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憲法改正に賛成する理由

なぜ改憲が必要なのか、というような言い方でも良かった気もするけれど、まぁ、あくまで個人的な意見ということで。

個人的に、「憲法改正に賛成ですか、それとも反対ですか」という質問があったら、「賛成」と回答すると思う。ネット上に公開されている自民党の草案に賛成かと問われたら「反対」と言うだろうけれども、ともかく改憲の必要は強く感じる。その理由は憲法のせいで自衛隊という名の軍隊を集団的自衛のために海外派遣できないから、ではない。

2期目の首相に返り咲く前の安倍さんの言葉を聞くと、日本国憲法第9条のせいで日本は世界秩序維持のために紛争地帯に軍隊を派遣することができず、そのために首脳会議などで恥をかくから嫌だというようなことを言っていた。日本国憲法を「みっともない憲法」とする理由の一つはそこにあるのだろう。他にも、個人と国家の権利定義で個人に重きを置きすぎているとか、日本の国体が民主制ではなく立憲帝制であることが明瞭に宣言されていないとか、条文が英文和訳であるとか、そういうところも問題にしているらしい。

個人的に、幕末の動乱を勝ち抜いた若い志士がプロシアなどの憲法を研究して作成した大日本帝国憲法と、2つの世界大戦を経過したアメリカの若い研究者が日本人学者と丁々発止の議論の末に作成した日本国憲法に、特段の優劣があるとは思えない。ただ、両者の間にはいくつかの共通点があるものの基本的な発想に違いがあり、日本国憲法のほうが構造的にややいびつな形をしている。そのいびつな部分もいずれ改正が必要になってくるとは思う。しかし最も憲法改正の必要がある部分は、日本国憲法のいびつな全体構造ではなく、言わずと知れた第9条だろう。

第9条の何が悪いのかというと、日本を戦争のできない異常な国として定義しているから、ではない。たとえばスイスなども永世中立などという無茶な宣言を憲法に謳っているが、スイスの場合は、国民皆兵制でも、ナチスドイツへの消極的協力でも、実際に戦争の当事者となった周辺諸国からは苦々しく見られるようなことであっても、実際に困難な努力を払ってまで実行し、それによって憲法に謳った理想を実現しようとしている。つまり、憲法の条項と国家運営の実体にズレがない。これは実は、法治国家として当然のことでしかない。

ところが日本の場合には、憲法は明らかに軍隊の保有を禁じているが、警察予備隊が保安隊を経て自衛隊になったあたりから、日本国は事実上の軍隊を保有することになり、これ以来60年近くも違憲状態が続いている。これに対して司法は、高度に政治性の事案であって司法判断に適さないだとか、他にもいろいろの憲法解釈論でこの違憲状態を無視し続けている。

憲法は軍隊の保有を禁じているが、現実問題として軍隊が必要になった場合に、法治国家が取ることのできる選択肢は2つしかない。一つは憲法を遵守し、軍隊を持たずになんとか軍事的脅威に対抗すること。もう一つは憲法を改正し、軍隊を持つ必要がある現実に憲法を合わせること。ところが、日本はこのどちらの選択肢も取ることができず、法治国家であることを一部ながら放棄した。

法治国家というのも極端に言えばフィクション、あるいは共同幻想と呼ばれるものの一種なので、現実を前にすれば一時的にはその体裁を乱されることはある。しかし、それが60年も続いてしまうということは、もう構造的に幻想が破れているということになる。つまり、日本はもう法治国家ではない。

あるビジネスホテルが自治体の定める条例に違反したことを指摘された時、社長が記者会見の席で、自社の条例違反が軽いスピード違反をしたようなもの、というような弁明をしていた。この話は確かにいろいろなものを象徴していると思った。時速60キロ制限の道を時速65キロで走るというのは確かに軽微な違反だが、違反は違反だろう。仮にそれが正当なプロセスを経て不起訴になるとしても、だからといってやって良いことではない。これが法治というものだろう。

こういうことを言うと、じゃあお前は時速60キロ制限の道路を一度も1キロもオーバーせずに走っているのか、そんなノロノロ運転をする奴はかえって迷惑だ、という話が、日本の場合は出てくる。正常な法治国家の場合、人々は法を守って時速60キロ以下で車を運転し、しかしそれだと色々と具合が悪いので市民が大騒ぎし、程なく規制が緩和されて時速80キロ制限あたりになり、人々は余裕をもって法を守れるようになる。

ここでもまた、今時速60キロ制限の道路をすべての車が時速80キロで走ったら危ないだろう、事故が増えたらどうするんだ、という話になる。しかしこれも、制限時速が80キロだったら80キロ近辺で運転しないと周りに迷惑という今の日本での常識で考えるからおかしなことになるだけであって、制限時速が80キロであろうと100キロであろうと、免許を与えられた全てのドライバーには状況に応じた安全速度で運転することが義務付けられている。だとすれば、時速75キロでも安全だと判断できる車両はその速度で走ることができるし、時速60キロでも危険だと感じる車両は、より遅い速度で走ることができる。

法治国家とは、法律でなんでもかんでもがんじがらめにする国家のことではなく、本当に害悪をもたらす行為だけに最小限の規制をかけ、それを厳格に守り、ただし守ることが不都合だとわかれば遅滞なく改正する、そういう国家のことを指すのだと思う。その厳格な法が許す範囲内で、国民は自己の良心的判断を常に求められ、その良心的判断によって自由に生きることができる。

現在の日本というのは、何か問題があるとすぐさま規制を定める法律や政令や条例が定められ、そしてその規模が大きくなりすぎてしまったために、時の為政者や行政組織の上級官僚が個人的に注目した項目だけが厳密に運用され、その他の膨大な法令はほとんど無視される状態となる。法令の大部分は無理があった場合には単に無視されるため、苦情を寄せられた行政府は立法府に直接働きかけ、単純な規制法を制定することで責任に対して十分な言い訳を確保し、その運用や効果検証には関心を示さない。

こういう具合に乱発され膨大になった法令を手繰れば、普通に生きている国民や普通に営業している企業も、必ずどこかに抵触してしまう。そしてそれを問題視して公権力を発動するか否かは、公権力に属する個人の裁量に帰せられる。これは人治国家であって法治国家ではない。

そういう意味で、日本国というのは実はアジア的な人治国家であって、程度の差はあれども五十歩百歩、中国などのことはあまり馬鹿にはできない状況にある。少なくとも、欧米からはまともな法治国家とは思われていないフシがある。誠実な人治国家というのもありうるので、日本は概ねそのように見られているのだろう。つまり、システム的に統治しているのではなく、個人の力量の積み重ねでどうにか運用されていると見えているのだろう。今はかろうじて機能しているが、仁と義と忠が失われれば、国家は崩壊する。

そこで、安倍さんは日本国憲法に義と忠を盛り込もうとしているように見える。世界最高水準の人治国家だった大日本帝国の再興を目指しているように見える。だが、一方で日本はグローバル化を目指している。グローバル化と国民文化の関係というのは難しいところがあって簡単な結論は出ないのだけれど、古くから異文化との闘争と融合を繰り返してきた大陸の国家が選びとったのが、民族によってバラバラになる仁義や忠誠などではなく、少数の、しかし厳密で客観的な法律に依存して多様な国民を束ねようとする、法治国家というシステムだった。

イスラム革命の影響などでキリスト教圏とは随分とスタイルの異なる国家も大陸には多いけれども、それでも厳格なイスラム国家というのはイスラム法を厳格に守る法治国家という面が強い。クルアーンの記述言語であるアラビア語は特別視するけれども、アラブ人を特別視するという習慣はない。ラテン語は特別視してもラテン民族は特別視しなかった古代ローマに似た仕組みを持っている。イスラム法学者による裁量はあるけれども、これにしても裁判官の裁量と似たところがあって、法解釈の裁量を下す権利を法的に与えられた人々によって行われている。

危険なイスラム国家は、たいていキリスト教圏にある国家のテコ入れによって成立した独裁国家に分類されるが、これは本論を離れた話なのでどうでもいい。ともかく、まともな大陸国家はたいてい法治国家というシステムを採用しているし、国際紛争についても極力国際法を尊重しようとしている。国際法というのは強制権を与える組織がなく、戦争を発動する要件とそれを終結させる要件が書かれているだけという話もあるが、ともかく法を尊重する国家は国際的にも尊重される。日本国が本当にグローバル化を目指すなら、法治国家へのより一層の成長は必ず必要になってくるだろう。

もしも日本国をより法治国家に近いものにしようとするなら、もはや共産党だって廃止を表立って言うことのできない自衛隊を憲法という最高法規から禁止している、現実に合わない9条を改正する必要がある。そして、同様に憲法と現実がすっかり合わなくなっている1票の価値の問題も、1票の価値が国土の面積に比例するように憲法を現実に合わせるのか、あるいは住む場所にかかわらずに個人の平等を謳う憲法に現実を合わせるのか、どちらかを選択しなくてはならない。

自分が東京に住むからあえてこういうことを言うけれども、利己的な都市の住民の投票価値は、実際に日本の国土を支える地方在住の人よりいくらか軽いくらいが合理的だろうと思っている。けれどもまぁ、これは法治原則の話とは別の議論になってしまうのでこれ以上は触れない。

ともかく、多くの国民を戦争で失った大日本帝国臣民が八紘一宇の壮大な理想を掲げて世界を相手に戦争をしていたところから一転、平和を希求する日本国憲法を受け入れ民主主義国家の市民になったのも、あながち占領統治政府による単純な押し付けとは言えなかったんじゃないかと思う。現に、国体の宣言たる天皇条項については、様々な日本人がGHQと粘り強い交渉を続けていたらしい。そしてそれは、ある程度は叶えられたと見ていいのだろう。

なので、自民党の改憲派が目指すような、より優れた人治国家を再興するための憲法改正には反対するけれども、もろもろの法令が制定においては乱発され、運用においては軽視されるような現状を是正し、より本格的な法治国家に成長するための改憲なら賛成したい。

思うに、法令というのは一種の宣言型プログラムになっている。そこには社会運営を定義する論理構造だけが示されていて、実際の解決手続きは公務員というエージェントがそれを知っていて、実行される。ところが現状の日本の法律には内部矛盾が多く、不具合に対して場当たり的なパッチが多数当てられたプログラムと化している。エージェントはプログラムの最下層の条文だけを参照し、それにより隠蔽されている上位クラスのプログラムとの矛盾を検出できていない。日本国の法令は適切なリファクタリングが必要な段階にあり、その必要性は基底クラスである憲法にまで及んでいるという状況なのだろう。

まず最初に修正する条項として最適なのは、前文や9条のような大物ではなく、もちろん96条でもなく、100条から103条だろう。もし日本国憲法にみっともない部分があるとしたら、こんなテンポラリな条文を60年も手を付けずに抱え込んできたというあたりが該当すると思う。私たちはまだレガシーコードの基底クラスのリファクタリングという難しい作業を行うのに十分な経験を積んでいない。本丸である9条の修正は、もう少しだけ改憲の経験を積んでからのほうがいいだろう。

そして、前文の書き換えというのは一種の革命でもあるので、これは軽々にできるものではないと思う。もしもそのあたりが流血を伴う維新ではなく理性的なビロード革命になるようなら、日本国もいよいよ成熟してきたな、と思われるのだろう。そういう将来を望みたい。その一歩としての改憲なら、私は歓迎する。
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by antonin | 2013-06-09 01:32 | Trackback | Comments(1)

戦争と貧困 その光と影(4)

最後に、タイトルのとおり戦争の話をします。

すでに述べたとおり、苦境の中で人は助け合い、優しさを見せます。これは素晴らしいことです。そして、人類にとって典型的な苦境とは、貧困、餓え、病気、戦争です。これらの苦境の中で、人は多くの涙を流します。その多くはつらさ、悲しさによる涙ですが、より多くの涙が、人の優しさや愛情に対して流されます。それが人間です。

昔の人は言いました。「若いうちの苦労は買ってでもしろ」と。その苦労が人を強くし、また優しくするのです。しかし一方で私は思います。苦労はするべきだが、それは作られた苦労であるべきであって、真の苦境であってはいけないと。これではわからないでしょうから、実例を挙げます。

真の苦境のひとつが、実戦です。古来戦争は、参戦した男たちによって戦われてきました。殺し合うのは武器を手にした男たちでした。そこに騎士道が生まれ、武士道が生まれ、多くの物語を今でも読むことができます。男たちは命を惜しまぬ勇気を示し、力の限りを尽くし、知恵を絞り、勇敢でありながら、ときに敵味方を越えた友情さえも示しました。

しかしその影で、戦争の後には必ず死体の山が築かれました。ホメロスは歌います。日没後、戦士たちは戦場に横たわる戦友たちの遺体を引き取るために、夜の戦場を歩いたと。ここでは戦闘はなく、弔いだけがあります。戦士たちの勇ましさと優しさの影には、必ず死が控えています。

そしてまた多くの戦争では、戦場における食料の調達は戦場近くの町村を襲い、略奪することによって確保されました。戦況が不利になり撤退する際には、敵に食料物資を渡さないために、たとえ自領地内であっても火を放つことがありました。敵味方両軍に、財産は奪われ、人は殺され、ときには辱められました。

20世紀に入り、戦争は機械化し、さらに陰惨になりました。21世紀になると、世界中の人々がカメラを手にし、ネットワークに接続し、戦争の実態を報じ始めたので、世界の人々はその実体を知ることができるようになりました。戦争に善も悪もないといいますが、私は逆に、戦争には善と悪の両面があると思います。大儀は必ずある。戦後にある種の成果は必ずある。その一方で、どの戦争でも死ぬ人がいる。泣く人がいる。どちらも真実です。


たとえ、戦争が人間の潜在能力をすべて引き出す場であるとしても、本当の戦争をする必要はないと私は考えます。たとえ、貧しさが人間の優しさを引き出すとしても、本当の貧しさを国に充満させる必要はないと私は考えます。

その一方で、私たちは若いうちにもっと苦労をするべきでした。死を覚悟するほどとは言いませんが、迷っている暇もないほどの身体的精神的苦境に身を投じるべきでした。あれほどひどかった敗戦後の日本経済の中でも、自殺する人は今ほどには多くなかったのです。それは、戦争という苦境が人々を強くし、それゆえに戦後の苦境など乗り越えられないものではないと感じたのでしょう。

ゆとり教育といいますが、ゆとりによって心が豊かになるには、子供に何か決意を促す別のプレッシャーが必要です。単に豊かで、単に時間が余っているだけでは真のゆとりは生まれません。豊かであり、多くを消費する者としての責任を自覚しなければ、単なるバカ者になります。ゆとりの中に、自分たちは何者であり、何をすべきかという自尊心を育てなければなりません。それはなにも、日本が特別な国であるとか、日本が強い国であるとかいったことではありません。人間なら誰でも持っているべき尊厳に関するものです。

豊かであり、なおかつ後世の人類、そして地球の全生命に対して、人間が持つ力と責任を考えれば、自ずと謙虚にならざるを得ないのです。詰め込み式の受験勉強でもいい。トライアスロン大会に参加してみるのでもいい。一人で日本語の通じない国に暮らしてもいい。彫刻を一体彫り上げるのでもいい。古典を一冊原文から訳してみるのでもいい。なんでもいいから、人は若いうちに苦境に身を投じるべきです。そこから見えるものを体感すべきです。

しかし、私は思います。それは戦争や貧困など、避けようのない非情な現実である必要はないと。現実は優しくていい。そして、その中で人工的に苦境を作り出す知恵を人間は持っていると信じます。そうした中に、言わば千尋の谷に子供を突き落とす勇気と、それが決して臨死を意味しない愛情を、大人は弁えるべきだと思います。


だから、私は少子化対策に賛成です。以上です。

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2007/02/13 指摘により一部内容を削除しました。

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戦争と貧困 その光と影(1)
戦争と貧困 その光と影(2)
戦争と貧困 その光と影(3)
戦争と貧困 その光と影(4)
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by antonin | 2007-02-09 22:16 | Trackback | Comments(0)

戦争と貧困 その光と影(3)

捨て子の少女の死と、脱・格差社会のもと (宋文洲の傍目八目):NBonline(日経ビジネス オンライン)

この記事は要約しません。ぜひ原文をお読みください。そして、より詳細を知るために宋さんのblogからこちらの記事をお読みください。


どうでしょう。涙を流される方が多かったのではないでしょうか。私も、この一連の少子高齢化に関する記事がなければ泣いていたに違いありません。しかし、私は泣けませんでした。そして、読み返すうちにまた悲しみと怒りがわいてきました。この泣ける話に隠された現実の危機を、なんとしても認識してもらいたいと思いました。

私は、少子高齢化によって日本の財政のみならず日本の経済そのものが悪化すると理解していましたが、この記事を読むまで宋さんは単にそれを知らないだけだと思っていました。しかしここに及んで、実はそうではなく、宋さんは社会は豊かであるより貧しいほうがむしろ良いと感じていることに気づきました。宋さんのblogの記事から引用します。
中国の農村部では年金や保険の制度はまだ未整備です。僕が日本に来るまでは「計画経済」が厳密に実行され、大した薬はありませんが、農村部でも医療費はほぼ無料でした。

完全に市場経済に移行した今、市場経済の恩恵を受けていない内陸の農村部では重い病気になると直す余地がありません。経済原理で動いている病院はかわいそうだからといっても治療費のない患者を受け付けません。

この一文に、宋さんのスタンスを見出すことができました。つまり、市場経済による豊かな社会に対して否定的であり、計画経済の貧しい世界のほうが、人々の心は豊かであったと、宋さんは考えていらっしゃるのではないでしょうか。いえ、考えているのではなく、感じているのだと思います。これは、高度経済成長前の日本を知る60代以上の世代についても近いものがあるのではないでしょうか。これを言葉で否定するのは難しいことですが、私の理解とは異なる部分があるのでこれから述べることにします。

私は、貧しければいい、豊かであれば悪いとは決して思いません。もちろん、豊かでありさえすればいいとも思っていません。しかし、豊かであっても幸福な社会を作り出すことができると信じています。懐古主義には果てがないのです。

アメリカにはAmishという、見たところ19世紀初頭あたりの技術で生活することを続け、機械化文明を頑なに拒否する民族があります。しかし彼らの生活といっても、ローマ文明が地中海を制覇する以前の素朴な生活に比べれば高度に文明化したものといえますし、四大文明が勃興する以前の生活に比べれば、よりいっそう高度で豊かな文明社会であるといえます。旱魃や日照不足で餓死したり家を追われたりしたAmishの話も聞いたことがありません。

皮肉にも彼らは、狭い社会で結婚を繰り返してきたことによる遺伝病の治療に、世界最先端の遺伝子操作技術による治療を受け入れたといいます。それが悪いことだとは言いません。何事もこだわりすぎは良くないものです。

そして、貧しければ人の心が豊かになるという話にも、三分の理があると感じています。つまり、人は苦境に置かれれば、自然と助け合うものなのです。貧しさとは人類にとって典型的な苦境のひとつです。そして、病気もまたそうです。どちらも、程度がひどければ死に至ります。そうした過酷さの中で、人は助け合い、優しさを見せます。だからといって、コントロール不可能な苦境を放置する理由にはならないと、私は考えます。

普段どんなに憎たらしい子供でも、その子供が明日をも知れない命であると知れば、涙を流し、どんなに醜く振舞ってでもその子を救いたいと思うでしょう。それは実の親に限らない話です。そして、大人たちに思いもかけず優しく愛情を注がれた子供は、必ず感謝します。何とかしてその感謝の気持ちを伝えようとします。そして、努力も空しくその子供が死んでしまったら、大人たちは涙を流すでしょう。すべては死に至る病気が演出した美しい物語なのです。

だからといって、その病気を称えることができるでしょうか。憎たらしい子供が、今日も憎たらしい言葉を発しながら、元気に走り回っているのを見るほうが、私はずっと幸せです。そして、経済的な豊かさが子供の命を救う一助になるならば、社会は豊かであるべきだと思っています。

もちろん、何事も極端に走るのは良くありません。今や人類の規模に対して小さくなってしまった地球に、大きな負担を掛け続ける物質浪費型の社会は改めるべきです。けれども、それは貧しい社会のほうが望ましいということではありません。豊かな都市と貧しい農村の格差が問題であると同じように、数の多い高齢者と数の少ない若者の格差も問題ではないでしょうか。

きょうだいがいる、いとこがいる、友達がいるというのは、子供にとって何にも代えがたい貴重な経験です。親にとっても、子供がいるというのは非常に素晴らしい経験です。もちろん、身体的な問題によって子供を生めない人がいるのは知っています。そうした人々への配慮は重要であり、そうした人を尊重する考え方を共有する必要があります。また、子供が嫌いというのも、ひとつの立場ですから尊重すべきですが、小さいうちから子供に接していれば、子供の扱いには慣れてしまうものだとも思っています。

つまり、少子化の問題は、人口を減らしたほうがいいという個々人の投票結果などでは決してなく、結婚、出産、育児などに対する、経済的、文化的、心理的障害が多すぎ、人々が二の足を踏んでいる結果に過ぎないのだと私は感じでいます。

独身時代に給料をすべてつぎ込み、時間も自由に遊びまわっていた人が、結婚し、子供が生まれれば一気に不自由になります。結婚しないほうが恋愛は自由で、結婚してしまえば仲間と一緒に遊んでもらえないこともあるでしょう。子供が生まれたら時間もお金も自由にならなくなり、独身時代のほうが良かったと言っている若い親の声も聞こえてきます。もともと自分より歳の離れた小さい子供など接したことがないので、子供の扱い方がわからない人が増えています。金も自由も奪われ、泣いてばかりの子供に怒りを覚え、虐待する親が出てくるのも当然かもしれません。

少子化には、こうした問題が潜んでいます。お金の問題だけではないのは当然です。人間の幸福の問題として、決して放置してはいけないのだと私は思います。

最後に、人の心を豊かにする苦境の話と、戦争の話をしたいと思います。

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戦争と貧困 その光と影(1)
戦争と貧困 その光と影(2)
戦争と貧困 その光と影(3)
戦争と貧困 その光と影(4)
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by antonin | 2007-02-09 21:36 | Trackback(1) | Comments(0)

戦争と貧困 その光と影(2)

長生きしてどこが悪いのでしょうか (宋文洲の傍目八目):NBonline(日経ビジネス オンライン)

前回の「人口が減ってどこが悪いのでしょうか」という記事に対し、「人口の減少ではなく、生産人口と非生産人口の比率がアンバランスになることが問題だ」という妥当な認識をした読者からの記事が、コメントの2割ほどを占めたので、これに対する反論であろうと思われます。記事を要約します。


「老齢化社会」という言葉が嫌いだ。全体の人口の中で年を取った人の比率が高くなることを暗い未来という人は、病気になっても治療せず、ヘルシーな食生活をやめ、悪い空気が充満するような場所に率先して住むべきだ。それで早死にしたら、人口構成比の歪みを少しでも緩和することに役立つはずだ。本気でそう思っているわけではないが、言いたいことを分かりやすく伝えたいためにたとえるとこうなる。問題は人口減少というよりは高齢者が全体の人口に占める比率が高いことだ、という指摘があったが、それはお年寄りを厄介者のように扱っていると思える。

「高齢者」の基準を65歳から75歳に変えるだけで、日本の人口構造の問題は変貌し、いびつな構造ではなく、ごく普通の正常な構造になる。もっと前向きに今の社会を捉えるべき。長生きという崇高な目的のために、世代間でいがみ合うのは避けるべき。医療費の問題は、無駄の多い現状を見直すことで解決するはずである。年金や税収をどうのこうのいう前に、発想の転換がより重要だ。


以上が私の要約です。

これは、私には論理のすり替えに映りました。そうした私の要約ですので、できれば原文を読んでいただきたいと思います。最後のほうは素晴らしいご意見で結ばれていますが、個人は個人で前向きに生きるべきという意見には確かに同意できます。ですが、国家は国家として数字で示される社会状況を精緻に読み解き、その先に生きる弱いお年寄りたちや子供たちに思いを馳せる想像力を持たなければなりません。私たち日本国民は、一庶民であるとともに主権在民国家の主権者でもあるのです。

まず、「高齢者の基準を65歳から75歳に変える」という意見に反対します。確かに、65歳を過ぎても働く人は多いでしょう。100歳を過ぎても自分の畑の手入れだけは毎日怠らない元気なおばあさんもテレビで見かけます。一方で、50代で内臓を患い、職を失い、古い団地の一室で誰にも看取られないままひっそりと最期を迎えた男性が死後発見されたという話もテレビで見ました。それは極少数の例をピックアップしたに過ぎないのでしょうが、ある程度の真実を必ず含んでいるはずです。

私の両親は66歳と62歳ですが、共に働いています。しかし、かつて風邪も引かなかった66歳の父は最近ときどき目眩がして立ち上がれないことが増えてきました。一部に元気な人がいるからといって、安易に高齢者の基準を引き上げるのは酷であると思います。「お年寄り」などと呼ばれるのは嫌でしょうが、国の基準はあくまで年金支給や税率設定、あるいは健康保険負担比率などのお金にまつわる問題にのみに適用される用語なのです。

あえて言いますが、私は私を育ててくださったこの国の人々に対し、豊かで幸せな老後を送り、幸せにその人生を終えていただきたいと思っているからこそ、少子高齢化に危機感を抱いているのです。ご説明しましょう。

「高齢者の基準を65歳から75歳に変える」とは、75歳までは年寄り扱いしない、ということではありません。75歳までは国民の義務として労働を義務化し、年金は支給せず、労働できない人は失業者として一定期間失業保険を支給しますが、復職のためにハローワークに通って仕事探しをしなければ支給できません。そして、一定期間内に復職できなければ支給は打ち切られます。これが国の基準での高齢者でなくなるということです。

私は、今の年金や医療にある無駄をなくしたいとは思いますが、それはちょっとした水増し程度であり、それを除いたからといって人口構造のいびつさをカバーできるとは考えません。そして、高齢者には少ない医療費で適切な医療を受けていただき、ぜひ長生きしていただきたいと思います。だからこそ、稼ぎ手、働き手である若者たちが減るということは大問題なのです。

日本の長寿にとって、高度医療を仕事を引退した高齢者が気軽に受けられるという健康保険制度の影響がどれほど大きいか理解されているでしょうか。国は、数字という無味乾燥なものを冷徹に見なければコントロールできない、巨大な組織です。しかしその無味乾燥な数字の先には、多くの国民の生活が不可分につながっているのです。

いずれ人口バランスは正常化するという意見があります。これは私も同意見です。しかし問題は、それに要する期間です。人口に非定常なピークが存在するのは、太平洋戦争後に生まれたいわゆる団塊の世代と、私たちの世代、いわゆる団塊ジュニアです。この二つの世代が日本から消え去れば、人口のアンバランスの影響は大きいものとはいえなくなるでしょう。その時期は、現在私が34歳ですから、およそ60年後あたりでしょうか。私が94歳まで生きるというのではありません。同世代が大きな比率を占めなくなる時期としての予測であるからです。

こうしてみただけでも、いわゆる団塊世代の医療費急増によって問題が顕在化するであろう10年後あたりから数えて、約半世紀はかかることになります。すると、昨年生まれた私の息子が10歳から60歳までの期間となります。つまり、私の息子の人生の主要な部分がこの時期に飲み込まれることになります。これを「一時的なことだから」といって見過ごせるでしょうか。これを私はまったくの暴論だと感じ、正直に言って怒りを覚えました。宋さんではなく、その暴論を見抜けない日本人読者に対して。

そして、最後に宋さんは別の記事で私を打ちのめします。

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戦争と貧困 その光と影(1)
戦争と貧困 その光と影(2)
戦争と貧困 その光と影(3)
戦争と貧困 その光と影(4)
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by antonin | 2007-02-09 20:50 | Trackback | Comments(0)

戦争と貧困 その光と影(1)

この記事は以下のページに対して意見を述べるものです。
ご感想をお待ちしております。

人口が減ってどこが悪いのでしょう (宋文洲の傍目八目):NBonline(日経ビジネス オンライン)

長生きしてどこが悪いのでしょうか (宋文洲の傍目八目):NBonline(日経ビジネス オンライン)

捨て子の少女の死と、脱・格差社会のもと (宋文洲の傍目八目):NBonline(日経ビジネス オンライン)


私はこれらの意見に対し、強烈な違和感を覚えました。宋文洲さんの記事にはコメント欄にいくつかの指摘をしましたが、多くの読者のコメントに無視され、そして否定されました。確かに私の説明が足りなかったのです。当時は強烈な違和感、そしてそれに気づかない大勢の読者に対する不快感で、冷静な指摘ができませんでした。今では少し冷静になりましたので、論点をいくつかに分けて指摘し直してみようと思います。

まずは、問題の記事の要約を述べます。

人口が減ってどこが悪いのでしょう (宋文洲の傍目八目):NBonline(日経ビジネス オンライン)

人口減少、あるいは少子化を多くの日本人が悲観しているが、それは杞憂である。人口が非常に多い中国に比べても、日本の人口密度のほうが高い。日本市場の縮小を心配する前に、企業のグローバル展開を気にしたほうがいい。老齢化は一時的なものであり、いずれ正常化する。人口減少を問題視する議論はお腹が空いていないために食べない子供を見て「このまま食べないと餓死する」と考えるような杞憂である。

経済と消費の立場で人口の多寡と構成に危機感を持つよりも、豊かな自然を守りながら、個々の生活者の幸福を高めることをもっと議論されるべきではないか。「少子化」が進んでいるのは、大多数の日本人にとって潜在意識の中で賛成していることが顕在化しているのだ。


以上が私の要約です。一部引用文を編集しています。宋さんはもっとやわらかい語り口で書かれていますが、要約ですので断定調にて書き直しました。

ここで、宋さんは人口ピラミッドの倒立現象による経済悪化についてご存知ではないのだと考え、そうではない旨を指摘しました。一般に人口ボーナスと対になる概念である人口オーナスと呼ばれる現象です。しかしコメント欄を読んでも、多くの読者、おそらく日本人であろうと思われますが、彼らは宋さんの意見のほうに「よく言ってくれた」「目から鱗が落ちた」という感想を寄せています。

これに対し、私は予測可能な人口オーナスの悪影響についてもっと日経BP社のようなマスメディアは啓蒙活動に努めるべきであるという意見を述べ、それに応じてかどうか、直後の記事に次のようなものがありました。

2007年を斬る: 自立せよ、団塊世代! (ニュースを斬る):NBonline(日経ビジネス オンライン)

この記事は「財政的幼児虐待」というセンセーショナルな言葉をサブタイトルに掲げ、読者の評判は宋さんの記事に比べてずっと低かったのですが、私はこちらのほうが妥当な現状認識であると感じています。次に統計局の方のインタビューが予測データ付きで掲載されました。

2007年を斬る: 人口減社会の実像(前編) (ニュースを斬る):NBonline(日経ビジネス オンライン)

2007年を斬る: 人口減社会の実像(後編) (ニュースを斬る):NBonline(日経ビジネス オンライン)

ここで指摘されているとおり、少子化はもうすでに20年以上前から始まっており、今さら少子化を食い止めたところで人口オーナスの到来は避けられない側面があります。ただし、私の両親に近い世代である、いわゆる「団塊の世代」と、ちょうど私の世代である、いわゆる「団塊ジュニア」の世代が老齢期を迎えるころに生産年齢となるのは、私の子供たち、孫たちの世代です。その彼らの世代があまりにも少ないという現状を放置してよいということではありません。

しかし、柳沢大臣の発言に的外れな批判が沸きあがる中、「人口政策には限界、一人ひとりの合理的選択に委ねるのみ」という政府の姿勢にも同情できます。しかし、人間の合理的判断には、信頼のおける情報が必要です。納豆で痩せるなどという不確かな情報ではなく、今後人口が急激に減少し、私たちがこれから生まれてくる世代に大きな負担を掛けるという、あまりに簡単に予測可能な事実を冷静に伝え、子供を育てる喜びを伝えていかなくてはなりません。

そして、こうした危機感をコメントで述べると、次の記事では宋さんからの反論がありました。

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Index

戦争と貧困 その光と影(1)
戦争と貧困 その光と影(2)
戦争と貧困 その光と影(3)
戦争と貧困 その光と影(4)
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by antonin | 2007-02-09 20:15 | Trackback | Comments(0)

不埒な悪行三昧

タイトルに意味はありません。

今日は書かない予定だったんですが、珍しく早く寝たらバチが当たったのか、悪夢で目が覚めてしまったのでひとつ。

目を覚ます夢を見て、布団から起き上がれずにまどろんでいたら、枕もとの暗がりからドブネズミほどの大きさの黒い昆虫がドドドと音を立てて顔のほうに向かって走ってきたので、ついつい大声を上げてしまったら今度は本当に目が覚めました。んーむ。


さて、以前買ったN. グレゴリー・マンキューのマクロ経済学をぼちぼち読んでいるのだけれど、やはりアメリカから渡ってくる教科書は読みやすい。今年上半期の小遣いは使い果たしてしまったのでもう買えないけれども、古典コレクション以外にアメリカの大学初学年レベルの教科書集めなんかも趣味になってしまいそうだ。結構大きくて難儀だが、原書の巨大さに比べればきっとましなんだろう。学生時代電子工学の教科書の一冊が英語版だったが、電話帳2冊分くらいのボリュームだった。実にアメリカンサイズ。でもスラスラ読めちゃうところが恐い。

脱線してしまった。

えー、で、その本の3分の2ほどのところに為替に関する章があり、非常に重大なことが書いてあった。要約すると、輸入規制を強化すると実質為替レートが下落する(¥/$が小さくなるので、つまり実質円高になる)のだという。これか、原因は。実質為替レートというのはつまり、普段ニュースで目にする通貨交換レートである名目為替レートではなく、同じ品目の製品の価格比で規定される通貨価値の比をいう。

たとえば今の名目為替レートは簡単に調べられて

1ドル=121円74銭

とわかる。
一方、実質為替レートは多品目にわたる消費者物価指数を調整を掛けて比較したりしなくてはならないらしいのだけれど、面倒なので教科書の例題のように単品の比較で計算してみる。ここではLexus GS430を比較対象にする。調査サイトは以下のとおり。

LEXUS.jp

Lexus GS - Features & Pricing - Pricing & Options

教科書によると、上記のように外貨1単位=自国通貨換算というレート表記の場合、

実質為替レート = 名目為替レート × 外国財の価格 / 自国財の価格

となるらしいので、レクサスの価格を調べる。

(日本) ¥6,320,000
(米国) $52,375


これを計算すると、1.00888となり、日米でほぼ均衡が取れているのがわかる。本当は日本で生産していれば運搬コストなどがかかってもっと大きい数字になるはずなのだが、実際にはアメリカで売っているレクサスはアメリカで生産しているので(GS430がそれに該当するかどうかは知らないが)この程度の数字になるのだろう。この1に近い数字というのは、ほぼ制限なく自由な貿易が行われている指標になる。本当はアメ車での価格比較などもしなくてはいけないのだが、省略。

次に、最近まで輸入がストップしていた牛肉ではどうか。牛肉の価格を、しかも同グレードで調査するというのが非常に難しいが、ちょっと試してみる。

【楽天市場】【送料無料】サーロインブロック1kg!:The Meat Guy

Cheese, Specialty Food, Gourmet Gift Baskets, Cheese Gifts: igourmet
"Rastelli Top Sirloin Steak in Gift Box"


ということで、日本ではなるべく安そうなオーストラリア産のブロック肉を、アメリカではオーストラリア産が見つからなかったのでアメリカ産のなるべく高そうな贈答用ステーキ肉を捜してみた。ともに霜降りではないサーロイン。

(日本) ¥2,980/kg
(米国) $99.99/5lb = $44.09/kg


日本のオーストラリア肉は輸入品で関税がかかっており、アメリカのは国産なのでちょっと面倒だが、どう補正したらいいのか知らないのでこのまま計算してみる。

121.74 × 44.09 / 2980 = 1.80110

ということで、アメリカの肉のほうが1.8倍高い。くそう。バイアスを掛けすぎたか。こういう結果が欲しかったんじゃない。


たとえば農産品の輸入自由化をされると困ると考えた地方の農協が、組織票を投じて人口当たりにして都市部の最大5倍を超える自民党議員を国会に送り、農産品の輸入規制を行う。すると輸入が抑えられて国産品の価格が高騰し、再び割安になった輸入品は一定量輸入される。すると、実質為替レートの高騰だけが影響として残り、輸入率は変わらないが消費者は高いものを買わされるという悲しい状態になっているらしいのだが、どうも検証が難しい。

住宅、公共サービスなど輸入が困難なものや、農産品や労働力など、輸入が規制されているものは価格が高止まりしてしまい、逆に自由化されて輸入品が潤沢なものだけは価格が安くなり大量に買われるが、コスト構造も安いので赤字にならず、市場から駆逐されないでデフレを引き起こす。一方、高止まりしてしまった労働力コスト、つまりわれわれの給料には、それら自由貿易品目による値下げ圧力が特に輸出関連企業を基点に発生し、正社員の削減や給与カット等が続いている。

つまり、ワーキングプアの存在を許すようないびつな現状を打破するためには、徐々に制限を緩めることにより労働力流入を拡大して、相対的に高騰している人件費を妥当なレベルまで戻す。それにより、逆説的ではあるけれども企業は人件費を妥当と見ることができ、労働者は余裕を持って仕事につくことができるようになる。ということか?

これが経済に強い人が盛んに移民受け入れ政策を勧める理由か。しかしまあ、労働コスト削減が「弱いところから叩く」方式をとっているレベルの我が国では、労働力を輸入してもソフトランディングに導ける政財官の協調は難しそうだなぁ。新しい格差問題を引き起こし、ほぼ単一民族国家に慣れた日本人民の少数とはいえない勢力は民族差別を引き起こし、新しい被差別層であるドロップアウト移民を生み出し、追い詰められた彼らは犯罪を起こし、さらに対立が激化する。うーむ。

今後は純国産の労働力の量も質も低下していくので、労働コストの割高感はより一層高まっていくだろう。んー、難題。

カルロス・ゴーン首相待望論、というあたりで今日は終わります。
あーあ、国政には無関心を決め込むつもりだったのに、なかなかうまいこといきません。
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by antonin | 2007-02-02 00:02 | Trackback | Comments(2)

人件費が高すぎる

現在の日本では、人件費が高すぎる。
引き下げるべきである。
では、どうやって。

いくつかの段階を経て、経済界では既に人件費の引き下げを実施している。工場の機械化、工場の海外移転。正社員の削減と契約社員、派遣社員、パートタイム労働者比率の拡大。こうした施策により、企業はなんとか黒字を確保し、労働者は弱い立場の人々から徐々に貧困層へと転落している。現在は既得権者に位置している企業の正社員や公務員も、今後の法規改正で徐々に人件費の切り下げの方向へ移っている。残るのは、一部の富裕層だけとなる。

そもそも、なぜこのような状況に陥ってしまったのか。日本人の給料が上がりすぎてしまったから、適正レベルまで補正しているのが現状なのか。私はそうは思わない。人件費は「相対的に」高いに過ぎないのであって、日本人の人件費を高く見せてしまう、「安くて良いもの」の存在にそもそもの矛盾の原因がある。それは、ひとつに輸入品の安さであり、ひとつに海外労働力の安さである。それらは、質が日本国内のものに大きく劣らないのに対し、価格は非常に安い。ここに国内の劣悪な労働環境の遠因があると、私は見ている。

現状、日本では海外労働力の国内への流入に様々な障害を設けて、これを阻止している。これはまた別の論になるのでここで理由は述べないが、正しい政策だと見ている。この労働力流入制限のために、国内で確保できる労働力の大半は日本人労働者ということになる。そのコストは、従来年功序列制で、比較的狭い範囲に保たれてきた。

一方、海外の労働力は安く、その安さの理由は為替レートによるものであり、同じ国内購買力であっても、彼らが生み出す生産品が私たちにとって価値が低いということを合理的理由として、そのような為替レートを認めてきた。

海外から輸入される物品も、ヨーロッパの高級品であれば非常に高価で、産業が未発達な国の軽工業品であれば非常に安価であった。その理由もまた為替レートであり、その合理的根拠は彼らが産出する製品の品質にあった。

翻って今日、日本人が日本国内で産出する製品の品質は、向上こそすれ、低下していることはない。ならば、円が他の通貨に対して高い為替レートを保っていることは合理的である。しかしながら、現在において、日本製品に匹敵する品質の製品を生産する国は多数に上り、それら高品質の製品を産出する国々の通貨に対しては、日本円のレートは低下するというのが合理的な経済的帰結である。

しかしながら、日米経済戦争、ジャパンバッシングと騒がしかった1990年前後に極端な円ドルレートで国内産業に打撃を与え、100~140円/ドルのレートに揺り戻してから、米国産業が品質問題をほぼ解決して盛り返し、ジャパンパッシングと揶揄されるような中国中心の量産産業構造に変化した今日も、日本円の対ドルレートは変わっていない。

一方の主役である中国は、米国政府からの人民元切り上げ圧力に対し、形ばかりのわずかな切り上げこそ実施したものの、依然として発展途上国としての通貨バスケットによる為替レート管理を国家戦略に基づき継続している。米国にしても、中国の下請工場が米国産業に与える利益も無視できないため、それほど声を高めることなく良好な関係を維持している。

一方の日本は、産業界が雇用者の非難の声にも負けず、自社工場や部品調達先の海外移転を行い、国内の従業員については解雇や給与据え置きなどの策により生産コストを圧縮してきた。しかし、ここに来て限界が近づいている。日本の経済構造が破綻に近づいている。

その真の原因は何か。

為替レートは、一般に自由な通貨交換によって決定されているように思われているが、国の財政状況に直接間接影響する為替レートは、中央銀行の介入により厳しく管理されている。そして、その管理方針を決めるのは、一般にその国家政府である。

かつて日本政府は対米黒字を大幅に拡大し、「偉大なる」アメリカ合衆国の敵とされてしまった。それを解決したのがプラザ合意に基づく円高基調の為替レート管理である。これは短期的には国内固定資産の形式的高騰によるバブル景気、長期的には中国での近代的産業立ち上がりに伴うデフレを生み出した。

しかしながら、太平洋戦争の敗戦で三流国に落ちた日本が、少なくとも経済のレベルにおいては大国アメリカに対抗しうる大国に回復した結果、それまでの低い円レートによる経済的庇護を離れるという意味において、この合意は正しかったように思う。問題は、それを段階的におこなわず、破壊的に実施したと共に、期限を設けなかった点にある。現在の「いざなぎ超え」かつ「実感なき」好景気の正体は、既に役割を終えたプラザ合意の亡霊に悩まされる日本の姿に違いない。

高い円レートのもとでは、輸入品は安くなり、輸出品は高くなる。言い換えれば、今まで日本人が生産していた品物は、安い輸入品と競争するようになり、低価格化を求められる。日本に入ってくる安い品物に対し、われわれ日本人の給与は、相対的に高く感じられ、より一層の高い価値を求められ、日に日に高い目標を設定され続ける。そして、誰にも余裕がなくなり、自殺しか道は残されなくなる。

今まで輸出していた製品は、日本人が日本で作っていたのでは高くつくので、海外の工場で生産する。残された国内産業は、合理化によるコスト削減で安い輸入品に対抗してきたが、近年ついに合理化も限界に達し、人件費の全てにわたり削減を求め始めた。その結果が正規雇用比率の低下であり、ワーキングプアの誕生であり、ホワイトカラー・エグゼンプションの議論である。

今、本当に必要なのは、既に時代に見合わなくなったプラザ体制を見直し、中国や米国が台頭する世界情勢に見合った、日本製品の品質や売り上げに見合った、正しい為替レート管理の獲得である。このあたりを論じる経済学者がマスメディアに現れないのは大きな疑問である。日本国民が「我慢」や「改善」を「努力」する水準は、とうの昔に超えている。今なすべきことは、しっかりと外を見て、日本円の正しいレートを主張し、為替政策として速やかに実施することである。

その先には、日本国民の生活に余裕が戻り、人々の顔には笑顔が現れ、自分の国は愛すべき存在になり、美しい国になるだろう。人々が苦痛の中に自らの命を絶つ中で、教科書だけが「国を愛しましょう」と唱える姿は、単なるブラックジョークにしか思えない。

一会社員でありながら、こうした大所高所から国を考えるのは、あるいは理屈を弄ぶ悠長なのか。不安は日々募る。
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by antonin | 2006-12-20 01:16 | Trackback | Comments(4)

改憲論の果て

憲法改訂の議論を通じて、図らずも

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価値観というのはな、理屈じゃなくて、感情で決まってしまうわけだ。
感情といっても、その時々の気分ではなくて、若い頃にだけ体験できる強い刺激で、もうどうしようもないくらいに決まってしまって、あとから どんなに理屈をこねくりまわしても、その価値観を変えることは難しい。
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という自説を裏付ける結果となりました。

日本に自国防衛以外の交戦権を認める場合、この先50年で何らかの争いに巻き込まれることは必定でしょう。それが現在のような武力戦になるかどうかはわかりませんが、ともかくわが国の形態がある程度のダメージを受けるような事態になる可能性は非常に高いと言わざるを得ません。

結局私は日本の国体に興味があるのではなく、家族の将来にのみ興味があるので、もし事態が切迫すれば積極的に国を捨てる覚悟です。もし可能ならば国の再興と同時に子供たちの将来を幸せに導ければ良いかと考えていましたが、だんだんとその望みは薄いような気がしてきました。

日本に積極的な交戦権を与え、敗北を通じて硬直した国体を組み替えるというドラスティックな変革も確かに有効な方法ですが、それには大きな犠牲が伴います。できれば現状をなるべく維持した状態で、時代に合わない部分だけ速やかに変えるべきだと主張しました。しかし、そもそも憲法に対する現状認識が、政権与党に食い込んだ宗教勢力や感情的な平和論をかざす勢力によって歪曲され、正しい判断が難しいという状況があります。

買った家でおとなしく老後を迎えられるのか、家族とともに戦略的価値の低い他国に亡命し、ユダヤ人や華僑のように知恵と経済力に頼って異国の中で生き延びる手段を選ぶか、そうした選択肢を握っているのが安倍政権と国民投票であるというのが、私の認識です。

どうか、もう一段引いた目線で改憲論議を見ていただくよう、最後のお願いをいたします。
この論、当面中止とします。
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by antonin | 2006-12-07 05:21 | Trackback | Comments(7)

戦争論

政治とは血を流さない戦争である
戦争とは血を流す政治である

-毛沢東

妄想なので続きはこちら
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by antonin | 2006-11-21 23:18 | Trackback(1) | Comments(17)

北朝鮮に負けるな

別に晋ちゃん熱烈応援メッセージを書こうというわけでもなく、逆に親愛なる将軍様マンセーとか言おうとしているのでもなく、ちょっと客観的に見てみると北朝鮮外交部の言論のほうがマトモに聞こえる場面が多いのが気になりました。あの北朝鮮人民向けテレビニュースのおばさまが演じ上げるニュース原稿は別として、外交窓口を通じて対外的に表明される北朝鮮政府の意見は案外正論に思えるのです。対する日本政府の意見は、どうも理論的に弱いように見えます。客観的観察はしても、結局私は第三者ではなく日本人という当事者の一人であるので、日本政府を応援する立場なのだけれども、ちょっと心配になったのでもっと頑張ってもらいたい点を書いてみます。


「日本は歴史問題を清算し、(北朝鮮に対し)謝罪と賠償をすべきだ」

恒例の「謝罪と賠償」ですが、日本は大韓民国政府に対して過去の植民地支配に対する謝罪と金銭的賠償を済ませてあるので、大韓民国からの同様の要求には理論的に反論ができるのですが、朝鮮民主主義人民共和国に関しては、大韓民国こそが朝鮮地域を統治する正統政府と認めてしまったので、北朝鮮の人々に対して賠償責任があるのは大韓民国政府であり日本はその責務をすでに果たしたというのが理屈の上での話だと思います。

しかしながら、大韓民国はあくまで南朝鮮の政府であって、朝鮮民主主義人民共和国政府を北朝鮮国家の正統かつ独立した政府であると認めて国交を樹立しようとする場合、やはり北朝鮮に対する日本の賠償責任はまだ果たされていないことになり、謝罪はともかく賠償責任は残っているというのが理屈として正しいことになります。


「日本は一時帰国した拉致被害者5人を返還せず、約束を履行しなかった」

これもなんというか、そのとおりなのであって、正論です。確かに5人を北朝鮮に帰してしまえば再び北朝鮮は拉致被害者帰国を左右する外交カードを握ることになり、彼らを日本に留めることに一定の政治的価値があったのかもしれませんが、事前に帰国が一時的なものであるという約束があったとすればそれを破ったのは事実であり、それよりなにより、「日本は北朝鮮を信用していない」という明確なメッセージを公式に送ったに等しいことになります。これを穴埋めする巧妙な言い訳を日本外務省が発したという記憶はありません。


「日本の植民地支配に比べれば、拉致問題などたいした問題ではない」

これはちょっと明言するのに抵抗がありますが、第三者的視点に立てば、やはり正論であろうかと思います。確かに前途ある若者を強制的に誘拐して国交の無い異国に連れ去り、一部はおそらく罪無く殺害されたであろうことが、日本の主権を侵害する重大な犯罪行為であることは間違いありません。が、ひとつの国家が国際法上合法的であるにせよ強制的に隣国に組み込まれ、体よく利用されたという歴史は、全国民が被害を受けた、主権侵害の極みであったはずです。

「日本に支配されている期間のほうが善政だった」とか「戦争により他国を植民地化した歴史を持つのに謝罪しない国のほうがむしろ一般的だ」という意見も確かに正論ですが、北朝鮮の言葉の正否を覆すほどの事実ではないと考えます。


「主権国家は、核兵器も含め兵器を開発する権利がある」

ここはちょっと、特に核兵器の部分については問題ありかと思うのですが、それよりもっと問題なのは、日本の閣僚が「日本も核武装できる」とかのたまっている点です。これも、なんというか、まず秘密裡に核武装を完了してからそういう宣言をするのは(倫理的にはともかく外交戦略的には)構わないのですが、北朝鮮は完成度は別として核実験を始めていて、対する日本は非核三原則を維持している現状で「日本も核武装できる」と言ってしまうのは、核不拡散の原則という国際的大儀を無効化し、北朝鮮の核実験が正当であるという主張を補強する意味しか持たないように思うのですが。


と、ここまでで主張したかった点は、「将軍様に正義あり」とか「日本は反省しる」とかそういうものでは断じて無く、あくまで、日本の外交はものすごく下手なんじゃないかという心配です。もっとも私は将棋が下手で、裏の裏、先の先まで読み通すことを苦手としていますから、私のような低能な庶民には理解不能な深謀遠慮が日本政府に潜んでいるのであれば、何も心配することは無いのです。敵を欺くにまず味方から、というのであればいいのです。けれども、なんというか、あまりそうした冷徹な意地悪さのようなものが内閣と外務省の皆様には見えてこないのが心配なのです。

拉致問題は悲惨な問題です。拉致被害者の家族にとっては、何に代えても家族を取り戻したいことでしょう。が、内閣はもっと高いところから問題を見ないといけません。拉致問題を解決しないよりは解決したほうがいいに決まっていますが、そのために全国民が生命の危険にさらされうる核問題をないがしろにしていいということはありません。

拉致被害者家族会は、うまく拉致問題を政治問題に引き上げましたが、客観的には問題を過大評価しているように見えます。言い換えれば、有権者の心情に訴える政治の道具に利用されているようにも見えます。飲酒運転事故被害者や年間3万にのぼる自殺者の遺族など、悲惨な問題を抱えた多くの人が今も増え続けているのに、ことさら拉致被害者の家族だけが連日テレビ画面に映る意味が見えません。

重ねて言いますが、拉致問題は悲惨な問題です。拉致被害者の家族にとっては、何に代えても家族を取り戻したいことでしょう。が、子供の命が地球より重いというのはひとりの親にとって真実であっても、それはあくまで心情であって、日本という大きな社会全体にとっては、やはり多くの問題の中のひとつでしかありません。

心臓移植でしか命が助からない子供を持てば、海外で移植手術を受けることが倫理的に問題であろうが、資金集めが詐欺的だと言われようが、子供を救うためなら何でもするでしょうし、その親を批判する気にはなれません。しかし、それがマスメディアや政府などの公的な権力によって過剰に肩入れされるとなれば、それはまた別の問題です。公平性や公共性について、十分考える必要があるでしょう。

外交戦略では、非常に重大かつ微妙な局面では躊躇せず奇手も打つ必要があるでしょうが、序盤ではあくまで定石に忠実に、理論的で理性的な交渉が外交を有利に進めるように思います。頑張れ、日本政府。
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by antonin | 2006-11-08 00:32 | Trackback(4) | Comments(2)


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