安敦誌


つまらない話など
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雑念メモ

たぶんまた薬の具合だと思うが、書きたいことがいろいろと溜まってきた。それぞれ全部吐き出してしまうとそれなりの分量になるが、時間がないので簡単にまとめておく。気が向いたらフルサイズの文章になることもあるかもしれないが、断片でも書き出してしまうと満足してしまうことのほうが多い。ヌーヴォーじゃないボジョレ・ヴィラージュを飲みながらなので、内容が雑なのはそのせいということで。

--

薔薇について。

バラはよく愛の象徴などと言うが、自分でバラを育ててみて、ちょっと違った意味でその言葉を解釈するようになった。バラという花は、非常に手がかかる。水も光も肥料もたっぷり必要とするし、無駄に枝が伸びるので適当に剪定などもしてやらないといけない。私などが育てると枯れまくる。街角に花屋があって、いくらかの現金で切り花が買えるようになる以前の世界では、女性にバラの花束をプレゼントできる男性というのは、家に日当たりのよい庭があって、なおかつバラの手入れに手間をかけられる程度に余裕のある家に住んでいるということを暗に示していたのだろう。

こういう言い方を嫌う人は多いかもしれないが、昔のヨーロッパでは、女性の幸せというのは結婚する男性の家にどれほどの余裕があるかで決まる部分が大きかっただろう。男がバラの花束を持てるということは、庭師を雇うだけの裕福さがあるか、さもなければ家事をこなして花まで育てる余裕のある女たちが住んでいるか、さもなければ男が自らの手でバラを育てられる程度に仕事の要領が良いか、このいずれかを知らせる「メルクマール」になっていたのだろう。これを愛の象徴と呼ぶことは、ロマンティックではない即物的解釈だけれども、まあそんなあたりに起源があるんじゃないかと思った。

男の靴が磨かれているかどうかで品定めできる、というあたりもおそらく似た具合のことを指しているのだろう。

--

嫉妬について。

過去にも書いたが、小さな劣等感は嫉妬になるが、ある限度を超えて大きくなった劣等感は、尊敬の感情を呼び起こすと思っている。劣等感がなければ親しみになるが、人は日々移ろうもので、親しいと思っていた相手がある日嫉妬の対象になったり、嫉妬の対象だったものがある日尊敬の対象になったりする。よく、有名になったら急にすり寄ってくる人が軽蔑される話を聞くが、そういう人があんまり算盤尽くとは限らなくて、おそらくはこうした心理が働いているんじゃないかと思う。同様に、優越感が小さいと軽侮の情になるが、ある限度を超えると慈愛に近い感情になる。歩けない赤ん坊を軽蔑する大人はあまりいないが、車の運転が下手という程度だと軽蔑の対象になりやすい。

自分の技量と同レベルを中心に置き、そこから縦軸を引いて上方向に劣等感、下方向に優越感を配置すると、中心点の周りに、小さな「親近感」の領域ができる。その外側に「嫉妬と軽蔑」のドーナツ領域があり、その外側には「尊敬と慈愛」の領域がある。同じ音楽の嗜好を持った仲間がバンドを組むと、最初はみんな親しみの領域にあるが、演奏を続けるにしたがって延びる技量と伸びない技量の差が出てくる。そうすると、バンドのメンバーに対して、演奏だとかライブトークだとか、あるいはメイクアップだとか、分野ごとに嫉妬や軽蔑を感じるようになってくる。こういう領域に達すると、「音楽性の違い」だのなんだのと言って解散してしまうのだろう。

本田宗一郎さんと藤沢武夫さんみたいに、最初から互いの得意と不得意を埋め合わせるような関係にある人たちは、それぞれの分野で慈愛と尊敬の念で接することができるので、途中から喧嘩別れすることが少ないのだろう。別分野で頂点を極めた人たちの仲が良いのも、だいたいこういう関係にあるからじゃないかと思う。「嫉妬と軽蔑」のドーナツの幅はその人の心の余裕に反比例するらしいのだが、面倒なのでこの話も終わり。

--

天皇制の話。

悠仁親王ご誕生で、継承問題は菊のカーテンの奥へ遠ざかってしまったが、まだまだこの話は崖っぷちにある。というのも、根本的な問題は何一つ解決していないからだ。根本的な問題というのは、天皇ないし皇太子が、複数の妃を持つかどうかということ。

明治以降、皇室は変わり続けてきた。明治天皇は畿内の地を離れて関東の埋め立て地に宮城を移し、大和の御門から大日本の皇帝に立場を変えた。大正天皇は、側室制度を廃止し、キリスト教徒である西欧列強の支配者に野蛮人扱いされない婚姻を選んだ。昭和天皇は皇祖神の直系としての現人神であることを辞め、人間宣言をした。今上天皇は妃選びの血統主義を返上し、民主国家の主権者である平民の娘を妃に選んだ。

だいたいこういう流れがある。で、継承問題で一番重要なのが、大正天皇の選択になる。確率計算から導かれる年数よりはかなり急激に男子が減るという偶然はあったが、どちらにせよ一夫一婦制度と男系による継承の永続というのは数学的に両立できない。なので、今さら伝統を云々するならば、大正天皇の選択を反故にし側室制を復活させるか、あるいは男子を産めないと分かった時点で妃を離縁して若い妃を取り直すかのどちらかの方法で、終身一夫一婦制を廃止するしかない。

万世一系というのが真実だとすると、数学的に見れば数十世代にわたって側室を持ち続けるだけの財と権威が天皇家に続いたことの証明にしかならない。その万世一系にこだわるなら、現代日本の一般市民の常識だとか、キリスト教圏の王家の良識だとか、そのあたりはさておき伝統を重視して側室制度を復活させるべき、という結論になってしまう。いまどき側室に収まるような女性がいるのか、という話になってようやく旧宮家に白羽の矢が立つのだが、こういう逃げようのない論が出ることがなく継承問題が語られるので、気味悪く思っている。氏より育ちと言うし、個人的には、明治以降の変遷を受け入れ女系天皇容認で良いと思う。

--

教養とは何か。

簡単に言うと、「話が通じる」ということだと思う。具体的に言うと、有名な物語を鑑賞した経験を指すのだと思う。泣いて馬謖を斬る、という感じで、有名な場面を指すことで細かいことを言わなくても話が通じるための知識を教養と呼ぶ、ただそれだけのことだと思う。今なら、「坊やだからさ」とか「人間がゴミのようだ」とか「僕と契約して~になってよ」とか、そういう物語の断片から言わんとする情景と顛末の暗示を理解できるようなことがそれにあたるのだろう。現代的には科学や工学や経済の理論だとか、あるいは数学の定理などの背景も知っていたほうがいいのかもしれないが、これはやや飾りの部類に入るかもしれない。

金持ってそうな人と愉快な会話を楽しめるだけの知識。限りなく下品に言えばそういうことになる。

終わり。

--

細かい連想、妄想の類はもっといっぱいあるのだけれど、今日はこのあたりで気が済んだ。

図書館に山本夏彦さんのコラムをまとめた本を探しに行ったら、山本七平さんとの対談集(「正論」の昭和58年あたりの連載記事)が再出版されたものがあり、面白いので借りてみた。今から30年くらい前の話で、明治初期とか幕末がぎりぎり肌感覚として理解できる時代として語られていた。昭和末期ってそんな感じだったのか。なんにせよ語り口が面白い。狩られる前の言葉などもふんだんに出てくる。まあ、立小便が男らしいと思われていた時代の話でもあり、現代の品の良さとトレードオフの関係にある愉快さでもあるので、あんまり手放しに称揚したくはないが、ここだけ切り出せば昭和というのは楽しい時代だったのだなあと思った。

デカルトさんが、古典を読むことで過去に旅できるが、あんまり過去に入り浸ると現代で異邦人になってしまうというようなことを書いていた。杉浦日向子さんの作品なども読んでいるが、あちらに魅せられて、確かに異邦人だったなと思う。ついには魂抜かれちまったんじゃないかという最期でもあったし。それはそれで幸せな生き方にも見えるが。

意地悪は死なず 夏彦・七平対談―山本夏彦とその時代〈2〉 (山本夏彦とその時代 2)

山本 夏彦,山本 七平/ワック

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合葬 (ちくま文庫)

杉浦 日向子/筑摩書房

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by antonin | 2014-07-08 23:33 | Trackback | Comments(0)

月と塔と箱

久しぶりに写真でも。

b0004933_02844.jpg


中秋の名月ということで。

あと、スカイツリーとか。

b0004933_024541.jpg

Finepix F800EXR にて撮影。Rawで撮って、適当に現像した。
月の方は、f5.3, 1/640s, ISO100 で、スカイツリーの方は f6.1, 2s, ISO100。
この程度の写真の撮影情報に意味があるのかどうかはわからないけれども。

月の写真なんかは、昔はコンパクトデジカメで撮影するとただの光る円盤になってしまってどうしようもなかった。ある程度距離があって明さもある、スーパーの看板なんかでシャッターボタン半押しにして焦点と露出を固め、それでレンズを月に向けてエイヤっと撮影すると、ようやくなんとか月面の模様が映る、とかそういう具合だった。

最近は安いコンパクトカメラでも絞りとシャッター時間をマニュアル設定可能なモードがあったりして、明るい満月を撮影するのもそれほど面倒ではなくなった。このF800EXRは、後継のF900EXRが出てから型落ちで購入したので、¥15,000もしなかった。ポケットにスッキリ入る薄さでありながら、テレ端は20倍、35mm換算で480mm相当という光学ズームも付いて本当に面白いのだけれど、これだけ至れり尽くせりになると、今度は逆に一眼レフに大口径望遠レンズを付けて撮影した画像などと比べて、「解像力がないなぁ」なんてことを考え始める。人間というのは欲深いものだ。

そんな名月の晩、ムスコ2号が5歳になった。早いなぁ、という定番の感想も思うのだけれど、同時に、まだ5歳なのか、という感想も同時にあった。ムスメも体は大きくなったがまだ小学生だ。先が長すぎてめまいがする。

20年後、カメラは今より進歩しているのか、あるいは現在のオーディオ製品のように、進化の方向がひたすら便利さの方へ傾いて、安くて高性能なカメラというのはもはや、開発エンジニアの食い扶持を支えるだけの利益を生み出すことができないロストテクノロジーと成り果てているのか。どうだろう。

そういえば、簡易スピーカーを買った。

ONKYO WAVIO アンプ内蔵スピーカー 15W+15W ブラック GX-D90(B)

オンキヨー



どうせPCとかポータブルオーディオとかを接続して、ヘッドフォンなしでも音声を聞けるようにするためのデバイスなんだから、鳴ればいい、というのはある。そうなんだけれど、最近、いい音で鳴るスピーカーというのが我が家からなくなってしまった。MDオーディオは壊れてしまったし、もっと古いPanasonicのダブルデッキラジカセはまだ動いているが、ヘッドフォン端子の接続が悪くて片チャンネルが消えがちだし、スピーカーもリムのスポンジ材が破れていて、大きな音を出すとビリビリと鳴る。

最近は耳が悪くなってストリングスの艶なんかも段々と聴き取れなくなってきているけれど、そろそろ思春期に突入するムスメとか、その下の弟達なんかにも、いい音を聴いてみるきっかけのようなものがあってもいいんじゃないかと思った。あんまり高価なものは買えないけれども、安物ほど、ちょっと味を付けると格段に性能が上がったりする。というわけで、Amazonで安売りされていたパワード・スピーカーを購入してみた。光ディジタル入力などはおそらく使わないと思うが、ツイータがあるだけで音のきらめき方というのは格段に変わるので、このくらいの装置がいいのだろうと思った。

鳴らしてみると、ピュアオーディオの感動的なサウンドには程遠いけれども、それでもPCペリフェラルとしてのスピーカーなんかとは別水準の音がちゃんと鳴る。高音を少し強めにしてやると、圧縮音源でもそれなりに残響も含めて音を聞き分けられるようになる。ポップスやロックを聴かないので低音の具合はなんとも言えないが、オルガンの通奏低音などは変な共鳴などせずにしっかりと響く。いい買い物だったと思う。
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by antonin | 2013-09-20 00:54 | Trackback | Comments(0)

考えない練習

考えない練習

小池 龍之介 / 小学館



Kindle Storeでこういう本を見つけたので購入してみた。「考える…」とか「…考えよう」という系統の本よりも、すっと入り込める。こういうのを求めていたんだと思う。

夏の盛りは過ぎたけれども、まだしばらく虫の声が響く季節なので、五感を、いや、六根を研ぎ澄ませて、季節を感じる練習でもしてみよう。
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by antonin | 2013-08-21 02:03 | Trackback | Comments(0)

「考える生き方」を読んで

なんだか凝った装丁をした割に、案外に早くKindleに出てきたのでワンクリック購入してみた。

考える生き方

finalvent / ダイヤモンド社


装丁が懲りすぎて、Kindle版だと序文が全部ビットマップになってしまっている。これはひどく読みづらかったが、すぐに終わったのでなんとかなった。

で、冒頭部分は引き込まれるように読んだのだが、子供が生まれたあたりからは、集中して読めなくなった。そして、流し読みで最後まで進み、山本七平だの吉本隆明だのがどうのこうのというあたりをちょっと読んで、ひとまず読書が終わった。感想を単刀直入に書くと、「打ちのめされた」というのが一番近い。ご本人の評とは正反対の着地点だったわけで、しかも読もうとした当初は、五割差し引いても大筋はご本人の言うような感じだろうと思って読み始めたので、この結果には精神的にかなり参った。

私は中学受験に放り込まれた経験があるので、賢い奴はやっぱり賢いのだな、というのを11歳のときには骨身に染みて実感していた。そして中学受験が終わって進学先も決まり、小学校の卒業式の日が私の12歳の誕生日だった。背丈はちょうど140センチ。幼い子供だった。こんな中途半端な自分にも何か生きる道があるのだろうかと、女っ気のない男子校で悩みながら6年間を過ごした。

それでもなんとか自分を奮い立てながら、大学進学までは漕ぎ着けたのだが、離人症っぽい症状を発して学業を中断した。しかし大学院に進む前だったので、温情で学士の証書だけ渡され、追い出されるように社会に出た。このあたりまではfinalvent氏と私の経歴は重なる部分がある。が、やっぱり地の素質が違うのだ。

地の素質の優秀さというのは、どれほどダラダラとしていても、ある程度人を見抜く力のある人には見ぬかれてしまう。そういう経験が、本書には随所に書かれている。そしてそういう経験は自分の人生にはあまりなかった。finalvent氏は若くして挫折して、大学院を中退したあたりで人生のどん底に落ちるが、あとはなだらかにサクセスストーリーを辿っていく。これは普通、読んでいて楽しい話のはずだ。

これは私が20歳くらいのころから変わらず言い続けている表現なのだけれど、人間というのは微分する生き物なのだ。感覚量の絶対値というのを、あまり人間の知覚は認知できない。認知できるのは、主に変化量や比較差分などの微分量であり、またそれは対数スケールを持っている。なので、どんなにどん底にあっても、変化や比較した量がプラスであれば、人は希望と喜びを持って生きることができるが、どんなに優雅な生活であっても、変化や比較した量がマイナスであれば、人は絶望と苦痛を持って生きることになる。

だから、ロールプレイングゲームを始めとして、多くのゲームはショボい状態から始まり、徐々にランクを上げて高度な世界に踏み出すというスタイルを採っている。まかりまちがっても、最初にフルスペックの装備を与えられ、それを消費して摩滅していき、最後は寂しく消えていくというスタイルのゲームは存在しない。そんな苦痛に進んで向き合おうとする人間などいない。ただ、名家の二代目三代目となると、案外にそういう経路を辿らざるをえない人が少なくないので、そこに悲劇が描かれることになる。だが、そういった主人公に感情移入しながら直視できる人というのもあまり多くはない。

そういう意味で、finalvent氏の人生は世にも稀な大サクセスストーリーなのである。到達点は特段高くはないかもしれないが、出発点で一度底辺を這いつくばったので、あとは概ね上昇路線のストーリーであり、これは戦後日本の物語にも似たものなのだ。ただ、ご本人は辛かっただろう。というのも、本書では省かれた、大志を抱いた優等生が離人症になり大学院を中退するという目も当てられない悲劇があり、そしてその悲劇を経てもなお優等生だった自分の姿と若かりし大志を忘れ切れていなかったのだろうから、その理想と現実のギャップに常に苦しんで人生を送ってこられただろう。難病だってハゲだって、当の本人にとっては辛い経験だっただろう。

だが惜しむらくは、その若き転落の記述は本書にはなく、転落後のサクセスストーリーと、そのサクセスストーリーを終えて若い人への教訓を垂れる55歳の男の姿だけが、本書には書かれている。「finalventの人生」の白眉はどこにあるかというと、自他共に認める神童時代と、その神童が転落して普通以下の人として社会に出てしまったという悲劇だろう。ご本人には辛いところだろうが、しかしやはりその一番つらいところの記述を伏せて本書のストーリーが幕を開けてしまったために、本書は単に緩やかな成功を収め功成り名を挙げた初老の紳士が、若い人に教訓を垂れる自叙伝に成り下がってしまった面がある。

その白眉を曖昧にしたまま、それに続く苦悩の年鑑を刻んでみても、本書だけを読んだ人にとっては、なんだか知らないけどまともに正社員にも付けなかった奴が、なんだか知らないけど適性に合う仕事を得て、なんだか知らないけど仕事をこなして評価もされて、なんだか知らないけど料理ができて、なんだか知らないけど結婚できて、なんだか知らないけど沖縄に受け入れられて、なんだか知らないけど三男一女をもうけて、しかも娘は美人だし地元の名士には顔が利くし技術に明るくて地元の新聞の一面を飾った大成功者という風にしか映らないだろう。それに帰京後のアルファブロガーとしての名声が暗黙のうちに加わる。

こうなると、難病もハゲも物語を単調にしないために必要な実に美味しいエピソードに映ってしまう。私が本書の中盤を流し読みにしか読めなかった理由も、おそらくはそういう部分にある。まだしも、当人が血の滲むような努力で今の地位までのし上がってきたのだと自慢してくれたほうが、読む方にはむしろ優しい気がする。もちろん、読み手の心理に余裕があれば、本書の構成でもすんなり受け入れることができるだろう。ただし、世界の不条理に苦しんでいると感じている、本書が読者と想定しているらしい人々に本当に伝えたいとするならば、その悲劇の部分を省いて本書を始めてはいけないような気がする。

私はパスカルの「パンセ」を読んで感じ入るところが多々あったが、それはパスカルが自分の半生を振り返って、幾多の業績を上げてきた歴史を少しはにかみながら遠慮がちに語り、そんな大したことのない自分でも後世の人に役立つことがあるかもしれない、などと教え諭したからではない。教科書で偉大な業績を残した高名な思想家にして科学者にして数学者だったと教えられた偉人が、肉筆原稿では案外にいじけたことを書いていたから、そのギャップに萌えたのだった。そういう需要は「finalventの日記」で十分に満たされているから、それ以上は必要なかった。

なので、「考える生き方」を読んで全くなんの感銘も受けなかったし、私もすでに41歳だから、私の生き方は正しかったとあなたも言ってくれるのですか、という面が多少あるという程度でしかなかった。finalvent氏と同じ希望が私にもあると感じたかというと、これは否と言うしかない。子供はすでに3人いるけれども。

ただまあ、finalventという人が、優等生じみた発言で凡百の人たちを苛つかせながらも、やはり魅力ある人であるな、ということはひしひしと伝わってきた。それでいいんじゃないかと思う。本書を購入した理由というのがそもそも、自分の人生における悩みの救いを求めたわけではなく、知った人が著書を出版したというのでちょっと覗いてやろうか、という程度だったので、全く丁度良い内容だったと思う。いくらか知った人の半生を描いた自叙伝を読む機会というのも、それほどあるものではないから。
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by antonin | 2013-05-01 00:46 | Trackback | Comments(0)

本の話

あかね空 (文春文庫)

山本 一力 / 文藝春秋



読了。内容については、2002年の直木賞受賞作ということらしいので、いまさらここで書評っぽいことをする必要もないでしょう。で、さすが直木賞というか、面白いですよ。内容も濃いし、そういう濃さを忘れさせるエンターテイメントも満載。が、それはそれとして。

人に勧められて本を読むことはたまにあるし、それがベストセラーだったり文学賞受賞作だったりすると、自分では絶対に手に取らないけれども、読んでみるとさすがに面白かったりする。そういう場合もたいていは自分で買ったり図書館で借りたりするのだけれど、今回は薦めた本人から借りた本で、しかもしばらく書棚に積んだ挙句にようやく読んだものだった。

で、これ、まっすぐだけど不器用な家族愛の物語なんだけれど、その家族構成はというと、我が家のそれになぞらえて読むことができなくもないという程度に似ている。で、その本を貸してくれた人というのが、義理に母であったりして、このリアル世界の、印刷された文字の手前側の物語がなんとなく文字の向こう側の物語とリンクしていたりして、「はてしない物語」化しているこの状況をどうしましょう、みたいなことになっている。

作中の物語に負けず劣らずの軋轢が生じている家庭ではあるけれども、それぞれの根の正直さというのはそれぞれに知れていて、それを物語として読んでいる分にはいいのだけれど、自身の生活に反照してくるこの状況というのは参った。どうしましょう。

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ファスト&スロー (上): あなたの意思はどのように決まるか?

ダニエル・カーネマン / 早川書房



リンク先は書籍版だが、実際に購入したのはKindle版の方。もう書棚は飽和状態なので、本を買うときは価格とともに体積の方も気になる。150cc超えるとちょっと躊躇してしまうな、みたいなことはある。で、こちらは体積ゼロで、価格も書籍版よりちょっと安くてお得な気分になる。両手でないと持てないハードカバーでもないので通勤電車でも手軽に読める。

内容はまだ上巻の半分程度しか読んでいないのだが、6割の「知ってた」と4割の「へぇ」で構成されていて、まずまず良い感じ。程よいイングリッシュジョークが随所に散りばめられているのだが、訳文はお堅い論文調。まあ、それがいいのかもしれないけれど。

知らない間に自分でAmazonのカートに放り込んでいたのだが、どこでこの本を知ったのか覚えていない。たぶん、脳とか認知とか心理とか、そういう関係の本を購入したときに関連商品か何かで出てきたのだろう。しばらくカートで腐っていたのだが、Kindle化を契機に購入してしまった。しばらくはこういうことが続くのかもしれない。

本書では、脳の働きに直感を司るシステム1と、論理思考を司るシステム2があること、そしてそれぞれの長所と短所を様々な研究事例とともに説明してくれる。個人的にはシステム0とかシステム-1とか、もっと低位のレイヤーがあると思っているし、そのあたりは著者も知っていると思うけれど、啓蒙書だから話はシンプルにした方がいいのだろう。人間の知能というのは、理性という主人が感情という馬にまたがっているようなものだと常々思っていたのだけれど、それを客観的なデータで裏付ける研究事例がいくつも紹介されていて楽しい。

本書に書かれた話題を少し離れるけれど、駄馬に至高の人格が乗っているように、筆は走るが実務ではボロボロというような人もあれば、名馬に愚者がまたがっているようで、主人は落馬しないようにしがみついて、あとは馬の走るに任せていれば万事そこそこ順調というような人もある。世の中いろいろあって面白い。

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一度書籍化されたものを電子化されると、それを割安だと思って購入するのだけれど、はじめから電子化するのが当たり前の世界になると、それはよくデザインされたサイトの連載記事と、いったいどの程度違うのだろう、という気もする。アプリケーションソフトウェアがアプリと呼ばれて消耗品になったのと同じように、文字主体の書籍も、85円から600円くらいなら購入してもいいけど、なんていうところまで相場は落ちていくのかもしれない。

月々定額で読み放題というような雑誌スタイルのほうが、案外ネットとは相性がいいのかもしれない。あとは、立ち読みとか店頭平積みとかの誘引システムをどう継承していくか、とかいう問題はあるだろうけれども。

パソコン通信時代から、ソフトコピーはスクロール(巻物)形式に慣れ親しんできたので、ページという内容と関係のない区切り単位が電子書籍に引き継がれているというのが、目下の不満。ハードコピーではこういう不満は感じなかったので、不思議なものだと思う。電子書籍上でも「ページ」という紙っぽい仕組みをエミュレートするモードがあってもいいけれど、章単位のデータを継ぎ目なく素直にスクロールしてくれるモードも備えるようになってくれると嬉しい。縦書き横書きは、別にどちらでも構わない。

ただまあ、無用の用というか、そういう今となっては無用の儀式を守らないと、それこそ一気に値崩れしてしまうのかな、という気もしないでもない。「これは本ではない」と消費者が気づく契機になってしまうと、それはそれで面白くないことになるのかもしれない。

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震災前は「Apple嫌いのカラクリ」が人気記事だったけれども、「NGワード」認定のためか、あれ以来アクセスがめっきり減った。まあ、食人ネタ書いてからこの傾向は全般的に続いているわけではあるけれども。googleによるフィルタリングは概ねありがたいのだけれど、いくらか世の中をつまらなくしているのかもしれないな、と思うことはある。陰謀論というのとは違うのだけれど、認知の閾値の下に沈んでしまった情報というのも多々あるのだろうな、という。
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by antonin | 2013-03-21 02:33 | Trackback | Comments(0)

自分のドタマで考えよう

ちきりん著「自分のアタマで考えよう」を先週Amazon kindle storeで購入、翌日一気に読了。購入前に一番興味があると言っていた、両親への感謝の言葉は書かれていなかった。別の本と勘違いしていたみたい。

自分のアタマで考えよう

ちきりん / ダイヤモンド社


内容を字義通りに解釈すると、未読の人にはこう言わなければならない。

「この本に書かれている内容を信じてしまうような人は、この本を読んではいけない」

論旨の構成はこういう具合で、論理的にはいろいろとグダグダした部分が多く、錯綜していたり矛盾していたりする。こういう部分が、「ちきりんって自分と同じ匂いがする」と感じさせる理由なのだろう。これが理屈にうるさい人にかかると、たぶん無教養の極みという感じで違和感を持たれてしまう。

で、ちきりんには彼女なりの成功体験というものがあって、自分のアタマで考えることを他人に勧めるわけなのだけれど、個人的には自分のアタマで考えるというのは宿命みたいに感じている部分があって、人に勧められてどうこうというものではないような気がしている。こういう本に勧められてようやく自分のアタマで考え始められる人がいるものなのかどうなのか、ちょっと疑わしい。

この本に書かれていることを一言で言うと、「考えるためのツール」がサラッと説明されたハウツー本ということになる。考えろと言われてもどうやったら考えられるのかわからないという人がいて、そういう人に対して「こうすれば考えられるよ」ということが説明されている。それでいて、最後の章になって、名著を読んで答えを知るのはやめよう、先に自分のアタマで考えよう、みたいなことが書かれている。この本は名著だろうし、考え方の答えが書かれているのだし、じゃあこの本を信じてしまうような人はこの本を読んだらダメじゃん、というのが第一印象だった。

私にも、自分の頭で精一杯考えたことが、古典にあっさりと、そして数段エレガントに書かれていたのを見つけてはガッカリしていた時期があった。で、答え合わせをするときには自分の答えを持っている方が楽しい、というようなことは書いたことがある。

考える葦 : 安敦誌

ただこれ、若干負け惜しみみたいなところがあって、古典をサクッと読んでスッと理解できる情報網と頭脳があるなら、そのほうが手っ取り早いとは思う。しかし実際のところ、古典というのはあまりにも膨大な量があって、どれを読んだらいいのかがまず分からないし、苦労して読んだだけの知識が得られるかどうかもわからない。「この本に答えが書かれているらしい」という情報にたどり着くのがまず難しく、それにはある程度問題を自分のものとして捉えている必要がある。

しかも、コロンブスの卵の話のように、思いつくのは大変だが、知ってしまえば馬鹿でも理解できるような答えもあれば、オセロゲームのように、ルールや勝ち方の理論を知るのは一瞬だけれども、それを本当に理解したり、試合の中で実践するまでには、嫌になるほど多くの時間を必要とするようなものもある。

買ってくる花には、切花のように根がなく、枯れて消えてしまうか、押し花にして永遠に変わらないようにしなければ蓄えられないものがある。また、鉢植えのように、根を張って水を吸い、陽を浴びて次々に花を咲かせ続けるものがある。そして、更に実を生じて株を増やしたり、食事に色を添えたりするものもある。

知識も花に似ている。ただ言葉として知っているだけの知識は、切花に似ている。「管理する」は英語で"manage"または"control"とか言うというのを知っていれば、簡単な試験問題には答えられる。"manage"と"control"という単語を、英語話者はどういう場面で使っていて、どう使い分けているのかまで理解できていると、「管理しろ」と言われた時に、manageすればいいのかcontrolすればいいのかという考え方ができるようになる。これは鉢植えに似ていて、単なる言葉の組み合わせとしての知識が、他の経験や知識と結びついて、単語の意味を訳す以外のいろいろな場面で力を発揮し始める。

そして、実際に"control"ではなく"manege"をしなくてはいけないという時に、実際にそれを遂行するには種々雑多な知識の援用が必要になる。こうなるともう、「管理する」が"manage"と訳されるなんていうのはどうでもいいくらいの要素になっていて、膨大な知識がその知識の断片と有機的に結びついている必要がある。

知識には、「知っている」と「わかっている」と「使える」の3段階があって、知ったからといってわかっているわけではなく、わかったからといって使えるわけでもない。知っている状態からわかっている状態へ持って行くには考えるというプロセスが必要で、だから論語にも「学びて思わざるは即ち罔(くら)し」とある。でも、種もないのに水をまいても花が咲かないように、「思いて学ばざるは即ち殆(あやう)し」ともあって、極端な我流も良くないと言っている。

名著と呼ばれてしまうような作品に書かれているのは、コロンブスの卵的に効果覿面という類いのものが書かれている割合というのがとても低くて、大抵は一読したところでは意味がわからず、そこから著者との勝負が始まる。ただし、予め自分の答えを持っていると、一読目で勝負がつくこともある。(この場合、大抵は読者が負ける。良くて引き分け。だから名著と言われる)

「わかっている」を「使える」に昇格させるには、とにかく実践経験しかない。実際に失敗してああでもないこうでもないと、無数の細かい経験を積むしかない。逆に、実践で使えない経験がより確かな理解を要請するし、理解できない経験がより豊富な知識を要請するものだと思う。

「自分のアタマで考えよう」の冒頭では、ちきりんがアメリカで学んできた哲学がストレートに書かれている。つまり、「人はなぜ学び、考えるのか」という問に対して、「判断し実行するためだ」という答えを、あまり疑わずに信じているような書き方がされている。このあたり、私が大学に入った年に英語の授業で読まされた、ウィリアム・ジェイムズの「プラグマティズム」の完成形が、今もアメリカでは連綿と生きているのだな、という感じがする。

アメリカというのはプロテスタントの国だし、ローマを範とした軍事の国でもあるので、議論のための議論を嫌い、功利主義的な議論を好む傾向はあるらしい。このあたり、ヨーロッパ人のねちっこい議論に比べるとかなりスッキリしていて小気味いいのだけれど、そのスピード感から離れて、ちょっと落ち着いて考えてみると、なんだかおかしな所も多い。

私も大学生の頃に誤差伝搬の計算方法と有効数字の取り扱いだとか、データに騙されないグラフの描き方だとか、まずはそういうものから教えられた。理工系のグラフの描き方というのは、とにかく定量的で、量的なものを長さや面積などで正しくアナログ表現し、それにより視覚を通じて直感的にデータを認識したり比較したりするのが目的だった。なので、実験で取得したデータを数表などで提出すると手抜きだと怒られ、今度は棒グラフにすると原点が0ではないので面積と数値が比例関係にないと怒られた。大量の数値は必ず図にして把握しろと、口を酸っぱくして教えられた。

社会に出ても、統計的品質管理手法の講習を受け、QC7つ道具の使い方などを習った。実務と並行していたのでなかなかキツかったが、データがいかに人を騙すかというのがわかって面白かった。そういうデータに騙されない方法というのが、データを見て納得している自分に対して、「本当にそうか?」という強制的な疑問を義務的に向ける作業で、これがなかなか難しいものだった。で、まあ、やってみると気付かなかった疑問点がザラザラと出てくる。グループ討議などでやってみると、さらにいろいろと見つかる。

そういうツールを使うと確かに色々なものが見えてくるし、問題を考えることそのものより問題解決を優先するなら、恐ろしい勢いで問題を片付けることもできるので、確かに楽しい。ただ、それは本当に「考える」ということなんだろうか。

かなり前に読んだ「算法少女」という本が、まだ左列のライフログに棚晒しになったままになっているが、そこでは、江戸時代に実在した、少女の名による算法書をめぐるストーリーにからめて、「学ぶとは何か」ということが隠れたテーマになっている。復刊を果たした文庫の帯には「楽しいからよ」と高らかに書かれているし、確かに主人公の少女もそういうセリフを言うのだけれど、完全に算法を趣味として楽しみ、「壺中の天」にとどまる主人公の父を見て、あるいは九九を教わって喜んでいる町人の子供たちを見て、楽しいだけが学問の価値でもない、ということも語られる。

自分のアタマで考えるのも、基本は楽しいからであって、それがなくてはいけないが、それだけでもいけなくて、必ずいつかどこかで役立つものでなければいけない。一方で、功利的になりすぎて、判断をもたらさない思考は結局何も考えていないのと同じ、というのも極端が過ぎる。アメリカというのは伝統的にこちらの極端に近いところにいて、ヨーロッパのねちっこさに比べると、非常にはっきりとしている。

聖徳太子を降ろして福沢諭吉を掲げるようになってからの日本の嫌味なところはこういう部分なのだけれど、福沢諭吉が、イギリスにいいようにやられた清を見て、ああいう形で学問を薦めたのと同じように、平成の日本が、ドルにいいようにやられた円を見てこういう形になったのも、似たような恐怖に駆られた結果であって、まあ仕方がないのかな、とも思う。

関係ない話になってしまった。まあ、道具なんていうのは、仕組みを考えるより買ってくるほうが早い。要は、考えて何かを理解することそのものに情熱を感じるのか、理解したことによって小気味良く現実の問題をバッタバッタと解決していく方に情熱を感じて、手段として考えることを利用するのか。そのあたりの動機の問題だろうと思う。

ある人の動機(motif)というのは、幼年期の終わりに初めて自分の手で何かを成し遂げた喜びとか、あるいはウィリー・ウォンカのように子供の自然な欲求を不自然に抑圧されたための渇望とか、そういう偶然の結果がズルズルと尾を引いているだけで、大人になって他人の書いた文字を眺めたからって、そうそう変わるものではないのだろうという気がする。

変わる要因がただ一つあるとしたら、それは青春期に固有の「惚れる」という体験だろう。それは異性でも同性でも良いのだけれど、同性だからといって薔薇とか百合とかになるタイプのものではなくて、「この人ってすごい」という無批判な惚れ込みようってのは、ハタチ前後にはよくある話だろうし、ある程度歳を取るとほとんど失われてしまう能力でもある。

そういう、心底惚れられる人か、自分がうちに秘めた動機と合致する仕事か、20代の貴重な時間にそのどちらかがない職場にいるなら、躊躇はあるだろうけど思い切って辞めてしまえ、という話を「若さの無駄遣いはやめよう」というタイトルで書こうとしていたのを思い出して、脱線してしまった。

ちきりんは、幸福な20代を送ることができたのだろう。善き哉。もうちょっと、その惚れたあたりの話を読んでみたかった。この本も、若い人を惚れさせようと口説いている内容なのであって、私が読んでもしかたがないのだろう。

ツールなんかは、必要な人が必要に応じて使えばいい。分解して仕組みが知りたい人もそうすればいい。薬を飲みながら11年を過ごし、若さを無駄遣いして終わってしまったおっさんは、歌を歌おう。ぬぬぬーーん、ぬぬぬーーん、ぬぬぬーーん。

マーラー 交響曲第5番より 第1楽章 - YouTube
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by antonin | 2013-03-11 01:34 | Trackback | Comments(0)

「簡単なこと」ほど難しいことはない

簡単なこと、というのは、世の中にたくさんある。息を吸うとか、指を曲げるとか、10まで数えるとか。あるいは、朝の15分で1日の仕事の段取りをつけるとか、割り込み仕事が入った時に、その優先順位を考えるとか。そういうのは「たいして難しくないこと」で、もしもそういうことができないのだとしたら、一時的な病気か、あるいは単にスキルを学んでいないから、と思われる。

が、意外とそうでもない場合がある。ある種の先天的な形質であるとか、体の一部の不可逆的な損傷などによって、そういう「簡単なこと」ができない人がいる。そして、それが全くできないのだとか、できない理由が傍目に明らかな場合には、まだ救いがある。が、意外とそうでもない場合が多い。中途半端にはできてしまうのだが、ひどい苦労が伴う、だとか、内部的には理由があるのだが、外部からその理由を知ることができない、などの事情で。

そういう場合、できないことが「簡単なこと」であればあるほど、それができる人にはあまりに自然で簡単に感じてしまうため、なぜできないのか、あるいはできないなんてことがあるということそれ自体が、なかなか理解できない。そして、そういう簡単なことができない当人にとっても、その理由の本当のところが理解できていなかったりする。

そういうことを、現代社会は人間生活の「標準(standard)」として多々組み込んでいる。その標準から外れる人、特に、全く疑いの余地なく外れる人ではなく、ぎりぎりこぼれ落ちる間際で踏ん張っている人にとって、「どうしてそんな簡単なことも出来ないのか」という常識的な感覚は、非常に大きな苦痛になる。

そういう、標準の縁にいる個体を遺伝的にふるい落とすことで遺伝的平均値を高め、より高度な能力を身につけるというのが進化論の根本原理でもあり、また人間がこんな高度な生物になった原動力でもある。だから、人類の進歩のためにはそういう劣った個体を優遇する理由などないのだが、どんなに汚い技を使ってでも生き残る生存競争をするのが生物の定めでもあるので、際にいる個体も、なんとか理由を見つけて自分を生き残らせる戦術を使わなくてはならない。

「悪平等」と言われる思想や制度は、そういう際にいる人間たちによる巧妙な生存戦術が昇華したものであるようにも思える。社会システムのパフォーマンスに悪影響を与える平等は、標準個体にとっては全くの害悪に見えるが、辺縁個体にとっては自己の生存可能性を高める支柱でもある。簡単なことが難しいということを、「じゃあ生きるのやめれば?」と言われずに、標準個体たちの矜持あるいは美的感覚に訴えて理解させていくということが、辺縁個体にとっては必須の生存戦術になる。

難しく、そして卑賤なことでもあるが、そうでもして生き残らなければ絶滅するだけであって、そうである以上はそれをしなければならないというのが生命の掟でもある。その辺りの汚さを理解して受け入れていくのが老成ということで、嫌なことではあるけれども、死なずに無事老成できた辺縁個体が引き受けるべき運命でもあるのだろうという気はする。

片づけられない女たち

サリ ソルデン / WAVE出版


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by antonin | 2013-03-04 03:52 | Trackback | Comments(0)

円高の正体

代休っぽい理由で、自宅にいる。で、朝から読書なんかをしている。検診の結果、中性脂肪が高くて動脈硬化リスクが高まっていますよ、なんていう警告が出てしまったので、少しは運動などしないといけないなぁ、とも思っているが、運動のための運動というのは大嫌いなので、自転車に乗ってお寺参りにでも行ってこようか。

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finalventさんが推していた「円高の正体」という新書が気になっていたのだが、古書価格が結構高止まりしていたので二の足を踏んでいたら、AmazonでKindle版が得られていたので、早速購入してみた。

円高の正体 (光文社新書)

安達 誠司 / 光文社


私個人の場合、内容的にあまり好ましくないが成り行き上目を通さざるをえない本というのは、意識的に古書で書い、読み終わったらすぐに売ってしまうケースが多い。こういう場合、私が払った代金というのはすべて流通業者に流れ、保証金のようなどんぶり勘定のフィードバック経路がある場合を除いて、版元や著者には流れない。ところが、電子書籍では代金が販売店の取り分を除いて発行元に流れる上、古書が流通して市場を食い荒らすことも未然に防止できる。

なぜ既存の出版社が電子書籍に積極的にならないのか理解し難いが、おそらく、過去の経験で身につけたノウハウが役立たなくなることを恐れている中年以上のスタッフが反対しているか、長年一緒に仕事をしてきた印刷や流通業界の幹部からの接待に、幹部クラスがほだされているからとか、そんなあたりなんだろう。


さて、本題。

本書の内容だけれども、日本のデフレの主要因は金融政策にあり、日本の不景気の原因の全ては日銀の不手際にある、という極端な主張をする人たちの理論的根拠がある程度把握できるという点で、参考になった。けれども、新書という形態の制限からある程度当然なのだけれど、議論が大雑把で、正当性を検証できるレベルではなかった。

つまり、「そのとおりですね」とも言えるようなデータではあるのだけれど、また同時に「こういう見方もできますね」と言えてしまう程度の単品データでもあるので、要するに緻密な議論ができない。新書で緻密な議論ができるようなデータを提出されても困るのだけれど、それとは別に、データの前後に主観的な主張が強すぎて、そもそも客観的な議論ができるような文脈ではないという問題もあった。

過去に読んだ「デフレの正体」でも事情は似たようなものだったので、結局は両者の意見を念頭に置いた上で、結局は基礎的な経済理論から、現下の社会モデルに参照して、事前仮定が成立しない理論を丁寧に除去して、成立する理論もその成立範囲をある程度確定して、その上で現実を説明可能な理論を再構築するしか、結局のところ手はないのだと感じた。このあたりがキリリと示されることを若干期待していたのだけれど、それは過ぎた期待だったようだ。

本書で、ライバルとなる「デフレの正体」に対する反論のようなものもあったのだけれど、思ったよりあっさりとしていて、1ページ分の文章と、表が1枚添えられているだけだった。つまり、日本より生産年齢人口が減少している国はあるが、その国でもインフレ率はプラスになっていて、デフレが起こっているのは日本だけですよ、という、あっけないほど簡単な「反論」だった。

デフレの正体 経済は「人口の波」で動く (角川oneテーマ21)

藻谷 浩介 / 角川書店(角川グループパブリッシング)


けれども、日本よりも生産年齢人口の減少が大きいとされる国は、主に東欧諸国であり、日本のような経済成長を終えた成熟国家ではなかった。そういう国では、社会資本も個人所有物も、まだ十分に揃っていない段階にあるのだから、人口が多少減少しても、国内需要が本格的な縮小に転じるまでにはまだ余裕が残っているだろう。

そういう意味で参考になるのは、日本に近い生産年齢人口の減少が始まったドイツくらいなのだけれど、ドイツのインフレ率も1.6%と非常に低いレベルになっている。そして、現在のドイツというのは既にユーロ圏内にある。独自通貨のマルクが生きていた時代ならいざしらず、通貨圏内に独仏などの成熟国家だけでなく、ポーランドや旧ユーゴスラビア諸国などの発展途上国を抱えた経済圏にある。ユーロ圏内にあるドイツのインフレ率を見るということは、円圏内にある関東のインフレ率を見るという処理に似ている。

そしてドイツ国内にも旧東ドイツ圏の発展途上エリアを抱えている。この地域ではまだ社会資本に対する需要がいくらか残っているだろう。さらにドイツは1560万人の移民を抱え、その割合は19%にも達している。元からのドイツ人4人に対し、移民1人が同居していることになる。移民たちは基本的に家族で定住し、ドイツ国内に残ることを希望しているらしいが、彼らが国内需要に対してかなり貢献しているだろう。また、移民の中にはドイツ国内で稼いだ賃金の一部を、故郷の家族に仕送りしている人もあるだろう。これは、通貨的には労働力の輸入と同じ効果をもたらす。こうした状況も、現在の日本の状況とはかなり異なる。

参照:【ドイツ】外国人・移民人口が19%に拡大[社会]/NNA.EU
(2010年2月のニュース)

非生産年齢人口には、未成年と老齢者の2種類があり、需要を押し上げる効果の大きい未成年と、その効果が小さく、むしろ保有資産の売却圧を生じる老齢者人口では、その効果が異なる。なので、単純な生産年齢人口の増減だけではなく、多産多死から少産少子への移行による生産年齢人口の現象という、人口オーナス状態の例を探し出して比較する必要がある。しかし、こうした状況に対して無対策で放置されている国家は、現在の日本と10年後の韓国くらいしかないので、データが少なく直接的な反証はできない。それに対してごく簡単なデータで反証しているということそれ自体が、むしろ不誠実に感じられる。

また、本書のテーマのもう一つは、円高は常に悪で、良い円高など存在しない、というものだった。この点が強調されすぎて、論がずれているところも多々あった。産業構造が輸出超過であれば、円安のほうが良いに決まっている。中国の元が安値誘導を続けていて、それが欧米に批判されてるのもそうした理由だろう。ただ、それを解消するのが金融政策にしかできないという理由が知りたかったのだが、そうした説明はなかった。

円安になれば輸出が増大してGDPを押し上げるというグラフが出ていたが、そんなのは当たり前であって、金融緩和の拡大が必要という論拠にはならない。また、掲げられていたグラフは、長期的には正弦波振動に近い波形をしており、円安が黒字の拡大方向に押し上げ、次に黒字拡大が為替を円高方向に押し下げるという循環振動に過ぎない、としても説明可能なグラフだった。つまり、ひとつの振動のサイン波とコサイン波を見ているだけではないかと。

むしろこのグラフの語るところは、円高基調でも円安基調でも、常に貿易黒字超過の状態が続いているという点ではないかと思う。日本の貿易市場には不当に過剰な輸入障壁が存在するために、本来の為替相場がもたらす適正な貿易収支より過剰な黒字超過の状態に陥っており、それが原因で適正な為替水準よりも円高に傾いてしまっているのではないか。日本の高い規制水準も、一部には不当に強い非関税障壁として残っているし、米の輸入は関税障壁しかないが、その税率は常識的な関税率の水準を大きく超える値になっている。

日本は外国人労働者の入国にかなり厳しい制限を課しているが、これは労働力に対する輸入障壁と見ることができる。外国人労働者が母国へ送金する際に税金を課せばそれは関税障壁に相当するが、入国段階で厳しく審査して入国を絞るのは非関税障壁に相当する。これらの輸入障壁が貿易不均衡をもたらし、人為的な貿易黒字体質によって、輸出産業が一方的に不利益を被っているというのが、今の日本の状態なのだろう。

そういう状態に対して、市場が本来要求する水準よりインフレ方向へと、金融政策によって人為的な為替相場の操作をするという対症療法をすることを本書では主張するのだけれど、不均衡な輸入障壁を取り除き市場による自然な相場調整力によって為替水準を均衡させるという、根治療法の方が適切だと思う。TPP加盟は、少なくとも根治療法の推進力として使うには妥当なものだろうと思う。

短期的には投機取引による相場調整力が主要因となるが、長期的には結局相場を上下する要因は実需が支配的になると考えるのが妥当だろう。先物取引にしても、最終的な損益を確定するのは現物の受給なのだし。外貨を円に替える必要のある輸出ばっかり積極的で、円を外貨に替える必要のある輸入を一方的に制限していたら、短期的にはともかく長期的には過剰な円高に傾くのは当たり前だと思うのだけれど、本書ではそんな話が「嘘」や「誤解」だとされている。

それから、本書ではFXの取引に関する意見などがコラムに書かれていたが、これは思い切り蛇足だろう。経済学が対象とするような、短くても月単位、場合によっては10年単位の傾向を扱う理論と、FXが意識するような、長くとも月単位、短ければ分単位の取引が示す傾向は、原理が全く異なる。そういうものに対して本書のようなマクロ指標を説明する本が意見を述べようとすべきではない。通貨取引など、本業のトレーダーはパケット遅延時間が問題となるようなミリ秒単位の取引でも勝負しているのだから、明らかの本書の議論対称を外れる。

と、批判が山のように噴出するのだけれど、逆に本書を「知ってた」と思いながら読める人にとっては、「デフレの正体」が突っ込みどころ多数で読めたものではないと感じるのだろう。とりあえず批判的な目で一読したので、今度は参考になる意見を抽出しようという目で再読してみる必要があるだろう。おそらく、「円高の正体」も「デフレの正体」も、6割の真実と4割の誤謬で構成されているのだろうから、その6割ずつを抽出して合成していく必要があるだろう。


結局のところ、需要過多では価格が上昇し、需要過少では価格が下降するという基本原理で説明がつくのだろうが、あるパラメータが別の経路を通じて需要や供給に対して再帰的なフィードバックを起こすので、そのフィードバック経路や寄与率をどう算出するか、というのがキモになるのだろう。特にデフレ下ではインフレ率の符号が逆転しているので、正数域を暗黙のうちに仮定していた関係式のうちいくつかはすでに破綻している。

また、経済学では市場のプレイヤーが合理的判断をすると仮定しているが、初歩的な物理学が摩擦や空気抵抗を無視するように、初歩的な経済学も同様の仮定を持ち込んでいる。例えば、法令による制約や、会社同士やキーマン個人間のお付き合いなどによる、取引の非合理性による効果は無視されている。現在の経済学の体系というのは基本的にキリスト教圏の生まれなので、キリスト教圏の、特にプロテスタント圏の商取引の特性を忠実に表している。しかし、ちょっと京都的なお付き合い精神が随所に残されている日本経済では、多くの指標がもう少し膠着性優位の特性を示すので、既存の経済学の単純な適用は難しい。

たとえば、経済学の常識では金利を下げると資金調達しやすくなり、銀行の貸出が増え、結果として市場に出回る資金量は増えるとされている。そして逆に、金利を引き上げれば市場から資金が回収できるとされている。しかし、その理論の前提として、資金借り出しの主導権を握っているのが需要サイド、つまりお金を借りる企業側にあるという暗黙の仮定が存在している。しかし日本では実質、借り出しの主導権は企業側ではなく、供給サイドの銀行側にある。ここで、ごく基本的な経済原理でさえも、その有効性が大きく制限されることになる。

企業が、今は低金利だからぜひ資金がほしいといっても、貸し手である銀行にとって金利による利潤が手数料として成立しない条件下では、銀行はなかなか資金を貸し出そうとしない。特にデフレ環境下では、国債を買ったり日銀口座に塩漬けにしておくのが一番高い実質金利を産んでしまう。企業は資産が不足しているからそれを増強するために資金を借りようとしているのに、担保として過剰な資産を要求されたりする。つまり貸し渋りが発生する。

一方高金利下では、市場の旺盛な需要によって潤沢な現金資産がある企業が多い。そのような状態でも、銀行にとっては予想インフレ率が高い状況で高い金利による金利収入が見込まれる。そのため、貸し出しノルマを課された銀行の営業員が、企業に対して本来必要とされない資金を貸し出そうとし、場合によっては貸し出し済み資金の引き上げなどをちらつかせて脅しを掛けながら、レバレッジの利いた冒険的な事業展開を半ば強制的に提案したりもする。つまり押し貸しが発生する。

一斉に行われる押し貸しによって潜在需要を超えるバブル景気が発生するが、それを沈静化しようとして中銀が金利を引き上げても、金利上昇によるインフレ期待から、銀行の貸し出しはむしろ積極的となり、市中の現金は増大する。そして総量規制などの直接的な金融的引き締めを実施すると、今度は銀行主導による貸し剥がしが発生し、各種相場は雪崩をうって暴落、最後には潜在需要を下回るレベルまで資金供給が滞るようになる。個人の感覚としても、銀行系クレジットカード会社などが高金利のリボ払いを執拗に薦めてくる態度などから、そういう傾向は明らかだろう。

このように、資金の供給サイドにある銀行の社会的な権力が、需要サイドにある企業や個人よりも目立って強い場合、良心的な経済学が仮定するような、両者が対等な立場にあるか、あるいは実業の側が若干優位にあるような状況が成立せず、金利政策のような極めて基本的な理論でさえ破綻してしまう。リフレ派の意見は大部分が経済学の理論による演繹から成立しているのだけれど、日本の状況を考えると、成長企業に対する妨害として働く法令や商習慣によって、論拠の多くが破綻しているか、または限定的な寄与に留まっているように見える。

なので、現在の日銀がリフレ派の言うような大規模なマネタリーベース拡大を拒否しているのは、今の日本がデフレに陥っている主要因が、金融要因ではなく法令体系などの政治要因にあると考えており、そうした諸々の政治要因を解決することなく金融政策だけインフレ側に倒すと、きっと後悔することになると考えているからではないかと思う。

日本の中銀のレベルはFRBに比べると見劣りする、などといってリフレ派の人は日銀を口汚く批判するのだけれど、日銀というのは単なる造幣所ではなく、各種の通貨指標を時々刻々と収集しているモニタリングセンターでもあるので、自分たちの金融政策が実体経済に対してどのような影響を与えているのかということについては、外部に公開されるサマリー情報しか見ていない人に比べ、ずっと高い精度で認識しているだろう。また、過去の金融政策の失敗について、多様なレポートを読んでいるはずだ。

なので白川さんとしては、どのような批判を受けてようと、政治サイドが適切な法改正などによって産業の成長方向にある障害を取り除き、供給資金が変なところに流れ込んで終わるような市場構造を是正するまでは、絶対に過剰な金融緩和はしないという覚悟を決めているのだろう。実際に日銀が管理調整しているパラメータは物価だけではなく、もっと多岐にわたるバランスを見ているが、リフレ論者の意識は物価にしか向いていない。


今回、総選挙の投票率が過去最低だったらしい。それはなぜかというと、自民党に投票しようが民主党に投票しようが、党内選挙によって誰が首相になるかによって主な政策が決まり、選挙公約が守られないということを実感したからだろう。どこに投票しようが、投票結果とは関係ないところで政策が決定されるなら、投票するだけ無駄ということになる。そういう意味では、野田さんは日本の間接民主主義を破壊してしまった。私は野田さんの取った政策を強く支持するけれども、プロセス的にはひどかったと思っている。

過去、堀江貴文さんがIR情報を偽装したことで逮捕された。そのあたりまでは妥当だったと思う。実業を撹乱するマネーゲームというのは制限されるべきだと思っている。けれども、彼がその程度の罪で、しかも初犯で実刑を食らって服役中だということは、日本の若い人たちに、日本国は新規事業の発展による経済成長よりも、既存権力の維持に注力しているということを高らかに宣言してしまった。そんな情況下では、誰も革新的な事業を起こそうなどとは思わないだろう。なにしろ1回のミスでムショ行きである。そんな危ないものに手を出すほうがバカである。

今の社会制度設計のままで大規模な金融緩和をしても、(リフレ派にとって)想定外の結果が生じ、また別の意味で日銀批判が沸き起こるのは目に見えている。過去の金融緩和によって、日銀は金融政策の無力感を骨身にしみて感じているだろう。リフレ派は単に規模の問題としているが、それを直接語るデータは存在しない。

獲得された無力感というのか、自分の行為が結果に影響をもたらさない、あるいは悪影響をおよぼすことを学習したとき、人は消極的になる。そういうあたりの学習をクリアして、あなた達は成長できると思わせるような制度的サポートをしないと、日本が再び経済成長することはないと思う。それを、日銀の口座に見せ金が溜まっただけで日本の景気が良くなると考えているなんて、どれだけ楽観的なんだろう、などと思ってしまう。


本来の市場主義というのは競争による社会発展を目指していて、必ずしも自由主義を取らない。つまり、本当に市場を無制限に野放しにしてしまうと、最後は寡占企業によって市場を独占されてしまい、市場が成立しなくなってしまう。そこで、市場に参加する企業の権利を国家がある程度制限し、複数の企業が競争状態になることを強制する。そうした強制の代表的なものが独占禁止法になる。完全な自由主義であれば、独占であろうがなんであろうが常に一番強いものが勝つのだけれど、市場主義は市場に参加する強すぎるプレイヤーの権利を制限し、2番手以降のプレイヤーを常に確保することで、取引の選択権確保による競争の活発化と、競争による社会発展を目指している。

今の日本でリバタリアンを自称する人が増えているというのは、今の日本では本来の市場主義にとって適正な規制のレベルを超えた、過剰規制が実施されている実情の反映なのだろう。本当に優れたパフォーマンスを示すシステムというのは、少数の厳密なルールと、その範囲内での自由がバランスよく成立している。国家経済というのも一種のシステムだから、そこでリバタリアンが増えるということは、雑多なルールが過剰になっているという証拠だろう。

自由主義の果てにある極端な資本主義社会では、社会主義が理想像になる。社会主義の果てにある極端な共産主義社会では、自由主義が理想になる。20世紀の社会主義の敗因は私的な産業資本を壊滅させてしまったことにあるし、21世紀の資本主義の混乱の原因は、社会主義的要素を排除し過ぎて中小企業や消費者個人の体力を奪いすぎたことにある。社会主義国が国際社会から退場してしまい、自由主義の寡占状態になったことで国家システム間の競争が弱まり、結果として寡占状態にある自由主義の品質が劣化した、というのが正直なところだろう。

理想的な市場主義というのは、なかなか理想的な中庸を備えていると思うけれども、なにしろ中庸というのは相対的な目標でしかないので、絶対的な目標点を掲げる主義主張に比べて説得力に乏しい。そろそろフォーディズムあたりの中庸に回帰して欲しいと思うけれど、果たしてうまくいくかどうか。

けれどもなんだか一方で、こういう誘惑もある。使える手はなんでも使って、もう一度狂乱物価を呼び、銀座にドンペリが乱れ飛び、目黒にフェラーリが列をなし、地方には大観音が林立するような社会を再現してしまえ、と。もし本当にそんなことになったら、若い人たち、あるいはこれから生まれてくる人たちは、さぞ迷惑だろうけれども。
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by antonin | 2012-12-21 14:13 | Trackback | Comments(2)

雑記

エーテルについて、好奇心について、命題論理とか述語論理とか様相論理とか集合論とかについて、ぼちぼち考えていた。ヒッグズ粒子も観測されたことだし、そろそろ超多時間論より下位に来るエーテルレベルの話が活発になってもいい時代なんじゃないかと思う。M理論なんかはまったく意味がわからないけれども、いい本があったら読んでみたい。

森田さんが新書で出した本を見つけたので、読んでいる。まだ途中までしか読んでいないが、ベルの定理とその周辺がわかりやすく説明されていたりして、読んでいて楽しい。良識的な物理学者が無批判に信じているような定説を、科学哲学の人らしく正確な位置づけで書いてくれるので、読んでいてストレスを感じなくていい。ネット接続が回復してからネットに入り浸って紙の本から離れてしまっているが、少しずつまとまった読書ができる習慣を取り戻して続きを読んでいきたい。

量子力学の哲学――非実在性・非局所性・粒子と波の二重性 (講談社現代新書)

森田 邦久 / 講談社



Brainfuck用ライブラリの構築も、目立った進捗はないけど、ぼちぼち考えている。入出力命令の接続先を、ライブラリ用スタックへの push / pop と標準入出力で切り替える方式にしてみたら、少しだけBFプログラムが書きやすくなった。世の中には素のBFでマンデルブロ集合の計算とかやっているすごい人がいて、驚きつつ感心した。その人はCプリプロセッサでメタプログラミングして、すべてマクロによる記述でBFのソースを生成していた。私もまずはマクロというかメタ言語というか、そういうものを書くところから始めてみた。あんまりマクロ機能を強力化しすぎるのは言語間コンパイラを作ることにしかならないので程々にしないといけないのだけれど、同時に楽しい作業でもある。

Index of /brainfuck/utils/mandelbrot

インタプリタ設計もいろいろ考えている。マクロを使ったBFのソースというのは、うっかりするとすぐメガバイト単位に膨張してしまうのだが、結局繰り返しが多いので圧縮をかけると数百分の1くらいにまで小さくなる。ソースが巨大でも、文法解釈して冗長度を取り除いたあとの中間言語は非常に小さくなるだろう。ゼロクリアは普通 "[-]" と書くが、このあたりも繰り返しをゼロ代入へ最適化できるだろう。どれくらい巨大なソースを実時間で動かせるか、なんてのも楽しそうだ。

BFに公開するメモリは 32bit int の配列で行こうと思っているけれど、メモリ空間は広く使いたいので、インタプリタは 64bit アプリを前提としてみたい気もしてきた。BFのアドレス空間を 32bit 値でポイント可能な4ギガワードとすると、そこに 32bit int を割り当てると全部で16GBになる。幸い今度のノートPCの主記憶は16GBあるので、いい実験になりそうだ。実際には通常のリニアメモリが1GW、ライブラリ用スタックが1GW、32bit int 以外のオブジェクトを確保できるヒープメモリ用アドレスを1GW取り、どの記憶領域も動的に確保しようと思っているので、単純計算はできないが、2GBで終わりというのはつまらない。また近いうちに続編を書けるといいけど、場合によっては数年かかるかもしれない。

今度の火星表面探査機の名前は "Curiosity" というらしい。好奇心が持てるというのは幸せなことです。
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by antonin | 2012-08-28 23:38 | Trackback | Comments(0)

年のはじめの あのねのね

あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い申し上げます。

と、誰に言うでもなく。

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年初なので特別なことでも書こうと思ったけれども、もはや日本の正月というのは子供のころに経験したようなしんとした正月ではなく気分もあまり平生と変わらないので、珍しくフルキーボードで入力できるという点のみいつもと違った感じで、適当に思いついたことでも書いていくことにしよう。

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陸軍省と財務省は似ている。そんなことを思った。

野田政権が財務省の傀儡政権みたいな言い方をされることがあるけれども、今は財政が危険水域にある非常事態なのだから、財政のプロである財務省の意見に内閣が耳を傾けるというのはマトモな判断だと思う。基本的に菅政権が与謝野さんを引き入れたあたりからこの流れは確定路線だったので、それを野田さんが日本人向きのドジョウのような柔軟性と泥臭さで陽の当たるところに出し始めたということでしかない。

小泉さんが郵政という累代の宿敵相手に格闘していたとき、世間的な大儀として財政改革も旗印にしていたので、そのあたりの実務に竹中さんを引っ張り出した頃はまだ、国債も正攻法で何とかなる可能性をいくらか残していた。しかしその後に安倍さんが神州復活に怪気炎を上げて財政改革が一休みになったり、そうこうするうちにリーマンショックがあったりして、その後は累積国債も新規国債も安定した指数関数を描く発散路線に入ってしまった。

この段階になってようやく財務省が政治の主導権を握ったのだけれど、財務省というのは財務のプロであると同時に、財務の最高責任官庁でもあって、あからさまな財政破綻というような結末を自身で選択するという道は、あらかじめ塞がれているようなところがある。新書などでいくつかの説を読むと、日本国民が自暴自棄になって各自の仕事をぶん投げたりしない限りは、日本円の信用が底なしに低落するような事態にはならないらしい。とはいっても、やはりどこかで国と地方の「債務整理」みたいな事態は発生するのが必然らしく、公債がほぼ国内で消化されているという日本の公債構造上、そこで債権放棄を迫られるのは(その時点での)日本国民ということになる。

ものの本によると、全くの無策で残り3年、土俵際で問題先送りの粘り腰を最大限に発揮しても20年くらいで、日本の公債は「破綻」するらしい。その被害というのは、意外にも無策でドカンとやった場合が最悪で、粘りに粘った末では案外にソフトランディングに近い形に持ち込めるものらしい。まあ、頼れる奴が突然死するよりも、しばらく前からダメだダメだと言った末に息絶えるほうが、周囲の迷惑も少ないということなのだろう。で、そういう危機的状態、勝ち目は無いけれどもここまで来た以上は最大限の戦果を残して以後の交渉を優位に進めるべくプライドを掛けた負け戦をしている段階に、日本経済というのは入っているらしい。

そういう局面における責任をモロに負ったプロ集団ということで、日米開戦あたりの陸軍省と、今くらいの財務省は似通った位置づけにあるような気がした。日本軍が追い込まれた原因が欧米列強を刺激するほどの大陸利権拡張にあったとか、日本経済が追い込まれた原因が地価の過熱を止められなかった時点にあったとか、まあそういうことは言えるのかもしれない。けれどもそういうのはどうしても後知恵という面があって、国民の熱狂が冷める頃には局面がもう9割がた決しているということになりがちなのだろう。

自転車やスキーなどで空中に飛び出てからバランスを崩して、どう見ても怪我をするとわかりきっていても、なんとかダメージを最小にする姿勢を模索するときの妙な冷静さというものがあって、民主党政権を3代経験した日本国民の冷めた空気というのは、なんとなくそういうものになりつつあるんじゃないかという気がしている。

参謀本部でも、もとより負け戦だというのは戦略に通じた人ほど良く理解していて、それでも前線の士気というのは負けを意識した時点で使い物にならなくなるものでもあるので、最後の際まで「勝つぞ勝つぞ」で押し切る羽目になる。で、とうとう潮時がやってくると、中枢部は停戦を決議しなくてはいけないし、勝つぞ勝つぞで尻を叩いてきた末梢に対するけじめを付けないといけなくなる。実際には陸軍大臣が自決したりなんだかんだと物語があったようで、そのあたりは近いうちに本で読んでみようかと思う。

今の消費税増税論議も似たようなところがあって、消費税を増税することで財政破綻が回避できるというわけでもないのだが、かといって税制改革も未了の状態で財政破綻が直撃すると、「その後」が大変なことになってしまう。もちろん、国民の手前としては財政破綻を前提とした増税などというのは筋が通るはずも無く、あくまで財政の正常化を目指すという旗印を下げるわけにはいかないのだけれど、経済に通じた人ほど、それが実現不可能であるということを直視しているらしい。

まあ、とにかく具合が悪いらしいんですけれども、80年に1回くらいはそういうこともあるわいな、という気もしなくもない。願わくば東北の津波被害より小さい被害で終わるように、最善を尽くしましょう、と。

日本破綻を防ぐ2つのプラン (日経プレミアシリーズ)

小黒 一正 / 日本経済新聞出版社



決定版 日本のいちばん長い日 (文春文庫)

半藤 一利 / 文藝春秋



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地球の丸さについて。

昔々、まだ20歳かそこらの頃、気まぐれに購入した天文手帳に載っていた天文定数表を眺めながら、アポロ探査機が月面にレーザー反射鏡を設置する以前は、どのようにして太陽までの距離を測っていたのだろう、などということを考えていた。

古代ギリシャの文化を生み出した人々は地中海貿易をする海洋民族で、地面が丸い地球と呼べるものであるということと、やはり丸い太陽が非常に遠くにあるということを経験的に知っていた。また、アレクサンドリアのエラトステネスは、シエネという町には夏至の日に井戸の底に日光が達する井戸があると知って、同じ夏至の日にアレクサンドリアの太陽南中高度を計ってみた。すると、シエネとアレクサンドリアには円の50等分角に相当する角度差があるとわかり、そこから地球の円周を25万スタディアと算出した、というような話が、理科の教科書に載っていた。

その後、ルネサンス以降のヨーロッパでは経度の等しい2地点間を精密に三角測量して子午線の長さを計るというプロジェクトが何度もあったらしく、フランス革命の余力を駆って、子午線(北極から赤道までの距離)の1千万分の1の長さを1メートルという科学的な測長単位とする、というような決定もされた。似たような感覚で、太陽系内の測長単位というのは地球の平均公転半径を1AU(天文単位)としているけれども、この1AU、つまり地球から太陽までの距離の測定方法というのが、ギリシア的な単純な方法でもなく、レーザー測距のような現代的な方法でもなく、その制定時点での手法としてはどのような方法だったのか、いろいろと考えてはみたものの、これといった結論は出なかった。

書店や図書館などで簡単に調べてもみたが、どうも直接的な回答を発見することはできなかった。そこで、当時のパソコン通信で、史実としてはどんな具合だったのかを質問してみた。史実はさておき、こういう方法だったんじゃないかという侃々諤々の議論などを経てから、プラネタリウム勤務の専門家の方から、幸いにも史実に基づく回答をしてもらえた。まずケプラーの法則から各惑星の軌道半径比率が求まっており、惑星軌道のかなり精密な定数は判明していたが、絶対的な距離だけはわからない、という状態があったという。次に、望遠鏡を使って金星、あるいは火星までの距離を三角測量し、そこから地球の軌道半径の計算に必要な定数を求め、結果として地球から太陽までの距離が求まった、ということだった。今なら検索で簡単に答えが見つかる。

参考:「暦と星のお話」より
星の距離を測る
金星の日面通過

のちには、軌道計算の済んだ小惑星の接近時にそこまでの距離を測定することで、徐々に計算精度を上げていったらしい。

で、太陽までの距離はともかく、地球が丸いということは確かに了解可能なのだと思った。現在の一人住まいは海沿いの道に面していて、海況によっては波音を聞きながら眠ることになるような距離にある。そこから太平洋を眺めると、大洋という印象に反して海は穏やかで、晴れた日には水平線がえらくクッキリと見える。もしも地面が世界の果てまで平坦だとすると、空と海を区切る水平線というのは無限のかなたにあるはずなのだが、実際に目に見える水平線というのは、あまりにもはっきりとしすぎている。地面というか海面が大きな球だとすると、水平線が近くにあってくっきりと見えることに矛盾が無くなる。

それから、港から出て行った船が、案外簡単に水平線の上に乗ってしまう。これも同じく、水平線が世界のかなたにあるとすると説明がつかない。教科書にあったように、水平線に乗った船が下から見えなくなっていくというのはまだ確認していないが、矯正視力0.7程度の私の目でも、水平線にきれいに乗った大型船を確認することができる。帆船の時代ではないので、仮に船が沈んで見えていたとしても貨物が重くて喫水が深くなった状態と区別することも難しいだろう。

そういう具合で、海沿いに暮らすと地球の丸さなども実感できるというのが面白い。大陸に1年とか、地球周回軌道に1ヶ月とか、月面に1週間とか、とにかく異質な環境で生活した経験があるというのは、その後の感覚に何かしら違いをもたらすものなんだろうなと思う。水面下に潜ることを趣味にしていた時期があって、それはそれで新しい感覚があって面白かったが、水平線の見える土地で生活したことは無かった。水平線だけでなく、この土地では月の無い夜には5等星あたりまで平気で見えたりするので、状況が許せば久しぶりに天体観測などもしてみたい。

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宗教とか信仰とか、そういうものについても日々考えているが、あまり新しい解釈が出てきたわけでもなく、眠くなってきたのでまたいずれ。

おんぼうじしったぼだはだやみ。
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by antonin | 2012-01-02 01:42 | Trackback | Comments(0)


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