安敦誌


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音楽の言語性

アナと雪の女王の劇中歌がえらい流行して、やれ和訳が原詩のニュアンスと違うなんていう批判があったが、それは悪いというより優れた翻訳であるという証明だろうと思う。商業音楽というのは世につれ人につれ、時代の空気に寄り添う義務というものがあって、歌詞が翻訳されたら、そこに込められた感情も微妙に入れ替えられるべきだろうと思う。そもそも、翻訳というのはそういうものなのだろうと思う。本当に原文の意味を守ろうとすると、単語は基本的に音訳中心になり、意味の通じない部分は岩波文庫のように別途詳細な解説が必要になる。

翻訳というのは、原文のリズムを守ろうとすれば、ある程度意味を翻してやる必要がある。しかも、音楽という強力なリズムの縛りがある歌詞の翻訳ではそれがなおさら重要で、しかも映像が付くとなると、キャラクターが口を大きく開けているタイミングで「ん~」などという詩を当てることも許されなくなる。しかも商業的な成功のために、日本の文化的な背景にも寄り添う必要がある。そして、そういう難しい制約を高度に乗り越えた翻訳に成功したからこそ、あの曲はヒットしたのだろう。

そういう要素はあるとして、あの「ありのままで」のヒットには、曲そのものの要素も大きかったんじゃないかという気がしている。最近の日本のポップスはあまり大ヒットがなくなっているが、その要因の小さくない部分が、ポップスの「本格化」にあると思っていた。そして、「ありのままで」の曲構成というのが、あまり「本格的」でないという特徴があった。

25か国語で聴く "Let it go" という映像があって面白かったが、あれを聴くと、北京語バージョンが一番本格的なポップスの曲調で歌われていて、日本語版が世界一エキゾチックな発音で歌われている。そういうのが好きなネット上の人たちに kawaii とか言われていたのだが、実は「原曲」に当たる英語版そのものが、かなりエキゾチックな音で歌われているのに気付く。そもそもあの話は北欧民話を土台にしていて、それは歴史音痴で地理音痴なアメリカ市民でもさすがに理解可能なように作られている。そして、その北欧の、特にサーメの土地に根差した民族的な舞台の印象を作るのに、「アナと雪の女王」で使われる音楽も一役買っている。

『アナと雪の女王』25か国語版ミュージック・クリップ - YouTube

サーメ、英語でいう Finnish の人々というのは、血統でいえばかなり純血に近いゲルマン人が多いけれども、文化的にはフン族と呼ばれたアジア出身の民族文化が残っている。言語的にも、母音が多い音節言語に近い音を使うらしい。あの映画の音楽が少しでもフィンランド風なのかどうかはあまり自信がないけれども、「アメリカ人にはそう聞こえる」ような味付けはされているだろう。そして、あの映画はミュージカル風にできている。このミュージカルというのは、アメリカのポップスとは別の先祖を持っていて、そのあたりもこのミュージカルアニメの音楽後世にある種の影響を与えているように思う。

ヨーロッパから新大陸に渡った人たちが独立戦争を起こして新国家を建設したけれども、この新しい国は旧世界に比べて文化資本的に貧しいということを、産業資本を積み上げて新しい貴族階級に至った人たちがかなり気にしている時代があって、当時ロンドンで人気のあったドヴォルザークがジャネット・サーバー夫人に招聘されてナショナル音楽院の院長に就いたのにもそういう事情があった。

そのドヴォルザークがインディアン、今でいうネイティブ・アメリカンたちや、黒人たちの音楽に目をつけ、交響曲第9番ホ短調「新世界」の中にも日本のヨナ抜きにも似たペンタトニックだとか、シンコペーション、いわゆる裏拍などを取り込んでいた。こういうのが白人ジャズの歴史にいくらか影響しているらしい。そして、ジャズの影響からちょっと距離を置いたところから、ロックが出てくる。このロックというのが、アメリカ合衆国の政治的軍事的な覇権とともに、20世紀後半世界の音楽を規定していく。

同じ時代、日本の音楽というのはどちらかというと追いつけ追い越せの文化の渦中にあって、アメリカやイギリスの音楽を日本人にも理解できる程度にやわらげて「翻訳」するのが仕事、というようなところがあった。古くは大正時代のワルツあたりからこうした「なんとなく英語っぽい発音」による楽曲というのが売れていたらしいが、大ヒットレベルになったのはサザンオールスターズあたりからなんじゃないかと思う。個人的にはあの発音が大嫌いだったが、桑田佳祐さんが紫綬褒章を受章するに至って、時代も変わったものだと思った。

そして、その流れというのはマドンナ・クローンの浜崎あゆみさんあたりを経て、アメリカ育ちの宇多田ヒカルさんのあたりで完成を見たのだと思う。ラジオから流れてくる黒人ラップはかっこいいのに、翻訳された「だよねー」を聴いて脱力した時代もあったが、最近の日本語ラップはよくこなれていて良いと思う。良いのだが、難しくなったという気はする。ラジオで聞いて、カラオケなどでおいそれと物まねできる水準のものではなくなってきたように思う。

19世紀後半から20世紀のアメリカ音楽というのは、クラシックの呪縛から英語を話すアメリカ人のための音楽を創造する戦いの歴史みたいなところがあって、アメリカ合衆国という統治システムが爛熟した現代のアメリカ音楽もまた、アメリカ英語で歌うための最適化が完成した音楽になっている。そして、ある程度国際化を果たした日本の商業音楽もまた、かなり本格的にアメリカ音楽を再現できるようになったのだが、どうもこの音楽というのが21世紀初頭の日本国民からは遠いところまで行ってしまったような気がしていた。

日本人に歌いやすい音楽というのは当然日本語の歌であり、日本語で歌を歌う以上は、子音で終わる閉音節というのは出てこない。どちらかというと、「朗々と」という形容が似合うような、長い母音を複雑な節回しで修飾しながら引っ張っていくような音楽のほうが歌いやすい。歌会始で「歌われる」和歌のように、子音はほどほどに、美しく母音を引き回すのが日本語の音楽というものになる。

ところが、長い戦後を終えて日本の商業音楽界が到達した音楽文化は、ゲルマン語族であるアメリカ英語に極度に最適化された音楽に極めて近いものになっている。そして、あまり英語が得意ではない日本の一般市民は、そのゲルマン的な音楽についていけなくなってきている。そこへ、「ありのままで」が大ヒットした。要は、歌いやすいのだろうと思う。

"Let it go" というのは、20世紀のアメリカがクラシックの呪縛を踏み越えようとする過程で生まれた、ミュージカルの音楽をベースにしてる。ミュージカルという演劇は当然オペラを源流としていて、その音楽劇を現代アメリカ風にアレンジしたものになっている。そして、アメリカがオペラを輸入した時代の旧大陸のオペラ文化というと、ヴァグナーかロッシーニか、そのあたりということになるのだろう。

ヴァグナーはドイツの人なので、それまでのオペラから少し離れたところで曲を作るようになり、弦楽合奏が細かいリズムを刻みながら和音を彩るというような新しい技法を導入したけれども、それでもこの人はベートーヴェンをひどく尊敬していて、あの歓喜の歌のような、古い時代のライン流域の歌謡もまた愛していて、比較的母音を朗々と引くタイプのメロディーに抵抗がなかったようだ。

そして、そういうオペラの源流はというと、やはりバロック時代のイタリアにある。モーツァルトはフランス風の絢爛豪華な器楽編曲とイタリア風の愉快なオペラをミックスして、ドイツ語の脚本でオペラを作曲したが、それでもまだ時代的な制約からは自由ではなくて、基本的な構成というのはゲルマン独自のものではなくてイタリア風の旋律にあった。

イタリアオペラというのは、もちろんイタリア語で歌われるもので、イタリア語というのは地中海語族の母音豊かな言語である。物語の山場では、歌手は母音を朗々と歌い上げる。悲劇でも、感情的なアリアは豊かな母音で歌われる。あの極端に技巧的なオペラの発声というのは苦手だが、それでもイタリアオペラの旋律というのは美しく感じる。その美しく感じる理由はもちろん器楽にも声楽にも合うメロディーにあると思うのだが、母音の豊かなイタリア語と、同じく5つの母音に深く依存した現代日本語の類似性にもあるような気がしている。

イタリア語と日本語の母音構成が似ている理由が、明治期の「ローマ字」の輸入にあるのか、あるいは有史以前のユーラシア文化に源流があるのか、はたまた単なる偶然なのか、そのあたりはわからない。けれども、イタリア語と日本語の音は、アメリカ英語などに比べればかなり似ていると言える。濃音や激音があり閉音節も持つ朝鮮語などより、音だけならよほど近い。ギリシア語にもこの傾向があって、古代エジプトの言語もそうした音節言語として解釈できるらしい。ポリネシアの言語ではこの母音依存の傾向はより極端になる。なので、個人的にこういう母音の豊富な言語を海洋言語と呼んでいるのだが、海上生活が母音を要請して、森林もしくは雪国での生活が子音を要請したのかという、そういう言語発生上の合理性があるのかどうかというところまではわからない。

ともかく、ヨーロッパ音楽の源流にはラテン帝国の公用語であったラテン語のなれの果てであるイタリア語があって、その影響というのは結構現代の近くにまで及んでいたのだろうと思っている。そして現代アメリカはその呪縛をほぼ完全に振り切っていているのだが、その着地点というのは、日本人にはむしろ馴染みにくい音になってしまっている。イタリア崩れくらいの音楽のほうが日本人には合っている。そこに、南欧風の明るい長調ではなくて、ケルト系やスラヴ系の短調含みの曲調が乗ると、さらに性に合うように思うが、そこまで行くとやや古臭かったり田舎くさくなったりするので、加減は難しいだろう。

そして、バルト海や北海に面したサーメの土地を主題とした、ミュージカルの系統を持つ音楽として "Let it go" は作曲された。そして、そこに臆面もなく日本語らしい歌詞が乗せられた結果、「ありのままで」は大ヒットした。まあ、この曲も細かい部分は英語に最適化した最近のリズムを持ってはいると思うけれども、その部分が古臭さを排除するのに役立っていると思うし、肝心な部分での母音の引張りを引き立てているようにも思う。歌っている人が歌舞伎役者の家系に生まれた女性というのは偶然の部分が大きいだろうが、同時に発表された「本格的」バージョンのほう(エンディング・バージョン)がそれほどヒットしていないところを見ると、この見立ても悪くないのではないかと思う。

あの大国であるアメリカはアメリカで、本質的に異国文化である歴史的な音楽文化の受容に苦労していたのだとするといくらか面白いし、そこに迎合した末に反旗を翻しているような日本のポピュラーミュージックの流れもまた面白い。世代文化というのは親世代の文化への反発と受容を一生かけてやっていくようなところがあって、その縞模様のようなものを眺めるのは、少しだけ呆れるようなところもあるけれども、まあ面白い。

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by antonin | 2014-12-07 17:24 | Trackback | Comments(0)


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