安敦誌


つまらない話など
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情報洗浄

負のハロー効果というのか、やっぱり陰謀論というのは考えれば考えるほど面白いのだが、この面白さをうまく伝える方法がまだ思いつかない。

ネットに誤って流出してしまった個人情報や機密情報や醜聞について、ある程度それが広まらないようにする対抗手法というのは存在する。具体的には、タイトルだけその流出情報を連想させるようなものにしておき、内容はつまらないゴミにしたものを大量に放流する。すると関連情報は次第にゴミばかりになり、人々が興味を失うので、そのごみの中に本当の流出情報があっても、人はそれを手に入れようという気を失う。

国家機密レベルの流出情報にも似たような手法はおそらく確立されていて、そうした手法の一つは黙殺であり、また別の一つは権威による否定であるけれども、類似テーマのごみ放出というのも場面によっては有効なもののうちに入っているだろう。

疑惑の真相、というような刺激的なテーマで、イントロは核心に近いが詳細はゴミばかりの情報をまことしやかにささやく。そういうテーマに興味のある人をひとしきりひきつけたあとで、今度は素人目にも嘘くさい怪情報を小出しにしていく。いつしか疑惑の核心に迫る暴露話は影を潜め、怪しい話ばかりになっていく。こうなると、純粋な好奇心や問題意識を持っていた人は失望し、強い拒否感とともに話の場を去っていく。

残った人は、負の信用度をもった情報源となる。最初は信用できると見せて、最終的には信頼できないことが明らかだと思わせる。そうすると、最初のうちに話していた信用度の高いと思えた情報も、失望感と負のハロー効果によって、まったく信用できない話に思えてくる。これは、流出してしまった機密あるは醜聞を聞く人に「信じられないと確信させる」ための有効な方法だろう。

正のハロー効果を持った人の発言は、少々怪しい内容でも人に信用される。同様に、負のハロー効果を持った人の発言は、少々信憑性のある内容でも人に全くの嘘だと信じさせることができる。最初は信用されて耳目を集めることがミッションで、次第にそれを不信感に変えていき、最後には全くのでたらめであると信じさせるところがゴールということになる。こういうスタイルのインテリジェンスが存在するのだとすれば、ベンジャミン・フルフォードさんはなかなか良い見本なのではないかと思える。
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# by antonin | 2014-03-26 23:18 | Trackback | Comments(0)

自動翻訳時代の言語生活

どうも、自然言語処理界の動きが面白い。時間もアレなのでリンクだけ羅列。

ニューラルネットの逆襲 | Preferred Research

ディープラーニングチュートリアル(もしくは研究動向報告)


これもある意味Deep Learning,Recurrent Neural Network Language Modelの話 [MLAC2013_9日目] — KiyuHub

自然言語処理の最新手法"word2vec"で艦これ加賀さんから乳を引いてみる - あんちべ!

Statistical Semantic入門 ~分布仮説からword2vecまで~

どれも、まだフィードフォワードの処理技術ばかりで、単語の意味を展開するようなものばかり。本当に自然言語を処理しようとすれば、こういうフィードフォワード型の連想処理を要素技術として、フィードバックループないしは相互連想型のネットワークを組んで、反復によって安定点を探るような技術の開発が不可欠になる。けれども、要素技術が育つのは良いことだ。基礎が固まってこそ応用が研究できる。

上記は入力も出力も自然言語というようなものばかりだけれども、OpenCVみたいに画像処理系のマシンラーニングも標準手法が育ちつつあるから、画像からメタ情報を抽出したり、あるいは言語から展開した意味ベクターから例示画像を連想し、その画像を画像処理することで意味ベクターを再連想して、そういう相互連想で安定点を探すことで正しい文脈を推論する、なんていうこともできるだろう。こういう連想ができれば、言語処理に視覚情報を文脈情報として与えることもできるようになる。

そういう具合で、言語間翻訳の精度が一気に向上する時期が、この先数年だか半世紀だか、そこは多少偶然の要素が絡むけれども、まあ確実にやってくる。そういう時代が来ると、私たちはどういう言語生活をするようになるのか。

まずは、格段に改善したとはいえ、そこは機械のやること、おのずと限度がある。けれども、その限度をわきまえると、人間を雇うより格段に手軽に翻訳が利用できるようになる。ということで、人間が機械翻訳可能な言語レベルに適応していくようになるだろう。例えて言うと、逐語訳的な英文和訳文体だとか、漢文読み下し文体だとか、ああいう機械翻訳が出してくる、意味的には正しいが、文芸的には粗悪な文体に、人間が馴染んてくるようになるだろう。それとは別に、翻訳を通じて別言語圏の人に発信したいような情報は、機械翻訳が正確に読み取ってくれるような、文芸的には粗悪だが意味的にはあいまいさの少ない文体で作文するようになる。

そういう時代がある程度続くと、自分で飛行機に乗って各国を渡り歩く経済力のある人とか、文化的に他言語を操ることを愛する人などを除くと、大多数の人は自分の母国語で生活するようになる。しかも、その母国語が文芸的センスのない、機械翻訳向けの言語に近づいてくる。他言語に翻訳不能な美しい言語表現というのは、使用の場が制限されてくる。

その過渡期には当然、英語も含めた各国語で、母国語の乱れ、単純化を嘆く人が出てくる。が、おそらく流れは止まらないだろう。そうなると、翻訳に親和した新言語を操る一般の人と、極度に文芸化した職人芸的言語を操る専門家に分化が進むだろう。そして、必要上やむなく公用語としての英語を利用せざるを得なかった人たちが、母国語に帰っていく。英語の人口シェアは漸減していくだろう。

そういう時代が、近い将来か遠い将来かは知らないが、いずれやってくる。そしてその技術的萌芽は目の前にすでに存在している。面白いものだと思う。
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# by antonin | 2014-03-26 02:11 | Trackback | Comments(0)

教え育てること

子育てをしながら、自分が子供時代に見ていた子供向けの商品を思い出したりするのだけれども、そうすると、当時の商品を作っていた大人たちからのメッセージが、なんだかとても優しさに満ちていて、子供に対する単純な愛情が感じられたなぁ、なんていう、当時は気付かなかったようなことを思うことがある。けれどもまあ、今もそういう暖かな視線というのはあって、ただ大人の立場からは検知しにくいだけなのだろうな、というようには思う。

当時から、テレビ番組とタイアップした玩具商品など子供を食い物にした商売はあったけれども、少なくとも子供の教育のためという建前のようなものはどこにもあったような気がする。最近はビジネスに対する憚りみたいな感覚も減って、子供たちのメンションを奪い合うことに対して、あまりそういう言い訳じみた建前を前置きする機会は減っているという感じはする。当時を大人として生きていたわけではないので、等価な比較はできないけれど。

テレビに関しては、もう維持期から衰退期に入ったメディアなので、当時の放送作品との品質の差というのは、勃興期特有の挑戦的なスタッフが減ったことや、あとは単純に運営規模と収入の比率が悪化しただけなんだろうと思う。現在はウェブの世界が勃興期から維持期に入っていて、コドモたちが子育てをするような時代には衰退期特有の失望感に迎えられているのだろう。

--

最良の育児とは、凡庸な教育者である実の両親が子供の教育をいくらか放棄して、教育に使命を感じている人に一部を丸投げしてしまうことだ、というような意見もある。確かにそんなような気もするし、しかし一面でしかないような気もする。

近代的な学校というのは、ほぼそういう丸投げ先の組織なのだけれど、西欧文明にキャッチアップしていた明治時代ならともかく、もう大概制度劣化していると思う。けれども、ゆとり教育政策だとか、その反動としての基礎反復教育政策だとかで、均一な国民学校全体のあり方を均一に変えていくという方法そのものがとても明治政府的で、なんだか疲れる。現状の公立学校という組織は国民の6割くらいに対してはすでにベストプラクティスになっていて、ただ残りの4割を標準に抑え込もうとした、国民を生産する工場としての品質管理的手法が時代に合わなくなっているだけだと思う。「均一な教育」ということが問題なのであって、「均一」という部分に手を付けないまま、すでに多数にとってベストなものを違う何かに「カイゼン」しようとするのは、方法として間違っているように思う。

習熟度別クラス編成とか、そういう小手先の修正ではなくて、学校という枠組みは今の完成したものを残し、しかしその枠組みの外側で教育を受けることを徐々に認めていくしかこの時代に合わせる方法はないと思う。でも、学校を卒業したその日から学校に勤める教員出身の官吏にそういう発想は難しいだろう。微視的には大きく変えたいが、巨視的な構造について変えるという発想からして無いようにも見える。素人考えでは逆だろうと思うが、まあ自分の属する業界のことを考えるに、難しいだろうなとは思う。改革の内容が、自分たちの手からこぼれ落ちる部分を作るだけ、というのは受け入れ難いものがあるだろう。

保護者の自由選択という市場原理を受け入れる私的教育と、国家による標準化と経済補償という社会主義的な公的教育をどう共存させるかというのも難しい。今も私立学校は存在するけれども、その自由度というのは知れている。NHKと民放のテレビジョン放送なんかを念頭に置くと、教育の自由化後に平均的な子供たちが公教育に残り、私教育が多様性を司るというよりは、マスがベネッセ的な民間サービスに流れ、公教育のほうが「パブリックスクール」のような形へと変質していくのかもしれない。そういう未来像もどうなんだろうなぁ。

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古い偉人伝などを読むと、親は平凡な職を継がせたかったのに、教師や親戚が子供の才能を見抜き、親を説得して親元から引き離し、資金を援助しつつ育て上げた、なんていう話が目立つ。一定水準を超えた才能は、運はあるにしてもそうやって見出されるものなのかもしれない。ただ、そういう「引き抜き」が人身売買にならない程度にシステム化すると、恐ろしく強い国になるだろう。学費の安い国立大学なんていうのはかつてそういうシステムだったのだけれど、今は私学とさほど費用の差がないらしい。

うちのコドモたちをどう育てるか、というのとは別の水準で、そういうようなことも少し考えてしまう。
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# by antonin | 2014-03-24 01:54 | Trackback | Comments(0)

国家による復讐

韓国が日本に、とかではなくて、日本国政府が日本国民に復讐を試みる事例が見られて、嫌な感じがする。昔からこういうのはあったのかもしれないけれど。時事ネタでもないし、気力もないのでつぶやき程度に。

警視庁および警察庁。

2ちゃんねる発の逮捕(書類送検)者まとめ

かつては民事不介入ということで犯罪の未然予防にはあまり積極的ではなかった警察組織も、大阪教育大学附属池田小学校の事件などがあって、公的施設に対する犯罪予告に対する事前警戒に頻繁に駆り出されるようになっていく。そもそも人員的に余裕のある組織ではなく、通信、交通の発達に伴って犯罪捜査も高度化していく中で、予防的な事前警戒の人的コストが組織に重くのしかかっていく。

そしていつしか、「威力業務妨害」という罪名が犯罪予告に適用されることが増えていくのだけれど、その背景に犯罪予告そのものが「警察組織に対する威力業務妨害」と化している実態がある。もちろん法的には警察に対する威力業務妨害の適用はないので、第三者に対する威力業務妨害あるいは脅迫の罪状による逮捕状発行の閾値が下げられ、それによる書類送検とマスメディアへのリークを使った社会的攻撃という形での警察組織の自己防衛が始まる。

こういう流れがあって、犯罪予告遠隔操作事件では露骨な冤罪事件を生み出してしまったのだけれど、その首謀者という「疑い」だけで容疑者を1年以上拘留するという、旧自由主義圏の先進国としてはおよそ信じがたい人権侵害事案があった。これも警察組織に恥をかかせた犯人への報復意識が引き起こしてしまった事件だろう。最終的に不起訴になるとしても、メディア露出によって見せしめ効果があれば一定の防衛効果がある。

こうした、新規立法ではなく既存法規の「弾力的運用」による、組織防衛のための国民個人への報復行動は他の省庁にも見られる。

農水省。

競馬の必勝ソフトを馬券のネット販売と組み合わせ、1億円を超える収入を得た人がいる。この人に、負けた馬券の購入費用を経費として認めないという解釈で、勝ち分の数倍の追徴課税が宣告された。

競馬で1.4億円稼いだ男性に6.9億円の追徴課税 競馬ファン「いや、そのりくつはおかしい」 – ガジェット通信

馬券のネット販売や馬券の当選倍率設定そのものに問題があり、適切に解析すると定常的な利益を上げることができたというだけのことで、本来であれば当選倍率やネット販売の総量規制などで対処すべきところを、税法の弾力運用という方法で政府から個人への報復が行われる。最終的には取り下げられる場合があっても、その時点ではニュースで大々的に報道され、類似の行動が不利益をもたらすということを広報する。

私は堀江貴文さんという人物はどうも好かないが、放送局を買収しようとして間接的な罪状で投獄された事情というのは、やはり総務省(旧郵政省)という政府組織から民間人個人への「法の弾力運用による報復」に見える。類似の現象は、探せば他にももっとあるだろう。

本来、立憲主義や人権主義とは、こういう国家権力による国民個人への攻撃を避けるためにあった。けれども改憲すらできずに長い年月を過ごすうちに、日本国は憲法の文面よりその解釈が優位になるのが当たり前の社会になった。法は乱立し、その文面よりも解釈と運用が優位になった。その結果が、徐々に国民に突き刺さりつつある。今はまだ「弱いところ」から刺され始めている段階だけれども、いずれは多くの人が笑っている場合ではなくなるだろう。労働諸法の問題を見ると、もう誰も笑っていないような気もするけれど。

法治原則を軽んじるというのは本当に怖い。
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# by antonin | 2014-03-21 00:21 | Trackback | Comments(0)

雑記

天気予報の件。大雨は結局降らず、代わりに大雪になった。山梨のほうでは観測史上類を見ない大雪になって、ちょっとしたdisasterになっていた。ブドウ園が壊滅して、来季はちょっと難しそうという意見もあって、心配している。

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コンストラクタ中の例外の件。Togetterのまとめは3年以上も前のものだった。3年前ならあの状況も理解できる。

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NTT東日本の勧誘がうるさい。新聞みたいにオマケでも付けてくれればまだいいが、余計な契約ばかり付けてきて、2年縛りも携帯業界から移入した悪質なスタイルのものが入っていて、色々と危険な感じ。しかも未だにB-フレッツみたいな国策ネットワークを使っているので、技術的にもなんとなく不安で怖い。

ニュース - NTT東日本がBフレッツを光ネクストに移行、14年度中に完了:ITpro

っていう話はあるらしいけど、これはこれで別の不安が。

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TDDも春秋を重ねて裾野も広がり、当該分野のベストプラクティス本なんかも徐々に増えてきているので、私のような二流エンジニアにはありがたい状況。通勤電車でチビチビ読んでいて楽しい。

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昨年末に削除した内容を再掲できるように編集しておくか。まあ、寝ることを優先しよう。
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# by antonin | 2014-02-24 00:11 | Trackback | Comments(0)

RAIIとかtry-catchとか

久しぶりにウィークエンド・プログラミングなんかをしている。業務ではなかなか手を出しにくいテンプレート周りの記法を試しに利用しているが、C++03時代には細かいところで高度なバッドノウハウを要求されて挫折していたことが、C++11では概ね思ったとおりに書ける方法が用意されていたりして、なかなかいい感じになっている。そもそも今まではunique_ptrすらなかったわけで、tr1::shared_ptrだとかboost::scoped_ptrがあるよと言われても、sharingしたくなかったりboostの複雑なconfigureに悩まされたりしたくなかったりすると、結局自分でスマートポインター作りから始めるなんていう状況が多かった。

最近、まだ新しいPCの電源部がぶっ壊れ、借り物のPCにCygwin+GCCを入れたりなんかしたついでに、整数型を完全にテンプレートの向こうに追いやって素数計算なんかをするとどんな感じになるか、なんてことを試して遊んでみた。C++11の制定から2年以上経過して、GCCもだいぶ安定して「カバのダンス」もうまくなったらしいので、-std=c++11で新しい機能を少し試しながら書いてみた。今回、テンプレートの中でstd::vectorだとかstd::unique_ptrだとかを使ってみたが、autoだとかtemplate aliasなんかがとても便利で、いままではテンプレート中なのにCっぽく泥臭い記述でお茶を濁さざるを得なかった表現が、ずいぶんスッキリと書けるようになっていた。

次に、Brainfuckの実装をstrategyパターンっぽくして、命令実行エンジンの最適化レベルとか、メモリ部のモデルとかに依存しないように実装してみることにした。まずはソースファイルのオープンでしょう、ということで、設定オブジェクトがコマンドラインから拾ってきたソースファイル名でリードオープンするクラスを作っていたのだが、さて、コンストラクタでオープンさせるのか、別途メンバ関数のOpenを呼んで成功チェックするかどうか悩んでいた。古典的には、コンストラクタは本当に例外的な事象以外では成功するようにしておいて、エラーの予期される初期化にはそれ用のメソッドを呼ぶべき、という作法があった。

が、現代的なC++の思想では基本的にRAIIで、普通のブロック中だろうが別のクラスの初期化リストの中だろうがポインタを取る演算式の中だろうが、どこでも完全なオブジェクトを生成するか、あるいは例外を投げて正しく失敗しなければならない。そうすれば、別の誰かが例外をブン投げたりしてスコープを外れた場合は必ずお行儀よくデストラクトする仕組みが言語レベルで提供されている。であるからには、きっとC++11にはそういうスタイルのための基本的な道具立てはそろっているはずだと思い、イディオムを探してみた。すると、案外混乱している様子が見て取れた。

コンストラクタでの例外はあり?なし? - Togetterまとめ

河野 真治さんが意外と古風な論を展開していて驚いたが、実用的な実装を重ねてきた経験からの意見なんだろう。が、週末プログラマーとしては憚ることなく安っぽい理想論を展開していきたい。週末プログラミングは保守的な実務プログラミングでのフラストレーションを晴らす意味もあるので、あんまり現実的なのは嫌だ。しかし実際問題として、オンデマンドでオブジェクトを生成するRAIIに対して例外処理を安直に書くと、文法上の障壁があって困っていた。下のリンク先にとても上質な議論があって、その中に言いたいことがずばり書かれていた。

C#のvarとtry~catchが糞すぎる - やねうらお-俺のやねうら王がこんなに弱いわけがない。 (第2期)

using (var sr = new StreamReader(path))
{
var text = sr.ReadToEnd();
}
Console.WriteLine(text); // なんでここでtextにアクセス出来ないの?馬鹿なの?死ぬの?

そうそう。これこれ。上記のコードはC#のサンプルだが、C++11でも同様のスコープの問題がある。まずリソース確保のためにオブジェクトを確保するのだが、それをtryブロックに入れてしまうと、その後のコードから参照できず、せっかくコンストラクトが成功してもtryブロックを出るときにデストラクトされてしまう。馬鹿かと。アホかと。

結論としては、例外を投げて失敗する可能性のあるコンストラクタを呼んで、しかも失敗時にリカバリーできる失敗なのだとしたら、スタック上に実体で受けるんじゃなくてヒープへのポインタで受けて、tryブロックの外にあるスマポに入れればいいじゃない、ということになる。オブジェクト本体はコンストラクタで例外を投げるとしても、スマポを使えば、そのコンストラクタはno_throwだし、newしたポインタの登録が初期化になるわけで、スマポの使用を前提とすれば、結局は失敗の可能性の高い初期化とオブジェクトの定義を自由に分離できる。だから、ポインタの先にあるプリミティブなクラスの実装がコンストラクタで例外を投げても全く問題ないということになる。

コーノさんは基底クラスのコンストラクタが例外を投げるようだと継承しにくいという問題を挙げていたが、他の人が述べていたように、インターフェイスと実装が分離されていないクラスを継承によって再利用しようとすること自体に何らかの設計ミスがある、という考え方のほうが(現実的にはともかく理想的には)正しいのだと思う。レガシーシステムに組み込むような事態を考えないで済むなら、コンストラクタは積極的に例外を投げていいと思う。コンストラクタにno_throwが必須の汎用クラスもあれば、no_throw制約が馬鹿げているような特殊リソース管理クラスもあって然るべきだろう。まあ、そういう場合もno_throwなデフォルトコンストラクタを持っているのは有用だろうけれども。

ただ上記引用の本論はvarで型情報を受けること、C++11で言うところのautoで受けるようなところが問題の核心なので、またちょっと別の話になるのだけれど。そのあとのコメントにあったouterみたいなのはいいと思ったが、利便性のためにブロックの機能を破壊するよりも、カジュアルに関数なりクラスなりを作って、外部から見て適切な振る舞いとなるようにラッピングしていくのが正攻法なんだろう。そのために静的なドキュメントを膨大に書かされるようなことのない現代的な開発環境であれば。

感想として、なんだかC++もだんだんCommon LISPみたいになってきたな、と思う。文法上の道具は充分に用意してあるから、文句があったら自分の使いやすいC++ベースのドメイン言語を自分で構成しろと。まあマクロありのS式みたいな構文上の柔軟性はないけれども、演算子のオーバーロードから始まって、C++14/17に向けてエキスパート向けの変態ツールがますます豊富になってくるみたいだから、JSF++みたいにエキスパートチームが先にコアライブラリなりフレームワークなりを定義して、アプリケーションプログラマはそのドメイン言語の範疇でプログラミングしていくことになるんだろう。

ただ、エキスパート不在の現場だとか、エキスパートたちの意思統合が下手な現場だとか、エキスパートの思想を末端のプログラマまで浸透させるだけの言語能力に欠ける現場だとか、そういう場合にはISO標準化以前のC++に匹敵するくらいマズい状況も予想されるだけに、ちょっと恐ろしい。LLVMが組み込み用に普及するような時代になると、もうC++の出番はないんじゃないかというような気もしないでもないが、まあ将来のことはわからないので、眠れなくならない程度にC++の進歩を見守っていきたい。
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# by antonin | 2014-02-22 15:48 | Trackback | Comments(0)

スノーストームとモークリー

関東地方の場合、冬の終わりのドカ雪というのはそれほど珍しい話でもない。今日の雪も、予報ではみぞれ混じりの重い雪という話だったが、案外しっかりとした雪が降っている。ただ、この後の予報がすごいことになっている。今日の昼に最低気温の1℃近辺を記録したところから、ずっとそのあたりをうろついていた気温が、日付をまたいで夜明けまでの間に10℃近く上昇し、その過程で毎時20ミリを超える豪雨になると予報している。

そして、さっきから雷が鳴り響くようになった。冬の嵐というのは、珍しいが経験はある。けれども雪で視界が悪いような天気での雷鳴は初めての経験だ。雷が鳴っているということは、湿った温暖前線が食い込んできているものの居座る寒気のほうも強くて、上昇する暖気の中で水分が凝集して落ちてきているはずなのだが、地表近くではまだ雪が降っている。ふわふわした雪が上昇気流に逆らって急速に落ちるということはあまりないので、ひょっとすると上空ではすでに雨かひょうが出来始めているのかもしれない。外はまだ雪が降っているが、歩く人たちが傘を差していない。風が強すぎるんだろう。

地球シミュレータ稼働以降の時代、かつては当てにならないものの代名詞だった天気予報も、かなりの精度で天気を言い当てるようになっている。世界初のコンピューターは、法的にはアタナソフ・ベリー・コンピューター、通称ABCというものとされているが、これはビッグブルーの誇る弁護団による寝技の勝利という面が強くて、技術史的にはやはりENIACということになる。ENIACについては語りたいことがたくさんあるがキリがないので割愛する。ここでENIACが出てきた理由はというと、ENIACの生みの親であるジョン・モークリーという人の話になる。

ENIACの生みの親として、モークリーとエッカートの二人の名前が知られている。J・プレスパー・エッカートさんは、当時のアメリカらしいシステム・エンジニアリングを骨の髄まで叩き込まれた電子工学者で、信頼性の低い当時の真空管を大量に使いながら、システムとしてそれなりに実用的な水準の信頼性を持つ巨大な計算機を一発で作り上げるという快挙を成し遂げた。

一方のモークリーさんというのは、どちらかというと工学者というより理学の人で、高速な計算機があったら是非解いてみたいテーマがあって、その目標のための第一歩として、大戦中の弾道計算機械として予算をせしめ、優秀な技術者をパートナーとしてENIACを作り出した。このモークリーさんは、ウォズニャックさんと組んでAppleを興したジョブズさんの位置付けにいくらか近い人物になっている。彼もフォン・ノイマン先生とのちょっとしたいざこざの後にUNIVACという商用計算機を作る会社を設立しているが、ジョブズさんのような華々しい成功とはならなかったようだ。

で、そのモークリーさんが弾道計算機を足掛かりとして、最終的にどんな計算を目論んでいたのかというと、それは流体力学および熱力学の方程式を数値算法で解くことによる、気象予測だった。結局この分野は、モークリーさんが夢想したほどには簡単なものではなく、非線形性によって誤差が発散しない程度にメッシュを刻むと計算量が爆発するということがわかり、モークリーさんは現在のような計算機科学による気象予測の勝利という成果を見ることなく、1980年に亡くなっている。

コンピューターによる気象予測というのは、シミュレーションによる大気変動の時間進行が、現実の大気の実時間変動より高速に実行できるということを意味していて、その実現のためにはコンピューターのハードウェア的な進化が大きく貢献している。しかし、気象予測ほど非線形性の強くない解析では、ENIACから5年ほど遅れて作成されたUNIVAC Iでも、目覚ましい成果を挙げていた。その代表的なエピソードが、1952年の大統領選挙結果を統計解析によって正しく予測した件だった。この年の大統領選に勝利したのはアイゼンハワーさんで、UNIVAC Iのエピソードを語る枕としては「大方の予想に反し、アイゼンハワーの勝利を正しく予想した」と言われることが多いけれども、実際には「どちらが勝利するか断言できる人がいない中、アイゼンハワーの大勝を事前に予測することができた」と言ったほうが正しいようだ。

なんて書いているうちに、雪があられに変わってきた。視界はますます悪くなっている。さて、寝よう。
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# by antonin | 2014-02-15 01:00 | Trackback | Comments(0)

都知事選について

少し時間があるので簡単に。

今は東京都に住民票を置いているので選挙権があるのだけれど、事前には、棄権するか、「猪瀬直樹」と書いた無効票を投じるかのどちらかにしようと決めていた。つまり、有効票を投じた人に白紙委任するという態度に決めていた。都知事選の場合は当選者が1名なので、議会選挙などと違って、当落ラインすれすれのあたりで変な人が潜り込むということがない。そういう意味で今回は投票権者の総意を信頼していたので、その結果として舛添さんが当選しようと、田母神さんが当選しようと、赤坂さんが当選しようと、そこは公正な選挙の結果に従おうと決めていた。

雑に言うと、今回の知事選そのものについてはどうでもいいと思っていた。一方で、なぜ今選挙をさせられるのかという経緯については大いに考えていた。過去最多の、400万票を超える得票で、直接公選制によって選ばれた知事が、リコールなどの正当な手続きを経ることなく、公定任期のわずか4分の1ほどの期間で、マスメディアなどの圧力によって辞任させられてしまったというプロセスのほうが気になっていた。まだ調査は進んでいないけれども、猪瀬さんが辞任に追い込まれる直前に執っていた重点政策項目というのはしっかり調べていく必要があると感じた。

民主主義には2つの重要な要素があって、ひとつは議論、もう一つは多数決になる。知識人商売をしている誰かが、民主主義の根本は多数決だと言っていたが、根本は議論による相互説得のほうにあると思う。ただ、現実的にはいくら説得を続けても市民全体の満場一致というのは実現しえないので、ある時点で議論を打ち切り、決断して実行の段階に移る必要がある。そういう、議論の打ち切りプロセスが多数決であって、多数決で勝つというのはある程度、多数を得た側の説得に理があった証拠ということにもなる。そしてしばらくは議決に従って粛々と事を進め、ある程度の期間が経過したらまた議論と議決を行い、方針の継続か変更かを決める。それが民主主義というものだったと思う。

で、今回はそういう議論も深まらず、多数決もなしに、脅迫的な圧力だけで422万の民意はキャンセルされた。これが日本の民主政治の現状なのだと思う。猪瀬さんという個人を政治家として見たとき、それほど熱烈に支持するわけではないけれども、都民の立場からすると、任期早々の失脚に値するほどの失政は無かったとも思っている。政治資金のダークサイドは確かにあったわけだけれども、現状の日本の法令では、合法的にある程度まとまった資金を集める道というのは閉ざされている。何かしらのテクニカルな迂回方法を駆使しないと、それは実行できない。猪瀬さんが自分はアマチュアだったといっているのも、そのあたりの技法が弱かったという率直な反省だと思う。

本来は、自由に資金援助を受けることができて、そしてどういう政治的意志を持ったどういう団体からどの程度の資金を受けているかというのは、公開情報として晒されているべきだろう。なので資金提供を受けたことそのものがタブー視されるのは、民主主義にとっては不健全な状態だと思う。政治というのは結局のところ対立利害の調整の場なので、政治家がどういうポジションに立っているかというのを明らかにした上で、対立する立場と時には妥協し、時には突っぱねたりしながら、基本は相互説得を続けるのが自然な姿だと思う。水面下でダラダラと特定勢力につながっているというのは民主主義の本場であるアメリカでも存在するので、旗幟鮮明な政治活動というのはメディア全盛の現代では実現不能な理想なのかもしれないが、現状から見た理想は一応そういう方向にあると思う。

舛添さんには頑張ってくださいとしか言いようがないけれども、なんだかちょっと無力感に襲われる選挙だった。

東京都-H26東京都知事選挙投開票速報
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# by antonin | 2014-02-11 16:11 | Trackback | Comments(0)

Traduction assistée par ordinateur

さっぱりわからないが、現代というのはなんだかんだで21世紀なので、技術を本気で使うと、それなりに何とかなる。

C'est similaire à la passion ou le prière - finalventの日記
C'est similaire à la passion ou le prière

Serait-il raisonnable si j'écrivais un journal en un langue qui n'est pas la langue maternelle? En français? Pour moi, le français est plus difficile que l'anglais. En fait, il y à seulement quatre mois quand j'ai commencé à le apprendre.

C'est quelque chose d'anormal. Je ne suis pas bon à la langue. Bien sûr, personne peut le lire précisément. En d'autres termes, c'est comme un message chiffré.

Cependant, il est une œuvre fascinante. Par les procédures de contredire, je réussi à dire quelque chose à quelqu'un.

Leonardo da Vinci écrivait le journal chiffré. N'est-ce pas parce qu'il ne voulait être lu par personne, mais il s'y attendait: Il y aurait quelqu'un pour le lire.

C'est drôle qu'il n'est pas possible de faire donner une sorte de nature. Plutôt que message chiffré, cependant, c'est que seulement la langue incomplète. Mais, d'une certaine manière, c'est similaire à la passion ou le prière que on veut partager quelque chose par cet effort futile.

なんだかさっぱりわからんわけだけれども、機械翻訳を使うと、ここまで訳してくれる。

これは情熱や祈りに似ています

私は彼らの母国語ではない言語に新聞を書いた場合、それは合理的でしょうか?フランス語?私のために、フランス人は英語よりも硬い。私が勉強し始めたとき、実際には、わずか4ヶ月があります。

これは異常なものです。私は言語が得意ではないんだ。もちろん、誰もそれを正確に読み取ることができません。言い換えれば、それは暗号化されたメッセージのようなものです。

しかし、それは魅力的な作品です。手続きと矛盾することで、私は誰かに何かを言うことができた。

レオナルド·ダ·ヴィンチが暗号化されたログを書きました。読むために誰かがあるでしょう:彼は誰もが読むことがしたかったが、彼は予想していたので、そうではありません。

それはそのような種類を提供することが可能ではないことを不思議だ。むしろ暗号化されたメッセージより、しかし、唯一の不完全な言語ということです。しかし、どういうわけか、これは我々がこの賽の河原で何かを共有したいの情熱や祈りに似ています。

あとは、"C'est ..." が「それは...である」だとか、"n'est pas" が「...ではない」だとか、その程度の基礎表現と、後置修飾が多いあたりを除けば英語とそれほど変わらないだろう語順構造を頼りに日本語らしく再構成することができる。

情念か祈りに似ている

僕が読者の母国語ではない言語で記事を書くとしたら、それは合理的だろうか。フランス語で? 僕にとって、フランス語は英語よりも難しい。実際、僕はこの言語を4か月しか勉強していない。

これは異常なことだ。僕はフランス語が得意じゃない。もちろん、誰もそれを正確に読み取ることはできない。言うなれば、それは暗号文のようなものだ。

しかし、これは魅力的な仕事でもある。逆説的な方法で、僕は伝えるべき人に伝えることができる。

レオナルド・ダ・ヴィンチは暗号文で日記を書いた。誰でも読めるようにはしたくなかったからだが、しかし彼は、何者かはそれを読めると予想していたことだろう。

不思議なことに、natureの一種を伝えることができない。暗号文などではなく、単に不完全な言語を使っているだけなのに。このようなやり方は、無駄な努力によって、しかし読者と何かを共有したいという情念や祈りに似ている。

こんなところか。通常の日本語文に合わせて一人称は「僕」にしてみた。最後の一文は難しかった。 "une sorte de nature" というのは "a sort of nature" で、直訳すると「自然の一種」なんだが、何か慣用的な意味があるのかと思って調べても、それらしいのが出てこない。ひょっとするとこのあたりが「不完全な言語」というやつなのかもしれないが。

フランス語なんかは基本的にラテン文字なので、多少見慣れない記号は多いけれども、音として推定すること自体はそう難しくない。中国語も、未成年の時代に「国語」として漢文を習ったのがいくらか役に立って、文字や熟語の意味は分からなくても、そのあたりを機械翻訳に助けてもらえば、あとの文法的な再構成はなんとか自力でできる。これがギリシア語だとか、キリル文字のロシア語になってくると、まあ読めないこともないけれど、読むというよりは「解読」に近い作業になってくる。これが、アラビア語やヒンディー語になると、音素文字自体が全く読めなくなるので、どうにもならない。

それでも、アルジャジーラのアラビア語版ページを開いて、ソチオリンピックっぽいリュージュの写真に添えられた文章なんかを機械翻訳にぶち込むと、とりあえずこの程度の情報は出てくる。

الجزيرة.نت

افتتاح ألعاب سوتشي اليوم بنكهة سياسية
تفتتح اليوم الجمعة في سوتشي بروسيا الألعاب الأولمبية الشتوية لعام 2014 بمشاركة ستة آلاف رياضي يمثلون 87 دولة، بالإضافة إلى مشاركة عدد من زعماء العالم في حفل افتتاح هذه الألعاب التي عكس مسار الأحداث قبل افتتاحها إمكانية تزاوج الرياضة والسياسة.
آخر تحديث: 13:36 ، الجمعة ، 7 فبراير 2014 دولي

ソチオリンピックの今日の開口部は、政治的な風味
スポーツと政治を交配の可能性を開く前に、イベントのコースを逆にゲームの開会式、で世界の指導者の数の参加に加えて、87カ国から6000の選手が参加して2014年にロシアのソチ冬季オリンピックで金曜日にオープンします。
最終更新日:13時36、金曜日、2月7日、2014インターナショナル

原文は右から左への文字列なのでうまく表示されるかどうかわからないが、ともかく訳文を読めばソチオリンピックの開会式で政治的な動向があったよ、とか、そういう記事なんだということがわかる。

まあ、わかるんだけれど、それなりに労力は必要になって、流すように取り込む母国語の情報とは質的に異なってくる。あとはつまり、情念や祈りのような成分が効いてくるのだというような話は理解しやすい。ただ、情念や祈りというのは、他人にとってはどうでもいいことでもある。

ハイデガーの「存在と時間」を通して読んだ人は、たいていそれを激賞するのだけれど、それは原文の素晴らしさというより、原文に対して強い情念を抱いた人が、自分の果たした激しい努力が虚しい努力ではないと思いたいという自己肯定のために、多大な努力を割いて読んだ対象もまた素晴らしいという気分になってくる、と、そういう効果もあるんじゃないか。それを通読した経験のある、とある人がそう書いていた。

ある時期、それこそ祈りのように、finalventさんがFinancial Timesの記事を復唱していた時期があって、そこに、日本語じゃ生々しすぎて書けない露骨な事実や、岡目八目で単純明快な結論もあるにはあるものの、「所詮他人事評論」なんじゃないかというようなものも多々あった。難しいものを読み取った自分の努力を認めたい気持ちが、その対象に照射しているように見えることも、ままあった。

と、まあ、腐すのはこれくらいにして、いい歳してフランス語を猛勉強して日記がフランス語になっちゃう人とか、いい歳して将棋の勉強を開始しして別ブログ立ち上げちゃうあの人とか、素直にすげーなーと感心する。個人的には、語彙を習得するのが苦手なので、文字くらいはいろいろ読めるようにしてみようか、という野望はある。キリル、ヘブライ、デーヴァナーガリー、タミル、タイ、ターナなど、完ぺきではなくても一通り音がわかる程度には覚えてみたい気がする。

ハングルは単純だったので、発音はできないし単語もわからないが、音だけは読めるようになった。スタバの看板に「スタバクスコピ」と書いてあったので、外来語なんかは音でわかる。「改札口」には「ケサルグ」とか書いてあったので、おそらく日本統治時代に導入した漢語をそのまま朝鮮読みしたものなのだろう。中国語だとさすがに語意に厳密なので、拉票処とか、そんなような言葉になっていた。

言語圏の違う文字というのは音の組み立て方が違うので、実用的に読めなくても、そういう違いを知るのは面白い。梵字の一部を覚えた時も、日本語のカナやハングルなどと、似ているけれどちょっと違う音素構成がわかって面白かった。現代のデーヴァナーガリーも、梵字から基本的なところは変わっていないらしい。

まあ、今年は新しいことに挑戦しないというのが年初の誓いだったので、文字を覚えるのは来年以降ということになるだろう。今年はまず未読を一冊でも減らすこと。
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# by antonin | 2014-02-08 03:09 | Trackback | Comments(0)

カサンドラの囁き

あまり多くはないけれども、思うところはある。本を読んでみたり、webページを検索してみたりして、いくらか情報を増やしてみた。日常生活で簡単に実践できる範囲で習慣化したことで、いくらかの理解や変化があった。が、今はそれについて述べる時ではないな、とも思う。

信用というものには尺度があるが、それは0から1ではなく、-1から1の範囲の値をとる。信用度1の情報源というのは、その情報源から得られる情報の全てが真実であると信用できる。信用度0の情報源というのは、その情報源から得られるメッセージの全てが情報量0となる。情報量0のメッセージというのは、そのメッセージを得る前後で、受けた側の知識の総量が全く変化しないようなものを指す。つまり、真実と全く無相関のメッセージということになる。そして信用度-1の情報源とは、その情報源から得られるメッセージの全てが真実に反すると信用できる。つまり信用度-1の情報源とは、そこから得られるメッセージが絶対に真実ではないことが保証された情報源ということであり、それは信用度1の情報源に匹敵する情報量を提供する能力を持っている。

イリアスの物語に、カサンドラというトロイアの女が現れる。ホメロスの叙事詩には人間に混ざって偶然の悪戯を擬人化したような神が幾柱も登場するが、カサンドラはアポロンの寵愛を受けて予言の能力を授けられる。しかしその愛を受け入れなかった報いとして、予言が誰にも信じられないよう呪いを受けた。かくしてカサンドラは、信用度0の情報源となった。

神話を寓話として現実世界に引き寄せると、カサンドラのような女はその鋭い直感から、後になってみれば正しいとわかるような話をいくつか述べる一方で、慎重さの欠如によって、明らかに事実と異なる話も同じような真剣さで語っていたのだろう。大当たりも出るが外れも多いというのは、野球のバッターなら人気が出るかもしれないが、情報源としてはとても使えたものではない。そういった、人間の本質の一部を形作る悲しい特性を、古代ギリシアの詩人はカサンドラという女に託したのだろう。

そして、信用度が負の情報源というものもある。驚くような情報を聞きかじったが、情報源を辿ると、出所はあのイカレた奴だった。これでこの情報は真実ではないということがわかり、安心できた。と、まあ、そういう逆説的に信頼された情報源がある。常識人から見た陰謀論者というのは、概ね-1に近い信用度を持った情報源として解釈される。

ここ安敦誌でも陰謀論は何度も展開しているし、密教にも手を出したし、実際に狂気の入り口辺りまでは到達したこともあるので、現状では負の信用度を持った情報源と見なされていることだろう。ここでは不動の一番人気になっているアレも、単品ではそこそこ信用されているが、それを書いている人物にまで興味を示した酔狂な読者があれば、その信用度の低さにがっかりすることだろう。

そういう具合でもあるので、私自身が信用に値する人物と見なされる程度に落ち着くまでは、私が信用しているものについては、言及しないという形で敬意を表すことにしておいたほうがいいのだろうと思った。
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# by antonin | 2014-02-02 23:24 | Trackback | Comments(0)


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