安敦誌


つまらない話など
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「レイシズム」について

最近、「レイシズム」だとか「レイシスト」という単語をときどき目にするのだけれども、ここで言われているのが朝鮮民族と大和民族の間の関係だったりして、こりゃなんだろう、と思った。

"racism" の前提として、"race" の存在がないといけない。race には一応「民族」という語義もあるけれども、一義的には「人種」だろうと思う。なので、"racism" というと普通は白人至上主義を指す。中には少し特殊化したracismであるアーリア人種優越説とういうのがあって、ゲルマン人やラテンヨーロッパ人をはじめとして、インド人でもアーリア系の人たち、歴史の過程で北部から侵出したハイカーストの人たちは支配者たる民族で、ヨーロッパ人でもユダヤ人種は血統的にアーリア人種じゃないから被支配者たるべき、というような話になる。

なので、レイシズムというときには、その背景に遺伝的な優性仮説を頭から信じるという過程がないといけない。なので、韓国籍の人が日本国籍の人をレイシストだと批判する場合には、朝鮮民族と大和民族の違いが、文化的なものではなくて遺伝的なものだという前提がないといけない。

ただ、現代日本人というのは文化的にはかなり均質なのは間違いないのだけれども、人種的にどうなのかというと、遺伝情報の調査が進むにつれ、個人間でも多様な遺伝子が混在しているし、その多様性は地域的な差異としても存在していることが明らかになりつつある。これは実は朝鮮半島でも同様で、複数の遺伝タイプが混在していることを示すデータが出てきている。

中華人民共和国という国家は多民族国家ではあるものの、その中枢にある漢人の遺伝子を調査すると、あれだけの人口と複雑な歴史を持つわりに、意外に範囲の狭い遺伝的分布をしているらしい。まあ、多民族の中から漢人とわかる人を分類したうえで調査しているのだから当たり前じゃないかという話はあるが。

そして、現代の大韓民国でサンプリングを実施すると、その漢人系と、北方のアルタイ人系、それに北九州と同じ弥生人系の遺伝子が混合している。日本でも弥生人系が優勢で、そこにアルタイ人系が混ざっているのだけれども、韓国との違いとして漢人系の遺伝子がほとんど見られず、代わりに琉球系やアイヌ系に多く見られる縄文人系の遺伝子が混ざっている。

そういう遺伝的な違いというのは確かに朝鮮半島と日本列島の間にはあるのだけれども、人種差別というほどの「人種」の違いがあるのかというと、そうでもない。特に、日中韓の東アジア人の区別もつかないような(まあ、日本人である私自身にもあんまりはっきりと区別はできないけれども)ヨーロッパ人から見ると、韓国人が日本人を "racist" と呼んでいるのは、きっと変な感じがするんじゃないかと思う。

「偏見」とか「差別」というのは、明らかに存在しているとは思うし、それが存在する理由も排除していかなければいけない理由もわかる。偏見というのは「偏った見方」という熟語になっているけれども、英語にすると "prejudice" になって、直訳として「予断」という熟語もある。つまり、目の前に何か価値判断をしなくてはならない対象があるとき、それを何かの属性によって分類し、その属性によってのみ価値判断し、対象の個別性について考慮しないとき、「予断」が発生する。

ある人を見て、その人の性別だとか国籍だとかだけを見て、その人の個人的な能力や事情や意志を無視して判断することが差別なのであって、性別や国籍によって推定される能力や事情や意志が、実際にその人個人にも当てはまると判断されるとき、その能力や事情や意志により処遇を決めることは、別に差別ではない。

なので、「日本人は勤勉だ」という先入観を持っている人が他人を雇用しようとして、日本人と日本人ではない人が応募してきたとき、国籍だけを見て日本人を採用するのは予断による差別になる。でもその日本人Aさんとその日本人ではない人Bさんを調査して、実際にAさんが勤勉だと判明したためにAさんを採用するなら差別にはならない。もし調査結果としてBさんのほうが勤勉という結果が出ていればBさんを採用したまでのことだからだ。

この場合、実際の雇用判断が公平ならば、「日本人は勤勉だ」という先入観自体は罪にならない。なぜならそれは単に統計的な事実かもしれないからだ。極端に言えば、統計的に見ても間違っている先入観を持っていても、公平な判断をする努力があれば、やはり先入観は罪とならない。思想には自由があるべきで、罪は誤った行為に対してのみ求められるべきだとすれば。

だから、統計的な真実を参考情報程度に考えずに、古典論理的な真実と解釈して楽に個別の判断をしてしまうのが予断の発生する元で、この予断によって重要な判断が行われることが差別になる。なぜ予断が横行するのかというと、予断によらず常に公正な判断をするのは、面倒でしんどいことだからだ。予断のほうが単純で簡単であり、楽で時間もかからないからだ。効率的でスピーディーで低コストで、しかも統計的には正しい場合が多い、つまり何度もやっていけば平均的には良い成績を残すからだ。

ただし、法人にとっては平均的に良ければ正しい判断となるようなことでも、個人にとっては一生を決めるような重要な判断となる場合もある。そういう判断を統計的予断によってなされてしまうと、本当は適性のない人が、適性の高い指標を持つ属性を持つために、予断によって選別され、一方本当は適性のある人が、適性の低い指標を持つ属性のために、予断によって落選する。

人間には「立場が人を作る」という傾向があって、属性から導き出される統計的な指標によって選別を続けると、統計的に優位の属性を持った人は良い立場を得やすく、良い立場を得た人はその立場によって育てられて成果を挙げる確率が高まる。そして劣位の属性を持った人は良い立場を得にくく、劣った立場を得た人はそれによって能力が育たない。この正帰還によって、属性による統計的な指標の差はますます開いていき、最初は偶然だったかもしれない属性による違いは、実際に根拠のある違いとして定着してしまう。

統計分析の強力なところは、この属性による優劣を標本数の平方根に比例した精度でいくらでも炙り出せる能力なのだけれども、統計分析が語るのはあくまでカテゴリーやクラスという階級に対する知見であって、逆に個々の事例に対しては予断はできても確定判断ができない。もう言ったとおり、個々の判断が重要ではなく繰り返しが可能な判断については統計による予断が有利に働くが、やり直しのきかない個別判断には無力なばかりか、不適切で誤った予断に陥る場合が一定確率で起こってしまう。

「最強の学問」であるところの統計学の、最も凶悪な部分はここに由来する。まあ、これは単なる道具である統計学の問題ではなくて、道具の使い方の問題でしかないのだけれども。使いやすい統計量である「偏差値」そのものが悪いということはなくて、個人が学校に期待する教育そのものより、模試結果による入試の合格可能性だけしか見ない「偏差値教育」が悪い、というのと似たようなあたりになる。

なので、国籍や祖先の来歴などによって人が重大な判断で間違った扱いをされること、つまり差別というのは弱い個人にとって悪いものだけれども、朝鮮民族が大和民族に「民族差別」されているなどと考えることは、それ自体がまた妙な民族主義というか、ある種の信仰の産物なんじゃないかと思う。日本人にも大和民族以外の人はいっぱいいるし。

今ゆっくりと読んでいる本に、上代の8母音がどうやって生まれてきたかという仮説が書かれていて興味深いのだけれども、その中で、東歌には甲乙の母音区別がないという話もあって、「あづま」の人々は大和民族とはかなり違う人達だったんじゃないかと思う。古い文献には「毛人」という単語も出てくるけれども、今でいうアイヌの人たちとも違うんじゃないかと思う。そのアイヌにしても、本当に毛深くて彫りの深い系統と、列島先住の縄文系統の混血になっていて、遺伝的には単一民族とはいいがたい。

まあ、要するに異文化への嫌悪感とか、結局はそういうところに集約して終わりなんだと思う。他文化への尊敬を持つためには、自文化への自明な肯定、驕慢ではない自己愛や矜持を持つ必要があるのだけれど、外来文明の吸収によって立身出世してきた国家の住人にとっては、あんまり簡単なものでもなく面倒くさい話ではある。これは、日韓に共通した話だと思う。

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by antonin | 2014-06-19 23:20 | Trackback | Comments(0)

薬用ミューズ

かの人を我に語れ、ムーサよ。

オデュッセイアーが確かそんな語り始めだったと思う。このムーサは詩をつかさどる女神で、7人姉妹か何かの一人だったと読んだ覚えがある。その姉妹たちはそれぞれ芸術の一分野を担当していて、優れた芸術家たちのインスピレーションはこの女神姉妹の誰かの恩寵によるものだということになっていた。ムーサをフランス語で言うとミューズになるらしく、英語でもこの表現を使う。そしてミューズ的なものがミュージックで、この楽曲の女神だけが現代の日本にまで知られている。ミュージアムなんてのもあるけれども。

今日は仕事を終えると外の風が土のにおいがして、暑くもなく寒くもないアジアの夜という感じがしたので、一駅手前で電車を降りて、暗い夜の川に架かる橋を歩いて渡った。車に轢かれない程度に注意しながら音楽を聴いていた。ほとんどがドヴォルザークかその手前のロマン派後期の人たちの曲なんだけれども、電車の中で時間に追われながら聞くタイプのものではないので、普段はジャズとか映画音楽とか、昔気が向いて買った歌謡曲とか、そのあたりを聴くことが多い。

今日は夜道を歩きながらだったので、初めて買ったCDを取り込んだ音源を聴いていた。フォーマットもAACか何かの高圧縮音源だし、それより深刻なのは自分の耳が悪くなったことで、中高音の残響成分が得も言われぬ臨場感と質感を持っていて大好きだった曲が、普通ののっぺりとした音楽としてしか楽しめなくなっている。これは残念なことだ。レーシックの耳版みたいに蝸牛に植毛して高音感度上げるなんていう手術はないもんだろうか。

で、初めて買ったCDというのはこれ。

グリーグ:ペールギュント

ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団/マーキュリー・ミュージックエンタテインメント

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高校生の頃、近所に電気屋ができた。そこに当時最新鋭のDATのデモ機が置いてあった。学校の帰りに店に立ち寄り、店員に迷惑がられながらも、リヒャルト・シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」の冒頭のアレが収められたデモテープを再生して聴いてみたことがあって、おお、これがディジタルの音なのか、ということでひどく感動したことを今でもよく覚えている。あれは本気のオーディオセットの品質であり、アンプからヘッドフォンに至るアナログパートもバブル時代のそりゃ贅沢な作りをしていたはずだし、音源は音源でオーディオ屋さんがデモ用に使うものだから、レコーディングやマスタリングなどのプロダクト エンジニアリングもコスト度外視で徹底的にこだわったものだったのだろう。

そんな万博パビリオンのような力の入りようのオーディオにはその後もついぞ縁がなかったのだけれども、それでも日本の民生オーディオは着実にコストダウンを続け、それに我が家の家業もバブル景気の裾野にあってそれなりの恩恵を受けていたので、高校3年生の時にCDプレイヤーとカセットデッキ2台を備えたラジカセを買ってもらえた。一応進学校らしきところに通っていたので、アルバイト禁止ということでそんな生活をしていた。CDの手持ちがないので、近所の蔦屋に行ってレンタルCDを物色すると、こういうのが置いてあった。当時の蔦屋にはまだこんな品揃えもあったのだ。

ドヴォルザーク:スラヴ舞曲集(全曲)

チェコ・フィルハーモニー管弦楽団,ノイマン(ヴァーツラフ)/日本コロムビア

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クラシックのCDをリッピングすると、その後に再販された廉価版レーベルに上書きされて、購入した当時のライナー表紙とは違う図柄になっていることが多いのだが、この盤はまだ当時のままの、スラヴの民族衣装の美しい女性の写真から変わっていない。このスラヴ美人にも誘われて手に取った盤なのだが、家で再生したときにはその音質の素晴らしさに涙が出るほど感動した。連日このCDを掛けまくり、返却日前にその一部を両面46分のカセットテープに収めた。このテープはヘッドフォン ステレオに入れて持ち歩き、大学受験に落ちた帰り道などにも聴いていたので、今でもスラヴ舞曲第6番などを聴くと、あの頃の何とも言えない感情が蘇ってくる。

この、プラハ スプラフォンの初期ディジタル録音は「東側」の録音だけあって、西側の名門、ドイツ グラモフォンなどと比べると技術的にかなり劣るところがあり、耳の肥えた今になって聴くとかなり不躾な堅い音になっているのがわかる。けれども、FMラジオのN響アワーだとかサンデー クラシック リクエストだとかを新聞の週間番組表を頼りにエアーチェックした音源ばかり聴いていた当時、CDから直接再生される音質のキレには本当に驚いたものだった。DACは4倍オーバーサンプリングなんていう初歩的なもので、汎用品になった1bit ΣΔ DACを使っている今のスマホにも劣るようなものだったが、それでもカセットテープしか知らなかった当時の高校生には十分な贅沢だった。

このCDは結局後日改めて購入することになるのだけれども、最初に購入したCDはというと、NHK-FMの放送で聞いた翌日に一日中頭の中で無限ループ再生になっていた「アニトラの踊り」を収めた、ペール ギュント組曲のほうだった。一般的なプラケースではなく紙ホルダに入った廉価版だったが、こちらも指揮はヴァーツラフ ノイマンで、オケはゲヴァント ハウス管という「東側」の演奏だった。比較対象を知らないので批評めいたことはできないが、まずまずの内容じゃないかと思う。オケはいいのだけれど、ソプラノが過去に聴いたソルヴェイグに比べると少し好きじゃなかったのが印象に響いている。

そういう、若いころに聴いた音楽は、最近ではあまり聴かなくなってしまっていた。でも、ネットで文字情報ばっかり追い続けて感情が腐っていたところに、久しぶりに当時溺れていた後期ロマン派だとか国民楽派なんかの、音楽の教科書に載っているような曲を聴いてみると、少しだけ気分が落ち着いたような気がした。音楽を聴いたから気分が落ち着いたのか、多少でも気分が落ち着いたから音楽を聴く余裕ができたのか、そのあたりは判然としない。アントニーン・ドヴォルザークの交響曲を1曲しっかり聞くには、相当の心理的な余裕が必要で、時間に追われているときはもっと刺激的な曲の山場をザッピングして終わりになってしまう。

薫香などと並んで、音楽は宗教的な場面で好んで使われるけれども、嗅覚や音感というのはどちらかというと人間の脳の古い部分に直接訴えかける刺激なので、心理を整える助けにするには色々と都合がいいのだろう。落ち着いた音楽を聴いていると気分もいくらか落ち着いてくるような気がする。私はクラシックと言っても騒々しい曲が好きなので、落ち着くというよりは踊り疲れるというほうが感覚的に近いかもしれないけれども。

今では、当時は経済的に手に入らなかったような品質の良いステレオ イヤホンを所有できるようになったのだが、それで音楽を聴いてみると、当時感じた光るような高音の艶が全く感じられない。おそらくは聴覚が衰えて倍音の深いところまでは届かなくなったからだと思うのだけれど、よく聴くと曲によってはいくらかましなのがある。そういえば、初期にリッピングした盤はWindows Media Playerで192kbpsあたりのMP3に落とし、それを新しい高圧縮フォーマットに変換したんだった。最近取り込んだ盤は直接これらのフォーマットにエンコードしたので、同じビットレートでもMP3みたいにスペクトルが可聴域内でシーリングされていたりはしない。

ひょっとするとこのあたりが高音の聞こえない原因なのかもしれない。耳のせいじゃないとするといくらか望みがあるのだが、またいちいちCDから取り込みなおすのもなかなかしんどい作業ではある。Appleがクラウドがなんだかというサービスを始めたようだが、iTunesだと手持ちのCDの大部分が画像なしになってしまうし、曲名や芸術家名もバラバラになってしまって、とてもじゃないが定額料金を払う価値は感じられない。やはり自分でCDからリッピングし、必要ならメタデータをチマチマ編集してやらないと快適には聴けないのだ。まあ、CDのアルミ蒸着面が錆びて消える前に、いずれロスレス エンコードはやっておかないといけない作業なんだろう。

なんというか、音楽は意外に心に効くもんだな、と。

[HD] Edvard Grieg - Peer Gynt Suite, Anitra's Dance | Limburgs Symfonie Orkest, Otto Tausk (3/4) - YouTube

A. Dvorak: Slavonic dances No.5, Skocna, A major - YouTube ← コメントにもあるが、曲が第6番だった

R.Strauss Also sprach Zarathustra op.30 Part 1 - YouTube

ドヴォルザーク 交響曲第7番第3楽章 Dvorak Symphony No. 7 MOV3 - YouTube

Antonín Dvořák Symphony No 8 [No 4] G major Karajan Wiener Philarmoniker - YouTube

P. I. Tchaikovsky - Symphony No. 4 in F minor, Op. 36 (Sanderling) - YouTube


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by antonin | 2014-06-14 14:38 | Trackback | Comments(0)

“The world is a book and those who do not travel read only one page.”

そういう警句が書かれた地図の図像が流れてきたことがあって、誰が言ったのかというと聖アウグスティヌスだという。出典はよくわからないが、あちらでは結構有名な言葉らしく、画像検索すると、まあたくさん出てくる。

the world is a book - Google 検索

被造物たるこの世界を創造主の作品とみて、不完全な人の言葉を経由して語られた書物なんかよりも、神の直接の作品であるこの世界そのものと対話し、よくよくその意味を読み取ろうとした、なんていうあたりがデカルトさんが科学的手法を編み出した原点であったりなんかもして、世界を一冊の書物として見るあたりも似たような感覚が出どころなのかもしれない。変なところで情熱的で、妙なところで冷静なあのアウグスティヌスさんらしい感じがする。同じ読書なら、科学的な探求による精読よりも、旅行しまくりの乱読のほうが楽しそうでもある。

世界を一冊の書物と考えると、1ページだけを読んでいては意味が分からないが、かといって全巻通読しないと意味が分からないほど一貫したものでもなく、一話完結で気軽に読めるが、それでいて全体的に通底したテーマがある連作物というように見える。別の巻を読んでから先に読んだ巻を再読すると、また違った味わいがあるような、そんな感じ。

なんだか、またどこかへ行ってみたくなった。鳥取から山口とか、三重から福井とか、そのあたりがいいかな。家族連れだと関東甲信越、南東北くらいが限界かもしれない。プラハとかカイロとか、時間と費用を気にしないでいいなら見てみたい場所はいろいろとあるけれども。

ただまあ、サブカルチャーの時代というか、まだまだ地理的な距離が文化の違いに支配的だとはいっても、都市部だったらある階層にいる人々の文化は共通したものが多くて、むしろ同じ国に住んでいても、文化的に交わらないような職業だったり趣味だったり、そういう人達の中へ入り込んでみるほうがカルチャーギャップに驚いてしまうようなことが多い。

「一冊の書籍」は実はハイパーテキストでできていて、リンクのないページへ飛ぶのは意外に難しい。それでもまあ、人間に直接関係のある文化なら、6回リンクを踏めばすべてのページに行き着くという程度の距離ではあると思うので、あとは「縁」の問題かな、という気はする。とりあえず自宅の玄関を出てみるか。


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by antonin | 2014-06-08 14:26 | Trackback | Comments(0)

葦叢にて

エアコン完備 屋内運動会への移行進む - 虚構新聞

あはは。

「目的が手段を正当化する」というのはあんまりピンとこないけれども、「成果が過程を正当化する」ってのなら、いたるところにあるな、と思う。STAP細胞のアレにしたって、もしもう少しまともな実験ノートで、もっとまともな成果が出ていれば、たとえハートがちりばめられたノートやぬいぐるみが並べられた研究室でも、「○○○△子のノート術」とか「リケジョ職場のコーディネート力」なんて本が売られたに違いないのだ。売れるかどうかは別として。

冷戦の結果なんかは「自由主義が強権主義に勝った」だけにしか見えないのだけれども、ところどころで「資本主義が社会主義に勝った」という話にもなっている。リフレ理論も、これまでの日本の経済状況を分析すると、理論が正しかった部分と、理論通りとならなかった部分と、別の因子が混淆して結論が出せない部分とに分かれるはずなのだけれども、結局は最終的な景況から単純に白黒付ける論法が一般には行われるんだろう。学者さんはもちろんそういう人ばかりではないはずだけれども。

勝てば官軍負ければ賊軍、終わり良ければ総て良し。そういうことは遠い昔からいくらでも語られているところだけれども、これってのは、人間の脳の機構として極めて基礎的な部分に由来しているんじゃないかと、最近では考えている。例の、書かれなかった小説の「主人公」である人工知能の学習システムとか、ニューラルネットワークが天下り的な教師信号を持たない場合の信賞必罰的な学習モデルとかを考えると、人が眠っている間にやっている学習というのは、主にこの「成果が過程を正当化する」というヤツなんじゃないかという直感を持つようになった。同様に、失敗は過程を全否定するのだろうと。

この「結果論」というやつは、人間の理性にとっても感情にとってもかなり根本的な原理なんじゃないか。もしそうだとすると、たとえ目が覚めている間にどんなに理性で厳しく批判的に考察をしても、眠っている間の無意識によって結局はこのタイプの学習が進んでしまう。論理的な理性というのは、文字を覚えて、個人資産の水準で紙と筆だか、羊皮紙とペンだか、粘土と楔だとか、ともかくそういう、言葉をいったん脳の外部に蓄えて何度でも脳に還流する仕組みが整ってからできたものだろう。過去の自分の意見を外部化して客観視し、矛盾がなくなるまで何度も自問自答を繰り返さないと、精密な論理というのは練り上がってこない。要するに、twitterか何かで日がな一日対話を繰り返していると、あまり論理というのは育たないものなのだろうと思う。

人間の脳には、理性を司る前頭野、抽象概念を扱う側頭野、直感を担う後頭野、感情を引き起こす大脳辺縁系などがあるけれども、もう少し下位には小脳というシステムがあって、大脳と小脳は橋(きょう)でつながっている。この小脳は、基本的に情報の反芻をしない。入力から出力へ一方通行で情報を流し、並列度の非常に高い結合によって、かなり複雑な情報を一瞬で処理する。古典的なニューラルネットワークはだいたいパーセプトロンのような一方通行のモデルだったけれども、小脳の働きはこのモデルに近い。

大脳と小脳は、モルフォロジーもトポロジーもだいぶ異なるのだけれど、大脳というのは小脳や中脳のような進化的に履歴の古い部分に比べるとかなり自由な作りになっていて、情報の流し方によって一方通行的にもなれば相互通行的にもなる。過去を振り返る余裕もなく、レーシングカーに乗ってぶっ続けでサーキットを走らせるような情報処理をしていると、大脳全体が小脳のようにフィードフォワード的な働きをするようになる。論理より直観の塊のようになる。一方、他人との接触を控え瞑想に耽っていると、大脳で発生する信号が主な入力となって大脳を刺激し、小脳とは逆に相互循環的なネットワークになる。瞬間的判断は鈍くなるが、論理的で精密な考察ができるようになる。ただし外界の情報を遮断しすぎると、実世界と関係のない妄想の世界が強くなりすぎ、現実離れした理論を構築してしまう。そして脳分泌系の具合によっては統合失調を起こす。

だからまあ、あんまり論理、理論を積み上げすぎるといいことがないのだけれども、かといって時事ネタの議論に奔走しても、精巧だが深みのない反射神経の塊になってしまう。このあたり、難しいところだと思う。バランス、中庸、とかまぁそういうあたりなのだれども、中庸というものにはそれとわかる指標がないので、どうしようもないような気もする。端から端まで、正規分布していればだいたい正常なのだろうと思う。極端な人を排除するのも不健全だし、誰もが極端を目指すのも不健全なんだけど、だからと言って誰もが中庸を目指すのも、それはそれで不健全という気もする。

人間というものはよくわからない。

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by antonin | 2014-06-05 22:42 | Trackback | Comments(0)

戦争には断固反対する

人類の恒久平和を願い、戦争には断固反対する。

なぜか。それは、戦争というものが、人間としての総力を否応なくさらけ出し競い合わせる場であって、そういうところに放り込まれたら私は一発で死んじゃうか無能を晒して侮蔑の底に沈んじゃう自信があるからだ。平和な世の中なら「あんた面白いね」で済んでしまうところが、戦場では身も蓋もない実力勝負の連続で、正義だなんだというのさえ、人心を掌握するための技巧でしかない。嫌だ。そんな世界は嫌だ。

そういう、極々個人的な理由から戦争反対だ。ただまぁ、こういう私のような奴が一定数生き残っているということは、逃げ回る奴らにも何らかの競争優位があったということなんだろう。勇猛果敢な兵士を集めた精鋭部隊が天才的指揮官を敵にして全滅するということもある。それを横目に逃げ回った弱虫が、なんとか戦禍を逃げ延びて、平和が戻ったところでのうのうと暮らすということも、有史以前の人類史では珍しいことではなかったんだろう。

経済戦争も戦争の一種なのだとすると、やはり戦うのは面倒だ。著しい戦果を挙げる英雄だとか、厳しい戦局でも弱音を吐かず粘り強く戦う猛者は輝かしく見えるけれども、ある程度を超すと、勝手にやってくれ、こちらを巻き込んでくれるな、と思う。この戦争が終わったら、というのは死亡フラグだけれども、世界的経済戦争の前線も、早いところこの極東から中印の先へ去ってくれと思う。

二流の働きをする労働者に、笑いながら惜しげもなく二流の対価を払えるような、ゆるい生活に戻りたいじゃないか。賢い消費者になるとか、経営感覚とリーダーシップを兼ね備えた一流の労働者を求めるのも頼もしいが、そんな奴ばかりじゃ世の中は窮屈だ。

ある程度隆盛を極めた文明が衰退すると、文明の後継者たちは、良き官僚となる。その官僚たちを支配するのは、よそから攻めてきた蛮族の王と相場が決まっている。五胡に支配された漢人たちもそうだし、ゲルマンに支配されたローマ人たちも同じだ。平氏や源氏の支配を受け入れた後の公家たちも似たようなものだったかもしれない。

こういう過程で、文明の辺縁の人たちは、単に蹂躙されて結構悲惨な目に遭う。ヴェネツィアがあんな干潟の沖にあるのもそういう事情があるし、大日本帝国末期の琉球もそういう具合だったのだろう。だからまぁ、衰退が常にハッピーというわけではもちろんないのだけれども、どうせ衰退するなら優雅に行きたいものだと思う。どうせ人口が維持できなくなった時点で文明も維持できないというのもわかりきっているのだし。神話的栄華の時期を過ぎたソクラテス時代のアテナイにも、少子化対策のための施策があったとかなんとか。

まあいいや。寝る。

▶ PAN SONIC VAKIO album(1995) 07 Hapatus - YouTube

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by antonin | 2014-06-04 00:49 | Trackback | Comments(0)


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