安敦誌


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労働力不足の原因

最近のアルバイト不足現象は、少子化の影響なんかじゃなくて単に好景気が理由だよバカ、みたいなツイートが出回っていたので、本当なのかどうか調べてみた。情報源はこちら。税金で作られたデータはありがたく利用させてもらおう。

統計局ホームページ/労働力調査(基本集計) 平成26年(2014年)5月分結果

で、調べてみると、だいたい予想通りで、好景気による人手不足が主効果で、それに加えて、アルバイトなどの「安価な労働力」について限定すると、確かに供給も細っているというデータが出てきた。つまり、少子化が100%原因と考えるのも、好景気が100%原因と考えるのも、どちらも単純化しすぎのバカという結論になって安心した。

まずは労働力人口の推移。ここ1年で労働力人口は80万人減少しているが、失業者の雇用でこのあたりは吸収されていて、就業者数は57万人増加しており、労働力供給としては十分な水準。年齢階級別に見ると、25~34歳は29万人減、65歳以上は48万人増。その他の年齢層は団塊世代や団塊ジュニアの移動などがあって増減はあるが、トータルでは概ね横ばい。グロスの世代人口で見ると、25~34歳は34万人減、65歳以上は108万人増。25~64歳の「現役世代」が107万人減なので、65歳以上の人口増と拮抗する形。その中で25~64歳の労働力人口が26万人減で済み、就業者数は逆に9万人増なので、景気はかなり上向いている。

ちなみに65歳以上の労働人口は48万人増で、就業者数は46万人増。この年代の場合、本気の求職者ばかりではなく、リタイア後に求職活動をして、失業保険を満期受給してから年金生活に移行するというマイルドリタイアの人も統計に紛れ込んでいるだろうから、世代人口から就業者数を引いた62万人あたりをリタイア人口と見ていいのだろう。

年齢を考慮しない場合、労働人口はほぼ横ばいで、就業者数は増えているので、「労働力不足の主要因は景気回復」と結論付けることができる。しかし、25歳から64歳に世代を限定すると、労働力人口-26万人に対して就業者数+9万人なので、差し引き+35万人が景気要因で、人口減少要因は世代人口減少の-107万人ということになる。もちろん、主婦などの雇用されない労働力の率などもあるので、107万人の世代人口減少がそのまま労働力供給の減少に直結するわけではないけれども、「景気回復による労働需要の高まりが労働力不足の主要因」とは言い切れない数字になっている。

特に、世間を騒がせているアルバイト形態の労働力推移では、もっと明らかな数字が出ている。

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この表だと、雇用者総数は前年比で32万人増加しているが、正社員は1万人増と微増で、特に主力の男性労働者では2万人減で、女性の正社員化が主な増加要因になっている。一方、雇用者増の主要因はパートと契約社員で、ともに18万人前後の高い伸び率になっている。しかし、アルバイトは2万人増と微増で、特に男性アルバイトは6万人減となっている。これはアルバイトよりは好待遇な契約社員などの雇用形態へシフトしている好景気の影響と見て取れるが、ともかく景気の波を吸収しやすい非正規雇用の中では、アルバイト人口の伸び悩みが顕著に出ている。

アルバイト形態の場合、若年層が主力になると思われるので、全年齢層の統計には表れにくい若年層の人口減少が直撃する分野と推定できる。このため、就業者数全体では景気回復による労働力不足が主要因だとしても、「アルバイトが集まらない」という現象については、世代人口減少の効果が無視できない。特に、労働力人口の統計に表れない学生アルバイトなども含めると、世代人口減少がより直接的に表れるだろう。また、この手の統計には表れてこない外国人の短期労働者なども、円安の影響などでかなり減少しているものと考えられる。そういった部分まで考えると、アルバイト市場での労働力不足は、「労働需要の高まり」だけではなく「労働供給の低下」の影響がかなり強いだろうと思う。

景気回復局面では、不況期に生産性の低さを給与水準の引き下げでカバーしてきた企業が淘汰されるが、景気が飽和した後も、人口推移や為替の影響などで労働力不足が長期化して、雇用問題が起点となって産業構造の大きな変化を要求される時期が10~15年先くらいにあるんじゃないかと思う。

それから、非正規社員の推移で、男性の嘱託がかなり減少している。雇用の2007年問題の先送りに成功した嘱託制度も、そこから7年を経過して終わりを迎え始めているのが見て取れる。団塊世代もいよいよ本格的なリタイアが始まっている。そこからは、年金と医療と介護をどう支えるかの勝負が正念場に入る。外国人看護師の導入なども、保守的な資格制度のために半ば失敗に終わっているようだし、東京オリンピックが開催される頃には色々とその手の地獄が見られるようになっているかもしれない。

「全て円で発行しているから大丈夫」という国債も、ちょっとした刺激で信用に傷がつき、安定経営の銀行に取り付け騒ぎが起こるようなメカニズムで暴落する可能性も残っている。それが通貨の暴落にまで飛び火してハイパーインフレになる可能性は少ないけれども、年金や郵貯など、リタイア世代の生活を握る機関投資家の金融資産が燃え上がる可能性はいくらかある。そういう時代に、そろそろ権力の中枢に達している団塊ジュニア世代が親世代を経済的に切り捨てにかかる可能性も、いくらかはある。資産には相続があるし、投票権に定年はないので、あまり無茶なことにはならないと思うけれども。

政治家のわかりやすい煽りコメントに感じた違和感を、ある程度までデータを読みながら裏付けられたので、いくぶんすっきりとした。まあ、なんだかんだで海と言語の壁に守られた日本列島ではあるので、周辺文明にあまり強く蹂躙されることはなく、優雅に衰退して鎌倉時代末期と同程度の混乱で乗り切ることができるんじゃないかという気はしている。チベットあたりに遊んで新仏教を興すにはちょうどいい時代、という民衆心理にはなるのかもしれないけれど。

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# by antonin | 2014-07-02 00:45 | Trackback | Comments(0)

「レイシズム」について

最近、「レイシズム」だとか「レイシスト」という単語をときどき目にするのだけれども、ここで言われているのが朝鮮民族と大和民族の間の関係だったりして、こりゃなんだろう、と思った。

"racism" の前提として、"race" の存在がないといけない。race には一応「民族」という語義もあるけれども、一義的には「人種」だろうと思う。なので、"racism" というと普通は白人至上主義を指す。中には少し特殊化したracismであるアーリア人種優越説とういうのがあって、ゲルマン人やラテンヨーロッパ人をはじめとして、インド人でもアーリア系の人たち、歴史の過程で北部から侵出したハイカーストの人たちは支配者たる民族で、ヨーロッパ人でもユダヤ人種は血統的にアーリア人種じゃないから被支配者たるべき、というような話になる。

なので、レイシズムというときには、その背景に遺伝的な優性仮説を頭から信じるという過程がないといけない。なので、韓国籍の人が日本国籍の人をレイシストだと批判する場合には、朝鮮民族と大和民族の違いが、文化的なものではなくて遺伝的なものだという前提がないといけない。

ただ、現代日本人というのは文化的にはかなり均質なのは間違いないのだけれども、人種的にどうなのかというと、遺伝情報の調査が進むにつれ、個人間でも多様な遺伝子が混在しているし、その多様性は地域的な差異としても存在していることが明らかになりつつある。これは実は朝鮮半島でも同様で、複数の遺伝タイプが混在していることを示すデータが出てきている。

中華人民共和国という国家は多民族国家ではあるものの、その中枢にある漢人の遺伝子を調査すると、あれだけの人口と複雑な歴史を持つわりに、意外に範囲の狭い遺伝的分布をしているらしい。まあ、多民族の中から漢人とわかる人を分類したうえで調査しているのだから当たり前じゃないかという話はあるが。

そして、現代の大韓民国でサンプリングを実施すると、その漢人系と、北方のアルタイ人系、それに北九州と同じ弥生人系の遺伝子が混合している。日本でも弥生人系が優勢で、そこにアルタイ人系が混ざっているのだけれども、韓国との違いとして漢人系の遺伝子がほとんど見られず、代わりに琉球系やアイヌ系に多く見られる縄文人系の遺伝子が混ざっている。

そういう遺伝的な違いというのは確かに朝鮮半島と日本列島の間にはあるのだけれども、人種差別というほどの「人種」の違いがあるのかというと、そうでもない。特に、日中韓の東アジア人の区別もつかないような(まあ、日本人である私自身にもあんまりはっきりと区別はできないけれども)ヨーロッパ人から見ると、韓国人が日本人を "racist" と呼んでいるのは、きっと変な感じがするんじゃないかと思う。

「偏見」とか「差別」というのは、明らかに存在しているとは思うし、それが存在する理由も排除していかなければいけない理由もわかる。偏見というのは「偏った見方」という熟語になっているけれども、英語にすると "prejudice" になって、直訳として「予断」という熟語もある。つまり、目の前に何か価値判断をしなくてはならない対象があるとき、それを何かの属性によって分類し、その属性によってのみ価値判断し、対象の個別性について考慮しないとき、「予断」が発生する。

ある人を見て、その人の性別だとか国籍だとかだけを見て、その人の個人的な能力や事情や意志を無視して判断することが差別なのであって、性別や国籍によって推定される能力や事情や意志が、実際にその人個人にも当てはまると判断されるとき、その能力や事情や意志により処遇を決めることは、別に差別ではない。

なので、「日本人は勤勉だ」という先入観を持っている人が他人を雇用しようとして、日本人と日本人ではない人が応募してきたとき、国籍だけを見て日本人を採用するのは予断による差別になる。でもその日本人Aさんとその日本人ではない人Bさんを調査して、実際にAさんが勤勉だと判明したためにAさんを採用するなら差別にはならない。もし調査結果としてBさんのほうが勤勉という結果が出ていればBさんを採用したまでのことだからだ。

この場合、実際の雇用判断が公平ならば、「日本人は勤勉だ」という先入観自体は罪にならない。なぜならそれは単に統計的な事実かもしれないからだ。極端に言えば、統計的に見ても間違っている先入観を持っていても、公平な判断をする努力があれば、やはり先入観は罪とならない。思想には自由があるべきで、罪は誤った行為に対してのみ求められるべきだとすれば。

だから、統計的な真実を参考情報程度に考えずに、古典論理的な真実と解釈して楽に個別の判断をしてしまうのが予断の発生する元で、この予断によって重要な判断が行われることが差別になる。なぜ予断が横行するのかというと、予断によらず常に公正な判断をするのは、面倒でしんどいことだからだ。予断のほうが単純で簡単であり、楽で時間もかからないからだ。効率的でスピーディーで低コストで、しかも統計的には正しい場合が多い、つまり何度もやっていけば平均的には良い成績を残すからだ。

ただし、法人にとっては平均的に良ければ正しい判断となるようなことでも、個人にとっては一生を決めるような重要な判断となる場合もある。そういう判断を統計的予断によってなされてしまうと、本当は適性のない人が、適性の高い指標を持つ属性を持つために、予断によって選別され、一方本当は適性のある人が、適性の低い指標を持つ属性のために、予断によって落選する。

人間には「立場が人を作る」という傾向があって、属性から導き出される統計的な指標によって選別を続けると、統計的に優位の属性を持った人は良い立場を得やすく、良い立場を得た人はその立場によって育てられて成果を挙げる確率が高まる。そして劣位の属性を持った人は良い立場を得にくく、劣った立場を得た人はそれによって能力が育たない。この正帰還によって、属性による統計的な指標の差はますます開いていき、最初は偶然だったかもしれない属性による違いは、実際に根拠のある違いとして定着してしまう。

統計分析の強力なところは、この属性による優劣を標本数の平方根に比例した精度でいくらでも炙り出せる能力なのだけれども、統計分析が語るのはあくまでカテゴリーやクラスという階級に対する知見であって、逆に個々の事例に対しては予断はできても確定判断ができない。もう言ったとおり、個々の判断が重要ではなく繰り返しが可能な判断については統計による予断が有利に働くが、やり直しのきかない個別判断には無力なばかりか、不適切で誤った予断に陥る場合が一定確率で起こってしまう。

「最強の学問」であるところの統計学の、最も凶悪な部分はここに由来する。まあ、これは単なる道具である統計学の問題ではなくて、道具の使い方の問題でしかないのだけれども。使いやすい統計量である「偏差値」そのものが悪いということはなくて、個人が学校に期待する教育そのものより、模試結果による入試の合格可能性だけしか見ない「偏差値教育」が悪い、というのと似たようなあたりになる。

なので、国籍や祖先の来歴などによって人が重大な判断で間違った扱いをされること、つまり差別というのは弱い個人にとって悪いものだけれども、朝鮮民族が大和民族に「民族差別」されているなどと考えることは、それ自体がまた妙な民族主義というか、ある種の信仰の産物なんじゃないかと思う。日本人にも大和民族以外の人はいっぱいいるし。

今ゆっくりと読んでいる本に、上代の8母音がどうやって生まれてきたかという仮説が書かれていて興味深いのだけれども、その中で、東歌には甲乙の母音区別がないという話もあって、「あづま」の人々は大和民族とはかなり違う人達だったんじゃないかと思う。古い文献には「毛人」という単語も出てくるけれども、今でいうアイヌの人たちとも違うんじゃないかと思う。そのアイヌにしても、本当に毛深くて彫りの深い系統と、列島先住の縄文系統の混血になっていて、遺伝的には単一民族とはいいがたい。

まあ、要するに異文化への嫌悪感とか、結局はそういうところに集約して終わりなんだと思う。他文化への尊敬を持つためには、自文化への自明な肯定、驕慢ではない自己愛や矜持を持つ必要があるのだけれど、外来文明の吸収によって立身出世してきた国家の住人にとっては、あんまり簡単なものでもなく面倒くさい話ではある。これは、日韓に共通した話だと思う。

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# by antonin | 2014-06-19 23:20 | Trackback | Comments(0)

薬用ミューズ

かの人を我に語れ、ムーサよ。

オデュッセイアーが確かそんな語り始めだったと思う。このムーサは詩をつかさどる女神で、7人姉妹か何かの一人だったと読んだ覚えがある。その姉妹たちはそれぞれ芸術の一分野を担当していて、優れた芸術家たちのインスピレーションはこの女神姉妹の誰かの恩寵によるものだということになっていた。ムーサをフランス語で言うとミューズになるらしく、英語でもこの表現を使う。そしてミューズ的なものがミュージックで、この楽曲の女神だけが現代の日本にまで知られている。ミュージアムなんてのもあるけれども。

今日は仕事を終えると外の風が土のにおいがして、暑くもなく寒くもないアジアの夜という感じがしたので、一駅手前で電車を降りて、暗い夜の川に架かる橋を歩いて渡った。車に轢かれない程度に注意しながら音楽を聴いていた。ほとんどがドヴォルザークかその手前のロマン派後期の人たちの曲なんだけれども、電車の中で時間に追われながら聞くタイプのものではないので、普段はジャズとか映画音楽とか、昔気が向いて買った歌謡曲とか、そのあたりを聴くことが多い。

今日は夜道を歩きながらだったので、初めて買ったCDを取り込んだ音源を聴いていた。フォーマットもAACか何かの高圧縮音源だし、それより深刻なのは自分の耳が悪くなったことで、中高音の残響成分が得も言われぬ臨場感と質感を持っていて大好きだった曲が、普通ののっぺりとした音楽としてしか楽しめなくなっている。これは残念なことだ。レーシックの耳版みたいに蝸牛に植毛して高音感度上げるなんていう手術はないもんだろうか。

で、初めて買ったCDというのはこれ。

グリーグ:ペールギュント

ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団/マーキュリー・ミュージックエンタテインメント

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高校生の頃、近所に電気屋ができた。そこに当時最新鋭のDATのデモ機が置いてあった。学校の帰りに店に立ち寄り、店員に迷惑がられながらも、リヒャルト・シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」の冒頭のアレが収められたデモテープを再生して聴いてみたことがあって、おお、これがディジタルの音なのか、ということでひどく感動したことを今でもよく覚えている。あれは本気のオーディオセットの品質であり、アンプからヘッドフォンに至るアナログパートもバブル時代のそりゃ贅沢な作りをしていたはずだし、音源は音源でオーディオ屋さんがデモ用に使うものだから、レコーディングやマスタリングなどのプロダクト エンジニアリングもコスト度外視で徹底的にこだわったものだったのだろう。

そんな万博パビリオンのような力の入りようのオーディオにはその後もついぞ縁がなかったのだけれども、それでも日本の民生オーディオは着実にコストダウンを続け、それに我が家の家業もバブル景気の裾野にあってそれなりの恩恵を受けていたので、高校3年生の時にCDプレイヤーとカセットデッキ2台を備えたラジカセを買ってもらえた。一応進学校らしきところに通っていたので、アルバイト禁止ということでそんな生活をしていた。CDの手持ちがないので、近所の蔦屋に行ってレンタルCDを物色すると、こういうのが置いてあった。当時の蔦屋にはまだこんな品揃えもあったのだ。

ドヴォルザーク:スラヴ舞曲集(全曲)

チェコ・フィルハーモニー管弦楽団,ノイマン(ヴァーツラフ)/日本コロムビア

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クラシックのCDをリッピングすると、その後に再販された廉価版レーベルに上書きされて、購入した当時のライナー表紙とは違う図柄になっていることが多いのだが、この盤はまだ当時のままの、スラヴの民族衣装の美しい女性の写真から変わっていない。このスラヴ美人にも誘われて手に取った盤なのだが、家で再生したときにはその音質の素晴らしさに涙が出るほど感動した。連日このCDを掛けまくり、返却日前にその一部を両面46分のカセットテープに収めた。このテープはヘッドフォン ステレオに入れて持ち歩き、大学受験に落ちた帰り道などにも聴いていたので、今でもスラヴ舞曲第6番などを聴くと、あの頃の何とも言えない感情が蘇ってくる。

この、プラハ スプラフォンの初期ディジタル録音は「東側」の録音だけあって、西側の名門、ドイツ グラモフォンなどと比べると技術的にかなり劣るところがあり、耳の肥えた今になって聴くとかなり不躾な堅い音になっているのがわかる。けれども、FMラジオのN響アワーだとかサンデー クラシック リクエストだとかを新聞の週間番組表を頼りにエアーチェックした音源ばかり聴いていた当時、CDから直接再生される音質のキレには本当に驚いたものだった。DACは4倍オーバーサンプリングなんていう初歩的なもので、汎用品になった1bit ΣΔ DACを使っている今のスマホにも劣るようなものだったが、それでもカセットテープしか知らなかった当時の高校生には十分な贅沢だった。

このCDは結局後日改めて購入することになるのだけれども、最初に購入したCDはというと、NHK-FMの放送で聞いた翌日に一日中頭の中で無限ループ再生になっていた「アニトラの踊り」を収めた、ペール ギュント組曲のほうだった。一般的なプラケースではなく紙ホルダに入った廉価版だったが、こちらも指揮はヴァーツラフ ノイマンで、オケはゲヴァント ハウス管という「東側」の演奏だった。比較対象を知らないので批評めいたことはできないが、まずまずの内容じゃないかと思う。オケはいいのだけれど、ソプラノが過去に聴いたソルヴェイグに比べると少し好きじゃなかったのが印象に響いている。

そういう、若いころに聴いた音楽は、最近ではあまり聴かなくなってしまっていた。でも、ネットで文字情報ばっかり追い続けて感情が腐っていたところに、久しぶりに当時溺れていた後期ロマン派だとか国民楽派なんかの、音楽の教科書に載っているような曲を聴いてみると、少しだけ気分が落ち着いたような気がした。音楽を聴いたから気分が落ち着いたのか、多少でも気分が落ち着いたから音楽を聴く余裕ができたのか、そのあたりは判然としない。アントニーン・ドヴォルザークの交響曲を1曲しっかり聞くには、相当の心理的な余裕が必要で、時間に追われているときはもっと刺激的な曲の山場をザッピングして終わりになってしまう。

薫香などと並んで、音楽は宗教的な場面で好んで使われるけれども、嗅覚や音感というのはどちらかというと人間の脳の古い部分に直接訴えかける刺激なので、心理を整える助けにするには色々と都合がいいのだろう。落ち着いた音楽を聴いていると気分もいくらか落ち着いてくるような気がする。私はクラシックと言っても騒々しい曲が好きなので、落ち着くというよりは踊り疲れるというほうが感覚的に近いかもしれないけれども。

今では、当時は経済的に手に入らなかったような品質の良いステレオ イヤホンを所有できるようになったのだが、それで音楽を聴いてみると、当時感じた光るような高音の艶が全く感じられない。おそらくは聴覚が衰えて倍音の深いところまでは届かなくなったからだと思うのだけれど、よく聴くと曲によってはいくらかましなのがある。そういえば、初期にリッピングした盤はWindows Media Playerで192kbpsあたりのMP3に落とし、それを新しい高圧縮フォーマットに変換したんだった。最近取り込んだ盤は直接これらのフォーマットにエンコードしたので、同じビットレートでもMP3みたいにスペクトルが可聴域内でシーリングされていたりはしない。

ひょっとするとこのあたりが高音の聞こえない原因なのかもしれない。耳のせいじゃないとするといくらか望みがあるのだが、またいちいちCDから取り込みなおすのもなかなかしんどい作業ではある。Appleがクラウドがなんだかというサービスを始めたようだが、iTunesだと手持ちのCDの大部分が画像なしになってしまうし、曲名や芸術家名もバラバラになってしまって、とてもじゃないが定額料金を払う価値は感じられない。やはり自分でCDからリッピングし、必要ならメタデータをチマチマ編集してやらないと快適には聴けないのだ。まあ、CDのアルミ蒸着面が錆びて消える前に、いずれロスレス エンコードはやっておかないといけない作業なんだろう。

なんというか、音楽は意外に心に効くもんだな、と。

[HD] Edvard Grieg - Peer Gynt Suite, Anitra's Dance | Limburgs Symfonie Orkest, Otto Tausk (3/4) - YouTube

A. Dvorak: Slavonic dances No.5, Skocna, A major - YouTube ← コメントにもあるが、曲が第6番だった

R.Strauss Also sprach Zarathustra op.30 Part 1 - YouTube

ドヴォルザーク 交響曲第7番第3楽章 Dvorak Symphony No. 7 MOV3 - YouTube

Antonín Dvořák Symphony No 8 [No 4] G major Karajan Wiener Philarmoniker - YouTube

P. I. Tchaikovsky - Symphony No. 4 in F minor, Op. 36 (Sanderling) - YouTube


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# by antonin | 2014-06-14 14:38 | Trackback | Comments(0)

“The world is a book and those who do not travel read only one page.”

そういう警句が書かれた地図の図像が流れてきたことがあって、誰が言ったのかというと聖アウグスティヌスだという。出典はよくわからないが、あちらでは結構有名な言葉らしく、画像検索すると、まあたくさん出てくる。

the world is a book - Google 検索

被造物たるこの世界を創造主の作品とみて、不完全な人の言葉を経由して語られた書物なんかよりも、神の直接の作品であるこの世界そのものと対話し、よくよくその意味を読み取ろうとした、なんていうあたりがデカルトさんが科学的手法を編み出した原点であったりなんかもして、世界を一冊の書物として見るあたりも似たような感覚が出どころなのかもしれない。変なところで情熱的で、妙なところで冷静なあのアウグスティヌスさんらしい感じがする。同じ読書なら、科学的な探求による精読よりも、旅行しまくりの乱読のほうが楽しそうでもある。

世界を一冊の書物と考えると、1ページだけを読んでいては意味が分からないが、かといって全巻通読しないと意味が分からないほど一貫したものでもなく、一話完結で気軽に読めるが、それでいて全体的に通底したテーマがある連作物というように見える。別の巻を読んでから先に読んだ巻を再読すると、また違った味わいがあるような、そんな感じ。

なんだか、またどこかへ行ってみたくなった。鳥取から山口とか、三重から福井とか、そのあたりがいいかな。家族連れだと関東甲信越、南東北くらいが限界かもしれない。プラハとかカイロとか、時間と費用を気にしないでいいなら見てみたい場所はいろいろとあるけれども。

ただまあ、サブカルチャーの時代というか、まだまだ地理的な距離が文化の違いに支配的だとはいっても、都市部だったらある階層にいる人々の文化は共通したものが多くて、むしろ同じ国に住んでいても、文化的に交わらないような職業だったり趣味だったり、そういう人達の中へ入り込んでみるほうがカルチャーギャップに驚いてしまうようなことが多い。

「一冊の書籍」は実はハイパーテキストでできていて、リンクのないページへ飛ぶのは意外に難しい。それでもまあ、人間に直接関係のある文化なら、6回リンクを踏めばすべてのページに行き着くという程度の距離ではあると思うので、あとは「縁」の問題かな、という気はする。とりあえず自宅の玄関を出てみるか。


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# by antonin | 2014-06-08 14:26 | Trackback | Comments(0)

葦叢にて

エアコン完備 屋内運動会への移行進む - 虚構新聞

あはは。

「目的が手段を正当化する」というのはあんまりピンとこないけれども、「成果が過程を正当化する」ってのなら、いたるところにあるな、と思う。STAP細胞のアレにしたって、もしもう少しまともな実験ノートで、もっとまともな成果が出ていれば、たとえハートがちりばめられたノートやぬいぐるみが並べられた研究室でも、「○○○△子のノート術」とか「リケジョ職場のコーディネート力」なんて本が売られたに違いないのだ。売れるかどうかは別として。

冷戦の結果なんかは「自由主義が強権主義に勝った」だけにしか見えないのだけれども、ところどころで「資本主義が社会主義に勝った」という話にもなっている。リフレ理論も、これまでの日本の経済状況を分析すると、理論が正しかった部分と、理論通りとならなかった部分と、別の因子が混淆して結論が出せない部分とに分かれるはずなのだけれども、結局は最終的な景況から単純に白黒付ける論法が一般には行われるんだろう。学者さんはもちろんそういう人ばかりではないはずだけれども。

勝てば官軍負ければ賊軍、終わり良ければ総て良し。そういうことは遠い昔からいくらでも語られているところだけれども、これってのは、人間の脳の機構として極めて基礎的な部分に由来しているんじゃないかと、最近では考えている。例の、書かれなかった小説の「主人公」である人工知能の学習システムとか、ニューラルネットワークが天下り的な教師信号を持たない場合の信賞必罰的な学習モデルとかを考えると、人が眠っている間にやっている学習というのは、主にこの「成果が過程を正当化する」というヤツなんじゃないかという直感を持つようになった。同様に、失敗は過程を全否定するのだろうと。

この「結果論」というやつは、人間の理性にとっても感情にとってもかなり根本的な原理なんじゃないか。もしそうだとすると、たとえ目が覚めている間にどんなに理性で厳しく批判的に考察をしても、眠っている間の無意識によって結局はこのタイプの学習が進んでしまう。論理的な理性というのは、文字を覚えて、個人資産の水準で紙と筆だか、羊皮紙とペンだか、粘土と楔だとか、ともかくそういう、言葉をいったん脳の外部に蓄えて何度でも脳に還流する仕組みが整ってからできたものだろう。過去の自分の意見を外部化して客観視し、矛盾がなくなるまで何度も自問自答を繰り返さないと、精密な論理というのは練り上がってこない。要するに、twitterか何かで日がな一日対話を繰り返していると、あまり論理というのは育たないものなのだろうと思う。

人間の脳には、理性を司る前頭野、抽象概念を扱う側頭野、直感を担う後頭野、感情を引き起こす大脳辺縁系などがあるけれども、もう少し下位には小脳というシステムがあって、大脳と小脳は橋(きょう)でつながっている。この小脳は、基本的に情報の反芻をしない。入力から出力へ一方通行で情報を流し、並列度の非常に高い結合によって、かなり複雑な情報を一瞬で処理する。古典的なニューラルネットワークはだいたいパーセプトロンのような一方通行のモデルだったけれども、小脳の働きはこのモデルに近い。

大脳と小脳は、モルフォロジーもトポロジーもだいぶ異なるのだけれど、大脳というのは小脳や中脳のような進化的に履歴の古い部分に比べるとかなり自由な作りになっていて、情報の流し方によって一方通行的にもなれば相互通行的にもなる。過去を振り返る余裕もなく、レーシングカーに乗ってぶっ続けでサーキットを走らせるような情報処理をしていると、大脳全体が小脳のようにフィードフォワード的な働きをするようになる。論理より直観の塊のようになる。一方、他人との接触を控え瞑想に耽っていると、大脳で発生する信号が主な入力となって大脳を刺激し、小脳とは逆に相互循環的なネットワークになる。瞬間的判断は鈍くなるが、論理的で精密な考察ができるようになる。ただし外界の情報を遮断しすぎると、実世界と関係のない妄想の世界が強くなりすぎ、現実離れした理論を構築してしまう。そして脳分泌系の具合によっては統合失調を起こす。

だからまあ、あんまり論理、理論を積み上げすぎるといいことがないのだけれども、かといって時事ネタの議論に奔走しても、精巧だが深みのない反射神経の塊になってしまう。このあたり、難しいところだと思う。バランス、中庸、とかまぁそういうあたりなのだれども、中庸というものにはそれとわかる指標がないので、どうしようもないような気もする。端から端まで、正規分布していればだいたい正常なのだろうと思う。極端な人を排除するのも不健全だし、誰もが極端を目指すのも不健全なんだけど、だからと言って誰もが中庸を目指すのも、それはそれで不健全という気もする。

人間というものはよくわからない。

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# by antonin | 2014-06-05 22:42 | Trackback | Comments(0)

戦争には断固反対する

人類の恒久平和を願い、戦争には断固反対する。

なぜか。それは、戦争というものが、人間としての総力を否応なくさらけ出し競い合わせる場であって、そういうところに放り込まれたら私は一発で死んじゃうか無能を晒して侮蔑の底に沈んじゃう自信があるからだ。平和な世の中なら「あんた面白いね」で済んでしまうところが、戦場では身も蓋もない実力勝負の連続で、正義だなんだというのさえ、人心を掌握するための技巧でしかない。嫌だ。そんな世界は嫌だ。

そういう、極々個人的な理由から戦争反対だ。ただまぁ、こういう私のような奴が一定数生き残っているということは、逃げ回る奴らにも何らかの競争優位があったということなんだろう。勇猛果敢な兵士を集めた精鋭部隊が天才的指揮官を敵にして全滅するということもある。それを横目に逃げ回った弱虫が、なんとか戦禍を逃げ延びて、平和が戻ったところでのうのうと暮らすということも、有史以前の人類史では珍しいことではなかったんだろう。

経済戦争も戦争の一種なのだとすると、やはり戦うのは面倒だ。著しい戦果を挙げる英雄だとか、厳しい戦局でも弱音を吐かず粘り強く戦う猛者は輝かしく見えるけれども、ある程度を超すと、勝手にやってくれ、こちらを巻き込んでくれるな、と思う。この戦争が終わったら、というのは死亡フラグだけれども、世界的経済戦争の前線も、早いところこの極東から中印の先へ去ってくれと思う。

二流の働きをする労働者に、笑いながら惜しげもなく二流の対価を払えるような、ゆるい生活に戻りたいじゃないか。賢い消費者になるとか、経営感覚とリーダーシップを兼ね備えた一流の労働者を求めるのも頼もしいが、そんな奴ばかりじゃ世の中は窮屈だ。

ある程度隆盛を極めた文明が衰退すると、文明の後継者たちは、良き官僚となる。その官僚たちを支配するのは、よそから攻めてきた蛮族の王と相場が決まっている。五胡に支配された漢人たちもそうだし、ゲルマンに支配されたローマ人たちも同じだ。平氏や源氏の支配を受け入れた後の公家たちも似たようなものだったかもしれない。

こういう過程で、文明の辺縁の人たちは、単に蹂躙されて結構悲惨な目に遭う。ヴェネツィアがあんな干潟の沖にあるのもそういう事情があるし、大日本帝国末期の琉球もそういう具合だったのだろう。だからまぁ、衰退が常にハッピーというわけではもちろんないのだけれども、どうせ衰退するなら優雅に行きたいものだと思う。どうせ人口が維持できなくなった時点で文明も維持できないというのもわかりきっているのだし。神話的栄華の時期を過ぎたソクラテス時代のアテナイにも、少子化対策のための施策があったとかなんとか。

まあいいや。寝る。

▶ PAN SONIC VAKIO album(1995) 07 Hapatus - YouTube

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# by antonin | 2014-06-04 00:49 | Trackback | Comments(0)

フルメタル・ジャケット・カレンシー

ちょっとまとまった文を書いたが、いろいろと言及しすぎて禁を破ったので非公開にした。読みかけの本へリンクを張ったのだが、そちらの内容は、読書が完了した時点でまた何か書くかもしれない。

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例の遠隔操作のあれ、まだ消化できていない。自分の間違いを正す必要があるのだけれども、どこらへんまでを正していいのか、加減がまだ定まっていない。

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先日、自転車に乗って閻魔像を見てきた。線香を上げてスッキリして閻魔堂を出てきたのだが、入り口に停められているベンツとクラウンを見るといつも複雑な気分になる。空襲で焼けなかったこの地域らしく、墓地には戦功碑などもいくつか残っている。歴史とはそういうものかもしれない。

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ムスメがスマホを欲しがっていて、そういう時期に特有の面倒な問題が発生している。悪くはないんだが、過集中の血が遺伝しているので、グレッグ・イーガンの言うところの「電気仕掛けの哺乳瓶」を渡すと色々な面倒が起ることがはっきりしている。(こんな時間までネットやってる父親を見れば自明でしょう・・・。) そこで禁制が過ぎて渇望が出てしまってもいけないのだけれど、難しいところ。

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アブラムシの湧いたビオラは、テントウムシが飛来してアブラムシを駆除してくれるより先に、コガネムシの幼虫に根を食われて枯れてしまった。残念。毎年、コガネムシの幼虫には朝顔の根だの色々と食われて困っている。

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夏至まで4週、昼夜時間はサインカーブなので、今頃から2か月間くらいは劇的な変化はない。春分の前後1ヶ月くらいは変化が劇的で春気分だったが、もう飽和して夏気分。ただ、梅雨に入るとまた寒くなる。学校時代の制服は、毎日服を選ぶ面倒がなくて楽だったが、五月晴れの時期に詰襟を強制され、梅雨入りして肌寒くなると夏服への衣替えを強制される制度はなんとかならんものかと思っていた。

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寝る。

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# by antonin | 2014-05-25 03:00 | Trackback | Comments(0)

日々是反省の振り

学校なんて言う組織とはなるべく関わり合いになりたいものではないのだが、コドモたちが学校に通う年代なので、どうにもそういうわけにはいかなくなってくる。日々コドモたちは学校で問題を起こし、学校からは日々さまざまな連絡経路を通じてヨメに苦情が来る。そしてヨメは家庭で常時コドモたちを叱りつけており、そのストレスでコドモたちはさらに問題を起こすという悪循環が起こっている。そして、それを助けられないばかりか火に油を注いでいるダメ親父がいる。

社会に出て挫折するより先に学校の教師になろうというような人達は、もともとそれほど知能的ではないが本当に純朴な人たちが多いので、学校で習ったり文部省から指導されたりした教育理論に対してとても素直な場合が多い。また、自発的な教育研究に熱心な人たちもいて、そういう人達の研究成果を実地の教育に導入しようなどという意欲も高い。が、「水からの伝言」の騒ぎで明らかになったように、そういう理論というのは必ずしも真理を突いたものではない。

人間が人間の本質を本当に理解するには人生は短すぎるし、生徒たちの成長結果が見えるのにも時間がかかりすぎる。教える側も教わる側も同じ寿命を持った人間である以上、このあたりはどうしようもない。別に教師が悪いというわけではなく、教育ほど簡単そうで実は難しいこともないように思う。

ただまあ、色々と考えざるを得ない生き方をしてきた身からすると、学校の先生たちというのは教育に対して素直すぎて、しかも職場にはほとんど教師と子供たちしかいないから、ちょっと変な方向に純化が進んで大変なことになっているようにも見える。

もちろん日本の学校制度では一人の教員が30人からの子供たちを高度に統制することが要求されているから、学級崩壊を防ぐための技術論という部分が教育の素人と玄人を区別しているというのはわかる。わかるのだけれども、その軍律みたいなテクニカルな部分が、あくまで教育のための手段というのではなく、教育の目的や成果そのものだと信じているような人が実は多いのではないかという感じがある。

前から気になっていた本があって、ヨメとムスメのバトルを聞きながらついポチった本を読んでいる。

反省させると犯罪者になります (新潮新書)

岡本 茂樹/新潮社

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似たような意見の本を過去に読んだこともあって、そして自分の経験から見ても、本書の内容は非常に納得できる。大変ストレートに正しいことが書かれていると思うが、それは世間の常識とは全く違う。そしてそのあたりの、世間の常識に対する違和感を表明する人も世の中には多いけれども、かといって自分たちの常識そのものが間違っているとまでは気づいていない。私もそのうちの一人だった。本書の冒頭部を読んで、違和感の実体が理解できた。その対策のほうは後半に書かれているようだ。

新潮新書は電子書籍対応が進んでいて、この本もKindle化されているのだけれど、我が家にはこのKindleデータを物理的にシェアする手段がないので、今回は紙書籍のほうを購入した。いずれは周囲の人にも読んでもらいたいと思う。ただ、読む側に心理的な拒否感がある状態で読まれると、意見のある書籍というのは逆効果になる。なので、事前にある程度意見を受容してもらった上で読んでもらう必要がある。単なる文字の羅列である書籍には、自分の代わりに誰かを説得してくれるほどの力はない。映画ようなメディアならもう少し心理的な強制力があるけれども。

江戸時代の寺子屋教育では、徳川幕府の寺社改革によって生臭坊主が増えていたとはいえ、それでもまだ平安仏教や鎌倉仏教の余韻が濃く、テキストが儒学系のものをベースとしているといっても、子供たちへの教育というのはそれほど強迫的ではなかったように見える。ところが、軍人教育を児童教育に応用したシステマティックな国民教育によって、貧乏国からヨーロッパの列強の一角にのし上がったプロイセンを師と仰いでいた、かつての明治政府が作った学校教育制度は、占領軍による教育内容の改革を経験した現在も、構造としてはほぼそのままの姿を残している。

貴族も平民も、男も女も区別なく普通教育を受けるという社会主義的な近代教育が普及していく中で、その軍隊教育的な技法も当たり前のものとして全国民に遍く浸透していく。すると、映画に出てくる軍隊の女教官のようなお母さんが増えていく。そういう性質の人は昔の「武家の娘」にも当然いただろうし、今でも軍隊方式に染まりきらない女性も当然いるだろう。だとしても、その比率というのは、学校制度の普及と、普及してからの年月に応じて、相当に変化してきているだろう。

「フルメタル・ジャケット」ではないけれども、そういう海兵隊的な「強い組織」は、実は国家のようなものには必要不可欠なものなのだろうと思う。一方で、国民の大多数が「海兵隊上がり」というような、古代スパルタのような国家も、極端が過ぎていずれ滅びてしまうように思う。

客観的にはそのように思うし、ここでもそんなことばかり書いているが、自分もしばしば「ハートマン化」することがあって、実際のところ、あんまり偉そうに言えた義理でもない。現代日本人として生きる「軍隊暮らし」の中で、自分だけ超然としていられるほど郷士的な強かさが自分にあるわけでもない。

自分では仏教云々を語ることも多いし、閻魔信仰と地蔵信仰が実は表裏だったことを知って、昔の人々の洞察力の豊かさに改めて感心したりはしたけれども、自分はまともに修業を積んだ身ではなく、ときおり気が向いたときに不動明王の真言と光明真言を無声で唱えている程度でしかない。その場限りでは確かに効果があるのだけれども、語義が変わる前の意味での「念力」が持てるほどの修業はできていない。現代社会で一人「修行者」のように振る舞えるほどの覚悟ができていない。ここでいう「覚悟」は現代語義のほう。

昔の人にできていて、今の人にできていないことに気付くと嘆きたくなるのだけれど、その代わりとして得たものもまた甚大だということは理解できるので、現代批判みたいなものも徹底できない。その点、上に挙げた本の著者の方や、ここではすっかり放置状態になっているリンク先にある、「断想」の方なども、大変勇気があり素晴らしいと思う。コドモたちの親としての私自身のあり方は、実に参ったなぁというような体なのだけれども、コドモたちの将来のことがあるので、ダメ親父なりに頑張らないといけない。まあ、ここで反省しちゃいかんのだけれども。

「懲役」と「担当さん」の365日 ―刑務所心理職員の見た異次元世界―

小澤 禧一/文芸社

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文庫 お母さんはしつけをしないで (草思社文庫)

長谷川博一/草思社

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# by antonin | 2014-05-25 02:02 | Trackback | Comments(0)

やや構造主義的に見る婚姻と雇用

ソースは面倒なので省略するけれども、結婚制度を緩和して、家族構成によらず育児を支援する社会システムを構築してきた北欧の国で、男女別の子供の人数を調査すると、女性は比較的均質な結果になるけれども、男性は過去に比べて子供を多く持つ人と子供を持たない人の格差が広がったのだという。簡単に言うと、結婚制度という人為的な規制を緩和して、市場原理的な、言い換えると淘汰原理的な状態にすると、次世代の個体数という指標で女性より男性の格差が広がったのだという。そしてこれは、ヒトという種の自然なあり方が復元された状態なのだと思う。

個体寿命は別として、生殖期間の長さで測ると、男性のほうが女性より長寿になる。ちょっと余裕を見て、生物的な生殖期間は男性が15歳から70歳くらい、女性が15歳から40歳くらいだろう。レアケースを入れればもっと幅は広くなるだろうが、目安としてはこの程度だろう。また、女性は受精、妊娠、出産、授乳など、育児に多大なリソースを割く必要がある。このため、生涯に出産可能な回数というのは、乳母などをフルに利用しても20回くらいに上限があるだろう。一方男性はそういうリソース負担がないので、複数の女性を相手にすることで理論上は最大2万回くらいにまで達する。

このため、女性というのは限られた資源であり、生殖期間にある女性の人数が次世代の出生数に対して支配的になる。一方男性というのは、少数が生き残れば多数の子供を作ることが可能なので、生殖期間にある男性の人数は次世代の出生数に対して支配的ではない。このことから、女性は遺伝子の保守面を担い、男性は競争と淘汰を担うことができる。人口がある程度増えたら、男同士を戦わせて生き残ったほうに子供を作らせることで進化的環境適合度を高めることができ、また女性が比較的競争の少ない環境で子供を作ることで遺伝子の多様性が保たれる。これが哺乳類のような資源非対称性の強い有性生殖種の進化戦略ということになる。

男女が一夫一婦制を取るということは、この競争原理を人為的に否定することを意味し、これを実施すると男性も女性も多様性が増す一方で、競争と進化のペースは落ちる。実は日本人のY染色体は大陸に比べて塩基配列の多様性が高く、日本人は歴史的に戦争の少ない、一夫一婦制に近い生き方をしてきたらしいということが遺伝子統計に出てくるらしい。大陸ではそういう平穏な期間が少なく、陸続きの面積が広いために高頻度で戦争が起こり、その結果として特定のY染色体塩基配列の占有率が高いということらしい。

戦争をせずとも、結婚制度を緩和し、未婚出産や離婚、再婚に寛容な社会制度にすると、男女の生殖関係の成立期間は短縮していく。すると、別離後の男女が別の組み合わせで生殖関係を結ぶのだが、このとき、女性は平均してそのチャンスがあるのに対し、男性の場合は特定の「受容度の高い」男性が多くの女性と関係を結び、その分だけ「受容度の低い」男性はその機会が少なくなるらしい。女性の場合、男性に対して高望みをしても、男性というのはシェア可能なので、一時的には女性の高望みは叶えられる。一方、男性が女性に対して高望みをした場合、女性はシェア不能なので高望みは叶えられない。叶えられるとすれば、アイドルやアニメなどの「関係の複製が可能」な女性のみということになる。

この男女間の関係を企業体と労働者の関係と対比することができる。

労働者である自然人というのは、だいたい18歳から68歳くらいまでの労働可能期間がある。そして、同時に複数の仕事はできないので、一人の労働者が生涯に提供できる生産労働力は50人年という計算になる。一方、雇用側である企業体は、最大で200年位の存続期間があり、また最大10万人くらいの労働力を同時に雇用可能なので、そのライフタイムで使用可能な生産労働力は2000万人年あたりが上限という計算になる。この生涯生産力の非対称を人間男女の生殖生産力モデルと対応付けると、企業が男性に相当し、労働者が女性に相当することになる。

となると、雇用・解雇規制を緩和した場合、企業間の競争力格差が広がり淘汰が活発になる一方で、労働者の被雇用機会というのはそれほど格差が広がらないことが予想される。大企業には高い雇用能力があり、かつ労働者を解雇しても代わりの労働者の応募も多いため、延べ人数では同時雇用人数の数倍から数百倍の労働者を雇用することが可能となる。このため、労働者が自身の実力以上に大企業志向を高めても、一時的にならばその高望みが叶えられる機会はそれなりにあるということになる。一方で、競争に勝ち残れない弱い企業体は、発足から一度も正規雇用を結ぶ労働者を得られないまま企業の寿命を終える場合が増える。

このアナロジーでは、正式な雇用関係と、正式な婚姻関係が等価になる。収益力の高い企業と収入の高い男性は、多くの正社員や多くの正室側室を養うことができる。また、中程度の収益力を持った企業と中程度の収入を持った男性は、少数の正社員と短期雇用の非正規労働者、そして生涯で数人の正妻と非正規の交際相手を持つことができる。そして収益力の少ない企業は労働者を雇用することができず、収入の少ない男性は女性と関係を結ぶことができない。これをゴニョゴニョと呼ぶとすれば、社長とアルバイトだけで正社員を雇用したことのない企業は素人ゴニョゴニョと呼べる。

このアナロジーが有効だとすると、雇用及び解雇に関する規制を緩和すると、巨大企業は商品市場と労働市場で競争を繰り返し、強いものがより強くなる一方で、弱い企業はより弱くなり、雇用創出力を喪失したままそれなりに数としては生き残るというシナリオが描かれる。そして、労働者はそのどこかで何かしらの仕事が見つかるという推論ができる。微小企業の経営者というのもその一部になる。


したがって、男同士の競争を煽る女性と、企業同士の競争を煽る消費者の心情は、実は同じ原理に即している、とかまで言っちゃうと飛躍しすぎだろう。でもまあ、ある程度はそういうモデリングもできるんじゃないかと思った。色々な数量関係を図示すると面白いと思うが、生活に差し障るのでやめておく。文章表現が社会倫理的にサイテーだというあたりは勘弁してほしい。もう寝る。

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# by antonin | 2014-05-21 01:59 | Trackback | Comments(0)

親父の戯言

面白い話がなきゃ、書かなきゃいいのに。とは思うが、今日も惰性で。

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日本のITが弱いの、結局は単に英語力かもしれない。

昔々、クヌース御大が文芸的プログラミングとか言い出して、UMLなんかに邪魔されつつも、テスト駆動開発なんかに助けられながら「唯一にして最高のドキュメントとしてのソースコード」という文化は現実のものとして根付きつつある。ただ、ソースコードが文芸的になるにつれて、その自然言語としての文芸性が求められるようになり、ちょっとした意味合い的な含み、具体的な動作に関する予見、似たような他の処理との区別、などを過不足なく適切かつ簡潔に、変数名なり処理名なりクラス名なりとして言い表す言語表現能力が、優れたコーディングのための素養になってきている。この面、日本の技術者は依然ダメダメで、現場では "All your base are belong to us" みたいなソースコードが横溢している。

CというのはPascalなんかに比べるとかなり記号主義で、英文への依存は少ない。とはいえ、結局は if を使っていたり for を使っていたり、しかもそれらが論理式や処理ブロックの手前に来ていたりして、英文の語順を暗黙の裡に仮定している。別に今のコンパイラならクラス名や変数名をUnicodeの基本多言語面で書いたって破綻はしないはずだが、if がある限りC言語は構文として日本語にはなりえない。JavaでもC#でもこの点は一緒だ。C系言語ほど記号的でない言語なら、この傾向はより一層顕著になる。

識別子を文芸的に記述できない人に限って、英文和訳書のコーディングプラクティスを信奉してコメントを嫌ったりするが、わけのわからん英語っぽい何かで書かれた変数名の意味を読み取るための最後の砦が、母語で書かれたコメントだったりするので、よほど卓越した英作文能力がない限り、コメントなら母語の語彙と文法で直接記述できるという利点を生かしてほしいと思う。奇妙な変数名を見て混乱してから定義文を検索し、ああ、そういう意味だったのかと納得することは多い。それをまともな英文法で書き換えたところで、和製英語っぽい表現じゃないと意味を読み取れない技術者も多数いる現状では、自然な英文法にのっとった命名がより "readable" とは言えないという現実もある。

こういう「言語」を使ってプログラミングしている限り、ソースコードに表現可能なロジックの複雑性や抽象度の上限というのは、英文という自然言語の表現能力によってやんわりと規定されてくる。日本から高度なIT技術が生まれない背景には、明示的に許可されていること以外は原則禁止という官僚国家主義も当然あるけれども、それ以外にプログラミングが英作文の一種であるということが案外に意識されていないということもあるのかもしれない。

ソースコードだけではなく、物理的なシステムの構造というのも言語的にその意味合いを記述する必要があって、案外に名前が機能を規定したりする。名前を付けると語彙として会話に乗せることができるようになるのだが、命名がアレだと機能検討も気付かないうちに明後日の方向に向いていたりする。日本語だと用語定義が統一されているのに、システムに実装された用語だと銘々が思い思いに英訳した用語になっていてバラけているというのもよくある話だ。

英語が国際語として普及した以後も、聖書研究には相変わらず西のテキストを読むためのラテン語と東のテキストを読むためのギリシア語が必須だったのに似て、いくら機械翻訳が普及しても、ソースコードを自ら書き下す階級の人々にはしばらく英語の素養が必須であり続けるだろう。

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生産性って言葉の使われ方がよくわからない。ドイツのお店がなぜ生産性が高いのか、という話がある。それは、5時過ぎると一斉に店を閉めるからだそうだ。そうするとお客さんは必要な買い物を5時までに済ませないといけないので、お店としては開店時間中の単位時間当たりの売り上げが高い、つまり生産性の高い状態を維持することができる。これを、機会損失がどうだこうだといって24時間営業にしてしまうと、お客としては自由度が高まり利便性が増すが、買い物はいつでも良くなるもののそれにより購入量が増えたりはしないので、お店は営業時間だけが伸びて売り上げは伸びず、単位時間当たりの生産性が落ちるという。

そんなことじゃ競争に勝てないよ、社会が進歩しないよ、という話はあろうとは思うが、人間の体が寝ないで済むような進歩をしていない以上、無用な利便性のために労働生産性を落とすのはどうなんだろう、と思う。機械が24時間動くのはいいと思うけど、銀行の決済システムの中にはまだ夜寝ないとバッチが走らず破綻する奴がいる。通貨という重要なものを扱っているから、簡単にはリプレースできないのだという。どんなもんなんだろう。

価値創造によってぼろ儲けする人が出るのは別に構わないのだけれど、平均的生活水準が低い国で高い水準の教育を受けた人が出るようになって、それによって平均的生活水準が高い国で高い水準の教育を受けた人が、コスト的に合わないということで切られるようになる。それはそれで仕方がないような気がしないでもないが、そういう高い水準の教育に依存する仕事というのは情報化によって世界のどこにいてもある程度できるようになるので、そういう人たちは平均的生活水準が低い土地に移住してもらって、低い生活コストで生活させればコスト競争力を回復できる。一方、肉体的労働者はその場所で働くことに固有の意義があるので、平均的生活水準の高い土地では高いコストで働いてもらう以外に選択肢がない。つまり、不労所得を得られる水準に至らない限り、教育程度が高くなるほど生活水準が下がるという帰結になる。

日本もすっかりホワイトカラー人口が増えたので、生産性を維持するために、名目上の勤務時間を減らして名目上の生産性を維持しているが、実質の勤務時間がそれを上回っているので実質生産性は名目よりだいぶ低くなっている。名目生産性と実質生産性の差額を「未払い残業代」と表現できるが、これを請求して名目生産性と実質生産性を一致させると、結局名目生産性が下がるので時間当たりの賃金が下がり、所得は変わらなくなる。名目生産性が下がると市場相場との比較で解雇リスクが高まるので、名目生産性のセリ状態となり、一方で実質生産性はたいして変わらないので、両者の差はどんどんと開いていく。

名目生産性と実質生産性の差額は企業の粉飾決済に似たところがあって、私たちはよくやっていますよというアピールになるのだが、その差額はどこに入るかというと、「職場」になる。「職場」とは、概念的には雇用者である法人組織になるはずなのだが、実質的には末端の部署組織になる。「未払い残業代」とは、個々の労働者から現場組織への贈与として機能しており、これを原資として部署組織およびその管理者の管理能力が粉飾される。わかりやすく書くと、日本人のサービス残業は上司への賄賂として機能している。その賄賂を個人的に流用するか、業務に振り向けて業務評価として利用するかは管理者次第であるが、無賃労働の圧力というのはだいたいこういう意味合いがある。理不尽であると思いつつも、これを欠かすと雇用の安定が損なわれるという不安感があるため、職場への労働力キックバック制度を自発的にやめることができなくなっている。これが日本の良くある職場の現状と言える。

松下幸之助さんの水道哲学とマルクスさんの共産主義はだいたい似たような理想を描いていて、ある程度社会の生産性が上がると、社会の利益を占有したがる資本家さえ抑えれば、人間はあんまり労働せずに遊んで暮らせるようになると考えられていた。が、ソヴィエトが崩壊して中国共産党がただのアレになった現在では、思想の流れは19世紀の再現っぽくなっている。どこらへんに杭を打てば流れが変わるのか考えたいが、少なくとも朝日新聞のような方法ではないよな、と思う。

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玄関先のビオラが花の時期を終えつつあり、アブラムシまみれになって萎れている。薬で駆除してもいいが、全部駆除できるわけでもなし、このまま残しておくと頃合いを見てテントウムシがやってきて殲滅してくれたりするので、放置しようかと思う。

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いろいろ恵まれているとは思うが、生きるのは相変わらず面倒くさい。他人に期待しないというのは、結果として他人の態度に現れてくる自分自身の社会価値に期待しないということで、これは諦観の一種なのだけれど、まずまずという感じ。ただ、最近は情がすり減ってきていささか薄情になる場面が多いので、もう少し何とかしたほうがいいかもしれないというような気はする。が、いかんせん情が薄れているので切迫感がなく、あまり変わろうとしない。嫌な大人というのはこうして生じるのか。

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# by antonin | 2014-05-02 12:42 | Trackback | Comments(0)


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