by antonin
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製造業からソフトウェア業界に移ってから、ずっとC/C++でプログラムを書いてきた。それはそれで悪くないのだが、CにしてもC++にしても、統一された作法を守っていればどちらも美しい言語なのだけれども、C++という言語には長い歴史の重層というものがあって、C++が "Better C" と呼ばれて段階的に色々な技法を試行錯誤していたような時代のコードが現役で生きている。ソフトウェア予算の乏しい業界では「壊れていないものは直すな」という格言があって、テストで補強してリファクタリングをゴリゴリ進められるようになる以前の設計が、現役でバリバリと金を稼いでいたりする。 そういう厄介があって、C++11はおろかC++03標準すら完全に準拠していないような貧弱なコンパイラを使い、C++でありながらMISRA-Cに似た古臭いコーディングスタンダードに縛られながら、忍耐力を要求される仕事が続いてきた。定数はマクロにして、全てヘッダファイルに書くんだそうですよ。恐ろしい。C++はなまじCと互換性が高いせいで、ネットで拾ってきたような標準Cライブラリにべったり依存した処理だとか、生ポインタのnewとdeleteが飛び交う危険なコードが混入しやすい。古いコンパイラだとテンプレートはごく基本的なものしか仕様通りに動く保証がなくて、ある程度の構造はマクロを援用しないと怖くて書けなかったりする。 そして、C++の仕様は巨大化して、まともなコンパイラは地球上でGCCとclangだけになってしまった。Cの美点は、OSのようなハード寄りのソフトウェアを高級言語で書けたのももちろんだけれども、何よりコンパイラが小さくシンプルで、新しいハードにもコンパイラそのものを短期間で移植できるというところにあった。C++は、言語のシンプル化よりメタプログラミング可能なくらい強力な言語の道を選んでしまったので、正しく扱える人も減ってしまったということなのだろう。ある程度基礎的な計算機科学を知らない人が書いたC++のコードというのは恐ろしいものがある。下のリンクにあるような話を読んで、自分を勇気づけながらなんとか実務をやってきた。 The Noble Art of Maintenance Programming ところが、ちょっとした流れから、既存の小さなプロセスユニットを新しくC#で組み直すことになった。一応期間としては2か月。ほぼ一人仕事で、コード上のことに関しては、かなり制約なく自由にさせてもらえることになっている。カウボーイプログラミングという言葉もあるようで、野狐禅というか、そういう中途半端なものにならないように注意しないといけないのだが、まあ楽しい。これまでC++でもやっておきたかったような正常なカプセル化と例外運用は当然導入するとして、最近のC#5.0では非同期処理が非常にお手軽に書けるようになっており、このあたりも積極的に取り入れることにした。 ただまあ、お手軽とは言え新機能でもあり、水面下にはあの恐ろしい並列処理が潜んでいるので、あまり油断しているとあとで大変なことになるだろう。あとで大変なことになる、というのは、自分とは経験と意見の異なる人がコードをメンテナンスするときに、あまり繊細な構造にしておくとあっという間に壊れてしまうというあたりだ。そして、自分自身も来年には今とは相当経験と意見が変わっているはずで、そのあたりはしっかりベストプラクティスを調べておくべきなんだろう。 今回はテスト駆動も盛り込んでいるのだが、本体のコーディングよりテストの作成のほうが疲れる。本体のほうは比較的まばらに処理が動くゆるゆる設計なのだが、テストは数十本のテストがマルチスレッディングで一気に走る。実行が早くて結構なのだが、本体より一足先に高度な並列処理地獄に陥っている。それぞれのテストは小さく、また独立しているので、メモリ保護やテスト間の同期は気にしなくていいとはいえ、単独実行では一瞬で成功するテストが、一括実行だと遅延したり失敗したりする。まあ、このあたりで高密度な非同期処理の訓練をしておけるのはむしろいいことなのだろう。 テストが遅延する原因を調べたら、Task.Delayというものを知らなくて、非同期プログラミングのサンプルコードにあるThread.Sleepをテストコード側で多用してしまったために、同時実行によってワーカースレッドが枯渇したんじゃないかという疑いが出てきた。こういう失敗は早いうちにしておくべきだろうと思うので、テスト段階で並列地獄になるのはやはり良かったのだろう。 久しぶりに脳味噌フル回転でコーディングができて楽しい。C#も.Net Frameworkも、新しいVisual Studioもほぼ初体験で何かと不慣れなのだが、使ってみるといろいろと洗練されていて使いやすい。開発環境でいうと、識別子の宣言を書き換えるだけで参照箇所を全部直してくれるのが非常に便利。こういう機能はかなり前からあるのかもしれないが、これまで10年以上前の環境でチマチマとやっていたので、まさに隔世の感がある。StyleCopというツールがあって、スタイルで迷わなくていいのも助かる。スタイルというものは一貫性さえあれば、あとはなんとか慣れるものだ。 新しい言語を使うのは楽しいもんですな。 #
by antonin
| 2015-02-07 02:10
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かねてより「耳が悪くなった」と嘆いていたのだが、単にスピーカーやイヤフォンなどの再生デバイスが劣化していたからという可能性が濃厚になってきたので、そのあたりを少し。 しばらく前からSONYのイヤフォンを使っているのだけれど、これを使うようになってから結構自然に音楽が聞けるようになった。 それで最近になってCDのロスレスエンコードをえっちらおっちらやっているのだが、それでもONKYOのPCスピーカーや、近所のスーパーで買ってきたJVCの廉価版ヘッドフォンだと、相変わらず音がくぐもって聞こえる。ただ、古いCDをエンコードしたクラシックなどではそういうことになるのだが、比較的最近のポップスなどを聴くと、そういう再生装置でも自然に響く。どうやら最近の再生装置はポップスの音源をリファレンスとして設計されているから、クラシックやジャズをリファレンスとして設計された古い装置と違って、オーケストラ演奏などを鳴らすと音がくぐもって聞こえてしまうものらしい。 スピーカーなどは装置のつまみで低音と高音の比率が調整できるのだが、その程度だとあまり改善しない。今のPCで使っているマザーボードにはRealTekのHD音源が載っているので、その設定アプリのイコライザ機能を使って、プリセットのイコライジングカーブではなく、耳で聴きながら一番よく聞こえるレベルを探ってみた。そうすると、ONKYOスピーカーでもJVCのヘッドフォンでも、ちゃんとクラシックを鳴らすことができる。ロスレス音源の細かい音場まで拾えている。そして、そういう補正を掛けると、今度はポップスがうるさくて耳障りな音になってしまう。 ヘッドフォンのイコライジングカーブはこんな感じ。 一方、SONYのXB90EXを接続すると、中低音の補強を少し入れたほうが音がリッチに感じる以外は、特に補正なしでクラシックが聴けた。この場合も、逆にポップスのほうで補正を入れたほうが聴きやすかった。RealTekのプリセットにある「ポップス」は、このフラット特性の装置でポップスを聞く場合の補正になっているようだった。逆に、廉価版の装置はこのあたりの補正が、電子的あるいはアコースティックな特性を使って、デフォルトで掛けてあるのだろう。 ところで、私があまりCDを買わなくなった00年代、CD業界にはちょっとした異常な現象が見られたのだという。CDショップの試聴コーナーでの印象を優先した、音圧競争というのが起こっていたらしい。 Bostonの名曲「More Than A Feeling」に見るラウドネス(音圧)競争の現実 | 山崎潤一郎の「また買ってしまった。」 ブログ 懐かしいCDの美しい波形を偲ぶ会 試聴機を使った店頭販売で売れるための味付けが暴走した結果だということらしい。そういえば、以前のテレビ販売でも似たようなことが起こっていた。最近は通販が強くなってきたが、量販店全盛の時代には店頭で見栄えのする、とにかく明るくてとにかく色の鮮やかなモードを持った機種が売れるので、リビングで見ていると目が痛くなるくらいのチューニングをデフォルト設定に据えるメーカーが増えて、描写力の高い領域を中心に据えたような画質重視の機種が売れなくなっていた。プラズマディスプレイが滅びたのも、まあ電力消費の問題もあるけれども、この店頭画質で液晶に比べて劣ったというのが主要因だったらしい。 一方で、10年代に入るとこの傾向には一定の落ち着きが見られるようになったらしい。その理由はよくわからないけれども、iTunesが普及した影響ではないかという気はしている。ダウンロード販売では試聴用に独自のフォーマットを使えるので、販売音源そのものを歪ませて店頭アピールする必要がないということもあるが、それよりも影響が大きいのはiTunesのランダム再生だろう。 あれはどういうアルゴリズムで選曲をしているのか知らないが、少なくとも単純な乱択ではなくて、再生回数や再生時間帯などを考慮しているらしい。しかしそうは言ってもミュージックライブラリ全体から曲を拾ってくるので、曲から曲に移った時にいきなり音量が変化すると困る。ということで、iTunesはCDからトラックをリッピングする際に平均音圧レベルを記録しており、ランダム再生時はこの音圧が均等になるように補正を掛けて再生している。 この音量補正のために、CD音源で音圧競争をしてもポータブルデバイスでのランダム再生時にはiTunes様によって自動キャンセルされてしまう。そうなると、残るのは一定音圧レベルでの音質ということになるので、あまりに音圧上限に張り付いた曲というのは印象が良くなくなってしまうのだろう。個人的にそういう曲をあまり聞かないのでよくわからないが。 -- 最後に。イコライジング調整用音源の紹介のためにスターウォーズ Episode V 「帝国の逆襲」の finale を調べていたら、面白いものを見つけた。 『スターウォーズ/帝国の逆襲』(Ending) by Moment String Quartet (弦楽四重奏ver) - YouTube スターウォーズの音楽はそもそも管弦楽組曲みたいなものなのでクラシックに親和性があるのだが、これは弦楽四重奏に編曲されている。そして動画を見ると演奏しているのは若い女性たちで、こんな昔の男の子仕様の曲を何でまた、と思ったら、ちゃんと黒幕(失礼)が存在していた。 _... m o m e n t ...._ びよら弾きの備忘録 どおりで愛情あふれる編曲なわけだ。これは男の子だった経験がある人間にしかできない編曲だろう。「ベイマックス」にしてもそうだけれども、性差別とかそういう話は抜きにして、趣味における男女差というのはどうしても存在するものなのだ。 ちなみに原曲はこう。 the empire strikes back finale music - YouTube あのクソ派手な管弦楽を室内楽でよくまああれだけ再現したもんだ。素晴らしい。 そういえば調整用音源の紹介を忘れていた。上に挙げたヘッドフォン用イコライジングカーブの作成にはデュトワ/MSOでラヴェルのボレロ後半を繰り返し鳴らしていた。まあ、有名だから張らなくてもいいか。 ポップス評価用の曲はこれ。 Avril Lavigne-Take Me Away Music Video - YouTube PV初めて見た。女の子は大変ですな。しかし、これでも10年以上前になるのか。 #
by antonin
| 2015-01-25 01:21
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「イチたすイチは~ ニかサンか~」とか歌っているCMが昔にあったような記憶がある。子供向けの文具か教材か、そんなようなCMだったと思うが、どんな内容なのかはすっかり忘れてしまった。それなのに、この「1+1は2か3か」という文句だけが記憶に残っている。 ブール代数を初めて知ったとき、1+1が2ではなく1になるという演算があるのを知って楽しかった覚えがある。そういう流れで、この「1+1は2か3か」という冗談のような歌が妙に気になっていたのだろう。1+1が2というのはごく普通の算術演算だとして、1+1が3というのは、いったいどんな演算がありうるんだろうと気になっていた。 それから長い年月が流れたが、去年のあるあたりに、ふとひらめいたことがあって、なんとか1+1が3になる演算を考えついた。そのあたりをダラダラと書いていこうと思う。 1+1=1 というブール演算は、そもそも数値として0と1しか存在しない。自然数の集合がアレフゼロという無限の個数なのに対して、ブール束の元は2個しかない。1+1=3となる代数系に似たような制限を掛けるとしても、0,1,2,3と最低でも4個の数値は必要になりそうで、これは面倒だった。しかし、よく考えてみると、今は足し算だけで掛け算は必要ないわけだし、乗算の零元である0というのは必要ないかもしれない。「1+1は2か3か」という歌にも1と2と3しか出てこないのだから、今考えようとしている代数系の元は3個で十分なのかもしれない。 というところまで考えて、ブール代数のようなロジックにトライステート ロジックというのがあったな、ということを思い出した。通常のロジック(論理)が「真」と「偽」だけを使うのに対し、トライステート ロジックというのは、第三の状態である「どっちでもいい」という状態を持った論理回路のことを指す。 デジタル回路 #スリーステート・バッファ - Wikipedia 学生時代には確かに「トライステート」と習った覚えがあるのだが、上記ページによると、その呼び方はナショセミの登録商標だったらしく、知財フリーな辞書表現だと「スリーステート」となるようだ。ジェットエンジンの「アフターバーナー」がGEの登録商標だと知ったときと似たような、微妙な感じがして面白い。 ともかく、トライステートというのには、真か偽かはっきり決まる状態以外にも「ハイインピーダンス」という状態があって、真か偽かの決定は接続先かデフォルト設定に任せるという、独特の出力状態のある論理回路になっている。委任票というのか、結論を相手に任せるモードを取りうるロジックということで考え方として面白いのだが、この3状態論理というのが今考えようとしている演算に使えそうだった。 トライステートのハイインピーダンス状態というのは、プルアップするのかプルダウンするのか、あるいは別のロジック出力に合わせるのかというあたりは、そのロジックを使って回路を組む設計者に任されている。ところが代数系を考えるときはそういう自由度は面倒なことになるので、ハイインピーダンスではなく「真偽不定」という状態と考えることにしてみる。 A+Bというブール演算は、A or Bという論理演算に相当するので、たとえばA=1、つまり「Aは真である」というのが確定した場合には、Bが0だろうと1だろうと結果は1になる。なので、真偽不定の状態をXと置くと、1+X=1となる。Aが0の場合にはこうはならなくて、結果はBの値に等しくなるから、Bが定まらないうちは結果も定まらない。なので、0+X=Xとなる。A・Bの場合、つまりA and Bの場合には、逆にA=0のときに結果が0に定まって0・X=0となり、A=1のときに結果が不定になって1・X=Xとなる。 この不定値を含んだ3状態論理を使いたいのだが、and にしても or にしても、1+1=3のように、同値の組み合わせから別の状態が出てくる演算にはならない。そこで、ブール代数上で0と0から1が出てくる演算として、「同値」"equivalent" というのを使ってみることにする。この同値というのは、昔の Microsoft 系 BASIC 言語には論理演算子 "EQV" として組み込まれていたのだが、最近はあまり見ない。C言語的に書くと、!(a ^ b) のことで、「排他的論理和」"exclusive or" の否定を取ったものになる。 排他的論理和というのには論理学的な意味があって、「田中さんは家にいますか、それとも会社にいますか」と聞いたときに「会社にいます」と答えた場合、普通は「じゃあ田中さんは家にはいないんだな」と考えるのだが、実は田中さんは町工場の経営者で、自宅兼会社に住んでいるというケースもありうる。この場合、「家にもいるし、会社にもいる」というのを、普通の論理和(or)は許容する。けれどもそれだと自然言語の「または」の意味を正確に記述できない場合があるということで、この排他的論理和というやつが生まれた。 排他的論理和を演算として見ると、結果が1になるのはA=0でB=1の場合と、A=1でB=0の場合だけということになり、「AとBは異なる」という意味にもなっている。同値演算というのはこの逆で、A=0でB=0の場合と、A=1でB=1の場合にだけ、結果が1となる。これに排他的論理和のような古典論理学的な意味付けができるという話は聞いたことがないが、何かあるのだろうか。 話が逸れたが、この同値演算は0+0=1という性質を持っているから、これを3状態論理に持ち込めば、1+1=1の呪縛から逃れることができる。ということで、まず真をT、偽をF、不定をXとして真理値表を作ってみる。 「AとBが同じかどうか」なので、片方でも不定になると結果は自動的に不定になる。それで上の図のようになる。 そしていよいよ、このFを1に、Xを2に、Tを3にそれぞれ読み替える。最後に、この同値演算の演算子として無理やり「+」記号を当てはめてみる。すると、こうなる。 1+1=3 1+2=2 1+3=1 2+1=2 2+2=2 2+3=2 3+1=1 3+2=2 3+3=3 なかなか謎めいた、良い演算になった。というわけで、1+1=3という演算は存在する(いま作ったから)。 #
by antonin
| 2015-01-24 00:02
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アナと雪の女王の劇中歌がえらい流行して、やれ和訳が原詩のニュアンスと違うなんていう批判があったが、それは悪いというより優れた翻訳であるという証明だろうと思う。商業音楽というのは世につれ人につれ、時代の空気に寄り添う義務というものがあって、歌詞が翻訳されたら、そこに込められた感情も微妙に入れ替えられるべきだろうと思う。そもそも、翻訳というのはそういうものなのだろうと思う。本当に原文の意味を守ろうとすると、単語は基本的に音訳中心になり、意味の通じない部分は岩波文庫のように別途詳細な解説が必要になる。 翻訳というのは、原文のリズムを守ろうとすれば、ある程度意味を翻してやる必要がある。しかも、音楽という強力なリズムの縛りがある歌詞の翻訳ではそれがなおさら重要で、しかも映像が付くとなると、キャラクターが口を大きく開けているタイミングで「ん~」などという詩を当てることも許されなくなる。しかも商業的な成功のために、日本の文化的な背景にも寄り添う必要がある。そして、そういう難しい制約を高度に乗り越えた翻訳に成功したからこそ、あの曲はヒットしたのだろう。 そういう要素はあるとして、あの「ありのままで」のヒットには、曲そのものの要素も大きかったんじゃないかという気がしている。最近の日本のポップスはあまり大ヒットがなくなっているが、その要因の小さくない部分が、ポップスの「本格化」にあると思っていた。そして、「ありのままで」の曲構成というのが、あまり「本格的」でないという特徴があった。 25か国語で聴く "Let it go" という映像があって面白かったが、あれを聴くと、北京語バージョンが一番本格的なポップスの曲調で歌われていて、日本語版が世界一エキゾチックな発音で歌われている。そういうのが好きなネット上の人たちに kawaii とか言われていたのだが、実は「原曲」に当たる英語版そのものが、かなりエキゾチックな音で歌われているのに気付く。そもそもあの話は北欧民話を土台にしていて、それは歴史音痴で地理音痴なアメリカ市民でもさすがに理解可能なように作られている。そして、その北欧の、特にサーメの土地に根差した民族的な舞台の印象を作るのに、「アナと雪の女王」で使われる音楽も一役買っている。 『アナと雪の女王』25か国語版ミュージック・クリップ - YouTube サーメ、英語でいう Finnish の人々というのは、血統でいえばかなり純血に近いゲルマン人が多いけれども、文化的にはフン族と呼ばれたアジア出身の民族文化が残っている。言語的にも、母音が多い音節言語に近い音を使うらしい。あの映画の音楽が少しでもフィンランド風なのかどうかはあまり自信がないけれども、「アメリカ人にはそう聞こえる」ような味付けはされているだろう。そして、あの映画はミュージカル風にできている。このミュージカルというのは、アメリカのポップスとは別の先祖を持っていて、そのあたりもこのミュージカルアニメの音楽後世にある種の影響を与えているように思う。 ヨーロッパから新大陸に渡った人たちが独立戦争を起こして新国家を建設したけれども、この新しい国は旧世界に比べて文化資本的に貧しいということを、産業資本を積み上げて新しい貴族階級に至った人たちがかなり気にしている時代があって、当時ロンドンで人気のあったドヴォルザークがジャネット・サーバー夫人に招聘されてナショナル音楽院の院長に就いたのにもそういう事情があった。 そのドヴォルザークがインディアン、今でいうネイティブ・アメリカンたちや、黒人たちの音楽に目をつけ、交響曲第9番ホ短調「新世界」の中にも日本のヨナ抜きにも似たペンタトニックだとか、シンコペーション、いわゆる裏拍などを取り込んでいた。こういうのが白人ジャズの歴史にいくらか影響しているらしい。そして、ジャズの影響からちょっと距離を置いたところから、ロックが出てくる。このロックというのが、アメリカ合衆国の政治的軍事的な覇権とともに、20世紀後半世界の音楽を規定していく。 同じ時代、日本の音楽というのはどちらかというと追いつけ追い越せの文化の渦中にあって、アメリカやイギリスの音楽を日本人にも理解できる程度にやわらげて「翻訳」するのが仕事、というようなところがあった。古くは大正時代のワルツあたりからこうした「なんとなく英語っぽい発音」による楽曲というのが売れていたらしいが、大ヒットレベルになったのはサザンオールスターズあたりからなんじゃないかと思う。個人的にはあの発音が大嫌いだったが、桑田佳祐さんが紫綬褒章を受章するに至って、時代も変わったものだと思った。 そして、その流れというのはマドンナ・クローンの浜崎あゆみさんあたりを経て、アメリカ育ちの宇多田ヒカルさんのあたりで完成を見たのだと思う。ラジオから流れてくる黒人ラップはかっこいいのに、翻訳された「だよねー」を聴いて脱力した時代もあったが、最近の日本語ラップはよくこなれていて良いと思う。良いのだが、難しくなったという気はする。ラジオで聞いて、カラオケなどでおいそれと物まねできる水準のものではなくなってきたように思う。 19世紀後半から20世紀のアメリカ音楽というのは、クラシックの呪縛から英語を話すアメリカ人のための音楽を創造する戦いの歴史みたいなところがあって、アメリカ合衆国という統治システムが爛熟した現代のアメリカ音楽もまた、アメリカ英語で歌うための最適化が完成した音楽になっている。そして、ある程度国際化を果たした日本の商業音楽もまた、かなり本格的にアメリカ音楽を再現できるようになったのだが、どうもこの音楽というのが21世紀初頭の日本国民からは遠いところまで行ってしまったような気がしていた。 日本人に歌いやすい音楽というのは当然日本語の歌であり、日本語で歌を歌う以上は、子音で終わる閉音節というのは出てこない。どちらかというと、「朗々と」という形容が似合うような、長い母音を複雑な節回しで修飾しながら引っ張っていくような音楽のほうが歌いやすい。歌会始で「歌われる」和歌のように、子音はほどほどに、美しく母音を引き回すのが日本語の音楽というものになる。 ところが、長い戦後を終えて日本の商業音楽界が到達した音楽文化は、ゲルマン語族であるアメリカ英語に極度に最適化された音楽に極めて近いものになっている。そして、あまり英語が得意ではない日本の一般市民は、そのゲルマン的な音楽についていけなくなってきている。そこへ、「ありのままで」が大ヒットした。要は、歌いやすいのだろうと思う。 "Let it go" というのは、20世紀のアメリカがクラシックの呪縛を踏み越えようとする過程で生まれた、ミュージカルの音楽をベースにしてる。ミュージカルという演劇は当然オペラを源流としていて、その音楽劇を現代アメリカ風にアレンジしたものになっている。そして、アメリカがオペラを輸入した時代の旧大陸のオペラ文化というと、ヴァグナーかロッシーニか、そのあたりということになるのだろう。 ヴァグナーはドイツの人なので、それまでのオペラから少し離れたところで曲を作るようになり、弦楽合奏が細かいリズムを刻みながら和音を彩るというような新しい技法を導入したけれども、それでもこの人はベートーヴェンをひどく尊敬していて、あの歓喜の歌のような、古い時代のライン流域の歌謡もまた愛していて、比較的母音を朗々と引くタイプのメロディーに抵抗がなかったようだ。 そして、そういうオペラの源流はというと、やはりバロック時代のイタリアにある。モーツァルトはフランス風の絢爛豪華な器楽編曲とイタリア風の愉快なオペラをミックスして、ドイツ語の脚本でオペラを作曲したが、それでもまだ時代的な制約からは自由ではなくて、基本的な構成というのはゲルマン独自のものではなくてイタリア風の旋律にあった。 イタリアオペラというのは、もちろんイタリア語で歌われるもので、イタリア語というのは地中海語族の母音豊かな言語である。物語の山場では、歌手は母音を朗々と歌い上げる。悲劇でも、感情的なアリアは豊かな母音で歌われる。あの極端に技巧的なオペラの発声というのは苦手だが、それでもイタリアオペラの旋律というのは美しく感じる。その美しく感じる理由はもちろん器楽にも声楽にも合うメロディーにあると思うのだが、母音の豊かなイタリア語と、同じく5つの母音に深く依存した現代日本語の類似性にもあるような気がしている。 イタリア語と日本語の母音構成が似ている理由が、明治期の「ローマ字」の輸入にあるのか、あるいは有史以前のユーラシア文化に源流があるのか、はたまた単なる偶然なのか、そのあたりはわからない。けれども、イタリア語と日本語の音は、アメリカ英語などに比べればかなり似ていると言える。濃音や激音があり閉音節も持つ朝鮮語などより、音だけならよほど近い。ギリシア語にもこの傾向があって、古代エジプトの言語もそうした音節言語として解釈できるらしい。ポリネシアの言語ではこの母音依存の傾向はより極端になる。なので、個人的にこういう母音の豊富な言語を海洋言語と呼んでいるのだが、海上生活が母音を要請して、森林もしくは雪国での生活が子音を要請したのかという、そういう言語発生上の合理性があるのかどうかというところまではわからない。 ともかく、ヨーロッパ音楽の源流にはラテン帝国の公用語であったラテン語のなれの果てであるイタリア語があって、その影響というのは結構現代の近くにまで及んでいたのだろうと思っている。そして現代アメリカはその呪縛をほぼ完全に振り切っていているのだが、その着地点というのは、日本人にはむしろ馴染みにくい音になってしまっている。イタリア崩れくらいの音楽のほうが日本人には合っている。そこに、南欧風の明るい長調ではなくて、ケルト系やスラヴ系の短調含みの曲調が乗ると、さらに性に合うように思うが、そこまで行くとやや古臭かったり田舎くさくなったりするので、加減は難しいだろう。 そして、バルト海や北海に面したサーメの土地を主題とした、ミュージカルの系統を持つ音楽として "Let it go" は作曲された。そして、そこに臆面もなく日本語らしい歌詞が乗せられた結果、「ありのままで」は大ヒットした。まあ、この曲も細かい部分は英語に最適化した最近のリズムを持ってはいると思うけれども、その部分が古臭さを排除するのに役立っていると思うし、肝心な部分での母音の引張りを引き立てているようにも思う。歌っている人が歌舞伎役者の家系に生まれた女性というのは偶然の部分が大きいだろうが、同時に発表された「本格的」バージョンのほう(エンディング・バージョン)がそれほどヒットしていないところを見ると、この見立ても悪くないのではないかと思う。 あの大国であるアメリカはアメリカで、本質的に異国文化である歴史的な音楽文化の受容に苦労していたのだとするといくらか面白いし、そこに迎合した末に反旗を翻しているような日本のポピュラーミュージックの流れもまた面白い。世代文化というのは親世代の文化への反発と受容を一生かけてやっていくようなところがあって、その縞模様のようなものを眺めるのは、少しだけ呆れるようなところもあるけれども、まあ面白い。 #
by antonin
| 2014-12-07 17:24
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普段はクラシックを聴くことが多いが、時々ジャズも聴く。最近は小編成のも聴くようになったが、もともとはビッグバンドのスウィングを聴くことが多かった。クラシックを聴くようになったきっかけも、もともとスーパーマンやスターウォーズなんかの映画音楽を小学校低学年のころに聴いた体験が源流にあって、実はジャズもスーパーマンやスターウォーズのテーマを作曲したジョン・ウィリアムズの影響で聴きはじめたのだった。 ジョン・ウィリアムズが手勢のボストン・ポップス(ボストン・シンフォニー)を引き連れて来日公演したことがあって、民放でその様子が放映されたことがあった。その頃、確か高校生の頃だったと思うが、テレビ音声をステレオ受信できて、しかも録音できるというAiwa製の変なヘッドフォン・ステレオを使っていた。その前は三洋製を使っていたので、私が好んだメーカーは市場で滅びるというジンクスはこのころからあった。 話が逸れたが、その来日公演の放送を、なるべく電波状況の良い環境でカセットテープに録音して、しばらく聴いていた時期があった。その目玉はもちろんスターウォーズのテーマだったのだけれど、そのほかにもジャズの演奏などもあって、ベニー・グッドマンの、というよりルイ・プリマの "Sing Sing Sing" が演目に入っていた。私はもはやクラシックとしてジャズを聴くけれども、80年代当時はまだジャズを青春時代に聴いていた世代が生き残っていただろうから、まだスウィングも現役の音楽で、勢いがあった。 当時、この演奏に非常に強い衝撃を受けて、スウィング・ジャズの盤を少しずつ探すようになっていた。ボストン・ポップスの演奏は大体こんな感じで、ジャズにしては上品な感じだった。 Sing, Sing, Sing - YouTube ただ、その日の演奏では、カデンツァというのか、ドラムスのソロがとても気合の入ったアドリブを入れていて、その部分だけはベニー・グッドマンの有名な録音よりも刺激的な演奏だった。タイトルは "Sing" だが、ヴォーカルが苦手だったので、器楽曲なのも良かった。 懐かしくなってネットで音源をハシゴしていたら、こういうのが見つかった。 Louis Prima - Sing,Sing,Sing (With a Swing) - YouTube こちらはほぼ当時のままの編曲になっていて、下品すれすれのいい感じの演奏になっている。映像はどこから来ているのか知らないが、映画か何かだろうか。昔は版権が生きている音源というのは非合法のアングラ物しかなかったが、最近ではYouTubeがそのあたりを商業的に解決する手段を作ったらしく、モノによってはチャンネル登録されて公式に配信されるようになり、安心して音楽を共有できるようになった。 で、いろいろな音源を聴いていたら、やたらに音がいいのがいくつかあって驚いた。PCのライブラリに入っている曲より明らかに音がいい。最近しばらくCDの音を直接聞く手段がなくなっていていたのだが、デスクトップに光学ドライブを復活させたので、手持ちのCDを2枚ほどロスレスエンコードしてみたら、非常に音が良かった。音量を上げないと細かいところは聞き取れないが、トライアングルの高音も、ホールの残響も、けっこうよく聞こえた。 確かに耳も悪くなっているが、音楽が平板で退屈になっていた原因の大きなところは、昔にWindows Media Playerの制限で128kbpsのMP3エンコードしたっきりになっていた音楽ファイルだった。外出中に聴くにはこのくらいで十分だが、室内でヘッドフォンを掛けてしっかり聞くには、やはりロスレス音源が必要ということが分かったので、一番よく聴いている盤を20枚ほどエンコードし直してみた。 聴き比べてみると、WMAやAACに直接エンコードしたファイルはよく聞かないと差がわからなかったが、MP3エンコードしたファイルは霧が晴れたように音質が向上した。ロスレスからであれば、いまどきのエンコード方式で多少の高圧縮を掛けても、中ビットレートのMP3ほどには音質の低下はないだろう。随分ともったいないことをしていた。 というわけで喜んでエンコードしていたらほぼ徹夜になってしまった。いかん。ついでにマイノリティー・オーケストラとチャラン・ポ・ランタンもエンコードしたので、ポータブル・プレイヤーに移しておこう。 #
by antonin
| 2014-11-24 05:11
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