安敦誌


つまらない話など
by antonin
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31
検索
最新の記事
酔論
at 2017-08-22 01:23
婦人画報創刊号
at 2017-07-07 01:36
アキレスと亀
at 2017-05-02 15:44
受想行識亦復如是
at 2017-05-02 03:26
仲介したことはあまりないが
at 2017-04-29 03:36
サンセット・セレナード
at 2017-04-12 23:17
水分子と日本人は似ている
at 2016-06-04 01:49
ほげ
at 2015-06-05 03:46
フリーランチハンター
at 2015-04-17 01:48
アメリカのプロテスタント的な部分
at 2015-04-08 02:23
記事ランキング
タグ
(296)
(148)
(122)
(95)
(76)
(65)
(59)
(54)
(45)
(41)
(40)
(39)
(33)
(31)
(28)
(27)
(25)
(24)
(22)
(15)
最新のコメント
>>通りすがり ソ..
by Appleは超絶ブラック企業 at 01:30
>デスクトップ級スマート..
by 通りすがり at 03:27
7年前に書いた駄文が、今..
by antonin at 02:20
助かりました。古典文学の..
by サボり気味の学生さん at 19:45
Appleから金でも貰っ..
by デスクトップ級スマートフォン at 22:10
以前の記事

卯月惚け

ベイヤー法とは、1860年代にアメリカの鉱山技師エリック・ベイヤーが考案した橋梁技術(アンカリング技法)である。現在はコンクリートなどの人工成形物にアンカーを埋設する成形ベイヤー法が主流であるが、初期には強固な岩盤に穿孔しアンカーボルトを埋め込むタイプの岩盤ベイヤー法が多用された。

岩盤ベイヤー法は成形ベイヤー法に比べ資材の使用量が少なく、山間部での施工に有利な面はある一方で、硬い岩盤に深い穴を多数開ける必要から作業量が多く、先進国家で労働集約的な作業コストが資材コストを上回るようになる19世紀末頃から、次第に利用されなくなった。

この頃、欧米で使われなくなった岩盤掘削用機材が日本に輸入されるようになり、山間部での鉄道や大型鉄塔のステイワイヤー敷設など、国内でベイヤー法の普及が進んだ。機材の老朽化は進んでいたが、安価であり、また初期のシンプルな設計であったアーヴィング ドリルなどはメンテナンスも簡単で、当時の日本の工業技術でも保守が容易だったため、人件費の安い発展途上国であった日本には適した技法であった。

岩盤の露出する山間部に適した岩盤ベイヤー法であったが、機材メンテナンスの都合から都市部を離れた地域で作業が行われる時代にはすでに成形ベイヤー法が主流となっていたため、岩盤ベイヤー法が多用されたのは東京からの鉄道延伸が関東平野を取り囲む山岳部に達する地点であった。

代表的な工区は中央本線の八王子~上野原間(明治34年開業)であり、総計200ポイントを超えるベイヤーアンカーが作成されたと言われる。当時の作業者が過酷な掘削作業中に歌ったのが「がんばんべーやー節」であるとされ、今でも八王子近辺では親しまれている。もっとも、アメリカ民謡「線路の仕事」と同様に、その歌詞は当時の過酷な仕事内容を歌ったものから、楽しげな内容に変化しつつある。

--

みたいなことを2月くらいからボチボチ考えていた。馬鹿だ。
今年度もよろしくお願いいたします。

[PR]
# by antonin | 2015-04-01 02:22 | Trackback | Comments(0)

光は本当に量子なのか

光ってなんなんだろう、というのをブツブツ考えている。今や、光というのは光量子、フォトンというものだということが常識になっていて、波動か粒子かなんていう議論はとうの昔にケリが付いたことになっている。けれどもよくよく考えると、どこの説明を読んでも、光が粒子性、あるいは離散性みたいな性質を示す場合というのは、何かの物質粒子、つまり質量のあるフェルミオンとの相互作用を起こした場合に限られるように思える。

光そのものというのはフェルミオンのような状態の排他性がないので、空間的にもポテンシャル的にも線形性がある。この状態のままだと人間からは測定できないので、何らかの物質粒子と相互作用させて、物質側の状態変化を観測している。電流として光を観測するにしても、最初に電子というフェルミオンが媒介していて、純粋な電磁波そのものを直接に観測しているのではなく、電磁波と相互作用する電子の状態を通じて観測している。

そういう観測をすると、光は量子性を示す。なので確かに数式上では光を量子として扱うのが美しい記述になるのだけれども、実験結果などを考えるとき、光自身が量子であると考えてしまうと、スリット干渉実験などのようにいろいろと納得のいかない現象が多い。そこで、光、つまりは電磁波というのはあくまで純粋に近い波動であり、電磁波が物質粒子と相互作用する場合には物質粒子の性質として量子性が出てしまうのではないかと考えるようになった。

ミクロスケールでは電子をはじめとした物質粒子もド・ブロイの物質波という波動性を持っているが、人間が物理観測に使えるような素子では、何らかの結晶質のような空間的に束縛された状態の物質を使っている場合が多い。そういう、TEMなんかを使うと個々の原子のツブツブが見えてしまうような粒子性を示す状態のフェルミオンで電磁波を観測しているのだが、人間が想像する以上にそのフェルミオンというのは広範な波動を持っているんじゃないかという気がしている。

統計的に意味のあるレベルでは各粒子は格子点に局在化しているのだが、光のような波動と相互作用する場合には、意外にブロードな、結構非局在化した物質側の波動が広がっていて、それが純波動である電磁波と相互作用し、たとえば感光反応などの場合には、たまたま何らかの位相が合った粒子が "winner gets all" 式に、ある空間の電磁波のエネルギーを粒子が拘束されている中央付近に集めてしまうのではないかという気がしている。実際、格子点に束縛されていない単原子で光を「観測」してみても、光量子の状態はほとんど収束しないものらしい。

光は3原色から成っています、というのは小学校や中学校の理科の知識としては正しいのだけれども、網膜の錐体細胞内で起こっている光化学反応あたりを理解すると、3原色というのは別に光の性質などではなくて、それを受容する視神経の性質に過ぎないということがわかるようになる。これと同じように、光をフォトンという量子として扱うというのは、あくまで数式上のテクニックに過ぎず、実際のところ量子性というのは光の性質などではなく、光と相互作用する際のフェルミオンの性質に過ぎないんじゃないのか。

そう考えると、マルチパス観測で「光子」が通過しただのなんだのというのは、単に観測側のフェルミオンの波動がどういう形で広がるかというあたりをいじっているに過ぎず、電磁波はあくまで波動として広く並行的に拡散しているんですよ、ということになる。だから、光が「通過した」とか「通過していない」とかは実は観測できていなくて、光はどちらの検出器に検出されるかにかかわらず常にどちらのスリットも通過していることになる。

一方、光の「通過」を観測するかどうかを制御することで、通過点で観測に使っているフェルミオン側の波動の広がり方が、実は観測側にも同時的な影響を与えてしまっていて、その相関が一様に進行する電磁波と観測点の物質粒子の相互作用に影響してしまっているに過ぎないんじゃないかと考え始めている。ハミルトニアンなんかで記述できる既知の波動関数ではなくて、M理論とつながってくるような、もっと高次元で、いわゆる粒子の領域よりずっと広い範囲に影響する波動があって、それが電磁波と相互作用しているんじゃないのか。

ただ、そのフェルミオンが光と相互作用する場合の具合が、EPR相関などでもわかるように、必ずしも局所的でも光速に縛られた因果的なものでもないので、ちょっとマクロ世界の常識が通じにくいというところは残る。ただ、これにしても光速より早く伝わる因果関係は無いという常識を捨てれば、むしろマクロ世界のように光のような非常に速い伝達と水面の波のような遅い伝達があるモデルを持ち込みやすいような気がする。

逆に考えると、量子が「素粒子」に近いものであるという発想自体が大きな間違いで、電磁波が大数法則にしたがうマクロな波動と見なせるほど広大なミクロ世界が、電子などのレプトンより下のスケールにもまだまだ広がっているという方が正しいのかもしれない。

こういうことを考えはするのだけれども、それを裏付ける傍証の調査などをする気力もなく、プログラムのユニットテストの方法論なんていう実用的な情報を集めるのもそこそこ楽しく、また通勤時間などはまとまりのつかないSNS情報の流し読みなどで潰れていったりもするので、こういう妄想を確信に変えるほどのことはできないんだろうなぁ、という気がして、なんだか気怠い。

[PR]
# by antonin | 2015-03-17 23:48 | Trackback | Comments(0)

自分のアタマで考えざるを得ない生き方

数式の変換過程だとか、将棋の読み手だとか、そういう作業経過を覚えておく短期記憶に困らない人というのは脳の海馬が大きいらしいのだが、そういう人はきっと記憶の構造が違うのだろう。自分はどうやら海馬が小さいので、記憶というのは丸暗記ではなくて、たとえ嘘でもいいから何かしらの意味付けが必須だった。そうして、短期記憶をなるべく経由せずに、新皮質側の連想記憶でものを覚えていく。そうすると記憶は意味論でしかできなくなるから、細かいディテールは消えて、「だいたいこんな意味のことだった」という記憶の集合体になっていく。

私はこういうものの覚え方しかできないので、どんなに些細なことでも、学習というのは意味の考察とほとんど等価だった。理由、構造、関係、そういったものを、とりあえずでもいいので発見しないと記憶にならなかった。これが、小さい海馬を持って学校のようなものに通う義務を課せられた人間が、考えざるを得ない生き方をしてきた主な理由だった。覚えにくく忘れにくいので、定期試験には弱く外部模試のような出題範囲の広いものには強い傾向があった。

もちろん、特段の理由なんて無いんだからとにかく反復で覚えるしかない、というものもある。そういうことも全く不可能ではなかったが、非常に不得意だった。得意なのは、どうしても理由付けが可能なものになった。何事も既存の記憶に関連付けられるような、理由や背景や構造を必要とするので、ときには普通の人が気付かないような本質的な理由に気付くこともあったが、一方で、妄想に近いようなこじつけの理由付けで記憶されるようなことも多かった。記憶するためには既存の記憶と連合する理由付けが必要なだけで、それが必ずしも客観的な正しさと整合する必要はなかった。

どうしてそんなことまで知ってるの、というようなことを呆れたように言われることもあるが、たいていはそういう理由探しからトリビアルな情報にたどり着いたという経緯だった。そこまでしないとものが覚えられないので必要に迫られてやっているのと、単純にそういうのが楽しいからというのと、両方だった。

海馬の大きい人は「まずは深いことを考えずに記憶してみるといいよ」と言うし、海馬の小さい人は「とにかく自分の頭で考えてみよう」などと言うのだが、こういうものにはおそらく生まれつきの向き不向きがあって、自分の脳の器質に合わない方法を使ってみても、きっとその提唱者のようにはうまくいかない。憧れる人というのは自分にはない能力を持った人であることが多いが、近親憎悪みたいな感情があっても、結局は自分に似たタイプの人に倣うのが効率がいい。顔かたちと違って、脳の機能というのはまだ簡単に弁別できる時代ではないので、画一的な学校教育が続いている日本のような国では、本当に自分に合った学習や考え方のスタイルを見つけ出すのは簡単ではないだろう。

現代日本が苦手だとは言いつつも、記憶が外部化できる時代に生きていられるというのは、海馬の小さい人間にとっては非常に助かる。抗生物質の使い過ぎで免疫系がバカになって花粉症などを起こしているが、それでも現代医学がない時代に生まれていたら、結構な確率で成人前に死んでいただろう。まあ、現代でも精神的に生きづらくて死にそうな20代を送っていたのではあるが。学校というのは記憶重視の時代の方法論がまだ色濃いので困った環境だったが、社会というのはもうちょっとだけ自由なので、そのあたりで救われた面はある。

もしも人工知能というものができたならば、それはおそらくディープニューラルネットワークのような低水準からの脳のシミュレータではなく、もっと現行検索エンジンに近いユニットを多数相互接続して作られた分散ネットワークのようなものになるだろうから、現行のデータベースには直結できて、人間の海馬に相当するような機構はいくらでも強くできるだろう。むしろ、詳細な記憶に支配されすぎてローカルミニマルみたいなものに拘束されないように、詳細すぎる記憶を能動的に遮断するくらいじゃないと正常に動かないかもしれない。詳細記憶に支配されすぎると、おそらくアスペルガー症候群のような動作になってしまう。

ムスコ1号は私によく似て、ワーキングメモリーが非常に小さい。立体図形の脳内回転などの操作が得意な一方で、文章の読み書きが苦手で、作文などでは非常に苦労している。平時はとても穏やかだが、一線を越えると突然キレる。このあたりも私の子供時代によく似ている。考えることを重視した画一的なゆとり教育から、反復を重視する画一的な陰山メソッドに移行した現在の学校教育とは相性が悪く、問題児扱いされて苦しんでいるようだ。

一方、ムスコ2号は記憶力抜群で、特に教えてもいないのに文才があり、兄とは非常に対照的な脳のつくりをしている。物わかりはいいが、自分が譲った不満はなかなか忘れてくれない。春から小学校に入るが、学校ではうまくやっていけるタイプだろう。ムスメは私の父に似て、攻撃的で頑固者だが、寂しがりやである。私は父を見て育ってきたのでこういう性格は嫌いじゃないが、ヨメはどうにもこういうのが苦手らしい。

たった3人しかいないうちの子供たちが、恐ろしいほどに三者三様なので、あまり親の立場で正確なアドバイスはできないが、できればたった2人しかいない親の意見に影響されすぎず、なるべく大勢の大人の意見に接するようにしてもらえたらいいんじゃないかと思う。学校の教室というのも、小学校の場合はたった1人の担任教師しかいない閉鎖空間なので、中学校以降のような教科別教員のいる学校へ進んだ方が生きやすくなるんじゃないかと思う。どんなに品性に優れた教師でも、数人の生徒には必ず嫌われるし、どんなに下品な教師でも、数人の生徒には慕われる。結局、人にはどうしようもない相性というものがあって、このあたりは親兄弟であっても例外ではない。

世界というものは、家庭や学校なんかよりずっと広いものなので、あんまりがっかりせずにいろんなものを見ていってもらいたい。

[PR]
# by antonin | 2015-03-06 03:57 | Trackback | Comments(0)

折り合い

湯船に浸かりながら、エウレカがあった。

業務でのC#を使ったツール作成が、スケジュールを大幅に超過している。理由は、新しい言語と新しい開発環境の「理想」を一気に取り込みすぎて消化不良を起こしたところにある。理想の姿を考えるのは楽しいが、考えをまとめるのには時間がかかる。そろそろ現実との折り合いをつける必要がある。理想を一部放棄することになるだろう。その理想の捨て方が、湯船の中でひらめいた。

けれどもまぁ、挫折というのではなくて、考え悩みながら手を動かしてきた末に、ようやく落としどころが見えてきたんだという実感がある。ここまで理想に取り組みながら突っ走ってきてよかったなぁ、最初から妥協していたら、この落としどころは見えなかっただろうな、というのが正直なところだ。

理想像の素描を捨てることで若干の手戻りは発生するが、言語の変更だとかライブラリの変更だとかのために、どうしても新規に作らなくてはならない最低限のところはもう形になっているので、あまり不安はない。美しいが険しい道のりと、泥臭いが手堅い道のりが見えたという意味では、「曳光弾」としては上出来だろうと思うし、失敗ではあるが必要な手順だったのだとも思える。

達人プログラマー―システム開発の職人から名匠への道

アンドリュー ハント,デビッド トーマス/ピアソンエデュケーション

undefined


工学というのは、もちろん先人の成果に乗ってある程度効率の良い方法を学ぶ面があるけれども、その先にはありとあらゆるところにトレードオフがあって、そこにどう比重を付けて優先順位を決めていくのかというのが、実地の工学では要点になる。そして、その落としどころを探るのは妥協ではなく、あくまで優先順位の問題でなくてはならないので、優先順位の高い部分を台無しにしない限度内で優先順位の低い部分もキッチリ始末してやらないといけないし、トレードオフの交点そのものを高めるブレークスルーの可能性にも、いつも心を残しておく必要がある。

そんなことは若いころから先輩に言われていたことではあるが、こういうことが自分自身の言葉として出てくるようになったのは、やはり好きなこと、得意なことを仕事にしたからだろう。自信が砕けることは多いが、薄皮を破るように何度もそれを乗り越えられるのは、やはり根本的に得意なことだからだろう。やたらと努力を説く人がいるが、あれはおそらく、仕事の内容よりも努力することそのものが得意で、何より努力している自分を感じることが大好きな人というだけのことに違いない。

これを知る者はこれを好む者に如かず、これを好む者はこれを楽しむ者に如かず。仕事の内容そのものであっても、仕事の進め方や人との折衝というメタな部分であっても、それを楽しめる人にはやはり敵わないし、仕事を発注する側としても、不得意なことを無理に頑張っている人よりも、得意なことを楽しんでいる人に頼みたいと思うだろう。

今や自分は得意なことで仕事をする幸運に巡り合えたわけだが、好きなことに向かって自分で動いた過去があるからこの幸運があるんだと思える一方で、純粋に「運」の面が強いというのも本当に感じる。ほんの小さな何かが欠けただけで、今の境遇は無かっただろう。色々な人たちに助けてもらっている。

掲げすぎた理想の旗を一部下ろして、現実と折り合いを付けよう。そして、あとで旗を取りに引き返せるよう、アドリアネの糸を引きながら前に進もう。なんだか清々している。

[PR]
# by antonin | 2015-03-01 00:19 | Trackback | Comments(0)

C++とC#

製造業からソフトウェア業界に移ってから、ずっとC/C++でプログラムを書いてきた。それはそれで悪くないのだが、CにしてもC++にしても、統一された作法を守っていればどちらも美しい言語なのだけれども、C++という言語には長い歴史の重層というものがあって、C++が "Better C" と呼ばれて段階的に色々な技法を試行錯誤していたような時代のコードが現役で生きている。ソフトウェア予算の乏しい業界では「壊れていないものは直すな」という格言があって、テストで補強してリファクタリングをゴリゴリ進められるようになる以前の設計が、現役でバリバリと金を稼いでいたりする。

そういう厄介があって、C++11はおろかC++03標準すら完全に準拠していないような貧弱なコンパイラを使い、C++でありながらMISRA-Cに似た古臭いコーディングスタンダードに縛られながら、忍耐力を要求される仕事が続いてきた。定数はマクロにして、全てヘッダファイルに書くんだそうですよ。恐ろしい。C++はなまじCと互換性が高いせいで、ネットで拾ってきたような標準Cライブラリにべったり依存した処理だとか、生ポインタのnewとdeleteが飛び交う危険なコードが混入しやすい。古いコンパイラだとテンプレートはごく基本的なものしか仕様通りに動く保証がなくて、ある程度の構造はマクロを援用しないと怖くて書けなかったりする。

そして、C++の仕様は巨大化して、まともなコンパイラは地球上でGCCとclangだけになってしまった。Cの美点は、OSのようなハード寄りのソフトウェアを高級言語で書けたのももちろんだけれども、何よりコンパイラが小さくシンプルで、新しいハードにもコンパイラそのものを短期間で移植できるというところにあった。C++は、言語のシンプル化よりメタプログラミング可能なくらい強力な言語の道を選んでしまったので、正しく扱える人も減ってしまったということなのだろう。ある程度基礎的な計算機科学を知らない人が書いたC++のコードというのは恐ろしいものがある。下のリンクにあるような話を読んで、自分を勇気づけながらなんとか実務をやってきた。

The Noble Art of Maintenance Programming

ところが、ちょっとした流れから、既存の小さなプロセスユニットを新しくC#で組み直すことになった。一応期間としては2か月。ほぼ一人仕事で、コード上のことに関しては、かなり制約なく自由にさせてもらえることになっている。カウボーイプログラミングという言葉もあるようで、野狐禅というか、そういう中途半端なものにならないように注意しないといけないのだが、まあ楽しい。これまでC++でもやっておきたかったような正常なカプセル化と例外運用は当然導入するとして、最近のC#5.0では非同期処理が非常にお手軽に書けるようになっており、このあたりも積極的に取り入れることにした。

ただまあ、お手軽とは言え新機能でもあり、水面下にはあの恐ろしい並列処理が潜んでいるので、あまり油断しているとあとで大変なことになるだろう。あとで大変なことになる、というのは、自分とは経験と意見の異なる人がコードをメンテナンスするときに、あまり繊細な構造にしておくとあっという間に壊れてしまうというあたりだ。そして、自分自身も来年には今とは相当経験と意見が変わっているはずで、そのあたりはしっかりベストプラクティスを調べておくべきなんだろう。

今回はテスト駆動も盛り込んでいるのだが、本体のコーディングよりテストの作成のほうが疲れる。本体のほうは比較的まばらに処理が動くゆるゆる設計なのだが、テストは数十本のテストがマルチスレッディングで一気に走る。実行が早くて結構なのだが、本体より一足先に高度な並列処理地獄に陥っている。それぞれのテストは小さく、また独立しているので、メモリ保護やテスト間の同期は気にしなくていいとはいえ、単独実行では一瞬で成功するテストが、一括実行だと遅延したり失敗したりする。まあ、このあたりで高密度な非同期処理の訓練をしておけるのはむしろいいことなのだろう。

テストが遅延する原因を調べたら、Task.Delayというものを知らなくて、非同期プログラミングのサンプルコードにあるThread.Sleepをテストコード側で多用してしまったために、同時実行によってワーカースレッドが枯渇したんじゃないかという疑いが出てきた。こういう失敗は早いうちにしておくべきだろうと思うので、テスト段階で並列地獄になるのはやはり良かったのだろう。

久しぶりに脳味噌フル回転でコーディングができて楽しい。C#も.Net Frameworkも、新しいVisual Studioもほぼ初体験で何かと不慣れなのだが、使ってみるといろいろと洗練されていて使いやすい。開発環境でいうと、識別子の宣言を書き換えるだけで参照箇所を全部直してくれるのが非常に便利。こういう機能はかなり前からあるのかもしれないが、これまで10年以上前の環境でチマチマとやっていたので、まさに隔世の感がある。StyleCopというツールがあって、スタイルで迷わなくていいのも助かる。スタイルというものは一貫性さえあれば、あとはなんとか慣れるものだ。

新しい言語を使うのは楽しいもんですな。

[PR]
# by antonin | 2015-02-07 02:10 | Trackback | Comments(0)

浮世離れ補正

かねてより「耳が悪くなった」と嘆いていたのだが、単にスピーカーやイヤフォンなどの再生デバイスが劣化していたからという可能性が濃厚になってきたので、そのあたりを少し。

しばらく前からSONYのイヤフォンを使っているのだけれど、これを使うようになってから結構自然に音楽が聞けるようになった。

SONY 密閉型インナーイヤーレシーバー XB90EX ブラック MDR-XB90EX/B

ソニー

undefined


それで最近になってCDのロスレスエンコードをえっちらおっちらやっているのだが、それでもONKYOのPCスピーカーや、近所のスーパーで買ってきたJVCの廉価版ヘッドフォンだと、相変わらず音がくぐもって聞こえる。ただ、古いCDをエンコードしたクラシックなどではそういうことになるのだが、比較的最近のポップスなどを聴くと、そういう再生装置でも自然に響く。どうやら最近の再生装置はポップスの音源をリファレンスとして設計されているから、クラシックやジャズをリファレンスとして設計された古い装置と違って、オーケストラ演奏などを鳴らすと音がくぐもって聞こえてしまうものらしい。

ONKYO WAVIO アンプ内蔵スピーカー 15W+15W ブラック GX-D90(B)

オンキヨー

null


JVC HA-S200-B 密閉型ヘッドホン 折りたたみ式 DJユースモデル ブラック

JVCケンウッド

undefined


スピーカーなどは装置のつまみで低音と高音の比率が調整できるのだが、その程度だとあまり改善しない。今のPCで使っているマザーボードにはRealTekのHD音源が載っているので、その設定アプリのイコライザ機能を使って、プリセットのイコライジングカーブではなく、耳で聴きながら一番よく聞こえるレベルを探ってみた。そうすると、ONKYOスピーカーでもJVCのヘッドフォンでも、ちゃんとクラシックを鳴らすことができる。ロスレス音源の細かい音場まで拾えている。そして、そういう補正を掛けると、今度はポップスがうるさくて耳障りな音になってしまう。

ヘッドフォンのイコライジングカーブはこんな感じ。

b0004933_23315245.png
中低音が若干盛り上がっているのは、このあたりがズシズシ鳴っていると楽しいので趣味的な補正という感じだが、高音を引っ張り上げているのはポップス向きにアレンジされた再生装置の逆補正成分ということになるんだろう。8kHバンドを中心とした高音域を引っ張り上げると、音が非常にクリアになった。ピアノの高音でもヴァイオリンの高音域合奏部分でもスネアドラムのアタックでもしっかり聞こえるようになった。500Hzバンドをつぶすだけでもかなり音が明確になったので、ポップスではこのあたりを強調するとバランス良く鳴るのだろう。

一方、SONYのXB90EXを接続すると、中低音の補強を少し入れたほうが音がリッチに感じる以外は、特に補正なしでクラシックが聴けた。この場合も、逆にポップスのほうで補正を入れたほうが聴きやすかった。RealTekのプリセットにある「ポップス」は、このフラット特性の装置でポップスを聞く場合の補正になっているようだった。逆に、廉価版の装置はこのあたりの補正が、電子的あるいはアコースティックな特性を使って、デフォルトで掛けてあるのだろう。

ところで、私があまりCDを買わなくなった00年代、CD業界にはちょっとした異常な現象が見られたのだという。CDショップの試聴コーナーでの印象を優先した、音圧競争というのが起こっていたらしい。

Bostonの名曲「More Than A Feeling」に見るラウドネス(音圧)競争の現実 | 山崎潤一郎の「また買ってしまった。」

ブログ 懐かしいCDの美しい波形を偲ぶ会

試聴機を使った店頭販売で売れるための味付けが暴走した結果だということらしい。そういえば、以前のテレビ販売でも似たようなことが起こっていた。最近は通販が強くなってきたが、量販店全盛の時代には店頭で見栄えのする、とにかく明るくてとにかく色の鮮やかなモードを持った機種が売れるので、リビングで見ていると目が痛くなるくらいのチューニングをデフォルト設定に据えるメーカーが増えて、描写力の高い領域を中心に据えたような画質重視の機種が売れなくなっていた。プラズマディスプレイが滅びたのも、まあ電力消費の問題もあるけれども、この店頭画質で液晶に比べて劣ったというのが主要因だったらしい。

一方で、10年代に入るとこの傾向には一定の落ち着きが見られるようになったらしい。その理由はよくわからないけれども、iTunesが普及した影響ではないかという気はしている。ダウンロード販売では試聴用に独自のフォーマットを使えるので、販売音源そのものを歪ませて店頭アピールする必要がないということもあるが、それよりも影響が大きいのはiTunesのランダム再生だろう。

あれはどういうアルゴリズムで選曲をしているのか知らないが、少なくとも単純な乱択ではなくて、再生回数や再生時間帯などを考慮しているらしい。しかしそうは言ってもミュージックライブラリ全体から曲を拾ってくるので、曲から曲に移った時にいきなり音量が変化すると困る。ということで、iTunesはCDからトラックをリッピングする際に平均音圧レベルを記録しており、ランダム再生時はこの音圧が均等になるように補正を掛けて再生している。

この音量補正のために、CD音源で音圧競争をしてもポータブルデバイスでのランダム再生時にはiTunes様によって自動キャンセルされてしまう。そうなると、残るのは一定音圧レベルでの音質ということになるので、あまりに音圧上限に張り付いた曲というのは印象が良くなくなってしまうのだろう。個人的にそういう曲をあまり聞かないのでよくわからないが。

--

最後に。イコライジング調整用音源の紹介のためにスターウォーズ Episode V 「帝国の逆襲」の finale を調べていたら、面白いものを見つけた。

『スターウォーズ/帝国の逆襲』(Ending) by Moment String Quartet (弦楽四重奏ver) - YouTube

スターウォーズの音楽はそもそも管弦楽組曲みたいなものなのでクラシックに親和性があるのだが、これは弦楽四重奏に編曲されている。そして動画を見ると演奏しているのは若い女性たちで、こんな昔の男の子仕様の曲を何でまた、と思ったら、ちゃんと黒幕(失礼)が存在していた。

_... m o m e n t ...._

びよら弾きの備忘録

どおりで愛情あふれる編曲なわけだ。これは男の子だった経験がある人間にしかできない編曲だろう。「ベイマックス」にしてもそうだけれども、性差別とかそういう話は抜きにして、趣味における男女差というのはどうしても存在するものなのだ。

ちなみに原曲はこう。

the empire strikes back finale music - YouTube

あのクソ派手な管弦楽を室内楽でよくまああれだけ再現したもんだ。素晴らしい。

そういえば調整用音源の紹介を忘れていた。上に挙げたヘッドフォン用イコライジングカーブの作成にはデュトワ/MSOでラヴェルのボレロ後半を繰り返し鳴らしていた。まあ、有名だから張らなくてもいいか。

ポップス評価用の曲はこれ。

Avril Lavigne-Take Me Away Music Video - YouTube

PV初めて見た。女の子は大変ですな。しかし、これでも10年以上前になるのか。

[PR]
# by antonin | 2015-01-25 01:21 | Trackback | Comments(0)

1+1は2か3か

「イチたすイチは~ ニかサンか~」とか歌っているCMが昔にあったような記憶がある。子供向けの文具か教材か、そんなようなCMだったと思うが、どんな内容なのかはすっかり忘れてしまった。それなのに、この「1+1は2か3か」という文句だけが記憶に残っている。

ブール代数を初めて知ったとき、1+1が2ではなく1になるという演算があるのを知って楽しかった覚えがある。そういう流れで、この「1+1は2か3か」という冗談のような歌が妙に気になっていたのだろう。1+1が2というのはごく普通の算術演算だとして、1+1が3というのは、いったいどんな演算がありうるんだろうと気になっていた。

それから長い年月が流れたが、去年のあるあたりに、ふとひらめいたことがあって、なんとか1+1が3になる演算を考えついた。そのあたりをダラダラと書いていこうと思う。

1+1=1 というブール演算は、そもそも数値として0と1しか存在しない。自然数の集合がアレフゼロという無限の個数なのに対して、ブール束の元は2個しかない。1+1=3となる代数系に似たような制限を掛けるとしても、0,1,2,3と最低でも4個の数値は必要になりそうで、これは面倒だった。しかし、よく考えてみると、今は足し算だけで掛け算は必要ないわけだし、乗算の零元である0というのは必要ないかもしれない。「1+1は2か3か」という歌にも1と2と3しか出てこないのだから、今考えようとしている代数系の元は3個で十分なのかもしれない。

というところまで考えて、ブール代数のようなロジックにトライステート ロジックというのがあったな、ということを思い出した。通常のロジック(論理)が「真」と「偽」だけを使うのに対し、トライステート ロジックというのは、第三の状態である「どっちでもいい」という状態を持った論理回路のことを指す。

デジタル回路 #スリーステート・バッファ - Wikipedia

学生時代には確かに「トライステート」と習った覚えがあるのだが、上記ページによると、その呼び方はナショセミの登録商標だったらしく、知財フリーな辞書表現だと「スリーステート」となるようだ。ジェットエンジンの「アフターバーナー」がGEの登録商標だと知ったときと似たような、微妙な感じがして面白い。

ともかく、トライステートというのには、真か偽かはっきり決まる状態以外にも「ハイインピーダンス」という状態があって、真か偽かの決定は接続先かデフォルト設定に任せるという、独特の出力状態のある論理回路になっている。委任票というのか、結論を相手に任せるモードを取りうるロジックということで考え方として面白いのだが、この3状態論理というのが今考えようとしている演算に使えそうだった。

トライステートのハイインピーダンス状態というのは、プルアップするのかプルダウンするのか、あるいは別のロジック出力に合わせるのかというあたりは、そのロジックを使って回路を組む設計者に任されている。ところが代数系を考えるときはそういう自由度は面倒なことになるので、ハイインピーダンスではなく「真偽不定」という状態と考えることにしてみる。

A+Bというブール演算は、A or Bという論理演算に相当するので、たとえばA=1、つまり「Aは真である」というのが確定した場合には、Bが0だろうと1だろうと結果は1になる。なので、真偽不定の状態をXと置くと、1+X=1となる。Aが0の場合にはこうはならなくて、結果はBの値に等しくなるから、Bが定まらないうちは結果も定まらない。なので、0+X=Xとなる。A・Bの場合、つまりA and Bの場合には、逆にA=0のときに結果が0に定まって0・X=0となり、A=1のときに結果が不定になって1・X=Xとなる。

この不定値を含んだ3状態論理を使いたいのだが、and にしても or にしても、1+1=3のように、同値の組み合わせから別の状態が出てくる演算にはならない。そこで、ブール代数上で0と0から1が出てくる演算として、「同値」"equivalent" というのを使ってみることにする。この同値というのは、昔の Microsoft 系 BASIC 言語には論理演算子 "EQV" として組み込まれていたのだが、最近はあまり見ない。C言語的に書くと、!(a ^ b) のことで、「排他的論理和」"exclusive or" の否定を取ったものになる。

排他的論理和というのには論理学的な意味があって、「田中さんは家にいますか、それとも会社にいますか」と聞いたときに「会社にいます」と答えた場合、普通は「じゃあ田中さんは家にはいないんだな」と考えるのだが、実は田中さんは町工場の経営者で、自宅兼会社に住んでいるというケースもありうる。この場合、「家にもいるし、会社にもいる」というのを、普通の論理和(or)は許容する。けれどもそれだと自然言語の「または」の意味を正確に記述できない場合があるということで、この排他的論理和というやつが生まれた。

排他的論理和を演算として見ると、結果が1になるのはA=0でB=1の場合と、A=1でB=0の場合だけということになり、「AとBは異なる」という意味にもなっている。同値演算というのはこの逆で、A=0でB=0の場合と、A=1でB=1の場合にだけ、結果が1となる。これに排他的論理和のような古典論理学的な意味付けができるという話は聞いたことがないが、何かあるのだろうか。

話が逸れたが、この同値演算は0+0=1という性質を持っているから、これを3状態論理に持ち込めば、1+1=1の呪縛から逃れることができる。ということで、まず真をT、偽をF、不定をXとして真理値表を作ってみる。

b0004933_00234760.png

「AとBが同じかどうか」なので、片方でも不定になると結果は自動的に不定になる。それで上の図のようになる。

そしていよいよ、このFを1に、Xを2に、Tを3にそれぞれ読み替える。最後に、この同値演算の演算子として無理やり「+」記号を当てはめてみる。すると、こうなる。

1+1=3
1+2=2
1+3=1
2+1=2
2+2=2
2+3=2
3+1=1
3+2=2
3+3=3

なかなか謎めいた、良い演算になった。というわけで、1+1=3という演算は存在する(いま作ったから)。

[PR]
# by antonin | 2015-01-24 00:02 | Trackback | Comments(0)

音楽の言語性

アナと雪の女王の劇中歌がえらい流行して、やれ和訳が原詩のニュアンスと違うなんていう批判があったが、それは悪いというより優れた翻訳であるという証明だろうと思う。商業音楽というのは世につれ人につれ、時代の空気に寄り添う義務というものがあって、歌詞が翻訳されたら、そこに込められた感情も微妙に入れ替えられるべきだろうと思う。そもそも、翻訳というのはそういうものなのだろうと思う。本当に原文の意味を守ろうとすると、単語は基本的に音訳中心になり、意味の通じない部分は岩波文庫のように別途詳細な解説が必要になる。

翻訳というのは、原文のリズムを守ろうとすれば、ある程度意味を翻してやる必要がある。しかも、音楽という強力なリズムの縛りがある歌詞の翻訳ではそれがなおさら重要で、しかも映像が付くとなると、キャラクターが口を大きく開けているタイミングで「ん~」などという詩を当てることも許されなくなる。しかも商業的な成功のために、日本の文化的な背景にも寄り添う必要がある。そして、そういう難しい制約を高度に乗り越えた翻訳に成功したからこそ、あの曲はヒットしたのだろう。

そういう要素はあるとして、あの「ありのままで」のヒットには、曲そのものの要素も大きかったんじゃないかという気がしている。最近の日本のポップスはあまり大ヒットがなくなっているが、その要因の小さくない部分が、ポップスの「本格化」にあると思っていた。そして、「ありのままで」の曲構成というのが、あまり「本格的」でないという特徴があった。

25か国語で聴く "Let it go" という映像があって面白かったが、あれを聴くと、北京語バージョンが一番本格的なポップスの曲調で歌われていて、日本語版が世界一エキゾチックな発音で歌われている。そういうのが好きなネット上の人たちに kawaii とか言われていたのだが、実は「原曲」に当たる英語版そのものが、かなりエキゾチックな音で歌われているのに気付く。そもそもあの話は北欧民話を土台にしていて、それは歴史音痴で地理音痴なアメリカ市民でもさすがに理解可能なように作られている。そして、その北欧の、特にサーメの土地に根差した民族的な舞台の印象を作るのに、「アナと雪の女王」で使われる音楽も一役買っている。

『アナと雪の女王』25か国語版ミュージック・クリップ - YouTube

サーメ、英語でいう Finnish の人々というのは、血統でいえばかなり純血に近いゲルマン人が多いけれども、文化的にはフン族と呼ばれたアジア出身の民族文化が残っている。言語的にも、母音が多い音節言語に近い音を使うらしい。あの映画の音楽が少しでもフィンランド風なのかどうかはあまり自信がないけれども、「アメリカ人にはそう聞こえる」ような味付けはされているだろう。そして、あの映画はミュージカル風にできている。このミュージカルというのは、アメリカのポップスとは別の先祖を持っていて、そのあたりもこのミュージカルアニメの音楽後世にある種の影響を与えているように思う。

ヨーロッパから新大陸に渡った人たちが独立戦争を起こして新国家を建設したけれども、この新しい国は旧世界に比べて文化資本的に貧しいということを、産業資本を積み上げて新しい貴族階級に至った人たちがかなり気にしている時代があって、当時ロンドンで人気のあったドヴォルザークがジャネット・サーバー夫人に招聘されてナショナル音楽院の院長に就いたのにもそういう事情があった。

そのドヴォルザークがインディアン、今でいうネイティブ・アメリカンたちや、黒人たちの音楽に目をつけ、交響曲第9番ホ短調「新世界」の中にも日本のヨナ抜きにも似たペンタトニックだとか、シンコペーション、いわゆる裏拍などを取り込んでいた。こういうのが白人ジャズの歴史にいくらか影響しているらしい。そして、ジャズの影響からちょっと距離を置いたところから、ロックが出てくる。このロックというのが、アメリカ合衆国の政治的軍事的な覇権とともに、20世紀後半世界の音楽を規定していく。

同じ時代、日本の音楽というのはどちらかというと追いつけ追い越せの文化の渦中にあって、アメリカやイギリスの音楽を日本人にも理解できる程度にやわらげて「翻訳」するのが仕事、というようなところがあった。古くは大正時代のワルツあたりからこうした「なんとなく英語っぽい発音」による楽曲というのが売れていたらしいが、大ヒットレベルになったのはサザンオールスターズあたりからなんじゃないかと思う。個人的にはあの発音が大嫌いだったが、桑田佳祐さんが紫綬褒章を受章するに至って、時代も変わったものだと思った。

そして、その流れというのはマドンナ・クローンの浜崎あゆみさんあたりを経て、アメリカ育ちの宇多田ヒカルさんのあたりで完成を見たのだと思う。ラジオから流れてくる黒人ラップはかっこいいのに、翻訳された「だよねー」を聴いて脱力した時代もあったが、最近の日本語ラップはよくこなれていて良いと思う。良いのだが、難しくなったという気はする。ラジオで聞いて、カラオケなどでおいそれと物まねできる水準のものではなくなってきたように思う。

19世紀後半から20世紀のアメリカ音楽というのは、クラシックの呪縛から英語を話すアメリカ人のための音楽を創造する戦いの歴史みたいなところがあって、アメリカ合衆国という統治システムが爛熟した現代のアメリカ音楽もまた、アメリカ英語で歌うための最適化が完成した音楽になっている。そして、ある程度国際化を果たした日本の商業音楽もまた、かなり本格的にアメリカ音楽を再現できるようになったのだが、どうもこの音楽というのが21世紀初頭の日本国民からは遠いところまで行ってしまったような気がしていた。

日本人に歌いやすい音楽というのは当然日本語の歌であり、日本語で歌を歌う以上は、子音で終わる閉音節というのは出てこない。どちらかというと、「朗々と」という形容が似合うような、長い母音を複雑な節回しで修飾しながら引っ張っていくような音楽のほうが歌いやすい。歌会始で「歌われる」和歌のように、子音はほどほどに、美しく母音を引き回すのが日本語の音楽というものになる。

ところが、長い戦後を終えて日本の商業音楽界が到達した音楽文化は、ゲルマン語族であるアメリカ英語に極度に最適化された音楽に極めて近いものになっている。そして、あまり英語が得意ではない日本の一般市民は、そのゲルマン的な音楽についていけなくなってきている。そこへ、「ありのままで」が大ヒットした。要は、歌いやすいのだろうと思う。

"Let it go" というのは、20世紀のアメリカがクラシックの呪縛を踏み越えようとする過程で生まれた、ミュージカルの音楽をベースにしてる。ミュージカルという演劇は当然オペラを源流としていて、その音楽劇を現代アメリカ風にアレンジしたものになっている。そして、アメリカがオペラを輸入した時代の旧大陸のオペラ文化というと、ヴァグナーかロッシーニか、そのあたりということになるのだろう。

ヴァグナーはドイツの人なので、それまでのオペラから少し離れたところで曲を作るようになり、弦楽合奏が細かいリズムを刻みながら和音を彩るというような新しい技法を導入したけれども、それでもこの人はベートーヴェンをひどく尊敬していて、あの歓喜の歌のような、古い時代のライン流域の歌謡もまた愛していて、比較的母音を朗々と引くタイプのメロディーに抵抗がなかったようだ。

そして、そういうオペラの源流はというと、やはりバロック時代のイタリアにある。モーツァルトはフランス風の絢爛豪華な器楽編曲とイタリア風の愉快なオペラをミックスして、ドイツ語の脚本でオペラを作曲したが、それでもまだ時代的な制約からは自由ではなくて、基本的な構成というのはゲルマン独自のものではなくてイタリア風の旋律にあった。

イタリアオペラというのは、もちろんイタリア語で歌われるもので、イタリア語というのは地中海語族の母音豊かな言語である。物語の山場では、歌手は母音を朗々と歌い上げる。悲劇でも、感情的なアリアは豊かな母音で歌われる。あの極端に技巧的なオペラの発声というのは苦手だが、それでもイタリアオペラの旋律というのは美しく感じる。その美しく感じる理由はもちろん器楽にも声楽にも合うメロディーにあると思うのだが、母音の豊かなイタリア語と、同じく5つの母音に深く依存した現代日本語の類似性にもあるような気がしている。

イタリア語と日本語の母音構成が似ている理由が、明治期の「ローマ字」の輸入にあるのか、あるいは有史以前のユーラシア文化に源流があるのか、はたまた単なる偶然なのか、そのあたりはわからない。けれども、イタリア語と日本語の音は、アメリカ英語などに比べればかなり似ていると言える。濃音や激音があり閉音節も持つ朝鮮語などより、音だけならよほど近い。ギリシア語にもこの傾向があって、古代エジプトの言語もそうした音節言語として解釈できるらしい。ポリネシアの言語ではこの母音依存の傾向はより極端になる。なので、個人的にこういう母音の豊富な言語を海洋言語と呼んでいるのだが、海上生活が母音を要請して、森林もしくは雪国での生活が子音を要請したのかという、そういう言語発生上の合理性があるのかどうかというところまではわからない。

ともかく、ヨーロッパ音楽の源流にはラテン帝国の公用語であったラテン語のなれの果てであるイタリア語があって、その影響というのは結構現代の近くにまで及んでいたのだろうと思っている。そして現代アメリカはその呪縛をほぼ完全に振り切っていているのだが、その着地点というのは、日本人にはむしろ馴染みにくい音になってしまっている。イタリア崩れくらいの音楽のほうが日本人には合っている。そこに、南欧風の明るい長調ではなくて、ケルト系やスラヴ系の短調含みの曲調が乗ると、さらに性に合うように思うが、そこまで行くとやや古臭かったり田舎くさくなったりするので、加減は難しいだろう。

そして、バルト海や北海に面したサーメの土地を主題とした、ミュージカルの系統を持つ音楽として "Let it go" は作曲された。そして、そこに臆面もなく日本語らしい歌詞が乗せられた結果、「ありのままで」は大ヒットした。まあ、この曲も細かい部分は英語に最適化した最近のリズムを持ってはいると思うけれども、その部分が古臭さを排除するのに役立っていると思うし、肝心な部分での母音の引張りを引き立てているようにも思う。歌っている人が歌舞伎役者の家系に生まれた女性というのは偶然の部分が大きいだろうが、同時に発表された「本格的」バージョンのほう(エンディング・バージョン)がそれほどヒットしていないところを見ると、この見立ても悪くないのではないかと思う。

あの大国であるアメリカはアメリカで、本質的に異国文化である歴史的な音楽文化の受容に苦労していたのだとするといくらか面白いし、そこに迎合した末に反旗を翻しているような日本のポピュラーミュージックの流れもまた面白い。世代文化というのは親世代の文化への反発と受容を一生かけてやっていくようなところがあって、その縞模様のようなものを眺めるのは、少しだけ呆れるようなところもあるけれども、まあ面白い。

[PR]
# by antonin | 2014-12-07 17:24 | Trackback | Comments(0)

歌え 歌え 歌え

普段はクラシックを聴くことが多いが、時々ジャズも聴く。最近は小編成のも聴くようになったが、もともとはビッグバンドのスウィングを聴くことが多かった。クラシックを聴くようになったきっかけも、もともとスーパーマンやスターウォーズなんかの映画音楽を小学校低学年のころに聴いた体験が源流にあって、実はジャズもスーパーマンやスターウォーズのテーマを作曲したジョン・ウィリアムズの影響で聴きはじめたのだった。

ジョン・ウィリアムズが手勢のボストン・ポップス(ボストン・シンフォニー)を引き連れて来日公演したことがあって、民放でその様子が放映されたことがあった。その頃、確か高校生の頃だったと思うが、テレビ音声をステレオ受信できて、しかも録音できるというAiwa製の変なヘッドフォン・ステレオを使っていた。その前は三洋製を使っていたので、私が好んだメーカーは市場で滅びるというジンクスはこのころからあった。

話が逸れたが、その来日公演の放送を、なるべく電波状況の良い環境でカセットテープに録音して、しばらく聴いていた時期があった。その目玉はもちろんスターウォーズのテーマだったのだけれど、そのほかにもジャズの演奏などもあって、ベニー・グッドマンの、というよりルイ・プリマの "Sing Sing Sing" が演目に入っていた。私はもはやクラシックとしてジャズを聴くけれども、80年代当時はまだジャズを青春時代に聴いていた世代が生き残っていただろうから、まだスウィングも現役の音楽で、勢いがあった。

当時、この演奏に非常に強い衝撃を受けて、スウィング・ジャズの盤を少しずつ探すようになっていた。ボストン・ポップスの演奏は大体こんな感じで、ジャズにしては上品な感じだった。

Sing, Sing, Sing - YouTube

ただ、その日の演奏では、カデンツァというのか、ドラムスのソロがとても気合の入ったアドリブを入れていて、その部分だけはベニー・グッドマンの有名な録音よりも刺激的な演奏だった。タイトルは "Sing" だが、ヴォーカルが苦手だったので、器楽曲なのも良かった。

懐かしくなってネットで音源をハシゴしていたら、こういうのが見つかった。

Louis Prima - Sing,Sing,Sing (With a Swing) - YouTube

こちらはほぼ当時のままの編曲になっていて、下品すれすれのいい感じの演奏になっている。映像はどこから来ているのか知らないが、映画か何かだろうか。昔は版権が生きている音源というのは非合法のアングラ物しかなかったが、最近ではYouTubeがそのあたりを商業的に解決する手段を作ったらしく、モノによってはチャンネル登録されて公式に配信されるようになり、安心して音楽を共有できるようになった。

で、いろいろな音源を聴いていたら、やたらに音がいいのがいくつかあって驚いた。PCのライブラリに入っている曲より明らかに音がいい。最近しばらくCDの音を直接聞く手段がなくなっていていたのだが、デスクトップに光学ドライブを復活させたので、手持ちのCDを2枚ほどロスレスエンコードしてみたら、非常に音が良かった。音量を上げないと細かいところは聞き取れないが、トライアングルの高音も、ホールの残響も、けっこうよく聞こえた。

確かに耳も悪くなっているが、音楽が平板で退屈になっていた原因の大きなところは、昔にWindows Media Playerの制限で128kbpsのMP3エンコードしたっきりになっていた音楽ファイルだった。外出中に聴くにはこのくらいで十分だが、室内でヘッドフォンを掛けてしっかり聞くには、やはりロスレス音源が必要ということが分かったので、一番よく聴いている盤を20枚ほどエンコードし直してみた。

聴き比べてみると、WMAやAACに直接エンコードしたファイルはよく聞かないと差がわからなかったが、MP3エンコードしたファイルは霧が晴れたように音質が向上した。ロスレスからであれば、いまどきのエンコード方式で多少の高圧縮を掛けても、中ビットレートのMP3ほどには音質の低下はないだろう。随分ともったいないことをしていた。

というわけで喜んでエンコードしていたらほぼ徹夜になってしまった。いかん。ついでにマイノリティー・オーケストラとチャラン・ポ・ランタンもエンコードしたので、ポータブル・プレイヤーに移しておこう。

[PR]
# by antonin | 2014-11-24 05:11 | Trackback | Comments(2)

もしもピアノが弾けたなら

あまり、ピアノ独奏の曲には親しみがない。けれどもまあ、一人で弾ける楽器としては、オルガンを除けば最高峰だろうし、楽器の普及率でもなかなかのもので、場所によっては自由に弾けるように置かれているようなものもある。個人で音楽表現するには、やはりピアノが一番表現力があるだろう。

今はもうどうでもいいけれども、若いころには本当に自分の気持ちを言葉ではなく音楽で表現できたらいいのに、というようなことを何度も思った。けれども、20を過ぎて楽器を覚えても程度は見えていて、その程度で自分の表現したいものが出し切れるとは思えなかった。無理なこと時間を割くのなら、その分をコンピューターのハードとソフト、ついでに言うと素子の物理あたりの理解に時間を使いたかった。

そして、ピアノが弾けるようになったらこういうのを弾きたい、と妄想して脳内で弾いていたのが、スメタナのチェコ舞曲第3番だった。

piano: Jan Novotný - music: Bedřich Smetana: Czech Dances, Book 1: No.3, Polka in F major - YouTube

ドヴォジャークの土臭いスラヴ舞曲集はわざとやっていた部分もあるのだが、スメタナ先生の国民楽的音楽は、ポルカと言ってもなんだかんだで都会的に洗練されている。プラハあたりの社交場ではそれなりのクラスの人々もこういうのを踊っていたらしい。ピアノを弾く女性はモーツァルトとかショパンとかラフマニノフとかが好きという場合が多いようだが、そういう人達のピアノソロだと、あまり面白い曲に出会ったことがない。

手足で楽器を弾いてアウトプットすることはできないのだが、頭の中ではピアノ曲だったり弦楽四重奏だったり管弦楽だったりが、ぐるぐる巡っている。ときどき、「ファミリーマート入店の主題による交響詩(1812年風)」みたいなのも頭の中に流れたりするが、演奏にしても譜面にしても、アウトプットすることができない。

1812年という曲は、ロシアの旋律に迫る黒い影、という割には明るすぎるラ・マルセイエーズが暴れまわって、そして最後は冬将軍の前にフランス軍は自滅する。そして最後に民のロシア賛歌が鐘を鳴らしながら派手な凱歌となって終わる。一方、序曲ファミリーマートは、花飾りを編む少女の歌声のようなフルート独走で入店の主題が導入される。主題の最初の4音を繰り返しながら徐々に音階を駆け上がり、そこへ中低音楽器が追いついてきて、大きな祝い唄になる。そして、導入主題が穏やかに消えたところに、軍楽っぽい小太鼓のリズムが刻まれる。最初は単なる「タン、、トン」なのだが、徐々に拍を増やし、シンバルのサポートなども入りながら、だんだんに「セブンイレブンのリズム」に成長する。

「ダッダン、ダダダン、 ダッダン、ダダダン、 ダッダン、ダダダン、 ダダダダ、ダン」のリズムが徐々に強さと不協和音を増しながら迫ってくると、ようやく危険を知らせる導入主題が羊飼いのラッパによって変奏される。しかし住人は混乱のうちに甲高い乱れた音を発するのみで、セブンイレブンの行進は止まらない。そこにようやく、本部の主題「あなたとコンビにファミリーマート」が進軍ラッパ風に登場を告げ、セブン太鼓は一時停止する。

一瞬の静寂の後、セブンイレブンとファミマ本部とやや頼りない入店の主題が変奏をぶつけ合う。ほとんどはセブンがファミマを蹂躙する展開だが、なぜか一転、冬将軍に負けた仏軍のようにセブンの主題がどんどん低い短調に落ち沈んでいく。そしてセブンの主題が息を引き取ると、逃げ回っていただけの入店の主題がいきなりキエフの大きな門のような凱歌を上げ始める。最後はチャイコフスキーばりに楽器を巻き込んで調を上げていくが、上がりきったところで弱音ヴァイオリンの高音を引いた後無音になり、冒頭部の入店主題が、少女がゆっくりと歌うようなフルートで再現される。それを2回繰り返し、オクターブを合わせた弦、木管、金管、打楽器が徐々に集まり、主題の最後5音をffffで鳴らしきって、結。

こういうのを通勤中にときどき脳内で鳴らしながら歩いたりしている。
ゴーストライターがいたら譜面に落としてもらいたい。

--

何年か前にこういう流行があった。

【ファミマ入店音】もしもモーツァルトがファミマの入店音を作曲したら - YouTube
【ファミマ入店音】ファミマヴァチカン店に入ったら浄化された - YouTube
【ファミマ入店音】ファミマウイーン店に入ったらオーケストラ‐ニコニコ動画ββ - YouTube

--

8年前に同じネタで書いていた。すっかり忘れてた。
もしもピアノが弾けたなら : 安敦誌

[PR]
# by antonin | 2014-11-20 02:14 | Trackback | Comments(0)


フォロー中のブログ
外部リンク
外部リンク
ライフログ
ブログパーツ
Notesを使いこなす
ブログジャンル