安敦誌


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諦めない心

もう2ヶ月ほど前になるが、ムスメとムスコ1号の通う小学校の運動会を見てきた。その中で、生徒代表の賢そうな子供たちが、「最後まで諦めずに」というような言葉を何度か発していた。そして運動会の終わりに校長先生が挨拶をし、その中にも「諦めない」というキーワードが出てきた。教育として素晴らしいものだと思いつつも、「諦める」という言葉の本来的な意味を知った今となると、ちょっと不思議な響きでもあった。

現代の国語辞典を引いてみても、「諦める」という下一段動詞には「断念する」というような意味しかない。

あきらめる【諦める】の意味 - 国語辞書 - goo辞書
[動マ下一][文]あきら・む[マ下二]もう希望や見込みがないと思ってやめる。断念する。「助からぬものと―・めている」「どしゃ降りで、外出を―・めた」


こういう意味なのだとすると、安易に断念せずに粘り強く事にあたる態度を教えるのは教育として正しいと思える。その一方で、「諦める」という言葉には仏教的な由来があって、そちらでは「真実を見極める」であるとか、「現実を受け入れる」ということが原義となっている。例によって理屈っぽい僧侶が教義をこねくり回してきた歴史もあるので、「諦める」という言葉の意味も一筋縄ではいかないのだが、基本的にはそういう意味がある。諦めた状態の対極にはどういう状態があるかというと、妄執に捕らわれた状態がある。

愛する子供に死なれた母親が、子供の死を受け入れることができず「この子はまだ生きている」と言い続け、「なんとしてもこの子の目を覚ませてみせる」と強く思い込み、日を重ねるごとに朽ちていく子供の亡骸を引きずりながら、怪しいまじない師などを呼び止めては子供を生き返らそうと懸命に努力している。こういう姿を見た周囲の人は、いたたまれないながらどうしようもないのだけれど、こういう時に仏僧が現れて、「あなたの子供の姿をよく見なさい。この子は死んでいる。この子が生き返るだろうか。冷静になって良く真実を見なさい。」と忠告する。このようなときに、人に「諦めなさい」と言う。読経とか儀式とかは、「諦める」ための手助けにすぎない。

ただ、ややもすると、まだまだ望みのあることや、当人にはどうしても達成すべき事柄などに対しても、周囲の都合や思い込みなどで「諦めなさい」などと誤った忠告が安易になされ、それを聞き入れなかった人が後になって成功し、「諦めて」いたのは周囲より本人だった、などということも多々あっただろう。僧侶が世襲制になり、発心なき出家なき僧侶が仏教の信用を落としたりもして、いつしか「諦める」という仏教用語はネガティブな意味で捉えられるようになり、それが日本語の日常用語として残っていったのだろう。

「にやける」が辞書に書かれた意味と違う意味で人々に理解されている、なんていう新聞記事が以前にあった。私自身も「にやける」は「ニヤニヤする」という意味だと思っていたので、辞書を引いて「若気る」という語と意味を知った時には驚いた。

にやける【若気る】の意味 - 国語辞書 - goo辞書
[動カ下一]《名詞「にやけ」の動詞化》
1 男が変にめかしこんだり、色っぽいようすをしたりする。「―・けたやつ」
2 《若者言葉》にやにやする。口許がゆるんで笑顔になる。「彼のことを考え、―・けてしまう」
[補説]文化庁が発表した平成23年度「国語に関する世論調査」では、「なよなよとしている」の意味で使う人が14.7パーセント、「薄笑いを浮かべている」の意味で使う人が76.5パーセントという結果が出ている。


ただこれは、「若気る」という漢字が当てられてることからも分かる通り、歴史的仮名遣いで「にやける」と書いたもので、現代仮名遣いで言えば「にゃける」と読むべき語だということがわかる。「にやけ」の項を引くとそういうことも書かれている。

にやけ【若気】の意味 - 国語辞書 - goo辞書
《古くは「にゃけ」か》
1 男が派手に着飾ったり、媚(こ)びるような態度をとったりすること。また、その人。「―男」
2 男色を売る若衆。陰間(かげま)。
「長季は宇治殿の―なり」〈古事談・二〉


もちろん、現代語で言う「にやける」と、この辞書的な「若気る」が連続的に変化してきたのだろうということは想像がつくけれども、「若気」を呉音で読むと「にゃくけ」となり、文字の普及が低かった中世風に音便化すると「にゃっけ」となる。それを音写で「にやけ」と書いたものが、後になって文字通りに「にやけ」と読まれるようになったのだろう。

百日紅 (下) (ちくま文庫)

杉浦 日向子 / 筑摩書房



杉浦日向子さんの作品にもそういう男娼が出てくる一幕があり、その上客は仏僧であった。本来は、激しすぎる恋をして、そしてそれに破れて、もう女を見るのも嫌になった男がそれを実現する環境を求めて入るのが僧坊だったのだけれど、いつしか僧が妻帯するようになり、生まれた子供は恋に破れる前に女犯の戒律を与えられるという事になった。ひどくむごたらしいことだと思う。世間のしがらみから逃れるための場だった寺院が、しがらみそのものとして僧侶の子を襲う。そのしがらみの代償として幕府から特権が与えられ、その既得権を守るため、本来僧坊を必要としていた夢破れた人達が寺院から追い出されるようになる。そして「家業」を継ぎ既得権を得た僧侶は世間から求められる女犯の戒律を守るために「にやけ」を買うようになる。むごたらしいことだと思う。

話が逸れたが、ともかく、古い語義と現代人の理解が大きく食い違う場合、それを「現代人の誤り」とは言いたくない。あくまで、語義が変遷したに過ぎないのだと思いたい。ただ、古い語義を知って言葉を聞くと、ときどき奇妙に聞こえることがある。「最後まで諦めない」というのもその類だった。教育を与え、真実を見ぬく能力を子供に与えようとする学校という場で、「最後まで諦めない」というのがスローガンになる。それを「最後まで真実を受け入れない」と聞いてしまうと、奇妙な気分になる。もちろんそんな意味ではないのだけれど。

「諦めたら、そこで試合終了ですよ」とかなんとか、そういう有名な言葉があるが、それは試合が終了していない時点での話だ。試合が終了し、相手チームも審判もいなくなったコートで、負けを認めたくないためにいつまでもシュートを続ける生徒たちがいたら、「諦めなさい、もう試合終了ですよ」と言わざるを得ず、こちらのほうが原義になる。試合中であれば、点差をつけられて、もう何をやっても無駄だという無力感に襲われた状態が妄執に囚われた無明の状態であり、「試合終了までは逆転の可能性が残っているし、そこまでベストを尽くせば次につながる」という事実に気づくことが、むしろ「諦める」ということになる。

ただ、そうは言っても、人間は自分自身の感覚をそう簡単にコントロールできない。「気の持ちよう」の一言で片付けられる人というのは、自分の感覚を自分の理性でコントロールできるだけの特質を、先天的あるいは後天的に獲得している人だろう。あるいは、良い意味で鈍い感覚を持っていて、理性による積極的なコントロールを必要としていない人だろう。「マインドコントロール」というと、オウムの一件以来悪い印象しかないが、いかに自分自身のマインドを正しくコントロールするかというのは、人類が理性を持って以来、永遠のテーマでもある。

「絶対に諦めない」と、事あるごとに人前で明言するのも、そうしたコントロール手法の一つだし、念仏とかの祈りの各種も、だいたいそういうものと理解できる。密教の場合、コントロールしたいマインドの内容が「なんとかなるさ」だったら観音菩薩、「笑って済まそう」だったら地蔵菩薩、「全て燃やして忘れてしまえ」だったら不動明王、「なんだか知らないけど幸せ」だったら大日如来を思い浮かべることになっている。思い浮かべるための呼び水として、仏像とか、真言とか、印を結ぶとか、香を焚くとか、そういう身体的な刺激を使うとより効果的としている。

努力云々で為末さんがチクチクやられていたけれども、現代人の唱える「努力」と、かつての仏教徒が唱えた「信心」はよく似ている。成果が出た人は「努力のおかげ」だと信じているし、成果が出ていない人は「まだ努力が足りない」と信じている。このあたり、「努力」を「信心」に置き換えても、それほど違和感がない。そして、努力も信心も人間というシステムのパフォーマンスを向上させるために一定のプラス効果はあるが、それでもダメな場合というのは何か物理的あるいは構造的な問題があり、そちらの方を改善するしか無い。

努力一本槍の人々の厄介なところは、努力を奨励することではなく、全ての要因を努力で説明しようとする単調さだろう。これも「努力」を「信心」に置き換えてみるとよく分かる。同じく精神論や宗教を毛嫌いする人々の厄介さも似たようなものであり、物理的あるいは構造的な調整で全てが解決できると信じる単調さだろう。実際には、両方の効果が乗算で利いてくる。

修羅場を迎えた時には、諦めない気力がものを言うだろう。ただ、一息ついたら、ちょっと冷静になって、そもそもなぜ修羅場に陥ったのかを「諦めて」みるのもいいだろう。といって、それが言うほど簡単ではないというところにヒトという種の難しさがあるのだけれど。
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by antonin | 2013-11-11 02:00 | Trackback | Comments(0)

おんまはみんな

かつて「敵性語」という用語があったと言い伝えられている。公立学校というのは「九条教」の教学を授ける場でもあったので、そこにはいくらかの誇張が含まれていると思うが、多かれ少なかれそういう活動というのはあったのだろうと思う。原発全廃運動なんかと同じで、ネガティブな方向に突っ走ってカーニバル状態に陥るのが大好きな人というのはいつの世にも必ず発生するから、昭和10年代末期にはそういう空気があったのだろう。

ジャイアンツは「巨人」になって、ストライクは「よし」になったという資料もある。職業野球自体がほどなく中断してしまい、「巨」のマークが入ったユニフォームを着た選手が実際に試合をしたのはそれほど長い期間ではなかったらしい。で、こういう話を聞いて思うのは、もしも日本が激闘を演じていた相手が、米英ではなくて中国共産党なんかだったら、日本人は「敵性語」に対してどう対処したのだろうか、という空想である。

現代の日本人なら、「ギョウザ」とか「チャーハン」とか「ラーメン」とかは中国語としてのイメージが強いから、まあ敵性語として排除できるかもしれない。でも、仮に中国憎しと言えども、日本に根を張った中華料理を捨てることのできる日本人がいったいどれだけいるだろうか。「ラーメンは日本料理である」なんて言って、小麦そばとかなんとか適当な名前を付けてしまい、きっとこの料理を自粛したりはしないだろう。日本人の食への執着はなかなかに強いものがある。

しかし「餃子」が中国語だとすると、「ギョウザ」じゃなくて「チャオズ」だという意見もある。「餃子」と書いて「コウシ」か「キョウス」とでも読んでしまえば、もう立派な日本語になりうる。漢は中国大陸にあった古代国家だが、現代の中国大陸にある国家は漢文明の影響を受けた現代国家の一つにすぎない、という言い訳もできる。ただ、本居宣長的に、古代日本に受け入れられ、もうほとんど日本の土着文化のようになってしまったものまで「和にあらざり」みたいな神経症的な分類をしていくと、最後にはいったい何が残るのだろう、という興味もある。

学生時代、行きつけのチャットルームに「純一」だか「新一」だか、そういう名前の人がいて、彼が「自分の名前は重箱読みだから嫌だ」みたいなことを言っていた。それを聞いて、「あれ、イチってたしか音読みじゃなかったっけ」というようなことを言ったら、彼が辞書を引いて確かにそう書かれているのを発見して驚いていた。まあ確かに、自分でも「四」を「し」と読むと音読みで、「よん」と読むと訓読みというのは、なんだか感覚的にしっくりこないものがあった。「いち、に、さん、し、ご」なんて、どこからどう見ても日本語という感覚しかなかったので、辞書に音読みと書かれいても、ちょっと変な感じがしていた。

しかし、麻雀用語だから正確な現代中国語ではないのだろうけれども、「イー、アル、サン、スー、ウー、リュー、チー、パー」なんて発音を耳にすると、それはたしかに中国語風だけれども、「いち、に、さん、し、ごー、ろく、しち、はち」に対応する音をしっかりと持っている。そうなのか、「おいっちにっ、さんしっ」ってのは、古代中国語の遺物だったのか。そういうことに気付いて不思議な気分になったものだった。ちなみに純粋和語の系統はというと、「ひー、ふー、みー、よー、いつ、むー、なな、やー」という並びのほうになるという。「ここのか」とか「とおか」とか「はつか」とか「みそか」というのは、この系統の名残りになるらしい。

純粋和語の表現に高度な位取り法は存在せず、たとえば13みたいな数字は「とおあまりみつ」というような表現になったらしい。しかし平安朝あたりの知識人がこういう回りくどい表現をすることはあまりなかったらしく、12なら「四三」とか、36なら「六六」とか、そういう倍数表現を多用していたようだ。じゃあ素数はどう表現するんだ、という問題はあるが、日常的な文脈であれば、36なのか37なのかという小さな違いはさほど厳密に意識しないか、必要と有らば漢数字の正当な十進法で記述していたようだ。「五六人」と書けば、現代の記法では「ごじゅうろくにん」に、昭和初期までの記法なら「ごろくにん」に、そして平安の記法なら「さんじゅうにん」ということになるのだろう。まあ、おそらくはそういう文脈では「六五の人ども」などと書いたとは思うけれども。

他にも、もはや日本語に溶け込みすぎて、本来の外来語としての姿が失われてしまった言葉というのがいくつもあるらしいのだが、その系統のひとつに、「もともと大陸から渡ってきた外来種生物が、すっかり日本の風土に定着してしまった帰化生物」の名称というのがある。その分かりやすい代表格というと「菊」だろうと思う。「菊と刀」だとか、「菊のカーテン」だとか、菊と言ったらもはや日本を代表するような花だが、実は「キク」というのは音読みで、そしてこの花の名には訓読みが存在しない。「キク」が音読みである証拠に、「匊」という文字は「キク」という音と「すくう」という意味を持っていて、「掬」「鞠」「麹」といった漢字は、訓読みではそれぞれに「すくう」「まり」「こうじ」などと読むけれども、どれも「キク」という音読みを共有している。

「菊」などはまだ音読みとしての「キク」であるからまだいいのだけれども、現代辞書的には正式に訓読みとされている「うま」なども、実は音読みが転訛しただけのものなのらしい。現代中国語では「馬」を mă と発音する。これは「マー」の第3声になる。漢字を日本に伝えた当時の中国語話者がこの文字をどのように発音したのかはわからないが、おそらくは子音の M 音をかなり強調した音だったのではないか。というのも、日本語に「馬」が日本語に定着して「うま」という訓読みに至る過程に、「んま(むま)」と読まれていた時代があったらしい。

「天馬」を現代仮名遣いで書くと「てんま」になる。これをストレートにローマ字化すると tenma になるのだが、子音を正確に発音する言語圏の人にとっては、"nm" という子音の並びはひどく不自然なものに感じられるらしい。まあ音韻的には M の発音の前に唇を閉じるのを若干遅らせて N-M の発音をするのも可能なのだけれど、少なくともヨーロッパ語にはそういう子音並びは存在しないので、特段訓練を受けていないヨーロッパ語圏の人たちにとって "nm" という音はひどく発音しづらい。だから、日本語のローマ字表現であっても temma と書いてあげるのがマナーということになっている。

で、現代仮名遣いだとそういうことになるのだけれども、ある程度古い時代の日本語には、今で言う「ん」の音を表すのに、「ん」を使う場合と「む」を使う場合があった。「ありけむ」などと書かれていれば、ari-kemu ではなくて ari-kem と発音していたという。だから、現代風に書けばむしろ「ありけん」のほうが音として近いらしい。そういう仮名遣いをしていた人たちが、古い時代の中国語で「マー」と発音しているのを聞いて、「ま」と音写することもあれば、M 音を強調するために「むま」と書くこともあったらしい。で、この「むま」というのは muma ではなく m-ma のことだったから、これも現代仮名遣いであれば「んま」となる。

時代が下り、領主が騎乗している動物を指して「むま」では失礼ということで、「御馬」とお呼び差し上げることになるのだけれども、その発音は「おん・ま」でもあり、「おん・むま」でもある。「むま」はまあ語頭に M が来てしまった場合の強調だから、「おむま」と書いて om-ma という音あたりが妥当なところだったのだろう。そして「おむま」の「む」がだんだんと曖昧になって「おーま」になり、「おぅま」になり、最後には「おうま」になってしまったのだろう。で、そこから「御」を取れば「うま」の完成となる。

なんでそんなことが気になったのかというと、ムスメがまだ保育園に通っていた頃、ヨメが小さい頃に聞いていたという歌を流していた。

H24年保育士実技試験「おんまはみんな」 - YouTube

で、私はこの歌を知らなかったので、耳だけで聞いて「おうまはみんな」だと思っていたのだが、実は「それ『おんま』だよ」というのを教えてもらい、それで初めて「お馬」を「おんま」と呼ぶことがあるというのを知ることになった。それから色々と考えた結論が、以上の話ということになる。

ma が「うま」になってしまうのなら、M 音で始まる漢字で同じように土着してしまったものがあるんじゃなかろうか、と思った。そういう目で見てみると、「梅」という字が思い浮かんだ。桜は日本原産種と言われているが、「梅」「桃」「杏」は中国原産ということになっている。そして、「梅」である。日本語の辞典では音読みが「バイ」とか「マイ」ということになっている。現代中国語でも méi なので、漢音とされている「バイ」なども、ひょっとすると「濃いM」が語頭に来ることに依って強調され、 mbai というような音になったのかもしれない。現代英語でも bomber は「ボンバー」ではなく「バマー」と読むらしいから、mb と m というのは非常に近い音だったのだろう。

そして、この mbai も「御梅」や「青梅」という言い回しを中継して、「おむめ」や「おぅめ」を経由して「おうめ」になり、それから切り離された「梅」が「うめ」ということになったのだろう。こういう例は、探せば他にあるのかもしれない。というか、探してみよう。

まずは検索。
うめ むめ うま むま - Google 検索

そして発見。
名吟発句集─発句はかく解しかく味わう─
うめ中国ちゅうごくから園芸作物えんげいさくもつで、本来ほんらいるためのものだった。梅(mbei)のおとをそのまま古代こだい日本人にほんじnは「むめ」と発音はつおんし、やがて「うめ」となった。馬(mba)が「むま」となり「うま」となったのとおなじだ。

 旧正月きゅうしょうがつころはなはそのままはるおとずれをげる目出度めでたはなとなり、そのいろとうとんできた。

おお、モロに書いてあるじゃないですか。馬も mba だったんですね。

そして補足。外来語に限らず、語頭の「むま」や「んま」は、近世や現代の仮名遣いでは「うま」と書かれるものが多いのだとか。
古語における「む」と「ん」について:歴史的仮名遣い教室

「男」「女」というのも、和語では「おのこ」「めのこ」、あるいはシンプルに「お」「め」であったから、「おとこ」はともかく「おんな」というのは和語から少しだけ音が遠い。ひょっとすると、「ニョ」あるいは「ニョウ」というような当時の漢音があって、それが「御女」になり、「おんにやう」から「おんにや」を経て「おんな」になった、なんてことはないのだろうか。

「七」の現代中国語発音は日本語の「チー」よりはかなり濃厚な発音の Qī であり、「シー」を濃厚にした Xi とよく似た音になっている。これも日本に渡ってきた当時の音とそう遠くないところにあるのだとすると、「七」が「ち」ではなく「しち」になったのも、この濃厚な Q 音を頑張って表そうとした努力の結果だったのかもしれない。

外来語を導入した当初は、本来の発音を極力正確に書き表そうとする努力が見られたのだけれども、その技巧的な仮名遣いがアダとなって、却って変な読み方が普及してしまう、というのは近現代でも結構ある。"Violin" を「ヴァイオリン」と書くのはかなり成功した部類で、これは「ヴ」なんて仮名遣いがそもそも日本語に存在しなかったのが良かったのかもしれない。多くの人は「バイオリン」としか発音できなかったのだけれども、必要に応じて V 音と B 音を書き分けることには成功している。L 音と R 音を書き分ける技工も、どうせなら発明しておいて欲しかったが、さすがにそこまでは無理だったか。

それはともかく、一方の「失敗例」として残されているのが、 Di 音の表記だろう。現在の仮名遣いではこれを「ディ」と書くことになっている。ダ行でもイ段だけは Dg の子音に化けてしまうという、イタリア風の子音変化が日本語にもあるから、「ヂ」は「ジ」に近い音になってしまう。そこで、D 音を持つ「デ」に拗音っぽい捨て仮名を当てて Di 音を構成している。逆に Tso 音を「ツォ」と表記することもできて、この記法というのは応用範囲が広い。ただ、明治の文人たちは「外来語の文脈で『ヂ』と書いたら Di と読んでくれ」というルールを運用していた。だから、「ビルヂング」とあれば「ビルディング」と読むべきだし、「ハイヂ」は「ハイディ」、「エヂソン」は「エディソン」と読むのが本来のルールだった。

だが、"Green Signal" を「あおしんごう」と呼んだ日本市民たちは、「エヂソン」をストレートに「えぢそん」と読んだ。そもそも Di とか発音できないし。そして、「はいじ」とか「えじそん」とかいう「日本語」が誕生した。もう、それってドイツ語でも英語でもない。それは今や "Heidi" や "Edison" の「訓読み」なのだろう。エムボマさんとかドログバさんとかの名前も、アフリカ固有の発音を無理やりヨーロッパ言語で記述したものをさらにカタカナに変換しているのでこんな表記になっているが、原音はまた全く違うんだなんていう話もあって、こういう話題は洋の東西を問わないのかもしれない。

とにかく、まあ、天平から遣唐使までの期間に舶来した漢語なんかを外来語としてしまうと、日本語って結構大変なことになってしまうんだろうな、とか、そんなことを思いました。おわり。
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by antonin | 2012-09-14 03:11 | Trackback | Comments(6)

つらつらとまでは考えない

かなりどうでもいい話。

最近はあまり特定のblogを購読と言うか定期アクセスしたりする習慣が消えたのだけれど、tumblrのdashboardなんかを眺めていると、ときどき特定のIDから特定blogの記事が引用されたりしていて、まれにリンク先へ飛んで全文を読んだりする。今回もそんな具合で「極東ブログ」の記事を読んだ。

吉本隆明の言う「精神の速度」について: 極東ブログ

ここで言う「精神の速度」というのは、「熱い社会」と「冷たい社会」の比喩で言う温度パラメータのようなものを指すらしい。熱力学の温度パラメータの場合だと、微視的には気体定数がボルツマン定数に化けて分子運動の平均速度の大小というあたりに落ち着くので、そういうものと対比したときの「速度」ということを言っているのだろう。まあそこらへんの主題は、私が吉本隆明という人を面相以外ほとんど何も知らないということもあって理解出来ない部分が多かったけれども、今回の私のネタはもっとずっと皮相な部分で、正月休み以降ちらほら目にする「つらつら」という言葉をここでも目にしてしまったことだった。

安敦誌を始めて間もないころ、知っているようで実は意味に確信が持てないような言葉をいくつかネット辞書に入力して遊んでみたことがあった。

安敦誌 : わたしの知らない日本語
つらつら 【▽熟▽熟/▼倩▼倩】

(副)
つくづく。よくよく。
「―(と)思うに」「港内の動静(ようす)を―窺ひ見るに/近世紀聞(延房)」

漢字の難しさはさておき、よくよくって意味だったんですね。「てきとうに」とか、「なんとなく」って意味だと思っていました。「つらつらとページをめくりつつ」なんていうと、熟読なんですね。

こういうのを辞書で調べてきて、現代人の多くが「誤用」しているなどと言ってあげつらう態度は私自身の嫌うところであって、日本語のネイティブスピーカーたる現代人の過半が新しい意味でその単語を用いていたら、もうその単語の意味は日本語において不可逆的に変化したのであり、むしろ辞書のほうが最新の用法を参照して改訂されるべきだと思っている。なので、finalventさんのような知識人が「つらつらと」を「熟熟と」という感じではなく「たらたらと」に近いニュアンスで書いていたとしたら、それが正しいものとして読むべきものだと思っている。

ただ、なんというか、知らなきゃいいものを知ってしまった面倒というのか、「つらつら」という、オノマトペだかなんだかよくわからない島言葉風日本語表現を目にするたびに、私の脳内で「たらたら」というイメージと「熟熟」というイメージの両者が同時に提示されてしまって、その前後の表現を読んでどちらの意味と取るべきなのか精査するというのが、半ば義務的な習慣になってしまった。「つらつら」を書いた主がお気楽父さんみたいな人物であれば、「熟熟」という選択肢は半自動的に棄却されて楽なのだけれど、問題は「だが私の精神・感性はそれを肯んじはしなかった」みたいな文章を書く知識人がその主である場合で、この場合には果たしてどちらの意味と取るべきなのか、ある程度前後の文脈を慎重に読み込むことが要求されるという厄介が生じる。ちなみに「肯んずる」は「がえんずる」と読むらしい。読みがわかってなお聞いたことがない言葉というものに久しぶりに出会った。意味はまあ、字面から肯定と知れるからまだいいのだけれど。

今回の事例では、冒頭に「正月ぼんやりとだが、『精神の速度』ということを考えていた」という一文があり、どうやらfinalventさんは正月にはぼんやりしていたらしいから、「つらつら」の部分も「熟熟」とは考えなくてよさそうだ、と結論した。そこはまあどうでもいいのだけれど、仮に「つらつら」の辞書的な意味がfinalventさんのような人物の耳に入った場合、その前後で果たして同じように「つらつらと」という文を書き続けることができるものだろうか、というのは少し興味がある。もし仮に辞書的意味を知らずに習慣的に使っている言葉なのだとしたら、是非耳打ちしてみたいという意地悪な衝動に駆られるが、まあ放っておくのがいいのだろう。

私自身は「つらつらと考えていた」みたいな表現を元から使わないほうだったので、辞書を引く前後で文章に変化が生じたりはしなかった。しかし、あの「ら抜き言葉」騒ぎ以降、実際に一段動詞とラ行五段動詞の区分についてかなり慎重になってしまったという経験もあるので、もし仮に「つらつら」遣いであったとしたら、もう面倒だから「つらつら」なんて書かない、という選択肢を取っていたんじゃないかと思う。「食べれる・しゃべれる・ミニストップ」あたりは全く抵抗がないが、「教えれる」とか「潜られる」なんて言葉を耳にしたときは、余計なことを言わないようにと、ちょっと無口になってしまったことがあった。ら抜き言葉についてはATOKが鼻につくCMを打っていた頃の記事があるので、そちらを引用して結。

安敦誌 : 日本語テスト
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by antonin | 2012-01-08 23:49 | Trackback | Comments(0)

シルクの耳ざわり

阿川弘之さんの「葭の髄から」というエッセイを読んでいて面白いものを見かけた。ちょっと引用してみる。
最近聞いた話。
某大学の文学部教室に、大きな帽子をかぶったまま講義聴講中の学生がゐた。
「帽子をとりなさい」教授が注意した。「うしろの者に黒板の字が見えないよ」
学生が答へた。
「とる必要はない。僕の個性だから」
 聞いて、腹が立つた。何が個性なものか。「個性尊重」といふ耳ざはりのいい合言葉を、何の疑ひも持たずに信じて、鸚鵡の口真似してるだけぢやないか。毛沢東の「造反有理」に心酔した一と世代前の連中も同じだが、合言葉を信用すること自体、個性欠如の証左とは気づかない此のお粗末さかげん。

葭の髄から 文春文庫

阿川 弘之 / 文藝春秋


とまぁ、旧仮名遣いで若造の狼藉ぶりを痛罵しているのだが、この文章の前後では女子高生のルーズソックスを醜悪だと言ってるので、つまりそういう時代に書かれたものになる。

ところで、以前、こんな記事を書いたことがあった。

安敦誌 : にほんごであそぼ

で、先の引用をよく見てみると、旧仮名遣いを自在に操る文士が若者批判をする中に、ちゃんと「耳ざはりのいい」という表現が出てくる。若者に苦言を述べる割には自分の言葉もアレだな、などと憎まれ口を利くつもりはなくて、なんというか、阿川御大もやはり私と同時代を生きる人に違いないのだなぁ、という事を思った。

現代日本に「耳ざわりの良い」という言い回しを流布したのは阿川弘之氏である、という仮説も考えられないことはないが、普通に考えれば、阿川氏が文章表現を身に付けた時代には既にそうした言い回しが使われていて、それが現代にまで尾を引いていると見るのが自然だろう。言語というのは水物なので、たとえ文学者といえども、生活の中で吸収する言語表現の中にはこの手の「誤謬」が必ず入り込む。

別の回では、二人か三人という意味の「にさんにん」という言葉を文章で書くときにどう表現すべきかという問題について書かれていたこともあった。こちらでも現代日本語の障害について語られていて、やはり同時代的な興味があった。「象が七八頭」と書いて78頭の象の大群を思い浮かべられてはたまらないので「象が七、八頭」と書いている、というような話だったと思う。

ところがこれも、算用数字で表現すべき数字を縦書きするときに、百や千という位を表す字を省略して漢数字の羅列で表記するという新聞記法あたりに原因があるらしく、戦前に出版された作品の原版を見るとやはり「二三人」とか「七八頭」という表記が当然に使われていたらしい。手許の「中島敦全集」でも確かにそういう表記になっている。阿川さんは書いていないが、個人的には「すうじゅうにん」というのを「数10人」と書く人があるのが気持ち悪くて仕方がない。

データとしての数字は算用数字で書いて、漢数字は日常語の表現に使ったほうが書く側にとっても読む側にとってもお互い幸せな気がするが、どの分野にも「歴史的経緯」というものはあって、そう簡単には解決しない問題なのだろう。

最近になって常用漢字が拡張されたというニュースを聞いたが、「当面の利用を許可された漢字」であるところの当用漢字という歴史的経緯から発したのが常用漢字であって、当用漢字や常用漢字に漏れた漢字が適当な漢字で代用されたという後遺症も日本語には多数残っている。今後は文字使用に関する拘束が緩くなって先祖返りしていくのか、それとも現代の日本語とも違った新しい日本語が再生産されていくのか予測はつかないが、未来の歴史がどのような決定を下していくのか興味深い。
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by antonin | 2010-12-14 00:21 | Trackback | Comments(2)

大人の都合

「都合」という熟語に、「都」という字が含まれるのはなぜなんだろう。そんなことを思って、辞書を引いてみた。広辞苑電子版の説明によると、「都」には「すべて」という意味があるらしい。「都合3万坪」などと言う場合の「都合」という言葉の意味は「合計」と同じになり、こちらが原義になるらしい。すべてをあわせるのが都合ということになるらしい。

念のため漢和辞典の方でも「都」を引いてみると、おおざとが部首になるところからも場所としての「みやこ」が原義になるらしい。へんの方は薪を積み上げたところを象形したものなので、「都」という字は人が集まったところという意味らしい。ここから「都」には集まるとか集めるという意味もあって、転じて、統べるとか全てという意味もあるようだ。

都合が良いとか悪いとか言う場合の方の意味はどのあたりから来ているのか、辞書の簡潔な記述ではわからないのだけれども、諸般の事情を集め合わせたところ、というような意味なのだろう。

ついでに「具合」という言葉も似たような使い方ができるので、「具」の字も字典で引いてみると、「そなえる」とか「ととのう」というような意味が載っている。都合が良いというのは万事うまくいく場合で、具合が良いのは準備が整う場合、というのが、本来的な言葉のニュアンスの違いということになるのだろう。


本題に入るけれども、子供の世界観というのは大人から教えられた世界で完結していて、そこに少々の想像力で大人の予想をはみ出した理解が加えられた世界に生きている。大人でも似たような世界観の中で生きている人もいるようだけれども、多くの人は教えられた世界観では説明しきれない世界の本質を体験していて、体験した事実の羅列を想像力で適当に補完しながら世界観を構成している。

子供の世界観を大人が上から観察するように、大人の世界観を上から見下ろす存在というのは今のところ実在しない(か、あるいは神としてしか存在しない)ので、想像力が補完した部分の真偽というのは侃々諤々の議論になるばかりで、結論が出ることは少ない。

ただ、世界が必ずしも単純なものではないということを多くの大人は知っていて、子供に世界観を教えるときには、自分の頭の中でもまとまりきっていない部分までは説明することができず、もっと簡略化した世界観を子供には教えておく。そこで子供は当然に疑問を抱くわけだけれども、そういう質問には「そういうものだ」とか「大人になればわかる」などと言ってお茶を濁す。

子供に説明する世界観に出てくる因子よりは、実際の大人はより多くのしがらみに糸を引かれながら生きている。結果として、子供に説明した内容と矛盾するような行動もとることがある。もっと単純には、大人とは子供の管理者であることも多いので、管理の「都合」上「都合の良い」ルールを子供に押し付けてみたりするが、当の大人というのは、ある程度他人の管理を受けながらも基本は自分で自分を管理している部分が大きく、子供に押し付けたルールを「都合良く」無視して行動していたりもする。

そういうわけで、子供から見た大人というのは汚く見えるものだが、大人には大人の都合というものがある。管理されている平社員から見た経営層の振る舞いというものは汚く見える場合も多いが、おそらくそこにも同じように、経営者には経営者の都合というものがある。ただし、ここでももっと単純に、経営層は平社員よりもずっと自己管理の部分が多いわけで、単純に自分に都合良く行動しているだけという事例も多いのだろう。

自分で自分を管理する人が、それでも周囲の都合を優先して振舞っているとすれば、その人に何が正しいのかという信じるべき像があるはずで、その像が周囲にとっても望ましいものだということなのだろう。

自分自身にそういう理想像がある人間からすると、その理想通りに振舞わない人間に管理されるのは苦痛だろうが、自分自身がその理想像と同じように行動できるだけの信念を持たない人間が、上に立つ人間にだけそういう信念を要求するのは、あるいは無理な注文なのかもしれない。おそらく、上には上の都合があり、自分自身もそういう都合にまみれてしまえば、きっと同様に振る舞ってしまうかもしれないし、場合によってはもっとひどい振る舞いをとってしまうこともあるだろう。

子供の親にもなるとそういうことも薄々見当が付いてくるのだけれども、そういう都合の存在を理解するというのと、その都合に斬り込んで人を操縦するという地点の間には大きな隔たりがあって、まぁ自分の周囲の具合を気にしておくくらいが、今のところはちょうどいいのかもしれない。
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by antonin | 2010-09-13 01:57 | Trackback | Comments(0)

氾濫原に反乱軍

電子機器の内部に使われる部品で、個別のパーツを載せるボードを「プリント配線板」と呼ぶ。これを通常は簡単に「基板」と呼ぶ。ところが、これを「基盤」と書いているのをよく見かける。おそらくは誤変換に気付いていないだけで、「確率」と書くべきところを「確立」と書いてしまうのと似たようなものなのではないかと思う。けれども、厳密に言うと部品の載っていない基板は「プリント配線板(printed wiring board)」と呼ぶのに対し、これに部品を実装したものは「プリント回路板(printed circuit board)」と読んで区別する流儀もあるので、ひょっとすると部品の載っている基板を特に基盤と表記するような流儀もあるのかもしれない。このあたり、どう調べたらいいのかわからない。

プリント基板とプリント基盤 - その他(学問&教育) - 教えて!goo


似たようなもので、男性が街中の女性を口説く行為を「ナンパ」というが、これを「難破」と書くのもときどき見かける。本来は、安易に女性に流れない「硬派」の対義語ということで「軟派」な男の行為をナンパと呼ぶのだと記憶している。しかし「中坊」が「厨房」で通用してしまうのがネットの流儀でもあるので、最近は「難破」でも通用するのだろうか。あるいは、引っかかった女性の立場が難破船に似ているから、というような語源説でもあるのだろうか。

難破とか - finalventの日記


この勢いで行くと、「河川が反乱する」という表記を見かけるようになる日も来るのかもしれない。ゲリラ豪雨で反乱鎮圧部隊が出動というのもなんとなく意味的に合っている感じがしないでもないけれど。まぁ、反乱じゃなくて叛乱だとか、氾濫じゃなくて「はん乱」だとか言い出すとまた別の問題になりますが。対流圏の上層部に発生する筋状の雲を「巻雲」と書くか「絹雲」と書くかで年代がバレたりなどして、なんだか面白い。

そういう自分も、きっと知らないうちに漢字の間違いは犯しているのだろう。子供の漢字学習を見ていて正しい書き順を字典で調べてみると、思いのほか間違って覚えている字が多かった。行書草書を使わない現代では書き順が多少間違っていたところであまり深刻な不都合もないのだけれど、やはり基本的なところを間違っているというのは気持ちが悪い。小学2年生のテストを今改めて受けてみると、いったい何点取れるのだろう。ちょっと心配になる。

塩化ナトリウムがナトリウム塩化物になったというような役所の都合で左右される定義の問題もあって、あんまり厳密に考えるのもどうかな、という気はするけれども。
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by antonin | 2010-08-06 02:57 | Trackback | Comments(0)

連想もやもや

最近になって、「オノマトペ」という単語をよく目にする。擬音語とか擬態語とか、そういうものを指す術語らしい。たしかに日本語にはそういうものが多い気がする。「はらはら」とか「てかてか」とか、擬態といってもあまりリアリティのあるような感じでもない。ハワイのカメハメハ大王の名前は「カ・メハメハ」という区切りになっていて、この「メハメハ」というのが寂しい様子を示す形容詞、というか擬態語なのだという。これも日本語の擬態語に似たような響きがある。

フィリピンのセブに行ったときには、ラプラプという地元の英雄の像を見てきた。セブ島に隣接する有数のリゾート地であるマクタン島の中心市街はラプラプ・シティーといった。この英雄の名前が擬態語なのかどうかまでは調べがつかなかったが、どうもミクロネシア周辺諸部族の言語にはこういう構成の単語が多いような気がする。やはり島国の言葉である日本語の源流の一つにも、ひょっとするとこういう海洋民族の影響が残っているんじゃないかと夢想する。

国語学の用語に「上代特殊仮名遣い」というのがあるらしく、それによると、日本人が文字を使い始めた当初の日本語では、母音の種類が7,8種類はあったのではないかと言われているらしい。そういう面倒な母音構成をしていた上代日本語が、徐々に音韻変化を遂げて母音が5種類でオノマトペの多い現代日本語になった。ひょっとすると、稲作文化の影響を色濃く残す上代日本語が、文字の歴史に現れてこない島文化の日本語と交雑してできたのが現代日本語なんじゃないか。

そういう目で見てみると、奄美あたりの琉球方言では母音が3種類しかないなんていう話が思い出されて面白い。この地方では、「い」と「え」、「う」と「お」の区別があいまいで、これに「あ」を加えた3種類の母音で構成されているらしい。母音が7種類ほどあった弥生語と、母音が3種類しかない島言葉が融け合って、間を取って5種類の母音が残った、というのはあまりにも荒っぽい推論だけれども、場合によってはそういう過程があったんじゃないかと想像してみるのも楽しい。

そして、その融合の過程で日本語にオノマトペが定着したんじゃないかという想像も巡らせてみる。そういえば、いつか流行した島唄風の歌謡曲のタイトルは「涙そうそう」だった。大和朝廷の男たちは、その教養の証として漢文(真名)しか使わなかったようだが、女たちは女手とも呼ばれた仮名を使って、言文一致体の文章を書き残した。そういう流れから、漢文では書き表しようのなかったオノマトペが、徐々に文字の世界に上り始めたんじゃないのか。

肯定的でも否定的でもいいのだけれども、こういう疑問に答えを出してくれるような、国語学の雑学を簡単に教えてくれる新書などはないだろうか。おそらくそれらしいものはあるんだろうけれども、数千冊ある新書の山から狙った本を引き当てるのは難しい。まぁ当面は国語学よりもJavaScriptとかUnicodeの勉強をした方がいいんだろうけど。
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by antonin | 2010-05-21 02:37 | Trackback | Comments(0)

音声的な、あまりに音声的な

アクセス解析を使って逆リンクを検索していると、「音声言語的な文章が云々」という議論にぶつかった。これはひょっとして自分のことだろうか、と、また自意識過剰気味に反応してみる。

いろいろと本を読んだり、ウェブサイトを巡回したり、そういう事は毎日やっている。そうすると、寝る直前だとか目覚めた直後だとかに、面白かったり厄介だったりする様々な考えが浮かぶ。そういう考えを個人的に「妄想」と呼んでおり、生活圏内の人間に話してもまず理解されないので、ここに書き記して公表することで満足することにしている。

ところが、この作業に平均して1時間くらいを要する。それ以前に純粋に思考している時間が2時間くらい加わるので、都合3時間くらいはひとつの妄想ネタに費やしていることになる。ところが、日常生活の中で3時間という時間をまとめて確保することは難しい。ほとんどが家事や育児や睡眠という必須作業の割り込みによって中断されることになる。

となると、どうしても頭で考えていることを頭で考えている速度で打ち込み、後日余裕があれば推敲する、という運用スタイルになってしまう。私は、自分の文章を読み返して日本語としてまともな形式に修正するのに、だいたい書き下しの3倍程度の時間を要する。となると、これにも平均して3時間ほど必要ということになる。そこまでしてようやく、文章が一般書籍のような文体になる。これを週に2本以上書いてしまうと、生活が崩壊する。

そういう推敲を掛ける前の文章というのは、思ったことが思った順で単純に書き並べてある。そういう文章は一文が長くなりがちで、最初に書いた句と最後に書いた句が重複して変な日本語になってしまう、というようなことも多発する。句読点による区切りが変なことになっているということも多く、結果として、意味を取りにくい、誤解を招きやすい文章になってしまう。もちろん誤変換や単純なタイプミスもある。そういう単純なものでも、最低2回くらいは文章を読み直さないと除去しきれない。意味を追う過程と、字面を追う過程というのは、どうしても別々に用意しないとそれぞれの精度が上がらない。

という具合で、書き上がって見直しスウィープの1巡目あたりで割り込みが発生したような荒っぽい文章が多数、ネット上に晒されていくことになる。時間があれば後日推敲するが、あまりそういう時間をとる機会は多くない。それよりはむしろ新しいネタを投下するほうに時間を割いてしまいがちになる。それでも書き下し時間内に割り込みが発生し、非公開設定のまま中断しているようなネタが月に数本分は眠っている。

そういった、会話と同じように思考の速度に近いスピードで打ち込んだ文章が、おそらくは「音声的」と捉えられているのではないか。それが逆に音声読み上げを利用している読者に好評だったりすることもあって、まぁ別にいいやという態度をとっている影響も、少しはあるかもしれない。こういったものを視覚的に読んでいる人の中には、「句読点の多い文体」と呼んでこれを忌み嫌う場合もあるらしい。太宰治の書くものが、ちょうどそういう文体なのだそうだ。

漢字と送り仮名で文節の切れ目を明示できる場合は句点を使わないが、平仮名が多い文章の場合には文節区切りの明示という意味で、音声的なリズムとは別の意味の句点を使う場合がある。さらに修飾語の修飾範囲を示す場合とか、そこまで気を回して句点を打てる場合もあるが、それはだいたい推敲の3巡目以降となる場合が多い。


という具合でして、箇条書き主体の技術文書以外を職業的に書いたことがない私は、論説的作文でも勢い重視の音声言語的文体になりがちである、という話でした。
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by antonin | 2010-02-17 15:13 | Trackback | Comments(0)

父老いる

最初、「丁字路」と「T字路」という言葉の間に横たわる微妙な関係について書こうと考えていたのだけれども、すでに思うところがすっきりと書き尽くされていたので省略する。

風花の花屋便り: 丁字路かT字路か

参考:「ことばの散歩道」より「英語のスペリングはなぜ難しいか?

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先日実家に帰ったら、父が老けていた。どうも、自分の頭の中で父と老人のイメージが重ならない。が、現実として老いた父がそこに居るわけで、どうしたものか。68歳。喫煙歴などからしても、そろそろいつ死んでも不思議ではないわけで、その事実に気持ちの整理が付かない。どうしたものか。自分が死ぬことについては若いときからさまざま考えてきたが、人の死に思いやる機会の少ないままここまで来てしまったツケかもしれない。親の死が無様であるというのは、自分の死が無様であるよりはるかに辛いことである。

で、自分自身がまだヨチヨチ歩きであったり、今のムスコ1号と同じくらいの年頃で阿波踊りを踊らされて照れくさがっている映像などを見ている。他人が見ればひどく退屈な映像なのだろうが、自分にとっては飽きることなく10分程度見てしまう貴重な映像になる。愛情を受けて育ててもらったことに感謝しているのだが、それをどのように表現していいのかわからないというのは困ったものだ。他人の面倒はある程度避けて通れるが、身内の面倒というのは、いつかはどうにも避けようがないところにブチ当たるのであって、何とかしなければならない。

んー。
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by antonin | 2009-04-28 00:41 | Trackback | Comments(0)

都市伝説誕生秘話

「あいつ、まだジャブをやってやがるのか。つくづく懲りないやつだなあ」
「えっ、シャブ? なんですかそれは?」
「ん? シャブ?」
(んー、"jab a vein"というと麻薬注射を打つことなんだが、そんなことを説明してもこいつにはわからんだろうなぁ)
「えっとな、こういうことをしてると、ヤクザに骨までしゃぶられるから、シャブってんだよ」
「あ、なるほどー、勉強になります」
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by antonin | 2009-02-10 12:04 | Trackback | Comments(0)


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