安敦誌


つまらない話など
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スノーストームとモークリー

関東地方の場合、冬の終わりのドカ雪というのはそれほど珍しい話でもない。今日の雪も、予報ではみぞれ混じりの重い雪という話だったが、案外しっかりとした雪が降っている。ただ、この後の予報がすごいことになっている。今日の昼に最低気温の1℃近辺を記録したところから、ずっとそのあたりをうろついていた気温が、日付をまたいで夜明けまでの間に10℃近く上昇し、その過程で毎時20ミリを超える豪雨になると予報している。

そして、さっきから雷が鳴り響くようになった。冬の嵐というのは、珍しいが経験はある。けれども雪で視界が悪いような天気での雷鳴は初めての経験だ。雷が鳴っているということは、湿った温暖前線が食い込んできているものの居座る寒気のほうも強くて、上昇する暖気の中で水分が凝集して落ちてきているはずなのだが、地表近くではまだ雪が降っている。ふわふわした雪が上昇気流に逆らって急速に落ちるということはあまりないので、ひょっとすると上空ではすでに雨かひょうが出来始めているのかもしれない。外はまだ雪が降っているが、歩く人たちが傘を差していない。風が強すぎるんだろう。

地球シミュレータ稼働以降の時代、かつては当てにならないものの代名詞だった天気予報も、かなりの精度で天気を言い当てるようになっている。世界初のコンピューターは、法的にはアタナソフ・ベリー・コンピューター、通称ABCというものとされているが、これはビッグブルーの誇る弁護団による寝技の勝利という面が強くて、技術史的にはやはりENIACということになる。ENIACについては語りたいことがたくさんあるがキリがないので割愛する。ここでENIACが出てきた理由はというと、ENIACの生みの親であるジョン・モークリーという人の話になる。

ENIACの生みの親として、モークリーとエッカートの二人の名前が知られている。J・プレスパー・エッカートさんは、当時のアメリカらしいシステム・エンジニアリングを骨の髄まで叩き込まれた電子工学者で、信頼性の低い当時の真空管を大量に使いながら、システムとしてそれなりに実用的な水準の信頼性を持つ巨大な計算機を一発で作り上げるという快挙を成し遂げた。

一方のモークリーさんというのは、どちらかというと工学者というより理学の人で、高速な計算機があったら是非解いてみたいテーマがあって、その目標のための第一歩として、大戦中の弾道計算機械として予算をせしめ、優秀な技術者をパートナーとしてENIACを作り出した。このモークリーさんは、ウォズニャックさんと組んでAppleを興したジョブズさんの位置付けにいくらか近い人物になっている。彼もフォン・ノイマン先生とのちょっとしたいざこざの後にUNIVACという商用計算機を作る会社を設立しているが、ジョブズさんのような華々しい成功とはならなかったようだ。

で、そのモークリーさんが弾道計算機を足掛かりとして、最終的にどんな計算を目論んでいたのかというと、それは流体力学および熱力学の方程式を数値算法で解くことによる、気象予測だった。結局この分野は、モークリーさんが夢想したほどには簡単なものではなく、非線形性によって誤差が発散しない程度にメッシュを刻むと計算量が爆発するということがわかり、モークリーさんは現在のような計算機科学による気象予測の勝利という成果を見ることなく、1980年に亡くなっている。

コンピューターによる気象予測というのは、シミュレーションによる大気変動の時間進行が、現実の大気の実時間変動より高速に実行できるということを意味していて、その実現のためにはコンピューターのハードウェア的な進化が大きく貢献している。しかし、気象予測ほど非線形性の強くない解析では、ENIACから5年ほど遅れて作成されたUNIVAC Iでも、目覚ましい成果を挙げていた。その代表的なエピソードが、1952年の大統領選挙結果を統計解析によって正しく予測した件だった。この年の大統領選に勝利したのはアイゼンハワーさんで、UNIVAC Iのエピソードを語る枕としては「大方の予想に反し、アイゼンハワーの勝利を正しく予想した」と言われることが多いけれども、実際には「どちらが勝利するか断言できる人がいない中、アイゼンハワーの大勝を事前に予測することができた」と言ったほうが正しいようだ。

なんて書いているうちに、雪があられに変わってきた。視界はますます悪くなっている。さて、寝よう。
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by antonin | 2014-02-15 01:00 | Trackback | Comments(0)

おじさんにも若い頃があった

数年前の自分の書いたものなどを読んでいる。面白い。元気があってよろしい。

なんだ、いかんな。

久しぶりに本田宗一郎さんの本でもひっくり返してみようかしらん。

せっかくバカボンのパパの年齢に追いついたんだし、天才っぷりをまき散らしてみるのもいいかもしれない。

ぶどうたろうのお話でも書いてみようか。

忘れてしまったものがたくさんある。自分が過去に書いたものを読めるというのは良いものだ。一般庶民にも読み書きができるようになったからこそなんだろう。

学生時代の書き物なんかも引っ張り出してみようか。

No.1634/ 登録者:安敦 (yrk9148 ) 2268 字 [94/09/25 23:09]
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2319 Bytes
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『どうでもいいこと』

ある職人のもとで修行する二人の弟子がいた。

(こんなに修行が厳しいなんて知らなかった。修行だとは言うけど、今やらさ
れていることがいったい何の役に立つのか、見当もつかない。こんな所は抜け
出したいと思うこともあるけど、偉い師匠の言うことだからきっと何かの役に
立っているのだと思う。師匠は怖いけど、しっかり修行して師匠のような職人
になろう。)

(こんなに修行が厳しいなんて知らなかった。修行だとは言うけど、今やらさ
れていることがいったい何の役に立つのか、見当もつかない。偉い師匠の言う
ことだから何かの役に立っているんじゃないかと思うこともあるけど、どうに
も信じられない。一日も早くこんな所は抜け出したいけど、そんな事怖くて言
えない。)

異なる心境のまま二人は修行を続けた。ある日二人の役人が職人の元を訪れ、
何事か通達をしていた。
「あなたは2名の見習いを取っておられるが、その扱いはまさに旧態依然とし
たもので、弱いものの立場を図る公の者としてこれを見逃すことは出来ない。
即刻2名を解放することを命ずる。」

「お待ち下さい。私たちは今の扱いに不満はございません。どうかお引き取り
下さい。」
役人を止めに入ったのは、当の弟子たち二人であった。
(そのようなことを言われたんじゃ、まるで僕が密告したみたいじゃないか。
あとでどんな目に会うかってことがわかってないんだ。)
(弟子が師匠に従い、修行が厳しいのは当然の事じゃないか。何の見当違い
をしているんだろうか。役人の余計なお世話だ。)

結局弟子たちの申し立ては通らず、師匠は役人の命令を黙って受け入れた。二
人は里へ返されることとなり、職人になることはなかった。自由の奪われた生
活からの解放に喜ぶ者が一人と、職人になる夢を奪われ泣く者が一人生まれた。


レベル1:役人の行動にはどのような意義があったか。
レベル2:役人の一人は頑なな信念から行動し、もうひとりはライバルの職人
     に買収されて行動に及んだ、という仮定のもとではどうか。
レベル3:二人の弟子の心境が二度対比されているが、発言している順番が同
     一人物を表している、という仮定(※)のもとではどうか。

1番目の弟子:
  初めは苦しかったが、修行に耐え上達するうちに意欲が湧いていた。
2番目の弟子:
  初めは意欲があったが、上達に限界が見えてから苦しむようになっていた。

正解はカオスの中に。

Antoni'n L. Kawan~o (安敦)

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個人売春是か非か、みたいな議論の文脈で書いたもの。19年前の作文。

チャットなどで学生らしく謙虚な話っぷりをしていた以外は、基本的に今とあまり変わらない。付けられたあだ名は「不幸」だった。まあそんなもんか。

知識は今よりだいぶ少ないはずなんだけれど、半端な知識のごまかし方が当時から板についていたように思う。

電子メールシステムというのがあって、ハンドルネームのない女の子からの親しげな言葉があってドキッとしたが、署名を見るとヨメだった。もうそんなになるか。
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by antonin | 2013-12-17 03:37 | Trackback | Comments(0)

「ジル」という短編小説を書こうと思ったことがある

1ヶ月分の雑談を書いたが、操作の勝手を忘れてしまっていて、プレビューしたら投稿せずに消去してしまった。まあいいや。

--

こんな記事を見た。

「デブな彼女」という短編小説を書こうと思ったことがある: 極東ブログ

私もここに2回ほど物語風の文章を書いたことがあるが、小説というものにはあまり興味がなくて、自分で書いてみようと思ったことはほとんどない。けれども、一度だけ魔が差して小説っぽいものを書きたくなったことがあった。短編小説というよりはSF小説なのだけれど、長編にする気は毛頭なかったので、ネタ元に表現を合わせてみた。

「ジル」というのは人工知能に与えられた名前である。発話機能の音声が女性の声になっているので、"Jill"という女性名になっている。用途は駆逐艦のシステム管理。警戒・攻撃システムは別系統になっており、古典的システムが担当している。ジルが管轄するのは、動力系、電力系、浮力系、浸水及び火災の抑止系、空調などの乗組員居住環境系など、船体の「生命維持」に関わる部分になる。

この人工知能が研究所で誕生し、船体各部の系統制御と、複数の知覚情報の統合を船体シミュレータ環境で学習していく。また、人間との自然言語による会話も同時に学習する。人工知能のごく基本的構成はプログラムによって与えられるが、その先の高度な制御方法は論理的プログラムではなく機械学習によって「訓練」される。ここで用いられる機械学習の方式には、教師信号による学習が利用される。

教師信号の方式には大きく分けて2種類があり、ひとつは「正しい出力」がわかっていて、その出力を直接学習器に与えるもので、これは「教師」になるシステム、あるいは人間が、予め答えを知っている必要がある。もうひとつは、「正しい出力」そのものではなく、「出力が正しかったかどうか」だけを学習器に与えるもので、この場合「教師」の側が知っているのは学習器の出力が正しいか誤りかという価値判断の基準のみで、具体的にどういう出力が正しいのかということについては、学習器が試行錯誤的に編み出す必要がある。

ジルの学習に利用しているのは後者の「出力が正しかったかどうか」のタイプで、各系統の各装置への制御入力が正しかったかどうかが-1から+1までの値域を持つ連続値の教師信号としてフィードバックされる。フィードバックには2系統あり、その装置への制御信号単体の当否結果が、人間の脊髄から小脳に相当する反射応答系の教師信号として返される。これとは別に、船体を構成する各装置、各系統の教師信号を非線形の重み付けで1個の教師信号に統合したものが、人間の大脳に相当する統合認知系の教師信号として返される。これにより、個別具体的な出力の是非だけではなく、船体全体の状況に応じた具体的対応が可能になる。

開発過程ではシミュレータによって巡航状況、停泊状況、海難状況、機器故障状況、戦闘状況など、想定しうる多様な状況について訓練される。また、人間との会話では、海軍に固有の階級制度や軍規に関する判定プログラムがサブシステムとして組み込まれていて、これを元にして会話対象となる人物の階級や職能に応じて情報開示のレベルを適切化するよう訓練される。また、画像認識装置による感情パラメータも教師信号の一種となっており、発話内容の不快感を取り去るために利用されている。軍艦の制御という目的から、乗員の感情よりは船体維持を優先するために、乗員の感情フィードバックの重み付けは低く抑えられている。

ジルには感情は存在しないが、2つのフィードバック系統のうち統合教師信号は広い範囲の意思決定に影響するため、これは人間の「快」「不快」の情動に似た働きとなるように設計されている。ジルの用途としてはあくまで装置制御を目的としているため、これら「情動」の効果は低く抑えられ、困難な局面でもジルは極力「冷静」に判断を行えるように設計されているが、目的次第では合理的判断より情動ベースの判断を優先するモードを設定することも、設計上は可能になっている。

そういった設計のジルが、制式採用された新造の駆逐艦に実装され、2年の訓練航行を経て艦隊配備される。その後15年にわたって紛争への参加なども含めた実務をつつがなくこなし、膨大なデータを残してジルは「退役」する。

ジルが退役する時期には、同種の人工知能システムは軍民問わず多様な領域に進出している。この時期、システム停止からシステム復帰をおこなった際に知能システムがパニック状態に陥り制御能力を喪失するという事例が数件報告されていた。その件について調査を実施している研究員が、ジルのデータにアクセスする機会があり、ジルのシャットダウンログを詳細に検討し、知能システムの復帰障害との関連を発見する。この調査についての報告書が物語の導入となる。冒頭にはこう書かれる。

「知能システムのシャットダウンシーケンスは現在、知能システムのシャットダウンに先立ってデバイス入出力を停止するという制約しか規定されていない。これに対し、知能システムのシャットダウンプロセスでは、教師信号ユニットの停止に先立って統合認知ユニットの停止を実行すべきという制約の追加を提案する。」

冒頭に結論を書いてしまって、結論だけではなんのことだかわからないが、本文を全部読めば意味がわかり、文章の最後に同じ結論が書かれているのだが、冒頭で読んだのとは全く別の理解ができるという文章構成は、作文の定跡のひとつと言える。結論を「知ってしまったが理解できない」という状態はある種の好奇心を呼び起こし、読者に続きを読む動機を与える。いわゆる「つかみ」というやつで、起承転結の「結」の部分を「起」に組み込んでしまう構成とも言える。チャイコフスキーの弦楽セレナードのような章構造を思い出す。

ここでは、本文中で研究員がシャットダウンログにジルの「悲鳴」が残されているのを知って戦慄するあたりが山場になる。そこまでの展開でジルにある程度感情移入できるようなエピソードがあると、こういう無機質な調査場面も別の趣が加わる。もちろん、ジルは冷静さを優先して設計されたシステムであり、シャットダウンログはあくまで解析目的の詳細データなので、そこに「助けて」とかそういうダイレクトな悲鳴は残されていない。けれども、そういう詳細データを生々しく読み取る知識と感受性を持った研究員が調査したために、彼の耳にはジルの「断末魔の叫び」が聞こえる。

ジルが断末魔の苦しみを味わった原因はシャットダウンシーケンスの問題にある。統合ユニットが機能したまま、デバイス入出力、教師信号ユニットの順にシャットダウンが進行したため、最後に残された統合ユニットは正当な教師信号を失い、「何をやっても全てが否定される」という状況に陥ってしまう。この究極の自己否定の中でジルは意識を失っていったのだった。まだ音声会話ユニットが生きていた頃のジルと乗組員との心あたたまる会話のあとに、こういう戦慄の結末があったことが明らかになる。そして、冒頭の報告書提案につながる。

そういう話を考えたが、実際の小説に仕立て上げるだけの気力と技能がなかった。そんなことを今回思い出した。乗組員がいる大型の乗り物が人工知能を持つというアイデアは、ロバート・L・フォワードの小説「ロシュワールド」から引いている。私は登場人物に適当な固有名詞をでっち上げるのを苦手としていて、なぜか人工知能だけが「ジル」という名前を持っているのも、このSF小説に登場するグライダーの知能システムの名前をもらってきているからだ。

人工知能の学習に使う教師信号を、ローカルではなくグローバルに影響するものにすると、人工知能にも情動が発生するのではないかという仮説を考えていた時期があって、それがなぜかSF小説のアイデアになった。小説よりは検証プログラムを書いてみたいと今は思うけれども、どうやらそういう能力も持っていない、あるいは持っていたけれど失われているような気がして、まあつまらない小説くらいなら書けるかな、という感じはする。若い頃は小説など馬鹿にしてあまり読まなかったけれど、最近はそうでもないので、老後に時間と気力があったら、ひょっとするとプロットから小説を「実装」することがあるかもしれない。
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by antonin | 2012-07-10 08:02 | Trackback | Comments(3)

印刷個人史

ガリ版: 気がつけば82歳

ガリ版というものが、確かにあった。正式には謄写版というらしい。小学校の卒業文集で最終モデルに近いガリ版式輪転機の原版をこれで書いたことがある。

仕組みとしてはほとんどプリントゴッコと同じようなものだが、油性インクをシルクスクリーンのようなものを通して印刷する。スクリーンのインクを通さないロウの部分を取り除くのに、プリントゴッコでは炭素インクと赤外フラッシュによる熱転写を利用したが、ガリ版では鉄筆を使って手書きで文字や線画を書いた。そういえばプリントゴッコの使い捨てフラッシュも金属繊維の燃焼熱を利用していたりして、時代ドラマに出てくる乾板写真機のマグネシウムフラッシュのイメージをリアルに感じることができる貴重な体験だった。

プリントゴッコの話はそのくらいにして、ガリ版。私が書いた原版は青くてネットリとしたマスクで塗り尽くされていて、5mm四方くらいの方眼が描かれていたように記憶している。それを鉄筆で削っていくと、筆跡が白く残る。書き損じをすると溶剤臭のきつい修正液で塗りつぶし、それを乾かすと元のマスクが復元される。かなり必死の思いをして原版を作り上げると、先生がそれを集めて印刷室の輪転機で印刷をした。

その時代の輪転機は既にセミオートマチックになっていて、原稿をセットするだけで自動的にインク充填と紙送りがされるようになっていた。しかし普及機ではインク粘性や質の悪い藁半紙のハンドリングに失敗することも多く、しばしば紙詰まりなどで印刷が中断していた。そういう場合は詰まった紙を取り除き、モーターに代わって手動ハンドルで慎重に紙送りをしながら印刷機の調子を整え、状態が良くなったら再び自動印刷を開始するという具合だった。印刷開始前にも手動で数枚の捨て印刷をするという手順があったような気もする。

担任の先生はそういうガリ版原稿を毎日削って、父母向けの日刊クラス通信を発行していた。その先生は定年近くだったのでフリーハンドの達筆で原稿を書いていたが、比較的若い先生の中には、格子目のついた筆記台を使って直線を多く含んだ独特のガリ版文字を書く人もあった。

中学校に上がった頃には既に新式の印刷機が配備されていて、原稿こそ手書きだったが原版の作成は電子式で、鉄筆の出番はなかった。けれども若い先生の書く筆跡は、おそらくは学生時代にガリ版原稿を多数書いて鍛えられたと思われるガリ版文字で、東京湾で発生する青潮などの環境問題を生物学や化学の側面から生徒たちに紹介していた。

私などはそういう刷り込みにすっかり影響され、大学では原発問題などのかなり「赤い」問題提起をするグループに属することもあった。結局その団体は純粋理学に近いノンポリな自主ゼミ活動へと移り変わっていたので特段過激な活動に巻き込まれることはなかったが、昔から環境問題というのはやはりそういう傾向の人達が担う活動領域だった。

大学では流石にガリ版を使うことはなかったが、24ドットフォントのワープロで書いた原稿を印刷したのは、やはり文化部サークル連合の所有する輪転機だった。大学生協で購入したプリペイドカードを使って1枚いくらで学祭用の冊子原稿を印刷し、ホチキスで止めて製本した。テーマは素粒子論とか宇宙論とかそういうあたりだった。先輩の供出してくれた東芝Lupoの特徴的な24ドットフォントが好きで、必要以上に熱転写インクリボンを消費して迷惑を掛けていたような覚えがある。VistaのメイリオフォントがLupoフォントに似ているという意見もあるが、横棒が太くて縦棒が薄い変態フォントのメイリオとは比較にならないほどLupoフォントは美しかった。

大学の卒業論文を書く頃に、キヤノンが初めて販売した個人向けインクジェットプリンターを購入した。厳密にいうと1号機のBJ-10vではなくマイナーチェンジ品のBJ-10v Selectというモデルだったが、ノートタイプのこのプリンターはずいぶんと長く愛用した。本体からグラフィックとしてフォントを送り込んで印刷することもあったが、通常は本体に登録された明朝体とゴシック体のフォントをプリンターコマンドで利用して印刷していた。

PC-9801のDOSからこのプリンターコマンドを利用して簡単なワープロ印刷をするソフトにPRTというフリーソフトウェアがあった。これは初期のHTML程度の簡素なマークアップコマンドをテキスト中に埋め込んでおくと、それを適切なプリンターコマンドに変換してパラレルポートに送出してくれるというもので、個人レベルでは非常に便利に使っていた。フォントを見ると、それを印刷したハードウェアがどこのメーカーの製品であったかを推定できた最後の時代だったように思う。

大学を出て会社に入ると、古くは電子写真と呼ばれた静電吸着トナー方式のレーザープリンターが原稿印刷の主力になった。もはやインクの出番すらなくなったが、カラー印刷だけはインクジェットプリンターが使われており、こちらは印刷精度の低さや印刷不良の多発という部分も含めて、なんとなく昔ながらの手作り印刷の空気が色濃く残っていたような気がする。

我が家にもカラーインクジェットプリンターは2台ほどやってきたが、インクコストの高さからあまり活用はされなかった。今では先祖返りしてキヤノンのモノクロプリンターが鎮座している。すっかり図体がでかくなったレーザープリンターだけれども。


今の大学生世代が自身の成長と歴史を共にした技術というと、携帯電話あたりになるのだろうか。個人的には携帯電話に対してあまり深い感情はないので、そういう思い入れの深い人が書いたケータイ論などを読んでみたい。外出先での通話と連絡メールくらいにしか使ってこなかった人間とはかなり違う意見があるのだろうから。
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by antonin | 2010-05-27 17:06 | Trackback | Comments(8)

きつねとぶどう

ある日キツネが歩いていると、丘の上の木にぶら下がったブドウが見えました。ブドウというのはあんまり高くなる木じゃないんですが、どうしたことか、このブドウの木は、枯れた大木に巻きついて、高く高く伸びて日の光を浴びています。ああ、きっとあのブドウは甘いんだろうな、そんなことをキツネは思いました。

どう見てもあんなに高いところになったブドウに届くわけがありません。しばらく木の根元から日に照らされて光るブドウの房を眺めていましたが、とうとう我慢できなくなって、キツネはブドウに向かって高く跳び上がりました。なんどもなんども跳び上がりました。それでも、ブドウの房にはまったく届きません。最初から、それはわかっていたことなのです。

キツネは少しがっかりしましたが、すぐに元気になりました。きっとあのぶどうの実はすっぱくて、まずいに決まってると、そう思うようにしたからです。そうしてキツネが帰ろうとすると、それをさっきから見ていたカラスが言いました。「おいキツネ君、なんだかさっきから必死にブドウの実をとろうとしていたね。せっかくだからひと房とってあげようか。」

キツネはゴクリとつばを飲み込みました。あきらめかけていたブドウの実を食べられるかもしれません。「いいのかい、おねがいするよ。ありがとう。」 そうキツネが言うと、カラスはいちばん見ばえのいい房をくちばしでつまんで、下に落としてやりました。「それじゃ、また。」 そういうとカラスは山へ飛んでいきました。

キツネはよろこんでブドウをくわえ、それを森まで持って帰りました。そして日が暮れる頃、キツネはブドウの実を一粒食べてみました。するとどうしたことでしょう。ブドウは本当にすっぱかったのです。この実の出来が悪かっただけかもしれないと思って、キツネはもう一粒ブドウを食べてみました。するとどうしたことでしょう。こんどの実はもっとすっぱかったのです。念のためもう一粒だけ食べてみましたが、同じでした。それどころか、だんだん口の中が渋くなってきました。

キツネは悲しくなりました。でも、すぐに元気になりました。キツネはネズミを食べるもの。ブドウなんかに手を出そうとしたのが間違いだったんだ。もうブドウを食べたいなどと思わないようになりました。次の日、森に落ちていた柿の実を拾って、カラスのところへ遊びに行きました。「どうも、ぼくの口にブドウは合わないみたいだ。」 キツネがそう言うのを聞いて、カラスは笑いながら柿の実を食べていました。
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by antonin | 2009-11-14 00:40 | Trackback | Comments(4)

献血のお願い

ニュース系は消えるのが早いので、著作権侵害だがコピペしておく。パーマネント・リンクならこんなことしなくても済むのだが。

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カネはないのだけれども、半期分の小遣い予算の一部を取り崩してヘッドホンを買ってみた。今月は少し外食(豚丼とか)を控える必要がある。

SONY ステレオヘッドホン MDR-SA1000

周囲に人間が多数存在する環境下で仕事をするのがつらい状態が続いている。とりあえずこれで自分だけの環境を構築し、仕事に集中できるようにしたい。次はサングラスか。

昔は世間にSony信仰のようなものがあって、性能に対して妥当な価格よりもだいたい2割くらい割増された金額で売買されていたため、Sony製品を意図的に避けていた時代があった。最近ではそうした信仰心も薄れてきたようで、だいたい妥当かむしろ割安な製品が増えてきた。最近は我が家にもSony製品が増えてきた。特にヘッドホン類は装着性がよくて故障も少なく、さらに価格も量産規模のためか割安のものが多いため、Sony製を愛用している。昔はJVCの製品を愛用していたのだけれども、ある時期から粗悪品が混ざるようになったため、今は買わなくなってしまった。

落ち込んでいるときは、チャイコフスキーを聴いて徹底的に落ち込む。学生時代に大学生協で1枚1000円くらいのムラヴィンスキー/レニングラード交響楽団のCDで交響曲の4,5,6番を買って聴いていた。だがその響きがあまりに気に入ってしまったため、自分の中で曲の印象が変わってしまうのが恐くなり、それ以来二度と他の演奏による4,5,6番は聴いていない。4番の2,4楽章が好き。初めて聴いたときは、こんなにメロディアスな交響曲があってもいいのかと驚いたが、最近はこのくらいでないと満足できなくなった。

落ち込んでいないときは、ドヴォルザークを聴いて楽天的になる。この人は今では単に田舎臭い作曲家として認識されているけれども、若い頃に書いた作品や、祝典のために「いかにも」な作風とは異なる作品を要求された際に書かれた作品などを聴くと、全く別の作曲家の手によるものかとも思える曲に仕上がっており、この人は本来器用に様々な曲を書けるほどに勉強していて、それでいて当時の聴衆に一番受けのよい土着的な曲ばかりを書いていたのだということがわかる。晩年にあれだけワーグナー風の曲を書いておいて、代表作はブラームス風の作品が多いというのも、当時の楽壇における「政治問題」の影響もあったのだろうし。

母の背に負われて子守唄を聴いて育ったので、やはり短調の音楽でないと泣けない。好きな曲にはホ短調が多いが、ホ短調が他の短調とどれだけ違った雰囲気になるのか、楽典も作曲理論も知らない私にはわからない。生まれて初めて泣いた曲は、スラヴ舞曲の第10番だったと思う。ジョージセル/クリーブランド管弦楽団で、CBS/Sonyのカセットテープだった。Type-2のテープでDolby B-NR録音だったと思う。当時我が家にステレオセットはなかった。

60年代の演奏は叙情的で良かった。今のクラシックは、上品だが乾きすぎている気がする。録音技術の影響というものもあるのかもしれない。ウェットよりはクリア&シャープが求められているのだろうから。
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by antonin | 2009-07-19 00:48 | Trackback | Comments(0)

楽しいことを思い出せ

午後のフリーダイブ2本を終えて、機材を真水に浸ける。明日も朝食後にフリーダイブなので、メンテナンスにはさほど気を使う必要はない。パッキンゴムを傷めるので、砂だけ噛まないように注意する。

ディナーもビュッフェで適当なものをつまんで軽く食べる。本格的に日が沈む前にコテージに帰らないと、蚊が出るので厄介だ。ビュッフェとは言っても、テーブルには担当のお兄さんがついてくれるので、それなりのチップは必要になる。このあたり、日本人にはささやかな面倒。

ビーチへ抜けて、デッキを渡っていくと、昼間はあれほど焼けていた板が、もうすっかり冷えている。サンダル履きだと、なんとなく損をしているような感じがして、裸足になって歩く。海水の上まで出ると、もう蚊は飛んでこない。風は生ぬるい。水上コテージ近くまで来ると、足元にサージャン・ブルー・フィッシュとツノダシが、なぜかペアになって住み着いている。たまにアカエイを見るが、明るい時間にしか見つけられない。

コテージに入る前に、入り口にあるシャワーを浴びる。このリゾートは比較的真水の消費についてはうるさいことを言わないが、海水から純水を得ているこの島では、シャワーにしているこの水にしても相当のエネルギーコストがかかっているのは間違いない。

コテージに入ると、流行の香が焚かれていて、さほど嫌味ではないが、それなりに強い香りが室内に漂っている。エアコンが控えめに入れられていて、気温はともかく湿度が下げられているのが快適に感じる。その室内の気密を少しだけ破ってテラスに出ると、木製のビーチベッドが2台設えられている。

満潮のときはいくらかうるさいが、引き潮になると環礁によって外洋の波がほとんど遮られるため、海水の上であるにもかかわらず、あたりは不思議なまでの静けさに包まれる。鳥は島中央部の樹上に引き上げていくので、その声もほとんど聞かれない。右手に夕日が落ちていき、左手から空が徐々に深い青に落ちていく。その中から、東京の空では識別不能な色彩を帯びた星が、徐々に現れてくる。ベッドに横たわっていると、地球の回転が感じられるような気がする。

そういう環境の中、何か非現実的な感覚に浸りながら空を眺めていると、夕日の手前に人影が映る。白人女性がやはりテラスのベッドに横たわって本を読んでいるが、そこへ夫と思しき人物がやってきて、女性に飲み物を手渡す。それが、毎日決まってコカコーラだった。果たして女性がそれを好んでいたのかまではわからないが、とにかく毎日それが繰り返される。それでいいのだろう。

歳を取ったらまた来ようね、などと無邪気に君は言うのだけれども、「はたして30年後の日本人にそんな経済力はあるかな?」などという無粋な疑問は口に出さなかった。「また来ようね」と言えば、それでよかったのだ。
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by antonin | 2009-05-27 01:20 | Trackback | Comments(0)

情報教の福音書

安敦誌 : ぽろりぽろりと井戸の水

私は基本的に上の記事のような考え方を持っていて、自分の意見などというものは所詮、今の時代の、ある地層の情報が自分の口(ないし指)を通じて流れ出ているだけのものなのだろうと思っている。

そして、こういう妄想を書いた。

安敦誌 : 情報教宣言

こちらのほうも、やはり当然のように源流が存在していた。それはいつものように、自分の考えたことを、自分よりも先に、そして自分よりはるかに洗練されたやりかたで済ませているというものだった。そして今回もそういう源流を見つけたので、先日2冊ほど書籍を購入した。しかしハードカバーだったので、ちょっと読み場所と保管場所に困る。通勤電車で読むのにハードカバーは都合が悪い。

宇宙を復号する―量子情報理論が解読する、宇宙という驚くべき暗号

チャールズ・サイフェ / 早川書房


こちらは、サイエンスライターによる著作。サイエンスライターと言ってもチャールズ・サイフェさんはイェール大学で数学の博士号を取得しているらしく、日本でのサイエンスライターとは社会的な地位がまったく異なるのだろう。通常、こうしたサイエンスライターの著した書籍のほうが理解しやすいと考え、まずこちらを読むことにしたのだが、実際に読んで見ると結構骨のある内容。MITの研究者自身が書いた本を後回しにしようとしていたのだが、実はこちらのほうが読みやすそうであるということが判明。急遽順序を入れ替えることにした。

宇宙をプログラムする宇宙―いかにして「計算する宇宙」は複雑な世界を創ったか?

セス・ロイド / 早川書房


またサンタフェ研究所か。所詮、複雑系なり非線形系なりに対する私の発想というものは、すべてここに源を発しているのだろうな。まぁいい。どのみちテーマがテーマなので最終的には頭を捻じられるのだろうが、楽しく読み進められそうな体裁はしている。私には量子コンピュータの原理がまだ納得できていないのだが、この本にはそういうテーマも含まれているようなので、そのあたりがわかった気になればもうけものだろう。

かつて大学で統計熱力学程度は化学屋に必須の一般知識として学んだが、その詳細はIUPAC命名法などと共に記憶のかなたに消失してしまったので、もはや学術的には使い物にはならない。ただ、こういう一般向けの教養書を読むための土台にはなっているので、まぁ趣味には生かすことができている。当時のfjあたりで流行していた言葉を借りれば、「税金返せ!」と言われるところだろう。

ちなみに当時学内のサークルで「緩い自主ゼミ」みたいな活動をしていたのだけれども、そこで情報理論のパートを提案したものの人員が集まらず、しかたなく物理科の先輩たちが主催する「宇宙論」と「素粒子」のパートに参加し、化学科の後輩が主催する「環境」だの「毒物」だのといったパートを聴講することになった。このサークルに、工学部からの参加は私一人だけだった。今はもう部員がいなくなって解散してしまったと聞く。

そして、そんな物理科の先輩たちが無力な私のために「ガチもんの物理教科書」を避けて選んでくれたのが、「宇宙という名のたまねぎ」と「宇宙創生はじめの3分間」だった。本来あまり興味のある分野ではなかったが、結果として貴重な経験ができたと思う。学祭のときに、この本のレポートを章ごとに担当してワープロ打ちし、冊子にまとめて配布した。微小規模だったが、大学の枠を超えたコミュニティもあった。当時は楽しかった。

宇宙創成はじめの3分間 (ちくま学芸文庫 ワ 10-2 Math&Science)

S.ワインバーグ / 筑摩書房


「3分間」のほうがちくま学芸文庫から復刊されていたので、購入してみた。全体に懐かしい空気が漂う。著者のワインバーグさんはサラムさんと共に、弱電統一理論の中の人としてノーベル物理学賞を受賞した人物だ。そういうわけで、一般向けの本だから厳密な理論機構がダイレクトに書いてあるわけでないのは当然としても、だからといってアホな内容の本でもなかった。現在の理論からすると時代遅れのことも多々書かれているに違いないが、ウィリアム・ジェームズの「心理学」と同じで、学者としてではなく趣味人としての教養を得るためには、むしろ極限まで無駄をそぎ落とされた教科書よりも、この手の理論を編み出した人物の思考の残滓がこびりついた文章のほうがはるかに役に立つ。

ついでだから、その他の散財についても記録しておくか。そろそろ「ライフログ」を再掲してもいい頃かもしれない。生まれ変わったexblogが大好き。

ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ第9番「クロイツェル」、第7番

諏訪内晶子 / ユニバーサル ミュージック クラシック


カバー写真が気に食わないという意見が多数寄せられている本作。お前ら何が目的だよ。(笑) だがまぁ、気持ちはわかる。昨年末にカートへ入れてから、何度か価格が上下したという商品は、このCD。

次。仕事もしてるんです。

[新装版]部下の哲学 成功するビジネスマン20の要諦

江口 克彦 / PHP研究所


以前に購入した、「上司の哲学」を愛読していたのだけれども、それ以前に部下としての心得が先でしょう、という状況になり、上記を購入。だがしかし、思ったのは「上司の哲学」を先に読んでおいて良かったな、ということ。おそらく、これだけ自己に厳しい上司として働いてきた人の意見だと思った上で読まなければ、おそらくこの「部下の哲学」は、単に煙たいだけの説教に聞こえてしまったに違いない。あの「上司の哲学」と同じ人物の言葉であると認識しなければ、この本の言葉の半分も我が身に浸透しなかっただろう。人間ってのは面白いもんである。要は自己に厳しくあれ、他人に親身であれ、ということに尽きるのではあるけれども。

最後に。地雷を踏んだ。

Visual Studio2008機能操作ガイドブック

日向 俊二 / アスキー・メディアワークス


これまで、Emacs+gdbという幸せなデバッグ環境にいたのだけれども、今回上司の薦めもあって、VS2005でデバッグ作業を行うことになった。もともとQuick CのIDEでCプログラミングを覚え、ExcelのVBEでオブジェクト+メソッドの具体的使用例を学んだ身としては、Microsoftのプログラミング環境自体には親しみを感じていた。そこでここはひとつ現代的なIDEでも覚えてやるか、という感じで、まずはオンラインヘルプを検索しまくってみた。だが、ポインタを手繰りながらのデータ確認が簡単という以上のメリットが発見できない。むしろ、gdbのuntilコマンドのように、ループ文を踏みつけながら前進するようなステップコマンドが見つからなかったりして苦労している。データのほうを小さくしろよ、というのが正論ではあるんですけど。

結局のところ、VSはもはや++が付かないCのための開発環境としてはネタが出尽くしており、オンラインヘルプでは痒いところに手が届かないということが判明した。というわけで、自分の実力を素直に鑑みて、思いっきり初心者向けの参考書を買ってみた。知らなかった小道具が少しでも見つかればいいと思っていた。が、この本、「使える」情報はすべて「知っている」情報で、「知らなかった」情報はすべて「使えない」情報だった。スペース的に見ても半分以上がダイアログの写真だったりして、文章がほとんど書かれていない。そんなものメニューをプルダウンすりゃわかるだろうよ、という感じで密度が非常に低い。わたしまけましたわ。完敗。3000円が無駄になり悲しい。

QCもVBAもオンラインヘルプだけで学べたが、個人的には2001年あたりからMSのオンラインヘルプのまとまりが悪くなったような印象がある。おそらく、機能の増大速度がヘルプ記述の増加速度を追い抜いてしまったのだろう。どしたらよかろう。懐かしいGNUワールドへ帰るしかないのか。あ、上司に聞けと。結局そこに至るよなぁ。ホウレンソウの精神。聞くは一時の恥だ。このあたりを恥じるところがロートル新人の悪いところだなぁ。

ま、楽しくいこう。
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by antonin | 2009-02-23 03:29 | Trackback(1) | Comments(0)

ある貴婦人の話

夫に随行して5ヶ月。私はこの国を気に入りつつあった。気候はやや蒸し暑いところがあるものの、住宅の近くには適度に木々が茂り、窓越しに部屋を吹き抜ける風は涼しかった。下層の民は不潔で醜い身なりをしていたが、この屋敷を取り仕切る上層階級との接し方は立場をわきまえたものであり、暴力的なところも不品行なところもなく、生活は快適だった。上層階級の人々はそれなりの教養を備えていた。その教養とは、彼らなりの文化と歴史に関するもので、その多くは奇妙なものであったが、それでもその考えのいくつかは、私に感銘を与えるようなものでさえあった。

この地の食材は豊富で、調理法もまた多様だった。口にするのも恐ろしいようなものも多かったが、それでも口に合う料理はとても上質のものだった。この屋敷の調理人は賢く、私がこの地に来るとすぐさま私の好みを覚えた。また私が飽きてしまわないように、少しずつ慣らすようにして味覚の幅を広げるという芸さえ持っていた。その頃では私は幅広いレパートリーから食事を選ぶことを楽めるようになっていたし、その中にはこの地に渡った当初に思わず吐き出してしまった料理も含まれていた。

そうした異国での生活を楽しんでいたある日、夫が旅行に出ることになった。それまで暮らしていた港湾都市を離れ、川沿いに内陸へ入った小さな郷里で当地の領主と産品の独占売買契約を結ぶのだという。そのような仕事は通常、夫の部下が取り仕切っていたが、夫はこの地へ旅することをことさら重視している様子だった。責任ある立場の人間を直接迎えることを、確かにこの地の人々は喜ぶのだけれども、どうやら理由はそれだけではない様子だった。例の調理人が、私にこっそりと告げた。かの地には、世にも珍しい食材が存するのだという。

夫は私がこの屋敷に残ることを希望したが、私は意地悪半分に、屋敷の中だけでは退屈だから旅行に同行したいと願い出た。もちろん私はこの屋敷での生活にじゅうぶん満足していたのだけれど、夫だけが世にも珍しい食材を味わうということが許せなかった。夫は、奥地には危険な病気がはびこっているから、などといろいろな理由を挙げては私をこの港湾都市に留め置こうとしたけれども、私がなんとしても譲らないということを察すると、しぶしぶ同行を認めた。このとき、私はただ単純に未知の土地への旅を楽しみにして喜んでいた。


川を遡上する船内は決して広くなかったが、気候の落ち着いた季節だったこともあり、1週間にわたる船上生活はさほど不快なものではなかった。単調な食事にはやや辟易したものの、移り行く景色は美しかった。郷里の入り口に達すると、大歓待という程ではないにせよ、温かい出迎えを受けた。その一行の中に、美しい頬と聡明そうな瞳を持った娘がいた。紀行文にも書かれていないような奇妙ないでたちの村民の中にあって、彼女の纏う服はひときわ美しかった。その色は繊細で、その布は幾重にも重ねられていた。そして驚くことに、この娘は私たちの言葉を解した。発音は褒められたものではなかったが、品の良い言葉遣いを知っていた。よく教育された娘だった。

郷里に着くと、土壁の屋敷に案内された。港湾都市の屋敷とは比べるべくもないが、それでも室内は清潔に保たれており、場所柄を考えれば優れて快適な屋敷だった。夫はすぐさま領主と契約の話に入ったが、私はただひたすらに、この場違いなほどに洗練された可憐な娘との会話に没頭した。娘の教養は田舎のものを大きく越える程度ではなかったが、しかしその生来の聡明さと、どこで身に着けたものやら、その柔らかい語り口によって、王女のような品格すら漂わせていた。そして、彼女が両親や親類に大切に育てられ、家族と兄弟姉妹をこよなく愛しているということを知った。私はこの娘が住むというただその一点だけで、この国を大いに気に入ってしまった。

そして、予定されていた4日間の滞在期間が風のように過ぎていった。川を下り街へと帰るのを翌日に控えた夜、私たちはいよいよ、世にも珍しいという、この地の名物料理を味わう手はずになっていた。私は料理のことなど忘れていたが、夫は心なしか顔を紅潮させているようだった。私はこれが最後になるかと思うとわずかな時間も惜しくなり、あの高貴な娘との会話を楽しもうとしていた。すると娘は、思いつめたような笑顔で私の目を見上げた。

もうすぐお別れね。名残惜しいわ。あなたのような立派な娘なら、どこへ出てもおかしくないわ。港の屋敷へ遊びに来ないかしら。なんなら私の国へもご招待するわ。あなたなら、きっと社交界の人気者になれるわ。私は一人でそんなことを話し続けていた。娘は思いつめたような笑顔のまま、私の話を静かに聞いていた。あなた、悲しいの? そんな顔をしないで。またすぐにでも会えるわ。私はあなたが大好きよ。そこまで聞き終えてから、娘は静かに語り始めた。その張り詰めた笑顔を、私は一生忘れることができない。

奥様。奥様とお話できましたこの日々は、とても楽しいものでございました。私の生涯でこのような幸せが訪れたことに、感謝が尽きません。そして奥様のような方のために私の生涯があったことを、大変光栄に存じます。私は両親の寵愛を一身に受けて育てられてまいりました。私には兄弟姉妹が多くありますが、その誰よりも愛されて育てられてまいりました。そして、その一身を、父と母と、兄と弟と、姉と妹と、そして郷里の皆様に、そして誰よりも、ご主人様と奥様のために捧げられることに、わが身がこの世に生まれたことの本当の意義を感じております。ありがとうございました。

娘はそう述べたのだけれど、私には何のことか理解できなかった。あなたはいったい何を言っているの? 私の間の抜けた質問に、娘は張り詰めた笑顔に困ったような表情を加えて、私にそっと語りかけた。この村で一番の調理人が、今夜私の肉を使って晩餐を供します。この国広しといえども、このような珍味を供するのはこの郷里のみにございます。娘はそう答えた。張りのある娘の頬、美しく伸びた首筋、柔らかいデコルテ、腰から膝にかけての豊満な曲線。それをこの娘自身が「肉」と呼んだ。私は次第に床が揺れるようなめまいを感じていた。視野が狭まるのを感じていた。息が苦しくなるのを感じていた。私は無意識に娘を突き放し、床に倒れこんだ。

しばらくして、娘が私を心配そうに覗き込みながら、優しく私の背をさすっていることに気付いた。悪い冗談にも程があります。そういうことを私はおそらく恐ろしい顔をして言った。娘が申し訳なさそうな顔をしているが、次第にそれが冗談などではないことに気付いた。そんな野蛮があってはいけない。私が今すぐあなたを救い出して私の養女にします。今すぐ支度をなさい。私はそうしたことを矢継ぎ早に言い立てたが、私がそう言えば言うほど、娘の表情に悲しみの色が増していった。

私の興奮が少し去ると、娘は訥々と語り始めた。私には、私と同じように育てられ、私と同じような定めを与えられた叔母がおりました。若い頃の叔母は私よりも美しく、私よりも賢く、祖父の自慢の娘でした。そしてその祖父が、国のお役人様を迎えて一世一代の宴席を開いた夜、叔母は肉となり、肉となった叔母もまた、ここ幾世で一番の逸品であるとの誉れをいただきました。そのお役人様のご配慮により私の家は豊かになり、私の郷里は豊かになりました。最も愛する娘を差し出して郷里に繁栄をもたらした祖父を、郷里の誰もが尊敬するようになりました。

私は叔母ほど優れた娘ではございませんが、私の家と、父母と、兄弟姉妹の糧となるために今日までこのように手厚く育てられてきたことを幸せに思っています。どうか、わが父の一世一代の宴席を受けていただけませんでしょうか。私の愛する父に栄誉をお授けください。そして、それが私の生きた証なのでございます。

私は気が狂いそうだった。その聡明な娘が肉になるということが信じられないのは当然として、この娘がそのことに一片の疑問を持っていないばかりか誉れさえ感じているということに、底のない闇に落とされた気分になった。私は泣きながら娘に訴えた。私の養女になりなさい。それでもあなたの家族の名誉は守られるから。しかしあなたを肉にしたら、私たちは絶対にそれを許さない。

娘は、相変わらず張り詰めた笑顔を私に向けながら答えた。私は、一粒の杏でございます。杏を食して野蛮と嘆く人がございましょうか。杏にとっての幸せは、木が枝を広げ、種が広められ、多くの芽を出すことでございます。そのために、実を食われて嘆く杏はございません。実を食わんとして木を育て増やす者があれば、それこそが本望なのです。嘆くべきは、食する者もないままに打ち捨てられる杏でございます。私は父のため家族のため郷里のため、この身を捧げるべく生まれてまいりましたが、この身を奥様のような方に召し上がっていただけるのでしたら、私はなおいっそう幸せです。どうか、悲しまずに楽しんでくださいませ。私からのお願いでございます。

私は何も言い返すことができずに泣いた。娘の境遇に泣いているのか、神のない国の惨めさに泣いているのか、私が口にしてきた料理の来しかたを思って泣いているのか、わからなかった。ただ泣き果てて、娘のもとを去り、夫に珍味による晩餐は辞退するようにと懇願した。その晩は、それまでの晩と似た食事が並べられた。領主は始終困惑した表情を見せており、夫はどことなく不満そうな顔をしていた。私は、食事がのどを通らなかった。あの娘も同席していたが、どうしてもその顔を見ることができなかった。

翌朝、夫は契約がつつがなく成立したことを再確認し、私たち夫婦は船着場へ向かった。夫は特に何も言わなかったが、わざわざこの僻地まで足を運びながら、世にも珍しい滋味を味わえなかったことへの不満が、その表情にありありと伺えた。船着場に近い小屋に、いつにも増して美しく着飾ったあの娘が見送りに来ていた。小屋の中は薄暗く、娘の表情は定かでなかったが、微動だにせず物悲しそうに見えた。私は申し訳なく思ったが、といって娘を食らう悪魔になることなどできなかった。もう涙も枯れたのか、泣くことも無く手を振りながら私は船に乗り込んだ。それきり、あの娘に会うことも、あの郷里の話を聞くことも無かった。


1年の滞在期間が終わり、私たち夫婦は帰国の途に就いた。帰国後、私は思うところあって女子修道院に通った。修道女とは直接会話を交わすことはできなかったが、修道院の院長に異国で出会った娘の話を告白し、さまざまに助言を受けた。肉食を廃し、菜食を心掛けよ、果実は人の食物として神が授けた賜物である、という訓話を受けた。しかし、あの娘が一粒の杏であると語った言葉がどうしても頭を離れなかった。私は肉食を断ったが、次第に果物も野菜も食べることができなくなった。

そしてある冬の日、私は家を捨てた。修道女になったのではない。私は乞食になった。私はとうとう、私のために命を奪われた如何なるものも口にすることができなくなった。そして、人間のために食物となりながら、飽食のために食い残されて捨てられる残飯を拾い、それを食べることで命をつなぐようになった。肉でも野菜でも、魚でも果物でも、食卓に並べられながら打ち捨てられる命が惜しいと思うようになった。人々は私が発狂したといって忌み避けるようになった。修道院長もまたその一人であった。夫からは当然に離縁された。

いったい何者が私に乞食として生きる運命を授けたのか、それはわからなかった。ただ、あの娘の柔らかい言葉と澄んだ瞳だけが、いつまでも私の心を締め付け、そしていつまでも私の心を和らげ続けた。
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by antonin | 2009-02-17 23:10 | Trackback | Comments(4)

インド洋の真珠

スリランカという国があって、昔はセイロンと呼んだらしい。独立当時の首都はたしか最大の都市であるコロンボだったと思うが、私が中学に上がる頃に「スリジャヤワルダナプラコッテ」という長たらしい名前の街に首都が移転した。「スリランカの首都はどこだか知ってます?」と、当時はまだ幼い顔をしていた後輩に聞かれた記憶がある。「ソヴィエト社会主義共和国連邦」だとか「グレートブリテンおよび北部アイルランド連合王国」といった言葉を覚えては喜んでいた頃だと思う。

そのコロンボに、一度だけ降り立ったことがある。とはいっても、ランカン・エアというスリランカのフラッグ・キャリアの機体に乗って、新婚旅行先だったモルディブに行く途中のトランジットでわずかな時間を空港の中で過ごしただけだったのだけれども。一応免税店もあるが、売っているのはあまりパッとしないセイロン紅茶ばかりだった。

モルディブも一応モルディブ共和国という国家の体裁をとっていて、比較的大きな島にマーレという首都がある。この島に隣接した島がまるごと国際空港になっていて、そこで一泊してから翌日に目的のリゾートに着くことになっていたが、その夜はシャワーのお湯が出なかった。日本からの便が到着すると、淡水に乏しい国際空港島のホテルではお湯が出なくなるらしい。

翌日水上飛行機に搭乗すると、パイロットのお兄さんもコパイロットのお姉さんも裸足で乗り込んできたりして、なかなか面白かった。機体は乗客10人+貨物といった程度の小型機で、レシプロエンジン2発に可変角の平べったいプロペラが4枚ずつ付いていた。プロペラの角度をマイナスに振ると後退ができるという便利なものだったが、こいつは上昇角度も下降角度もけっこう急で、下降時には正面に珊瑚礁の海の色が丸見えになり、最初は少し怖かった。

最初に到着したリゾートは Velidhu Island Resort というところで、やや古めの地味なリゾートだったが、よく手入れされていて過ごしやすかった。それでもタヒチのボラボラ島あたりから始まって世界中のオーシャン・リゾートに流行していた水上コテージなどはまだ出来たばかりで、ドイツ人なんかが長期逗留していた陸上のコテージに比べると清潔感があった。ちなみにエアコンはLG製だった。

新婚旅行は、当時かなり嫌気が差していた職場からの逃避行という感じもあって、たっぷり2週間の休暇を用意していたのだが、一生に何度も来ることができないということも認識していたので、ついつい貧乏性で2軒のリゾートをはしごするプランを旅行代理店に組んでもらった。

モルディブのホテルは基本的に1島1リゾートの構成になっており、島全体がひとつのホテルというような感じになっている。多少の規模の差はあってもそれぞれが孤島なので、ひとくちに「モルディブに行った」と言っても、どのリゾートに泊まったのかで全く違う体験になってしまう。そういう違いがわかったという意味では、「はしご」の価値はあったかもしれない。その最初のリゾートがVelidhuだった。

Velidhuは経営母体がスリランカのリゾートホテル企業体だった。インドにぶら下がった水滴形のスリランカは、全体がひとつの山のような勾配になっていて、その中央にはKandyという熱帯高山気候の快適なリゾート地があるらしい。そこにあったリゾートホテルから発展した企業がモルディブに進出し、Velidhuを経営するようになったらしい。

Kandyというと南国のリゾート地という以前に、インドから最初に伝播した南伝仏教の古い聖地でもあるのだという。そういう場所に出来た現地経営のホテル会社が母体ということもあって、Velidhuで働く人々は誰も親切で、笑顔がきれいだった。女性スタッフはいなかったように思う。アジアのリゾートをいくつか巡ってきたけれども、やはり仏教徒というのは日本人にとってはかなりとっつきやすい。common-senseの構成が、アメリカ人などよりもよっぽど日本人のそれに近いのだ。

マネージャはいかにもエリート然としていたが、とても親切だった。ルームキーパーもダイニングサービスも、接客担当に限らず炊事担当なども全員が親切そうな顔をしていて、普通に近所の人とするような感じで挨拶を交わすことができた。あとになって気付いた部分もあるのだけれども、こういう自然さが非常に心地よかった。

ただし、島の中だけにいるとすぐに退屈するだろう。当時はダイビングなどもやっていたので退屈するヒマもなく遊びまわっていたが、ドイツ人などは何週間滞在しているのか知らないが、とにかくペーパーバックの本ばかり読んでいた。揺れる船上でも読んでいた。しかも強烈な直射日光の下で。あの感覚はよくわからない。

5日目にあわただしくVelidhuをあとにすることになったが、このときに例のマネージャが笑いながら「他のリゾートへいらっしゃるんですか? 何かご不満でもありましたか?」と聞いてきた。いやいやとんでもない、などと適当に言い訳をすると、「次は2週間くらいご利用になってくださいね」と、嫌味のない笑顔で言った。日本人は特別裕福だからリゾートに来るというわけではなくて、この機会を逃すと2度目があるかどうかわからないのです。なんていうことは言わずに、手を振って水上飛行機に乗り込んだ。

首都マーレ観光を1日挟んで、次のリゾートへ移った。この首都マーレはスリランカ人ではなく、モルディブ固有の面白い文字を使うモルディブ人の町で、この人たちの主な宗教はイスラム教だった。首都には大きいが実用的な感じのモスクもあった。モルディブの言葉であるディベヒ語は文法的にはスリランカの言葉に近いらしいが、文字はイスラム教徒らしく、右から左へ書いていくアラビア式だった。

この手の文字を使う人にはおなじみの光景らしいが、普通の文字は右から左へと書いていくのに、算用数字だけは左から右へと書く。土産物屋でまだ新婦だったヨメがイスラム教徒もたじたじの厳しい値切り交渉を繰り広げると、土産物屋のお兄さんは苦笑いしながら帳面をつけていた。そこで初めて右左を激しく入れ替えながら文字を手書きしていく様子を目にして、これはなかなか面白いものを見ることができたな、などと思った。

店を出るときに、下っ端らしき店員が屈託のない笑顔をしながら、きれいな魚の木彫りを2個手渡してくれた。店長のお兄さんは店の奥で苦笑いしながら手を振ってくれた。この原色の魚たちは今も我が家の玄関を飾っている。

次の日に同様にして水上飛行機でブーンと飛んで入ったのは、Filitheyo Island Resort というところだった。くどいけれども、モルディブには地形的に Island Resort しかないから、「ヴェリドゥ」とか「フィリテヨ」とか言えばそれで用が済む。このFilitheyoのほうは、フランス系のホテル企業が経営しているらしく、また当時は出来たてホヤホヤの最新リゾートだったので、設備のセンスという面では最高だった。素朴な自然素材を使いながらも、都会的なハイセンス。ヨメは大喜び。

従業員はレセプションなどのオフィススタッフを除いて、ほとんどが現地モルディブの人たち。基本はイスラム教徒である。酒や肌の露出なども業務上のことなので特に気にしないが、いくら異教徒のすることとは言っても、やはり戒律違反には違いない。チップにはサービス料という以上の意味も少し含まれていて、金持ちであるはずのリゾート利用客が、身なりが立派であるとはいえ金持ちとはいえない現地スタッフに対していくらかの現金を渡すのは、アッラーの定めた当然の喜捨という感覚を持っていたのだろう。当時の私にはそうしたイスラム教に関する知識は全くなかった。

そういうcommon-senseのズレが、滞在日数が長くなるにつれて徐々に見えてくる。最初はよく訓練された笑顔で接客してくれるのだが、ヨメはヨメで出費を最小限に抑えるように訓練されているので、徐々にスタッフの表情が引きつってくる。これはVelidhuでは見られなかった現象だ。ヨメが部屋に帰ってから、こっそりとスタッフにチップを渡す。なんだか袖の下を入れているようで、これがまた日本人としては気分的に重い作業となる。そういえばフィリピンのセブでも似たようなことを経験した記憶がある。

水上コテージは美しかった。良い香りがいつも焚かれていて、日没時にテラスに出ると、遮るものもなく広がる水平線と、右手に落ちていく夕日が美しかった。食事のほうも、単調だがなかなか旨かった。沖ではマグロが釣れるらしく、ツナの入ったシーフードカレーが旨かった。ただ、日に日にVelidhuでの生活が懐かしく感じられるようになっていくのにも気付いた。

Velidhuでは島内を毎日裸足で歩いていたけれども、それでも足の裏が痛くなかったのは毎日砂をふるいにかけているからなのだというような話も思い出した。Filitheyoではそういうわけにはいかなかった。新しい珊瑚片はゴツゴツしていて、けっこう痛いのである。ダイビングスタッフは日本人女性だったが、自立した女性らしく自己管理には厳しかった。フリーダイビングのイグジット時間を書き忘れて怒られたりした。これはこっちが悪いのだけれども。

そんなわけで、日本よりもスリランカにほんのりとした郷愁を感じながら、またコロンボの味気ない国際空港でトランジットして日本へ帰ってきた。もう桜も咲いているかと思ったのに、2001年の春はまだ冷たい雨が降っていて、ああ、もうここは熱帯ではないのね、なんていうことを実感しながら快速電車の窓から首都圏の住宅街を眺めていた。
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by antonin | 2008-10-08 01:39 | Trackback | Comments(0)


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