安敦誌


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水分子と日本人は似ている

油やフッ素化合物を塗った表面は水を弾くが、あれは実は、水分子どうしの分子間力が強すぎて、水分子が隣の分子と離れようとしないために起こっている。水分子の集まりである水滴の表面にいる水分子は、内側の水分子に強く引きつけられて、水分子が外に露出する表面をなるべく小さくしようとする力が働く。これを表面張力という。

その強すぎる表面張力によって、水滴のほうが油やフッ素化合物を界面の外に弾き出している。油やフッ素化合物は電気的な分極による分子間力が弱い。こういう物質は水に弾かれる。油が水を弾いているのではなくて、水のほうに油を弾き出す原動力がある。

一方、塩は水によく溶ける。「塩」は広く「エン」と読んでもいいが、ここでは「しお」と読んで、食塩を考える。水に溶けない塩(エン)もある。塩は個体であっても陽イオンと陰イオンを保っていて、NaClという分子になっているわけではない。Na+というイオンと、Cl-というイオンが、イオンのまま静電気のような力で互いに張り付いている。

ナトリウムイオンや塩化物イオンは、水分子の分極以上に電荷が強い。けれども、塩はプラスとマイナスに分解してしまう。水分子は、分子内にプラスとマイナスを持ち、分解しない。プロトンの貸し借りはするけれども。

塩から出たプラスイオンのまわりには、酸素を内側に向けた水分子が集まってきて、水素を外に向けた水和クラスターができる。水分子では電気陰性度の高い酸素原子の側にマイナスの電荷が偏っていて、逆に電子を酸素に奪われ気味の水素原子の側では、水素原子核であるプロトン(陽子)がやや透けて見えるようにプラスの電荷を帯びている。

マイナスイオンのまわりには、水素を向けた水分子が集まってきて、酸素を外に寄せたクラスターができる。ただし、水素は2個あるので、2個とも内側に向けられることもあれば、まわりの水分子が邪魔で、1個しかマイナスイオンの方に向けられないこともある。

強い電荷のまわりには、それがプラスだろうがマイナスだろうが、水分子の取り巻きができる。水分子はプラスもマイナスも持っているし、その割には身が小さいので、そういう事ができる。そういう取り巻きの力で、塩のイオンたちはバラバラにされてしまう。イオンのまわりに水分子たちが取り付いて、あたかも大きな一つのイオンのように振る舞うが、本来のイオンは中心にいる外来のイオンだけで、取り巻きの水分子たちはただそちらの方を向いているだけにしか過ぎない。

水分子同士の結合は強いので、一つの分子を引き剥がすのには強い力が必要だが、水分子は軽いので、一度引き剥がしてしまえば運び去るのにはそれほどエネルギーを使わない。液体の水の表面にいる水分子が空気中の分子の熱運動に叩かれたりすると、どんどん飛び出していき、しまいには全部水蒸気になってしまう。しかしある程度の水分子が集まると、同じ水分子同士で集まり、その分子どうしの結びつきは強い。

油はというと、その分子の重さのために空気に飛ばされにくいために集まって油滴になるが、水分子は極性による分子間の結合力、仲間うちの結び付きの強さによって水滴になる。油の仲間ではメタンが水分子より少し軽いくらいだが、これを液体にするには-161.5°Cまで冷やす必要がある。この水分子の結びつきの原動力である、電気的な極性を共有できない物質は、水分子どうしの結合力に馴染めないことによって、結果的に弾き出される。

油の分子というのは、必ずしも同じ形ではなくても、炭化水素骨格を持っているような、おおよそ似た構造の分子であれば、互いに溶け合える。原油とは、いろいろな重さの、いろいろな形の炭化水素系分子の混ざりもののことで、そこから蒸留によって精製したガソリンや灯油であっても、やはりある程度の範囲の沸点をもつ分子の混ざりものになっている。

イオンどうしの場合も、電荷のバランスと大きさで結晶構造が変わる程度で、プラスとマイナスならどのようなイオンとでも結びつく。水の場合、その特徴的な分子の形から、ある程度相手を選ぶところが違う。

均質な水分子同士の相性はいいが、隣り合う水分子同士の結合は水素結合という比較的強い結び付きになっていて、なおかつ2個の水素が104.5度という微妙な角度で付いているため、両隣の水分子との関係の維持は複雑なものになる。水素の付いていない側の酸素には、隣接する2分子の水分子から水素を1つずつ引き付けており、水分子は通常4個の隣接分子と結びついている。

この結びつきが強すぎて、適温で液体を作っているときはお隣さんをときどき入れ替えながら仲良くやっているが、温度を下げて乱れを排して組織を固定すると、結合が強すぎて逆に隣の分子との距離が広がる。だから氷は膨張して水に浮く。氷では水素と酸素の結び付きは固定され、分子は回転することもできない。

氷の表面にはまだ結合していない水素か酸素がむき出しになっていて、空気中に水分子がある場合、磁石の塊に別の磁石が付くようにして氷の表面に固定されていく。この過程が、霜や雪の結晶を作り出す。

液体の水では、お隣さんの水分子との間で、ときどき水素の貸し借りが行われる。水素と言っても原子核の周りを電子が取り巻いた原子の状態ではなく、もちろんH2の水素分子ではなく、分子全体の電子雲は保ったまま、水素原子核であるプロトンだけを貸し借りする。水素を借りた水分子はH3O+になり、貸した分子はOH-になる。借りた水素が貸主に返される場合もあるが、別の水分子に又貸しされたり、貸した方も別の水分子から水素を取り上げたりする。

液体の水の中では水素原子核(プロトン)は天下の回りものなので、水分子の間を適当に流通していく。水素結合と、そういう水素の貸し借りには、不可分の関係がある。こうしてプロトンをやり取りしているうちに、貸し手と借り手が離れ離れになって残ってしまったH3O+とOH-が、常温の水の場合だと水分子180万個に一組くらいの割合で常に存在する。

外から水素の貸し手(酸)がやってくると、H3O+が優勢になり、水は酸性になる。逆に水素の借り手(塩基)がやってくると、今度はOH-が優勢になって、水はアルカリ性になる。H3O+が減った時にだけ水素を貸し出し、H3O+が増えると水素の返済を受け入れるような貸し手(弱酸)がいる一方で、押し貸しをして、なかなか返済を受け入れないような貸し手(強酸)もいる。塩基にも同じような強弱の区別がある。


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by antonin | 2016-06-04 01:49 | Trackback | Comments(0)

光は本当に量子なのか

光ってなんなんだろう、というのをブツブツ考えている。今や、光というのは光量子、フォトンというものだということが常識になっていて、波動か粒子かなんていう議論はとうの昔にケリが付いたことになっている。けれどもよくよく考えると、どこの説明を読んでも、光が粒子性、あるいは離散性みたいな性質を示す場合というのは、何かの物質粒子、つまり質量のあるフェルミオンとの相互作用を起こした場合に限られるように思える。

光そのものというのはフェルミオンのような状態の排他性がないので、空間的にもポテンシャル的にも線形性がある。この状態のままだと人間からは測定できないので、何らかの物質粒子と相互作用させて、物質側の状態変化を観測している。電流として光を観測するにしても、最初に電子というフェルミオンが媒介していて、純粋な電磁波そのものを直接に観測しているのではなく、電磁波と相互作用する電子の状態を通じて観測している。

そういう観測をすると、光は量子性を示す。なので確かに数式上では光を量子として扱うのが美しい記述になるのだけれども、実験結果などを考えるとき、光自身が量子であると考えてしまうと、スリット干渉実験などのようにいろいろと納得のいかない現象が多い。そこで、光、つまりは電磁波というのはあくまで純粋に近い波動であり、電磁波が物質粒子と相互作用する場合には物質粒子の性質として量子性が出てしまうのではないかと考えるようになった。

ミクロスケールでは電子をはじめとした物質粒子もド・ブロイの物質波という波動性を持っているが、人間が物理観測に使えるような素子では、何らかの結晶質のような空間的に束縛された状態の物質を使っている場合が多い。そういう、TEMなんかを使うと個々の原子のツブツブが見えてしまうような粒子性を示す状態のフェルミオンで電磁波を観測しているのだが、人間が想像する以上にそのフェルミオンというのは広範な波動を持っているんじゃないかという気がしている。

統計的に意味のあるレベルでは各粒子は格子点に局在化しているのだが、光のような波動と相互作用する場合には、意外にブロードな、結構非局在化した物質側の波動が広がっていて、それが純波動である電磁波と相互作用し、たとえば感光反応などの場合には、たまたま何らかの位相が合った粒子が "winner gets all" 式に、ある空間の電磁波のエネルギーを粒子が拘束されている中央付近に集めてしまうのではないかという気がしている。実際、格子点に束縛されていない単原子で光を「観測」してみても、光量子の状態はほとんど収束しないものらしい。

光は3原色から成っています、というのは小学校や中学校の理科の知識としては正しいのだけれども、網膜の錐体細胞内で起こっている光化学反応あたりを理解すると、3原色というのは別に光の性質などではなくて、それを受容する視神経の性質に過ぎないということがわかるようになる。これと同じように、光をフォトンという量子として扱うというのは、あくまで数式上のテクニックに過ぎず、実際のところ量子性というのは光の性質などではなく、光と相互作用する際のフェルミオンの性質に過ぎないんじゃないのか。

そう考えると、マルチパス観測で「光子」が通過しただのなんだのというのは、単に観測側のフェルミオンの波動がどういう形で広がるかというあたりをいじっているに過ぎず、電磁波はあくまで波動として広く並行的に拡散しているんですよ、ということになる。だから、光が「通過した」とか「通過していない」とかは実は観測できていなくて、光はどちらの検出器に検出されるかにかかわらず常にどちらのスリットも通過していることになる。

一方、光の「通過」を観測するかどうかを制御することで、通過点で観測に使っているフェルミオン側の波動の広がり方が、実は観測側にも同時的な影響を与えてしまっていて、その相関が一様に進行する電磁波と観測点の物質粒子の相互作用に影響してしまっているに過ぎないんじゃないかと考え始めている。ハミルトニアンなんかで記述できる既知の波動関数ではなくて、M理論とつながってくるような、もっと高次元で、いわゆる粒子の領域よりずっと広い範囲に影響する波動があって、それが電磁波と相互作用しているんじゃないのか。

ただ、そのフェルミオンが光と相互作用する場合の具合が、EPR相関などでもわかるように、必ずしも局所的でも光速に縛られた因果的なものでもないので、ちょっとマクロ世界の常識が通じにくいというところは残る。ただ、これにしても光速より早く伝わる因果関係は無いという常識を捨てれば、むしろマクロ世界のように光のような非常に速い伝達と水面の波のような遅い伝達があるモデルを持ち込みやすいような気がする。

逆に考えると、量子が「素粒子」に近いものであるという発想自体が大きな間違いで、電磁波が大数法則にしたがうマクロな波動と見なせるほど広大なミクロ世界が、電子などのレプトンより下のスケールにもまだまだ広がっているという方が正しいのかもしれない。

こういうことを考えはするのだけれども、それを裏付ける傍証の調査などをする気力もなく、プログラムのユニットテストの方法論なんていう実用的な情報を集めるのもそこそこ楽しく、また通勤時間などはまとまりのつかないSNS情報の流し読みなどで潰れていったりもするので、こういう妄想を確信に変えるほどのことはできないんだろうなぁ、という気がして、なんだか気怠い。

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by antonin | 2015-03-17 23:48 | Trackback | Comments(0)

1+1は2か3か

「イチたすイチは~ ニかサンか~」とか歌っているCMが昔にあったような記憶がある。子供向けの文具か教材か、そんなようなCMだったと思うが、どんな内容なのかはすっかり忘れてしまった。それなのに、この「1+1は2か3か」という文句だけが記憶に残っている。

ブール代数を初めて知ったとき、1+1が2ではなく1になるという演算があるのを知って楽しかった覚えがある。そういう流れで、この「1+1は2か3か」という冗談のような歌が妙に気になっていたのだろう。1+1が2というのはごく普通の算術演算だとして、1+1が3というのは、いったいどんな演算がありうるんだろうと気になっていた。

それから長い年月が流れたが、去年のあるあたりに、ふとひらめいたことがあって、なんとか1+1が3になる演算を考えついた。そのあたりをダラダラと書いていこうと思う。

1+1=1 というブール演算は、そもそも数値として0と1しか存在しない。自然数の集合がアレフゼロという無限の個数なのに対して、ブール束の元は2個しかない。1+1=3となる代数系に似たような制限を掛けるとしても、0,1,2,3と最低でも4個の数値は必要になりそうで、これは面倒だった。しかし、よく考えてみると、今は足し算だけで掛け算は必要ないわけだし、乗算の零元である0というのは必要ないかもしれない。「1+1は2か3か」という歌にも1と2と3しか出てこないのだから、今考えようとしている代数系の元は3個で十分なのかもしれない。

というところまで考えて、ブール代数のようなロジックにトライステート ロジックというのがあったな、ということを思い出した。通常のロジック(論理)が「真」と「偽」だけを使うのに対し、トライステート ロジックというのは、第三の状態である「どっちでもいい」という状態を持った論理回路のことを指す。

デジタル回路 #スリーステート・バッファ - Wikipedia

学生時代には確かに「トライステート」と習った覚えがあるのだが、上記ページによると、その呼び方はナショセミの登録商標だったらしく、知財フリーな辞書表現だと「スリーステート」となるようだ。ジェットエンジンの「アフターバーナー」がGEの登録商標だと知ったときと似たような、微妙な感じがして面白い。

ともかく、トライステートというのには、真か偽かはっきり決まる状態以外にも「ハイインピーダンス」という状態があって、真か偽かの決定は接続先かデフォルト設定に任せるという、独特の出力状態のある論理回路になっている。委任票というのか、結論を相手に任せるモードを取りうるロジックということで考え方として面白いのだが、この3状態論理というのが今考えようとしている演算に使えそうだった。

トライステートのハイインピーダンス状態というのは、プルアップするのかプルダウンするのか、あるいは別のロジック出力に合わせるのかというあたりは、そのロジックを使って回路を組む設計者に任されている。ところが代数系を考えるときはそういう自由度は面倒なことになるので、ハイインピーダンスではなく「真偽不定」という状態と考えることにしてみる。

A+Bというブール演算は、A or Bという論理演算に相当するので、たとえばA=1、つまり「Aは真である」というのが確定した場合には、Bが0だろうと1だろうと結果は1になる。なので、真偽不定の状態をXと置くと、1+X=1となる。Aが0の場合にはこうはならなくて、結果はBの値に等しくなるから、Bが定まらないうちは結果も定まらない。なので、0+X=Xとなる。A・Bの場合、つまりA and Bの場合には、逆にA=0のときに結果が0に定まって0・X=0となり、A=1のときに結果が不定になって1・X=Xとなる。

この不定値を含んだ3状態論理を使いたいのだが、and にしても or にしても、1+1=3のように、同値の組み合わせから別の状態が出てくる演算にはならない。そこで、ブール代数上で0と0から1が出てくる演算として、「同値」"equivalent" というのを使ってみることにする。この同値というのは、昔の Microsoft 系 BASIC 言語には論理演算子 "EQV" として組み込まれていたのだが、最近はあまり見ない。C言語的に書くと、!(a ^ b) のことで、「排他的論理和」"exclusive or" の否定を取ったものになる。

排他的論理和というのには論理学的な意味があって、「田中さんは家にいますか、それとも会社にいますか」と聞いたときに「会社にいます」と答えた場合、普通は「じゃあ田中さんは家にはいないんだな」と考えるのだが、実は田中さんは町工場の経営者で、自宅兼会社に住んでいるというケースもありうる。この場合、「家にもいるし、会社にもいる」というのを、普通の論理和(or)は許容する。けれどもそれだと自然言語の「または」の意味を正確に記述できない場合があるということで、この排他的論理和というやつが生まれた。

排他的論理和を演算として見ると、結果が1になるのはA=0でB=1の場合と、A=1でB=0の場合だけということになり、「AとBは異なる」という意味にもなっている。同値演算というのはこの逆で、A=0でB=0の場合と、A=1でB=1の場合にだけ、結果が1となる。これに排他的論理和のような古典論理学的な意味付けができるという話は聞いたことがないが、何かあるのだろうか。

話が逸れたが、この同値演算は0+0=1という性質を持っているから、これを3状態論理に持ち込めば、1+1=1の呪縛から逃れることができる。ということで、まず真をT、偽をF、不定をXとして真理値表を作ってみる。

b0004933_00234760.png

「AとBが同じかどうか」なので、片方でも不定になると結果は自動的に不定になる。それで上の図のようになる。

そしていよいよ、このFを1に、Xを2に、Tを3にそれぞれ読み替える。最後に、この同値演算の演算子として無理やり「+」記号を当てはめてみる。すると、こうなる。

1+1=3
1+2=2
1+3=1
2+1=2
2+2=2
2+3=2
3+1=1
3+2=2
3+3=3

なかなか謎めいた、良い演算になった。というわけで、1+1=3という演算は存在する(いま作ったから)。

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by antonin | 2015-01-24 00:02 | Trackback | Comments(0)

web 3.0へ

エキサイトブログが10周年だということで、10年前に雨後の竹の子のように現れた無料ブログサービスの中では先頭集団最後尾あたりに位置したエキサイトブログが、やはりブログ10周年イベントの流れにやや周回遅れで登場してきたが、当時の時流との微妙な位置関係を10年ぶりに再現していて面白い。私も10年前の7月の終わりに最初の投稿をしたのだけれども、実は2004年の7月にサービスインしたのはエキサイトブログ正式版のほうで、ベータサービスのほうはもっと早くから始まっていた。

だから、本格的に登場し始めたブログサービスを比較吟味していたようなタイプの人たちは、このベータサービス時代からブログを開始しており、既に10年を少し超える経歴を持っている。もっとも、そういう時期にエキサイトブログを味見した人で、今もそれなりにエキサイトブログを使い続けている人というのはあまり多くはないので、そういう人達の意見を探すのは難しいかもしれない。

web 2.0ブームの時に話題になったサービスを指して「終わった」と語る人も多いけれども、「その」サービスに限らず、web 2.0的な、社会的な構造をぶち破って世界中をフラットな関係で結ぶ、といった理念が全体的に終わっている状況なんだと思う。当時のwebというのは、結局はコンピュータを使って情報を摂取したり提供したりすることが大好きな集団のたまり場だったわけで、インターネットを利用しているということそのものがある階層をフィルタリングできていた。ところが、スマートフォンなどを介して、かなり広い階層から様々な属性を持った人が無差別にweb 2.0の世界に流入することで、構造のないフラットなネットワークが色々と無用の問題を引き起こすようになった。今後は、ネットの世界にも実社会と似た構造を再現した、フラットではなくwell structuredなweb 3.0が必要になってくるし、必要である以上は程なくしてそういうものが作られるだろう。

個人的には、書籍のような静的な情報が上がっていたweb 1.0が、テレビや新聞と同じような動的で揮発性の情報を主体とするweb 2.0の時代に入った時点で結構白けた気分になっていて、blogでも好んでweb 1.0的な資料サイトを検索で拾っては記録していたころがあった。最近ではそういう資料にリンクするのも面倒になって、時事ネタを肴に無責任なオピニオンばっかり並べるようになったが、こういうあたりが死にかけのweb 2.xっぽくて、それはそれで気に入っていた。

これから登場するweb 3.0はおそらく実用的だが、web 2.0のようにオープンではないし、web 2.0のような狂った祝祭的感覚もないだろうから、あまり語り好きの人々の話題に上ることもないだろう。そしてweb 2.0の狂った熱狂は、技術的な熱狂期に人生のピークを重ねた人々によって、ノスタルジックに語られるようになるに違いない。フリーソフトが流通していた時代のPC文化だとか、マルクスや少年マガジンを小脇に抱えつつ政治を論じていた学生文化のように。

成熟とは素晴らしいことだが、退屈な場合も多い。退屈になりきらない偉人もいるが、そういう人は希少だからこそ偉人として尊重される。人類は月の次に木星を目指したりしなかったが、通信衛星や気象衛星などは当たり前のように現在の私たちの生活を支えている。そこに情熱的なドラマを見出すのは難しいが、サターンVよりもずっと洗練されている。web も今や成熟した産業であり、重要ではあるが保守的で地味な分野になっていくだろう。かつての鉄道のように、かつての自動車のように、情報通信はあこがれの存在から空気のような存在になっていくだろう。

さて、その次には何が来るのか。いま最右翼にあるのは生命技術だけれども、それが爛熟期を迎えるころには、チャペックが初めてロボットを描いた時のように人工生命の創造に手を染めたりするんだろうか。シド・ミードが描いたような退廃的な都市風景はないにしても、レプリカント的なものを生み出したりするんだろうか。あるいは、生命技術は最初から補助臓器のような地に足の着いた地味なもので満足するんだろうか。まあ、そのあたりは分からない。

映画「メトロポリス」に現れたような流線型の未来型車両が、空想の産物ではなくて当時実際に流行した鉄道車両をモデルとしていて、蒸気機関の末期には時速200kmを超える機関車も登場したなんていう話もしたくなったが、それはまた別の機会に取っておこう。

ある程度人生が長くなると、自分が子供のころの出来事が、歴史の一幕と思える程度に昔の出来事になる。隆盛を誇った文化が成熟して焚火から炭火のように変化していく様子も目に見えるようになる。私はまだアポロ計画が終わりきらないうちに生まれたけれども、自分が生まれる前にアポロ11号が月に到達してしまったことを悔しがるような時期があった。大阪万博が終わってから生まれたことを悔しがるようなこともあった。

twitterに間に合わなかった世代が果たしてそれを悔しがるような時代が来るんだろうか。あんまりそういう気がしないのだけれども、web 2.0の熱狂をノスタルジックに語る世代に育てられた子供は、ひょっとすると規制に縛られることで実用的になったweb 3.0に失望して、あるいはそういう懐古的な悔しがり方をするのかもしれない。

安倍総理率いるネトウヨたちの粋がりも、日清・日露戦争の熱狂に乗り遅れたことを悔しがっただろう昭和初期の青年将校たちと同じで、まあだいたいそんなあたりに位置しているんじゃないかと思う。戦争が大嫌いだと思っている私でも、子供のころには飛行機に乗って銃撃しまくるゲームで遊んでいたし、歴史小説で捨て身の総攻撃をするシーンを読めば、ちゃんとアドレナリンが噴出してきて、作中のBerserkerたちに感情移入できる。結局、ホモサピエンスのオスというのはそういうふうにできている。ディテールの汚さが忘れられる時代になると、こういう揺り戻しはある程度必然なんだろう。

今から20年後、web 2.0の熱狂があった「古き良き時代」を懐かしむ作品が作られ、時の若者たちはそれを見て白ける。更に30年後、その作品が半ば史実としてサブカルチャー好きの若者の憧れの対象となり、せっかく成熟したweb 3.0に対して、フラット化したwebの再興を謀る過激派が現れる。そういう時代の循環が見られるなら、それはそれで楽しそうではあるが。

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by antonin | 2014-07-06 23:00 | Trackback | Comments(0)

やや構造主義的に見る婚姻と雇用

ソースは面倒なので省略するけれども、結婚制度を緩和して、家族構成によらず育児を支援する社会システムを構築してきた北欧の国で、男女別の子供の人数を調査すると、女性は比較的均質な結果になるけれども、男性は過去に比べて子供を多く持つ人と子供を持たない人の格差が広がったのだという。簡単に言うと、結婚制度という人為的な規制を緩和して、市場原理的な、言い換えると淘汰原理的な状態にすると、次世代の個体数という指標で女性より男性の格差が広がったのだという。そしてこれは、ヒトという種の自然なあり方が復元された状態なのだと思う。

個体寿命は別として、生殖期間の長さで測ると、男性のほうが女性より長寿になる。ちょっと余裕を見て、生物的な生殖期間は男性が15歳から70歳くらい、女性が15歳から40歳くらいだろう。レアケースを入れればもっと幅は広くなるだろうが、目安としてはこの程度だろう。また、女性は受精、妊娠、出産、授乳など、育児に多大なリソースを割く必要がある。このため、生涯に出産可能な回数というのは、乳母などをフルに利用しても20回くらいに上限があるだろう。一方男性はそういうリソース負担がないので、複数の女性を相手にすることで理論上は最大2万回くらいにまで達する。

このため、女性というのは限られた資源であり、生殖期間にある女性の人数が次世代の出生数に対して支配的になる。一方男性というのは、少数が生き残れば多数の子供を作ることが可能なので、生殖期間にある男性の人数は次世代の出生数に対して支配的ではない。このことから、女性は遺伝子の保守面を担い、男性は競争と淘汰を担うことができる。人口がある程度増えたら、男同士を戦わせて生き残ったほうに子供を作らせることで進化的環境適合度を高めることができ、また女性が比較的競争の少ない環境で子供を作ることで遺伝子の多様性が保たれる。これが哺乳類のような資源非対称性の強い有性生殖種の進化戦略ということになる。

男女が一夫一婦制を取るということは、この競争原理を人為的に否定することを意味し、これを実施すると男性も女性も多様性が増す一方で、競争と進化のペースは落ちる。実は日本人のY染色体は大陸に比べて塩基配列の多様性が高く、日本人は歴史的に戦争の少ない、一夫一婦制に近い生き方をしてきたらしいということが遺伝子統計に出てくるらしい。大陸ではそういう平穏な期間が少なく、陸続きの面積が広いために高頻度で戦争が起こり、その結果として特定のY染色体塩基配列の占有率が高いということらしい。

戦争をせずとも、結婚制度を緩和し、未婚出産や離婚、再婚に寛容な社会制度にすると、男女の生殖関係の成立期間は短縮していく。すると、別離後の男女が別の組み合わせで生殖関係を結ぶのだが、このとき、女性は平均してそのチャンスがあるのに対し、男性の場合は特定の「受容度の高い」男性が多くの女性と関係を結び、その分だけ「受容度の低い」男性はその機会が少なくなるらしい。女性の場合、男性に対して高望みをしても、男性というのはシェア可能なので、一時的には女性の高望みは叶えられる。一方、男性が女性に対して高望みをした場合、女性はシェア不能なので高望みは叶えられない。叶えられるとすれば、アイドルやアニメなどの「関係の複製が可能」な女性のみということになる。

この男女間の関係を企業体と労働者の関係と対比することができる。

労働者である自然人というのは、だいたい18歳から68歳くらいまでの労働可能期間がある。そして、同時に複数の仕事はできないので、一人の労働者が生涯に提供できる生産労働力は50人年という計算になる。一方、雇用側である企業体は、最大で200年位の存続期間があり、また最大10万人くらいの労働力を同時に雇用可能なので、そのライフタイムで使用可能な生産労働力は2000万人年あたりが上限という計算になる。この生涯生産力の非対称を人間男女の生殖生産力モデルと対応付けると、企業が男性に相当し、労働者が女性に相当することになる。

となると、雇用・解雇規制を緩和した場合、企業間の競争力格差が広がり淘汰が活発になる一方で、労働者の被雇用機会というのはそれほど格差が広がらないことが予想される。大企業には高い雇用能力があり、かつ労働者を解雇しても代わりの労働者の応募も多いため、延べ人数では同時雇用人数の数倍から数百倍の労働者を雇用することが可能となる。このため、労働者が自身の実力以上に大企業志向を高めても、一時的にならばその高望みが叶えられる機会はそれなりにあるということになる。一方で、競争に勝ち残れない弱い企業体は、発足から一度も正規雇用を結ぶ労働者を得られないまま企業の寿命を終える場合が増える。

このアナロジーでは、正式な雇用関係と、正式な婚姻関係が等価になる。収益力の高い企業と収入の高い男性は、多くの正社員や多くの正室側室を養うことができる。また、中程度の収益力を持った企業と中程度の収入を持った男性は、少数の正社員と短期雇用の非正規労働者、そして生涯で数人の正妻と非正規の交際相手を持つことができる。そして収益力の少ない企業は労働者を雇用することができず、収入の少ない男性は女性と関係を結ぶことができない。これをゴニョゴニョと呼ぶとすれば、社長とアルバイトだけで正社員を雇用したことのない企業は素人ゴニョゴニョと呼べる。

このアナロジーが有効だとすると、雇用及び解雇に関する規制を緩和すると、巨大企業は商品市場と労働市場で競争を繰り返し、強いものがより強くなる一方で、弱い企業はより弱くなり、雇用創出力を喪失したままそれなりに数としては生き残るというシナリオが描かれる。そして、労働者はそのどこかで何かしらの仕事が見つかるという推論ができる。微小企業の経営者というのもその一部になる。


したがって、男同士の競争を煽る女性と、企業同士の競争を煽る消費者の心情は、実は同じ原理に即している、とかまで言っちゃうと飛躍しすぎだろう。でもまあ、ある程度はそういうモデリングもできるんじゃないかと思った。色々な数量関係を図示すると面白いと思うが、生活に差し障るのでやめておく。文章表現が社会倫理的にサイテーだというあたりは勘弁してほしい。もう寝る。

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by antonin | 2014-05-21 01:59 | Trackback | Comments(0)

神は死んだ

クレタ人のパラドクスというやつがあって、それは論理学の階級を論じたり、排中律みたいな公理が異なる論理系を論じたりするネタとしてもとてもとても面白いのだけれど、今はちょっと酔っぱらっているのでその方面はまた別の話ということで。

パラドクスに出てくるクレタ人とはエピメニデスという敬虔な男で、彼はゼウスの墓を建ててからかったクレタ人たちに、大変腹を立ていていた。そしてこう語ったと伝えられる。「クレタ人は皆うそつきだ。ゼウスは死んでなどいない」と。しかし当のエピメニデス本人がクレタ人であったため、ほんならお前も嘘つきになってまうやないか、というツッコミが後の時代の読者から入ったという。しかしまあ、いやいやさすがにクレタ人、ローマ文明に先立つこと数世紀、もう神は死んでいたのであります。

でもまあ、神ってのは結構死にやすい奴だと思う。不死のように見えて、案外コロッと死ぬ。しかし、何度でも蘇る。

子供のころ、世界は不思議でいっぱいで、大人たちは色々なことを教えてくれる。そして、なぜなぜを繰り返すと、最後はなぜかいつも神様に行きついてしまう。すげーな神様、ということで子供は神を尊敬する。大好きな本やおもちゃを与えてくれることもあるらしい。おお、神よ、私はどこまでもあなたについていきましょう。

が、子は育ち、神では説明できないことを多々目にするようになる。神を信じる者が全くの馬鹿を見ている様子なども目に入るようになる。見渡せば、良識的な人は誰も本気で神を信じているようには見えない。誰もそれを敬い称えてはいるものの、好意や切実さは感じられない。

人間によって語られず、敬われない神はどうなるか。すなわち、死ぬ。墓を建てられればまだ良いほうで、割られたり焼き払われたり、あるいは単に見返られることなく土に埋もれていく。

人も所詮動物なので、個体発生は系統発生を緩やかになぞる。神も理解できない赤子が、神を知り、神を切望するようになり、神を敬愛するようになる。そしてあるとき、知恵の果実を食い、分別がついて神がフィクションであったことに落胆する。そして、自分が幼かった頃の神の隆盛と、今現在の信仰を失った神の弱さを引き比べてしまい、「神は死んだ」といって墓を建ててしまう。

けれども、幸せに暮らした品のいいおばあちゃんは素朴に直截に神様を信じていて、孫の手を引いて、神様について切々と語る。そして孫はまた神様を敬愛し畏れ敬うようになる。そして、かなりの確率で、その子の成長に従って、その子の神も死ぬだろう。けれども、ふとした拍子に神は蘇る。人間には死が避けられないからだ。「精神」というくらいで、ある程度人間の精神には神を信じるような機構が織り込まれているのだろう。特に、困った時に。神は死ぬが、蘇る。なんだかんだで神は不滅だ。

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by antonin | 2014-04-16 00:53 | Trackback | Comments(0)

情報洗浄

負のハロー効果というのか、やっぱり陰謀論というのは考えれば考えるほど面白いのだが、この面白さをうまく伝える方法がまだ思いつかない。

ネットに誤って流出してしまった個人情報や機密情報や醜聞について、ある程度それが広まらないようにする対抗手法というのは存在する。具体的には、タイトルだけその流出情報を連想させるようなものにしておき、内容はつまらないゴミにしたものを大量に放流する。すると関連情報は次第にゴミばかりになり、人々が興味を失うので、そのごみの中に本当の流出情報があっても、人はそれを手に入れようという気を失う。

国家機密レベルの流出情報にも似たような手法はおそらく確立されていて、そうした手法の一つは黙殺であり、また別の一つは権威による否定であるけれども、類似テーマのごみ放出というのも場面によっては有効なもののうちに入っているだろう。

疑惑の真相、というような刺激的なテーマで、イントロは核心に近いが詳細はゴミばかりの情報をまことしやかにささやく。そういうテーマに興味のある人をひとしきりひきつけたあとで、今度は素人目にも嘘くさい怪情報を小出しにしていく。いつしか疑惑の核心に迫る暴露話は影を潜め、怪しい話ばかりになっていく。こうなると、純粋な好奇心や問題意識を持っていた人は失望し、強い拒否感とともに話の場を去っていく。

残った人は、負の信用度をもった情報源となる。最初は信用できると見せて、最終的には信頼できないことが明らかだと思わせる。そうすると、最初のうちに話していた信用度の高いと思えた情報も、失望感と負のハロー効果によって、まったく信用できない話に思えてくる。これは、流出してしまった機密あるは醜聞を聞く人に「信じられないと確信させる」ための有効な方法だろう。

正のハロー効果を持った人の発言は、少々怪しい内容でも人に信用される。同様に、負のハロー効果を持った人の発言は、少々信憑性のある内容でも人に全くの嘘だと信じさせることができる。最初は信用されて耳目を集めることがミッションで、次第にそれを不信感に変えていき、最後には全くのでたらめであると信じさせるところがゴールということになる。こういうスタイルのインテリジェンスが存在するのだとすれば、ベンジャミン・フルフォードさんはなかなか良い見本なのではないかと思える。
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by antonin | 2014-03-26 23:18 | Trackback | Comments(0)

自動翻訳時代の言語生活

どうも、自然言語処理界の動きが面白い。時間もアレなのでリンクだけ羅列。

ニューラルネットの逆襲 | Preferred Research

ディープラーニングチュートリアル(もしくは研究動向報告)


これもある意味Deep Learning,Recurrent Neural Network Language Modelの話 [MLAC2013_9日目] — KiyuHub

自然言語処理の最新手法"word2vec"で艦これ加賀さんから乳を引いてみる - あんちべ!

Statistical Semantic入門 ~分布仮説からword2vecまで~

どれも、まだフィードフォワードの処理技術ばかりで、単語の意味を展開するようなものばかり。本当に自然言語を処理しようとすれば、こういうフィードフォワード型の連想処理を要素技術として、フィードバックループないしは相互連想型のネットワークを組んで、反復によって安定点を探るような技術の開発が不可欠になる。けれども、要素技術が育つのは良いことだ。基礎が固まってこそ応用が研究できる。

上記は入力も出力も自然言語というようなものばかりだけれども、OpenCVみたいに画像処理系のマシンラーニングも標準手法が育ちつつあるから、画像からメタ情報を抽出したり、あるいは言語から展開した意味ベクターから例示画像を連想し、その画像を画像処理することで意味ベクターを再連想して、そういう相互連想で安定点を探すことで正しい文脈を推論する、なんていうこともできるだろう。こういう連想ができれば、言語処理に視覚情報を文脈情報として与えることもできるようになる。

そういう具合で、言語間翻訳の精度が一気に向上する時期が、この先数年だか半世紀だか、そこは多少偶然の要素が絡むけれども、まあ確実にやってくる。そういう時代が来ると、私たちはどういう言語生活をするようになるのか。

まずは、格段に改善したとはいえ、そこは機械のやること、おのずと限度がある。けれども、その限度をわきまえると、人間を雇うより格段に手軽に翻訳が利用できるようになる。ということで、人間が機械翻訳可能な言語レベルに適応していくようになるだろう。例えて言うと、逐語訳的な英文和訳文体だとか、漢文読み下し文体だとか、ああいう機械翻訳が出してくる、意味的には正しいが、文芸的には粗悪な文体に、人間が馴染んてくるようになるだろう。それとは別に、翻訳を通じて別言語圏の人に発信したいような情報は、機械翻訳が正確に読み取ってくれるような、文芸的には粗悪だが意味的にはあいまいさの少ない文体で作文するようになる。

そういう時代がある程度続くと、自分で飛行機に乗って各国を渡り歩く経済力のある人とか、文化的に他言語を操ることを愛する人などを除くと、大多数の人は自分の母国語で生活するようになる。しかも、その母国語が文芸的センスのない、機械翻訳向けの言語に近づいてくる。他言語に翻訳不能な美しい言語表現というのは、使用の場が制限されてくる。

その過渡期には当然、英語も含めた各国語で、母国語の乱れ、単純化を嘆く人が出てくる。が、おそらく流れは止まらないだろう。そうなると、翻訳に親和した新言語を操る一般の人と、極度に文芸化した職人芸的言語を操る専門家に分化が進むだろう。そして、必要上やむなく公用語としての英語を利用せざるを得なかった人たちが、母国語に帰っていく。英語の人口シェアは漸減していくだろう。

そういう時代が、近い将来か遠い将来かは知らないが、いずれやってくる。そしてその技術的萌芽は目の前にすでに存在している。面白いものだと思う。
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by antonin | 2014-03-26 02:11 | Trackback | Comments(0)

CDMA(符号拡散多重接続)

技術的な説明は後半にあります。まずは随筆から。

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LTEも当初は3.9Gとか言っていたのが、2010年あたりから公式に4Gを名乗るようになり、最近では変調方式の主流は3Gの中心だったCDMAからOFDMに移りつつあるが、CDMAを使ってみたら技術的に問題があったというよりは、Qualcommの特許がガチガチ過ぎて他社の技術者が嫌ったから、みたいな要素が強いらしい。GIFがLZWの特許を避けてPNGになったり、bzipが算術符号化の特許を避けてbzip2になったのと似たような事情なのだとすると、CDMAというのも特許失効以降はまた興隆してくる技術なのかもしれない。

著作権が死後50年とか70年とか言い出すのと比べると、特許の知財権が出願20年というのはいかにも儚い。値付けを誤って客に逃げられるのもどうかと思うが、パブリックドメイン技術で急場をしのいで特許権が切れるのを待つというのも、なんだか技術者が報われない話だな、とも思う。特許権も発明者の死後50年間にしろ、なんてことは言わないが、著作権との不均衡も度が過ぎるとちょっとなんだかな、とは思う。特許権にしても著作権にしても、知的財産権とは本来、時限独占権の国家保証とのバーターで長期的にはパブリックドメインの知財を豊かにするための文化政策でもあったのだけれど。

Qualcommという会社は、「情報理論の父」クロード・シャノン先生だとか、「サイバネティクスの父」ノーバート・ウィーナー先生がまだ現役の教授だった時代にMITで学んだ、アンドリュー・ヴィタビさんが起こした会社らしい。「畳み込み符号のビタビ復号化」というと符号論の教科書などでお馴染みだが、こちらも最近は低密度パリティ検査符号(LDPC)なんかに押され気味という印象がある。

符号拡散多重化を、誤解を受けるのを承知で、あえて日常語で言い換えると、「分かる人にはわかる形で情報をノイズに乗せて送信する方式」といえる。符号拡散というのは、意味のあるもともとの信号にノイズを乗せてわけわからん信号にして電波に乗せるのだが、受信側も送信側と同じノイズを発生させる仕組みを持っていて、そのノイズ発生器(擬似乱数系列)の番号を合わせておくと、自分宛の信号に乗ったノイズのみキャンセルすることができる。このとき、他の受信者向けの信号は相変わらずノイズ様の波形なので、十分なS/N比が確保できる程度の混信であれば通信が成立する。

CDMAは混信信号をノイズとして押し込める通信方式なので、目的信号の強度がある程度確保できることが前提となっている。LTEでCDMAが選に漏れたのも、収容局数の増大によって通信可能な範囲が縮小して見える"Cell Breathing"という現象があって、携帯電話用途に使うには基地局配置計画が難しいというのも一因ではあるらしい。OFDMであればセグメントごとの制御が容易なので、通信チャネル当たりで使用するセグメントの個数を制限すれば、通信速度は低下するが接続は維持しやすい。

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さて、本題。Wikipediaの日本語ページにもCDMAの項目はあるが、定性的な説明しかなく原理はわからないので、英語ページの方を参照すると、簡単でわかりやすい原理説明がある。CCライセンスで参照可能な図があったので拝借してみる。
b0004933_15404398.png

この図にあるように、目的の情報を含むベースバンド信号より十分に高い周波数成分を持った擬似乱数信号を重畳して、信号をノイズ様波形に変換する。そして受信側でも同じ擬似乱数信号を発生できるようにしておいて、受信波形に擬似乱数系列をもう一度XORで重ねると、ノイズ成分がキャンセルされ、原信号が復元される。

ただし、CDMAのMA(多重接続)たる所以は、こうして作られた複数の信号波形が、互いに異なる擬似乱数系列を持ってさえいれば、それらが同じ周波数帯域に重なっていても通信可能というところにある。多重度が高まると、ノイズが増えたのと同じ状態になるけれども通信自体は可能となる。面白いので、このCDMAの原理で画像を符号化、復号化してみる。

まず、画像を用意する。高柳健次郎さんに敬意を捧げ、最初の信号はイロハのイとしてみる。2値画像なので、1ドットずつ時系列に並べるとベースバンド信号みたいなものになる(ツールの都合で文字がアンチエイリアスされて若干グラデーションになっているけど…)。画像の解像度よりは空間周波数が十分低くなるように、300x300ピクセルのフィールドに大きく1文字だけ書いてある。
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次に、擬似乱数系列から生成したノイズ様データ(拡散符号)を用意する。1ピクセルずつランダムな白黒に塗り分けてある。
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そして、XORを取って変調符号を得る。
b0004933_1553232.png

裸眼で立体視ができる人なら、適当な距離に上の2枚のノイズ様画像を並べて重ねてみると、昔流行したステレオグラムみたいに「イ」の字が浮かび上がってくるのを確認できるだろう。

この段階では単純なXOR信号なので、拡散符号をもう一回XORしてやると、完全に元通りの信号が復元できる。それでは意味が無いので、もう一つ変調信号を作ってみる。
まず、原画像。今度はひらがなで「あ」にしてみる。
b0004933_15552220.png

フォントは「たぬき油性マジック」です。素晴らしいフリーフォントの提供に感謝します。

次に、さっきとは違う値で初期化した乱数系列で作成した拡散符号。
b0004933_15573754.png

そしてXOR合成して変調信号を作成する。
b0004933_1558035.png


今度は、「イ」の変調信号と「あ」の変調信号を単純に加算して合成信号を作成する。画像としては3階調のノイズ様画像となる。
b0004933_1621694.png

これが、2チャネル重畳した出力信号ということになる。このようにディジタルの状態で混合することもあるだろうが、実際に電波として送信する場合にはもう少しアナログ側のプロセスで混合波を生成する場合もあるだろう。送信局が別の場合には、単に複数の送信局から同一周波数帯に送信することで空中で合成されることになる。

続いて、復号化処理。さっきの合成信号に、最初の「イ」画像の符号化に使った拡散信号を重ねてみる。もはや2値データではないので、XOR演算ではなく「差の絶対値」を計算させてみる(元から2値画像ではなかったので、実は最初からこれを使っていた)。すると、こういう信号(画像)が復元される。
b0004933_1662514.png

このように、明らかに原信号は復元できているのだけれど、「あ」の変調信号がノイズとして乗っている。これは、ベースバンド信号と拡散符号との周波数の差を利用して、低域通過フィルタ(LPF)で除去することができる。画像処理として「ぼかし」を入れるのはLPFと同じことを意味するので、画像にぼかしを入れてみる(本当は1次元的な信号にLPFを掛けるので、画像の2次元的フィルタとは処理が異なるが、フィルタ処理を書くのが面倒だったのでペイントソフトのぼかし機能を利用した)。
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最後にコンパレータを通して2値化し、原信号を復元する。
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ちょっとエッジが揺れているが、だいたい元通りの図形になった。この図形だと、空間周波数はともかく解像度は拡散符号と同じ図形を使ってしまったので信号にブレが残っているが、位相の同期まで考えて復号化すれば、この程度の混信なら完全に原信号が復元できるだろう。通信に伴う空間ノイズなんかは全く考慮していないので、当たり前だが。

次に、同じように「あ」の信号も復元してみる。
拡散符号の除去でとりあえずこういう信号が取り出せる。
b0004933_16211324.png

これもLPFを通してノイズを抑制し、
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コンパレータを通して2値化すると、原信号が復元できる。
b0004933_16223220.png


最後に、同じ周波数帯域に収容する信号が増えるとどうなるかを試してみる。同じように「永」の字を符号化してみる。
まず、原信号。
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今度は明朝体ボールドで。

次に、先ほどの2種類どちらとも異なる擬似乱数系列で作成した拡散符号。
b0004933_16254855.png

XOR合成した変調信号はこう。
b0004933_16315017.png

そして今度は、「イ」「あ」「永」の変調信号を全て加算して、3チャネル同時使用の信号を作成する。今度は4階調データになっている。
b0004933_16333478.png


ここから、再び「あ」の信号を抽出してみる。
b0004933_16365019.png

やはり信号は取り出せているが、2チャネル収容の場合に比べると、全体的にノイズが強くなり、S/N比が落ちているのがわかる。

これにLPFを掛けて、
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2値化して復号化完了。
b0004933_16421550.png


ここではチャネル多重による擬似ノイズしか考慮していないので復号品質にそれほどの差は出ていないけれども、ここに通信で生じる外来雑音などが混入してくると、やはりS/N比の低下が効いてきて、エラー密度が上がってくるのだろう。

3信号重畳信号画像からは「イ」も「永」も復号可能だけれど、同じことの繰り返しになるので、気になる人は画像をダウンロードして自分でやってみてください。

(以上の画像処理にはPixia Ver.5を使用しました。使いやすいツールを継続的に提供していただきありがとうございます。)

--

以上でCDMAの技術的な話は終わり。で、ものの考え方としてこの符号拡散というのが面白いという話を少し。ランダムに見える文字がびっしり並んだ手紙があって、それを受け取る人はあらかじめ多数の穴が開けられたマスキングシートをもらっている。手紙にマスキングシートを重ね、穴から見えた文字をつなげていくと、その人向けのメッセージが読める。別の人は別の位置に穴のあいたマスキングシートを持っていて、それを使うと同じ手紙からその人向けのメッセージを読み取ることができる。CDMAというのは雑に言うとそういう原理になっている。

そこまで完全なランダムノイズとは見えなくても、今ひとつ何を語っているのかわかりにくい詩のような文章があって、作者の心にある何かと共通したものを持った読者だけが、そのわかりにくい詩文の中に隠された明確なメッセージを読み取る、なんていう文化は昔からあったような気がする。そして、複雑な心理を持った作者の綴る文章では、複数の読者がそれぞれの心理に応じてに独立のメッセージを読み取れる、なんていう「多重接続」もありえたかもしれない。

仕事を持って初めてわかる、子供を持って初めてわかる、家族や恋人や住まいや仕事を失って初めてわかる、なんていうコードを隠し持った文章も、世の中には多いのだろう。ノストラダムスの詩を予言書として読むのは誤検出の部類だと思うが、あからさまに言えない心情をあえて不明瞭な言葉で綴ったような詩を単に馬鹿にする人というのは、やはり拡散コードのような「言い得ぬもの」を内に持っていないと見たほうがいいのだろう。

「この作者は、実はこういうことを言っているんですよ」としたり顔で解説する人の声が大きいと、自分に向けて送られた別チャネルのメッセージがS/N限界に沈んでしまって気づかなかったりとか、あるある、それあるよね、という感じでもある。

CDMAも、初期には軍用の通信秘匿技術だった。スペクトルがブロードで、パワーピークが目立たないので、共産圏の通信傍受技術者はそこで通信が行われていることすら当初は気づかなかったらしい。現代的な意味での暗号強度は強くなかったのだろうけれども、わからない人にはわからないが、わかる人にはわかる公開通信、というのも面白いものだと思う。
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by antonin | 2013-09-29 18:10 | Trackback | Comments(0)

景気の話

ん、入力中の文章が消えた。直線の実在性と脳の器質の関係、という感じの文章をかなりユルく書いていたのだけれど、ちょっとした拍子で消えてしまった。まあいい。

私たちの意識は脳の中にいるので、脳の中にある信号は私達の意識にとって、実在と同じか、あるいはそれ以上の実在性があるんだよ、というような結論に持っていきたかった。まあ、般若心経が言っていることの言い換えでしかないので、あまり新しい価値はないのだけれど。

景気というのは所詮「氣」なので、みんなが信じればそこに経済成長は現実化する。特に、金との兌換を捨てた現代的な通貨体制では、よりその傾向が強い。日本の将来に警鐘を鳴らすのが新聞屋の商売なのだけれど、経済成長に一番必要なのは、国民みんなの楽観と寛容だったりして、国際競争力強化なんかよりも、サルと一緒に温泉にでも浸かったらいいんじゃないかと思い始めている。でないと、フランスのGDPというのは説明がつかない。

生産性とか、そういうのも考えているけれども、まあ、これも人の欲の持っていき方の問題なんでありまして、ときどき東京が火の海になって、結果として住民が宵越しの金を持たないような社会も気楽でいいんじゃないかという気もしている。

知恵のある人が、マネタリーベースの増強で桶屋が儲かるというのを心から信じている様子がヒシヒシと伝わってきて心強い。まだ馬鹿な庶民は「王様は裸だ!」とか言っているので、マネタリーベースの増強にマネーサプライの増加が追いついてこないが、みんなで「なんと立派な姿の王様だ!」と熱狂すれば、桶屋は儲かり、日本の景気は本当に良くなる。

嘘みたいだけれど、空即是色、なんだよな。人類は月にも行けた。そのくらいは簡単なんじゃないか。知恵のある人も、信じない人は馬鹿だ馬鹿だアンポンタンだと悪態ついてないで、日銀から2兆億円くらいババンと借金して、それで10万人くらい雇用して、会社でも興したらいいんじゃなかろうか。そしたら景気良くなるぜよ。それだけ借金があれば、クラッススに気の遠くなるような借金こさえたカエサルみたいに「大きすぎて潰せない」になるから、損失出ても問題ないよ。

10万人で何やるか。自動翻訳機作ろうぜ。「全社員TOEIC800点以上」とかの話を「そんな時代もあったんだねぇ」にしてやろうぜ。スマートターミナル使ってシリア人と日本語でトークしようぜ。命がけで英語を勉強したバイリンガルたちが、自動翻訳じゃ気持ちが伝わらないってダダこねて抵抗する世の中を見てみたい。

そんじゃーね。
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by antonin | 2013-07-19 01:54 | Trackback | Comments(0)


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