安敦誌


つまらない話など
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アキレスと亀

ADHD気質の双極Ⅱ型障害の私は、数年ぶりに軽躁期に入ったようだ。処方にSNRIを加えてSSRIを減らした作用かと思う。今は必要な処方だが、もう少ししたらセロトニン優位に変えてもらおう。

--

アキレス(アキレウス)と亀という有名なパラドックスがある。アキレスは、ホメロスの叙事詩に登場する、俊足で名高い英雄である。亀は、イソップの寓話に登場する、鈍足で名高い動物である。さて、アキレスの前方、いくらか距離の離れたところに亀がいて、アキレスから逃げる方向に亀が進んでいる。この亀を目指して、アキレスが俊足をうならし猛追する。ここで論理学者は考える。

アキレスは走り出して一定時間後、スタート時に亀がいた地点まで到達するだろう。しかしその時間で亀もアキレスほどではないが一定距離を進むことができるのだから、この時点ではまだ亀はアキレスの前方にいる。次いでアキレスはその亀の位置へ移動するが、そのときにはまた亀がいくらか前進している。以下同様に、この過程が無限に繰り返されることになる。この過程をどこまで続けてもアキレスは亀の位置に到達することができず、つまり俊足の英雄アキレスは鈍足の亀を抜き去ることができない。証明終わり。

高校生時代、おそらく高1の頃だったと思うが、受験勉強のために池袋の河合塾に通っていた。そこにはチューターという役割の大学生がいて、授業前に幾つかのアナウンスと、ちょっとおもしろい小話を挟んでいた。ある日の小話のテーマは、アキレスと亀だった。この話にどう説明を付けるかという問いに対して、私はただ 9/9 という分数をひとつ書いて提出した。次回の授業で、そのチューターがこの謎めいた答えは面白いので説明が聞きたいと言ったのだが、私は恥ずかしがって名乗り出なかった。

言葉にするのは面倒だったが、その時思ったのはこういうことだった。1/9というのは有理数である。1/9を小数表記すると、0.1111...という循環小数で表せる。その9倍は各桁が9倍されて0.9999...という循環小数になる。ところが、1/9の9倍は9/9である。約分すると1である。通常は1=9/9=0.9999...とされるわけだが、この2つの等号を両方認めるとすると、アキレスと亀のパラドックスはパラドックスではなく、アキレスは亀に追いつくことができる。

ただしこの場合、1の小数表現である1.0000...という暗黙の循環小数表現と、0.9999...という明示的な循環小数表現では、小数点以下のどの桁の数字も一致しないにも関わらず、その表現する数値は一致するということを認めなければならない。1.0000...表記の桁数は自明に無限だとして、0.9999...という表記は有限個の9を並べてひとつずつ増やすという過程を無限回繰り返したものである。有限回の繰り返しだと両者は一致しないことが明らかなので、「いくら続けても同じだ」という考えのもとでは、小数点以下に9を無限に書いた循環小数は1と一致しないということになる。

なので、1=9/9か9/9=0.9999...のどちらかの等式が否定されることになる。これを否定できないとすると、「いくら続けても同じだ」というそもそもの論理が否定されることになる。たかだか有限回ならいくら9を並べても1には一致しないが、無限回繰り返せば1に等しくなるように、無限を特別扱いする必要がある。この特別扱いを認めるならアキレスと亀の話はパラドックスではないし、認めないようなら反証として正しい。要は定義と解釈の問題なのだろうと思ったが、うまく説明できず、9/9とだけ書いた。

ただ、古典的な数学では、有限回の過程と同じことを果てしなく繰り返せるという、数の性質が変わるような上限がないという状況が無限と呼ばれるだけだから、数としての無限というのは便宜的な状態であって、有限の数と論理的に区別されるものであってはならない。そういう意味では、1/9や1/3のように10進表現で循環小数が必要となる有理数は、そもそも小数表現不能であると見るのが正しいように思う。

アキレスと亀が物理学の問題であれば、「そうは言っても実測上、足の早い人が足の遅い亀を追い抜くことはしばしば観測される。したがって、無限小の距離を無限小の時間で通過できるようなアキレスと亀の問題の場合は、有限の時間で追い越すことが可能であるような数理体系を採用しよう」ということで簡単に結論が出せる。ただ、純粋数学でなら、もう少し議論の余地がある。別にアキレスが亀を追い抜くことができない数理体系になっても知ったこっちゃないのが現代数学なのだ。それ自体が無矛盾な系になるなら、それはそれで興味深い数理体系として数学的議論の対象となる。

物理学であれば観測現象を無理なく説明するという要請から1=9/9=0.9999...を認めることになるわけだが、数学的立場から、とりあえず9/9≠0.9999...を導入して、循環小数を有理数の表現として認めないことにしよう。9/10は1と異なる。99/100は1とは異なる。999/1000は1とは異なる。このように、分子を10倍して9を足し、分母を10倍して次の有理数を得る。細かい話は省略するが、数学的帰納法により、この過程を無限回繰り返しても1にはならない。1にいくらでも近づくことができるが、無限回の過程を繰り返したところで決して1にはならないのだ。証明を省いたのでナンだが、これが定理になる。

つまり、有理数には10進法で小数表現可能なものと小数表現不能なものがある。循環小数はあくまで近似表現である。1/10は10進法なら0.1だが、2進法では循環小数となり、上と同様の定理が成立し小数表現不能である。有理数は実数の部分集合であるから、実数にも小数表現不能であるものが存在する。そもそも、同じ考え方に立てば全ての無理数は小数表現不能になる。というのも、無限桁の自明でないn進小数は、分母がnを無限回掛け合わせた整数、分子も無限桁の整数であるような、ある有理数の別表現に過ぎない。だから、定義的にそれは無理数ではなく、無理数は小数表現できない。

カントールは「全ての実数を並べた列に自然数の番号を振る」という仮定が対角線論法により矛盾することで背理法により実数濃度が可算濃度より大きいことを示したが、上で述べた定理が成立する系ではそもそも全ての実数を小数表記可能とした仮定が偽であるから、対角線論法は無意味である。

実際、ZFC公理系では連続体濃度の考え方から導かれる連続体仮説が、真でも偽でもZFCの中にある定理に影響を与えない、「つまらない問題」であることが証明されている。カントール集合の考え方は面白かったが、連続体濃度の考え方はつまらないものだった。ただし、カントールによる連続体濃度の定義が不十分なだけであって、可算無限に達した状態を有限の状態と質的に区別するための何らかの定義が追加できれば、それは面白いものになるかもしれない。今はまだ連続体濃度はつまらない概念だが、それを面白い概念に転換するアイデアは、どこかに残されているのかもしれない。

さて、話をアキレスと亀に戻す。物理学の前提では、アキレスが亀を追い越せなくなるような数学では困るわけで、アキレスが難なく亀を追い越せるような細工を数学に対して施す必要がある。ひとつは、アキレスと亀の位置と時間を実数という連続量で表せるというニュートン力学で主流の前提を活かしながら、それでもアキレスが亀を追い越せるような細工を、自然界が持つべき物理法則を表す数学に対して施すことになる。

この場合、アキレスが亀に追いつくまでには最初に説明したように無限回のプロセスが発生するわけだが、その所要時間はどんどん短くなり、無限小に近づく。これにより、自然界は無限小時間のプロセスであれば無限回のプロセスを有限時間で終わらせることができるという性質が要請される。9/9=0.9999...みたいなものを数学に認めさせることになる。またこの性質により、亀に追いついたアキレスは、次に無限小時間のプロセスを無限回繰り返すことにより、「アキレスと亀の位置は等しい」という状態から「アキレスと亀の位置は等しくない」という状態へ脱出できるようになり、亀を抜き去ることができる。

解析学で頭を悩まされた、極限値というやつの正体がこれである。物理学においては、無限数列の和と、その先にある、本来は別のものであるはずの極限値が、無意識にすり替えられる。これは論理的に考えるとおかしなことなので、若い頭は悩まされることになるのであった。ここで哲学的な疑問を感じず当たり前と思えるような素直な思考の持ち主は古典物理学に親しむことができ、そういう人は逆に小学校で教える掛け算の順序に規則を設けたりされると理解できず激怒する。

現実世界を矛盾なく表せるようにするための細工としては、もう一つの方法がある。それは、量子力学的に、位置や時間に無限分割を認めず、それらが離散的な素量が有限個だけ積み上がった整数ないし有理数で表現されると考えるやり方だ。この場合、ある1単位時間の経過でアキレスが動くこともあれば亀が動くこともある。両者動くこともあれば、両者とも動かないこともある。

いかに神話に俊足名高い英雄アキレウスといえども、神ならぬ人間ゆえ光速に比べれば停止しているも同然の速度で走っているだろうから、単位時間にはせいぜい1単位距離を動くことがあるかどうかで、大半の瞬間は全く動かないということになるだろう。このモデルでのアキレスと亀の速さの違いは、1単位時間が経過する際に1単位距離を移動するという事象が発生する確率の大小で表現されることになる。

となれば、スタートから有限回の単位時間が経過したところで、アキレス(の体の中で一番前方にあるフェルミオン)は亀(の体の中で一番後方にあるフェルミオン)から1単位距離だけ後ろに位置することができる。次に、アキレス(の体の中で一番前方にあるフェルミオン)が1単位距離だけ進む事象が発生したとする。このとき、アキレスは亀に追いつき、またそれに要した時間は有限であり、またそこに含まれるプロセス(単位時間の経過回数)はたかだか有限回である。

同様に、アキレスが移動する確率は亀が移動する確率より高いので、十分大きい回数の単位時間が経過すると、アキレスの体全体が亀の体全体より前に移動する瞬間が訪れるだろう。そこまでに、十分に大きいとは言え、それでもたかだか有限回のプロセスしか必要としない。アキレスや亀の位置をその重心に置くとしたら、彼らの体を構成する粒子の位置の平均ということになるので距離素量より小さい刻みになるが、それにしても算術平均なら彼らの位置は有理数で表現できるだろう。

個人的には、ニュートン力学的に時間の無限分割での無矛盾を数学側に要請するやり方よりも、アキレスと亀のパラドックスを反証として認めて原子論的な立場から時間の無限分割を否定し、離散時間を物理の側に要請するほうが、考え方としては現代的で馴染みやすいように思う。運動量の正体がなんなのか、つまり粒子が単位時間あたりに位置移動する確率の内側にある「隠されたパラメータ」がなんなのかという謎は残るが、そこは4次元を超えるモデルなどの新しい数学の出番となるのだろう。

無理数というのは有理数と質的に違うものなのだが、たとえば円周率でもアークタンジェントのテイラー展開によって有理数列の和にできるので、無理数である円周率そのものは自然数と四則演算で求められないにしても、四則演算の繰り返しによっていくらでも円周率の真値に近づくことはできる。その無限に近づいた状態の値を、物理学者が考えるように円周率そのものとして認めてしまうような系では、有理数と無理数の区別は無意味なものになり、それはそれで面白い気がする。数学というのは窮屈な規則の集まりだが、反面、規則を定めるにあたっては至極自由なものなので、そこが面白い。

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by antonin | 2017-05-02 15:44 | Trackback | Comments(0)

受想行識亦復如是

※ 読む人も少ないだろうから、人間の知能を五蘊に分解する考え方の説明は省く。

以前は、「いわゆる人工知能」の下層(「受」「想」のあたり)までをコネクショニズムで実現し、「行」については従来通りチューリングマシンが受け持ち、「識」は人間が専有するのが良いのではないかと思っていたが、最近はやはりコネクショニズムで五蘊の全域をカバーし、下層の一部に古典的なチューリングマシンを組み込むのが良いと思うようになってきた。

ヒントン先生は教師なし学習するネットワークを下位に組み込むことでバックプロパゲーションの限界(多層化が認識率向上に寄与しないという問題)を打破したけれども、そこで用いた、「より少ない内部情報で、より多くの入力情報を再現する」という基本戦略にはかなり汎用性があるのではないかという気がしている。

最近話題の「人工知能」が出来るようになったことというのは、「色」(センサー)から取得した生情報を単純にフィルタリングしてエッジ情報などの特徴要素を抽出する「受」(シグナルプロセッシング)と、そこから何が見えているかを判定する「想」(コグニション)までの部分で、特に「想」の部分が従来のディジタルプロセスが苦手としていた部分になる。

何があるかを認識できている状態(想)が外部から与えられた場合に、そこから次にどうすべきかを判断する「行」の部分を実行するのが、古典的なチューリングマシン上のプログラムだった。だが、FORTRANの昔から「自動プログラミング」の名のもとにいろいろの研究が行われてきたものの、チューリングマシンがプログラムを本当の意味で自動生成するには至っていない。

であれば、「いわゆる人工知能」に至るまでには、「行」のレベルもコネクショニズムによる自動学習をするしかないように思う。コネクショニズムによる行のレベルの実現に成功すれば、その延長上に「行」のコントロールを学習する「識」の実現も見えてくるし、場合によっては「識」のコントロールを学習する、超人的知能の実現も見えてくる。

自明な「色」のレベルや、さほど可能性の幅が広くない「受」のレベルでは、パーセプトロンやバックプロパゲーションの世代でも破綻しなかったくらいで特に大きな問題はないが、現在のディープラーニングが実現している「想」の水準の上に「行」の水準を乗せるには、ある程度新しい技術が必要になるだろう。そしてそれはおそらく、google翻訳が導入しているような「注意」の機能、つまり文脈を特定し保持する機能になるだろう。

上層(入出力から遠い層)は下層(入出力に近い層)から得られるパターンを認識し、統合的な「解釈」を得る。そして、その解釈パターンを文脈情報として下層にフィードバックすると、下層は一時的に解釈に沿う認識を優先させるようになる。入力が多義的にとらえられるような曖昧なものである場合、上層から与えられる文脈情報(解釈)によって認識率が上がるだろう。ただし、解釈が間違っていると「勘違い」の状態に陥る可能性が上がる。勘違いを避けるには、より広い周辺情報の認識が必要になる。

「この流れでは、この情報をこう解釈するのが当たり前」という感覚が人間の認識には付きものだが、上層が下層へ認識をフィードバックして情報の取捨選択を制御することで、カクテルパーティー効果のような認識率向上が望めるだろう。このことで人工知能はおそらく「より人間的」になるだろうが、また一方で、「より凡人的」になるだろう。

先日、ソフトウェアが将棋囲碁で名人をコテンパンにしたが、現在の将棋囲碁ソフトはおそらく、分厚い「想」と、薄っぺらい「行」があるだけで、「識」は全く無いはずだ。「想」というのは、とにかく対戦経験を積むうちに磨かれる、盤面状態に対する「直感」であり、統計的な「定石」の判断や、中盤での「大局観」もこの中に含まれる。眠る必要もなく疲れも知らないソフトウェアは、ソフトウェア同士の対戦も含め異常に多くの経験を積んでおり、「想」のレベルでの蓄積は超人的に分厚いはずだ。

一方の「行」はというと、「最終的に勝つ」という自明な目標に加え、「終盤は詰めに持ち込む」だとか、ごく基本的な理屈を除けば、現在のソフトウェアではあまり複雑な目標は持っていないはずだ。ルールを守るのに最低限必要なもの以外の目的を排除したほうが、人間で言うところの「無心」になることができ、「想」の水準での直感的な学習が研ぎ澄まされていくはずだ。

人間はというと、「今日はこの戦術で行こう」だとか「この手筋なら相手はこの戦術に持ち込もうとしているはずだ」という「行」のレベルの思考をいろいろとやっている。このことによって、「想」の水準の認識に文脈情報を与え、ある特定の文脈での認識率を高め、効率向上を図っている。しかし、それは「プロ棋士の常識」であっても、将棋のルールが与える全空間での認識率を高めるとは限らない。常識外の認識率を落としている代わりとして、常識内での認識率を上げることが可能になっている。

しかも人間の場合、「この局面でこう戦術変更したら、師匠の助言に逆らうことにはなりはしないか」というような、「行」の上にある「識」までが雑念として邪魔をしてくることもある。ソフトウェアには今のところ「識」はない。「ソフトウェアが名人を倒してしまって良いものだろうか」とか「こんな手は失礼には当たらないだろうか」という葛藤をするための機能は、おそらく実装されていないだろう。

こういう人工知能は、非人間的な厳しさで特訓され尽くした5歳児のようなもので、特定分野について天才的な能力を持つ一方で、普通の大人が持つバランスの取れた人格は未成熟、あるいは全く無いような状態になる。天才型の究極といった形になっている。上位の認識結果が文脈情報として下位の認識をコントロールするということが人間的に曖昧な情報を処理するための鍵となるが、一方で「上位の認識」が過去の学習対象に対して硬直的過ぎると、文脈情報が固定化されすぎ、下位の認識が単調になる。これが、発達した人工知能の「凡人化」の原因になる。

人工知能の凡人化を避けるには2つの方向性があり、ひとつは、ネットワークに割り当てるモデルニューロンを豊富にし、より幅広い解釈について学習させるという正攻法になる。もうひとつは、創造的な、しかし誤りに陥る危険を伴う方法で、複数のランダムな解釈パターンを下位層に送り、揺らぐ認識の中から最も良い解釈を探るという方法になる。前者は秀才的で、後者は天才的である。

上位層の解釈が下位層の認識を統合する作用であるとすると、創造的な認識というのは一種の脱統合ということになる。「行」がランダムホッピングして「想」の統合を解くのであれば、最終的に「アハ体験」みたいな創造的なアイデアが得られるかもしれないが、「想」がランダムホッピングして「受」の統合が解かれれば、幻聴や幻覚につながる可能性がある。

常識的な固定観念を緩める程度であれば天才的創造力を導出可能になるが、一方で、強烈な精神的ショックで自然な自明性を喪失するレベルになり、統合の乱れが「受」の階層にまで及ぶと、統合失調の様相を呈するのだろう。「想」と「受」の区別が恣意的なもので、実際のネットワーク上では連続的であることを考えると、「天才と気違いは紙一重」というのはそういうことなのではないか。

囲碁や将棋のソフトのような直感の塊のような段階を過ぎ、行や識の機能が実用的になり始める、「いわゆる人工知能」の初期段階では、まずは凡人的な、安定して常識的な認識が優先して求められるだろう。そういう常識的な人工知能が普及してくると、次には「コントロールされた狂気」であるところの統合緩和が行われ、人工知能が少しずつ創造的な発見や発明をできるようになってくるはずだ。

技術的課題を乗り越えて、そういう人工知能が現れるには、どう少なく見積もってもあと30年はかかると思うが、その時代に「人間にしかできないこと」とはなんなのだろう。疲れることと飽きることと、その周辺、といった具合になるのかもしれない。疲れることと飽きることが高度な学習にとって根源的なのであれば人工知能もこれを実装せざるを得ないが、実際はどうなのだろう。

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by antonin | 2017-05-02 03:26 | Trackback | Comments(0)


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