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アキレスと亀

ADHD気質の双極Ⅱ型障害の私は、数年ぶりに軽躁期に入ったようだ。処方にSNRIを加えてSSRIを減らした作用かと思う。今は必要な処方だが、もう少ししたらセロトニン優位に変えてもらおう。

--

アキレス(アキレウス)と亀という有名なパラドックスがある。アキレスは、ホメロスの叙事詩に登場する、俊足で名高い英雄である。亀は、イソップの寓話に登場する、鈍足で名高い動物である。さて、アキレスの前方、いくらか距離の離れたところに亀がいて、アキレスから逃げる方向に亀が進んでいる。この亀を目指して、アキレスが俊足をうならし猛追する。ここで論理学者は考える。

アキレスは走り出して一定時間後、スタート時に亀がいた地点まで到達するだろう。しかしその時間で亀もアキレスほどではないが一定距離を進むことができるのだから、この時点ではまだ亀はアキレスの前方にいる。次いでアキレスはその亀の位置へ移動するが、そのときにはまた亀がいくらか前進している。以下同様に、この過程が無限に繰り返されることになる。この過程をどこまで続けてもアキレスは亀の位置に到達することができず、つまり俊足の英雄アキレスは鈍足の亀を抜き去ることができない。証明終わり。

高校生時代、おそらく高1の頃だったと思うが、受験勉強のために池袋の河合塾に通っていた。そこにはチューターという役割の大学生がいて、授業前に幾つかのアナウンスと、ちょっとおもしろい小話を挟んでいた。ある日の小話のテーマは、アキレスと亀だった。この話にどう説明を付けるかという問いに対して、私はただ 9/9 という分数をひとつ書いて提出した。次回の授業で、そのチューターがこの謎めいた答えは面白いので説明が聞きたいと言ったのだが、私は恥ずかしがって名乗り出なかった。

言葉にするのは面倒だったが、その時思ったのはこういうことだった。1/9というのは有理数である。1/9を小数表記すると、0.1111...という循環小数で表せる。その9倍は各桁が9倍されて0.9999...という循環小数になる。ところが、1/9の9倍は9/9である。約分すると1である。通常は1=9/9=0.9999...とされるわけだが、この2つの等号を両方認めるとすると、アキレスと亀のパラドックスはパラドックスではなく、アキレスは亀に追いつくことができる。

ただしこの場合、1の小数表現である1.0000...という暗黙の循環小数表現と、0.9999...という明示的な循環小数表現では、小数点以下のどの桁の数字も一致しないにも関わらず、その表現する数値は一致するということを認めなければならない。1.0000...表記の桁数は自明に無限だとして、0.9999...という表記は有限個の9を並べてひとつずつ増やすという過程を無限回繰り返したものである。有限回の繰り返しだと両者は一致しないことが明らかなので、「いくら続けても同じだ」という考えのもとでは、小数点以下に9を無限に書いた循環小数は1と一致しないということになる。

なので、1=9/9か9/9=0.9999...のどちらかの等式が否定されることになる。これを否定できないとすると、「いくら続けても同じだ」というそもそもの論理が否定されることになる。たかだか有限回ならいくら9を並べても1には一致しないが、無限回繰り返せば1に等しくなるように、無限を特別扱いする必要がある。この特別扱いを認めるならアキレスと亀の話はパラドックスではないし、認めないようなら反証として正しい。要は定義と解釈の問題なのだろうと思ったが、うまく説明できず、9/9とだけ書いた。

ただ、古典的な数学では、有限回の過程と同じことを果てしなく繰り返せるという、数の性質が変わるような上限がないという状況が無限と呼ばれるだけだから、数としての無限というのは便宜的な状態であって、有限の数と論理的に区別されるものであってはならない。そういう意味では、1/9や1/3のように10進表現で循環小数が必要となる有理数は、そもそも小数表現不能であると見るのが正しいように思う。

アキレスと亀が物理学の問題であれば、「そうは言っても実測上、足の早い人が足の遅い亀を追い抜くことはしばしば観測される。したがって、無限小の距離を無限小の時間で通過できるようなアキレスと亀の問題の場合は、有限の時間で追い越すことが可能であるような数理体系を採用しよう」ということで簡単に結論が出せる。ただ、純粋数学でなら、もう少し議論の余地がある。別にアキレスが亀を追い抜くことができない数理体系になっても知ったこっちゃないのが現代数学なのだ。それ自体が無矛盾な系になるなら、それはそれで興味深い数理体系として数学的議論の対象となる。

物理学であれば観測現象を無理なく説明するという要請から1=9/9=0.9999...を認めることになるわけだが、数学的立場から、とりあえず9/9≠0.9999...を導入して、循環小数を有理数の表現として認めないことにしよう。9/10は1と異なる。99/100は1とは異なる。999/1000は1とは異なる。このように、分子を10倍して9を足し、分母を10倍して次の有理数を得る。細かい話は省略するが、数学的帰納法により、この過程を無限回繰り返しても1にはならない。1にいくらでも近づくことができるが、無限回の過程を繰り返したところで決して1にはならないのだ。証明を省いたのでナンだが、これが定理になる。

つまり、有理数には10進法で小数表現可能なものと小数表現不能なものがある。循環小数はあくまで近似表現である。1/10は10進法なら0.1だが、2進法では循環小数となり、上と同様の定理が成立し小数表現不能である。有理数は実数の部分集合であるから、実数にも小数表現不能であるものが存在する。そもそも、同じ考え方に立てば全ての無理数は小数表現不能になる。というのも、無限桁の自明でないn進小数は、分母がnを無限回掛け合わせた整数、分子も無限桁の整数であるような、ある有理数の別表現に過ぎない。だから、定義的にそれは無理数ではなく、無理数は小数表現できない。

カントールは「全ての実数を並べた列に自然数の番号を振る」という仮定が対角線論法により矛盾することで背理法により実数濃度が可算濃度より大きいことを示したが、上で述べた定理が成立する系ではそもそも全ての実数を小数表記可能とした仮定が偽であるから、対角線論法は無意味である。

実際、ZFC公理系では連続体濃度の考え方から導かれる連続体仮説が、真でも偽でもZFCの中にある定理に影響を与えない、「つまらない問題」であることが証明されている。カントール集合の考え方は面白かったが、連続体濃度の考え方はつまらないものだった。ただし、カントールによる連続体濃度の定義が不十分なだけであって、可算無限に達した状態を有限の状態と質的に区別するための何らかの定義が追加できれば、それは面白いものになるかもしれない。今はまだ連続体濃度はつまらない概念だが、それを面白い概念に転換するアイデアは、どこかに残されているのかもしれない。

さて、話をアキレスと亀に戻す。物理学の前提では、アキレスが亀を追い越せなくなるような数学では困るわけで、アキレスが難なく亀を追い越せるような細工を数学に対して施す必要がある。ひとつは、アキレスと亀の位置と時間を実数という連続量で表せるというニュートン力学で主流の前提を活かしながら、それでもアキレスが亀を追い越せるような細工を、自然界が持つべき物理法則を表す数学に対して施すことになる。

この場合、アキレスが亀に追いつくまでには最初に説明したように無限回のプロセスが発生するわけだが、その所要時間はどんどん短くなり、無限小に近づく。これにより、自然界は無限小時間のプロセスであれば無限回のプロセスを有限時間で終わらせることができるという性質が要請される。9/9=0.9999...みたいなものを数学に認めさせることになる。またこの性質により、亀に追いついたアキレスは、次に無限小時間のプロセスを無限回繰り返すことにより、「アキレスと亀の位置は等しい」という状態から「アキレスと亀の位置は等しくない」という状態へ脱出できるようになり、亀を抜き去ることができる。

解析学で頭を悩まされた、極限値というやつの正体がこれである。物理学においては、無限数列の和と、その先にある、本来は別のものであるはずの極限値が、無意識にすり替えられる。これは論理的に考えるとおかしなことなので、若い頭は悩まされることになるのであった。ここで哲学的な疑問を感じず当たり前と思えるような素直な思考の持ち主は古典物理学に親しむことができ、そういう人は逆に小学校で教える掛け算の順序に規則を設けたりされると理解できず激怒する。

現実世界を矛盾なく表せるようにするための細工としては、もう一つの方法がある。それは、量子力学的に、位置や時間に無限分割を認めず、それらが離散的な素量が有限個だけ積み上がった整数ないし有理数で表現されると考えるやり方だ。この場合、ある1単位時間の経過でアキレスが動くこともあれば亀が動くこともある。両者動くこともあれば、両者とも動かないこともある。

いかに神話に俊足名高い英雄アキレウスといえども、神ならぬ人間ゆえ光速に比べれば停止しているも同然の速度で走っているだろうから、単位時間にはせいぜい1単位距離を動くことがあるかどうかで、大半の瞬間は全く動かないということになるだろう。このモデルでのアキレスと亀の速さの違いは、1単位時間が経過する際に1単位距離を移動するという事象が発生する確率の大小で表現されることになる。

となれば、スタートから有限回の単位時間が経過したところで、アキレス(の体の中で一番前方にあるフェルミオン)は亀(の体の中で一番後方にあるフェルミオン)から1単位距離だけ後ろに位置することができる。次に、アキレス(の体の中で一番前方にあるフェルミオン)が1単位距離だけ進む事象が発生したとする。このとき、アキレスは亀に追いつき、またそれに要した時間は有限であり、またそこに含まれるプロセス(単位時間の経過回数)はたかだか有限回である。

同様に、アキレスが移動する確率は亀が移動する確率より高いので、十分大きい回数の単位時間が経過すると、アキレスの体全体が亀の体全体より前に移動する瞬間が訪れるだろう。そこまでに、十分に大きいとは言え、それでもたかだか有限回のプロセスしか必要としない。アキレスや亀の位置をその重心に置くとしたら、彼らの体を構成する粒子の位置の平均ということになるので距離素量より小さい刻みになるが、それにしても算術平均なら彼らの位置は有理数で表現できるだろう。

個人的には、ニュートン力学的に時間の無限分割での無矛盾を数学側に要請するやり方よりも、アキレスと亀のパラドックスを反証として認めて原子論的な立場から時間の無限分割を否定し、離散時間を物理の側に要請するほうが、考え方としては現代的で馴染みやすいように思う。運動量の正体がなんなのか、つまり粒子が単位時間あたりに位置移動する確率の内側にある「隠されたパラメータ」がなんなのかという謎は残るが、そこは4次元を超えるモデルなどの新しい数学の出番となるのだろう。

無理数というのは有理数と質的に違うものなのだが、たとえば円周率でもアークタンジェントのテイラー展開によって有理数列の和にできるので、無理数である円周率そのものは自然数と四則演算で求められないにしても、四則演算の繰り返しによっていくらでも円周率の真値に近づくことはできる。その無限に近づいた状態の値を、物理学者が考えるように円周率そのものとして認めてしまうような系では、有理数と無理数の区別は無意味なものになり、それはそれで面白い気がする。数学というのは窮屈な規則の集まりだが、反面、規則を定めるにあたっては至極自由なものなので、そこが面白い。

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by antonin | 2017-05-02 15:44 | Trackback | Comments(0)

受想行識亦復如是

※ 読む人も少ないだろうから、人間の知能を五蘊に分解する考え方の説明は省く。

以前は、「いわゆる人工知能」の下層(「受」「想」のあたり)までをコネクショニズムで実現し、「行」については従来通りチューリングマシンが受け持ち、「識」は人間が専有するのが良いのではないかと思っていたが、最近はやはりコネクショニズムで五蘊の全域をカバーし、下層の一部に古典的なチューリングマシンを組み込むのが良いと思うようになってきた。

ヒントン先生は教師なし学習するネットワークを下位に組み込むことでバックプロパゲーションの限界(多層化が認識率向上に寄与しないという問題)を打破したけれども、そこで用いた、「より少ない内部情報で、より多くの入力情報を再現する」という基本戦略にはかなり汎用性があるのではないかという気がしている。

最近話題の「人工知能」が出来るようになったことというのは、「色」(センサー)から取得した生情報を単純にフィルタリングしてエッジ情報などの特徴要素を抽出する「受」(シグナルプロセッシング)と、そこから何が見えているかを判定する「想」(コグニション)までの部分で、特に「想」の部分が従来のディジタルプロセスが苦手としていた部分になる。

何があるかを認識できている状態(想)が外部から与えられた場合に、そこから次にどうすべきかを判断する「行」の部分を実行するのが、古典的なチューリングマシン上のプログラムだった。だが、FORTRANの昔から「自動プログラミング」の名のもとにいろいろの研究が行われてきたものの、チューリングマシンがプログラムを本当の意味で自動生成するには至っていない。

であれば、「いわゆる人工知能」に至るまでには、「行」のレベルもコネクショニズムによる自動学習をするしかないように思う。コネクショニズムによる行のレベルの実現に成功すれば、その延長上に「行」のコントロールを学習する「識」の実現も見えてくるし、場合によっては「識」のコントロールを学習する、超人的知能の実現も見えてくる。

自明な「色」のレベルや、さほど可能性の幅が広くない「受」のレベルでは、パーセプトロンやバックプロパゲーションの世代でも破綻しなかったくらいで特に大きな問題はないが、現在のディープラーニングが実現している「想」の水準の上に「行」の水準を乗せるには、ある程度新しい技術が必要になるだろう。そしてそれはおそらく、google翻訳が導入しているような「注意」の機能、つまり文脈を特定し保持する機能になるだろう。

上層(入出力から遠い層)は下層(入出力に近い層)から得られるパターンを認識し、統合的な「解釈」を得る。そして、その解釈パターンを文脈情報として下層にフィードバックすると、下層は一時的に解釈に沿う認識を優先させるようになる。入力が多義的にとらえられるような曖昧なものである場合、上層から与えられる文脈情報(解釈)によって認識率が上がるだろう。ただし、解釈が間違っていると「勘違い」の状態に陥る可能性が上がる。勘違いを避けるには、より広い周辺情報の認識が必要になる。

「この流れでは、この情報をこう解釈するのが当たり前」という感覚が人間の認識には付きものだが、上層が下層へ認識をフィードバックして情報の取捨選択を制御することで、カクテルパーティー効果のような認識率向上が望めるだろう。このことで人工知能はおそらく「より人間的」になるだろうが、また一方で、「より凡人的」になるだろう。

先日、ソフトウェアが将棋囲碁で名人をコテンパンにしたが、現在の将棋囲碁ソフトはおそらく、分厚い「想」と、薄っぺらい「行」があるだけで、「識」は全く無いはずだ。「想」というのは、とにかく対戦経験を積むうちに磨かれる、盤面状態に対する「直感」であり、統計的な「定石」の判断や、中盤での「大局観」もこの中に含まれる。眠る必要もなく疲れも知らないソフトウェアは、ソフトウェア同士の対戦も含め異常に多くの経験を積んでおり、「想」のレベルでの蓄積は超人的に分厚いはずだ。

一方の「行」はというと、「最終的に勝つ」という自明な目標に加え、「終盤は詰めに持ち込む」だとか、ごく基本的な理屈を除けば、現在のソフトウェアではあまり複雑な目標は持っていないはずだ。ルールを守るのに最低限必要なもの以外の目的を排除したほうが、人間で言うところの「無心」になることができ、「想」の水準での直感的な学習が研ぎ澄まされていくはずだ。

人間はというと、「今日はこの戦術で行こう」だとか「この手筋なら相手はこの戦術に持ち込もうとしているはずだ」という「行」のレベルの思考をいろいろとやっている。このことによって、「想」の水準の認識に文脈情報を与え、ある特定の文脈での認識率を高め、効率向上を図っている。しかし、それは「プロ棋士の常識」であっても、将棋のルールが与える全空間での認識率を高めるとは限らない。常識外の認識率を落としている代わりとして、常識内での認識率を上げることが可能になっている。

しかも人間の場合、「この局面でこう戦術変更したら、師匠の助言に逆らうことにはなりはしないか」というような、「行」の上にある「識」までが雑念として邪魔をしてくることもある。ソフトウェアには今のところ「識」はない。「ソフトウェアが名人を倒してしまって良いものだろうか」とか「こんな手は失礼には当たらないだろうか」という葛藤をするための機能は、おそらく実装されていないだろう。

こういう人工知能は、非人間的な厳しさで特訓され尽くした5歳児のようなもので、特定分野について天才的な能力を持つ一方で、普通の大人が持つバランスの取れた人格は未成熟、あるいは全く無いような状態になる。天才型の究極といった形になっている。上位の認識結果が文脈情報として下位の認識をコントロールするということが人間的に曖昧な情報を処理するための鍵となるが、一方で「上位の認識」が過去の学習対象に対して硬直的過ぎると、文脈情報が固定化されすぎ、下位の認識が単調になる。これが、発達した人工知能の「凡人化」の原因になる。

人工知能の凡人化を避けるには2つの方向性があり、ひとつは、ネットワークに割り当てるモデルニューロンを豊富にし、より幅広い解釈について学習させるという正攻法になる。もうひとつは、創造的な、しかし誤りに陥る危険を伴う方法で、複数のランダムな解釈パターンを下位層に送り、揺らぐ認識の中から最も良い解釈を探るという方法になる。前者は秀才的で、後者は天才的である。

上位層の解釈が下位層の認識を統合する作用であるとすると、創造的な認識というのは一種の脱統合ということになる。「行」がランダムホッピングして「想」の統合を解くのであれば、最終的に「アハ体験」みたいな創造的なアイデアが得られるかもしれないが、「想」がランダムホッピングして「受」の統合が解かれれば、幻聴や幻覚につながる可能性がある。

常識的な固定観念を緩める程度であれば天才的創造力を導出可能になるが、一方で、強烈な精神的ショックで自然な自明性を喪失するレベルになり、統合の乱れが「受」の階層にまで及ぶと、統合失調の様相を呈するのだろう。「想」と「受」の区別が恣意的なもので、実際のネットワーク上では連続的であることを考えると、「天才と気違いは紙一重」というのはそういうことなのではないか。

囲碁や将棋のソフトのような直感の塊のような段階を過ぎ、行や識の機能が実用的になり始める、「いわゆる人工知能」の初期段階では、まずは凡人的な、安定して常識的な認識が優先して求められるだろう。そういう常識的な人工知能が普及してくると、次には「コントロールされた狂気」であるところの統合緩和が行われ、人工知能が少しずつ創造的な発見や発明をできるようになってくるはずだ。

技術的課題を乗り越えて、そういう人工知能が現れるには、どう少なく見積もってもあと30年はかかると思うが、その時代に「人間にしかできないこと」とはなんなのだろう。疲れることと飽きることと、その周辺、といった具合になるのかもしれない。疲れることと飽きることが高度な学習にとって根源的なのであれば人工知能もこれを実装せざるを得ないが、実際はどうなのだろう。

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by antonin | 2017-05-02 03:26 | Trackback | Comments(0)

水分子と日本人は似ている

油やフッ素化合物を塗った表面は水を弾くが、あれは実は、水分子どうしの分子間力が強すぎて、水分子が隣の分子と離れようとしないために起こっている。水分子の集まりである水滴の表面にいる水分子は、内側の水分子に強く引きつけられて、水分子が外に露出する表面をなるべく小さくしようとする力が働く。これを表面張力という。

その強すぎる表面張力によって、水滴のほうが油やフッ素化合物を界面の外に弾き出している。油やフッ素化合物は電気的な分極による分子間力が弱い。こういう物質は水に弾かれる。油が水を弾いているのではなくて、水のほうに油を弾き出す原動力がある。

一方、塩は水によく溶ける。「塩」は広く「エン」と読んでもいいが、ここでは「しお」と読んで、食塩を考える。水に溶けない塩(エン)もある。塩は個体であっても陽イオンと陰イオンを保っていて、NaClという分子になっているわけではない。Na+というイオンと、Cl-というイオンが、イオンのまま静電気のような力で互いに張り付いている。

ナトリウムイオンや塩化物イオンは、水分子の分極以上に電荷が強い。けれども、塩はプラスとマイナスに分解してしまう。水分子は、分子内にプラスとマイナスを持ち、分解しない。プロトンの貸し借りはするけれども。

塩から出たプラスイオンのまわりには、酸素を内側に向けた水分子が集まってきて、水素を外に向けた水和クラスターができる。水分子では電気陰性度の高い酸素原子の側にマイナスの電荷が偏っていて、逆に電子を酸素に奪われ気味の水素原子の側では、水素原子核であるプロトン(陽子)がやや透けて見えるようにプラスの電荷を帯びている。

マイナスイオンのまわりには、水素を向けた水分子が集まってきて、酸素を外に寄せたクラスターができる。ただし、水素は2個あるので、2個とも内側に向けられることもあれば、まわりの水分子が邪魔で、1個しかマイナスイオンの方に向けられないこともある。

強い電荷のまわりには、それがプラスだろうがマイナスだろうが、水分子の取り巻きができる。水分子はプラスもマイナスも持っているし、その割には身が小さいので、そういう事ができる。そういう取り巻きの力で、塩のイオンたちはバラバラにされてしまう。イオンのまわりに水分子たちが取り付いて、あたかも大きな一つのイオンのように振る舞うが、本来のイオンは中心にいる外来のイオンだけで、取り巻きの水分子たちはただそちらの方を向いているだけにしか過ぎない。

水分子同士の結合は強いので、一つの分子を引き剥がすのには強い力が必要だが、水分子は軽いので、一度引き剥がしてしまえば運び去るのにはそれほどエネルギーを使わない。液体の水の表面にいる水分子が空気中の分子の熱運動に叩かれたりすると、どんどん飛び出していき、しまいには全部水蒸気になってしまう。しかしある程度の水分子が集まると、同じ水分子同士で集まり、その分子どうしの結びつきは強い。

油はというと、その分子の重さのために空気に飛ばされにくいために集まって油滴になるが、水分子は極性による分子間の結合力、仲間うちの結び付きの強さによって水滴になる。油の仲間ではメタンが水分子より少し軽いくらいだが、これを液体にするには-161.5°Cまで冷やす必要がある。この水分子の結びつきの原動力である、電気的な極性を共有できない物質は、水分子どうしの結合力に馴染めないことによって、結果的に弾き出される。

油の分子というのは、必ずしも同じ形ではなくても、炭化水素骨格を持っているような、おおよそ似た構造の分子であれば、互いに溶け合える。原油とは、いろいろな重さの、いろいろな形の炭化水素系分子の混ざりもののことで、そこから蒸留によって精製したガソリンや灯油であっても、やはりある程度の範囲の沸点をもつ分子の混ざりものになっている。

イオンどうしの場合も、電荷のバランスと大きさで結晶構造が変わる程度で、プラスとマイナスならどのようなイオンとでも結びつく。水の場合、その特徴的な分子の形から、ある程度相手を選ぶところが違う。

均質な水分子同士の相性はいいが、隣り合う水分子同士の結合は水素結合という比較的強い結び付きになっていて、なおかつ2個の水素が104.5度という微妙な角度で付いているため、両隣の水分子との関係の維持は複雑なものになる。水素の付いていない側の酸素には、隣接する2分子の水分子から水素を1つずつ引き付けており、水分子は通常4個の隣接分子と結びついている。

この結びつきが強すぎて、適温で液体を作っているときはお隣さんをときどき入れ替えながら仲良くやっているが、温度を下げて乱れを排して組織を固定すると、結合が強すぎて逆に隣の分子との距離が広がる。だから氷は膨張して水に浮く。氷では水素と酸素の結び付きは固定され、分子は回転することもできない。

氷の表面にはまだ結合していない水素か酸素がむき出しになっていて、空気中に水分子がある場合、磁石の塊に別の磁石が付くようにして氷の表面に固定されていく。この過程が、霜や雪の結晶を作り出す。

液体の水では、お隣さんの水分子との間で、ときどき水素の貸し借りが行われる。水素と言っても原子核の周りを電子が取り巻いた原子の状態ではなく、もちろんH2の水素分子ではなく、分子全体の電子雲は保ったまま、水素原子核であるプロトンだけを貸し借りする。水素を借りた水分子はH3O+になり、貸した分子はOH-になる。借りた水素が貸主に返される場合もあるが、別の水分子に又貸しされたり、貸した方も別の水分子から水素を取り上げたりする。

液体の水の中では水素原子核(プロトン)は天下の回りものなので、水分子の間を適当に流通していく。水素結合と、そういう水素の貸し借りには、不可分の関係がある。こうしてプロトンをやり取りしているうちに、貸し手と借り手が離れ離れになって残ってしまったH3O+とOH-が、常温の水の場合だと水分子180万個に一組くらいの割合で常に存在する。

外から水素の貸し手(酸)がやってくると、H3O+が優勢になり、水は酸性になる。逆に水素の借り手(塩基)がやってくると、今度はOH-が優勢になって、水はアルカリ性になる。H3O+が減った時にだけ水素を貸し出し、H3O+が増えると水素の返済を受け入れるような貸し手(弱酸)がいる一方で、押し貸しをして、なかなか返済を受け入れないような貸し手(強酸)もいる。塩基にも同じような強弱の区別がある。


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by antonin | 2016-06-04 01:49 | Trackback | Comments(0)

光は本当に量子なのか

光ってなんなんだろう、というのをブツブツ考えている。今や、光というのは光量子、フォトンというものだということが常識になっていて、波動か粒子かなんていう議論はとうの昔にケリが付いたことになっている。けれどもよくよく考えると、どこの説明を読んでも、光が粒子性、あるいは離散性みたいな性質を示す場合というのは、何かの物質粒子、つまり質量のあるフェルミオンとの相互作用を起こした場合に限られるように思える。

光そのものというのはフェルミオンのような状態の排他性がないので、空間的にもポテンシャル的にも線形性がある。この状態のままだと人間からは測定できないので、何らかの物質粒子と相互作用させて、物質側の状態変化を観測している。電流として光を観測するにしても、最初に電子というフェルミオンが媒介していて、純粋な電磁波そのものを直接に観測しているのではなく、電磁波と相互作用する電子の状態を通じて観測している。

そういう観測をすると、光は量子性を示す。なので確かに数式上では光を量子として扱うのが美しい記述になるのだけれども、実験結果などを考えるとき、光自身が量子であると考えてしまうと、スリット干渉実験などのようにいろいろと納得のいかない現象が多い。そこで、光、つまりは電磁波というのはあくまで純粋に近い波動であり、電磁波が物質粒子と相互作用する場合には物質粒子の性質として量子性が出てしまうのではないかと考えるようになった。

ミクロスケールでは電子をはじめとした物質粒子もド・ブロイの物質波という波動性を持っているが、人間が物理観測に使えるような素子では、何らかの結晶質のような空間的に束縛された状態の物質を使っている場合が多い。そういう、TEMなんかを使うと個々の原子のツブツブが見えてしまうような粒子性を示す状態のフェルミオンで電磁波を観測しているのだが、人間が想像する以上にそのフェルミオンというのは広範な波動を持っているんじゃないかという気がしている。

統計的に意味のあるレベルでは各粒子は格子点に局在化しているのだが、光のような波動と相互作用する場合には、意外にブロードな、結構非局在化した物質側の波動が広がっていて、それが純波動である電磁波と相互作用し、たとえば感光反応などの場合には、たまたま何らかの位相が合った粒子が "winner gets all" 式に、ある空間の電磁波のエネルギーを粒子が拘束されている中央付近に集めてしまうのではないかという気がしている。実際、格子点に束縛されていない単原子で光を「観測」してみても、光量子の状態はほとんど収束しないものらしい。

光は3原色から成っています、というのは小学校や中学校の理科の知識としては正しいのだけれども、網膜の錐体細胞内で起こっている光化学反応あたりを理解すると、3原色というのは別に光の性質などではなくて、それを受容する視神経の性質に過ぎないということがわかるようになる。これと同じように、光をフォトンという量子として扱うというのは、あくまで数式上のテクニックに過ぎず、実際のところ量子性というのは光の性質などではなく、光と相互作用する際のフェルミオンの性質に過ぎないんじゃないのか。

そう考えると、マルチパス観測で「光子」が通過しただのなんだのというのは、単に観測側のフェルミオンの波動がどういう形で広がるかというあたりをいじっているに過ぎず、電磁波はあくまで波動として広く並行的に拡散しているんですよ、ということになる。だから、光が「通過した」とか「通過していない」とかは実は観測できていなくて、光はどちらの検出器に検出されるかにかかわらず常にどちらのスリットも通過していることになる。

一方、光の「通過」を観測するかどうかを制御することで、通過点で観測に使っているフェルミオン側の波動の広がり方が、実は観測側にも同時的な影響を与えてしまっていて、その相関が一様に進行する電磁波と観測点の物質粒子の相互作用に影響してしまっているに過ぎないんじゃないかと考え始めている。ハミルトニアンなんかで記述できる既知の波動関数ではなくて、M理論とつながってくるような、もっと高次元で、いわゆる粒子の領域よりずっと広い範囲に影響する波動があって、それが電磁波と相互作用しているんじゃないのか。

ただ、そのフェルミオンが光と相互作用する場合の具合が、EPR相関などでもわかるように、必ずしも局所的でも光速に縛られた因果的なものでもないので、ちょっとマクロ世界の常識が通じにくいというところは残る。ただ、これにしても光速より早く伝わる因果関係は無いという常識を捨てれば、むしろマクロ世界のように光のような非常に速い伝達と水面の波のような遅い伝達があるモデルを持ち込みやすいような気がする。

逆に考えると、量子が「素粒子」に近いものであるという発想自体が大きな間違いで、電磁波が大数法則にしたがうマクロな波動と見なせるほど広大なミクロ世界が、電子などのレプトンより下のスケールにもまだまだ広がっているという方が正しいのかもしれない。

こういうことを考えはするのだけれども、それを裏付ける傍証の調査などをする気力もなく、プログラムのユニットテストの方法論なんていう実用的な情報を集めるのもそこそこ楽しく、また通勤時間などはまとまりのつかないSNS情報の流し読みなどで潰れていったりもするので、こういう妄想を確信に変えるほどのことはできないんだろうなぁ、という気がして、なんだか気怠い。

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by antonin | 2015-03-17 23:48 | Trackback | Comments(0)

1+1は2か3か

「イチたすイチは~ ニかサンか~」とか歌っているCMが昔にあったような記憶がある。子供向けの文具か教材か、そんなようなCMだったと思うが、どんな内容なのかはすっかり忘れてしまった。それなのに、この「1+1は2か3か」という文句だけが記憶に残っている。

ブール代数を初めて知ったとき、1+1が2ではなく1になるという演算があるのを知って楽しかった覚えがある。そういう流れで、この「1+1は2か3か」という冗談のような歌が妙に気になっていたのだろう。1+1が2というのはごく普通の算術演算だとして、1+1が3というのは、いったいどんな演算がありうるんだろうと気になっていた。

それから長い年月が流れたが、去年のあるあたりに、ふとひらめいたことがあって、なんとか1+1が3になる演算を考えついた。そのあたりをダラダラと書いていこうと思う。

1+1=1 というブール演算は、そもそも数値として0と1しか存在しない。自然数の集合がアレフゼロという無限の個数なのに対して、ブール束の元は2個しかない。1+1=3となる代数系に似たような制限を掛けるとしても、0,1,2,3と最低でも4個の数値は必要になりそうで、これは面倒だった。しかし、よく考えてみると、今は足し算だけで掛け算は必要ないわけだし、乗算の零元である0というのは必要ないかもしれない。「1+1は2か3か」という歌にも1と2と3しか出てこないのだから、今考えようとしている代数系の元は3個で十分なのかもしれない。

というところまで考えて、ブール代数のようなロジックにトライステート ロジックというのがあったな、ということを思い出した。通常のロジック(論理)が「真」と「偽」だけを使うのに対し、トライステート ロジックというのは、第三の状態である「どっちでもいい」という状態を持った論理回路のことを指す。

デジタル回路 #スリーステート・バッファ - Wikipedia

学生時代には確かに「トライステート」と習った覚えがあるのだが、上記ページによると、その呼び方はナショセミの登録商標だったらしく、知財フリーな辞書表現だと「スリーステート」となるようだ。ジェットエンジンの「アフターバーナー」がGEの登録商標だと知ったときと似たような、微妙な感じがして面白い。

ともかく、トライステートというのには、真か偽かはっきり決まる状態以外にも「ハイインピーダンス」という状態があって、真か偽かの決定は接続先かデフォルト設定に任せるという、独特の出力状態のある論理回路になっている。委任票というのか、結論を相手に任せるモードを取りうるロジックということで考え方として面白いのだが、この3状態論理というのが今考えようとしている演算に使えそうだった。

トライステートのハイインピーダンス状態というのは、プルアップするのかプルダウンするのか、あるいは別のロジック出力に合わせるのかというあたりは、そのロジックを使って回路を組む設計者に任されている。ところが代数系を考えるときはそういう自由度は面倒なことになるので、ハイインピーダンスではなく「真偽不定」という状態と考えることにしてみる。

A+Bというブール演算は、A or Bという論理演算に相当するので、たとえばA=1、つまり「Aは真である」というのが確定した場合には、Bが0だろうと1だろうと結果は1になる。なので、真偽不定の状態をXと置くと、1+X=1となる。Aが0の場合にはこうはならなくて、結果はBの値に等しくなるから、Bが定まらないうちは結果も定まらない。なので、0+X=Xとなる。A・Bの場合、つまりA and Bの場合には、逆にA=0のときに結果が0に定まって0・X=0となり、A=1のときに結果が不定になって1・X=Xとなる。

この不定値を含んだ3状態論理を使いたいのだが、and にしても or にしても、1+1=3のように、同値の組み合わせから別の状態が出てくる演算にはならない。そこで、ブール代数上で0と0から1が出てくる演算として、「同値」"equivalent" というのを使ってみることにする。この同値というのは、昔の Microsoft 系 BASIC 言語には論理演算子 "EQV" として組み込まれていたのだが、最近はあまり見ない。C言語的に書くと、!(a ^ b) のことで、「排他的論理和」"exclusive or" の否定を取ったものになる。

排他的論理和というのには論理学的な意味があって、「田中さんは家にいますか、それとも会社にいますか」と聞いたときに「会社にいます」と答えた場合、普通は「じゃあ田中さんは家にはいないんだな」と考えるのだが、実は田中さんは町工場の経営者で、自宅兼会社に住んでいるというケースもありうる。この場合、「家にもいるし、会社にもいる」というのを、普通の論理和(or)は許容する。けれどもそれだと自然言語の「または」の意味を正確に記述できない場合があるということで、この排他的論理和というやつが生まれた。

排他的論理和を演算として見ると、結果が1になるのはA=0でB=1の場合と、A=1でB=0の場合だけということになり、「AとBは異なる」という意味にもなっている。同値演算というのはこの逆で、A=0でB=0の場合と、A=1でB=1の場合にだけ、結果が1となる。これに排他的論理和のような古典論理学的な意味付けができるという話は聞いたことがないが、何かあるのだろうか。

話が逸れたが、この同値演算は0+0=1という性質を持っているから、これを3状態論理に持ち込めば、1+1=1の呪縛から逃れることができる。ということで、まず真をT、偽をF、不定をXとして真理値表を作ってみる。

b0004933_00234760.png

「AとBが同じかどうか」なので、片方でも不定になると結果は自動的に不定になる。それで上の図のようになる。

そしていよいよ、このFを1に、Xを2に、Tを3にそれぞれ読み替える。最後に、この同値演算の演算子として無理やり「+」記号を当てはめてみる。すると、こうなる。

1+1=3
1+2=2
1+3=1
2+1=2
2+2=2
2+3=2
3+1=1
3+2=2
3+3=3

なかなか謎めいた、良い演算になった。というわけで、1+1=3という演算は存在する(いま作ったから)。

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by antonin | 2015-01-24 00:02 | Trackback | Comments(0)

web 3.0へ

エキサイトブログが10周年だということで、10年前に雨後の竹の子のように現れた無料ブログサービスの中では先頭集団最後尾あたりに位置したエキサイトブログが、やはりブログ10周年イベントの流れにやや周回遅れで登場してきたが、当時の時流との微妙な位置関係を10年ぶりに再現していて面白い。私も10年前の7月の終わりに最初の投稿をしたのだけれども、実は2004年の7月にサービスインしたのはエキサイトブログ正式版のほうで、ベータサービスのほうはもっと早くから始まっていた。

だから、本格的に登場し始めたブログサービスを比較吟味していたようなタイプの人たちは、このベータサービス時代からブログを開始しており、既に10年を少し超える経歴を持っている。もっとも、そういう時期にエキサイトブログを味見した人で、今もそれなりにエキサイトブログを使い続けている人というのはあまり多くはないので、そういう人達の意見を探すのは難しいかもしれない。

web 2.0ブームの時に話題になったサービスを指して「終わった」と語る人も多いけれども、「その」サービスに限らず、web 2.0的な、社会的な構造をぶち破って世界中をフラットな関係で結ぶ、といった理念が全体的に終わっている状況なんだと思う。当時のwebというのは、結局はコンピュータを使って情報を摂取したり提供したりすることが大好きな集団のたまり場だったわけで、インターネットを利用しているということそのものがある階層をフィルタリングできていた。ところが、スマートフォンなどを介して、かなり広い階層から様々な属性を持った人が無差別にweb 2.0の世界に流入することで、構造のないフラットなネットワークが色々と無用の問題を引き起こすようになった。今後は、ネットの世界にも実社会と似た構造を再現した、フラットではなくwell structuredなweb 3.0が必要になってくるし、必要である以上は程なくしてそういうものが作られるだろう。

個人的には、書籍のような静的な情報が上がっていたweb 1.0が、テレビや新聞と同じような動的で揮発性の情報を主体とするweb 2.0の時代に入った時点で結構白けた気分になっていて、blogでも好んでweb 1.0的な資料サイトを検索で拾っては記録していたころがあった。最近ではそういう資料にリンクするのも面倒になって、時事ネタを肴に無責任なオピニオンばっかり並べるようになったが、こういうあたりが死にかけのweb 2.xっぽくて、それはそれで気に入っていた。

これから登場するweb 3.0はおそらく実用的だが、web 2.0のようにオープンではないし、web 2.0のような狂った祝祭的感覚もないだろうから、あまり語り好きの人々の話題に上ることもないだろう。そしてweb 2.0の狂った熱狂は、技術的な熱狂期に人生のピークを重ねた人々によって、ノスタルジックに語られるようになるに違いない。フリーソフトが流通していた時代のPC文化だとか、マルクスや少年マガジンを小脇に抱えつつ政治を論じていた学生文化のように。

成熟とは素晴らしいことだが、退屈な場合も多い。退屈になりきらない偉人もいるが、そういう人は希少だからこそ偉人として尊重される。人類は月の次に木星を目指したりしなかったが、通信衛星や気象衛星などは当たり前のように現在の私たちの生活を支えている。そこに情熱的なドラマを見出すのは難しいが、サターンVよりもずっと洗練されている。web も今や成熟した産業であり、重要ではあるが保守的で地味な分野になっていくだろう。かつての鉄道のように、かつての自動車のように、情報通信はあこがれの存在から空気のような存在になっていくだろう。

さて、その次には何が来るのか。いま最右翼にあるのは生命技術だけれども、それが爛熟期を迎えるころには、チャペックが初めてロボットを描いた時のように人工生命の創造に手を染めたりするんだろうか。シド・ミードが描いたような退廃的な都市風景はないにしても、レプリカント的なものを生み出したりするんだろうか。あるいは、生命技術は最初から補助臓器のような地に足の着いた地味なもので満足するんだろうか。まあ、そのあたりは分からない。

映画「メトロポリス」に現れたような流線型の未来型車両が、空想の産物ではなくて当時実際に流行した鉄道車両をモデルとしていて、蒸気機関の末期には時速200kmを超える機関車も登場したなんていう話もしたくなったが、それはまた別の機会に取っておこう。

ある程度人生が長くなると、自分が子供のころの出来事が、歴史の一幕と思える程度に昔の出来事になる。隆盛を誇った文化が成熟して焚火から炭火のように変化していく様子も目に見えるようになる。私はまだアポロ計画が終わりきらないうちに生まれたけれども、自分が生まれる前にアポロ11号が月に到達してしまったことを悔しがるような時期があった。大阪万博が終わってから生まれたことを悔しがるようなこともあった。

twitterに間に合わなかった世代が果たしてそれを悔しがるような時代が来るんだろうか。あんまりそういう気がしないのだけれども、web 2.0の熱狂をノスタルジックに語る世代に育てられた子供は、ひょっとすると規制に縛られることで実用的になったweb 3.0に失望して、あるいはそういう懐古的な悔しがり方をするのかもしれない。

安倍総理率いるネトウヨたちの粋がりも、日清・日露戦争の熱狂に乗り遅れたことを悔しがっただろう昭和初期の青年将校たちと同じで、まあだいたいそんなあたりに位置しているんじゃないかと思う。戦争が大嫌いだと思っている私でも、子供のころには飛行機に乗って銃撃しまくるゲームで遊んでいたし、歴史小説で捨て身の総攻撃をするシーンを読めば、ちゃんとアドレナリンが噴出してきて、作中のBerserkerたちに感情移入できる。結局、ホモサピエンスのオスというのはそういうふうにできている。ディテールの汚さが忘れられる時代になると、こういう揺り戻しはある程度必然なんだろう。

今から20年後、web 2.0の熱狂があった「古き良き時代」を懐かしむ作品が作られ、時の若者たちはそれを見て白ける。更に30年後、その作品が半ば史実としてサブカルチャー好きの若者の憧れの対象となり、せっかく成熟したweb 3.0に対して、フラット化したwebの再興を謀る過激派が現れる。そういう時代の循環が見られるなら、それはそれで楽しそうではあるが。

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by antonin | 2014-07-06 23:00 | Trackback | Comments(0)

やや構造主義的に見る婚姻と雇用

ソースは面倒なので省略するけれども、結婚制度を緩和して、家族構成によらず育児を支援する社会システムを構築してきた北欧の国で、男女別の子供の人数を調査すると、女性は比較的均質な結果になるけれども、男性は過去に比べて子供を多く持つ人と子供を持たない人の格差が広がったのだという。簡単に言うと、結婚制度という人為的な規制を緩和して、市場原理的な、言い換えると淘汰原理的な状態にすると、次世代の個体数という指標で女性より男性の格差が広がったのだという。そしてこれは、ヒトという種の自然なあり方が復元された状態なのだと思う。

個体寿命は別として、生殖期間の長さで測ると、男性のほうが女性より長寿になる。ちょっと余裕を見て、生物的な生殖期間は男性が15歳から70歳くらい、女性が15歳から40歳くらいだろう。レアケースを入れればもっと幅は広くなるだろうが、目安としてはこの程度だろう。また、女性は受精、妊娠、出産、授乳など、育児に多大なリソースを割く必要がある。このため、生涯に出産可能な回数というのは、乳母などをフルに利用しても20回くらいに上限があるだろう。一方男性はそういうリソース負担がないので、複数の女性を相手にすることで理論上は最大2万回くらいにまで達する。

このため、女性というのは限られた資源であり、生殖期間にある女性の人数が次世代の出生数に対して支配的になる。一方男性というのは、少数が生き残れば多数の子供を作ることが可能なので、生殖期間にある男性の人数は次世代の出生数に対して支配的ではない。このことから、女性は遺伝子の保守面を担い、男性は競争と淘汰を担うことができる。人口がある程度増えたら、男同士を戦わせて生き残ったほうに子供を作らせることで進化的環境適合度を高めることができ、また女性が比較的競争の少ない環境で子供を作ることで遺伝子の多様性が保たれる。これが哺乳類のような資源非対称性の強い有性生殖種の進化戦略ということになる。

男女が一夫一婦制を取るということは、この競争原理を人為的に否定することを意味し、これを実施すると男性も女性も多様性が増す一方で、競争と進化のペースは落ちる。実は日本人のY染色体は大陸に比べて塩基配列の多様性が高く、日本人は歴史的に戦争の少ない、一夫一婦制に近い生き方をしてきたらしいということが遺伝子統計に出てくるらしい。大陸ではそういう平穏な期間が少なく、陸続きの面積が広いために高頻度で戦争が起こり、その結果として特定のY染色体塩基配列の占有率が高いということらしい。

戦争をせずとも、結婚制度を緩和し、未婚出産や離婚、再婚に寛容な社会制度にすると、男女の生殖関係の成立期間は短縮していく。すると、別離後の男女が別の組み合わせで生殖関係を結ぶのだが、このとき、女性は平均してそのチャンスがあるのに対し、男性の場合は特定の「受容度の高い」男性が多くの女性と関係を結び、その分だけ「受容度の低い」男性はその機会が少なくなるらしい。女性の場合、男性に対して高望みをしても、男性というのはシェア可能なので、一時的には女性の高望みは叶えられる。一方、男性が女性に対して高望みをした場合、女性はシェア不能なので高望みは叶えられない。叶えられるとすれば、アイドルやアニメなどの「関係の複製が可能」な女性のみということになる。

この男女間の関係を企業体と労働者の関係と対比することができる。

労働者である自然人というのは、だいたい18歳から68歳くらいまでの労働可能期間がある。そして、同時に複数の仕事はできないので、一人の労働者が生涯に提供できる生産労働力は50人年という計算になる。一方、雇用側である企業体は、最大で200年位の存続期間があり、また最大10万人くらいの労働力を同時に雇用可能なので、そのライフタイムで使用可能な生産労働力は2000万人年あたりが上限という計算になる。この生涯生産力の非対称を人間男女の生殖生産力モデルと対応付けると、企業が男性に相当し、労働者が女性に相当することになる。

となると、雇用・解雇規制を緩和した場合、企業間の競争力格差が広がり淘汰が活発になる一方で、労働者の被雇用機会というのはそれほど格差が広がらないことが予想される。大企業には高い雇用能力があり、かつ労働者を解雇しても代わりの労働者の応募も多いため、延べ人数では同時雇用人数の数倍から数百倍の労働者を雇用することが可能となる。このため、労働者が自身の実力以上に大企業志向を高めても、一時的にならばその高望みが叶えられる機会はそれなりにあるということになる。一方で、競争に勝ち残れない弱い企業体は、発足から一度も正規雇用を結ぶ労働者を得られないまま企業の寿命を終える場合が増える。

このアナロジーでは、正式な雇用関係と、正式な婚姻関係が等価になる。収益力の高い企業と収入の高い男性は、多くの正社員や多くの正室側室を養うことができる。また、中程度の収益力を持った企業と中程度の収入を持った男性は、少数の正社員と短期雇用の非正規労働者、そして生涯で数人の正妻と非正規の交際相手を持つことができる。そして収益力の少ない企業は労働者を雇用することができず、収入の少ない男性は女性と関係を結ぶことができない。これをゴニョゴニョと呼ぶとすれば、社長とアルバイトだけで正社員を雇用したことのない企業は素人ゴニョゴニョと呼べる。

このアナロジーが有効だとすると、雇用及び解雇に関する規制を緩和すると、巨大企業は商品市場と労働市場で競争を繰り返し、強いものがより強くなる一方で、弱い企業はより弱くなり、雇用創出力を喪失したままそれなりに数としては生き残るというシナリオが描かれる。そして、労働者はそのどこかで何かしらの仕事が見つかるという推論ができる。微小企業の経営者というのもその一部になる。


したがって、男同士の競争を煽る女性と、企業同士の競争を煽る消費者の心情は、実は同じ原理に即している、とかまで言っちゃうと飛躍しすぎだろう。でもまあ、ある程度はそういうモデリングもできるんじゃないかと思った。色々な数量関係を図示すると面白いと思うが、生活に差し障るのでやめておく。文章表現が社会倫理的にサイテーだというあたりは勘弁してほしい。もう寝る。

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by antonin | 2014-05-21 01:59 | Trackback | Comments(0)

神は死んだ

クレタ人のパラドクスというやつがあって、それは論理学の階級を論じたり、排中律みたいな公理が異なる論理系を論じたりするネタとしてもとてもとても面白いのだけれど、今はちょっと酔っぱらっているのでその方面はまた別の話ということで。

パラドクスに出てくるクレタ人とはエピメニデスという敬虔な男で、彼はゼウスの墓を建ててからかったクレタ人たちに、大変腹を立ていていた。そしてこう語ったと伝えられる。「クレタ人は皆うそつきだ。ゼウスは死んでなどいない」と。しかし当のエピメニデス本人がクレタ人であったため、ほんならお前も嘘つきになってまうやないか、というツッコミが後の時代の読者から入ったという。しかしまあ、いやいやさすがにクレタ人、ローマ文明に先立つこと数世紀、もう神は死んでいたのであります。

でもまあ、神ってのは結構死にやすい奴だと思う。不死のように見えて、案外コロッと死ぬ。しかし、何度でも蘇る。

子供のころ、世界は不思議でいっぱいで、大人たちは色々なことを教えてくれる。そして、なぜなぜを繰り返すと、最後はなぜかいつも神様に行きついてしまう。すげーな神様、ということで子供は神を尊敬する。大好きな本やおもちゃを与えてくれることもあるらしい。おお、神よ、私はどこまでもあなたについていきましょう。

が、子は育ち、神では説明できないことを多々目にするようになる。神を信じる者が全くの馬鹿を見ている様子なども目に入るようになる。見渡せば、良識的な人は誰も本気で神を信じているようには見えない。誰もそれを敬い称えてはいるものの、好意や切実さは感じられない。

人間によって語られず、敬われない神はどうなるか。すなわち、死ぬ。墓を建てられればまだ良いほうで、割られたり焼き払われたり、あるいは単に見返られることなく土に埋もれていく。

人も所詮動物なので、個体発生は系統発生を緩やかになぞる。神も理解できない赤子が、神を知り、神を切望するようになり、神を敬愛するようになる。そしてあるとき、知恵の果実を食い、分別がついて神がフィクションであったことに落胆する。そして、自分が幼かった頃の神の隆盛と、今現在の信仰を失った神の弱さを引き比べてしまい、「神は死んだ」といって墓を建ててしまう。

けれども、幸せに暮らした品のいいおばあちゃんは素朴に直截に神様を信じていて、孫の手を引いて、神様について切々と語る。そして孫はまた神様を敬愛し畏れ敬うようになる。そして、かなりの確率で、その子の成長に従って、その子の神も死ぬだろう。けれども、ふとした拍子に神は蘇る。人間には死が避けられないからだ。「精神」というくらいで、ある程度人間の精神には神を信じるような機構が織り込まれているのだろう。特に、困った時に。神は死ぬが、蘇る。なんだかんだで神は不滅だ。

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by antonin | 2014-04-16 00:53 | Trackback | Comments(0)

情報洗浄

負のハロー効果というのか、やっぱり陰謀論というのは考えれば考えるほど面白いのだが、この面白さをうまく伝える方法がまだ思いつかない。

ネットに誤って流出してしまった個人情報や機密情報や醜聞について、ある程度それが広まらないようにする対抗手法というのは存在する。具体的には、タイトルだけその流出情報を連想させるようなものにしておき、内容はつまらないゴミにしたものを大量に放流する。すると関連情報は次第にゴミばかりになり、人々が興味を失うので、そのごみの中に本当の流出情報があっても、人はそれを手に入れようという気を失う。

国家機密レベルの流出情報にも似たような手法はおそらく確立されていて、そうした手法の一つは黙殺であり、また別の一つは権威による否定であるけれども、類似テーマのごみ放出というのも場面によっては有効なもののうちに入っているだろう。

疑惑の真相、というような刺激的なテーマで、イントロは核心に近いが詳細はゴミばかりの情報をまことしやかにささやく。そういうテーマに興味のある人をひとしきりひきつけたあとで、今度は素人目にも嘘くさい怪情報を小出しにしていく。いつしか疑惑の核心に迫る暴露話は影を潜め、怪しい話ばかりになっていく。こうなると、純粋な好奇心や問題意識を持っていた人は失望し、強い拒否感とともに話の場を去っていく。

残った人は、負の信用度をもった情報源となる。最初は信用できると見せて、最終的には信頼できないことが明らかだと思わせる。そうすると、最初のうちに話していた信用度の高いと思えた情報も、失望感と負のハロー効果によって、まったく信用できない話に思えてくる。これは、流出してしまった機密あるは醜聞を聞く人に「信じられないと確信させる」ための有効な方法だろう。

正のハロー効果を持った人の発言は、少々怪しい内容でも人に信用される。同様に、負のハロー効果を持った人の発言は、少々信憑性のある内容でも人に全くの嘘だと信じさせることができる。最初は信用されて耳目を集めることがミッションで、次第にそれを不信感に変えていき、最後には全くのでたらめであると信じさせるところがゴールということになる。こういうスタイルのインテリジェンスが存在するのだとすれば、ベンジャミン・フルフォードさんはなかなか良い見本なのではないかと思える。
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by antonin | 2014-03-26 23:18 | Trackback | Comments(0)

自動翻訳時代の言語生活

どうも、自然言語処理界の動きが面白い。時間もアレなのでリンクだけ羅列。

ニューラルネットの逆襲 | Preferred Research

ディープラーニングチュートリアル(もしくは研究動向報告)


これもある意味Deep Learning,Recurrent Neural Network Language Modelの話 [MLAC2013_9日目] — KiyuHub

自然言語処理の最新手法"word2vec"で艦これ加賀さんから乳を引いてみる - あんちべ!

Statistical Semantic入門 ~分布仮説からword2vecまで~

どれも、まだフィードフォワードの処理技術ばかりで、単語の意味を展開するようなものばかり。本当に自然言語を処理しようとすれば、こういうフィードフォワード型の連想処理を要素技術として、フィードバックループないしは相互連想型のネットワークを組んで、反復によって安定点を探るような技術の開発が不可欠になる。けれども、要素技術が育つのは良いことだ。基礎が固まってこそ応用が研究できる。

上記は入力も出力も自然言語というようなものばかりだけれども、OpenCVみたいに画像処理系のマシンラーニングも標準手法が育ちつつあるから、画像からメタ情報を抽出したり、あるいは言語から展開した意味ベクターから例示画像を連想し、その画像を画像処理することで意味ベクターを再連想して、そういう相互連想で安定点を探すことで正しい文脈を推論する、なんていうこともできるだろう。こういう連想ができれば、言語処理に視覚情報を文脈情報として与えることもできるようになる。

そういう具合で、言語間翻訳の精度が一気に向上する時期が、この先数年だか半世紀だか、そこは多少偶然の要素が絡むけれども、まあ確実にやってくる。そういう時代が来ると、私たちはどういう言語生活をするようになるのか。

まずは、格段に改善したとはいえ、そこは機械のやること、おのずと限度がある。けれども、その限度をわきまえると、人間を雇うより格段に手軽に翻訳が利用できるようになる。ということで、人間が機械翻訳可能な言語レベルに適応していくようになるだろう。例えて言うと、逐語訳的な英文和訳文体だとか、漢文読み下し文体だとか、ああいう機械翻訳が出してくる、意味的には正しいが、文芸的には粗悪な文体に、人間が馴染んてくるようになるだろう。それとは別に、翻訳を通じて別言語圏の人に発信したいような情報は、機械翻訳が正確に読み取ってくれるような、文芸的には粗悪だが意味的にはあいまいさの少ない文体で作文するようになる。

そういう時代がある程度続くと、自分で飛行機に乗って各国を渡り歩く経済力のある人とか、文化的に他言語を操ることを愛する人などを除くと、大多数の人は自分の母国語で生活するようになる。しかも、その母国語が文芸的センスのない、機械翻訳向けの言語に近づいてくる。他言語に翻訳不能な美しい言語表現というのは、使用の場が制限されてくる。

その過渡期には当然、英語も含めた各国語で、母国語の乱れ、単純化を嘆く人が出てくる。が、おそらく流れは止まらないだろう。そうなると、翻訳に親和した新言語を操る一般の人と、極度に文芸化した職人芸的言語を操る専門家に分化が進むだろう。そして、必要上やむなく公用語としての英語を利用せざるを得なかった人たちが、母国語に帰っていく。英語の人口シェアは漸減していくだろう。

そういう時代が、近い将来か遠い将来かは知らないが、いずれやってくる。そしてその技術的萌芽は目の前にすでに存在している。面白いものだと思う。
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by antonin | 2014-03-26 02:11 | Trackback | Comments(0)


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