安敦誌


つまらない話など
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光は本当に量子なのか

光ってなんなんだろう、というのをブツブツ考えている。今や、光というのは光量子、フォトンというものだということが常識になっていて、波動か粒子かなんていう議論はとうの昔にケリが付いたことになっている。けれどもよくよく考えると、どこの説明を読んでも、光が粒子性、あるいは離散性みたいな性質を示す場合というのは、何かの物質粒子、つまり質量のあるフェルミオンとの相互作用を起こした場合に限られるように思える。

光そのものというのはフェルミオンのような状態の排他性がないので、空間的にもポテンシャル的にも線形性がある。この状態のままだと人間からは測定できないので、何らかの物質粒子と相互作用させて、物質側の状態変化を観測している。電流として光を観測するにしても、最初に電子というフェルミオンが媒介していて、純粋な電磁波そのものを直接に観測しているのではなく、電磁波と相互作用する電子の状態を通じて観測している。

そういう観測をすると、光は量子性を示す。なので確かに数式上では光を量子として扱うのが美しい記述になるのだけれども、実験結果などを考えるとき、光自身が量子であると考えてしまうと、スリット干渉実験などのようにいろいろと納得のいかない現象が多い。そこで、光、つまりは電磁波というのはあくまで純粋に近い波動であり、電磁波が物質粒子と相互作用する場合には物質粒子の性質として量子性が出てしまうのではないかと考えるようになった。

ミクロスケールでは電子をはじめとした物質粒子もド・ブロイの物質波という波動性を持っているが、人間が物理観測に使えるような素子では、何らかの結晶質のような空間的に束縛された状態の物質を使っている場合が多い。そういう、TEMなんかを使うと個々の原子のツブツブが見えてしまうような粒子性を示す状態のフェルミオンで電磁波を観測しているのだが、人間が想像する以上にそのフェルミオンというのは広範な波動を持っているんじゃないかという気がしている。

統計的に意味のあるレベルでは各粒子は格子点に局在化しているのだが、光のような波動と相互作用する場合には、意外にブロードな、結構非局在化した物質側の波動が広がっていて、それが純波動である電磁波と相互作用し、たとえば感光反応などの場合には、たまたま何らかの位相が合った粒子が "winner gets all" 式に、ある空間の電磁波のエネルギーを粒子が拘束されている中央付近に集めてしまうのではないかという気がしている。実際、格子点に束縛されていない単原子で光を「観測」してみても、光量子の状態はほとんど収束しないものらしい。

光は3原色から成っています、というのは小学校や中学校の理科の知識としては正しいのだけれども、網膜の錐体細胞内で起こっている光化学反応あたりを理解すると、3原色というのは別に光の性質などではなくて、それを受容する視神経の性質に過ぎないということがわかるようになる。これと同じように、光をフォトンという量子として扱うというのは、あくまで数式上のテクニックに過ぎず、実際のところ量子性というのは光の性質などではなく、光と相互作用する際のフェルミオンの性質に過ぎないんじゃないのか。

そう考えると、マルチパス観測で「光子」が通過しただのなんだのというのは、単に観測側のフェルミオンの波動がどういう形で広がるかというあたりをいじっているに過ぎず、電磁波はあくまで波動として広く並行的に拡散しているんですよ、ということになる。だから、光が「通過した」とか「通過していない」とかは実は観測できていなくて、光はどちらの検出器に検出されるかにかかわらず常にどちらのスリットも通過していることになる。

一方、光の「通過」を観測するかどうかを制御することで、通過点で観測に使っているフェルミオン側の波動の広がり方が、実は観測側にも同時的な影響を与えてしまっていて、その相関が一様に進行する電磁波と観測点の物質粒子の相互作用に影響してしまっているに過ぎないんじゃないかと考え始めている。ハミルトニアンなんかで記述できる既知の波動関数ではなくて、M理論とつながってくるような、もっと高次元で、いわゆる粒子の領域よりずっと広い範囲に影響する波動があって、それが電磁波と相互作用しているんじゃないのか。

ただ、そのフェルミオンが光と相互作用する場合の具合が、EPR相関などでもわかるように、必ずしも局所的でも光速に縛られた因果的なものでもないので、ちょっとマクロ世界の常識が通じにくいというところは残る。ただ、これにしても光速より早く伝わる因果関係は無いという常識を捨てれば、むしろマクロ世界のように光のような非常に速い伝達と水面の波のような遅い伝達があるモデルを持ち込みやすいような気がする。

逆に考えると、量子が「素粒子」に近いものであるという発想自体が大きな間違いで、電磁波が大数法則にしたがうマクロな波動と見なせるほど広大なミクロ世界が、電子などのレプトンより下のスケールにもまだまだ広がっているという方が正しいのかもしれない。

こういうことを考えはするのだけれども、それを裏付ける傍証の調査などをする気力もなく、プログラムのユニットテストの方法論なんていう実用的な情報を集めるのもそこそこ楽しく、また通勤時間などはまとまりのつかないSNS情報の流し読みなどで潰れていったりもするので、こういう妄想を確信に変えるほどのことはできないんだろうなぁ、という気がして、なんだか気怠い。

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by antonin | 2015-03-17 23:48 | Trackback | Comments(0)

自分のアタマで考えざるを得ない生き方

数式の変換過程だとか、将棋の読み手だとか、そういう作業経過を覚えておく短期記憶に困らない人というのは脳の海馬が大きいらしいのだが、そういう人はきっと記憶の構造が違うのだろう。自分はどうやら海馬が小さいので、記憶というのは丸暗記ではなくて、たとえ嘘でもいいから何かしらの意味付けが必須だった。そうして、短期記憶をなるべく経由せずに、新皮質側の連想記憶でものを覚えていく。そうすると記憶は意味論でしかできなくなるから、細かいディテールは消えて、「だいたいこんな意味のことだった」という記憶の集合体になっていく。

私はこういうものの覚え方しかできないので、どんなに些細なことでも、学習というのは意味の考察とほとんど等価だった。理由、構造、関係、そういったものを、とりあえずでもいいので発見しないと記憶にならなかった。これが、小さい海馬を持って学校のようなものに通う義務を課せられた人間が、考えざるを得ない生き方をしてきた主な理由だった。覚えにくく忘れにくいので、定期試験には弱く外部模試のような出題範囲の広いものには強い傾向があった。

もちろん、特段の理由なんて無いんだからとにかく反復で覚えるしかない、というものもある。そういうことも全く不可能ではなかったが、非常に不得意だった。得意なのは、どうしても理由付けが可能なものになった。何事も既存の記憶に関連付けられるような、理由や背景や構造を必要とするので、ときには普通の人が気付かないような本質的な理由に気付くこともあったが、一方で、妄想に近いようなこじつけの理由付けで記憶されるようなことも多かった。記憶するためには既存の記憶と連合する理由付けが必要なだけで、それが必ずしも客観的な正しさと整合する必要はなかった。

どうしてそんなことまで知ってるの、というようなことを呆れたように言われることもあるが、たいていはそういう理由探しからトリビアルな情報にたどり着いたという経緯だった。そこまでしないとものが覚えられないので必要に迫られてやっているのと、単純にそういうのが楽しいからというのと、両方だった。

海馬の大きい人は「まずは深いことを考えずに記憶してみるといいよ」と言うし、海馬の小さい人は「とにかく自分の頭で考えてみよう」などと言うのだが、こういうものにはおそらく生まれつきの向き不向きがあって、自分の脳の器質に合わない方法を使ってみても、きっとその提唱者のようにはうまくいかない。憧れる人というのは自分にはない能力を持った人であることが多いが、近親憎悪みたいな感情があっても、結局は自分に似たタイプの人に倣うのが効率がいい。顔かたちと違って、脳の機能というのはまだ簡単に弁別できる時代ではないので、画一的な学校教育が続いている日本のような国では、本当に自分に合った学習や考え方のスタイルを見つけ出すのは簡単ではないだろう。

現代日本が苦手だとは言いつつも、記憶が外部化できる時代に生きていられるというのは、海馬の小さい人間にとっては非常に助かる。抗生物質の使い過ぎで免疫系がバカになって花粉症などを起こしているが、それでも現代医学がない時代に生まれていたら、結構な確率で成人前に死んでいただろう。まあ、現代でも精神的に生きづらくて死にそうな20代を送っていたのではあるが。学校というのは記憶重視の時代の方法論がまだ色濃いので困った環境だったが、社会というのはもうちょっとだけ自由なので、そのあたりで救われた面はある。

もしも人工知能というものができたならば、それはおそらくディープニューラルネットワークのような低水準からの脳のシミュレータではなく、もっと現行検索エンジンに近いユニットを多数相互接続して作られた分散ネットワークのようなものになるだろうから、現行のデータベースには直結できて、人間の海馬に相当するような機構はいくらでも強くできるだろう。むしろ、詳細な記憶に支配されすぎてローカルミニマルみたいなものに拘束されないように、詳細すぎる記憶を能動的に遮断するくらいじゃないと正常に動かないかもしれない。詳細記憶に支配されすぎると、おそらくアスペルガー症候群のような動作になってしまう。

ムスコ1号は私によく似て、ワーキングメモリーが非常に小さい。立体図形の脳内回転などの操作が得意な一方で、文章の読み書きが苦手で、作文などでは非常に苦労している。平時はとても穏やかだが、一線を越えると突然キレる。このあたりも私の子供時代によく似ている。考えることを重視した画一的なゆとり教育から、反復を重視する画一的な陰山メソッドに移行した現在の学校教育とは相性が悪く、問題児扱いされて苦しんでいるようだ。

一方、ムスコ2号は記憶力抜群で、特に教えてもいないのに文才があり、兄とは非常に対照的な脳のつくりをしている。物わかりはいいが、自分が譲った不満はなかなか忘れてくれない。春から小学校に入るが、学校ではうまくやっていけるタイプだろう。ムスメは私の父に似て、攻撃的で頑固者だが、寂しがりやである。私は父を見て育ってきたのでこういう性格は嫌いじゃないが、ヨメはどうにもこういうのが苦手らしい。

たった3人しかいないうちの子供たちが、恐ろしいほどに三者三様なので、あまり親の立場で正確なアドバイスはできないが、できればたった2人しかいない親の意見に影響されすぎず、なるべく大勢の大人の意見に接するようにしてもらえたらいいんじゃないかと思う。学校の教室というのも、小学校の場合はたった1人の担任教師しかいない閉鎖空間なので、中学校以降のような教科別教員のいる学校へ進んだ方が生きやすくなるんじゃないかと思う。どんなに品性に優れた教師でも、数人の生徒には必ず嫌われるし、どんなに下品な教師でも、数人の生徒には慕われる。結局、人にはどうしようもない相性というものがあって、このあたりは親兄弟であっても例外ではない。

世界というものは、家庭や学校なんかよりずっと広いものなので、あんまりがっかりせずにいろんなものを見ていってもらいたい。

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by antonin | 2015-03-06 03:57 | Trackback | Comments(0)

折り合い

湯船に浸かりながら、エウレカがあった。

業務でのC#を使ったツール作成が、スケジュールを大幅に超過している。理由は、新しい言語と新しい開発環境の「理想」を一気に取り込みすぎて消化不良を起こしたところにある。理想の姿を考えるのは楽しいが、考えをまとめるのには時間がかかる。そろそろ現実との折り合いをつける必要がある。理想を一部放棄することになるだろう。その理想の捨て方が、湯船の中でひらめいた。

けれどもまぁ、挫折というのではなくて、考え悩みながら手を動かしてきた末に、ようやく落としどころが見えてきたんだという実感がある。ここまで理想に取り組みながら突っ走ってきてよかったなぁ、最初から妥協していたら、この落としどころは見えなかっただろうな、というのが正直なところだ。

理想像の素描を捨てることで若干の手戻りは発生するが、言語の変更だとかライブラリの変更だとかのために、どうしても新規に作らなくてはならない最低限のところはもう形になっているので、あまり不安はない。美しいが険しい道のりと、泥臭いが手堅い道のりが見えたという意味では、「曳光弾」としては上出来だろうと思うし、失敗ではあるが必要な手順だったのだとも思える。

達人プログラマー―システム開発の職人から名匠への道

アンドリュー ハント,デビッド トーマス/ピアソンエデュケーション

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工学というのは、もちろん先人の成果に乗ってある程度効率の良い方法を学ぶ面があるけれども、その先にはありとあらゆるところにトレードオフがあって、そこにどう比重を付けて優先順位を決めていくのかというのが、実地の工学では要点になる。そして、その落としどころを探るのは妥協ではなく、あくまで優先順位の問題でなくてはならないので、優先順位の高い部分を台無しにしない限度内で優先順位の低い部分もキッチリ始末してやらないといけないし、トレードオフの交点そのものを高めるブレークスルーの可能性にも、いつも心を残しておく必要がある。

そんなことは若いころから先輩に言われていたことではあるが、こういうことが自分自身の言葉として出てくるようになったのは、やはり好きなこと、得意なことを仕事にしたからだろう。自信が砕けることは多いが、薄皮を破るように何度もそれを乗り越えられるのは、やはり根本的に得意なことだからだろう。やたらと努力を説く人がいるが、あれはおそらく、仕事の内容よりも努力することそのものが得意で、何より努力している自分を感じることが大好きな人というだけのことに違いない。

これを知る者はこれを好む者に如かず、これを好む者はこれを楽しむ者に如かず。仕事の内容そのものであっても、仕事の進め方や人との折衝というメタな部分であっても、それを楽しめる人にはやはり敵わないし、仕事を発注する側としても、不得意なことを無理に頑張っている人よりも、得意なことを楽しんでいる人に頼みたいと思うだろう。

今や自分は得意なことで仕事をする幸運に巡り合えたわけだが、好きなことに向かって自分で動いた過去があるからこの幸運があるんだと思える一方で、純粋に「運」の面が強いというのも本当に感じる。ほんの小さな何かが欠けただけで、今の境遇は無かっただろう。色々な人たちに助けてもらっている。

掲げすぎた理想の旗を一部下ろして、現実と折り合いを付けよう。そして、あとで旗を取りに引き返せるよう、アドリアネの糸を引きながら前に進もう。なんだか清々している。

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by antonin | 2015-03-01 00:19 | Trackback | Comments(0)


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