安敦誌


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音楽の言語性

アナと雪の女王の劇中歌がえらい流行して、やれ和訳が原詩のニュアンスと違うなんていう批判があったが、それは悪いというより優れた翻訳であるという証明だろうと思う。商業音楽というのは世につれ人につれ、時代の空気に寄り添う義務というものがあって、歌詞が翻訳されたら、そこに込められた感情も微妙に入れ替えられるべきだろうと思う。そもそも、翻訳というのはそういうものなのだろうと思う。本当に原文の意味を守ろうとすると、単語は基本的に音訳中心になり、意味の通じない部分は岩波文庫のように別途詳細な解説が必要になる。

翻訳というのは、原文のリズムを守ろうとすれば、ある程度意味を翻してやる必要がある。しかも、音楽という強力なリズムの縛りがある歌詞の翻訳ではそれがなおさら重要で、しかも映像が付くとなると、キャラクターが口を大きく開けているタイミングで「ん~」などという詩を当てることも許されなくなる。しかも商業的な成功のために、日本の文化的な背景にも寄り添う必要がある。そして、そういう難しい制約を高度に乗り越えた翻訳に成功したからこそ、あの曲はヒットしたのだろう。

そういう要素はあるとして、あの「ありのままで」のヒットには、曲そのものの要素も大きかったんじゃないかという気がしている。最近の日本のポップスはあまり大ヒットがなくなっているが、その要因の小さくない部分が、ポップスの「本格化」にあると思っていた。そして、「ありのままで」の曲構成というのが、あまり「本格的」でないという特徴があった。

25か国語で聴く "Let it go" という映像があって面白かったが、あれを聴くと、北京語バージョンが一番本格的なポップスの曲調で歌われていて、日本語版が世界一エキゾチックな発音で歌われている。そういうのが好きなネット上の人たちに kawaii とか言われていたのだが、実は「原曲」に当たる英語版そのものが、かなりエキゾチックな音で歌われているのに気付く。そもそもあの話は北欧民話を土台にしていて、それは歴史音痴で地理音痴なアメリカ市民でもさすがに理解可能なように作られている。そして、その北欧の、特にサーメの土地に根差した民族的な舞台の印象を作るのに、「アナと雪の女王」で使われる音楽も一役買っている。

『アナと雪の女王』25か国語版ミュージック・クリップ - YouTube

サーメ、英語でいう Finnish の人々というのは、血統でいえばかなり純血に近いゲルマン人が多いけれども、文化的にはフン族と呼ばれたアジア出身の民族文化が残っている。言語的にも、母音が多い音節言語に近い音を使うらしい。あの映画の音楽が少しでもフィンランド風なのかどうかはあまり自信がないけれども、「アメリカ人にはそう聞こえる」ような味付けはされているだろう。そして、あの映画はミュージカル風にできている。このミュージカルというのは、アメリカのポップスとは別の先祖を持っていて、そのあたりもこのミュージカルアニメの音楽後世にある種の影響を与えているように思う。

ヨーロッパから新大陸に渡った人たちが独立戦争を起こして新国家を建設したけれども、この新しい国は旧世界に比べて文化資本的に貧しいということを、産業資本を積み上げて新しい貴族階級に至った人たちがかなり気にしている時代があって、当時ロンドンで人気のあったドヴォルザークがジャネット・サーバー夫人に招聘されてナショナル音楽院の院長に就いたのにもそういう事情があった。

そのドヴォルザークがインディアン、今でいうネイティブ・アメリカンたちや、黒人たちの音楽に目をつけ、交響曲第9番ホ短調「新世界」の中にも日本のヨナ抜きにも似たペンタトニックだとか、シンコペーション、いわゆる裏拍などを取り込んでいた。こういうのが白人ジャズの歴史にいくらか影響しているらしい。そして、ジャズの影響からちょっと距離を置いたところから、ロックが出てくる。このロックというのが、アメリカ合衆国の政治的軍事的な覇権とともに、20世紀後半世界の音楽を規定していく。

同じ時代、日本の音楽というのはどちらかというと追いつけ追い越せの文化の渦中にあって、アメリカやイギリスの音楽を日本人にも理解できる程度にやわらげて「翻訳」するのが仕事、というようなところがあった。古くは大正時代のワルツあたりからこうした「なんとなく英語っぽい発音」による楽曲というのが売れていたらしいが、大ヒットレベルになったのはサザンオールスターズあたりからなんじゃないかと思う。個人的にはあの発音が大嫌いだったが、桑田佳祐さんが紫綬褒章を受章するに至って、時代も変わったものだと思った。

そして、その流れというのはマドンナ・クローンの浜崎あゆみさんあたりを経て、アメリカ育ちの宇多田ヒカルさんのあたりで完成を見たのだと思う。ラジオから流れてくる黒人ラップはかっこいいのに、翻訳された「だよねー」を聴いて脱力した時代もあったが、最近の日本語ラップはよくこなれていて良いと思う。良いのだが、難しくなったという気はする。ラジオで聞いて、カラオケなどでおいそれと物まねできる水準のものではなくなってきたように思う。

19世紀後半から20世紀のアメリカ音楽というのは、クラシックの呪縛から英語を話すアメリカ人のための音楽を創造する戦いの歴史みたいなところがあって、アメリカ合衆国という統治システムが爛熟した現代のアメリカ音楽もまた、アメリカ英語で歌うための最適化が完成した音楽になっている。そして、ある程度国際化を果たした日本の商業音楽もまた、かなり本格的にアメリカ音楽を再現できるようになったのだが、どうもこの音楽というのが21世紀初頭の日本国民からは遠いところまで行ってしまったような気がしていた。

日本人に歌いやすい音楽というのは当然日本語の歌であり、日本語で歌を歌う以上は、子音で終わる閉音節というのは出てこない。どちらかというと、「朗々と」という形容が似合うような、長い母音を複雑な節回しで修飾しながら引っ張っていくような音楽のほうが歌いやすい。歌会始で「歌われる」和歌のように、子音はほどほどに、美しく母音を引き回すのが日本語の音楽というものになる。

ところが、長い戦後を終えて日本の商業音楽界が到達した音楽文化は、ゲルマン語族であるアメリカ英語に極度に最適化された音楽に極めて近いものになっている。そして、あまり英語が得意ではない日本の一般市民は、そのゲルマン的な音楽についていけなくなってきている。そこへ、「ありのままで」が大ヒットした。要は、歌いやすいのだろうと思う。

"Let it go" というのは、20世紀のアメリカがクラシックの呪縛を踏み越えようとする過程で生まれた、ミュージカルの音楽をベースにしてる。ミュージカルという演劇は当然オペラを源流としていて、その音楽劇を現代アメリカ風にアレンジしたものになっている。そして、アメリカがオペラを輸入した時代の旧大陸のオペラ文化というと、ヴァグナーかロッシーニか、そのあたりということになるのだろう。

ヴァグナーはドイツの人なので、それまでのオペラから少し離れたところで曲を作るようになり、弦楽合奏が細かいリズムを刻みながら和音を彩るというような新しい技法を導入したけれども、それでもこの人はベートーヴェンをひどく尊敬していて、あの歓喜の歌のような、古い時代のライン流域の歌謡もまた愛していて、比較的母音を朗々と引くタイプのメロディーに抵抗がなかったようだ。

そして、そういうオペラの源流はというと、やはりバロック時代のイタリアにある。モーツァルトはフランス風の絢爛豪華な器楽編曲とイタリア風の愉快なオペラをミックスして、ドイツ語の脚本でオペラを作曲したが、それでもまだ時代的な制約からは自由ではなくて、基本的な構成というのはゲルマン独自のものではなくてイタリア風の旋律にあった。

イタリアオペラというのは、もちろんイタリア語で歌われるもので、イタリア語というのは地中海語族の母音豊かな言語である。物語の山場では、歌手は母音を朗々と歌い上げる。悲劇でも、感情的なアリアは豊かな母音で歌われる。あの極端に技巧的なオペラの発声というのは苦手だが、それでもイタリアオペラの旋律というのは美しく感じる。その美しく感じる理由はもちろん器楽にも声楽にも合うメロディーにあると思うのだが、母音の豊かなイタリア語と、同じく5つの母音に深く依存した現代日本語の類似性にもあるような気がしている。

イタリア語と日本語の母音構成が似ている理由が、明治期の「ローマ字」の輸入にあるのか、あるいは有史以前のユーラシア文化に源流があるのか、はたまた単なる偶然なのか、そのあたりはわからない。けれども、イタリア語と日本語の音は、アメリカ英語などに比べればかなり似ていると言える。濃音や激音があり閉音節も持つ朝鮮語などより、音だけならよほど近い。ギリシア語にもこの傾向があって、古代エジプトの言語もそうした音節言語として解釈できるらしい。ポリネシアの言語ではこの母音依存の傾向はより極端になる。なので、個人的にこういう母音の豊富な言語を海洋言語と呼んでいるのだが、海上生活が母音を要請して、森林もしくは雪国での生活が子音を要請したのかという、そういう言語発生上の合理性があるのかどうかというところまではわからない。

ともかく、ヨーロッパ音楽の源流にはラテン帝国の公用語であったラテン語のなれの果てであるイタリア語があって、その影響というのは結構現代の近くにまで及んでいたのだろうと思っている。そして現代アメリカはその呪縛をほぼ完全に振り切っていているのだが、その着地点というのは、日本人にはむしろ馴染みにくい音になってしまっている。イタリア崩れくらいの音楽のほうが日本人には合っている。そこに、南欧風の明るい長調ではなくて、ケルト系やスラヴ系の短調含みの曲調が乗ると、さらに性に合うように思うが、そこまで行くとやや古臭かったり田舎くさくなったりするので、加減は難しいだろう。

そして、バルト海や北海に面したサーメの土地を主題とした、ミュージカルの系統を持つ音楽として "Let it go" は作曲された。そして、そこに臆面もなく日本語らしい歌詞が乗せられた結果、「ありのままで」は大ヒットした。まあ、この曲も細かい部分は英語に最適化した最近のリズムを持ってはいると思うけれども、その部分が古臭さを排除するのに役立っていると思うし、肝心な部分での母音の引張りを引き立てているようにも思う。歌っている人が歌舞伎役者の家系に生まれた女性というのは偶然の部分が大きいだろうが、同時に発表された「本格的」バージョンのほう(エンディング・バージョン)がそれほどヒットしていないところを見ると、この見立ても悪くないのではないかと思う。

あの大国であるアメリカはアメリカで、本質的に異国文化である歴史的な音楽文化の受容に苦労していたのだとするといくらか面白いし、そこに迎合した末に反旗を翻しているような日本のポピュラーミュージックの流れもまた面白い。世代文化というのは親世代の文化への反発と受容を一生かけてやっていくようなところがあって、その縞模様のようなものを眺めるのは、少しだけ呆れるようなところもあるけれども、まあ面白い。

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by antonin | 2014-12-07 17:24 | Trackback | Comments(0)

親父の戯言

面白い話がなきゃ、書かなきゃいいのに。とは思うが、今日も惰性で。

--

日本のITが弱いの、結局は単に英語力かもしれない。

昔々、クヌース御大が文芸的プログラミングとか言い出して、UMLなんかに邪魔されつつも、テスト駆動開発なんかに助けられながら「唯一にして最高のドキュメントとしてのソースコード」という文化は現実のものとして根付きつつある。ただ、ソースコードが文芸的になるにつれて、その自然言語としての文芸性が求められるようになり、ちょっとした意味合い的な含み、具体的な動作に関する予見、似たような他の処理との区別、などを過不足なく適切かつ簡潔に、変数名なり処理名なりクラス名なりとして言い表す言語表現能力が、優れたコーディングのための素養になってきている。この面、日本の技術者は依然ダメダメで、現場では "All your base are belong to us" みたいなソースコードが横溢している。

CというのはPascalなんかに比べるとかなり記号主義で、英文への依存は少ない。とはいえ、結局は if を使っていたり for を使っていたり、しかもそれらが論理式や処理ブロックの手前に来ていたりして、英文の語順を暗黙の裡に仮定している。別に今のコンパイラならクラス名や変数名をUnicodeの基本多言語面で書いたって破綻はしないはずだが、if がある限りC言語は構文として日本語にはなりえない。JavaでもC#でもこの点は一緒だ。C系言語ほど記号的でない言語なら、この傾向はより一層顕著になる。

識別子を文芸的に記述できない人に限って、英文和訳書のコーディングプラクティスを信奉してコメントを嫌ったりするが、わけのわからん英語っぽい何かで書かれた変数名の意味を読み取るための最後の砦が、母語で書かれたコメントだったりするので、よほど卓越した英作文能力がない限り、コメントなら母語の語彙と文法で直接記述できるという利点を生かしてほしいと思う。奇妙な変数名を見て混乱してから定義文を検索し、ああ、そういう意味だったのかと納得することは多い。それをまともな英文法で書き換えたところで、和製英語っぽい表現じゃないと意味を読み取れない技術者も多数いる現状では、自然な英文法にのっとった命名がより "readable" とは言えないという現実もある。

こういう「言語」を使ってプログラミングしている限り、ソースコードに表現可能なロジックの複雑性や抽象度の上限というのは、英文という自然言語の表現能力によってやんわりと規定されてくる。日本から高度なIT技術が生まれない背景には、明示的に許可されていること以外は原則禁止という官僚国家主義も当然あるけれども、それ以外にプログラミングが英作文の一種であるということが案外に意識されていないということもあるのかもしれない。

ソースコードだけではなく、物理的なシステムの構造というのも言語的にその意味合いを記述する必要があって、案外に名前が機能を規定したりする。名前を付けると語彙として会話に乗せることができるようになるのだが、命名がアレだと機能検討も気付かないうちに明後日の方向に向いていたりする。日本語だと用語定義が統一されているのに、システムに実装された用語だと銘々が思い思いに英訳した用語になっていてバラけているというのもよくある話だ。

英語が国際語として普及した以後も、聖書研究には相変わらず西のテキストを読むためのラテン語と東のテキストを読むためのギリシア語が必須だったのに似て、いくら機械翻訳が普及しても、ソースコードを自ら書き下す階級の人々にはしばらく英語の素養が必須であり続けるだろう。

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生産性って言葉の使われ方がよくわからない。ドイツのお店がなぜ生産性が高いのか、という話がある。それは、5時過ぎると一斉に店を閉めるからだそうだ。そうするとお客さんは必要な買い物を5時までに済ませないといけないので、お店としては開店時間中の単位時間当たりの売り上げが高い、つまり生産性の高い状態を維持することができる。これを、機会損失がどうだこうだといって24時間営業にしてしまうと、お客としては自由度が高まり利便性が増すが、買い物はいつでも良くなるもののそれにより購入量が増えたりはしないので、お店は営業時間だけが伸びて売り上げは伸びず、単位時間当たりの生産性が落ちるという。

そんなことじゃ競争に勝てないよ、社会が進歩しないよ、という話はあろうとは思うが、人間の体が寝ないで済むような進歩をしていない以上、無用な利便性のために労働生産性を落とすのはどうなんだろう、と思う。機械が24時間動くのはいいと思うけど、銀行の決済システムの中にはまだ夜寝ないとバッチが走らず破綻する奴がいる。通貨という重要なものを扱っているから、簡単にはリプレースできないのだという。どんなもんなんだろう。

価値創造によってぼろ儲けする人が出るのは別に構わないのだけれど、平均的生活水準が低い国で高い水準の教育を受けた人が出るようになって、それによって平均的生活水準が高い国で高い水準の教育を受けた人が、コスト的に合わないということで切られるようになる。それはそれで仕方がないような気がしないでもないが、そういう高い水準の教育に依存する仕事というのは情報化によって世界のどこにいてもある程度できるようになるので、そういう人たちは平均的生活水準が低い土地に移住してもらって、低い生活コストで生活させればコスト競争力を回復できる。一方、肉体的労働者はその場所で働くことに固有の意義があるので、平均的生活水準の高い土地では高いコストで働いてもらう以外に選択肢がない。つまり、不労所得を得られる水準に至らない限り、教育程度が高くなるほど生活水準が下がるという帰結になる。

日本もすっかりホワイトカラー人口が増えたので、生産性を維持するために、名目上の勤務時間を減らして名目上の生産性を維持しているが、実質の勤務時間がそれを上回っているので実質生産性は名目よりだいぶ低くなっている。名目生産性と実質生産性の差額を「未払い残業代」と表現できるが、これを請求して名目生産性と実質生産性を一致させると、結局名目生産性が下がるので時間当たりの賃金が下がり、所得は変わらなくなる。名目生産性が下がると市場相場との比較で解雇リスクが高まるので、名目生産性のセリ状態となり、一方で実質生産性はたいして変わらないので、両者の差はどんどんと開いていく。

名目生産性と実質生産性の差額は企業の粉飾決済に似たところがあって、私たちはよくやっていますよというアピールになるのだが、その差額はどこに入るかというと、「職場」になる。「職場」とは、概念的には雇用者である法人組織になるはずなのだが、実質的には末端の部署組織になる。「未払い残業代」とは、個々の労働者から現場組織への贈与として機能しており、これを原資として部署組織およびその管理者の管理能力が粉飾される。わかりやすく書くと、日本人のサービス残業は上司への賄賂として機能している。その賄賂を個人的に流用するか、業務に振り向けて業務評価として利用するかは管理者次第であるが、無賃労働の圧力というのはだいたいこういう意味合いがある。理不尽であると思いつつも、これを欠かすと雇用の安定が損なわれるという不安感があるため、職場への労働力キックバック制度を自発的にやめることができなくなっている。これが日本の良くある職場の現状と言える。

松下幸之助さんの水道哲学とマルクスさんの共産主義はだいたい似たような理想を描いていて、ある程度社会の生産性が上がると、社会の利益を占有したがる資本家さえ抑えれば、人間はあんまり労働せずに遊んで暮らせるようになると考えられていた。が、ソヴィエトが崩壊して中国共産党がただのアレになった現在では、思想の流れは19世紀の再現っぽくなっている。どこらへんに杭を打てば流れが変わるのか考えたいが、少なくとも朝日新聞のような方法ではないよな、と思う。

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玄関先のビオラが花の時期を終えつつあり、アブラムシまみれになって萎れている。薬で駆除してもいいが、全部駆除できるわけでもなし、このまま残しておくと頃合いを見てテントウムシがやってきて殲滅してくれたりするので、放置しようかと思う。

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いろいろ恵まれているとは思うが、生きるのは相変わらず面倒くさい。他人に期待しないというのは、結果として他人の態度に現れてくる自分自身の社会価値に期待しないということで、これは諦観の一種なのだけれど、まずまずという感じ。ただ、最近は情がすり減ってきていささか薄情になる場面が多いので、もう少し何とかしたほうがいいかもしれないというような気はする。が、いかんせん情が薄れているので切迫感がなく、あまり変わろうとしない。嫌な大人というのはこうして生じるのか。

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by antonin | 2014-05-02 12:42 | Trackback | Comments(0)

惰性速記

曲がりなりにも頭脳労働者なんで、眠るのも仕事のうちなんだけど、薬を飲み忘れた。いかんなぁ。

recurrent neural network は、IIRフィルタみたいに連続入力にz変換掛けて時間領域から周波数領域に写像する機能を持ったパーセプトロンなんだっていうのがわかったし、前に小説を書こうと思ったってネタの時に書いた、「成功」と「失敗」しか教師入力のない学習には、成功したか失敗したかの事後情報と一緒に記憶をトレースして正なり負なりの学習をする必要があって、ああ、人間が眠っている間に夢を見るってのは、たぶんこれをやってるんだな、なんて推量ができたりして、最近面白かった。

が、いかんせん歳を取りすぎている感じがして、なんだかもったいない感じがする。まあ、年齢の問題じゃなくて、それこそ単なる睡眠不足のせいなんだろうっていう認識はあるけど。そもそも「家住期」ってのがこんなもんなのかも知らんけど。林住期になると、いくらか生活スタイルは変わるんだろう。早すぎて腐った共産主義が死んで、資本主義をグローバルにやり直すことになったから、自分が生きているうちは林住期的なものは無理かな。そもそも日本の気候でインドみたいな林住期やると死んじゃうしな。

タイ文字を覚えるか、万葉集から江戸まで続いた本来の仮名文字を覚えるか、少し迷う。新しいことに手を付けない誓いからすると仮名文字か。明治維新を過ぎてから学校教育に追い出された、いわゆる「変体かな」が、漢字の草書体として見ると単に万葉仮名のサブセットだったりして、江戸期の学者が研究するまではまともに万葉仮名か読めなくなっていたって言っても、彼らの時代にはまだ上代から文化的に陸続きだったんだなと思った。つい100年ちょっと前の話で、そこから随分と日本語って変わってしまったなと。

民族が、言語というか、同じ言語で読めて共有できる物語の場面を語彙として会話できるというあたりで決まってくるのだとすると、江戸時代と平成時代では、同じ日本人と呼んでしまっていいんだろうか、という気もする。今昔物語とガンダムじゃぁ、そりゃ文化が別だよなぁ、と。まあ、白波五人男と特撮戦隊ものの5人組が、どっちも決めのポーズをとるのは同じ文化だというし、ギャグマンガの最後でいたずら坊主が「わーごめんなさーい」って追いかけられて終わるのも狂言の定型だっていうし、まあどっかでつながってはいるんだろうけど。

ギリシア語と日本語の海洋言語っぽいところが似ているとか、クレタ人がゼウスの墓を建てた話とか、いろいろ面白いんだけど、あんまり手を広げすぎないようにしよう。

なんとかなるかなぁ。

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by antonin | 2014-04-18 05:11 | Trackback | Comments(0)

Traduction assistée par ordinateur

さっぱりわからないが、現代というのはなんだかんだで21世紀なので、技術を本気で使うと、それなりに何とかなる。

C'est similaire à la passion ou le prière - finalventの日記
C'est similaire à la passion ou le prière

Serait-il raisonnable si j'écrivais un journal en un langue qui n'est pas la langue maternelle? En français? Pour moi, le français est plus difficile que l'anglais. En fait, il y à seulement quatre mois quand j'ai commencé à le apprendre.

C'est quelque chose d'anormal. Je ne suis pas bon à la langue. Bien sûr, personne peut le lire précisément. En d'autres termes, c'est comme un message chiffré.

Cependant, il est une œuvre fascinante. Par les procédures de contredire, je réussi à dire quelque chose à quelqu'un.

Leonardo da Vinci écrivait le journal chiffré. N'est-ce pas parce qu'il ne voulait être lu par personne, mais il s'y attendait: Il y aurait quelqu'un pour le lire.

C'est drôle qu'il n'est pas possible de faire donner une sorte de nature. Plutôt que message chiffré, cependant, c'est que seulement la langue incomplète. Mais, d'une certaine manière, c'est similaire à la passion ou le prière que on veut partager quelque chose par cet effort futile.

なんだかさっぱりわからんわけだけれども、機械翻訳を使うと、ここまで訳してくれる。

これは情熱や祈りに似ています

私は彼らの母国語ではない言語に新聞を書いた場合、それは合理的でしょうか?フランス語?私のために、フランス人は英語よりも硬い。私が勉強し始めたとき、実際には、わずか4ヶ月があります。

これは異常なものです。私は言語が得意ではないんだ。もちろん、誰もそれを正確に読み取ることができません。言い換えれば、それは暗号化されたメッセージのようなものです。

しかし、それは魅力的な作品です。手続きと矛盾することで、私は誰かに何かを言うことができた。

レオナルド·ダ·ヴィンチが暗号化されたログを書きました。読むために誰かがあるでしょう:彼は誰もが読むことがしたかったが、彼は予想していたので、そうではありません。

それはそのような種類を提供することが可能ではないことを不思議だ。むしろ暗号化されたメッセージより、しかし、唯一の不完全な言語ということです。しかし、どういうわけか、これは我々がこの賽の河原で何かを共有したいの情熱や祈りに似ています。

あとは、"C'est ..." が「それは...である」だとか、"n'est pas" が「...ではない」だとか、その程度の基礎表現と、後置修飾が多いあたりを除けば英語とそれほど変わらないだろう語順構造を頼りに日本語らしく再構成することができる。

情念か祈りに似ている

僕が読者の母国語ではない言語で記事を書くとしたら、それは合理的だろうか。フランス語で? 僕にとって、フランス語は英語よりも難しい。実際、僕はこの言語を4か月しか勉強していない。

これは異常なことだ。僕はフランス語が得意じゃない。もちろん、誰もそれを正確に読み取ることはできない。言うなれば、それは暗号文のようなものだ。

しかし、これは魅力的な仕事でもある。逆説的な方法で、僕は伝えるべき人に伝えることができる。

レオナルド・ダ・ヴィンチは暗号文で日記を書いた。誰でも読めるようにはしたくなかったからだが、しかし彼は、何者かはそれを読めると予想していたことだろう。

不思議なことに、natureの一種を伝えることができない。暗号文などではなく、単に不完全な言語を使っているだけなのに。このようなやり方は、無駄な努力によって、しかし読者と何かを共有したいという情念や祈りに似ている。

こんなところか。通常の日本語文に合わせて一人称は「僕」にしてみた。最後の一文は難しかった。 "une sorte de nature" というのは "a sort of nature" で、直訳すると「自然の一種」なんだが、何か慣用的な意味があるのかと思って調べても、それらしいのが出てこない。ひょっとするとこのあたりが「不完全な言語」というやつなのかもしれないが。

フランス語なんかは基本的にラテン文字なので、多少見慣れない記号は多いけれども、音として推定すること自体はそう難しくない。中国語も、未成年の時代に「国語」として漢文を習ったのがいくらか役に立って、文字や熟語の意味は分からなくても、そのあたりを機械翻訳に助けてもらえば、あとの文法的な再構成はなんとか自力でできる。これがギリシア語だとか、キリル文字のロシア語になってくると、まあ読めないこともないけれど、読むというよりは「解読」に近い作業になってくる。これが、アラビア語やヒンディー語になると、音素文字自体が全く読めなくなるので、どうにもならない。

それでも、アルジャジーラのアラビア語版ページを開いて、ソチオリンピックっぽいリュージュの写真に添えられた文章なんかを機械翻訳にぶち込むと、とりあえずこの程度の情報は出てくる。

الجزيرة.نت

افتتاح ألعاب سوتشي اليوم بنكهة سياسية
تفتتح اليوم الجمعة في سوتشي بروسيا الألعاب الأولمبية الشتوية لعام 2014 بمشاركة ستة آلاف رياضي يمثلون 87 دولة، بالإضافة إلى مشاركة عدد من زعماء العالم في حفل افتتاح هذه الألعاب التي عكس مسار الأحداث قبل افتتاحها إمكانية تزاوج الرياضة والسياسة.
آخر تحديث: 13:36 ، الجمعة ، 7 فبراير 2014 دولي

ソチオリンピックの今日の開口部は、政治的な風味
スポーツと政治を交配の可能性を開く前に、イベントのコースを逆にゲームの開会式、で世界の指導者の数の参加に加えて、87カ国から6000の選手が参加して2014年にロシアのソチ冬季オリンピックで金曜日にオープンします。
最終更新日:13時36、金曜日、2月7日、2014インターナショナル

原文は右から左への文字列なのでうまく表示されるかどうかわからないが、ともかく訳文を読めばソチオリンピックの開会式で政治的な動向があったよ、とか、そういう記事なんだということがわかる。

まあ、わかるんだけれど、それなりに労力は必要になって、流すように取り込む母国語の情報とは質的に異なってくる。あとはつまり、情念や祈りのような成分が効いてくるのだというような話は理解しやすい。ただ、情念や祈りというのは、他人にとってはどうでもいいことでもある。

ハイデガーの「存在と時間」を通して読んだ人は、たいていそれを激賞するのだけれど、それは原文の素晴らしさというより、原文に対して強い情念を抱いた人が、自分の果たした激しい努力が虚しい努力ではないと思いたいという自己肯定のために、多大な努力を割いて読んだ対象もまた素晴らしいという気分になってくる、と、そういう効果もあるんじゃないか。それを通読した経験のある、とある人がそう書いていた。

ある時期、それこそ祈りのように、finalventさんがFinancial Timesの記事を復唱していた時期があって、そこに、日本語じゃ生々しすぎて書けない露骨な事実や、岡目八目で単純明快な結論もあるにはあるものの、「所詮他人事評論」なんじゃないかというようなものも多々あった。難しいものを読み取った自分の努力を認めたい気持ちが、その対象に照射しているように見えることも、ままあった。

と、まあ、腐すのはこれくらいにして、いい歳してフランス語を猛勉強して日記がフランス語になっちゃう人とか、いい歳して将棋の勉強を開始しして別ブログ立ち上げちゃうあの人とか、素直にすげーなーと感心する。個人的には、語彙を習得するのが苦手なので、文字くらいはいろいろ読めるようにしてみようか、という野望はある。キリル、ヘブライ、デーヴァナーガリー、タミル、タイ、ターナなど、完ぺきではなくても一通り音がわかる程度には覚えてみたい気がする。

ハングルは単純だったので、発音はできないし単語もわからないが、音だけは読めるようになった。スタバの看板に「スタバクスコピ」と書いてあったので、外来語なんかは音でわかる。「改札口」には「ケサルグ」とか書いてあったので、おそらく日本統治時代に導入した漢語をそのまま朝鮮読みしたものなのだろう。中国語だとさすがに語意に厳密なので、拉票処とか、そんなような言葉になっていた。

言語圏の違う文字というのは音の組み立て方が違うので、実用的に読めなくても、そういう違いを知るのは面白い。梵字の一部を覚えた時も、日本語のカナやハングルなどと、似ているけれどちょっと違う音素構成がわかって面白かった。現代のデーヴァナーガリーも、梵字から基本的なところは変わっていないらしい。

まあ、今年は新しいことに挑戦しないというのが年初の誓いだったので、文字を覚えるのは来年以降ということになるだろう。今年はまず未読を一冊でも減らすこと。
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by antonin | 2014-02-08 03:09 | Trackback | Comments(0)

Information

英和辞典を引いてみると、informationという語の語源はinformatioというラテン語とある。それ以上の説明はない。で、動詞型のinformの項を見ると、「in-(中に)+form(形作る)=心・頭の中に形作る」とあって、informalのような「in(非…)+formal(公式の)」という語源説とは別の説明になっている。そうなのか。英語の語源説の研究者もバカじゃないから間違いはないんだろうが、なんとなく腑に落ちない。

人に告げる言葉の内容、今で言う「情報」をinformatioと表現しようと考えたのは、実はラテン語圏の人ではなくて、都市国家時代のローマが文化的な師と仰いだギリシア語の中に既にあった単語を、ラテン語に直訳したようなものだったのではないか。そんなことを考えているのだけれど、証拠がない。古代ギリシャ語と英語のネット辞典を頼りに、informationに相当する古代ギリシア語を探してみると、aggeliaという単語が出てくる。逆引きし直すとmessageの意味だとあるので、人に告げる言葉の内容を指すものとして、ラテン語のinformatioと同じようなものと見ていいだろう。

Ancient Greek Dictionary Online Translation LEXILOGOS >>

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atomosはa-tomosで、非分割の意味だといわれるように、ギリシア語で接頭辞のa-はin-formalのin-と同じ否定の意味があるのだが、aggeliaからa-を外したgeliaに類する単語で「形」という意味を持つものがあるかと調べてみると、そういうものが出てこない。「形」というと、eidosとかideaとかmorpheとかのよく目にする単語が出てきて、ガンマで始まる単語は見つからなかった。aggeliaというギリシア語をinformatioというラテン語に「直訳」したとは考えにくい。

ちなみに、aggeliaを伝える人、つまりメッセンジャーをanggelosと呼び、これが後にキリスト教で言うところの天使(angel)の語源になったらしい。エヴァンゲリオン(福音)という単語も、anggellioという語幹にev-(良い)という接頭辞を付けたもので、良い知らせという意味らしい。gelosというと「笑い」になってしまうので、anggelosが「笑えない話をする人」とかいう語源を持つとすると面倒な話になる。そんなことはないんだろうけど。

aggeliaという単語に「非形」の意味が無いとすると、informatioという単語はラテン語圏の人が独自に考えたということになる。in-という接頭辞が否定ではなく「中へ」という意味だとすると、in-formの対義語としてex-formatioみたいな意味の単語が自然に派生したのでないか。で、調べてみると、確かにexformationという単語は出てくるのだが、「会話に必須だが、明確に意識されない知識の体系」とかいう近代哲学者の造語っぽい単語が出てくるだけで、ラテン語に起源を持つような古い単語は出てこない。

ちなみに、現代英語ではinformationというのは情報、お知らせ、というような意味にしか取れなくなっているので、「無形重要文化財」とか「無形資産」とかいう場合には、intangibleという単語を使っている。これもラテン語に起源のある語らしいのだが、intangibilis(触れることのできない)というのが語源らしい。対義語としてのtangible「触れることのできる」「有形の」という単語もある。

tangには「味」とか「におい」という意味もあり、intangibleも源流のある段階では「味わえない」とか「嗅げない」とかいう意味があったのかもしれない。まあ英単語のtangの方はtongueと同源であり、こちらはラテン語ではなく純ゲルマン系の古英語が起源らしいから、これはあんまりもっともらしい説とはいえない。

で、informationが「非形」という意味だとすると、眼が受ける色に対立する空という意味として適切なのだけれど、「中に形作る」だと具合が悪くなる。一方のintangibleは「非可触」という意味なので、身が受ける触に対立する空として、まあ妥当ということになる。

空の元になったサンスクリット語は数字のゼロと同じ意味のシューニャという語で、これは空っぽとか泡とか、そういうような意味だったらしい。ウパニシャッドとかの話を聞きかじると、ある限られた空間そのもの、あるいは形から物質的な要素を取り除いて残ったもの、みたいな表現が出てきて、これは古来インドでは定番の哲学ネタだったのだろう。

「ディラックの海」の仮説が失敗に終わって以来、真空がなぜ寸法(dimension)を持っているのかという話題はタブーに近い扱いを受けているけれども、そういうあたりを論じることができるような時代になると、空とか色とか、そういう思考訓練をしたことがある人には幾らかの有利があるような予感がある。真空中には色は何もないのだけれど、空がぎっしりと詰まっていて、そこにガンマ線なんかを打ち込むと、ときどき電子と陽電子の対が生成したりする。反対の電荷を持った対は電磁気力によって互いに引かれ合って衝突し、対消滅して再び質量のない光子に戻る。色即是空、空即是色。

因が独立変数、果が従属変数とすると、縁は関数(function)になる。過去の情報が因であり、物理法則という縁を経て、現在の色を作る。現在の色は再び因となって、未来の果を生む。その再帰演算により生成される情報の移ろいが物理現象であり、物理現象の持つ局所情報の一部がそれ自身を主観的に認識しているのが人間の意識(五蘊)ということになる。

吉村先生の影響で、考古学というと昔の人の発想をなんでも呪術に結びつける印象があるけれども、現代人だって呪術を否定できずに生理的に信じる人がたくさんいるのと同様に、古代にあっても奇跡や神を比喩的な用法以上には信じていない冷徹な人は一定数いた、というのが正しいのではないかと思う。エジプトの神官の中にさえ、というより、神官ができるような人のほうがむしろ、そういう発想法に接する機会は多かったのではないかと思う。それで、イクナートンのような一神教の狂信家を官僚的に追放したのだろう。

「報せ」に "information" という語を作って当てた人がどんなことを考えていたのか、興味はあるが、今となっては決して知ることはできないのだろう。
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by antonin | 2013-06-16 19:45 | Trackback | Comments(0)

月の光

アメリカのamzon.comでは既にDRMフリーMP3のダウンロード販売がおこなわれているが、日本からのアクセスでは販売が許可されないという処置がされていた。これに対してハワイで銀行カードを作って頑張ってアメリカ国内決済してダウンロードしたりという裏技などがあったようだけれども、ようやく日本のAmazon.co.jpでも同様のダウンロード販売が始まった。

Amazon:co.jp: MP3 ダウンロード - DRMフリーの音楽配信サービス 無料音楽配信も

試聴してみると圧縮音源特有のキュラキュラというひずみがひどかったのだけれど、無料の楽曲データもいくつかあったので試しにダウンロードして聞いてみた。

Amazon.co.jp: 無料ダウンロード&スペシャル・プライス: MP3ダウンロード

すると、ちゃんと256Kbpsの高品質なMP3データで問題がなかった。128Kbpsくらいのデータ量だとMP3のような初歩的な音声圧縮方式では若干のひずみが残っていて、静かな環境でまともなヘッドホンを使って再生すると例のキュラキュラ雑音に気付くのだが、256KbpsにもなるとリニアPCMとの差に気付いたという経験はない。そんなに幅広く聴いてみた経験があるわけではないけど。

iTunes Storeの開設時にも話題になったような楽曲を大量に詰め合わせた商品が売られていたので、その中から手持ちの曲とダブりの少ないドビュッシーの作品パックを購入してみた。

Amazon.co.jp: The 99 Most Essential Debussy Masterpieces (Amazon Exclusive): Various Artists: MP3ダウンロード

現在の価格は¥900だが、本家amazon.comのほうを覗いてみると$6.99となっているので、為替レートを勘案すると日本の方がアメリカに対し1.5倍程度の価格設定になっている。国内では市場も小さいことに加えて複雑な権利関係の処理をしないといけないので、国内利権と関係の無い楽曲といえどもこのくらいのコストアップはしかたがないのだろう。MP3なら、システム間という意味でも過去から将来への時間軸という意味でもポータビリティが高いので、DRMフリーと併せて購入後のリスクが軽減できていい。

ということで、ダウンロードした99曲の中から有名なベルガマスク組曲の「月の光」を再生している。「月の光」を原語のフランス語で書くと、"Clair de Lune"(クレール・ド・リューン)となるらしい。ベートーヴェンにも「月光」という有名な曲があるが、こちらもドイツ語で書くと"Mondschein"(モーントシャイン)となる。ドヴォルザークのオペラ「ルサルカ」の題名にもなっている主人公は水の妖精で、話の筋はまぁ「人魚姫」と同じなのだけれども、やはり月光の下で切ない恋心をアリアにして歌う。スメタナの「モルダウ(ヴルタヴァ)」でも同じような水の精霊が月の光の下で踊る情景が描かれた部分がある。

YouTube - Debussy : Clair de lune

YouTube - Moonlight Sonata

YouTube - Renée Fleming - Song to the Moon with Lyrics

YouTube - Michael Holmes conducts Smetana Moldau (Vltava) [Moonlight]

今でこそ人工の光源があふれていて月光のありがたみもないけれど、ロウソクかランプの明かりがせいぜいだった時代には、夜でありながら最低限の視界が確保できる月光の価値というのは今の比にはならないほどだったのだろう。日本だと、花鳥風月という具合で月そのものを愛でる傾向があるけれども、西洋だと月明かりが主題で、どちらかというと月明かりの中で繰り広げられる男女の情景の方に視線が行っているというのは、いかにもという感じがする。まぁ日本だって情をとげられなかった女の情念が満月の下で草木や獣に姿を変えたり、またその逆に悉有仏性ということで草花が女の姿になったりと、それなりの話は多く残っているのだろうけれども。

月光に当たる英語とフランス語とドイツ語は出てきたが、他の言語ではどうなるのか。さがすとこういうページが見つかった。

BABEL ~世界の言葉~ | 月光(げっこう)

ただこれ、カナ表記にしても表記順にしても、学研の「ネーミング辞典」という本からの引き写しですよね。できれば引用元を添えるくらいの配慮はあってもいいのではないかと。(追記:アイコンリンクで該当書籍へ誘導されていました。ご指摘ありがとうございます。)

ヒット商品をつくるネーミング辞典

学習研究社


折角だから本書にあるギリシャ語(希)とロシア語(露)のスペルも書いておきましょうか。

希 ランプラ・セレーネー λαμπρα σεληνη
露 ルーンヌイ・スヴィエート лунньй свет

格変化とかそのあたりは無視して単語熟語だけ切り出してあるので、あくまでご参考まで、というようなものだとは思いますが、ラテン系、ゲルマン系、スラヴ系の類似や相違がわかって、ミーハーなネーミングに使う以外でも面白い本です。13ヶ国語版というのも出ているみたい。

13か国語でわかる新・ネーミング辞典

学習研究社


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by antonin | 2010-11-10 11:33 | Trackback | Comments(2)

アカシックレコード云々

どういう経路か知らないけれども、アカシックレコードが俺にささやくとかなんとか、そういう言い回しを目にする機会が増えた。調べてみると、どうもアメリカあたりで流行したオカルト分野の用語らしい。ネット界隈に流れてきたのは、マンガで取り上げられたとかそういう経緯があるんだろうか。

アカシックレコードの意味するところは普通の決定論や運命論とあまり変わらないもので、特徴があるとすると、その決定した運命(前世や来世を含む)を読み出すようなアクセスが可能であるというあたりになる。そしてそういう運命が読み取れるなら興味ありますよね、という心理を突いてくるものらしい。

アカシックレコードを説く人達の論理にはまだ理解が及ばないのだけれども、アカシック(Akashic)というのはインドあたりに源流を持つ単語で、この単語は密教を通じて東回りですでに日本に入っていた。若い頃の弘法大師空海の有名なエピソードに、万巻の経典を記憶し尽くせるという虚空蔵求聞持法の修法を成就した、というのがある。そこで百万遍唱える真言というのが「のうぼう あかしゃ きゃらばや おん ありきゃ まりぼり そわか」というものなのだけれども、この「あかしゃ」の部分が虚空蔵菩薩の「虚空蔵」を述べている部分で、つまりは"Akashic"と語源を共有しているらしい。

虚空蔵求聞持法を成就すると無限の記憶力を得て膨大な経典全てを知り尽くすことができるということになっている。その根本のところには現世を含めた三世の全ての事実記録があるというインド思想の解釈があって、それを人格化したのがアカーシャで、さらにそれを仏教に引き込んだのが虚空蔵菩薩であるという流れがあるらしい。そして真理であるところの仏説は全てそこに記されているはずだ、という理屈になる。そしてアカーシャの記録というのを英語で書くと、Akashic recordとなるらしい。


ある程度年齢を重ねてからの空海という人は、ときおり激情が垣間見えるものの、かなり理性的な知識人のように見える。けれども若い頃にはやはり情熱的な宗教人としての性格も強くて、その頃の空海がどのような感覚で出世街道を捨てて、真言百万遍という苦行をしていたのかというのが理解しにくかった。ところが千年以上遅れて西回りで日本に到達した虚空蔵信仰、つまりアカシックレコードをめぐるオカルト的な言説を読むと、空海当時の密教が持っていた、理性的な宗学を超えたところにある信仰心の生々しさのようなものが感じられるような気がする。

こういうオカルト的なものに対して、哲学的な概念と見るのか、あるいは生活レベルの事象が関連付けられる現実的対象と見るのかは、ほとんど習慣的な違いでしかないというような気がするが、空海が持ち込んだ密教というのはその両側を渡り歩くという、かなり高度というか危険というか、そういう種類の体系のように見える。

精神的に余裕のあるときにはこういう部分にまで踏み込んでみるのもいいかもしれないが、ミイラ取りがミイラになるということも、ままあるのではないかと思う。安定した基礎の上に立っている時と、大きな喪失などで不安定な場に立っている時では、同じ光景を見ていても脳裏に映る解釈というものには違いが出てくる。


ちなみに決定論とか自由意志とか熱力学の第二法則とか、そこら辺の議論もセルオートマトンなんかを絡めて論じるとかなり楽しいことになるのだけれども、それはまた別の話ということで。
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by antonin | 2010-11-01 12:05 | Trackback | Comments(0)

ハイテク怪談ほか

夜の11時頃に、誰も居ない真っ暗なリビングで突然テレビの電源が入って、生活時間に適した音量で番組が流れ始めるという事案が数回発生した。

当初は、ムスコ2号がリモコンのボタンを乱打してオンタイマーが誤設定されてしまったというのを疑ったが、別にそういう設定はされていなかったし、自分で消した数分後に再び電源が入るという現象も発生したので、この線は消えた。

次に疑われたのは新入りのお掃除ロボットで、こいつは周囲のセンシングに赤外線を多用する。特に、充電サイトの位置検出に使う赤外ビーコンが充電サイトの上面に付いており、このあたりから放出される赤外パルスが偶然我が家のテレビの電源オン信号として誤検出されたのではないかという仮説を立てた。この充電サイトはテレビの正面に設置されているし、無人の部屋でテレビの電源が入るという怪現象が発生し始めたのもRoombaが設置されたのと同時期だったということもあって、一時は容疑が濃厚になった。

しかし新証言が現れ、Roombaが我が家に届く前に一度、昼間の留守中にリビングのテレビがやはり付きっぱなしになっていたのを、ムスコ1号2号のお迎えに来てくれた義母さんが発見したということがあったらしい。そもそも、隣の部屋のリモコン信号が誤動作の原因になったような初期の単純な赤外線リモコンならいざしらず、テレビメーカーコードやチャネル信号などを含むヘッダー信号を受信しない限り特定動作をしないようになったここ20年ほどのテレビでは、ランダムな信号がたまたまテレビを動作させる確率というのは限りなくゼロに近い。

ということで現在最も有力視されている仮説は、購入後10年を経たテレビの内部で誤動作が発生しているのだろうということになっている。まぁ近く暇を出される予定のテレビではあるので、消すときにはしっかりと本体の主電源を切ってしまえば問題は起こらず、これで当面をしのげばいいのだろうということになって、原因の特定作業は棚上になっている。

こういう程度の現象でも、ポルターガイスト現象の一種とかなんとか言って説明してしまうと本気で怖がってしまう人もあるかもしれない。幸い理系ぞろいの我が家ではそういうことにはなっておらず、家電って壊れるときは一気に来るのよねぇ、そういえば洗濯機がお風呂の水を吸わなくなったし、ちょっと見ておいてよ、という程度の話で済んでいる。

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「人間界」というような意味で"homosphere"という造語を使ってみたが、検索してみると同じスペルで大気科学の術語が既に存在していた。大気組成が水蒸気を除いて高度に関わらず一定の領域が、「均一圏」を意味するhomosphereで、地上からだいたい高度80kmあたりまでがhomosphereになるらしい。対義語は「異質圏」とでも訳せるような"heterosphere"で、およそ高度80kmを超える領域を指す。この領域になると、地上から遠くなるほど太陽輻射や宇宙線などの影響で主に酸素が分解される度合いが高まり、大気組成が高度に応じて変化するのでこのように呼ばれるらしい。

"homo"はラテン語では人間を指すが、ギリシャ語では「同じ」という意味になってしまうので、ちゃんとギリシャ語で人間を意味する"άνθρωποι"あたりの単語を使って"anthroposphere"というような単語を捏造する必要があった。ん、これもWikipediaに載ってるな。人類が関与する物質循環圏を指す、あまり一般的ではない用語らしい。

Anthroposphere - Wikipedia, the free encyclopedia

ちなみに「人類学」は"anthropology"というらしい。まぁまたムダ知識が増えたからいいか。
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by antonin | 2010-09-25 20:43 | Trackback | Comments(0)

連想もやもや

最近になって、「オノマトペ」という単語をよく目にする。擬音語とか擬態語とか、そういうものを指す術語らしい。たしかに日本語にはそういうものが多い気がする。「はらはら」とか「てかてか」とか、擬態といってもあまりリアリティのあるような感じでもない。ハワイのカメハメハ大王の名前は「カ・メハメハ」という区切りになっていて、この「メハメハ」というのが寂しい様子を示す形容詞、というか擬態語なのだという。これも日本語の擬態語に似たような響きがある。

フィリピンのセブに行ったときには、ラプラプという地元の英雄の像を見てきた。セブ島に隣接する有数のリゾート地であるマクタン島の中心市街はラプラプ・シティーといった。この英雄の名前が擬態語なのかどうかまでは調べがつかなかったが、どうもミクロネシア周辺諸部族の言語にはこういう構成の単語が多いような気がする。やはり島国の言葉である日本語の源流の一つにも、ひょっとするとこういう海洋民族の影響が残っているんじゃないかと夢想する。

国語学の用語に「上代特殊仮名遣い」というのがあるらしく、それによると、日本人が文字を使い始めた当初の日本語では、母音の種類が7,8種類はあったのではないかと言われているらしい。そういう面倒な母音構成をしていた上代日本語が、徐々に音韻変化を遂げて母音が5種類でオノマトペの多い現代日本語になった。ひょっとすると、稲作文化の影響を色濃く残す上代日本語が、文字の歴史に現れてこない島文化の日本語と交雑してできたのが現代日本語なんじゃないか。

そういう目で見てみると、奄美あたりの琉球方言では母音が3種類しかないなんていう話が思い出されて面白い。この地方では、「い」と「え」、「う」と「お」の区別があいまいで、これに「あ」を加えた3種類の母音で構成されているらしい。母音が7種類ほどあった弥生語と、母音が3種類しかない島言葉が融け合って、間を取って5種類の母音が残った、というのはあまりにも荒っぽい推論だけれども、場合によってはそういう過程があったんじゃないかと想像してみるのも楽しい。

そして、その融合の過程で日本語にオノマトペが定着したんじゃないかという想像も巡らせてみる。そういえば、いつか流行した島唄風の歌謡曲のタイトルは「涙そうそう」だった。大和朝廷の男たちは、その教養の証として漢文(真名)しか使わなかったようだが、女たちは女手とも呼ばれた仮名を使って、言文一致体の文章を書き残した。そういう流れから、漢文では書き表しようのなかったオノマトペが、徐々に文字の世界に上り始めたんじゃないのか。

肯定的でも否定的でもいいのだけれども、こういう疑問に答えを出してくれるような、国語学の雑学を簡単に教えてくれる新書などはないだろうか。おそらくそれらしいものはあるんだろうけれども、数千冊ある新書の山から狙った本を引き当てるのは難しい。まぁ当面は国語学よりもJavaScriptとかUnicodeの勉強をした方がいいんだろうけど。
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by antonin | 2010-05-21 02:37 | Trackback | Comments(0)

名前の話

ローマ法王あたりに「インノケンティウス」という名前があったような記憶があるが、ラテン語の意味を直接に読み取ると「けがれの無い」「無垢の」というような形容詞になるのだという。「罪を犯していない」というような意味でもあり、神の子の罪の中には、仏教用語で言うところの「女犯(にょぼん)」というものもあって、法王インノケンティウスは当然にそうした罪からも潔白なのであって、あからさまに言ってしまうと(良い意味で)童貞であるというような意味もあったらしい。

田中さんという名前に「田んぼの中」という意味を日本人が読み取らないのと同じように、固有名詞というのは意味がありつつも意味が意味を持たないという少し変わったところがある。だからインノケンティウスさんが穢れているかどうかなどということにそれほどの意味はないのだけれども、やはりそうした名前が誕生した最初にはいくらか意味があったのだろうし、そういうものを考えてみるのも面白い。Brownさんは髪の色、Smithさんは職業あたりが由来らしく、そういう名前がそのままの意味を持っていた時代を想像してみると、なんだか和やかな気分になる。

ウルバヌスという法王もいて、ラテン語でUrbanusとなるのだけれど、現代英語のUrbanという単語とほぼ同じような意味のUrbsという名詞に由来があるらしい。つまり「都市」とか「都会」とかいう意味で、もともとUrbanusといえば、一族の中でも都会生まれの男だったのだろう。都会では都会生まれが固有名詞的な意味を持つはずもないから、おそらくはローマから地方の属州長官か、あるいはもっと下級の役人として赴任した一家の一部が土着した際に与えられた名前なのではないか。よくよくラテン語の資料などをひっくり返せば、あるいは本当にそういう記録が得られるのかもしれないが、まぁここは想像で構わないだろう。

日本でも鈴木さんは本来「すすき」に由来があるとか、その「すすき」とは今でいうススキではなく、実った稲穂の名称だったとか、そういう話を読んだことがある。稲の収穫後に、その中から特にみのり具合の優れた稲穂を選りすぐって神前に供え、それを食べずに保存して翌年の種籾にしたらしいから、そういう儀式を執り行った神官の一族が鈴木を名乗り、特に鈴木さんは気前が良かったので自分の苗字を多くの人に名乗らせることを許し、結果として鈴木姓は日本に多くなったのだという話もあった。

同じように稲作にまつわる儀式を執り行う一族に由来する苗字に、神前に稲穂を積む穂積さんであるとか、そういう特別な稲だけを育てた、現代的にいうなら農業試験の専門家一族であった神田さんとか、そういう名前があるらしい。鈴木さんと対照的に織田さんは直系一族以外に同名を許さず、傍系諸家は「小田」を名乗ったという話も知っているが、どの程度信憑性のある話なのだろうか。単に小さい田んぼしか持たなかったのが全国の小田さんで、その中から豪族に成り上がった家系が織田を名乗ったのかもしれない。

我が家の親戚に「通」の字を用いて「みち」と読ませる名前を持っている者が何名かあるのだけれど、それはおそらく明治期に流通した氏族研究の本を買った曾祖父が、同姓の地方豪族の家系に特有な「通」の字を見付けて自分の孫達に名付けてみたくなったのだろうと思われる。ちなみに祖父たち兄弟は当時流行の一字名を付けられているので、その家系本は祖父たちの代には間に合わなかったようである。

次男である父の名前は祖父の名前とも関係なく、通の字も付けられず、当時流行の昭和の和の字を与えられている。私は父の「和」ではない方の文字を一字もらった。私は当然自分の子供にもこの字を付けたいと思ったが、「子供たちには(あなたと違って)明るく元気なこに育ってもらいたいから」という願いを込めて、ヨメは私と無関係で字画も違った名前を選んだ。

そうやって命名したムスコ1号の名前は、戦時中に人気のあった、当時の政府スローガンから一字いただいた漢字を使い、しかも最近流行のちょっと画数の多い漢字と組み合わせ、なおかつあまり奇抜な読みにならないように、細心の注意を払って命名した。しかし、手書きの出生届を役所に持っていくと、誤字を指摘されるという失態を演じてしまった。まったくもって無教養なバカ親丸出しであった。

ムスコ2号には頭の良くなりそうな名前を付けてみたが、本人の性格は良いものの、本当に頭が良いかどうかは定かではない。将来的に学校の成績が悪い場合、名前が皮肉っぽくなってしまうのは困りものなので、せいぜい勉強に励んでもらおう。
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ムダ知識系のネタにしようと思ったのに、親バカというかバカ親系の話になってしまった。連休あとというのはこういう事態になりがちである。
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by antonin | 2010-05-10 12:11 | Trackback | Comments(4)


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