安敦誌


つまらない話など
by antonin
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水に落ちたロバ

一度書きかけた文章を消してしまった。まあいい。
こういう寓話がある。

塩をはこぶロバ <福娘童話集 きょうのイソップ童話>

中世には寓話に教訓が添えられるスタイルが一般的になったので、「怠け心にはきっと悪い報いがあるだろう」みたいな倫理噺になってしまうのだが、そういう神父さんが新約の一説を引いて説教するようなのとはまた違った読み方も、古代ギリシアにはあったのではないかと思う。

ちょっとまともな資料を引用できないのだけれども、ペットを飼う日本人の心理には、ペットを一人前の生き物として育て、友として付き合うようなスタイルとは違った、弱い者を溺愛し、そして溺愛されたものが自分に依存する様子を見ることで、自分の存在意義を感じて安心するというような、そういう形式が多いというような話がある。

同じような「病理」が、幼い子供を育てる母親の一部にもあるらしく、そういう母親に育てられた子供が成長すると、依存性の高い人間になるという。子供が依存してくることに喜びを覚える母親の育児は、子供に何か新しいことをさせるのだけれども、それが万事うまくいって子供が自分から離れることに無意識の恐怖心を持っていて、ついつい子供が失敗して自分がそれを助けるようなシナリオで事を進めてしまうらしい。

水に落ちて荷が流れて楽になるロバと、ロバが水に落ちるような荷を負わせておいて、水に落ちたロバを責めずに助ける自分の優しさに恍惚となる飼い主の共依存、といった光景が、母と子の間に成立する。そして、そういうシナリオの中で育った人間は、うまくやれば成功できるようなことでも、ついつい失敗に終わって慰められるような展開を、これもまた無意識のうちに想定してしまい、そして最終的には、実際にも失敗してしまうらしい。

人間誰しも幸福になりたいと思うのは自明の原理のように見えるが、「とても幸福になる選択肢」と「少し不幸になる選択肢」が提示された場合、後者のほうが自分に似合っていると感じる人もいくらかいるということがあるらしい。

「自己愛型人格障害」という類型に当てはめられてしまうような、分不相応な幸福が自分にもたらされて当然だ、という方向の不釣合いも厄介だが、敢えて不幸を選択する不釣合いも、それはそれで厄介な障害だろう。ゼロサムゲームでそれをやって、ほかの誰かが幸福になるのならまだいいが、ノンゼロサムの状況で、例えば約束を守れば誰もが幸福になる場面でも、その約束を破って関係者を巻き込みつつ不幸のほうを選び取るのだとしたら、これは周囲にとっても厄介な問題である。

と、ここまで他人事のように書いておいて、実は今日も自分語りなのだけれども、私はこの水に落ちたロバのような子供時代を過ごしたらしいという状況証拠が、ちらほらと見つかる。四十を過ぎた今になっても、どうやら無意識の習慣として、失敗となる結末を望むようなクセがあるらしい。無意識による行動なのであまり自覚がないが、私にもどうやらそういう傾向があるらしい。

で、そう書くと母親が悪いように思えるが、そういう母親の行動も、ある種の弱さを含みながらも、基本的には善意であり、また、そのまた母親から受けた育て方に遠因があったりして、こうなるともう、親の因果が子に報い、という具合で、因縁説だの輪廻だの、そういう論も現実味を帯びてくるようになる。超自然的な現象ではなく、脳による学習という物理現象を通じた情報系統伝達というような意味で。

で、完全に母親や祖母のせいにするのではないのだけれども、そういう影響って取り去りにくいんだよなぁ、と、三十歳で脳の動きがそれなりに固定化して以降は、諦めに近い形で受け入れるようになっている。幸い、最近は薄情になってきているので、そういう子育ての仕方をしなくなってきている。ただ、第一子のムスメに対しては、多少それをやってしまったような気がする。

親として成熟した、というようなことは無くて、また別の酷薄さに変わっただけのような気もするが、育児に失敗するという結末を暗に望んでいるんだとすれば、それはいかんなぁ、幸福にしてやらないとなぁ、と考えている。考えているのと、反射的に実行できる習慣になることの間には当然に溝があって、成功する自分のイメージづくりみたいな行動療法も飽きずに続けないといけない。このあたり、当人が心の中で決意しても無意味なので、外部にシステム化しないといけないんだが、いい形式がまだ思いつかない。んー。

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by antonin | 2014-08-04 00:25 | Trackback | Comments(0)

ブーメランが刺さる話

PC遠隔操作事件のアレ、長すぎるだろうという気がするが、まだ整理がついていない。

当時思っていたのは、一般的な冤罪問題としてではなくて、遠隔操作による犯罪予告という警察組織への挑戦的犯罪が、あたかも社会全体に対する挑戦的重大犯罪であるかのように報道され続けている、そのあたりへのイライラだった。STAP細胞みたいな未熟な論文が、未検証の段階でなぜいきなりあんなに大きく報道されたのか、というあたりにも似た違和感だった。

ただ実際のところ、保釈中のあの工作が発覚するまでは、8割くらいの確率で冤罪だろうと考えていたので、それが冤罪ではないと判明したとき、それまで持っていた、警察組織の国民個人への恨みによる悪質さの誇張があるという感覚が、どの程度まで「騙されていた」ことによるものだったのかという切り分けができていなかった。そして、今もまだその切り分けは完了していない。

冤罪でない場合、ではあの身柄拘束と報道の仕方は正しかったのか、という問題はある。身柄拘束については他の犯罪でも警察と検察に確信がある場合に同様なのだとしたら、問題は刑事起訴手続き一般の話になって、遠隔操作事件に固有の問題ではなくなる。あの事件に固有の問題というのは、猫カフェ情報あたりを含めた報道へのリークの仕方だけということになる。

事件の発端として、自白の証拠採用と、調書の勝手な作文が冤罪を生み出しかけたという根本問題はある。ただ、遠隔操作事件が特徴的なのは、「ネット上の犯罪予告により警察の業務をいたずらに妨害し、またその容疑者に対する不正な手続きを明るみにしたことで警察に恥をかかせた、容疑者個人に対する公権組織側の恨みによる執拗な反撃」と解釈できたからで、その部分が仮に全て妄想みたいなものだったのだとすると、当時の憤りの理由が根本から消えてしまう。

ただ、本当にそれで「騙されていました、今後は気を付けます」で納得できるのかというと、そうでもなかった。やはり、PC遠隔操作事件の特異的な部分は、新奇なサイバー犯罪というあたりではなくて、犯罪予告を利用した「警察への挑戦的犯罪」の中でも、一段と高度で、なおかつ途中までは成功したものだったからだ。

前後して袴田死刑囚の一件などがあって、遠隔操作事件のほうも確かに冤罪事件の範疇で捉えることもできたし、遠隔操作された側の人達の扱いで、確かにそういう実例もあった。冤罪は許されるべきではないが、そうは言いながらも、そこはどうしても確率的なものになるで、凶悪犯を無罪放免にするリスクと常にトレードオフの関係にある。ただ、そういう場合、弱い個人の側に有利であるべき、というのは憲法の文面にも近い立場になる。けれども、そもそも「犯罪予告は本当に凶悪犯罪なのか」という根本的な問題もある。

直後に起こった女児殺害事件の犯人逮捕の話を絡める人もあったけれども、冤罪リスクの話は別として、そこには警察に対する挑発は無かったので、同じ議論には乗らないという風に考えていた。同じ議論に乗せるなら統計プログラムで馬券を買ったら多額の追徴課税が来たという話のほうで、権力組織が自己保身のために、法令の解釈拡大によって国民個人への攻撃をできるようなら、それはマズいな、という感覚だった。

けれども今回、その攻撃された国民個人が明確に犯罪者と判明してしまった。しかも、その犯罪が権力への悪意による攻撃だということになった。この場合、どの程度まで個人の側を擁護できるのだろうという限度が見えなくなったし、まだ見えていない。涙を流した弁護士の気持ちがわかる。

以前、原発を扱う技術者も人の子なのだから、あまり極度に締め上げられたら正しいリスク開示ができなくなるし、そういう状況が軽水炉安全神話の発生と福島第一原発の爆発を招いた一因だ、というようなことを書いた。同じように考えるとするなら、犯罪予告を過度な執拗さで取り締まる警察の行動も、半分は警察に原因があるが、警察官も人の子なのだから、犯罪予告がありながら殺人事件が起こるのを許してしまった場合、極端に警察を責める市民の側に原因の半分があるということになる。

警察や検察という官僚組織が組織的保身行動に走るのも、原発の一件と同じで日本国民全体の懲罰的傾向が原因だ、という話になる。けれども私は、遠隔操作事件の真犯人を追い詰める検察の行動や、そこに至る警察の調査行動を、懲罰的に批判していた。私もまた大組織に対して懲罰的な日本国民の一人に過ぎなかったということになる。

要するに、自分の行動が自分の批判する日本人の行動そのもだったということを受け入れられないというのが、整理の付かない理由の核心かもしれない。自分の愚かさを認めるほど悔しいことはない。そして、まだ例の話の整理はついていない。ということは、私は自分の愚かさを認められるほどには賢くはないという結論になる。残念な話だ。

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by antonin | 2014-08-03 03:51 | Trackback | Comments(0)

新盆(しんぼん)と旧盆の間に

東京っ子はお盆を7月に済ませるという。そもそもお盆というのは7月半ばなのだけれども、太陰暦から太陽暦に切り替わるところで、季節に合わせるのか暦の数字に合わせるのかという選択を迫られた。そして東京の人は、正月を新暦の1月に移し、盆を新暦の7月に移した。ところが、東京に出てきた地方の人は、正月を新暦に移すのは飲んだが、盆を新暦に移すのだけは飲まなかった。稲の具合なんかで、季節のずれがあからさまだったという事情があるのかもしれないが、よくわからない。なぜ正月だけが新暦に移ったのだろう。おかげで、ちょうど半年違いだったはずの盆と正月が、1ヶ月と少々タイミングが狂うことになった。

7月16日と言えば「地獄の釜の蓋が開く」といって、地獄の鬼も仕事を休むという楽しみな日だったらしい。明治になって、イギリスやフランスの近代工業を輸入する過程で、ユダヤ教に起源を持つ週休というものが日本に導入された。それまでは、休みと言えば盆と正月くらいしかなかったから、非常に嬉しいことを「盆と正月が一緒に来たような」と形容した。その後の日本では週休二日制なども普及したが、電燈の進歩のために、代わりに残業というものが付くようになった。

江戸の人々は、週休は無かったが、日が傾くと帰宅した。職によっては昼前に仕事を切り上げるのが要領の良い粋な働き方とする文化があったという。そして盆暮れ正月は徹底的に休んだ。おせち料理が保存食の詰め合わせのようになっているのも、昔の女性の、正月には絶対に仕事をしないという強い意志の表れだったのだろう。三が日は料理をせず、おせちをつついて暮らす。掃除洗濯は年末のうちに徹底的に済ませて、正月には何もしない。

週休二日で、残業が長くてバカンスも無いのと、週休は無いが残業もなく盆と正月には全ての店をきちんと閉じていた時代とでは、どちらが豊かなのだろう。片方の生活しか知らないのではっきりとした比較はできないが、体ではなく頭を使う仕事には、残業なし、週休なしのほうが過ごしやすい。3日も前のことを細かく覚えているのは難しいし、5時間以上も高度な精神の集中を保てない。眠る2時間前から食事は避けたほうがいいというが、眠る2時間前くらいから目や頭を使うのもやめたほうがいい。電気のない時代にも不眠というのはあったんだろうか。

イタリアの街などを歩くと夜はしっかりと暗くなっていて、明かりがあっても電球の明かりだった。下品なほどに白い蛍光灯の明かりが夜道を照らすということは、マクドナルドの店舗などを除けば見る機会がなかった。夜が暗いというのは品が良いものだと感じた。

ローマ帝国内のユダヤ人は、自分たちの神以外には仕えないという契約があると言って、兵役と神事への参加を拒んだ。ローマ帝国は寛容という徳を重んじるので、兵役を拒む以上市民権は与えられないが、属州の住民として、納税を条件としてユダヤ教徒の主張を認めた。けれども、ユダヤ教徒たちがあまりにもローマの神々と、そこに象徴される多様性の精神を侮辱するので、ついにはユダヤ国家はローマ帝国に滅ぼされた。

時代が下って、コンスタンティヌス帝がキリスト教を「公認」して、帝都をローマからビザンティオンに移した頃、ユダヤ教徒の亜種であるキリスト教徒がローマ軍に入ってくるようになった。そして彼らは、キリスト教徒には当然の権利として、ユダヤ教から続く「安息日」の習慣をローマ軍に持ち込んだ。そしてこれを羨んだローマ兵が次々にキリスト教に改宗したなんていうあたりが、キリスト教普及の第一歩だったらしい。そして、ヨーロッパは神権政治の中世に移っていく。

そして中世が終わるとヨーロッパは機械文明によって世界を席巻し、その結果のひとつとして、現代日本は古代ユダヤ教の安息日に由来する週休というのを1回か2回取る制度を社会生活の標準に据えている。これもいろいろと思うところはあるけれども、仕方がないのだろうと思う。ただ、安息日と盆休みというのはあんまり親和性の高い制度ではないので、この先どうなっていくんだろうとは思う。

8月に入り、子供の感覚ならいざしらず、中年の感覚としては、もう夏の終わりが近いと感じる。夏の最後、立秋を過ぎたあたりに盂蘭盆会がある。子供は、お盆が終わったあたりで早朝の涼しさや薄暗さを感じて、ようやく夏の終わりに気付く。永遠かと思えた夏休みにも終わりがあるんだということを思い知らされる。共働きだと、夏休みでも昼間は家が無人になるので、結局子供は学校の中の学童保育で過ごすことになる。夏休みの終わりも、正直なところ、やっと終わったかという感じなのかもしれない。

女性の社会進出と両立する家庭の尊重といったら、男性も女性も5時で仕事を切り上げ、盆暮れ正月にはしっかり休む昔の個人商店のような生活へ戻ることなんじゃないかと思うが、どうだろう。今さらコンビニのない社会というのもあり得ないような気がするが、いわゆる保守派の人の主張を読むとそういう先祖返りを望むような内容になっている。本当にそういう覚悟があるんだろうか。

産業界が望むように、男女とも「大統領のように働き、王のように遊ぶ」社会になると、育児も集約産業化して生産性を上げ、個人は子供を産みっぱなしでOKという話になるんだが、そういう資本主義的というか、あるいは北欧的な社会主義になるのかもしれないが、どちらにしろ、これまでの文明が進んできた方向へ突き進むという話になる。こちらの主張をする人も、やはり覚悟がないように見える。どうなんだろう。

政治の話をするつもりじゃなかった。
花火がきれいだった。
ビールがうまかった。
もうすぐ夏が終わる。

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by antonin | 2014-08-03 01:31 | Trackback | Comments(0)


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