安敦誌


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C++とC#

製造業からソフトウェア業界に移ってから、ずっとC/C++でプログラムを書いてきた。それはそれで悪くないのだが、CにしてもC++にしても、統一された作法を守っていればどちらも美しい言語なのだけれども、C++という言語には長い歴史の重層というものがあって、C++が "Better C" と呼ばれて段階的に色々な技法を試行錯誤していたような時代のコードが現役で生きている。ソフトウェア予算の乏しい業界では「壊れていないものは直すな」という格言があって、テストで補強してリファクタリングをゴリゴリ進められるようになる以前の設計が、現役でバリバリと金を稼いでいたりする。

そういう厄介があって、C++11はおろかC++03標準すら完全に準拠していないような貧弱なコンパイラを使い、C++でありながらMISRA-Cに似た古臭いコーディングスタンダードに縛られながら、忍耐力を要求される仕事が続いてきた。定数はマクロにして、全てヘッダファイルに書くんだそうですよ。恐ろしい。C++はなまじCと互換性が高いせいで、ネットで拾ってきたような標準Cライブラリにべったり依存した処理だとか、生ポインタのnewとdeleteが飛び交う危険なコードが混入しやすい。古いコンパイラだとテンプレートはごく基本的なものしか仕様通りに動く保証がなくて、ある程度の構造はマクロを援用しないと怖くて書けなかったりする。

そして、C++の仕様は巨大化して、まともなコンパイラは地球上でGCCとclangだけになってしまった。Cの美点は、OSのようなハード寄りのソフトウェアを高級言語で書けたのももちろんだけれども、何よりコンパイラが小さくシンプルで、新しいハードにもコンパイラそのものを短期間で移植できるというところにあった。C++は、言語のシンプル化よりメタプログラミング可能なくらい強力な言語の道を選んでしまったので、正しく扱える人も減ってしまったということなのだろう。ある程度基礎的な計算機科学を知らない人が書いたC++のコードというのは恐ろしいものがある。下のリンクにあるような話を読んで、自分を勇気づけながらなんとか実務をやってきた。

The Noble Art of Maintenance Programming

ところが、ちょっとした流れから、既存の小さなプロセスユニットを新しくC#で組み直すことになった。一応期間としては2か月。ほぼ一人仕事で、コード上のことに関しては、かなり制約なく自由にさせてもらえることになっている。カウボーイプログラミングという言葉もあるようで、野狐禅というか、そういう中途半端なものにならないように注意しないといけないのだが、まあ楽しい。これまでC++でもやっておきたかったような正常なカプセル化と例外運用は当然導入するとして、最近のC#5.0では非同期処理が非常にお手軽に書けるようになっており、このあたりも積極的に取り入れることにした。

ただまあ、お手軽とは言え新機能でもあり、水面下にはあの恐ろしい並列処理が潜んでいるので、あまり油断しているとあとで大変なことになるだろう。あとで大変なことになる、というのは、自分とは経験と意見の異なる人がコードをメンテナンスするときに、あまり繊細な構造にしておくとあっという間に壊れてしまうというあたりだ。そして、自分自身も来年には今とは相当経験と意見が変わっているはずで、そのあたりはしっかりベストプラクティスを調べておくべきなんだろう。

今回はテスト駆動も盛り込んでいるのだが、本体のコーディングよりテストの作成のほうが疲れる。本体のほうは比較的まばらに処理が動くゆるゆる設計なのだが、テストは数十本のテストがマルチスレッディングで一気に走る。実行が早くて結構なのだが、本体より一足先に高度な並列処理地獄に陥っている。それぞれのテストは小さく、また独立しているので、メモリ保護やテスト間の同期は気にしなくていいとはいえ、単独実行では一瞬で成功するテストが、一括実行だと遅延したり失敗したりする。まあ、このあたりで高密度な非同期処理の訓練をしておけるのはむしろいいことなのだろう。

テストが遅延する原因を調べたら、Task.Delayというものを知らなくて、非同期プログラミングのサンプルコードにあるThread.Sleepをテストコード側で多用してしまったために、同時実行によってワーカースレッドが枯渇したんじゃないかという疑いが出てきた。こういう失敗は早いうちにしておくべきだろうと思うので、テスト段階で並列地獄になるのはやはり良かったのだろう。

久しぶりに脳味噌フル回転でコーディングができて楽しい。C#も.Net Frameworkも、新しいVisual Studioもほぼ初体験で何かと不慣れなのだが、使ってみるといろいろと洗練されていて使いやすい。開発環境でいうと、識別子の宣言を書き換えるだけで参照箇所を全部直してくれるのが非常に便利。こういう機能はかなり前からあるのかもしれないが、これまで10年以上前の環境でチマチマとやっていたので、まさに隔世の感がある。StyleCopというツールがあって、スタイルで迷わなくていいのも助かる。スタイルというものは一貫性さえあれば、あとはなんとか慣れるものだ。

新しい言語を使うのは楽しいもんですな。

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# by antonin | 2015-02-07 02:10 | Trackback | Comments(0)

浮世離れ補正

かねてより「耳が悪くなった」と嘆いていたのだが、単にスピーカーやイヤフォンなどの再生デバイスが劣化していたからという可能性が濃厚になってきたので、そのあたりを少し。

しばらく前からSONYのイヤフォンを使っているのだけれど、これを使うようになってから結構自然に音楽が聞けるようになった。

SONY 密閉型インナーイヤーレシーバー XB90EX ブラック MDR-XB90EX/B

ソニー

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それで最近になってCDのロスレスエンコードをえっちらおっちらやっているのだが、それでもONKYOのPCスピーカーや、近所のスーパーで買ってきたJVCの廉価版ヘッドフォンだと、相変わらず音がくぐもって聞こえる。ただ、古いCDをエンコードしたクラシックなどではそういうことになるのだが、比較的最近のポップスなどを聴くと、そういう再生装置でも自然に響く。どうやら最近の再生装置はポップスの音源をリファレンスとして設計されているから、クラシックやジャズをリファレンスとして設計された古い装置と違って、オーケストラ演奏などを鳴らすと音がくぐもって聞こえてしまうものらしい。

ONKYO WAVIO アンプ内蔵スピーカー 15W+15W ブラック GX-D90(B)

オンキヨー

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JVC HA-S200-B 密閉型ヘッドホン 折りたたみ式 DJユースモデル ブラック

JVCケンウッド

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スピーカーなどは装置のつまみで低音と高音の比率が調整できるのだが、その程度だとあまり改善しない。今のPCで使っているマザーボードにはRealTekのHD音源が載っているので、その設定アプリのイコライザ機能を使って、プリセットのイコライジングカーブではなく、耳で聴きながら一番よく聞こえるレベルを探ってみた。そうすると、ONKYOスピーカーでもJVCのヘッドフォンでも、ちゃんとクラシックを鳴らすことができる。ロスレス音源の細かい音場まで拾えている。そして、そういう補正を掛けると、今度はポップスがうるさくて耳障りな音になってしまう。

ヘッドフォンのイコライジングカーブはこんな感じ。

b0004933_23315245.png
中低音が若干盛り上がっているのは、このあたりがズシズシ鳴っていると楽しいので趣味的な補正という感じだが、高音を引っ張り上げているのはポップス向きにアレンジされた再生装置の逆補正成分ということになるんだろう。8kHバンドを中心とした高音域を引っ張り上げると、音が非常にクリアになった。ピアノの高音でもヴァイオリンの高音域合奏部分でもスネアドラムのアタックでもしっかり聞こえるようになった。500Hzバンドをつぶすだけでもかなり音が明確になったので、ポップスではこのあたりを強調するとバランス良く鳴るのだろう。

一方、SONYのXB90EXを接続すると、中低音の補強を少し入れたほうが音がリッチに感じる以外は、特に補正なしでクラシックが聴けた。この場合も、逆にポップスのほうで補正を入れたほうが聴きやすかった。RealTekのプリセットにある「ポップス」は、このフラット特性の装置でポップスを聞く場合の補正になっているようだった。逆に、廉価版の装置はこのあたりの補正が、電子的あるいはアコースティックな特性を使って、デフォルトで掛けてあるのだろう。

ところで、私があまりCDを買わなくなった00年代、CD業界にはちょっとした異常な現象が見られたのだという。CDショップの試聴コーナーでの印象を優先した、音圧競争というのが起こっていたらしい。

Bostonの名曲「More Than A Feeling」に見るラウドネス(音圧)競争の現実 | 山崎潤一郎の「また買ってしまった。」

ブログ 懐かしいCDの美しい波形を偲ぶ会

試聴機を使った店頭販売で売れるための味付けが暴走した結果だということらしい。そういえば、以前のテレビ販売でも似たようなことが起こっていた。最近は通販が強くなってきたが、量販店全盛の時代には店頭で見栄えのする、とにかく明るくてとにかく色の鮮やかなモードを持った機種が売れるので、リビングで見ていると目が痛くなるくらいのチューニングをデフォルト設定に据えるメーカーが増えて、描写力の高い領域を中心に据えたような画質重視の機種が売れなくなっていた。プラズマディスプレイが滅びたのも、まあ電力消費の問題もあるけれども、この店頭画質で液晶に比べて劣ったというのが主要因だったらしい。

一方で、10年代に入るとこの傾向には一定の落ち着きが見られるようになったらしい。その理由はよくわからないけれども、iTunesが普及した影響ではないかという気はしている。ダウンロード販売では試聴用に独自のフォーマットを使えるので、販売音源そのものを歪ませて店頭アピールする必要がないということもあるが、それよりも影響が大きいのはiTunesのランダム再生だろう。

あれはどういうアルゴリズムで選曲をしているのか知らないが、少なくとも単純な乱択ではなくて、再生回数や再生時間帯などを考慮しているらしい。しかしそうは言ってもミュージックライブラリ全体から曲を拾ってくるので、曲から曲に移った時にいきなり音量が変化すると困る。ということで、iTunesはCDからトラックをリッピングする際に平均音圧レベルを記録しており、ランダム再生時はこの音圧が均等になるように補正を掛けて再生している。

この音量補正のために、CD音源で音圧競争をしてもポータブルデバイスでのランダム再生時にはiTunes様によって自動キャンセルされてしまう。そうなると、残るのは一定音圧レベルでの音質ということになるので、あまりに音圧上限に張り付いた曲というのは印象が良くなくなってしまうのだろう。個人的にそういう曲をあまり聞かないのでよくわからないが。

--

最後に。イコライジング調整用音源の紹介のためにスターウォーズ Episode V 「帝国の逆襲」の finale を調べていたら、面白いものを見つけた。

『スターウォーズ/帝国の逆襲』(Ending) by Moment String Quartet (弦楽四重奏ver) - YouTube

スターウォーズの音楽はそもそも管弦楽組曲みたいなものなのでクラシックに親和性があるのだが、これは弦楽四重奏に編曲されている。そして動画を見ると演奏しているのは若い女性たちで、こんな昔の男の子仕様の曲を何でまた、と思ったら、ちゃんと黒幕(失礼)が存在していた。

_... m o m e n t ...._

びよら弾きの備忘録

どおりで愛情あふれる編曲なわけだ。これは男の子だった経験がある人間にしかできない編曲だろう。「ベイマックス」にしてもそうだけれども、性差別とかそういう話は抜きにして、趣味における男女差というのはどうしても存在するものなのだ。

ちなみに原曲はこう。

the empire strikes back finale music - YouTube

あのクソ派手な管弦楽を室内楽でよくまああれだけ再現したもんだ。素晴らしい。

そういえば調整用音源の紹介を忘れていた。上に挙げたヘッドフォン用イコライジングカーブの作成にはデュトワ/MSOでラヴェルのボレロ後半を繰り返し鳴らしていた。まあ、有名だから張らなくてもいいか。

ポップス評価用の曲はこれ。

Avril Lavigne-Take Me Away Music Video - YouTube

PV初めて見た。女の子は大変ですな。しかし、これでも10年以上前になるのか。

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# by antonin | 2015-01-25 01:21 | Trackback | Comments(0)

1+1は2か3か

「イチたすイチは~ ニかサンか~」とか歌っているCMが昔にあったような記憶がある。子供向けの文具か教材か、そんなようなCMだったと思うが、どんな内容なのかはすっかり忘れてしまった。それなのに、この「1+1は2か3か」という文句だけが記憶に残っている。

ブール代数を初めて知ったとき、1+1が2ではなく1になるという演算があるのを知って楽しかった覚えがある。そういう流れで、この「1+1は2か3か」という冗談のような歌が妙に気になっていたのだろう。1+1が2というのはごく普通の算術演算だとして、1+1が3というのは、いったいどんな演算がありうるんだろうと気になっていた。

それから長い年月が流れたが、去年のあるあたりに、ふとひらめいたことがあって、なんとか1+1が3になる演算を考えついた。そのあたりをダラダラと書いていこうと思う。

1+1=1 というブール演算は、そもそも数値として0と1しか存在しない。自然数の集合がアレフゼロという無限の個数なのに対して、ブール束の元は2個しかない。1+1=3となる代数系に似たような制限を掛けるとしても、0,1,2,3と最低でも4個の数値は必要になりそうで、これは面倒だった。しかし、よく考えてみると、今は足し算だけで掛け算は必要ないわけだし、乗算の零元である0というのは必要ないかもしれない。「1+1は2か3か」という歌にも1と2と3しか出てこないのだから、今考えようとしている代数系の元は3個で十分なのかもしれない。

というところまで考えて、ブール代数のようなロジックにトライステート ロジックというのがあったな、ということを思い出した。通常のロジック(論理)が「真」と「偽」だけを使うのに対し、トライステート ロジックというのは、第三の状態である「どっちでもいい」という状態を持った論理回路のことを指す。

デジタル回路 #スリーステート・バッファ - Wikipedia

学生時代には確かに「トライステート」と習った覚えがあるのだが、上記ページによると、その呼び方はナショセミの登録商標だったらしく、知財フリーな辞書表現だと「スリーステート」となるようだ。ジェットエンジンの「アフターバーナー」がGEの登録商標だと知ったときと似たような、微妙な感じがして面白い。

ともかく、トライステートというのには、真か偽かはっきり決まる状態以外にも「ハイインピーダンス」という状態があって、真か偽かの決定は接続先かデフォルト設定に任せるという、独特の出力状態のある論理回路になっている。委任票というのか、結論を相手に任せるモードを取りうるロジックということで考え方として面白いのだが、この3状態論理というのが今考えようとしている演算に使えそうだった。

トライステートのハイインピーダンス状態というのは、プルアップするのかプルダウンするのか、あるいは別のロジック出力に合わせるのかというあたりは、そのロジックを使って回路を組む設計者に任されている。ところが代数系を考えるときはそういう自由度は面倒なことになるので、ハイインピーダンスではなく「真偽不定」という状態と考えることにしてみる。

A+Bというブール演算は、A or Bという論理演算に相当するので、たとえばA=1、つまり「Aは真である」というのが確定した場合には、Bが0だろうと1だろうと結果は1になる。なので、真偽不定の状態をXと置くと、1+X=1となる。Aが0の場合にはこうはならなくて、結果はBの値に等しくなるから、Bが定まらないうちは結果も定まらない。なので、0+X=Xとなる。A・Bの場合、つまりA and Bの場合には、逆にA=0のときに結果が0に定まって0・X=0となり、A=1のときに結果が不定になって1・X=Xとなる。

この不定値を含んだ3状態論理を使いたいのだが、and にしても or にしても、1+1=3のように、同値の組み合わせから別の状態が出てくる演算にはならない。そこで、ブール代数上で0と0から1が出てくる演算として、「同値」"equivalent" というのを使ってみることにする。この同値というのは、昔の Microsoft 系 BASIC 言語には論理演算子 "EQV" として組み込まれていたのだが、最近はあまり見ない。C言語的に書くと、!(a ^ b) のことで、「排他的論理和」"exclusive or" の否定を取ったものになる。

排他的論理和というのには論理学的な意味があって、「田中さんは家にいますか、それとも会社にいますか」と聞いたときに「会社にいます」と答えた場合、普通は「じゃあ田中さんは家にはいないんだな」と考えるのだが、実は田中さんは町工場の経営者で、自宅兼会社に住んでいるというケースもありうる。この場合、「家にもいるし、会社にもいる」というのを、普通の論理和(or)は許容する。けれどもそれだと自然言語の「または」の意味を正確に記述できない場合があるということで、この排他的論理和というやつが生まれた。

排他的論理和を演算として見ると、結果が1になるのはA=0でB=1の場合と、A=1でB=0の場合だけということになり、「AとBは異なる」という意味にもなっている。同値演算というのはこの逆で、A=0でB=0の場合と、A=1でB=1の場合にだけ、結果が1となる。これに排他的論理和のような古典論理学的な意味付けができるという話は聞いたことがないが、何かあるのだろうか。

話が逸れたが、この同値演算は0+0=1という性質を持っているから、これを3状態論理に持ち込めば、1+1=1の呪縛から逃れることができる。ということで、まず真をT、偽をF、不定をXとして真理値表を作ってみる。

b0004933_00234760.png

「AとBが同じかどうか」なので、片方でも不定になると結果は自動的に不定になる。それで上の図のようになる。

そしていよいよ、このFを1に、Xを2に、Tを3にそれぞれ読み替える。最後に、この同値演算の演算子として無理やり「+」記号を当てはめてみる。すると、こうなる。

1+1=3
1+2=2
1+3=1
2+1=2
2+2=2
2+3=2
3+1=1
3+2=2
3+3=3

なかなか謎めいた、良い演算になった。というわけで、1+1=3という演算は存在する(いま作ったから)。

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# by antonin | 2015-01-24 00:02 | Trackback | Comments(0)

音楽の言語性

アナと雪の女王の劇中歌がえらい流行して、やれ和訳が原詩のニュアンスと違うなんていう批判があったが、それは悪いというより優れた翻訳であるという証明だろうと思う。商業音楽というのは世につれ人につれ、時代の空気に寄り添う義務というものがあって、歌詞が翻訳されたら、そこに込められた感情も微妙に入れ替えられるべきだろうと思う。そもそも、翻訳というのはそういうものなのだろうと思う。本当に原文の意味を守ろうとすると、単語は基本的に音訳中心になり、意味の通じない部分は岩波文庫のように別途詳細な解説が必要になる。

翻訳というのは、原文のリズムを守ろうとすれば、ある程度意味を翻してやる必要がある。しかも、音楽という強力なリズムの縛りがある歌詞の翻訳ではそれがなおさら重要で、しかも映像が付くとなると、キャラクターが口を大きく開けているタイミングで「ん~」などという詩を当てることも許されなくなる。しかも商業的な成功のために、日本の文化的な背景にも寄り添う必要がある。そして、そういう難しい制約を高度に乗り越えた翻訳に成功したからこそ、あの曲はヒットしたのだろう。

そういう要素はあるとして、あの「ありのままで」のヒットには、曲そのものの要素も大きかったんじゃないかという気がしている。最近の日本のポップスはあまり大ヒットがなくなっているが、その要因の小さくない部分が、ポップスの「本格化」にあると思っていた。そして、「ありのままで」の曲構成というのが、あまり「本格的」でないという特徴があった。

25か国語で聴く "Let it go" という映像があって面白かったが、あれを聴くと、北京語バージョンが一番本格的なポップスの曲調で歌われていて、日本語版が世界一エキゾチックな発音で歌われている。そういうのが好きなネット上の人たちに kawaii とか言われていたのだが、実は「原曲」に当たる英語版そのものが、かなりエキゾチックな音で歌われているのに気付く。そもそもあの話は北欧民話を土台にしていて、それは歴史音痴で地理音痴なアメリカ市民でもさすがに理解可能なように作られている。そして、その北欧の、特にサーメの土地に根差した民族的な舞台の印象を作るのに、「アナと雪の女王」で使われる音楽も一役買っている。

『アナと雪の女王』25か国語版ミュージック・クリップ - YouTube

サーメ、英語でいう Finnish の人々というのは、血統でいえばかなり純血に近いゲルマン人が多いけれども、文化的にはフン族と呼ばれたアジア出身の民族文化が残っている。言語的にも、母音が多い音節言語に近い音を使うらしい。あの映画の音楽が少しでもフィンランド風なのかどうかはあまり自信がないけれども、「アメリカ人にはそう聞こえる」ような味付けはされているだろう。そして、あの映画はミュージカル風にできている。このミュージカルというのは、アメリカのポップスとは別の先祖を持っていて、そのあたりもこのミュージカルアニメの音楽後世にある種の影響を与えているように思う。

ヨーロッパから新大陸に渡った人たちが独立戦争を起こして新国家を建設したけれども、この新しい国は旧世界に比べて文化資本的に貧しいということを、産業資本を積み上げて新しい貴族階級に至った人たちがかなり気にしている時代があって、当時ロンドンで人気のあったドヴォルザークがジャネット・サーバー夫人に招聘されてナショナル音楽院の院長に就いたのにもそういう事情があった。

そのドヴォルザークがインディアン、今でいうネイティブ・アメリカンたちや、黒人たちの音楽に目をつけ、交響曲第9番ホ短調「新世界」の中にも日本のヨナ抜きにも似たペンタトニックだとか、シンコペーション、いわゆる裏拍などを取り込んでいた。こういうのが白人ジャズの歴史にいくらか影響しているらしい。そして、ジャズの影響からちょっと距離を置いたところから、ロックが出てくる。このロックというのが、アメリカ合衆国の政治的軍事的な覇権とともに、20世紀後半世界の音楽を規定していく。

同じ時代、日本の音楽というのはどちらかというと追いつけ追い越せの文化の渦中にあって、アメリカやイギリスの音楽を日本人にも理解できる程度にやわらげて「翻訳」するのが仕事、というようなところがあった。古くは大正時代のワルツあたりからこうした「なんとなく英語っぽい発音」による楽曲というのが売れていたらしいが、大ヒットレベルになったのはサザンオールスターズあたりからなんじゃないかと思う。個人的にはあの発音が大嫌いだったが、桑田佳祐さんが紫綬褒章を受章するに至って、時代も変わったものだと思った。

そして、その流れというのはマドンナ・クローンの浜崎あゆみさんあたりを経て、アメリカ育ちの宇多田ヒカルさんのあたりで完成を見たのだと思う。ラジオから流れてくる黒人ラップはかっこいいのに、翻訳された「だよねー」を聴いて脱力した時代もあったが、最近の日本語ラップはよくこなれていて良いと思う。良いのだが、難しくなったという気はする。ラジオで聞いて、カラオケなどでおいそれと物まねできる水準のものではなくなってきたように思う。

19世紀後半から20世紀のアメリカ音楽というのは、クラシックの呪縛から英語を話すアメリカ人のための音楽を創造する戦いの歴史みたいなところがあって、アメリカ合衆国という統治システムが爛熟した現代のアメリカ音楽もまた、アメリカ英語で歌うための最適化が完成した音楽になっている。そして、ある程度国際化を果たした日本の商業音楽もまた、かなり本格的にアメリカ音楽を再現できるようになったのだが、どうもこの音楽というのが21世紀初頭の日本国民からは遠いところまで行ってしまったような気がしていた。

日本人に歌いやすい音楽というのは当然日本語の歌であり、日本語で歌を歌う以上は、子音で終わる閉音節というのは出てこない。どちらかというと、「朗々と」という形容が似合うような、長い母音を複雑な節回しで修飾しながら引っ張っていくような音楽のほうが歌いやすい。歌会始で「歌われる」和歌のように、子音はほどほどに、美しく母音を引き回すのが日本語の音楽というものになる。

ところが、長い戦後を終えて日本の商業音楽界が到達した音楽文化は、ゲルマン語族であるアメリカ英語に極度に最適化された音楽に極めて近いものになっている。そして、あまり英語が得意ではない日本の一般市民は、そのゲルマン的な音楽についていけなくなってきている。そこへ、「ありのままで」が大ヒットした。要は、歌いやすいのだろうと思う。

"Let it go" というのは、20世紀のアメリカがクラシックの呪縛を踏み越えようとする過程で生まれた、ミュージカルの音楽をベースにしてる。ミュージカルという演劇は当然オペラを源流としていて、その音楽劇を現代アメリカ風にアレンジしたものになっている。そして、アメリカがオペラを輸入した時代の旧大陸のオペラ文化というと、ヴァグナーかロッシーニか、そのあたりということになるのだろう。

ヴァグナーはドイツの人なので、それまでのオペラから少し離れたところで曲を作るようになり、弦楽合奏が細かいリズムを刻みながら和音を彩るというような新しい技法を導入したけれども、それでもこの人はベートーヴェンをひどく尊敬していて、あの歓喜の歌のような、古い時代のライン流域の歌謡もまた愛していて、比較的母音を朗々と引くタイプのメロディーに抵抗がなかったようだ。

そして、そういうオペラの源流はというと、やはりバロック時代のイタリアにある。モーツァルトはフランス風の絢爛豪華な器楽編曲とイタリア風の愉快なオペラをミックスして、ドイツ語の脚本でオペラを作曲したが、それでもまだ時代的な制約からは自由ではなくて、基本的な構成というのはゲルマン独自のものではなくてイタリア風の旋律にあった。

イタリアオペラというのは、もちろんイタリア語で歌われるもので、イタリア語というのは地中海語族の母音豊かな言語である。物語の山場では、歌手は母音を朗々と歌い上げる。悲劇でも、感情的なアリアは豊かな母音で歌われる。あの極端に技巧的なオペラの発声というのは苦手だが、それでもイタリアオペラの旋律というのは美しく感じる。その美しく感じる理由はもちろん器楽にも声楽にも合うメロディーにあると思うのだが、母音の豊かなイタリア語と、同じく5つの母音に深く依存した現代日本語の類似性にもあるような気がしている。

イタリア語と日本語の母音構成が似ている理由が、明治期の「ローマ字」の輸入にあるのか、あるいは有史以前のユーラシア文化に源流があるのか、はたまた単なる偶然なのか、そのあたりはわからない。けれども、イタリア語と日本語の音は、アメリカ英語などに比べればかなり似ていると言える。濃音や激音があり閉音節も持つ朝鮮語などより、音だけならよほど近い。ギリシア語にもこの傾向があって、古代エジプトの言語もそうした音節言語として解釈できるらしい。ポリネシアの言語ではこの母音依存の傾向はより極端になる。なので、個人的にこういう母音の豊富な言語を海洋言語と呼んでいるのだが、海上生活が母音を要請して、森林もしくは雪国での生活が子音を要請したのかという、そういう言語発生上の合理性があるのかどうかというところまではわからない。

ともかく、ヨーロッパ音楽の源流にはラテン帝国の公用語であったラテン語のなれの果てであるイタリア語があって、その影響というのは結構現代の近くにまで及んでいたのだろうと思っている。そして現代アメリカはその呪縛をほぼ完全に振り切っていているのだが、その着地点というのは、日本人にはむしろ馴染みにくい音になってしまっている。イタリア崩れくらいの音楽のほうが日本人には合っている。そこに、南欧風の明るい長調ではなくて、ケルト系やスラヴ系の短調含みの曲調が乗ると、さらに性に合うように思うが、そこまで行くとやや古臭かったり田舎くさくなったりするので、加減は難しいだろう。

そして、バルト海や北海に面したサーメの土地を主題とした、ミュージカルの系統を持つ音楽として "Let it go" は作曲された。そして、そこに臆面もなく日本語らしい歌詞が乗せられた結果、「ありのままで」は大ヒットした。まあ、この曲も細かい部分は英語に最適化した最近のリズムを持ってはいると思うけれども、その部分が古臭さを排除するのに役立っていると思うし、肝心な部分での母音の引張りを引き立てているようにも思う。歌っている人が歌舞伎役者の家系に生まれた女性というのは偶然の部分が大きいだろうが、同時に発表された「本格的」バージョンのほう(エンディング・バージョン)がそれほどヒットしていないところを見ると、この見立ても悪くないのではないかと思う。

あの大国であるアメリカはアメリカで、本質的に異国文化である歴史的な音楽文化の受容に苦労していたのだとするといくらか面白いし、そこに迎合した末に反旗を翻しているような日本のポピュラーミュージックの流れもまた面白い。世代文化というのは親世代の文化への反発と受容を一生かけてやっていくようなところがあって、その縞模様のようなものを眺めるのは、少しだけ呆れるようなところもあるけれども、まあ面白い。

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# by antonin | 2014-12-07 17:24 | Trackback | Comments(0)

歌え 歌え 歌え

普段はクラシックを聴くことが多いが、時々ジャズも聴く。最近は小編成のも聴くようになったが、もともとはビッグバンドのスウィングを聴くことが多かった。クラシックを聴くようになったきっかけも、もともとスーパーマンやスターウォーズなんかの映画音楽を小学校低学年のころに聴いた体験が源流にあって、実はジャズもスーパーマンやスターウォーズのテーマを作曲したジョン・ウィリアムズの影響で聴きはじめたのだった。

ジョン・ウィリアムズが手勢のボストン・ポップス(ボストン・シンフォニー)を引き連れて来日公演したことがあって、民放でその様子が放映されたことがあった。その頃、確か高校生の頃だったと思うが、テレビ音声をステレオ受信できて、しかも録音できるというAiwa製の変なヘッドフォン・ステレオを使っていた。その前は三洋製を使っていたので、私が好んだメーカーは市場で滅びるというジンクスはこのころからあった。

話が逸れたが、その来日公演の放送を、なるべく電波状況の良い環境でカセットテープに録音して、しばらく聴いていた時期があった。その目玉はもちろんスターウォーズのテーマだったのだけれど、そのほかにもジャズの演奏などもあって、ベニー・グッドマンの、というよりルイ・プリマの "Sing Sing Sing" が演目に入っていた。私はもはやクラシックとしてジャズを聴くけれども、80年代当時はまだジャズを青春時代に聴いていた世代が生き残っていただろうから、まだスウィングも現役の音楽で、勢いがあった。

当時、この演奏に非常に強い衝撃を受けて、スウィング・ジャズの盤を少しずつ探すようになっていた。ボストン・ポップスの演奏は大体こんな感じで、ジャズにしては上品な感じだった。

Sing, Sing, Sing - YouTube

ただ、その日の演奏では、カデンツァというのか、ドラムスのソロがとても気合の入ったアドリブを入れていて、その部分だけはベニー・グッドマンの有名な録音よりも刺激的な演奏だった。タイトルは "Sing" だが、ヴォーカルが苦手だったので、器楽曲なのも良かった。

懐かしくなってネットで音源をハシゴしていたら、こういうのが見つかった。

Louis Prima - Sing,Sing,Sing (With a Swing) - YouTube

こちらはほぼ当時のままの編曲になっていて、下品すれすれのいい感じの演奏になっている。映像はどこから来ているのか知らないが、映画か何かだろうか。昔は版権が生きている音源というのは非合法のアングラ物しかなかったが、最近ではYouTubeがそのあたりを商業的に解決する手段を作ったらしく、モノによってはチャンネル登録されて公式に配信されるようになり、安心して音楽を共有できるようになった。

で、いろいろな音源を聴いていたら、やたらに音がいいのがいくつかあって驚いた。PCのライブラリに入っている曲より明らかに音がいい。最近しばらくCDの音を直接聞く手段がなくなっていていたのだが、デスクトップに光学ドライブを復活させたので、手持ちのCDを2枚ほどロスレスエンコードしてみたら、非常に音が良かった。音量を上げないと細かいところは聞き取れないが、トライアングルの高音も、ホールの残響も、けっこうよく聞こえた。

確かに耳も悪くなっているが、音楽が平板で退屈になっていた原因の大きなところは、昔にWindows Media Playerの制限で128kbpsのMP3エンコードしたっきりになっていた音楽ファイルだった。外出中に聴くにはこのくらいで十分だが、室内でヘッドフォンを掛けてしっかり聞くには、やはりロスレス音源が必要ということが分かったので、一番よく聴いている盤を20枚ほどエンコードし直してみた。

聴き比べてみると、WMAやAACに直接エンコードしたファイルはよく聞かないと差がわからなかったが、MP3エンコードしたファイルは霧が晴れたように音質が向上した。ロスレスからであれば、いまどきのエンコード方式で多少の高圧縮を掛けても、中ビットレートのMP3ほどには音質の低下はないだろう。随分ともったいないことをしていた。

というわけで喜んでエンコードしていたらほぼ徹夜になってしまった。いかん。ついでにマイノリティー・オーケストラとチャラン・ポ・ランタンもエンコードしたので、ポータブル・プレイヤーに移しておこう。

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# by antonin | 2014-11-24 05:11 | Trackback | Comments(2)

もしもピアノが弾けたなら

あまり、ピアノ独奏の曲には親しみがない。けれどもまあ、一人で弾ける楽器としては、オルガンを除けば最高峰だろうし、楽器の普及率でもなかなかのもので、場所によっては自由に弾けるように置かれているようなものもある。個人で音楽表現するには、やはりピアノが一番表現力があるだろう。

今はもうどうでもいいけれども、若いころには本当に自分の気持ちを言葉ではなく音楽で表現できたらいいのに、というようなことを何度も思った。けれども、20を過ぎて楽器を覚えても程度は見えていて、その程度で自分の表現したいものが出し切れるとは思えなかった。無理なこと時間を割くのなら、その分をコンピューターのハードとソフト、ついでに言うと素子の物理あたりの理解に時間を使いたかった。

そして、ピアノが弾けるようになったらこういうのを弾きたい、と妄想して脳内で弾いていたのが、スメタナのチェコ舞曲第3番だった。

piano: Jan Novotný - music: Bedřich Smetana: Czech Dances, Book 1: No.3, Polka in F major - YouTube

ドヴォジャークの土臭いスラヴ舞曲集はわざとやっていた部分もあるのだが、スメタナ先生の国民楽的音楽は、ポルカと言ってもなんだかんだで都会的に洗練されている。プラハあたりの社交場ではそれなりのクラスの人々もこういうのを踊っていたらしい。ピアノを弾く女性はモーツァルトとかショパンとかラフマニノフとかが好きという場合が多いようだが、そういう人達のピアノソロだと、あまり面白い曲に出会ったことがない。

手足で楽器を弾いてアウトプットすることはできないのだが、頭の中ではピアノ曲だったり弦楽四重奏だったり管弦楽だったりが、ぐるぐる巡っている。ときどき、「ファミリーマート入店の主題による交響詩(1812年風)」みたいなのも頭の中に流れたりするが、演奏にしても譜面にしても、アウトプットすることができない。

1812年という曲は、ロシアの旋律に迫る黒い影、という割には明るすぎるラ・マルセイエーズが暴れまわって、そして最後は冬将軍の前にフランス軍は自滅する。そして最後に民のロシア賛歌が鐘を鳴らしながら派手な凱歌となって終わる。一方、序曲ファミリーマートは、花飾りを編む少女の歌声のようなフルート独走で入店の主題が導入される。主題の最初の4音を繰り返しながら徐々に音階を駆け上がり、そこへ中低音楽器が追いついてきて、大きな祝い唄になる。そして、導入主題が穏やかに消えたところに、軍楽っぽい小太鼓のリズムが刻まれる。最初は単なる「タン、、トン」なのだが、徐々に拍を増やし、シンバルのサポートなども入りながら、だんだんに「セブンイレブンのリズム」に成長する。

「ダッダン、ダダダン、 ダッダン、ダダダン、 ダッダン、ダダダン、 ダダダダ、ダン」のリズムが徐々に強さと不協和音を増しながら迫ってくると、ようやく危険を知らせる導入主題が羊飼いのラッパによって変奏される。しかし住人は混乱のうちに甲高い乱れた音を発するのみで、セブンイレブンの行進は止まらない。そこにようやく、本部の主題「あなたとコンビにファミリーマート」が進軍ラッパ風に登場を告げ、セブン太鼓は一時停止する。

一瞬の静寂の後、セブンイレブンとファミマ本部とやや頼りない入店の主題が変奏をぶつけ合う。ほとんどはセブンがファミマを蹂躙する展開だが、なぜか一転、冬将軍に負けた仏軍のようにセブンの主題がどんどん低い短調に落ち沈んでいく。そしてセブンの主題が息を引き取ると、逃げ回っていただけの入店の主題がいきなりキエフの大きな門のような凱歌を上げ始める。最後はチャイコフスキーばりに楽器を巻き込んで調を上げていくが、上がりきったところで弱音ヴァイオリンの高音を引いた後無音になり、冒頭部の入店主題が、少女がゆっくりと歌うようなフルートで再現される。それを2回繰り返し、オクターブを合わせた弦、木管、金管、打楽器が徐々に集まり、主題の最後5音をffffで鳴らしきって、結。

こういうのを通勤中にときどき脳内で鳴らしながら歩いたりしている。
ゴーストライターがいたら譜面に落としてもらいたい。

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何年か前にこういう流行があった。

【ファミマ入店音】もしもモーツァルトがファミマの入店音を作曲したら - YouTube
【ファミマ入店音】ファミマヴァチカン店に入ったら浄化された - YouTube
【ファミマ入店音】ファミマウイーン店に入ったらオーケストラ‐ニコニコ動画ββ - YouTube

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8年前に同じネタで書いていた。すっかり忘れてた。
もしもピアノが弾けたなら : 安敦誌

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# by antonin | 2014-11-20 02:14 | Trackback | Comments(0)

きぼうがみえた

ちょっと前の話になるけれども。

仕事上がりに駅に向かって歩いていると、正面に月が見える。ほぼ満月で、日没から間もない時間帯だったので、まだいくらか光の残る東の空からまん丸くてやや赤味がかった月だった。その月をチラチラと見ながら歩いていると、宵の明星ぐらいの光点が見えたが、結構な速さで右から左に移動していく。旅客機くらいの移動速度に見えるのだけれど、旅客機であれば点滅していたり、翼端の赤と緑のランプも見えるはずだが、その光点はただ金星のように白かった。

点滅なく一定速度で流れる光点というと、日没後や日昇前の時間帯だと人工衛星である場合が多いのだが、今まで見た人工衛星というのはだいたい4等星くらいの明るさで、かなりシーイングの良い夜空でないと見ることができない。けれどもその「星」はマイナス何等星というような強烈な光を発していて、リゲルあたりの比ではない光り方をしていた。

なんだあれは、ということを考えると、どうやら国際宇宙ステーション、ISSではないかとひらめいた。でもまあ面白いので、そのままゆっくり歩きながら眺めていると、左のほうへ行くに従って徐々に見た目の移動がゆっくりになり、しばらくするとだんだん暗くなって、最後は火が消える瞬間のロウソクの芯のように静かに消えた。あの動きはやっぱり低軌道の巨大構造物で間違いないと思った。

駅で電車を待ちながら、「ISS 軌道」などと検索してみると、観測可能な時間帯が公開されていて、そんなに正確な時間は記録していなかったが、時間帯としてはぴったりと一致していた。

天空経路情報(過去の可視情報) - 「きぼう」を見よう

そうか、ISSの日本モジュールは「きぼう」っていうのか。「おおすみ」以来の伝統を守ってるんだな。そろそろ「さいたま」なんていう人工衛星が出てきてもよさそうなものだが。

しかし、あれだけガッツリ見えると、東京周辺での観察でも充分に楽しめる。今度コドモたちにも見せてみようか。ヤツらは最近ああいうのにはあんまり興味を示さないのだが。翌日の皆既月食も、大人ばかりが眺めていた。コドモたちは別にそういうのはどうでもいいらしい。そういうものか。

なんでもそうだけれども、特集雑誌みたいなものを見て事前に周辺知識を身に着けておかないと、何を見ても「ふーん」ってなってしまうのは理解できる。史書も叙事詩も歴史小説も読まないで、いきなり歴史の舞台を訪れても、それこそ「ふーん」ってなものだろう。自然現象の観察でも、まあ似たようなところがあるんだろう。映画の公開前に舞台裏をちょっと公開するテレビ番組が流れるのも、そういう心理を狙ってのことだろう。

子供には、勉強しろとケツひっぱたくよりも、そういう文脈づくりをコツコツとやっていった方がはるかに効果があるんだろうと思うが、なんというか、ねぇ。

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# by antonin | 2014-10-31 02:14 | Trackback | Comments(0)

一番絞りが好きだ

ラガー、黒ラベル、スーパードライ。どれもまあ、日本的でうまい。が、最近どうもうまいのが、一番絞りだ。ここ数年で見違えるように旨くなった。なのに、お値段据え置き。大丈夫なんだろうか。キリンって、こういう地味なマーケティングするメーカーさんだったっけ。サントリーは、酒よりオマケ、販促品の会社という印象だった。それが、麦100%モルツをやり出したあたりから、安い居酒屋とか場末の料亭に場違いなオールモルトを置くようになって、その「駆け付け3杯」みたいな飲み方をするビールがえらくうまくなった覚えがある。そして、モルツをベースにチェコ産ホップを3倍増した贅沢なプレミアムモルツを出したら、高価格帯にもかかわらず大躍進した。デフレの時代にプレミアム市場を作り、頂点に立った。

私は、チェコ風のモルツも好きだし、ドイツ風のヱビスも好きだし、運動して汗かいた後はスーパードライだって結構いける。ただ、麦100%になってからの一番搾りは、なんだか神がかっている。麦100%のちょいプレミアムビールにしては安いし、よく冷やして飲むとのど越しはいいし、雑味がないから魚でもなんでも合う。ぬるまっても臭みがないからおかきをつまみにまだまだ飲める。そして何より安い。一番搾りがだんだんそういう位置を占めるようになってきてくれてうれしかった。

そしたら最近、またすごいことになっている。どういう成分が変わったのかはわからない。初期のころの、単にすっきりした端正なビールではなくて、雑味がなくて、甘みも渋みも控えめで、ホップてんこ盛りみたいな鼻を衝く香りもないのに、どこからか強烈な味と香りと刺激があって、すきっ腹に飲むと強烈な押し出しがある。それでも食事と上品に合う端正さはまだ残っている。なんだろうこの強力なプレミアム感は。でも、お値段据え置き。350mlで210円しないくらい。今月の一番搾りは異常にうまい。

地ビールとか輸入ビールとかいろいろと飲んで、うまいのもたくさんあったし、馬のションベンみたいなのもあった。ヴァイツェンもペールエールもモレッティもヒナノもみんなうまかったが、コンビニに並んでいる最近の一番搾りはいろいろ攻撃的な味で驚かされる。本当にうまい。

だが、全くリニューアルしていない地味なパッケージ。プレミアムビールのように高くなく、リキュール類のように安くない、平凡な価格設定。そして、それをこっそり買って飲んでみると、驚くようなプレミアム感。どうしちゃったんだろう、キリン。マネタイズしないのか、ええのんか。新ブランド立ち上げても行ける味だろう、これは。

ただ、この一番搾り、決してヒットはしないだろう。これは断言する。なぜならば、私が気に入ってしまったからだ。過去、私が惚れ込んでヒットした商品はひとつとして存在しない。例を挙げれば、AIWAとSANYOの高機能ヘッドフォンステレオ、FM-TOWNS、ドリームキャスト、携帯入力方式T9、Finepixの高性能コンパクトカメラ。どれも消えていった。そして、そのリストに今、キリン一番絞りが加わった。だから実に愛すべき今の一番搾りは、愛すれば愛するほどに悪い予感がする。キリンビールさん、悪いことを言わないから、一日も早く路線変更をした方がいい。どう変更したほうがいいのかは、私にはわからないけれども。
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# by antonin | 2014-10-29 02:29 | Trackback | Comments(0)

およげたいやきくん

コドモたちが「妖怪ウォッチ」を録画して、食事中にそれを見ていた。私も子供のころはこうしてテレビを囲んで食事をするような家庭に育ったが、ヨメのお母さんはそういう無作法を厳しく叱っていたらしいので、ヨメもテレビを見ているコドモに腹を立てて、テレビを消す消さないの大喧嘩になる。

それはそれとして、妖怪ウォッチのアニメを見ていると、昭和ネタがたくさん出てくる。USOというグレイタイプの宇宙人みたいな妖怪が出てきて、これに取りつかれた人間はくだらない嘘をつき、相手がだまされると、踊りながら「ウッソー」とシメる。で、この踊りがピンクレディーの「UFO」のパロディーになっている。当然コドモたちはそんな物は知らないのだが、親はちょっとニヤニヤする。

後半に出てくる「ネタバレリーナ」といのも、取りついた人間に映画のクライマックスシーンに秘められたネタをバラさせるのだが、このネタというのが、スターウォーズ・エピソード5「帝国の逆襲」に出てくるダース・ベーダーの有名なアレのパロディになっている。これもまた、コドモたちにはわからない。父親だけがニヤニヤする。「帝国の逆襲」の公開年は1980年、和暦でいうと昭和55年、パパはまだ小学校3年生で、今「妖怪ウォッチ」に夢中になっているムスコ1号くんと同じ歳だったころの話なんだよ、君たち。

そういえば、子供の頃に「およげ たいやきくん」というドーナツ盤がバカ売れして話題になったことがあったが、あれも歌詞をよく読むと、子供向けというよりは子供たちの親、特に父親に向けたメッセージが満載だったりして、結局のところ子供向けの商品というのは、購買行動の最終決定権を持っている親に向けて売るべきものなんだろう。

オイルショックとニクソンショックの洗礼を受けた当時のお父さんたちは、まいにちまいにち鉄板の上で焼かれて嫌になっていて、店のおじさんとけんかして海に飛び込みたい気持ちだったのだろう。ももいろさんごに手を振ってもらいたかったのだろう。それでも実際にそれをやってしまえば最後に釣り上げたおじさんに食べられてしまうという結末も予想できていて、生活は変えられない。それで子供にかこつけて「およげ たいやきくん」を聴いていたのだろう。

父が自営業で比較的悠々自適にやっていた我が家には「およげ たいやきくん」のレコードは無かったが、父はレコードを買う代わりにインベーダーゲームあたりに随分入れ込んで、その勢いで勝ってきてくれたテレビゲームで私もけっこう遊んだものだった。ある時にはどこからか喫茶店用のブロック崩し内蔵テーブルを借りてきて、1週間くらい遊び放題だったこともあった。あの背徳感というかチート感覚というか、あれはなかなか良かった。

やなせたかしさんのアンパンマンが息の長いヒットをしたのも、著作権の行使方法に商業的ガメツさが少なかったのもあるだろうが、第一にお母さんたちにカワイイと思ってもらえる絵柄というのがあったんじゃないかと思う。ウォルトディズニーがディズニーランドを作った時点ではすでにそういう、親も子も楽しめるものが一番売れるという黄金律は知られていたのだろう。

ポケモンというのは、ピカチューとかヒコザルあたりまでにはゲームで遊んだ経験のない親にも理解できたが、ミュウツーあたりから先はもう理解不能になっている。何が楽しいのか、正直わからない。あれもまあ、ポケモン世代の親を持つ子供たちがもう少し大きくなればまた復権するだろう。ただ、ポケモン世代はあまり親になっていないという問題があって、そのあたりはどうなるのだろう。それはそれで小さくなった市場に占める割合は高くなるだろうからヒット扱いになるような気もするが。

団塊ジュニア世代も、自分たちの社会的権利を主張するにも自分たちの世代の視点だけに留まっていないで、団塊の世代の心情を直撃するような物語で訴えかけるような工夫が必要なのかもしれない。そのためには多少の勉強というか、60年代から70年代の彼らに何があったのかをもっと肌感覚として知る必要があるんじゃないだろうか。学生運動的なパターンには確かに嫌悪感があるけれども、それを少し脇へやって当時の「時代の空気」を感じてみると、また違った解釈も出てくるような気がする。

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# by antonin | 2014-10-12 15:46 | Trackback | Comments(0)

水に落ちたロバ

一度書きかけた文章を消してしまった。まあいい。
こういう寓話がある。

塩をはこぶロバ <福娘童話集 きょうのイソップ童話>

中世には寓話に教訓が添えられるスタイルが一般的になったので、「怠け心にはきっと悪い報いがあるだろう」みたいな倫理噺になってしまうのだが、そういう神父さんが新約の一説を引いて説教するようなのとはまた違った読み方も、古代ギリシアにはあったのではないかと思う。

ちょっとまともな資料を引用できないのだけれども、ペットを飼う日本人の心理には、ペットを一人前の生き物として育て、友として付き合うようなスタイルとは違った、弱い者を溺愛し、そして溺愛されたものが自分に依存する様子を見ることで、自分の存在意義を感じて安心するというような、そういう形式が多いというような話がある。

同じような「病理」が、幼い子供を育てる母親の一部にもあるらしく、そういう母親に育てられた子供が成長すると、依存性の高い人間になるという。子供が依存してくることに喜びを覚える母親の育児は、子供に何か新しいことをさせるのだけれども、それが万事うまくいって子供が自分から離れることに無意識の恐怖心を持っていて、ついつい子供が失敗して自分がそれを助けるようなシナリオで事を進めてしまうらしい。

水に落ちて荷が流れて楽になるロバと、ロバが水に落ちるような荷を負わせておいて、水に落ちたロバを責めずに助ける自分の優しさに恍惚となる飼い主の共依存、といった光景が、母と子の間に成立する。そして、そういうシナリオの中で育った人間は、うまくやれば成功できるようなことでも、ついつい失敗に終わって慰められるような展開を、これもまた無意識のうちに想定してしまい、そして最終的には、実際にも失敗してしまうらしい。

人間誰しも幸福になりたいと思うのは自明の原理のように見えるが、「とても幸福になる選択肢」と「少し不幸になる選択肢」が提示された場合、後者のほうが自分に似合っていると感じる人もいくらかいるということがあるらしい。

「自己愛型人格障害」という類型に当てはめられてしまうような、分不相応な幸福が自分にもたらされて当然だ、という方向の不釣合いも厄介だが、敢えて不幸を選択する不釣合いも、それはそれで厄介な障害だろう。ゼロサムゲームでそれをやって、ほかの誰かが幸福になるのならまだいいが、ノンゼロサムの状況で、例えば約束を守れば誰もが幸福になる場面でも、その約束を破って関係者を巻き込みつつ不幸のほうを選び取るのだとしたら、これは周囲にとっても厄介な問題である。

と、ここまで他人事のように書いておいて、実は今日も自分語りなのだけれども、私はこの水に落ちたロバのような子供時代を過ごしたらしいという状況証拠が、ちらほらと見つかる。四十を過ぎた今になっても、どうやら無意識の習慣として、失敗となる結末を望むようなクセがあるらしい。無意識による行動なのであまり自覚がないが、私にもどうやらそういう傾向があるらしい。

で、そう書くと母親が悪いように思えるが、そういう母親の行動も、ある種の弱さを含みながらも、基本的には善意であり、また、そのまた母親から受けた育て方に遠因があったりして、こうなるともう、親の因果が子に報い、という具合で、因縁説だの輪廻だの、そういう論も現実味を帯びてくるようになる。超自然的な現象ではなく、脳による学習という物理現象を通じた情報系統伝達というような意味で。

で、完全に母親や祖母のせいにするのではないのだけれども、そういう影響って取り去りにくいんだよなぁ、と、三十歳で脳の動きがそれなりに固定化して以降は、諦めに近い形で受け入れるようになっている。幸い、最近は薄情になってきているので、そういう子育ての仕方をしなくなってきている。ただ、第一子のムスメに対しては、多少それをやってしまったような気がする。

親として成熟した、というようなことは無くて、また別の酷薄さに変わっただけのような気もするが、育児に失敗するという結末を暗に望んでいるんだとすれば、それはいかんなぁ、幸福にしてやらないとなぁ、と考えている。考えているのと、反射的に実行できる習慣になることの間には当然に溝があって、成功する自分のイメージづくりみたいな行動療法も飽きずに続けないといけない。このあたり、当人が心の中で決意しても無意味なので、外部にシステム化しないといけないんだが、いい形式がまだ思いつかない。んー。

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# by antonin | 2014-08-04 00:25 | Trackback | Comments(0)


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