安敦誌


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本について

今年の春に受験し、なぜか採点に2か月以上も要した資格を取得できたので、勤め先に申請してみた。この申請の受理にもまた半年掛かったが、報奨金があるというので、受験費用と、あわよくばテキスト代くらいは戻ってくるかな、などと思っていたら、案外に額が良かった。なので、Amazonのカートに入れたまま金額的な問題からカビが生えていた技術書を何部か購入してみることにした。

内容は、古いコードに新しい技法を導入する、高邁な理想を泥臭い作業に落とし込む系の図書になった。ただまあ、実際のコードに関わる書籍はこれで打ち止めかなぁ、などという気もする。四十男に期待される仕事というのは、そういうものではない。それは承知なのだが、人生回り道をしてきたので、もうちょっとコードや開発ツールと戯れていたいという希望がある。

その本探しの途中で、ちょっと悲惨なものを見てしまった。

本の虫
日本語のC++参考書の行く末

以前からC++0x関連の話題でときどき参照させていただいており、お世話になっていたのだが、C++11の解説書籍執筆に専念するため、Knuth先生のように退職して作業に当たられていたようだ。しかしこれが経済的に仇となり、色々とアレだということが上記サイトに書かれている。また、C++以外のネタも全般的に面白く、その中でcookie clickerを軽妙な文体で紹介した記事がPVを集めたのだが、これもまた仇となり、変な粘着が湧いている。

その解説書の初版(XHTML版)が販売されているのだが、最低価格が¥5,000に設定されている。労力から見て妥当な金額だと思うが、私個人にとっても¥5,000というのは安い金額ではない。が、ここは有料で購入したいと思っている。深夜に決断するのはなんなので、目覚めたら購入手続きをしてみようと思う。そういえばWikipediaにもいくらか落とさないと悪いと思っているのだが、散発的な寄付よりは定期的な収入にこそ意義があり、そして定期的な寄付は私自身にもダメージが大きい。どうしたものか。


ところで、C++という言語が随分と随分なことになりつつあるのを実感している。C++11でこれまでの荒削りな部分はかなり洗練されたが、同時に学者の趣味のような機能も随分多く追加されていて、もともと巨大だった言語仕様がさらに大きくなり、標準文法の範疇の理解でさえ、もはや学部の卒論テーマになるレベルの規模と濃度になっている。しかもC++にはまだまだ仕様の不具合があり、言語的な完成はC++14の制定を待つ必要がある。また、処理系の実装もGCCとclangはこれに追随しているが、後続がない。

C++は自由度が高すぎて、安全行動を知っていれば非常に強力だが、うかつな行動をするとすぐに大事故を起こす、回転部がむき出しの工業機械のような言語になっている。大型の発電機の回転子に鉛筆を当てて削るような馬鹿げた芸当もできる一方で、繊細な機械時計のようなコードも書ける。まあどの言語だって基本は同じかもしれないが、WindowsならC#、MacやiOSならObjective-C、リチウム電池で数年動くような本当にpoorなプロセッサ用ならCと、各用途にはより単純でより安全な言語がある。

そもそもCを大規模開発に使っていたという異常な時期があって、それに対してC++という新たな選択肢が生まれたが、そういう方向であれば今ならJavaやC#などがあるし、プロセッサの処理効率よりも抽象度の高い記述を目指す方向ならPythonやRubyなどがある。そして先祖返りしたような、狭いメモリ領域で極小コードを極小電力で動かすような分野なら、実はmallocすら使わないピュアなCが一番効率がいい。わかっている人がストイックに使うなら、今でもCはとても洗練された良い言語だ。代入演算子が =- と書けるので単項演算子の結果を代入するのと区別できなかったような仕様バグを除けば、黎明期のC++の影響を受けたANSI-Cよりも、K&R初版時代の文法の方がより洗練されていると感じるくらいだ。

Cならソースコードからコンパイラがどういうマシンコードを吐くかだいたい想像が付くし、オブジェクトのサイズもpaddingまで含めてだいたい正しく見積もることができる。STLすらモッサリして使えないような環境では、raw配列非推奨、std::vectorやstd::deque上等のC++は何かと鬱陶しい。単なる値キャストを(foo)barと書かずにstatic_cast(bar)と記述して目立たせるのは理屈として理解できるが、既存コードの制約の中で使うにはあまりにも独善的な印象もある。例外処理の追加でコードのフットプリントがどれくらい増加するのかと怯えながらコーディングするのは心臓に悪い。

もちろん、C++でもCのテクニックはひと通り使えるのだが、そうすると通常の書籍から手に入る一般的なベストプラクティスとの不整合が起こる。そこにはもちろん対象分野固有のrationaleがあるので正しいことなのだが、そういう低水準の作業と、一般的書籍の手法が成立する高水準の作業とで動的にコーディングルールを切り替えながら作業ができる器用な人も少ない。C++を使いつつCに近い水準でコーディングをしようとすると、C++の「便利な」部分がCのストイックなコーディングスタイルを乱す要因となってしまい、逆にプログラマの混乱と油断を誘ってしまう。

杓子定規にMISRA-Cライクなルールを適用するツールをクリアしないと製品コードとして認めない管理者もあるが、Cでは成立しても、C++ではそういう機械的で単純な判定というのは、なかなか妥当なものとはならない。そういう判定も参考にはなるが、最終的な結論について変な宗教論争にならないためには、問題のスコープとその解決について技術的な共通認識が必要になる。

JSF++などは非常に洗練されたルールだし、理工系の修士号くらい持っていれば楽に理解できるものだとは思うが、逆にいうとそれくらいの知性は要求されてしまう。ルール全体の規模も、決して小さくはない。また、JSF++は固有分野の固有技術を隠蔽するライブラリの作成を必須として、その外側に雑多な詳細実装を持ってくるような設計を前提にしているのだが、その独自ライブラリを正しく構成できるエンジニアというのは、より高い技能が求められる。戦闘機の開発プロジェクトくらいならそういう人材が売るほど集まるのだろうが、そこいらの小規模な組込ソフトウェア開発プロジェクトに簡単に真似できるようなものでもない。

で、まあ、C++標準の次期メジャーバージョンが出るという2017年ごろには、C++という言語はとてもニッチなものに成り下がってしまっているのかもしれない。面白い言語に育ったとは思うが、「言語学者」のオモチャにされてしまったという印象もある。これと心中するという未来も中年男にとってはまんざらでもないのだが、目先の生活が成り立たないようでは、子持ち男としてはやはり困る。

まあ、「本の虫」の江添さんも、「強制移住」によって新たな可能性に目覚めて素敵なことになっているらしいので、案外世の中なんとかなるのかもしれない。

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by antonin | 2013-12-25 04:23 | Trackback | Comments(0)

おじさんにも若い頃があった

数年前の自分の書いたものなどを読んでいる。面白い。元気があってよろしい。

なんだ、いかんな。

久しぶりに本田宗一郎さんの本でもひっくり返してみようかしらん。

せっかくバカボンのパパの年齢に追いついたんだし、天才っぷりをまき散らしてみるのもいいかもしれない。

ぶどうたろうのお話でも書いてみようか。

忘れてしまったものがたくさんある。自分が過去に書いたものを読めるというのは良いものだ。一般庶民にも読み書きができるようになったからこそなんだろう。

学生時代の書き物なんかも引っ張り出してみようか。

No.1634/ 登録者:安敦 (yrk9148 ) 2268 字 [94/09/25 23:09]
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『どうでもいいこと』

ある職人のもとで修行する二人の弟子がいた。

(こんなに修行が厳しいなんて知らなかった。修行だとは言うけど、今やらさ
れていることがいったい何の役に立つのか、見当もつかない。こんな所は抜け
出したいと思うこともあるけど、偉い師匠の言うことだからきっと何かの役に
立っているのだと思う。師匠は怖いけど、しっかり修行して師匠のような職人
になろう。)

(こんなに修行が厳しいなんて知らなかった。修行だとは言うけど、今やらさ
れていることがいったい何の役に立つのか、見当もつかない。偉い師匠の言う
ことだから何かの役に立っているんじゃないかと思うこともあるけど、どうに
も信じられない。一日も早くこんな所は抜け出したいけど、そんな事怖くて言
えない。)

異なる心境のまま二人は修行を続けた。ある日二人の役人が職人の元を訪れ、
何事か通達をしていた。
「あなたは2名の見習いを取っておられるが、その扱いはまさに旧態依然とし
たもので、弱いものの立場を図る公の者としてこれを見逃すことは出来ない。
即刻2名を解放することを命ずる。」

「お待ち下さい。私たちは今の扱いに不満はございません。どうかお引き取り
下さい。」
役人を止めに入ったのは、当の弟子たち二人であった。
(そのようなことを言われたんじゃ、まるで僕が密告したみたいじゃないか。
あとでどんな目に会うかってことがわかってないんだ。)
(弟子が師匠に従い、修行が厳しいのは当然の事じゃないか。何の見当違い
をしているんだろうか。役人の余計なお世話だ。)

結局弟子たちの申し立ては通らず、師匠は役人の命令を黙って受け入れた。二
人は里へ返されることとなり、職人になることはなかった。自由の奪われた生
活からの解放に喜ぶ者が一人と、職人になる夢を奪われ泣く者が一人生まれた。


レベル1:役人の行動にはどのような意義があったか。
レベル2:役人の一人は頑なな信念から行動し、もうひとりはライバルの職人
     に買収されて行動に及んだ、という仮定のもとではどうか。
レベル3:二人の弟子の心境が二度対比されているが、発言している順番が同
     一人物を表している、という仮定(※)のもとではどうか。

1番目の弟子:
  初めは苦しかったが、修行に耐え上達するうちに意欲が湧いていた。
2番目の弟子:
  初めは意欲があったが、上達に限界が見えてから苦しむようになっていた。

正解はカオスの中に。

Antoni'n L. Kawan~o (安敦)

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個人売春是か非か、みたいな議論の文脈で書いたもの。19年前の作文。

チャットなどで学生らしく謙虚な話っぷりをしていた以外は、基本的に今とあまり変わらない。付けられたあだ名は「不幸」だった。まあそんなもんか。

知識は今よりだいぶ少ないはずなんだけれど、半端な知識のごまかし方が当時から板についていたように思う。

電子メールシステムというのがあって、ハンドルネームのない女の子からの親しげな言葉があってドキッとしたが、署名を見るとヨメだった。もうそんなになるか。
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by antonin | 2013-12-17 03:37 | Trackback | Comments(0)

普通はそんなことしない

ユダヤ人と韓国人は似ている、なんてことを書いていたら、OSがフリーズした。なんかネットワークドライバがやられてるみたいだ。マルウェアでも入ったかな。明日にでもOS再インストールしよう。

--

ハッカーとは普通の人が1分以上かかる作業を10秒でやってしまう人たちの総称だ、なんて言葉があったが、それは表面的な結果であって、本質は別のところにあるだろう。

なぜハッカーが普通の人に1分以上を要する作業を10秒で済ませてしまうかというと、「そういう作業ならやったことがある」からだろう。普通の人が「普通はそういうことをしないよ」「それになんの意味があるの」「なんでそういうこと思いつくの」と言うようなことを、「ああ、そういうのなら何度かやったことあるよ」と言えてしまうのがハッカーの本質だろう。経験があれば、そりゃ作業は早い。

で、普通の職業上のプロの経験とハッカーの経験が違うところは、普通のプロは何か職業上の目的なり客の依頼なりがあって、その目的に沿った手段として、個別の作業に習熟している。ハッカーの場合そうではなくて、基本的に興味本位で動く。単に興味があるから実行してしまう。しかも、目的意識より好奇心が優先するから、合理的発想からは出てこないような奇抜な行動を取ったりもする。その結果として、常識的には解決不能に見えるような問題でも、「そういうのやったことあるよ」となる確率が高くなる。

そういうハッキングの中には、セキュリティー機構をなんとか解析して突破してやろうという分野もある。そういうのはクラッカーと呼ばれるのだが、泥棒がセキュリティで守られている価値を不正に手に入れるための手段としてクラッキングをするのに対して、ハッカーはクラッキング自体を目的とする。で、勝利者トロフィー代わりに何かを盗んでいくこともあるが、それは登頂した山に国旗を立ててくる程度の行為であって、目的ではない。

私の通った中学高校には個人持ちのロッカーがあって、その扉には南京錠や番号鍵がぶら下がっていた。安い番号鍵というのはナンバーリングが引っかかって難しいのだが、高級な番号鍵というのは動きが滑らかで、内部の構造が感知しやすかった。時効かどうかわからないが、早朝とか休日とかに学校に出る用事があると、そういう鍵を開けて放置したり、似たような鍵を入れ替えてみたりして遊んだことがあった。中身には興味がなく、手を付けたことはなかった。そういうクラッキングはそれ自体が面白く、数独なんかと本質的に変わらない遊びだった。

技術の世界にはそういうハッカー気質の人間が多い。だから、時計を分解したり、バイクのエンジンを分解したり、何かしらそういう馬鹿らしいことを無目的にやってきた経験がある。機械のたぐいを何度か壊した果てに、組み立てや改造のコツを身に付けたりする。数学者なんかも、そういうのと同類のハッカー気質を持っているようにみえる。

飛行機に興味がある人なら飛行機を作りたいだろうが、民間機は予算も規制も厳しいので、軍用機を作るほうが何かと環境が良い。作ったもので戦争をすること自体にはあまり興味が無いが、作った機体が空中戦で勝てるのは何より嬉しい。そういうものだろう。

子供の頃に興味本位の遊び方をしていたハッカーの中からは、ときどきとんでもない奴が出てくる。フォン・ブラウンとかコロリョフなんかはそういう部類の人だが、そういう人のとんでもないアイデアを具現化するには、アイデアを聞いて現物に仕立て上げる連中の層が厚くないといけない。そういう厚い層が生まれる経緯を見ると、彼らが子供の頃に流行した英雄譚に理由があることが少なくない。

ロケットなんかはゴダードあたりからの技術的な検討が続いていたけれども、それより効果的だったのは、映画館の上映スケジュールを埋めるのに簡単だったスペースオペラだったのだろう。そういう物語を見聞きして育った少年たちが戦争による航空技術の急激な進歩に育てられて、機が熟したのが1960年代だったのだろう。ロケットは月に達し、飛行機はマッハ4に迫った。

しかし、時代が移り変わり物語の流行も変わると、少年たちは別の分野に夢中になる。80年代にスペースシャトルは飛んだが、月は遠のいた。スペースシャトルにも次期モデルの開発はなく、その長い運用にも幕が下りた。技術は単調に進化するものではなくて、進化のある時期に爛熟する。その黄金期を後の世代が超えることは、なかなか難しい。

蒸気機関車による鉄道全盛の時代には、蒸気圧で精密な機械制御をする技術が発達したが、その大部分は失われた。蒸気エネルギー自体は火力や原子力による発電に活かされているし、ピストン駆動系は石油系内燃機関に活かされているが、蒸気機関車は消滅した。

今はロボットアニメを夢中になって見ていた少年たちが精密機械を作り、ゲームに夢中になっていた少年たちがソフトウェアを作っている。今はその技術が爛熟しているが、技術は失われないまでも、今より落ち着いた分野になっていくだろう。アニメ、ゲーム、半導体などは、そろそろ一息つく頃かもしれない。

「普通はそんなことしない」というのを普通の人は禁止したがるが、それをあえて野放しにしてみる度量と、泥棒ではないハッカーを実用分野で活かせる社会というのは、成熟した豊かな社会に思える。江戸時代あたりには、四十五十で隠居した旦那の道楽として学問があったらしく、そういう人たちが、体系的ではないながら結構本格的な学問をしていたものらしい。

知るとか考えるとか、まあ比較的役に立つものではあるけれども、それ自身が楽しいって奴は放っておいてやって欲しいと思う。手段として使うのも正しいのではあるけれども、とんでもない分野で「それ、調べたことある」とか「それ、考えたことある」というのは、意外なところで役に立つ。まあ、半分以上は役に立たないもので、また1割くらいは害悪でもあったりするのだけれど、そういうのを飼い慣らせる社会というものもなかなか立派なものだと思う。

ライフハックというのは本来、覚えて自分の生活を良くするための手段というよりは、人間心理や社会機構の意外な特質を突いて遊ぶあたりを指すんじゃないかと思うんだけれど、どうだろう。
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by antonin | 2013-12-14 05:11 | Trackback | Comments(0)

四苦八苦

四苦八苦というのは、4と8を合わせて12種類の苦しみがある、というのではなくて、全部で八つ、うち四つは四苦の方で、残りが四つあって、合計が八苦ということらしい。

日本のお寺さんの解説などを読むと、四苦も八苦も、現代語的に言う「くるしみ」である、というような話が多い。ところが、別の人が説くように、苦しみではなく「思い通りにならないこと」というように捉えると、だいぶ感覚が変わってくる。

六根と五蘊と四苦 : 安敦誌

生老病死の四苦の方については過去にこの解釈で考えてみたが、残りの四苦、「怨憎会苦」「愛別離苦」「求不得苦」「五蘊盛苦」については、まだ「ままならぬもの」という捉え方をしてみたことがなかった。

憎いものに会うことは、苦しいが、どうしようもないことだと言われれば、なるほどと思う。愛するものと別れるのも同じ。求めるものが手に入らないのも同じ。総じてネガティブなことばかりなので「くるしみ」でも構わないような気もするが、どうしようもないことなんだ、という教えのほうが実践的には良い気もする。

最後の「五蘊盛苦」だけれども、こちらは圧倒的に「思うようにならない」の方がしっくりくる。五蘊が、人間の意識の各レベルが盛る、つまり思うようになりたい自分自身の理想像から離れて、ときに暴走するのはどうしようもないことなのだと。うまくやり過ごすしかない、と。

逆に言えば、憎いものと別れることも、愛するものと出会うことも、求めたものが手に入ることも、精神が落ち着いていい具合に働くことも、それらは全て「苦」であると言える。つまり、自分の思い通りになったというよりは、様々な偶然が重なってたまたまそうなったのだろう、というような認識も可能になる。

美味いものを食って、暖かく清潔な床で眠り、醜くない身なりをし、家族と暮らし、友と呑む。そういう幸せも、あくまで成り行き上そうなっただけのものなのだ。成り行き上偶然遭遇した不幸は苦笑いしてやり過ごすしかないが、成り行き上偶然遭遇した幸福は、とにかく「有り難い」ことなのだと思って噛みしめるといいのだろう。感謝、というのとは少し違う、「なかなか有るものではない」という不思議な感覚。

四苦八苦の裏には、思うようにならないにも関わらず手に入った、不思議な四楽八楽がある。それほど不幸な生まれではなく、それほどそれほど老いが生活を蝕むわけでもなく、それほど大病を患うでもなく、それほど早死するでもなく、それほど憎いものと出会うわけでもなく、それほど愛するものと引き裂かれるでもなく、それほど神経が昂って過ちを犯すのでもない。

人間の一生は、良くも悪くも思うようにならない。その中で、どうしたわけか幸せが得られたのならば、その幸運というのは有り難いものなのだ。酔歩の中のゆらぎに過ぎないのだ。
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by antonin | 2013-12-06 03:33 | Trackback | Comments(0)

ジャンボ宝くじとか

宝くじの売上が下がっていて、最高当選金額をまた1億円引き上げるらしい。宝くじというのは、法律で禁じられている「富くじ」の一種で、その中でも最も単純なスタイルのものなのだけれど、そこが最も取っつきやすい理由でもある。法律で禁じられているのに、なんで堂々とテレビで宣伝まで打って売られているのかというと、公共の福祉に利するから、と、一応そういうことになっている。賭博は法律で禁止されているが、公共競馬はテレビで宣伝して堂々とやっているのと同じ。

国の税金というのは国民の代表議会である国会で厳しく審査されることになっているのだけれど、これだと全てのカネのコントロールは財務省(旧大蔵省)に握られてしまう。これを嫌って、財務省以外の各省が独自財源の確保に奔走した時代があった。それで、旧農林水産省は畜産業を推進するという名目で競馬を始めたし、旧厚生省は高齢者福祉を題目にして国民年金を始めた。国民年金は人口ピラミッドが倒立状態になって支出超過になるという大失態を演じているが、他の各省が始めた事業というのは、だいたい手堅く推移している。

中でも、賭博と募金というスタイルは定番になっている。競馬もそうだし、競艇は笹川家(日本財団)の資金源みたいになっているけれども、一応旧運輸省の所管になっている。競輪は旧通産省の所管で、意地悪く言えば、パチンコも警察庁管轄の半公共賭博場とみなせる。totoは外国の事例をベンチマークした文部科学省がスポーツ振興という題目で導入した。民間企業には法律で禁止しており、また禁止されている理由というのも生産性がなく濡れ手に粟の商売だからという理由なので、これを実施できる官庁というのは文字通り特権的ということになる。こういうのを民間がやれば、ガチャのように国民保護という大義のもとで即座に禁止される。

で、宝くじだけれども、これは旧自治省の財源として、競艇が造船海運業の発展を支援することを活動内容としているのと同じように、宝くじの収益は公園に遊具を置くなどの自治活動支援に使われている。細かいところでは何に使われているのか、なにしろ国会の審議も何もない予算体系なのでわかりはしないが、国会や財務省にとやかく難癖を付けられることなく、自由に執行可能な予算として便利に使われている。こう書くと悪用しかしていない印象になるが、煩雑な手続きを避けて必要なところに迅速に予算を注入できるツールとなりうるので、上手く活用されているような局面もあるのだろう。

その宝くじも昔は商売が上手かったが、最近は売上が落ち込んでいるらしい。どうも最近のお役人さんには貧乏人の気持ちというものがわからなくなったらしい。昔の自治省などはそれほどエリートコースでもなかったし、また日本が一度焼け野原になったということもあったので、高級官僚でも貧乏人の気持ちはそれなりに知っていたのだろう。

貧乏人から見ると、5000万円くらいまではそのスケール感が把握できるが、その先は3億だろうが7億だろうが、感覚的にはほとんど差がない。射幸心を煽るという意味では、2ちゃんねるで言われるような当選率を上げるやり方よりも、最高当選金額を引き上げるほうが妥当なのだけれども、あれだけ一般市民に行き渡った宝くじの売上を維持するためには、過激な射幸心を煽るよりは、もう少し一般的でマイルド貧乏な市民に訴求する調整のほうがいいように思う。

「ジャンボミニ宝くじ」という自己矛盾を孕んだ怪しいくじも発売されているが、こちらは2ちゃんねるの助言を採用している。つまり、当選金額を下げ、当選本数を増やしている。しかし、単価は300円のまま。統計的にはミニじゃないジャンボ宝くじの10倍の1等当選確率なのだが、全体の販売枚数が少ないので、5億円が60本出る正統ジャンボに比べ、7000万円が80本のジャンボミニは印象としてひどく見劣りのする商品になっている。1千万分の1の確率が100万分の1になったと喜べるような数理感覚を持った人は、そもそも宝くじを買わない。ジャンボとジャンボミニはどちらも「1等が当たる確率も0ではない」という直感的な収束点に留まっていて、訴求力に違いはない。

最近の宝くじの状況を見ると、当たれば大きいが外れれば何十万も飲まれるようなギャンブルになって一般客が離れたパチンコと同じように、最高当選金が足りないというより、デフレにより平均所得が下がった中で宝くじの販売価格が高止まりしているというのが、売上減少の主要因だろうと思う。経済的合理性だけを考えれば誰も宝くじなど買わないわけで、それでも心理学的には宝くじは安定して売れる。そのはずの宝くじが売れないというのは、外れたときのショックがかつてより大きくなっているからではないだろうか。

宝くじは理論的には1枚から買うことができるのだけれど、AmazonやAndroid Marketで宝くじを購入できるわけではないので、お店のお姉さんに枚数を告げて買う必要がある。遠い昔は帯ゴムに挟んだバラ売りのくじ(番号だけバラバラになった10枚セットではなく、本当の1枚売り)が、宝くじ売り場には普通に並んでいた。それがバブル景気を経験して以降、ほとんどの宝くじ売り場ではこういう売り方は見られなくなり、スマートな10枚セットが主流になった。

しかし今はデフレが進行して、不景気もすっかり板についた時代である。スーツを着たサラリーマンが280円の牛丼を食っても白い目で見られることのなくなった時代である。そういう時代に、事実上の最低購入単位が3000円になったジャンボ宝くじは、夢が大きいメリットよりも外れたときの3000円が惜しい、なかなか気軽には買いにくい商品に変わってしまっている。

ちょっと酒を飲んだら1万円くらい飛んだ時代なら、夢を買うのに3000円だの9000円だのを支出するのに庶民も躊躇しなかっただろうが、中国人アルバイトが運んでくる料理をたらふく食って飲んで2000円とちょっとで帰れるような時代には、失った3000円の痛みのほうが精神的にキツい。なので、宝くじの販売額を回復させようと思ったら、あのピラピラのバラ売り展示を復活させて、最低購入価格を3000円からグッと引き下げ、ロングテールを取りに行くのが正しいんじゃないかと思う。

貧乏人の私が搾取元である自治省、もとい、総務省を応援する義理もないのだけれど、まあ、デフレが終わって経済が急回復するのでもなければ、夢を買う価格くらい手の出しやすいところまで帰って来てほしいとも思うのである。夏野剛さんあたりを役員に迎えて、宝くじが1枚からスマホで買えるようにするなんて面白いかもしれませんぜ。へっへっへ。
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by antonin | 2013-12-06 01:25 | Trackback | Comments(0)

優性遺伝の法則

メンデルの法則の一部として、優性遺伝の法則と呼べる遺伝傾向がある。現代の遺伝学は分子生理学が主流になっていて、メンデルさんがエンドウ豆を交配していたころの素朴な生物学とは次元の異なる領域に入ってしまったようだけれども、それでも、大雑把な議論では優性遺伝の法則が現代でも通用する。

新聞社が使うような日常語としての「優性遺伝」という言葉は、優生保護法と言うときのような、ちょっと誤解された語義になっていると思う。つまり、優れた性質がより有利に遺伝していく、というような意味にとられているようにも見える。中学の生物の授業をちゃんと聞いた人であれば、これが間違いだということは理解できるが、慣用表現としてはそこまで厳密な用法も求められず、間違いはあまり批判されることもなく生き残っていく。

教科書が言う優性遺伝の法則というのは、遺伝子にも優性遺伝子と劣性遺伝子というのがあって、両者が混ざると、優性遺伝子の方に由来する形質が個体に発現する、というものになる。要するに、個体の形や機能を決める時に、勝つ方の遺伝子を優性と呼び、負けて隠れてしまう方の遺伝子を劣性と呼ぶ。ただ、実際的には形質の発現で優性の遺伝子というものは、個体に現れた形質の機能面でも「優性」であることが多い。このあたりが誤解を招く原因の一つでもあるのだと思う。

なぜこうなるのかというと、劣性遺伝子というのは、優性遺伝子と組になるとその形質が隠れてしまう。つまり、遺伝子としての生存競争を、その世代ではパスしてしまう。優性遺伝子にお任せのフリーライダーとして次世代に持ち越される。もちろん劣性遺伝子であっても劣性ホモになれば形質は発現するので、統計的に見れば、個体の生存と繁殖に有利な形質をもつ遺伝子の方が残りやすく、不利な形質を持つ遺伝子は排除されていく。

けれども、形質が常に発現する優性遺伝子に比べると、劣性遺伝子に働く淘汰圧は低くなる。特に、優性遺伝子に対する劣性遺伝子の存在比率がある水準より小さくなってくると、劣性ホモの個体が生まれる確率というのは劣性遺伝子の存在比率の2乗になってくるので、例えばある劣性遺伝子の存在率が0.1%であれば、その形質の出現比率は個体数の1ppm (0.0001%)にまで低下する。それが十分な統計的淘汰を受けるには、ほぼ均一な環境下に数十億の個体が生まれる程に繁殖するか、あるいはほぼ均一な環境下で数千世代の時間を掛けるかというように、十分に多くの個体出現を必要とする。

そういう事情があって、一定水準以下に減少したあとの劣性遺伝子というのは、短期的には淘汰圧をほとんど受けない。なので、淘汰圧を強く受ける優性遺伝子が生存上有利な形質を担いやすく、それに比べると劣性遺伝子が生存率への寄与面で「劣った」遺伝子を担うことになりやすい。

そういう効率の悪いことをしていれば、生存競争の厳しい生物界では程なく絶滅、あるいはニッチに収まるまで個体数が減少してしまうはずである。ところが、現在地球上に生息する生物の主流は、この優性遺伝の法則にしたがうタイプの、遺伝子を対で持つ生物になっている。これはなぜなのだろう。

その答えというのは既に見つかっていて、その一例として鎌状赤血球の話が生物の教科書には載っている。酸素が分子拡散で体内に行きわたる寸法より大きくなってしまった生物は、血液循環などによって能動的に酸素を体内に行きわたらせる必要があり、そういう機能面で「優れた」遺伝子とは通常の丸くつぶれた赤血球を作る遺伝子なのだが、劣性遺伝子による形質の一つである鎌状赤血球というのは酸素を運ぶ効率が悪く、この種の赤血球を持った人というのは酸素不足で貧血症状に陥りやすい。

それでもこの、二つの意味で「劣性」である遺伝子がある地域で目立つほど見つかる理由というのは、蚊によって媒介されるマラリアに感染しにくいという、副次的な特徴が理由になるらしいということがわかっている。つまり、酸素を運ぶという赤血球本来の仕事としては、鎌状赤血球というのは実に効率が悪い。しかし、マラリアという致死率の高い感染症の感染率というただ一点だけで見ると、鎌状赤血球の方が優れている。

劣性遺伝子は、それが通常環境ではあまり優れていない形質を担っていても、優性遺伝子に実質フリーライドした格好で眠り続けながら遺伝競争をそれなりに生き延びている。それは環境が激変する「もしものとき」に備えたポテンシャル採用のようなもので、これまでの生物淘汰の歴史ではそれが許されてきたということになる。

優性遺伝子は環境からの淘汰圧が強いので、形質の改善による環境適応度の向上も素早いが、環境が変わって形質が一転生存に不利になると、個体数減少も短期間のうちに進行してしまうというリスクもある。そういうリスクをヘッジする手法の一つが、劣性遺伝子を持つということだったのだろう。


で、ここからはいつものアナロジー与太話になるが、人間界でも似たような事情があって、比較的安定した環境が続けば、仕事面で優れた人たちが競争を繰り広げながら日進月歩の進化を遂げてくれて構わないわけなのだけれど、環境が激変してかつての競争の勝者たちが軒並み不調に陥るような局面では、「劣性」の中の誰かが活躍する場面も起こりやすくなるのだろう。敗戦で財閥が解体された直後の創業企業などはそういった感じだったのだろう。

昔話に三年寝太郎という話がある。普段はゴロゴロと寝ていて寝太郎と揶揄された男が、ある時突然働き出し、村に大きな富をもたらす。まあ、この話では寝太郎が寝ていた間にも実はいろいろと思案していたことになっているので単なるぐうたらとはわけが違うのだが、仕事もせずに学問ばかりしていたころの寝太郎は、ある意味では働き者に対するフリーライダーではある。

アメリカ合衆国のヴェンチャー・キャピタルや私立大学の運営態度などを見ると、こういう寝太郎たちに積極投資する姿勢と、寝太郎が寝たまま死んでしまう(起業や研究が社会的利益を上げないままに終わる)リスクを確率的にちゃんと織り込んでいる姿勢が見える。そして、その不発に終わった事業や研究も、論文や特許や投資レポートとして明文化され、知識が遺され、伝わっていく。こういうあたりが合衆国の知性の真の強さなんだろうという気がする。

日本人の場合、こういう劣性遺伝の発露、つまり、必ずしも優秀ではないが、個性的で時代に合う起業や学問というのは下火になっているように見える。要するに、長い期間、日本人を取り巻く環境というのは安定していたのだろう。そういう意味では、これまで「劣性遺伝」されてきた不遇の変人たちが、突然表舞台に立って活躍する確率は上がってくるのだろう。見ようによっては、「オタク」という人たちが実はそれなのかもしれない。もっと変態的な「劣性ホモ」が活躍するようになると、きっと世の中は面白くなるだろう。まあ、それが「良い世の中」とは呼べないのかもしれないけれど。
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by antonin | 2013-12-02 00:51 | Trackback | Comments(0)


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