夢見がちに過ごしたほうが、実は健全なんじゃないかと思う。

あまり嘘の効用に溺れるのもまずいが、嘘を排除しようと頑張り過ぎると、廃人になるような怖さもある。真実は必ずしも人を幸せにしない。それでも真実を追究しようとする学者は崇高だけれども、やはり一般人の社会生活と真実とは相容れない部分が残る。真実を知り、そしてそれを適切に無視できるようになるのが最善なのだろう。なかなかに難しいが、取り組まないといけない。
[PR]
by antonin | 2013-11-24 17:04 | Trackback | Comments(0)

つまらない話など

いいね、またChikirinが極論全開になってる。いいと思う。

「AともいえるがBともいえる」とか言う人の役立たなさ - Chikirinの日記

これは、論理的には先日ここで書いたこれに似た意見になっている。

断言 : 安敦誌

結論は逆方向に見えるけど。逆方向に「見える」というのは、総論としては賛成なんだけど、各論としては反対だから。つまり、断定的な極論を唱えて、ともかくも決断を下すのが正しいとしているのは、ちきりんも私も同じ。「断定か」「相対主義か」で比べれば、断定するほうが正しいと思っている。ただ、量的な判断を加味すると、a)結論を出さない相対主義者がゼロの場合と、b)社会の片隅に少数いる場合と、c)社会の中心にあふれている場合だと、c)は最悪という意見は共通しているが、一方でa)の状況よりはb)のほうが健全だと、私は思っている。ちきりんはきっとそこまで考えていない。彼女が何かを判断するためにはそこまで考える必要がなかったからだ。

こういう数量的な思考は、若いころにある種の訓練をした人にしかできないものらしく、そうでない人にはなかなか伝わらない。なので、話をわかりやすくするなら、ちきりんの言うようにお互いに極論を持ち合わせて議論する方がいいのだろうと思う。

今回の話は全体的に論理的思考による結論ではなく、「あたしはこういうヤツが嫌い」というだけの話だったので結論はどうでもいいのだけれど、途中にひとつだけ明確な間違いがあった。
最悪なのは、「Aの場合もあるが、Bの場合もある」とか言ってる本人が、「オレの意見は客観的だ」「自分は、『Aだ!』と言ってる人みたいに偏っていない」と思ってたりすること。コレ、本当にタチが悪い。

それ、客観的なのではなくて、単に、

「決断できない人間である」

「選べない人間である」

「自分の意見を持てない人間である」

ってだけのことです。

ここには、明確な間違いがある。「Aでもあるが、Bでもある」という人のほうが客観的だというのは、たいてい事実であり、正しい。問題はそこではなくて、「客観的ではなく決断できないだけ」なのではなく、「客観的になってしまったために決断できなくなっている」というのが正しい。つまり、「客観的であるほうが主観的であるより優れている」という先入観が正しくない。理解よりも決断を優先するなら、客観的に物事を見てはいけない。決断は常に主観から生まれる。偏ることを恥じてはいけない。

まあ、一度は客観的に物事を分析できる冷静さというのは有用だけれども、それでも最後は主観に帰ってこないといけない。決断が求められるとき、あんたはあんた自身の人生の客なんかじゃないんだ、主(あるじ)なんだ、「客」観的な分析は一度捨てておけ、というのが正しい。ただもう一度グダグダ文句を言うなら、それは判断を求められる地位にある人の話だ。客ではなく、主についての正しさだ。

だから、社会になんの影響も及ぼさないような、軽い、あるいは存在しないも同然の地位にあって、社会の客人として扱われていると感じ、むしろ主であることを捨てて生きようと決断した人があるなら、その人には存分に客観論を展開してもらって、主観的なしがらみに生きるしかない人に、得難い視点を与えるという役割があってもいいと思う。それにより軽蔑されることもあるだろうが、軽蔑を恐れる価値もないなら、それも問題ない。

ちきりんも、普段は「考えよう」とか人に言っているが、そこは人間なので、イデオロギー的な部分に触れると怒り出す。理屈やデータより感情が優先する。まあ、正しいと思う。それが人間だろう。ちきりんの譲れないイデオロギーというのは、若い頃にアメリカで仕入れてきたプラグマティズムだろう。それに抵触するような、多神教的で曖昧な意見を目にすると、彼女は烈火のごとく怒り出し、ロジックも何もなくなる。

私自身にも似たような傾向があって、普段は多角的な視野みたいなものを求めているものの、いざ自分の魂に触れるような話題になると、ロジックをなぎ倒して感情的な論を展開してしまう。こういうのがそれだ。

OpenOffice.orz : 安敦誌

UIが規定しているのはファンクションではなくプロトコルである : 安敦誌

私はコンピューターが大好きで大好きで、でも夢破れて化学系の製造業に進んだ。ところが就職後の世の中は徐々にIT化が進み、化学系の仕事場にも、あの憧れに憧れたPCが徐々に入ってくるようになった。PCを触りながら、しかしプログラミングではなく製造業者としての仕事をしなくてはならないという自制は本当に苦しかった。そういう苦しい生活の中で、数少ない喜びはExcelでデータプロセッシングをしている時間だった。

もちろん、会社から給料を貰っているので、体面上は仕事のためにExcelを使っている振りをしなくてはならなかったが、本心では、Excelを触るための口実として仕事をしているようなところがあった。かなり強烈に依存関係を持った数式を羅列しても、奴は当時の貧弱なマシンの上でも実用的な時間で計算結果を返してくれたし、自動記録でマクロ操作を保存すれば、なんとその全てがVBA (Visual Basic for Application) のコードとして吐き出された。しかもそこにVisual Basic的ハンドコーディングを追加すると、その通りに動いてくれた。楽しくてたまらなかった。

Wordの場合、マクロ動作は記憶しても、必ずしもすべての動作要素がVBAのコードに落ちるわけではなかった。通常操作でも日本語版はバグだらけで、また英語用の機能の残骸が、人間が日本語テキストを入力している最中に不可解な細工を加えてきた。あれは大嫌いだった。

そんな話はどうでもいいが、とにかく私はExcelの事となると冷静になれない。で、Excelがらみで気に喰わないことがあると、上にリンクを置いたような感情的で饒舌な意見を書いてしまう。困ったものだと思うが、まあ、これが主観的な意見というやつだろう。

考えに考えた果てに、人間らしく主観的であることを捨て客観に逃げることに決めた人について、それを嫌うのは仕方がない。が、煩雑な決断を避けて客観に逃げるのも、それはそれでひとつの決断であると認めてやってはくれないか。と、まあ、そういうことを思うのだけれども、たぶん認めてもらえないだろう。それは、イデオロギーの問題なのだから。

生きていることに客観的な意味はない : 安敦誌
[PR]
by antonin | 2013-11-23 23:55 | Trackback | Comments(0)

気の遠くなる話

大きな数字の表現として「天文学的な数字」というのがあるけれども、指数表現を使ってしまうと、10の64乗とか、2の200乗とか、だいたいその程度に収まる。それはとてつもなく巨大な数字ではあるのだけれども、グラハム数なんかの巨大数を本気で想像してみると、天文学的な数字というのもごく小さい領域の数字だと感じるようになってしまう。対数スケールというのは便利なもので、国立天文台のmitaka.exeなんかをノートPCで走らせると、太陽系を脱出し、銀河系を脱出し、銀河団を脱出し、光学的に観測可能な宇宙の果てが見渡せるまで、ものの数十秒で簡単に到達できてしまう。

Mitaka

宇宙というのは光の速さに人間の寿命を掛けた数字よりはずっと大きいのだけれど、宇宙の寿命そのものが150億年内外の計算値だというのを聞くと、そんな程度か、とも思う。1億年というのはとてもじゃないが個人が経験しうる年月ではないけれども、そこらの石ころでも数万年前から数億年前にできたものがザラにあるのだと聞くと、150億年といっても別に気が遠くなるというほどではないな、という気がしてくる。

子供の頃と違って、自分が生まれる前の時代の話でも、明治時代と平安時代と旧石器時代のそれぞれの距離感というのは想像がつく。子供の頃はギャートルズのような原始時代と水戸黄門のような江戸時代の区別があまり付いていなかった。生まれたときから家の外に出れば全ての地面はビルが立っているかアスファルトで舗装されているかのどちらかだったから、その下には土があるとか、むしろ土の露出した地面が当たり前の時代が最近まで続いていたとか、そういう事を初めて知ったときにはとても驚き、歴史ドラマに登場する時代のことを想像して気が遠くなるような思いをしたのを覚えている。

遠い宇宙や遠い昔に思いを馳せて、その距離感に気が遠くなるような思いをするということは、このところめっきりなくなった。一方で、東京から京都まで徒歩で旅するだとか、3億円稼ぐだとか、そういうやってできないこともないようなことを想像すると、気が遠くなるような、足のすくむような、血の気が引くような、そういう感覚を覚えるようになった。

宇宙の大きさに比べると自分の悩みはなんてちっぽけなんだろう、とは思わないが、命を預かる医者だとか、育児と仕事を両立する女性だとか、そういう人の悩みと比べると、自分の悩みはなんてちっぽけなんだろう、とか、そういうことを思うようになった。スケールの大きいことを考えるより、等身大のことを考えるほうが気が遠くなる。なんなんだろう、これは。首相の悪口は言えても上司の悪口は言えない、みたいなものか。

若いころに見たオッサンたちの奇妙な鈍感さというのは、こういう感覚的な変化が原因だったのだろうか。スケールの大きいものを想像して単純に驚かなくなるということは、果たして円熟なのか鈍麻なのか。スケールのあまり大きくないものを見聞きして単純に驚くようになるということは、果たして成長なのか萎縮なのか。うーん。
[PR]
by antonin | 2013-11-20 00:39 | Trackback | Comments(0)

断言

ニーチェだか誰だかが、他人に信用されたいなら断言することだ、というようなことを言ったらしい。確かにそうだ。過去にそういうことを書いたこともある。

「頑張れば報われる」に騙されるな : 安敦誌

最後の薄字で書いてある部分がそれ。

ただ、こういう断定的な言葉にもメリットはある。「現段階での消費税率引き上げは必要であり、選択の余地はない」と断言したとする。そうすると、いやいやデフレ期の増税はセオリーに反するとか、いやいや今このタイミングでも既に遅すぎるから無意味だとか、いろいろと異議を唱えたくなる人が出てくる。そこから議論が活発になり、感情的なあれやこれやはあるかもしれないが、議論の中から様々な論点が明確になっていく。

一方、「現段階での消費税率引き上げにはこれこれのメリットがあり、今この時期に行うことは正しいといえるが、一方これこれのデメリットもあるので、そのあたりをしっかり対処しないと大変なことになる」という言い方もできる。こちらの意見のほうがより現実に近いかもしれないが、誰の目にも明確に白黒が付くような言い方ではないし、両論併記っぽいところもあるので、容易にはツッコミを入れにくい。こういう意見を起点とすると、議論は深まりにくい。

「クレタ人のパラドクス」というのがあるけれど、あれは「自己言及のパラドクス」として有名だが、もうひとつ、真か偽かしかありえず、その中間を認めないという排中律が成立する命題論理というものに固有のパラドクスになっている。嘘つきとは「嘘しか言わない人」と定義した時にはパラドクスになるが、これを、嘘つきとは「嘘を言うかもしれない人」であるとすると、嘘つきだって本当のことを言う場合だってあるのだから、パラドクスは解消する。こういうふうに同じカテゴリーに入る要素の集まりの性質を考えるのを述語論理という。

述語論理にしても、「全ての~は~である」とか「~である~は存在する」とかいう表現を使うと、その結果はマルかバツかに落ち着く。そうではなくて、結論の方も「どちらとも言えない」というのを認めて排中律を捨てると、直観論理というものになる。「どちらとも言えない」だけだと不便なので、「80%正しい」とか言い出すとファジー論理になる。

この直観論理というのは、おそらく正しさだけで言えば述語論理や命題論理より現実に近く、より正しい論理ではある。しかし、正しさでは上なのだけれど、この直観論理から論理的に導き出せる結論が命題論理に比べてずっと少なくなってしまうという問題がある。すぐに「どちらとも言えない」と言い出すのだから、当たり前かもしれない。一方の命題論理は、実世界で起こっている現象のモデルとしてはかなり荒っぽいのだけれど、その荒っぽさを一度許せば、そこから先は人間の想像を絶するほど多様な結論を導き出すことができるという魅力がある。

風が吹けば桶屋が儲かる、というのも命題論理による推論である。ただ、推論の各段階で使われている論理にかなり怪しいのが混ざっているので、段数の多い推論をすると、ほぼ間違いという結果になってしまう。99.99%正しい推論を10段進めると、全体の推論としては0.9999の10乗で0.9990、つまり99.9%正しい推論になる。ところが、これが60%ぐらいの確度の推論を10段重ねると、0.6の10乗で0.0060、つまり0.6%ぐらいの正しさにしかならない。

こういう具合なので、正しさを見極めるなら「どちらとも言えない」という可能性をしっかりと捉えた議論が必要になるのだけれど、人間の頭で可能な程度の推論では、「どちらとも言えない」がひとつでも出てきた時点で、そこから先に進めなくなる場合が多い。だったら、危険を承知で白黒はっきりした排中律を満たす論理で推論を重ねたほうが、面白い結論が出てくる。極論の面白さは、こういう危険だが実りの多い推論ができるという点なのだけれど、そういう極論を始点とする推論が実地に役立つかどうかというと、そこはバクチになる。

ただまあ、面白い議論をして、それまで気付かなかった可能性に気づくゲーム、みたいな捉え方をするなら、極論は有益だろう。現実問題の解釈については「どちらとも言えない」の効能はあるのだが、実務上は「どちらとも言えないが決断はしなくてはならない」という場面が多く、結局おみくじ的に命題論理をこねくり回してマルバツを決めるというやりかたは正しいだろう。ただそれは、おみくじを引いて決めるのと、実はそれほど違わない場合もあるのだけど。

「どちらとも言えない」というのは「決断してはならない」という意味ですらないので、正しいが、しかし使い道のない結論でもある。結果的に、「悲観的に準備し、楽観的に行動せよ」というような格率に至ってしまうのだろう。とはいえ、何ごとにも「どちらとも言えない」と言い続ける厄介者も、社会の外れに少々いるくらいなら有用だ。とりあえず、そう断言して終わりにしよう。
[PR]
by antonin | 2013-11-13 00:29 | Trackback | Comments(0)

諦めない心

もう2ヶ月ほど前になるが、ムスメとムスコ1号の通う小学校の運動会を見てきた。その中で、生徒代表の賢そうな子供たちが、「最後まで諦めずに」というような言葉を何度か発していた。そして運動会の終わりに校長先生が挨拶をし、その中にも「諦めない」というキーワードが出てきた。教育として素晴らしいものだと思いつつも、「諦める」という言葉の本来的な意味を知った今となると、ちょっと不思議な響きでもあった。

現代の国語辞典を引いてみても、「諦める」という下一段動詞には「断念する」というような意味しかない。

あきらめる【諦める】の意味 - 国語辞書 - goo辞書
[動マ下一][文]あきら・む[マ下二]もう希望や見込みがないと思ってやめる。断念する。「助からぬものと―・めている」「どしゃ降りで、外出を―・めた」


こういう意味なのだとすると、安易に断念せずに粘り強く事にあたる態度を教えるのは教育として正しいと思える。その一方で、「諦める」という言葉には仏教的な由来があって、そちらでは「真実を見極める」であるとか、「現実を受け入れる」ということが原義となっている。例によって理屈っぽい僧侶が教義をこねくり回してきた歴史もあるので、「諦める」という言葉の意味も一筋縄ではいかないのだが、基本的にはそういう意味がある。諦めた状態の対極にはどういう状態があるかというと、妄執に捕らわれた状態がある。

愛する子供に死なれた母親が、子供の死を受け入れることができず「この子はまだ生きている」と言い続け、「なんとしてもこの子の目を覚ませてみせる」と強く思い込み、日を重ねるごとに朽ちていく子供の亡骸を引きずりながら、怪しいまじない師などを呼び止めては子供を生き返らそうと懸命に努力している。こういう姿を見た周囲の人は、いたたまれないながらどうしようもないのだけれど、こういう時に仏僧が現れて、「あなたの子供の姿をよく見なさい。この子は死んでいる。この子が生き返るだろうか。冷静になって良く真実を見なさい。」と忠告する。このようなときに、人に「諦めなさい」と言う。読経とか儀式とかは、「諦める」ための手助けにすぎない。

ただ、ややもすると、まだまだ望みのあることや、当人にはどうしても達成すべき事柄などに対しても、周囲の都合や思い込みなどで「諦めなさい」などと誤った忠告が安易になされ、それを聞き入れなかった人が後になって成功し、「諦めて」いたのは周囲より本人だった、などということも多々あっただろう。僧侶が世襲制になり、発心なき出家なき僧侶が仏教の信用を落としたりもして、いつしか「諦める」という仏教用語はネガティブな意味で捉えられるようになり、それが日本語の日常用語として残っていったのだろう。

「にやける」が辞書に書かれた意味と違う意味で人々に理解されている、なんていう新聞記事が以前にあった。私自身も「にやける」は「ニヤニヤする」という意味だと思っていたので、辞書を引いて「若気る」という語と意味を知った時には驚いた。

にやける【若気る】の意味 - 国語辞書 - goo辞書
[動カ下一]《名詞「にやけ」の動詞化》
1 男が変にめかしこんだり、色っぽいようすをしたりする。「―・けたやつ」
2 《若者言葉》にやにやする。口許がゆるんで笑顔になる。「彼のことを考え、―・けてしまう」
[補説]文化庁が発表した平成23年度「国語に関する世論調査」では、「なよなよとしている」の意味で使う人が14.7パーセント、「薄笑いを浮かべている」の意味で使う人が76.5パーセントという結果が出ている。


ただこれは、「若気る」という漢字が当てられてることからも分かる通り、歴史的仮名遣いで「にやける」と書いたもので、現代仮名遣いで言えば「にゃける」と読むべき語だということがわかる。「にやけ」の項を引くとそういうことも書かれている。

にやけ【若気】の意味 - 国語辞書 - goo辞書
《古くは「にゃけ」か》
1 男が派手に着飾ったり、媚(こ)びるような態度をとったりすること。また、その人。「―男」
2 男色を売る若衆。陰間(かげま)。
「長季は宇治殿の―なり」〈古事談・二〉


もちろん、現代語で言う「にやける」と、この辞書的な「若気る」が連続的に変化してきたのだろうということは想像がつくけれども、「若気」を呉音で読むと「にゃくけ」となり、文字の普及が低かった中世風に音便化すると「にゃっけ」となる。それを音写で「にやけ」と書いたものが、後になって文字通りに「にやけ」と読まれるようになったのだろう。

百日紅 (下) (ちくま文庫)

杉浦 日向子 / 筑摩書房



杉浦日向子さんの作品にもそういう男娼が出てくる一幕があり、その上客は仏僧であった。本来は、激しすぎる恋をして、そしてそれに破れて、もう女を見るのも嫌になった男がそれを実現する環境を求めて入るのが僧坊だったのだけれど、いつしか僧が妻帯するようになり、生まれた子供は恋に破れる前に女犯の戒律を与えられるという事になった。ひどくむごたらしいことだと思う。世間のしがらみから逃れるための場だった寺院が、しがらみそのものとして僧侶の子を襲う。そのしがらみの代償として幕府から特権が与えられ、その既得権を守るため、本来僧坊を必要としていた夢破れた人達が寺院から追い出されるようになる。そして「家業」を継ぎ既得権を得た僧侶は世間から求められる女犯の戒律を守るために「にやけ」を買うようになる。むごたらしいことだと思う。

話が逸れたが、ともかく、古い語義と現代人の理解が大きく食い違う場合、それを「現代人の誤り」とは言いたくない。あくまで、語義が変遷したに過ぎないのだと思いたい。ただ、古い語義を知って言葉を聞くと、ときどき奇妙に聞こえることがある。「最後まで諦めない」というのもその類だった。教育を与え、真実を見ぬく能力を子供に与えようとする学校という場で、「最後まで諦めない」というのがスローガンになる。それを「最後まで真実を受け入れない」と聞いてしまうと、奇妙な気分になる。もちろんそんな意味ではないのだけれど。

「諦めたら、そこで試合終了ですよ」とかなんとか、そういう有名な言葉があるが、それは試合が終了していない時点での話だ。試合が終了し、相手チームも審判もいなくなったコートで、負けを認めたくないためにいつまでもシュートを続ける生徒たちがいたら、「諦めなさい、もう試合終了ですよ」と言わざるを得ず、こちらのほうが原義になる。試合中であれば、点差をつけられて、もう何をやっても無駄だという無力感に襲われた状態が妄執に囚われた無明の状態であり、「試合終了までは逆転の可能性が残っているし、そこまでベストを尽くせば次につながる」という事実に気づくことが、むしろ「諦める」ということになる。

ただ、そうは言っても、人間は自分自身の感覚をそう簡単にコントロールできない。「気の持ちよう」の一言で片付けられる人というのは、自分の感覚を自分の理性でコントロールできるだけの特質を、先天的あるいは後天的に獲得している人だろう。あるいは、良い意味で鈍い感覚を持っていて、理性による積極的なコントロールを必要としていない人だろう。「マインドコントロール」というと、オウムの一件以来悪い印象しかないが、いかに自分自身のマインドを正しくコントロールするかというのは、人類が理性を持って以来、永遠のテーマでもある。

「絶対に諦めない」と、事あるごとに人前で明言するのも、そうしたコントロール手法の一つだし、念仏とかの祈りの各種も、だいたいそういうものと理解できる。密教の場合、コントロールしたいマインドの内容が「なんとかなるさ」だったら観音菩薩、「笑って済まそう」だったら地蔵菩薩、「全て燃やして忘れてしまえ」だったら不動明王、「なんだか知らないけど幸せ」だったら大日如来を思い浮かべることになっている。思い浮かべるための呼び水として、仏像とか、真言とか、印を結ぶとか、香を焚くとか、そういう身体的な刺激を使うとより効果的としている。

努力云々で為末さんがチクチクやられていたけれども、現代人の唱える「努力」と、かつての仏教徒が唱えた「信心」はよく似ている。成果が出た人は「努力のおかげ」だと信じているし、成果が出ていない人は「まだ努力が足りない」と信じている。このあたり、「努力」を「信心」に置き換えても、それほど違和感がない。そして、努力も信心も人間というシステムのパフォーマンスを向上させるために一定のプラス効果はあるが、それでもダメな場合というのは何か物理的あるいは構造的な問題があり、そちらの方を改善するしか無い。

努力一本槍の人々の厄介なところは、努力を奨励することではなく、全ての要因を努力で説明しようとする単調さだろう。これも「努力」を「信心」に置き換えてみるとよく分かる。同じく精神論や宗教を毛嫌いする人々の厄介さも似たようなものであり、物理的あるいは構造的な調整で全てが解決できると信じる単調さだろう。実際には、両方の効果が乗算で利いてくる。

修羅場を迎えた時には、諦めない気力がものを言うだろう。ただ、一息ついたら、ちょっと冷静になって、そもそもなぜ修羅場に陥ったのかを「諦めて」みるのもいいだろう。といって、それが言うほど簡単ではないというところにヒトという種の難しさがあるのだけれど。
[PR]
by antonin | 2013-11-11 02:00 | Trackback | Comments(0)


フォロー中のブログ
外部リンク
外部リンク
ライフログ
ブログパーツ
Notesを使いこなす
ブログジャンル