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安敦誌


つまらない話など
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日々是反省の振り

学校なんて言う組織とはなるべく関わり合いになりたいものではないのだが、コドモたちが学校に通う年代なので、どうにもそういうわけにはいかなくなってくる。日々コドモたちは学校で問題を起こし、学校からは日々さまざまな連絡経路を通じてヨメに苦情が来る。そしてヨメは家庭で常時コドモたちを叱りつけており、そのストレスでコドモたちはさらに問題を起こすという悪循環が起こっている。そして、それを助けられないばかりか火に油を注いでいるダメ親父がいる。

社会に出て挫折するより先に学校の教師になろうというような人達は、もともとそれほど知能的ではないが本当に純朴な人たちが多いので、学校で習ったり文部省から指導されたりした教育理論に対してとても素直な場合が多い。また、自発的な教育研究に熱心な人たちもいて、そういう人達の研究成果を実地の教育に導入しようなどという意欲も高い。が、「水からの伝言」の騒ぎで明らかになったように、そういう理論というのは必ずしも真理を突いたものではない。

人間が人間の本質を本当に理解するには人生は短すぎるし、生徒たちの成長結果が見えるのにも時間がかかりすぎる。教える側も教わる側も同じ寿命を持った人間である以上、このあたりはどうしようもない。別に教師が悪いというわけではなく、教育ほど簡単そうで実は難しいこともないように思う。

ただまあ、色々と考えざるを得ない生き方をしてきた身からすると、学校の先生たちというのは教育に対して素直すぎて、しかも職場にはほとんど教師と子供たちしかいないから、ちょっと変な方向に純化が進んで大変なことになっているようにも見える。

もちろん日本の学校制度では一人の教員が30人からの子供たちを高度に統制することが要求されているから、学級崩壊を防ぐための技術論という部分が教育の素人と玄人を区別しているというのはわかる。わかるのだけれども、その軍律みたいなテクニカルな部分が、あくまで教育のための手段というのではなく、教育の目的や成果そのものだと信じているような人が実は多いのではないかという感じがある。

前から気になっていた本があって、ヨメとムスメのバトルを聞きながらついポチった本を読んでいる。

反省させると犯罪者になります (新潮新書)

岡本 茂樹/新潮社

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似たような意見の本を過去に読んだこともあって、そして自分の経験から見ても、本書の内容は非常に納得できる。大変ストレートに正しいことが書かれていると思うが、それは世間の常識とは全く違う。そしてそのあたりの、世間の常識に対する違和感を表明する人も世の中には多いけれども、かといって自分たちの常識そのものが間違っているとまでは気づいていない。私もそのうちの一人だった。本書の冒頭部を読んで、違和感の実体が理解できた。その対策のほうは後半に書かれているようだ。

新潮新書は電子書籍対応が進んでいて、この本もKindle化されているのだけれど、我が家にはこのKindleデータを物理的にシェアする手段がないので、今回は紙書籍のほうを購入した。いずれは周囲の人にも読んでもらいたいと思う。ただ、読む側に心理的な拒否感がある状態で読まれると、意見のある書籍というのは逆効果になる。なので、事前にある程度意見を受容してもらった上で読んでもらう必要がある。単なる文字の羅列である書籍には、自分の代わりに誰かを説得してくれるほどの力はない。映画ようなメディアならもう少し心理的な強制力があるけれども。

江戸時代の寺子屋教育では、徳川幕府の寺社改革によって生臭坊主が増えていたとはいえ、それでもまだ平安仏教や鎌倉仏教の余韻が濃く、テキストが儒学系のものをベースとしているといっても、子供たちへの教育というのはそれほど強迫的ではなかったように見える。ところが、軍人教育を児童教育に応用したシステマティックな国民教育によって、貧乏国からヨーロッパの列強の一角にのし上がったプロイセンを師と仰いでいた、かつての明治政府が作った学校教育制度は、占領軍による教育内容の改革を経験した現在も、構造としてはほぼそのままの姿を残している。

貴族も平民も、男も女も区別なく普通教育を受けるという社会主義的な近代教育が普及していく中で、その軍隊教育的な技法も当たり前のものとして全国民に遍く浸透していく。すると、映画に出てくる軍隊の女教官のようなお母さんが増えていく。そういう性質の人は昔の「武家の娘」にも当然いただろうし、今でも軍隊方式に染まりきらない女性も当然いるだろう。だとしても、その比率というのは、学校制度の普及と、普及してからの年月に応じて、相当に変化してきているだろう。

「フルメタル・ジャケット」ではないけれども、そういう海兵隊的な「強い組織」は、実は国家のようなものには必要不可欠なものなのだろうと思う。一方で、国民の大多数が「海兵隊上がり」というような、古代スパルタのような国家も、極端が過ぎていずれ滅びてしまうように思う。

客観的にはそのように思うし、ここでもそんなことばかり書いているが、自分もしばしば「ハートマン化」することがあって、実際のところ、あんまり偉そうに言えた義理でもない。現代日本人として生きる「軍隊暮らし」の中で、自分だけ超然としていられるほど郷士的な強かさが自分にあるわけでもない。

自分では仏教云々を語ることも多いし、閻魔信仰と地蔵信仰が実は表裏だったことを知って、昔の人々の洞察力の豊かさに改めて感心したりはしたけれども、自分はまともに修業を積んだ身ではなく、ときおり気が向いたときに不動明王の真言と光明真言を無声で唱えている程度でしかない。その場限りでは確かに効果があるのだけれども、語義が変わる前の意味での「念力」が持てるほどの修業はできていない。現代社会で一人「修行者」のように振る舞えるほどの覚悟ができていない。ここでいう「覚悟」は現代語義のほう。

昔の人にできていて、今の人にできていないことに気付くと嘆きたくなるのだけれど、その代わりとして得たものもまた甚大だということは理解できるので、現代批判みたいなものも徹底できない。その点、上に挙げた本の著者の方や、ここではすっかり放置状態になっているリンク先にある、「断想」の方なども、大変勇気があり素晴らしいと思う。コドモたちの親としての私自身のあり方は、実に参ったなぁというような体なのだけれども、コドモたちの将来のことがあるので、ダメ親父なりに頑張らないといけない。まあ、ここで反省しちゃいかんのだけれども。

「懲役」と「担当さん」の365日 ―刑務所心理職員の見た異次元世界―

小澤 禧一/文芸社

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文庫 お母さんはしつけをしないで (草思社文庫)

長谷川博一/草思社

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by antonin | 2014-05-25 02:02 | Trackback | Comments(0)

「簡単なこと」ほど難しいことはない

簡単なこと、というのは、世の中にたくさんある。息を吸うとか、指を曲げるとか、10まで数えるとか。あるいは、朝の15分で1日の仕事の段取りをつけるとか、割り込み仕事が入った時に、その優先順位を考えるとか。そういうのは「たいして難しくないこと」で、もしもそういうことができないのだとしたら、一時的な病気か、あるいは単にスキルを学んでいないから、と思われる。

が、意外とそうでもない場合がある。ある種の先天的な形質であるとか、体の一部の不可逆的な損傷などによって、そういう「簡単なこと」ができない人がいる。そして、それが全くできないのだとか、できない理由が傍目に明らかな場合には、まだ救いがある。が、意外とそうでもない場合が多い。中途半端にはできてしまうのだが、ひどい苦労が伴う、だとか、内部的には理由があるのだが、外部からその理由を知ることができない、などの事情で。

そういう場合、できないことが「簡単なこと」であればあるほど、それができる人にはあまりに自然で簡単に感じてしまうため、なぜできないのか、あるいはできないなんてことがあるということそれ自体が、なかなか理解できない。そして、そういう簡単なことができない当人にとっても、その理由の本当のところが理解できていなかったりする。

そういうことを、現代社会は人間生活の「標準(standard)」として多々組み込んでいる。その標準から外れる人、特に、全く疑いの余地なく外れる人ではなく、ぎりぎりこぼれ落ちる間際で踏ん張っている人にとって、「どうしてそんな簡単なことも出来ないのか」という常識的な感覚は、非常に大きな苦痛になる。

そういう、標準の縁にいる個体を遺伝的にふるい落とすことで遺伝的平均値を高め、より高度な能力を身につけるというのが進化論の根本原理でもあり、また人間がこんな高度な生物になった原動力でもある。だから、人類の進歩のためにはそういう劣った個体を優遇する理由などないのだが、どんなに汚い技を使ってでも生き残る生存競争をするのが生物の定めでもあるので、際にいる個体も、なんとか理由を見つけて自分を生き残らせる戦術を使わなくてはならない。

「悪平等」と言われる思想や制度は、そういう際にいる人間たちによる巧妙な生存戦術が昇華したものであるようにも思える。社会システムのパフォーマンスに悪影響を与える平等は、標準個体にとっては全くの害悪に見えるが、辺縁個体にとっては自己の生存可能性を高める支柱でもある。簡単なことが難しいということを、「じゃあ生きるのやめれば?」と言われずに、標準個体たちの矜持あるいは美的感覚に訴えて理解させていくということが、辺縁個体にとっては必須の生存戦術になる。

難しく、そして卑賤なことでもあるが、そうでもして生き残らなければ絶滅するだけであって、そうである以上はそれをしなければならないというのが生命の掟でもある。その辺りの汚さを理解して受け入れていくのが老成ということで、嫌なことではあるけれども、死なずに無事老成できた辺縁個体が引き受けるべき運命でもあるのだろうという気はする。

片づけられない女たち

サリ ソルデン / WAVE出版


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by antonin | 2013-03-04 03:52 | Trackback | Comments(0)

無題

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by antonin | 2011-10-31 22:05 | Trackback | Comments(0)

七五三

ムスコ1号の七五三のお参りに亀戸天神まで行ってきた。

近所の写真スタジオで貸衣装を着つけてもらい天神様に着くと、やはり七五三の参拝客が大勢押しかけていた。門内の池に縁起物の鯉を放流するという特別イベントも行われており、我が家も500円払って鯉を一匹放流してきた。ちょろい商売ではあるが、こういうモノには乗っておくものである。

写真もたくさん撮ってみたが、ムスコ1号はムスメ同様写真に写るのがあまり好きではなく、芸達者な写真屋さんの手にかかれば何とか笑うが、親が撮影しても下を向くか、あるいは引きつった笑いをする程度という具合になる。

参拝後に近所のレストランに行って食事にしようとするが、ここもやはり大混雑。予約待ち14組という状況になっている。と、ここで、貸衣装の小道具である懐刀入れが無くなっていることに気づき、急遽天神様まで引き返す。さすがに神様の前だけあって、懐刀入れは落とし物として届けられていたので一安心。

ようやく引き返してレストランに着くと、まだ順番が回ってきていない。ムスコ1号2号ともに車の中で昼寝に入ってしまい、ヨメとムスメが待ち行列に加わったが、3時近くになってようやく店内へ。私はムスコ1号2号のお守りで車内に残った。その間、コンビニで買った100円おにぎりをレストランの駐車場で食べるという、かなり倒錯した行為をしていた。その後、ムスコ1号2号が目を覚ましたので、ヨメに連れられて店内へ入っていった。私はそのまま駐車場で待っていた。

その後、写真スタジオへ貸衣装を返しに寄る。その間もコドモたち3人の無作法にキレかけながらも、なんとか無事にイベント終了。

夜になってそろそろ寝るかという頃になって、ママに怒られたからパパのところに行くと言ってムスコ2号がやってきた。ムスコ1号も貯金箱に入った1円玉を自慢しにやってきた。このくらいの子供というのは可愛くてしかたがないのだが、一方で早く育ってどこへなりとも巣立ってくれとも思うので、父親というのは身勝手なものだ。

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by antonin | 2010-11-15 02:32 | Trackback | Comments(0)

猫可愛がり

身近にもネット上にも、猫好きの人というのは少なくないのだが、その誰も彼もが、猫を文字通りに「猫可愛がり」しているのが面白い。個人的には猫というのは適切な間合いを取らないと引っ掻かれるという印象しかなく、見た目がぬいぐるみのようでかわいいという以上の感情がない。

一度だけ、ヨメの家で17年間飼われていた雑種犬の最期の一年を共に過ごし、臨終を看取った経験などもあって、犬に関しては知らず知らず人間との間の物語のようなものが想像できてしまう。個人的に猫に対してはそういう物語性がなく、ただ生活領域をシェアしているという印象しかない。なので、よその猫の写真などを見せられても、愛着のないぬいぐるみの写真を見せられている程度の気分しか湧かない。

ところがこの感覚というのは、特に子供好きでない人が、よその子供の写真を見せられた時の気分に似ているらしい。私のように年賀状などでよその子供の成長が見られるのが楽しくて仕方がないという人間には、この気分がなかなか実感できなかったのだが、そうか、猫の写真を見せられた時の気分がそれなのかと思い、ようやくその正体がわかった気がする。

我が家には3人のコドモがおり、日頃は勉強や習い事や家事手伝いのあれやこれやについて細かいお小言を受け続けて反発も強いのだけれど、食事のあとに私が床に座っていると、ムスメやムスコ1号2号が胡座を組んでいる足の上に乗ってくる。そしてそのまま食後のお菓子を食べたりテレビの子供番組を見たりしている。場合によっては肩車の位置を取り合ってムスメとムスコ1号が背後から体重を掛けて頭の方へよじ登ってきたりもする。猫とは体重が比較にならないので、こちらもかなり体力を使う。

こうなると私は全く身動きが取れなくなるのだが、単に遊び場の取り合いとはいえ、コドモたちが競ってこちらの体の上に寄り集まってくる状況というのは、恐らく今頃だけの幸せなのだろうとも思う。コドモたちが飽きるまで遊び相手をして、疲れて寝るのを見届けて散会というのも週末には多い。コドモたちが大きくなってから振り返ると、あの頃が一番楽しかったというような回想をするのかもしれない。

親の与える教育で見た我が家のレベルはCランク程度だろうが、コドモも3人集まれば社会ができるので、その小さな社会の中で、大人が与える教育だけでは得られない対人経験が残れば儲け物だろうと思っている。先天的資質や物心つくまでの教育などは、あまり自信を持ってしっかりとしたものを与えたとは思えないが、家に帰れば自分だけの世界に戻らざるを得なかった私の一人っ子時代に比べれば、家の中で年齢の違うきょうだい同士の遊びや喧嘩ができる我が家のコドモたちは、その体験から多くを学んでいるだろう。

日本では、もはや子持ちの方がマイノリティになりつつあるらしいのだけれど、あまり遠慮せずにコドモを可愛がっていきたい。最低限の躾だけしておけば、あまり外野の意見に右往左往する必要もなさそうだということを、猫好きの人達から学べたように思う。

イソップ物語 ろばをかついだ親子
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by antonin | 2010-07-12 14:00 | Trackback | Comments(0)

名前の話

ローマ法王あたりに「インノケンティウス」という名前があったような記憶があるが、ラテン語の意味を直接に読み取ると「けがれの無い」「無垢の」というような形容詞になるのだという。「罪を犯していない」というような意味でもあり、神の子の罪の中には、仏教用語で言うところの「女犯(にょぼん)」というものもあって、法王インノケンティウスは当然にそうした罪からも潔白なのであって、あからさまに言ってしまうと(良い意味で)童貞であるというような意味もあったらしい。

田中さんという名前に「田んぼの中」という意味を日本人が読み取らないのと同じように、固有名詞というのは意味がありつつも意味が意味を持たないという少し変わったところがある。だからインノケンティウスさんが穢れているかどうかなどということにそれほどの意味はないのだけれども、やはりそうした名前が誕生した最初にはいくらか意味があったのだろうし、そういうものを考えてみるのも面白い。Brownさんは髪の色、Smithさんは職業あたりが由来らしく、そういう名前がそのままの意味を持っていた時代を想像してみると、なんだか和やかな気分になる。

ウルバヌスという法王もいて、ラテン語でUrbanusとなるのだけれど、現代英語のUrbanという単語とほぼ同じような意味のUrbsという名詞に由来があるらしい。つまり「都市」とか「都会」とかいう意味で、もともとUrbanusといえば、一族の中でも都会生まれの男だったのだろう。都会では都会生まれが固有名詞的な意味を持つはずもないから、おそらくはローマから地方の属州長官か、あるいはもっと下級の役人として赴任した一家の一部が土着した際に与えられた名前なのではないか。よくよくラテン語の資料などをひっくり返せば、あるいは本当にそういう記録が得られるのかもしれないが、まぁここは想像で構わないだろう。

日本でも鈴木さんは本来「すすき」に由来があるとか、その「すすき」とは今でいうススキではなく、実った稲穂の名称だったとか、そういう話を読んだことがある。稲の収穫後に、その中から特にみのり具合の優れた稲穂を選りすぐって神前に供え、それを食べずに保存して翌年の種籾にしたらしいから、そういう儀式を執り行った神官の一族が鈴木を名乗り、特に鈴木さんは気前が良かったので自分の苗字を多くの人に名乗らせることを許し、結果として鈴木姓は日本に多くなったのだという話もあった。

同じように稲作にまつわる儀式を執り行う一族に由来する苗字に、神前に稲穂を積む穂積さんであるとか、そういう特別な稲だけを育てた、現代的にいうなら農業試験の専門家一族であった神田さんとか、そういう名前があるらしい。鈴木さんと対照的に織田さんは直系一族以外に同名を許さず、傍系諸家は「小田」を名乗ったという話も知っているが、どの程度信憑性のある話なのだろうか。単に小さい田んぼしか持たなかったのが全国の小田さんで、その中から豪族に成り上がった家系が織田を名乗ったのかもしれない。

我が家の親戚に「通」の字を用いて「みち」と読ませる名前を持っている者が何名かあるのだけれど、それはおそらく明治期に流通した氏族研究の本を買った曾祖父が、同姓の地方豪族の家系に特有な「通」の字を見付けて自分の孫達に名付けてみたくなったのだろうと思われる。ちなみに祖父たち兄弟は当時流行の一字名を付けられているので、その家系本は祖父たちの代には間に合わなかったようである。

次男である父の名前は祖父の名前とも関係なく、通の字も付けられず、当時流行の昭和の和の字を与えられている。私は父の「和」ではない方の文字を一字もらった。私は当然自分の子供にもこの字を付けたいと思ったが、「子供たちには(あなたと違って)明るく元気なこに育ってもらいたいから」という願いを込めて、ヨメは私と無関係で字画も違った名前を選んだ。

そうやって命名したムスコ1号の名前は、戦時中に人気のあった、当時の政府スローガンから一字いただいた漢字を使い、しかも最近流行のちょっと画数の多い漢字と組み合わせ、なおかつあまり奇抜な読みにならないように、細心の注意を払って命名した。しかし、手書きの出生届を役所に持っていくと、誤字を指摘されるという失態を演じてしまった。まったくもって無教養なバカ親丸出しであった。

ムスコ2号には頭の良くなりそうな名前を付けてみたが、本人の性格は良いものの、本当に頭が良いかどうかは定かではない。将来的に学校の成績が悪い場合、名前が皮肉っぽくなってしまうのは困りものなので、せいぜい勉強に励んでもらおう。
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ムダ知識系のネタにしようと思ったのに、親バカというかバカ親系の話になってしまった。連休あとというのはこういう事態になりがちである。
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by antonin | 2010-05-10 12:11 | Trackback | Comments(4)

身辺雑記

連休中は日中からコドモたちの相手をしなくてはならないので体力を使う。ところが今回はムスコ2号が保育園からもらってきたウィルス性胃腸炎が家庭内で流行してしまい、嘔吐やら下痢やら微熱やらが逐次多発して、違った意味で体力を消耗してしまった。病院へ行くほどの重症ではないのだけれど、レジャーを楽しむどころではなかった。

新しく買ったカメラを近所の公園に持ち出して、いろいろと公園内の風景を撮影して遊んだりしたのだけれど、そちらの詳細はまた別記事ということで。中から一枚だけムスメの写真を抜き出しておこう。5年前にはこんなだったのが、ずいぶんと大きくなりました。もうバタフライで25m泳げるらしい。

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近所の子供が金魚すくいをしたものの飼い切れないということで、我が家に貰われてきた。2日ほどは水の底でじっと息だけをしていたが、その後は元気に動きまわるようになって、餌も少しずつ食べるようになった。3匹のストレートな和金だが、1匹は尾びれにケガをしていて、回復にはしばらく掛かるだろう。

今年は西に置いたプランターのバラが、液肥を増やした効果があっていつもより多めのつぼみを付けていて楽しみだ。写真などは撮っていないが、今年は球根から育てたチューリップもたくさん咲いたし、落ちた種から勝手に発芽した金魚草やノースポールなども花を咲かせている。

今年はバジルがまだ発芽しないが、もう少し安定して気温の高い日が続くと発芽するだろう。こまめに水を撒くようにしよう。それから日日草もそろそろ発芽して欲しい。この冬は越冬に失敗して3年株を枯らしてしまったので、その鉢に少しずつ種を蒔いているが、まだ発芽しない。

そんな具合で、半径10km程度の黄金週間。
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by antonin | 2010-05-04 00:53 | Trackback | Comments(2)

vital sign

クリスマス・イヴ。

ムスメは7歳、微妙な年齢。「サンタはいないよ」だとか、「サンタさんはパパだよね」だとか、友達に吹き込まれたらしい情報を元にしきりに鎌をかけてくるが、やはり期待は大きいらしく、例年クリスマスの朝にプレゼントが置かれることになっているベランダに吊るすべく、サンタさん向けのメッセージカードを急ぎ作成したりしていた。プレゼントもらえるといいね。

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近所の商店街の花壇に植わっていた日々草がまだ元気に咲いていた頃、花かげを物色し、種をいくつか集めてきた。株を引き抜いたりしたら窃盗罪だが、種くらいならまぁいいでしょ。ダメかな。

10月のはじめ頃に種を蒔いて、ほどほどに成長したところで冬越しをして、春になって暖かくなったら花が咲くというような段取りを考えていた。5つほど発芽したが、生長したのは2株のみ。発育具合は予想通りだったのだけれども、12月に入ってしばらく暖かい日が続き、路地のツツジが狂い咲きするような天候の影響を受けて、この小さい日々草も花が咲いてしまった。どのみち2月ごろになれば花は咲かなくなると思うが、花の色は春までお楽しみにと思っていたので、ちょっと拍子抜けになってしまった。

でもまぁ、今年で3年目になる日々草の古株とは違う色の花が咲いたので、そのあたりは運が良かった。日々草は多年草です。というより、常夏の国から来た植物なので季節感が無いんです。最低気温が10度を下回らないような環境に置いてやれば、冬を越して5月くらいから元気に咲き出します。
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by antonin | 2009-12-24 22:11 | Trackback | Comments(13)

バカ親日記

最近、このブログが身内に知られてしまったので、本音が書けない。親バカ写真でも貼っておこう。

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かつて「石川遼くんに似てる」と言われたこともあるムスコ2号だが、
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最近では小沢一郎さんに似てきたような気がする。
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ちなみに福耳です。
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by antonin | 2009-08-06 23:35 | Trackback | Comments(4)

女性専用車両に乗ってみた

会社をサボって、ムスコ1号を連れて上野動物園に行ってきた。

まだ電車が混む時間帯だったので、すいている先頭車両に行ったら女性専用車両だった。ムスコ1号がいるので、とりあえずシルバーシートと同じ感覚で乗ってみることにした。

想像していたより混んでいたが、別にどうということはなかった。これからは育児男女共同参画の時代なので、この程度のことは普通になっていくだろう。
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by antonin | 2009-05-20 23:11 | Trackback | Comments(0)


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