安敦誌


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四苦八苦

四苦八苦というのは、4と8を合わせて12種類の苦しみがある、というのではなくて、全部で八つ、うち四つは四苦の方で、残りが四つあって、合計が八苦ということらしい。

日本のお寺さんの解説などを読むと、四苦も八苦も、現代語的に言う「くるしみ」である、というような話が多い。ところが、別の人が説くように、苦しみではなく「思い通りにならないこと」というように捉えると、だいぶ感覚が変わってくる。

六根と五蘊と四苦 : 安敦誌

生老病死の四苦の方については過去にこの解釈で考えてみたが、残りの四苦、「怨憎会苦」「愛別離苦」「求不得苦」「五蘊盛苦」については、まだ「ままならぬもの」という捉え方をしてみたことがなかった。

憎いものに会うことは、苦しいが、どうしようもないことだと言われれば、なるほどと思う。愛するものと別れるのも同じ。求めるものが手に入らないのも同じ。総じてネガティブなことばかりなので「くるしみ」でも構わないような気もするが、どうしようもないことなんだ、という教えのほうが実践的には良い気もする。

最後の「五蘊盛苦」だけれども、こちらは圧倒的に「思うようにならない」の方がしっくりくる。五蘊が、人間の意識の各レベルが盛る、つまり思うようになりたい自分自身の理想像から離れて、ときに暴走するのはどうしようもないことなのだと。うまくやり過ごすしかない、と。

逆に言えば、憎いものと別れることも、愛するものと出会うことも、求めたものが手に入ることも、精神が落ち着いていい具合に働くことも、それらは全て「苦」であると言える。つまり、自分の思い通りになったというよりは、様々な偶然が重なってたまたまそうなったのだろう、というような認識も可能になる。

美味いものを食って、暖かく清潔な床で眠り、醜くない身なりをし、家族と暮らし、友と呑む。そういう幸せも、あくまで成り行き上そうなっただけのものなのだ。成り行き上偶然遭遇した不幸は苦笑いしてやり過ごすしかないが、成り行き上偶然遭遇した幸福は、とにかく「有り難い」ことなのだと思って噛みしめるといいのだろう。感謝、というのとは少し違う、「なかなか有るものではない」という不思議な感覚。

四苦八苦の裏には、思うようにならないにも関わらず手に入った、不思議な四楽八楽がある。それほど不幸な生まれではなく、それほどそれほど老いが生活を蝕むわけでもなく、それほど大病を患うでもなく、それほど早死するでもなく、それほど憎いものと出会うわけでもなく、それほど愛するものと引き裂かれるでもなく、それほど神経が昂って過ちを犯すのでもない。

人間の一生は、良くも悪くも思うようにならない。その中で、どうしたわけか幸せが得られたのならば、その幸運というのは有り難いものなのだ。酔歩の中のゆらぎに過ぎないのだ。
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by antonin | 2013-12-06 03:33 | Trackback | Comments(0)

諦めない心

もう2ヶ月ほど前になるが、ムスメとムスコ1号の通う小学校の運動会を見てきた。その中で、生徒代表の賢そうな子供たちが、「最後まで諦めずに」というような言葉を何度か発していた。そして運動会の終わりに校長先生が挨拶をし、その中にも「諦めない」というキーワードが出てきた。教育として素晴らしいものだと思いつつも、「諦める」という言葉の本来的な意味を知った今となると、ちょっと不思議な響きでもあった。

現代の国語辞典を引いてみても、「諦める」という下一段動詞には「断念する」というような意味しかない。

あきらめる【諦める】の意味 - 国語辞書 - goo辞書
[動マ下一][文]あきら・む[マ下二]もう希望や見込みがないと思ってやめる。断念する。「助からぬものと―・めている」「どしゃ降りで、外出を―・めた」


こういう意味なのだとすると、安易に断念せずに粘り強く事にあたる態度を教えるのは教育として正しいと思える。その一方で、「諦める」という言葉には仏教的な由来があって、そちらでは「真実を見極める」であるとか、「現実を受け入れる」ということが原義となっている。例によって理屈っぽい僧侶が教義をこねくり回してきた歴史もあるので、「諦める」という言葉の意味も一筋縄ではいかないのだが、基本的にはそういう意味がある。諦めた状態の対極にはどういう状態があるかというと、妄執に捕らわれた状態がある。

愛する子供に死なれた母親が、子供の死を受け入れることができず「この子はまだ生きている」と言い続け、「なんとしてもこの子の目を覚ませてみせる」と強く思い込み、日を重ねるごとに朽ちていく子供の亡骸を引きずりながら、怪しいまじない師などを呼び止めては子供を生き返らそうと懸命に努力している。こういう姿を見た周囲の人は、いたたまれないながらどうしようもないのだけれど、こういう時に仏僧が現れて、「あなたの子供の姿をよく見なさい。この子は死んでいる。この子が生き返るだろうか。冷静になって良く真実を見なさい。」と忠告する。このようなときに、人に「諦めなさい」と言う。読経とか儀式とかは、「諦める」ための手助けにすぎない。

ただ、ややもすると、まだまだ望みのあることや、当人にはどうしても達成すべき事柄などに対しても、周囲の都合や思い込みなどで「諦めなさい」などと誤った忠告が安易になされ、それを聞き入れなかった人が後になって成功し、「諦めて」いたのは周囲より本人だった、などということも多々あっただろう。僧侶が世襲制になり、発心なき出家なき僧侶が仏教の信用を落としたりもして、いつしか「諦める」という仏教用語はネガティブな意味で捉えられるようになり、それが日本語の日常用語として残っていったのだろう。

「にやける」が辞書に書かれた意味と違う意味で人々に理解されている、なんていう新聞記事が以前にあった。私自身も「にやける」は「ニヤニヤする」という意味だと思っていたので、辞書を引いて「若気る」という語と意味を知った時には驚いた。

にやける【若気る】の意味 - 国語辞書 - goo辞書
[動カ下一]《名詞「にやけ」の動詞化》
1 男が変にめかしこんだり、色っぽいようすをしたりする。「―・けたやつ」
2 《若者言葉》にやにやする。口許がゆるんで笑顔になる。「彼のことを考え、―・けてしまう」
[補説]文化庁が発表した平成23年度「国語に関する世論調査」では、「なよなよとしている」の意味で使う人が14.7パーセント、「薄笑いを浮かべている」の意味で使う人が76.5パーセントという結果が出ている。


ただこれは、「若気る」という漢字が当てられてることからも分かる通り、歴史的仮名遣いで「にやける」と書いたもので、現代仮名遣いで言えば「にゃける」と読むべき語だということがわかる。「にやけ」の項を引くとそういうことも書かれている。

にやけ【若気】の意味 - 国語辞書 - goo辞書
《古くは「にゃけ」か》
1 男が派手に着飾ったり、媚(こ)びるような態度をとったりすること。また、その人。「―男」
2 男色を売る若衆。陰間(かげま)。
「長季は宇治殿の―なり」〈古事談・二〉


もちろん、現代語で言う「にやける」と、この辞書的な「若気る」が連続的に変化してきたのだろうということは想像がつくけれども、「若気」を呉音で読むと「にゃくけ」となり、文字の普及が低かった中世風に音便化すると「にゃっけ」となる。それを音写で「にやけ」と書いたものが、後になって文字通りに「にやけ」と読まれるようになったのだろう。

百日紅 (下) (ちくま文庫)

杉浦 日向子 / 筑摩書房



杉浦日向子さんの作品にもそういう男娼が出てくる一幕があり、その上客は仏僧であった。本来は、激しすぎる恋をして、そしてそれに破れて、もう女を見るのも嫌になった男がそれを実現する環境を求めて入るのが僧坊だったのだけれど、いつしか僧が妻帯するようになり、生まれた子供は恋に破れる前に女犯の戒律を与えられるという事になった。ひどくむごたらしいことだと思う。世間のしがらみから逃れるための場だった寺院が、しがらみそのものとして僧侶の子を襲う。そのしがらみの代償として幕府から特権が与えられ、その既得権を守るため、本来僧坊を必要としていた夢破れた人達が寺院から追い出されるようになる。そして「家業」を継ぎ既得権を得た僧侶は世間から求められる女犯の戒律を守るために「にやけ」を買うようになる。むごたらしいことだと思う。

話が逸れたが、ともかく、古い語義と現代人の理解が大きく食い違う場合、それを「現代人の誤り」とは言いたくない。あくまで、語義が変遷したに過ぎないのだと思いたい。ただ、古い語義を知って言葉を聞くと、ときどき奇妙に聞こえることがある。「最後まで諦めない」というのもその類だった。教育を与え、真実を見ぬく能力を子供に与えようとする学校という場で、「最後まで諦めない」というのがスローガンになる。それを「最後まで真実を受け入れない」と聞いてしまうと、奇妙な気分になる。もちろんそんな意味ではないのだけれど。

「諦めたら、そこで試合終了ですよ」とかなんとか、そういう有名な言葉があるが、それは試合が終了していない時点での話だ。試合が終了し、相手チームも審判もいなくなったコートで、負けを認めたくないためにいつまでもシュートを続ける生徒たちがいたら、「諦めなさい、もう試合終了ですよ」と言わざるを得ず、こちらのほうが原義になる。試合中であれば、点差をつけられて、もう何をやっても無駄だという無力感に襲われた状態が妄執に囚われた無明の状態であり、「試合終了までは逆転の可能性が残っているし、そこまでベストを尽くせば次につながる」という事実に気づくことが、むしろ「諦める」ということになる。

ただ、そうは言っても、人間は自分自身の感覚をそう簡単にコントロールできない。「気の持ちよう」の一言で片付けられる人というのは、自分の感覚を自分の理性でコントロールできるだけの特質を、先天的あるいは後天的に獲得している人だろう。あるいは、良い意味で鈍い感覚を持っていて、理性による積極的なコントロールを必要としていない人だろう。「マインドコントロール」というと、オウムの一件以来悪い印象しかないが、いかに自分自身のマインドを正しくコントロールするかというのは、人類が理性を持って以来、永遠のテーマでもある。

「絶対に諦めない」と、事あるごとに人前で明言するのも、そうしたコントロール手法の一つだし、念仏とかの祈りの各種も、だいたいそういうものと理解できる。密教の場合、コントロールしたいマインドの内容が「なんとかなるさ」だったら観音菩薩、「笑って済まそう」だったら地蔵菩薩、「全て燃やして忘れてしまえ」だったら不動明王、「なんだか知らないけど幸せ」だったら大日如来を思い浮かべることになっている。思い浮かべるための呼び水として、仏像とか、真言とか、印を結ぶとか、香を焚くとか、そういう身体的な刺激を使うとより効果的としている。

努力云々で為末さんがチクチクやられていたけれども、現代人の唱える「努力」と、かつての仏教徒が唱えた「信心」はよく似ている。成果が出た人は「努力のおかげ」だと信じているし、成果が出ていない人は「まだ努力が足りない」と信じている。このあたり、「努力」を「信心」に置き換えても、それほど違和感がない。そして、努力も信心も人間というシステムのパフォーマンスを向上させるために一定のプラス効果はあるが、それでもダメな場合というのは何か物理的あるいは構造的な問題があり、そちらの方を改善するしか無い。

努力一本槍の人々の厄介なところは、努力を奨励することではなく、全ての要因を努力で説明しようとする単調さだろう。これも「努力」を「信心」に置き換えてみるとよく分かる。同じく精神論や宗教を毛嫌いする人々の厄介さも似たようなものであり、物理的あるいは構造的な調整で全てが解決できると信じる単調さだろう。実際には、両方の効果が乗算で利いてくる。

修羅場を迎えた時には、諦めない気力がものを言うだろう。ただ、一息ついたら、ちょっと冷静になって、そもそもなぜ修羅場に陥ったのかを「諦めて」みるのもいいだろう。といって、それが言うほど簡単ではないというところにヒトという種の難しさがあるのだけれど。
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by antonin | 2013-11-11 02:00 | Trackback | Comments(0)

精神傷害

思い当たる節はある。

名指しされていないので、思い当たるというよりは思い上がっているだけなのかもしれないが、つい人を殴ってしまったような、そういう感触はある。

思えば、物については一度も断捨離みたいなことをしてこなかったが、人間関係については、定期的に断捨離をして身軽に生きてきた。

それでも今はまだ新しい出会いのようなものがいくらでもあってなんとかなるのだけど、きっと自分は良い死に方はしないだろうという予見は持っている。

地蔵は無限の慈悲を持っているが、あれは人間ではない。お釈迦さんでさえ、存命中は弟子の不品行に怒ったりしている。

人の悪というのは大部分がその弱さに根ざしていて、ああ、強くなりたい、と思う。


我昔所造諸悪業 皆由無始貪瞋癡
従身語意之所生 一切我今皆懺悔

のうまくしっちりやじびきゃなん
さらばたたぎゃたなん
あんびらじびらじまかしゃきゃらばじり
さたさたさらていさらていたらいたらい
びだまにさんばじゃにたらまちしったぎりや
たらんそわか
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by antonin | 2013-05-23 00:42 | Trackback | Comments(0)

六根と五蘊と四苦

寝る前に、ちょっと図を引いてみた。

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般若心経を読んで、だいたい意味がわかるのだけれど、六根の六番目、つまり「眼耳鼻舌身意」とか「色声香味触法」とか言うときの、最後の「意」とか「法」ってなんだ、ってのがわからない。ネット上のお手軽な解説を読むと、現代的な感覚で言うところの「五感」プラス「思う、考える」なんだというが、考えるところも含めた人間の精神的な構成というのは「色受想行識」の五蘊で表されていて、六根の方に入っている「意」が、「想行識」あたりで考察される、今で言うところの意識、思考と同水準ということにされてしまうと、六根というものの扱いがよくわからなくなる。

五感というのは、具体的なセンシング・デバイスである目とか耳とかがわかりやすいので現代人にも把握しやすいが、その5種のデバイスが人間の感覚器の全てかというと、そうでもない。五感では取りこぼす感覚というのもあって、昔の思想家はそれを「意」と訳される単語で呼んだのだろう。それも、オカルト的な「第六感」などではなくて、もっと現実的なものだったのではないかと思う。

たとえば、しばらく息を止めていると、息苦しくなる。息苦しいというのは明らかに身体的な感覚なのだけれど、触覚とは異なるし、もちろん視覚や聴覚、嗅覚、味覚などとも違う。この感覚はなんと呼んだらいいのだろう。熱せられた鉄板を触ったりすると皮膚感覚として熱いのだが、寒くもない所で厚着をしていると、次第に暑くてたまらなくなる。「熱い」というのは触覚のバリエーションだが、「暑い」というのは五感の範疇から漏れる。遊園地の乗り物で急降下したときに、胃が浮き上がって気持ち悪い感覚も、歩き疲れて足が張る感覚も、明らかに身体的感覚ではあるものの、五感とは言いがたい。

こういうことは、古代の人にとっても明瞭に分析できただろう。この、五感とは言いがたいが、しかし明らかに肉体的な感覚を、ひっくるめて「意」と呼んだのではないか。その「意」がセンシングする対象は気温とか二酸化炭素濃度だったりするわけだが、そういう物理量一般を指して「法」と呼んでいたのではないか。つまり、法とは自然界を記述する真理、つまり物理であり、その情報の一部は身体的に感受することができる。六根とはそういうことを言っているのではないのか。法則とは、「法律と規則」という意味だけではなく、「自然界の物理に則り」という意味合いも、古い時代には持っていたのではないか。そんなことを思った。

般若心経に現れる「色」という語はいろいろと多相的な使われ方をしている。ひとつは一番具体的で簡単な意味で、これは「眼」がセンシングする対象一般、つまり光学的に把握可能な情報を指している。実際の色は光学的情報の一部でしかなく、視覚情報には輝度や形状情報などいろいろと含まれているのだけれど、「眼」が受容可能な、視覚が捉えることのできる情報一般を代表する名称として「色」が使われている。この、似たようなもの一般を代表するという使い方で「色」はもっといろいろな使われ方をする。

まず「無色声香味触法」ということが説かれて、意も含めた六根の区別は実はないのだ、とされる。これ以降、六根で感知可能な物理的実体の全体を「色」という語が代表するようになる。そして人間を構成する五蘊が出てくるのだけれど、五蘊のうち最初のものも「色」となっている。目も、耳も鼻も舌も皮膚も、それ自体が物体であり、目で見たり手で触ったりできる。「意」はどうかよくわからないけれども。とにかく、人間の意識を構成する一番低レベルのデバイスというのは六根に示されるセンサー、解剖学的に言うと「感覚器」なのだけれど、人間の意識を構成する部分のうち、一番物質的な部分もまた「色」と呼ばれる。

視覚が感知する対象としての「色」、外部に存在する物体の総称としての「色」、人間の神経系を構成する最下層の活動としての「色」というのがある。

感覚器が「色」だとすると、「受」というのは感覚器から大脳に入ってきた神経刺激が最初に引き起こす反応なのだろう。例えば、車を運転していて、視野の隅に何か動くものが見える、という段階が「受」なのだろう。すると、それを見て、なんだか分からないがブレーキを踏んでハンドルも少し切る。これが「行」だろう。受から来た情報で行動が決定されるには、幾らかの情報統合が必要になる。次に、それが子供だったのか猫だったのか、あるいは単なる反射光が動いていただけなのかという具体的な認識ができる「想」の段階がやってくる。そして車を路肩に駐めると、さて引き返して様子を見に行くべきなのか、車体の様子を点検すべきなのか、あるいは仕事の待ち合わせに急ぐべきなのかという高度な知的活動が始まるが、これが「識」というやつなのではないか。

車の運転中の思考で例えてしまったのでどれも非常に動物的で低水準な感じになってしまったが、古代の仏教者が考えていたのはもっと高水準での分類だったかもしれない。ただ、漢訳された字面からは、なんとなくそんな読み方ができる。「想」と「識」は逆のような気もするが。びっくりしたとかあぶねぇなコノヤローという感情が「想」で、自分に落ち度はなかったかと反省できる理性が「識」なのかもしれない。

ここまでは、あの般若心経の短い文面から考えた妄想なのだけれど、膨大な仏典のどこか適切な箇所を読めば、古代の仏教者がどんなことを考えていたのかという話がもっと詳細に書かれていて、私の推論がどの程度正しいのかを判断できるのだろう。しかし仏典はあまりにも膨大だし、日本における仏典というのは、読んで考える顕教というよりは、真言とあまり差のない呪文としての意味合いが強く、仏典の内容を哲学的に掘り下げるという行為は、一部の学者さんを除いて、あまり一般的ではない。

どこかに必ず、答えとは言わずとも、ヒントくらいはあるに違いないのだが、探すのが億劫で妄想ばかりが続く。玄奘三蔵法師は、大般若経を漢訳したら、程なく死んでしまったという。そういうものを趣味的に読み進めても、生きているうちに求める情報にたどり着く気がしない。

「空」というのも、"information" 、現代的に言うと「情報」なのだが、語源に立ち返れば「形を成さぬもの」というのを指しているように読める。formation とは形を作ることで、そこに否定の in- が付いている。壺には実体があるが、壺の中の空間はどうか。確かに認識可能な対象ではあるのだが、何かが存在するのかというと、何も存在しない。そういうものが空なのだという。そうなると空とは色の対立概念なのだけれど、よくよく考えれば、その両者が実は同じものなのだと、般若心経は述べているのではないか。

この解釈が正しいのか間違っているのか、原典に当たればきっとわかってくるとは思うのだけれど、どのあたりを突けばよいのか、原典が膨大すぎて、しかも国内ではかなりアクロバティックな解釈が「定説」として定着していたりして、日本語の情報だけを読んでいても、そういう解釈越しに漢訳の和訳で教典を読むことになってしまって、さらに理解が難しくなる。かといって、漢訳教典をすらすら読めるわけがなく、サンスクリット語やパーリ語では完全にお手上げだ。

他にも、四苦八苦の四苦、生老病死も、「生」がなんで「老病死」と並ぶ苦なんだと疑問だったが、「苦」とは現代日本語で言う「くるしみ」ではなくて、「ままならぬもの」「思い通りならないこと」を指しているのだという解釈があった。だとすると、自分の生まれほど自由にならないものはないわけで、四苦の最初に来るのもうなづける。

なぜ、私は私として生まれたのか。なぜ、この時代の、この国の、この町の、この家の、この両親のもとに、この体で、この顔で、この性格で、この私というものに私は生まれてきたのか。なぜ、私はこの現に存在する他でもない私として生まれなくてはならなかったのか。おそらく合理的な理由などなくて、偶然なのだろうが、不思議でもある。確かにこれほど本人の努力や意思が反映されないものもない。生まれは常に過去のものであって、物心付く前に全てが完了しているものでもあるので、当然ままならないものにならざるをえない。

似たように、老いるのを遅らせた人はあっても、防げた人はいない。病を遠ざける健康法があったとしても、すべての病から逃れた人もいない。死もまた、それを逃れた人というのを聞かない。苦諦とはつまり、人生の全ては苦しみだ、という投げやりな感覚ではなく、人生も世の中も、何かとままならないことばかりだと理解することなのだな、とわかる。

なるほど、とはおもうのだが、果たしてこの解釈でいいのだろうか。「苦」をサンスクリットではドゥーカとかドゥフクハとか言って、直訳すると「悪い力」だとか「悪い定め」という感じになるらしいという情報はある。だとすれば、あまり外れてはいない感じがするが、まだ確信は持てない。もう少し情報がほしい。

空や色や苦の本当の意味が納得できたとして、それが現実的な生活の役に立つのかと言えば、役に立たないような気はする。が、なんとなく知っておきたいような欲はある。面倒くさがりでもあるので、このあたりの調べ物は長い仕事になりそうだ。
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by antonin | 2013-05-17 01:50 | Trackback | Comments(0)

ドラえもん観音説

藤子 F. 不二雄の藤本さんが、のび太とは誰にでもある悪い部分を強調した存在で、ドラえもんは周囲の誰かが差し伸べてくれる救いの手を象徴した存在だと語っていた、なんて話が流れてきた。その説話の真偽は別として、そういう解釈は面白いな、と思った。

観音経にも似たようなことが書かれている。人生には思い通りにならないことがあふれている。個人の力ではどうにもならない悪いことも起こる。そういうとき、観音様が坊さんや金持ち長者や普通の男女など、人間の姿となってあなたの前に現れて、きっと助けてくれる。だから希望を持ちなさい。そういうことが観音経には書かれている。

千手観音様は、その千本の手にいろいろな道具を握っている。そういう道具を作り出しているのは人間の手なのだが、そういう道具がいざというときに人間を助けてくれる。道具を通じて間接的に、人が人を救う。その、人が人を救う優しさを擬人化したものが観音菩薩であり、その中でも道具を通じて人を救ってくれるのが千手観音様だということになっている。

社会でつらい目にあって、家に帰ってから音楽を再生して心が癒されたり、twitterで些細なコメントに励まされたりした時、それは現代的な千手観音様のご利益ということになる。秘密道具を出してのび太を助けてくれるドラえもんと、千手観音の位置づけというのは、実は似ているのかもしれない。

あなたに危害を加えようとする奴が現れて、火が盛る穴に落とされそうになっても、彼の観音力を念ずれば、火の穴が池に変わるでしょう。そんなわけないじゃん。まあそうなんだけど、ピンチのときにもバカみたいに信じてニコニコしていれば、案外誰かが助けてくれたりもする。誰にもできそうもない難しいことであっても、ひょいと解決できる人が、社会には意外と潜んでいる。そして、誰しも観音菩薩の化身になって困っている誰かを助けてあげる事ができる。

と、いろいろ述べるよりも、観音力を念じていつも余裕綽々として暮らすほうが先なわけで、そこは不言実行と行きたいところなのだけれど、なかなか思うようにはならない。自分の一生では足りないかもしれなくて、子供や孫がそういう余裕を持った人に育ってくれればいいかな、とも思う。これは弘法大師さんの説く即身成仏、自分が仏教を理解すれば自分が救われるというものではなくて、輪廻待ちみたいな発想になってしまうのだけれど、それはそれでもいいのかなと思う。

空っぽの樽ほど高く鳴る。確かにそうなんだけど、空っぽであることを恥じて樽を隠せば、樽はいつまでも空っぽだ。恥ずかしいけれども、大きな音を立てながら中身を充填していったほうがいいのだろう。

最近、WiMAXルータがなくなった。しばらく探したが出てこない。メールで問い合わせると解約するしかないという。残念。と思って解約手続きの電話を掛けたら、なんだかキャンペーン中で、新しいルータと「交換」してくれるんだそうだ。前のは返却不要であるとのこと。ありがたや、ありがたや。

おんばざらだらまきりく
おんばざらだらまきりく
おんばざらだらまきりく

おんあろりきゃそわか

南無大師遍照金剛
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by antonin | 2013-05-02 17:16 | Trackback | Comments(0)

一切衆生悉有仏性

あるビジネスマンが新人を指導する。ある新人は飲み込みが早く、半年ですっかり一人前になり、優れたビジネスセンスを発揮している。また別の新人は勘が悪く、何度同じようなことを指導しても、相変わらず微妙に的を外した仕事をして、顧客にも同僚にも面倒をかける。さて、この二人の違いとは何なのだろうか。指導の方法に善し悪し、あるいは相性の問題があるだけで、ふたりとも個性が異なるものの優秀なビジネスマンになる素質に差はないのだろうか。あるいは、どうやってもダメで、死ななきゃ治らないようなダメ人間というのも存在するのだろうか。

現代日本に住む私たちは経済原理を至上としていて、その推進組織である会社だの役所だのに努めて、経済にどれだけ貢献する能力を身に付けるかということをとても切実に感じている。だから前段の例えはわかりやすいだろう。かつてあった仏教教団においても似たような状況があって、生きることに苦しむ人々の苦しみを和らげる仏教というものを至上としていて、その能力によって信者からお布施をもらって日々の糧としている集団に属した人々にとっては、どうにも仏教が伝わらない人に対して、これはどうにかすれば教えを悟らせることができるのか、あるいはどうやっても伝わらない人というのが一定数存在するのかというのは、かなり切実な問題だったのだろう。

で、ある切れ者の僧侶はこう言っただろう。悟りを得るには仏性のような潜在的なものが必要で、それを持たない人にどれほど教えを授けても無駄だと。だが、長老部から離反して大乗思想を掲げるようになった部派としては、そういう潜在的不可能性を認める考えは部派の基本思想に反することで気持ちが悪い。経験的には理解できるけれども、それを認めてしまうことは自分たちの基本思想を否定することにもなりかねないし、実務的に見ても、本当は素質のある入門者を誤って門前払いにしてしまうというミスに繋がるかもしれない。

そこで、一切衆生悉有仏性、つまり仏教を理解して苦しみを緩和できる可能性をあらゆる人が潜在的に持っているものととりあえず仮定して、まずは指導してみましょうというルールを作ったのだろう。それが日本に渡る頃になると、密教の影響だとか在来信仰との混淆だとかの影響で仏性を巡る議論が複雑になったのだろうけれど、元を辿ればそれほど面倒な話ではなかったはずだと思っている。答えを求めると難しい問題ではあるが、問題そのものは比較的はっきりとしていたんだろうという意味で。

この悉有仏性の問題は、形を変えて現代にも通じているような気がする。人は誰しも等しく潜在能力を持っていて、現れる能力の高い低いは、全てその人の努力に原因を見出すことができる。福沢諭吉さんが「学問のすすめ」で言っているのも似たようなことであって、現実の生活における格差の原因を、人々の素質より学問のあるなしに原因があるのだから、皆学問をしましょう、と説いた。あの人が本当に人間の潜在的な平等性を信じていたのかはちょっと疑わしいけれども、現実の生活格差ほどには人間の素質に格差はないと信じてはいただろう。

こういう考え方があって、一見どうしようもない無能と見える人であっても、根気強く教育していけばいずれは花開くと信じて、人を指導していく。これが明治以降の日本の教育の骨格になっていく。仏教的な悟りを目標としていないだけであって、基本的な考え方の骨格は悉有仏性と似た構造を持っている。ただこの構造が一方的に良いものかというと、そうとも思わない。

すべての人が能力を発揮する素地を持っているとすると、ある仕事について能力の低い人は、単に知識や努力が足りないだけということになる。となると、ある環境で能力を発揮できない人は、もっと努力しろと逃げ場のない叱咤を受けることになる。が、そもそも潜在的に向いていない人がいるという可能性を認めるとするならば、早い段階で教育から放り出すことができる。そうして放り出されることで、その人の潜在能力に見合った環境に出会う偶然に恵まれるかもしれない。全ての人に可能性を認めることが、ある種の人の可能性を潰す原因になりうる。

このあたりの議論は、仏教が盛んだった昔も、ビジネスが盛んな現代にあっても、だいたい似たような論点の周りを巡っているように見えて面白い。寺が合う人と、軍隊が合う人というのは、直感では先天的に相容れないような感覚もあるが、科学的な分析が進むと、きっと異なる解釈が出てくるというような予感もある。このあたりは難しいなと思う。

お釈迦さん自らが教団を率いていた頃のことを伝えるとされる教典を読むと、どうもその教えはあまり特別優れたものには見えない。もちろん優れたところは多々あるのだけれど、後世に加筆され洗練されていく仏教に比べると、原始仏教というのはいくらか凡庸な教えに見える。それでも仏教が教祖の死とともに散逸しないで伝わった理由というのは、結局のところお釈迦さんの出自によるものという気がしている。

お釈迦さんは精神的に繊細で、地方豪族の王子としての奢侈な生活を自分だけが送ることに耐えられなくなり家出をして放浪するのだけれど、自分の悩みを解決したあとにそれを教え伝えるための教団を持つようになると、徐々に大規模化していく教団を適切に運営できる能力が必要になる。繊細な精神によって人間の機微に触れる人というのは、普通こういう大きな団体の運営能力を持たない。ところがお釈迦さんは王子時代にそれなりの帝王教育を受けているので、その能力が教団運営に遺憾なく発揮されているように見える。そして秩序だった組織と多くの信者を遺すことによって、お釈迦さんの教えは後代に伝わっていく。

一介の仏教徒として、仏教が広まった理由がその教えが優れているからではなくて、教団運営がうまかったらだと言ってしまうのはいかがなものかと思うけれども、私は仏教徒である以前にダーウィニストでもあるので、そういう解釈をしたくなる。そういう目で見ればムハンマドさんだって教団を開く以前はやり手の経営者として貿易業を営んでいたのだし、イエスさんも、彼は比較的純真な宗教者に近いとはいえ、それでも10人を超える弟子と共に暮らしていたというから、ある程度のリーダーシップは持っていたのだろう。

受け入れる人のすべてに潜在的な可能性を認めるのは組織運営の基本だとは思うけれども、それを原理原則としてあまりに堅固なものにしてしまうと、それはそれで不都合も生じるのだろう。安易に諦めないことは良い効果をもたらすが、何があっても絶対に諦めないというのは、奇跡的な成功を生み出す効果がある一方で、現実を直視しないことによる悲惨な結末も招きやすい。「諦める」というのは本来は「真実を受け入れる」ということなのだけれども、人間の感情というのはある程度真実を隠蔽したほうが高いパフォーマンスを発揮することがあって、いろいろと厄介だなと思う。
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by antonin | 2013-04-07 13:20 | Trackback | Comments(0)

空論

昼間はプロセッサ周りの遊びばかり考えているが、夜になって落ち着いてみると、仏教周りの概念について考えたりしている。このあたりも興味深いことがたくさんあるのだけれど、まだまとまった文章にできるほど煮詰まっていない。そのうち「空」という文字で伝えられている概念が、情報というものに対応しているように読めるので、このあたりを詰めていくと面白いのではないかと思っている。

1という数字はただのデータだけれども、0x1000000 と書いたときの1というのは、符号なし32bit整数のbit-28が1であり、bit-29からbit-31がゼロであるという情報を持っている。あるいは、「バッファの中身が空でない」という意味を持つフラグであるかもしれないし、あるピクセルのアルファ値が50%を超えているという意味かもしれないし、1円玉が1枚という意味かもしれない。

こういう文脈では、解釈を伴ったデータのことを情報と定義する。レントゲン写真はただのデータだが、その濃淡を読み取って肺癌の疑いがあるという解釈を伴うと、それは検査エビデンスという情報になる。そういう情報は、生化学検査の実施指示であるとか、手術手配であるとかという、判断と行動の原因となることができる。空とは、データと解釈が一体となって、別のデータの変化を誘発するような情報、と考えることができる。そうすると、私達が実体とか実在とか物質などと呼んでいるものも、実は空であると言える。

炭素原子が窒素や酸素ではなく炭素の原子であると言える根拠というのは、原子核に+12eの電荷があり、そのまわりに12個の電子が局在した時に電気的に中性になり、原子構造が安定するというところにある。なぜ質量ではなく陽子数が原子番号であって原子の種類を区別する基準になっているかというと、原子核に電子が取り巻いて原子を構成するとき、パウリの排他律に従うフェルミオンである電子は同一原子核を共有する電子数に依存する電子雲の構造を形成する。その構造に原子核の質量はほとんど影響を与えないが、原子核の電荷は支配的な影響を与える。

そしてなぜ電子雲の構造が人間にとって重要かというと、太陽表面のようなプラズマでも中性子星のような核子化合物でもなく、原子かイオンで構成される物質が安定に存在する地上環境下に生きているために、そういう原子やイオンの化学的性質を決定する電子雲の性質が、物質の実際上の性質の大部分を決定するというところにある。

化学結合は最外核電子の形状に強く依存しており、地上の低エネルギー環境では大部分の電子が基底準位にいるから、最外殻電子の形状による化学反応の性質を決定しているのは間接的に原子核の陽子数ということになる。もしも、化学結合が滅多に起こらず、原子質量の影響のほうが支配的な環境に人間が生きていたら、原子種別は陽子数だけに依存する原子番号ではなく、中性子数にも左右される質量数によって区別していただろう。

そういう意味で、物質ですらその性質という情報によって人間と相互作用しており、むしろそういう、人間の意識と相互作用できる情報を有しているからこそ、その情報の性質によって物質として認識可能になっている。本当は一つひとつの原子に宇宙全体の物質構造に相当する複雑な内部構造と個性があるかもしれないのだが、そういうデータの大部分は人間と相互作用可能な情報として解釈されず読み捨てられているために、存在しないかのように扱われているだけなのかもしれない。

解釈が定まることで別のデータと相互作用が可能になったデータを情報とすると、そういう解釈、あるいは関係性、もっと簡単に言ってしまえば情報そのものを指すのが「空」であると言えるのではないか。そうすることで、歯切れの悪かった般若心経の解釈なども比較的すんなりと腑に落ちる。存在を存在であると認識できるのはそれが情報だからであり、情報があればその存在を認めることができる。存在とはすなわち情報であり、情報とはすなわち存在である。これが、自己流の「色即是空空即是色」の解釈になる。

こんな即物的な解釈を、古い時代の仏教者が本当に考えていたのか謎だが、ギリシャ系の血が混ざったインドのバラモン階級はこういう哲学的思考が大好きで、特別な観測装置を使わないでも認識可能な人間と物質の問題については、古代であっても十分に可能だったと考えられる。一般の信者は別として、研究職にあった高位の部派仏教僧は結構ドライなものの考え方もしていたらしいから、こういう解釈ができないこともないのだろうと思う。

「無色声香味触法」と言ったとき、色も声も香りも味も感触も性状もない、と訳すけれども、それは存在しないという意味の「無い」ではなくて、「男も女もない」と言う場合と同じ、区別がないという意味なのだろうと思う。人間が知覚可能な存在を一般に「情報」と呼べば、視覚情報も聴覚情報も嗅覚情報も触覚情報も他の感覚情報も、全て情報というくくりで一元化できて、そこにあえて区別を残す必要もなくなる。

それが「度一切苦厄」、つまりどんな人間的な苦しみもコントロールできるようになるという仏教の根本テーマにつながるところまではまだ解釈が進んでいないけれども、昔の賢い人の話を楽しむには良い取っ掛かりがつかめるレベルになってきたのではないかと思う。

「色」という語の用法に3種類あるとか、「意」と「法」ってなんだ、とか、五蘊のそれぞれがなんだとか、そういうところにも自己流解釈があるが、頭が痛くなってきたので今日はここまで。
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by antonin | 2012-11-05 04:00 | Trackback | Comments(0)

人間不信

今日もBFのライブラリ拡張について、休み休み考えていた。が、続編を書くのはちょっと先送りして、雑感を。

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ある時期から、私は人間を信用しなくなった。立派な人もいれば、しょーもない人もいる。好ましい人もいれば、憎ったらしい人もいる。けれども、よくよく見れば、どれも私と大して変わらない、一人の人間でしかない。だから、人間を信用しなくなった。他人に夢を見なくなった、ということでもいいかもしれない。根っこには、自分自身に対する完全な不信がある。

立派な人はいるが、私が見ているその人の言動というのは外を向いたものであって、内面ではきっと色々と無理をしているに違いない。だから、立派だとは思いつつも、その裏にある人間の弱さを慮って、その人の立派さを信用しない。憎らしい人はいるが、私が見ているその人の言動というのは外を向いたものであって、内面ではきっと色々と悲しみを湛えているに違いない。だから、憎らしいとは思いつつも、その裏にある人間の弱さを慮って、その人の憎らしさを信用しない。

突き詰めて考えてみると、この世の他に地獄などなくて、この世こそが地獄である。うん、まあ、そうなんだろう。でもそういう結論が出る理由の半分くらいはこの世の抱える陰惨さにあるのだけれど、残りの半分くらいは「突き詰めて考える」という行為に理由があって、要するに極論なのだろうと思う。現実というのは複雑で、その複雑さを振り払いながら一方向に突き詰めて考えると、その突き詰めて考える方向に応じて、色々な結論を導き出すことができる。

ただ、極論というのは分析的推論結果でもあって、単独では危なっかしい存在だけれども、互いに矛盾するようなものも含めて、色々な極論を併せて知っているというのは、複雑な現実に対する見方に幅を与える。色眼鏡で世の中を見るのは具合が悪いが、一度も色眼鏡をかけて世の中を見たことがないというのも、同様に具合が悪い。

この世の中について、あるいはあの世について、賢い人が色々考えて色々なことを言うのだけれども、それで統一的な合意を見る機会というのは少なくて、いつも侃々諤々の議論が続く。これはどういうことだろう、果たして世の中には疑い得ないほど確かな真実というものがあるのだろうか。少しでも疑える余地のあるものは一度全て取り払い、それでも残った疑い得ないものだけを信じてみたらいいんじゃないか。若い日のデカルトさんはそういうことを考えたという。

で、彼には実際にそれをやってみる機会があったのだが、彼の懐疑主義は破壊力が強すぎて、ありとあらゆる主張は「疑い得る」と判定されて、打ち砕かれてしまった。最後に残ったのは、疑っている主体自身は疑い得ないという、不完全性定理と同じ自己言及の壁に守られた主張だけだった。「考えている、ということはつまり、(正体はなんだかわからないけど、ともかくその主体が)ある」という、あまりにシンプルで使い道のない結論だった。

そこまで到達して、世の中には何も信じられるものなどないんだ、常識など全部嘘っぱちだ、などと投げやりにならないあたりがデカルトさんのスマートなところで、この極論から現実論へ戻ってくる過程が非常に美しい。疑い得ないものから美しい世界の真実が得られると思っていたが、懐疑主義ではほとんど結論らしい結論は得られなかった。それでも何らかの主張を受け入れなければ現実世界を生きていけない。疑い得ないものがないのだったら、どれでも自分の好きな主張を選んで、あたかもそれを信じて生きているように振る舞っていけばいいじゃないか、というところに着地していく。

デカルトさん個人について言えば、当時彼が属していたフランス王室界隈の社交界で、彼が属していると感じていたグループ、つまり知的で穏健な人々が共有していた常識を、自分の常識として受け入れよう、自身の判断で受け入れた以上は一貫性を持とう、という選択をした。具体的には、善悪の基準も、カトリック世界の説く信仰についても、穏便なる社交界の人々が持つ常識の範囲内で受け入れることにした。

別の社会階層や、別の土地の社会や、別の時代の社会で、それぞれに語られる常識が、それぞれに正しい面があって、ひとつの常識だけが完全無欠に正しいということは懐疑論に依って否定されたのだけれど、ほとんど全ての主張は等しく否定されたのだから、その中の一つを選びとることにも何ら問題がない。だったら、自分が生きている世界の常識を自分自身の選択によって受け入れよう。そういう結論だった。

極論というのはこういう具合で、結論が極端であればあるほど、現実世界に跳ね返ってくる結論というのは、拍子抜けするほど穏便なものになることがある。私の人間不信も同じようなところがあって、世間で立派だと言われている人間の立派さや、世間で悪人だと言われている人間の凶悪も、さほど信用していない。他人が見せる好意や悪意なども、同じように信用していない。良きにつけ悪しきにつけ、人間の程度などたかが知れているだろう。そしてそこにまず例外などないだろう。そういう意味合いで、人間など信用していない。

だから、「あのような人を見習って精進しよう」だとか、「あんな奴を野放しにしていいはずがない」というような熱い意見には、まあそうかもしれませんね、というような冷めた感想を持つことになる。しかし、冷めた人が覚めた人であり、熱い人より真実に近い、というようなことも思わない。熱くないと動かせないことだってある。いろいろあっていいんじゃないだろうか。
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by antonin | 2012-08-06 20:47 | Trackback | Comments(2)

アカシックレコード云々

どういう経路か知らないけれども、アカシックレコードが俺にささやくとかなんとか、そういう言い回しを目にする機会が増えた。調べてみると、どうもアメリカあたりで流行したオカルト分野の用語らしい。ネット界隈に流れてきたのは、マンガで取り上げられたとかそういう経緯があるんだろうか。

アカシックレコードの意味するところは普通の決定論や運命論とあまり変わらないもので、特徴があるとすると、その決定した運命(前世や来世を含む)を読み出すようなアクセスが可能であるというあたりになる。そしてそういう運命が読み取れるなら興味ありますよね、という心理を突いてくるものらしい。

アカシックレコードを説く人達の論理にはまだ理解が及ばないのだけれども、アカシック(Akashic)というのはインドあたりに源流を持つ単語で、この単語は密教を通じて東回りですでに日本に入っていた。若い頃の弘法大師空海の有名なエピソードに、万巻の経典を記憶し尽くせるという虚空蔵求聞持法の修法を成就した、というのがある。そこで百万遍唱える真言というのが「のうぼう あかしゃ きゃらばや おん ありきゃ まりぼり そわか」というものなのだけれども、この「あかしゃ」の部分が虚空蔵菩薩の「虚空蔵」を述べている部分で、つまりは"Akashic"と語源を共有しているらしい。

虚空蔵求聞持法を成就すると無限の記憶力を得て膨大な経典全てを知り尽くすことができるということになっている。その根本のところには現世を含めた三世の全ての事実記録があるというインド思想の解釈があって、それを人格化したのがアカーシャで、さらにそれを仏教に引き込んだのが虚空蔵菩薩であるという流れがあるらしい。そして真理であるところの仏説は全てそこに記されているはずだ、という理屈になる。そしてアカーシャの記録というのを英語で書くと、Akashic recordとなるらしい。


ある程度年齢を重ねてからの空海という人は、ときおり激情が垣間見えるものの、かなり理性的な知識人のように見える。けれども若い頃にはやはり情熱的な宗教人としての性格も強くて、その頃の空海がどのような感覚で出世街道を捨てて、真言百万遍という苦行をしていたのかというのが理解しにくかった。ところが千年以上遅れて西回りで日本に到達した虚空蔵信仰、つまりアカシックレコードをめぐるオカルト的な言説を読むと、空海当時の密教が持っていた、理性的な宗学を超えたところにある信仰心の生々しさのようなものが感じられるような気がする。

こういうオカルト的なものに対して、哲学的な概念と見るのか、あるいは生活レベルの事象が関連付けられる現実的対象と見るのかは、ほとんど習慣的な違いでしかないというような気がするが、空海が持ち込んだ密教というのはその両側を渡り歩くという、かなり高度というか危険というか、そういう種類の体系のように見える。

精神的に余裕のあるときにはこういう部分にまで踏み込んでみるのもいいかもしれないが、ミイラ取りがミイラになるということも、ままあるのではないかと思う。安定した基礎の上に立っている時と、大きな喪失などで不安定な場に立っている時では、同じ光景を見ていても脳裏に映る解釈というものには違いが出てくる。


ちなみに決定論とか自由意志とか熱力学の第二法則とか、そこら辺の議論もセルオートマトンなんかを絡めて論じるとかなり楽しいことになるのだけれども、それはまた別の話ということで。
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by antonin | 2010-11-01 12:05 | Trackback | Comments(0)

南無阿弥陀仏

死後の魂というのは、それ自体が存在するのではなくて、ある人の死後に残された人々の中にある、その人の生前の言動の記憶にある。ATOKだったら叱られそうなほど「の」を続けてしまったが、ともかく、最近ではそういう解釈をしている。人々の記憶に分散している状態でもそれなりに存在はしているが、複数の人の記憶を寄せ集めて会話に上ったりすれば、記憶された人格はより活動的なものになって再現できるようになる。お盆に親類が集まって先祖の霊を迎えるというのも、同じ人物の記憶を共有する人々が集まって、年に一度くらいは故人の話をして記憶を呼び戻す儀式だったのだろうと思う。

それでどうなるというわけでもないが、長老になってしまった人々にも先輩のあった頃を思い出して厳粛な気分になる機会にもなるだろうし、間もなく死んでしまうだろう人にも、こうして死後も人の口に上るだろうという安心感を与えるに違いない。人が死んで無に帰すということは古代の人も一定割合で気付いていただろうが、実際に死に際して無に帰すというのは恐ろしい感覚だろうし、そういうものを薄めるための知恵として、死後の世界を演出するということは必要なことだったのだろう。あの世にも極楽と地獄があるとすれば、信じる人には善行をさせることができただろうし、そういう人ほど死に際して安心感が強くなるなら、一石二鳥というものだったろう。

人の脳の中にあって外面から見えないのが第一の魂で、西洋的な脳死の概念が人の死と定義するのも、この第一の魂ということになるのだろう。一方、人の言動を通じて周囲の人々の記憶に分散して残るのが第二の魂で、人の脳が機能停止に陥っても、その肉体の形や体温や、場合によっては骨の一辺が拠り所となって記憶が呼び出されることで生き続けるという、東洋的な精神というのはこちらの第二の魂ということになるのだろう。記憶が消えて無くなるのに要するのが、およそ三十三年という推量でもあったのだろう。

西洋的に内面を重視すれば、たとえどのような孤独な環境にあっても意識が鮮明でありさえすれば、その人の魂は生きていると言える。東洋的に外面に拡散した魂を重視すれば、肉体的な脳が停止しても縁者の記憶を通じて、骨にでも生前に愛用していた遺物にでも魂は宿って生き続ける。その一方で、肉体的には生きていても、周囲の人々の記憶から消え去り話題にも上らない人物というのは、生きながらにして死んでいるのと同じということになる。

年に一度も人の話題に上らず、人々の記憶からも徐々に消えている人というのは、どんなに健全な肉体と頭脳を維持しているとしても、東洋的な第二の魂としては既に死んでいて、徐々にニギタマに近づいていく存在になっている。こちらの方がむしろ東洋的な脳死というものに相当するのかもしれない。

人々の記憶に生々しい、活動的な人であれば死は恐怖だろうから、突然無に帰す即物的な生死観よりも、別世界ではあるけれども時間的に継続していく死後の世界を信じた方が、死に際して救いになるだろう。しかし、人の記憶に疎い、生きながらにして緩やかに死んでいる人にとっては、死後にさえ世界が継続するという生死観よりも、むしろ何も残さずきれいに消えてなくなるという死を信じた方が、むしろ救われるという場合もあるだろう。

学生時代に数式を理解できなかったという人には、その後に数式をほとんど目にしない人生を過ごすのも難しくはないが、人情が理解できなかったという人が、その後に人情をほとんど気にせずに残りの人生を過ごすというのは、非常に難しい。むしろ年齢を重ねるに従って人情がらみの厄介に巻き込まれていくことの方が多く、何かと面倒になる。

老いると頑迷になる人も多いのだけれども、そういう頑迷の背後にあるのがいろいろの喪失であると気付くと、いたたまれない気分になる。気付くのは気付くのだが、こちらがその喪失を埋め合わせるほどの強さを持っているわけでもなく、面倒は続く。

おんぼうじしった ぼだはだやみ
おんあみりた ていぜいからうん
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by antonin | 2010-10-03 22:07 | Trackback | Comments(2)


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