安敦誌


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by antonin
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サンセット・セレナード

最近、また少しまとまった文章を読めるようにはなってきたが、書籍の通読などはまだ難しく、空き時間で書籍の中からブログサイズ程度の文章を読み切ると、そこで疲れてしまう。疲れると、ネットニュースなどを眺めている。

焦点:人手不足と鈍い賃上げの逆説 | ロイター

日銀の黒田東彦総裁は11日、参院財政金融委員会で「人手不足の割に賃金の上がり方がやや弱い」と指摘した。

そういえば、以前にそういう現象のことを書いた覚えがあった。

労働の市場化と雇用の市場化を : 安敦誌

つまり景気が良い時には、労働対価が高騰するのではなく、単に労働力の供給が減少する。

日付を見ると4年前の文章なので、今と社会状況はそう大きく変わっていない頃の話だ。予言というより、単なる定性的な現状分析でしかなかったが、実際に法制や社会通念の改革が行われない状況下では、頭で考えたのと近い現象が出るものだなぁ、とは思った。対応策として「労働の市場化と雇用の市場化」と言ってはいるが、年齢構成的に老いた日本社会では、そういった商慣習や法制の背景となっている思想の転換までが必要となるような構造変革は、もうできないだろう。いつの世も老人の頭は固いのだ。

2020年には、無策のまま医療や介護を破綻させ始めた東京がオリムピック・ゲームズを迎え入れる。8月開催だという。打ち水などは辺りを涼しくするものと単純に信じられているきらいがあるが、夕暮れ時に地表の顕熱を潜熱に転換するところに意味がある。地を撫でる宵の風がいくらか柔らかくなる。真昼に陽の当たるところで水を撒きすぎると、ミストサウナを作るようなもので、無駄に湿度が上がって汗による体温冷却効果が抑制される。真夏のヒートアイランドで、海外の貴重なアスリートを死なせてしまったりしないといいのだけれど。
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by antonin | 2017-04-12 23:17 | Trackback | Comments(0)

アメリカのプロテスタント的な部分

塩野七生さんの「ローマ人の物語」は書店で平積みになっている第一巻の初版を買った覚えがあるのだが、引っ越しのどさくさか何かで無くしてしまった。それでそのまま読まずにほったらかしになっていたのだが、あるとき文庫になったのでそれから通読したのだけれど、あれを読んで、アメリカ合衆国という国が少しわかったような気がした。

アメリカ合衆国というのはフリーメーソンが建てた国で、個人的な理解では「修正ローマ帝国」なんだと考えている。実際の北米大陸にはフランス的な部分だとかスペイン的な部分だとか、もっと野卑なフロンティア精神だとかがいろいろと混ざっているけれども、地理的には東海岸にある国家の中枢には、フリーメーソン的な連邦政府の思想がある。共和党は寡頭制の頃を理想としている風があって、一方の民主党には初期帝政の、市民と護民官(ただし終身制ではない)というあたりを理想としている感じはある。けれども、どちらも基本的に軍事的強権で自由経済圏を守るというローマ帝国の理想を共有している気はする。

ローマ帝国は王政とか共和制とか帝政とか、政体で分けることもできるけれども、日本人から見ると、国教が多神教の時期と一神教の時期で印象が全く違う。大統領は就任式で聖書に手を置いて宣誓をしたりしているが、基本的に信教の自由は建前として堅持されている。このあたりは多神教ローマと一神教ローマの中間的なものになっている。アメリカ合衆国は、ただ一人で公選制で4年の有期職の大統領を頂点に持っていて、そこに元老院(上院)と衆院(下院)が付いている。このあたりも共和制ローマと帝政ローマの中間的な体制になっている。共和制ローマには任期1年の二人の執政官がいて、帝政ローマには終身制の一人の皇帝がいた。

皇帝という広域国家のトップが終身制だと、選んでみたら実は無能でしたというときに暗殺するしか退位させる方法がない、というのがローマを衰退させる一因だった。コンスタンティヌス帝はキリスト教の宗教的権威を使ってそのあたりをうまくコントロールしようとしたらしいが、逆に息子のコンスタンティウスの代から早くもキリスト教司教の勢力が皇帝権より強くなり始め、西ローマ帝国が滅ぶとキリスト教会のトップが教皇となって君臨するようになってしまった。

そうして長くカトリックが続くのだけれども、聖地巡礼や十字軍などを通じてヨーロッパとオリエントの接触は細々と続いていて、古代ギリシア文化の実質的後継者となっていたイスラム教だとか、キリストを生んだ時代の名残りを伝えるユダヤ教だとか、あるいは東ローマの正教だとか、カトリックの常識が通用しない文化に接する人達に出会う。一番代表的には聖堂騎士団だとか病院騎士団といった、戦時だけではなく平時も絶え間なく巡礼者保護の活動をしていた修道騎士団なんだろうが、建築や美術を学びに行っていた石工などもそのうちに入っていたのだろう。

そういう中で、巡礼者の路銀を預かってトラベラーズチェック的なものを発行するところから始まった金融業が聖堂騎士団の中に起こった。そこから発展した、カトリックの戒律では禁制だった有利子融資の技法だとか、薬学も含めた化学だとか、構造設計のための幾何学だとか、そういうあたりが、信仰と権力の真っただ中にいるカトリックの司祭たちには理解されずに発達し、ヨーロッパでは迫害されながら徐々に秘密結社になっていく。それからユグノー戦争だの30年戦争だのフランス革命だのを経験しながら、最終的に新大陸に合衆国が樹立する。

新大陸を得て、秘密結社だったフリーメーソンは開放的に発展していくのだけれども、石工みたいな技術者の自由思想とは別に、カトリックの禁制を犯してキリスト教の起源に迫るプロテスタントの活動というものの中には、ローマ皇帝に祖国を破壊され、その後も迫害を受け続けたユダヤ教徒の怨念のようなものが静かに横たわっているように感じる。アメリカ合衆国にも、フリーメーソン的な科学的発想と個人の自由を愛する傾向と並行して、プロテスタント的な、カトリックの博愛を強制する態度に反発してユダヤ教に接近する傾向が感じられる。

ユダヤ教には、単に古い時代の「アブラハムの宗教」を伝える人々とは別に、国家を持たない民族の悲哀と怨念のようなものが潜んでいる。ヨーロッパでのユダヤ教徒のイメージというと、医者か学者か金融業者というステレオタイプがあるが、学者は別として、医者と金融業者というのは、人が困った時に頼る職業というところが共通している。いつの世でも、どこの土地でも、よそ者の「異教徒」として生きていた時代、医学や金融資産など、どんなに差別されようが最終的に人間が頼らざるを得ない技能を有する人間だけが生き残ることができたという、ある種の淘汰圧がユダヤ人のステレオタイプ的な「憎たらしいがきわめて優秀な人々」という像を作り出したように見える。

もちろん、カトリックの禁制が不合理で、異教徒だからその禁制を無視して、死体を解剖したり利子を取って金を貸したりという合理的活動ができたのだから、そのことでユダヤ人が力を付けたという見方もできる。しかし、カトリックの禁制も、単に権力の都合による抑圧というものではなくて、経済は停滞するとしても、弱者を守るための慈愛の精神というのが根底にある。ステレオタイプ的ユダヤ人の活動というのは、そういう慈愛を踏みにじって私利を追っているようにも見える。そこに財力への羨望が重なって、カトリック教徒からユダヤ教徒への差別や偏見が助長されたのだろう。

そういう差別の中で生き抜くために、ユダヤ人側もなりふり構わず合理主義を押し通すようになる悪循環のようなものもあったのではないか。信仰としてはあくまで誠実だとしても、キリスト教徒から向けられる嫌悪の情に対して、切り返し的とは言え、悪意の応酬もあったのではないか。大日本帝国時代の朝鮮人でも、移民導入後のフランスにおけるマグレブ人でも、彼らが暴力的だとか悪意に満ちているだとか言うことは簡単だけれども、その遠因はやはり多数派の庶民が少数派の庶民へ無意識の差別をしていたというあたりにあるのだろう。

そういうわけで、一部のユダヤ人は歴史上の祖国を武力で破壊したローマ帝国の末裔であるキリスト教徒たちを憎んでいただろうし、そういう態度がヨーロッパのキリスト教がユダヤ人をより差別的に扱うという悪循環につながったのだろう。その頂点がナチズムからホロコーストに至る暴挙だったのだろうが、ドイツのキリスト教徒たちが嫉妬した資産階級のユダヤ人は相当部分が国外へ亡命し、一方でそういう資力もコネも持たないような社会的弱者のユダヤ人ばかりが、結局は殺害された。

最近の日本でみられる「嫌韓」も、何かそういった悪循環の一種にしか見えず、気分が悪い。そして、アメリカとフランスでは事情が違うにしても、イスラム教徒への偏見にもそういう悪循環が見えるし、キリスト教徒からイスラム教徒への悪意にも気分が悪くなる。ナチスドイツに迫害されたユダヤ人を多く受け入れて救ったアメリカ合衆国にしても、プロテスタントに潜むユダヤ的な憎しみの痕跡のようなものが共産圏の崩壊後に強く滲み出ているように見えて、やはり気分が悪い。

フリーメーソン的なあっけらかんとした個人自由主義は好きなのだけれども、「アメリカンドリーム」と呼ばれるような、天文学的な貧富の差を許す新自由主義というのは、ユダヤ的な、被差別の中で生まれた屈折した割り切りの痕跡のように見えて、あまり好きではない。ユダヤ人は別に嫌いなところは何もないけれども、かつて村上ファンド的に翻訳された「金を儲けて何が悪いんですか」という割り切った態度は、どうも好きになれない。儲かるのは美徳だけれども、儲けるのは悪徳だと感じる。この部分については、禁制の極端さは別として、ナイーヴなカトリックの心情のほうにむしろ好感を覚える。

また共産革命のような若者の暴動を誘発するまでこういう傾向が続くのか、ナチズムのような憎悪が渦巻くまでこういう傾向が続くのか、よくわからない。歴史に興味がある人たちはタックスヘイブンを規制しろだとか富裕税を上げろなどと言い始めているが、上げ潮派のような人達はまだまだ元気そうに見える。そういう人たちが必ずユダヤ人なのかというとそういうことはないのだが、その思想の根底には歴史上のユダヤ人たちの鬱屈があるようにも思う。

美術館が無料で開放されるとか、大学教育が無料で提供されるとか、そういう背景にはある程度ヨーロッパ人が血を見てきた過去の歴史があるのだけれども、そういう文化資本も市場に投げ出してしまう態度というのは、本来市場主義者であるはずの私にも理解しにくい。

ドイツにもトルコ移民などが入ってきていろいろの摩擦が起こっていたようなのだけれども、最近どうなっているのかという話をあまり聞かない。プライマリーバランスをプラスに振って負債を圧縮した原動力がどういう運動なのかというのも知らない。フランスの原子力偏重を横目で見ながら、フクシマを見て原発ゼロに舵を切ったらしいが、自然エネルギーを活用しながら電力輸出超過をどうやって維持しているのかという事情を知らない。

北欧の高福祉思想がほころびを見せている中で、やっぱり米国主義、ということではなく、枢軸国の悪夢を連合国に思い起こさせない程度に、今の日本が参考にすべきは再びドイツという気がしているのだが、どうもマスメディア経由ではドイツ関連の情報が取りにくい。日本語世界にドイツ語の情報が少ないのが、単に商業的需要の反映なのか、あるいは枢軸国の復権を嫌うユダヤ資本が支配しているというマスメディアの陰謀というオドロオドロしいものなのか、そのあたりはなんともわからないが、「修正ローマ帝国」の西部前線にある列島の住民として、東部前線にある地域の動向が少し気になる。

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by antonin | 2015-04-08 02:23 | Trackback | Comments(0)

自分のアタマで考えざるを得ない生き方

数式の変換過程だとか、将棋の読み手だとか、そういう作業経過を覚えておく短期記憶に困らない人というのは脳の海馬が大きいらしいのだが、そういう人はきっと記憶の構造が違うのだろう。自分はどうやら海馬が小さいので、記憶というのは丸暗記ではなくて、たとえ嘘でもいいから何かしらの意味付けが必須だった。そうして、短期記憶をなるべく経由せずに、新皮質側の連想記憶でものを覚えていく。そうすると記憶は意味論でしかできなくなるから、細かいディテールは消えて、「だいたいこんな意味のことだった」という記憶の集合体になっていく。

私はこういうものの覚え方しかできないので、どんなに些細なことでも、学習というのは意味の考察とほとんど等価だった。理由、構造、関係、そういったものを、とりあえずでもいいので発見しないと記憶にならなかった。これが、小さい海馬を持って学校のようなものに通う義務を課せられた人間が、考えざるを得ない生き方をしてきた主な理由だった。覚えにくく忘れにくいので、定期試験には弱く外部模試のような出題範囲の広いものには強い傾向があった。

もちろん、特段の理由なんて無いんだからとにかく反復で覚えるしかない、というものもある。そういうことも全く不可能ではなかったが、非常に不得意だった。得意なのは、どうしても理由付けが可能なものになった。何事も既存の記憶に関連付けられるような、理由や背景や構造を必要とするので、ときには普通の人が気付かないような本質的な理由に気付くこともあったが、一方で、妄想に近いようなこじつけの理由付けで記憶されるようなことも多かった。記憶するためには既存の記憶と連合する理由付けが必要なだけで、それが必ずしも客観的な正しさと整合する必要はなかった。

どうしてそんなことまで知ってるの、というようなことを呆れたように言われることもあるが、たいていはそういう理由探しからトリビアルな情報にたどり着いたという経緯だった。そこまでしないとものが覚えられないので必要に迫られてやっているのと、単純にそういうのが楽しいからというのと、両方だった。

海馬の大きい人は「まずは深いことを考えずに記憶してみるといいよ」と言うし、海馬の小さい人は「とにかく自分の頭で考えてみよう」などと言うのだが、こういうものにはおそらく生まれつきの向き不向きがあって、自分の脳の器質に合わない方法を使ってみても、きっとその提唱者のようにはうまくいかない。憧れる人というのは自分にはない能力を持った人であることが多いが、近親憎悪みたいな感情があっても、結局は自分に似たタイプの人に倣うのが効率がいい。顔かたちと違って、脳の機能というのはまだ簡単に弁別できる時代ではないので、画一的な学校教育が続いている日本のような国では、本当に自分に合った学習や考え方のスタイルを見つけ出すのは簡単ではないだろう。

現代日本が苦手だとは言いつつも、記憶が外部化できる時代に生きていられるというのは、海馬の小さい人間にとっては非常に助かる。抗生物質の使い過ぎで免疫系がバカになって花粉症などを起こしているが、それでも現代医学がない時代に生まれていたら、結構な確率で成人前に死んでいただろう。まあ、現代でも精神的に生きづらくて死にそうな20代を送っていたのではあるが。学校というのは記憶重視の時代の方法論がまだ色濃いので困った環境だったが、社会というのはもうちょっとだけ自由なので、そのあたりで救われた面はある。

もしも人工知能というものができたならば、それはおそらくディープニューラルネットワークのような低水準からの脳のシミュレータではなく、もっと現行検索エンジンに近いユニットを多数相互接続して作られた分散ネットワークのようなものになるだろうから、現行のデータベースには直結できて、人間の海馬に相当するような機構はいくらでも強くできるだろう。むしろ、詳細な記憶に支配されすぎてローカルミニマルみたいなものに拘束されないように、詳細すぎる記憶を能動的に遮断するくらいじゃないと正常に動かないかもしれない。詳細記憶に支配されすぎると、おそらくアスペルガー症候群のような動作になってしまう。

ムスコ1号は私によく似て、ワーキングメモリーが非常に小さい。立体図形の脳内回転などの操作が得意な一方で、文章の読み書きが苦手で、作文などでは非常に苦労している。平時はとても穏やかだが、一線を越えると突然キレる。このあたりも私の子供時代によく似ている。考えることを重視した画一的なゆとり教育から、反復を重視する画一的な陰山メソッドに移行した現在の学校教育とは相性が悪く、問題児扱いされて苦しんでいるようだ。

一方、ムスコ2号は記憶力抜群で、特に教えてもいないのに文才があり、兄とは非常に対照的な脳のつくりをしている。物わかりはいいが、自分が譲った不満はなかなか忘れてくれない。春から小学校に入るが、学校ではうまくやっていけるタイプだろう。ムスメは私の父に似て、攻撃的で頑固者だが、寂しがりやである。私は父を見て育ってきたのでこういう性格は嫌いじゃないが、ヨメはどうにもこういうのが苦手らしい。

たった3人しかいないうちの子供たちが、恐ろしいほどに三者三様なので、あまり親の立場で正確なアドバイスはできないが、できればたった2人しかいない親の意見に影響されすぎず、なるべく大勢の大人の意見に接するようにしてもらえたらいいんじゃないかと思う。学校の教室というのも、小学校の場合はたった1人の担任教師しかいない閉鎖空間なので、中学校以降のような教科別教員のいる学校へ進んだ方が生きやすくなるんじゃないかと思う。どんなに品性に優れた教師でも、数人の生徒には必ず嫌われるし、どんなに下品な教師でも、数人の生徒には慕われる。結局、人にはどうしようもない相性というものがあって、このあたりは親兄弟であっても例外ではない。

世界というものは、家庭や学校なんかよりずっと広いものなので、あんまりがっかりせずにいろんなものを見ていってもらいたい。

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by antonin | 2015-03-06 03:57 | Trackback | Comments(0)

一番絞りが好きだ

ラガー、黒ラベル、スーパードライ。どれもまあ、日本的でうまい。が、最近どうもうまいのが、一番絞りだ。ここ数年で見違えるように旨くなった。なのに、お値段据え置き。大丈夫なんだろうか。キリンって、こういう地味なマーケティングするメーカーさんだったっけ。サントリーは、酒よりオマケ、販促品の会社という印象だった。それが、麦100%モルツをやり出したあたりから、安い居酒屋とか場末の料亭に場違いなオールモルトを置くようになって、その「駆け付け3杯」みたいな飲み方をするビールがえらくうまくなった覚えがある。そして、モルツをベースにチェコ産ホップを3倍増した贅沢なプレミアムモルツを出したら、高価格帯にもかかわらず大躍進した。デフレの時代にプレミアム市場を作り、頂点に立った。

私は、チェコ風のモルツも好きだし、ドイツ風のヱビスも好きだし、運動して汗かいた後はスーパードライだって結構いける。ただ、麦100%になってからの一番搾りは、なんだか神がかっている。麦100%のちょいプレミアムビールにしては安いし、よく冷やして飲むとのど越しはいいし、雑味がないから魚でもなんでも合う。ぬるまっても臭みがないからおかきをつまみにまだまだ飲める。そして何より安い。一番搾りがだんだんそういう位置を占めるようになってきてくれてうれしかった。

そしたら最近、またすごいことになっている。どういう成分が変わったのかはわからない。初期のころの、単にすっきりした端正なビールではなくて、雑味がなくて、甘みも渋みも控えめで、ホップてんこ盛りみたいな鼻を衝く香りもないのに、どこからか強烈な味と香りと刺激があって、すきっ腹に飲むと強烈な押し出しがある。それでも食事と上品に合う端正さはまだ残っている。なんだろうこの強力なプレミアム感は。でも、お値段据え置き。350mlで210円しないくらい。今月の一番搾りは異常にうまい。

地ビールとか輸入ビールとかいろいろと飲んで、うまいのもたくさんあったし、馬のションベンみたいなのもあった。ヴァイツェンもペールエールもモレッティもヒナノもみんなうまかったが、コンビニに並んでいる最近の一番搾りはいろいろ攻撃的な味で驚かされる。本当にうまい。

だが、全くリニューアルしていない地味なパッケージ。プレミアムビールのように高くなく、リキュール類のように安くない、平凡な価格設定。そして、それをこっそり買って飲んでみると、驚くようなプレミアム感。どうしちゃったんだろう、キリン。マネタイズしないのか、ええのんか。新ブランド立ち上げても行ける味だろう、これは。

ただ、この一番搾り、決してヒットはしないだろう。これは断言する。なぜならば、私が気に入ってしまったからだ。過去、私が惚れ込んでヒットした商品はひとつとして存在しない。例を挙げれば、AIWAとSANYOの高機能ヘッドフォンステレオ、FM-TOWNS、ドリームキャスト、携帯入力方式T9、Finepixの高性能コンパクトカメラ。どれも消えていった。そして、そのリストに今、キリン一番絞りが加わった。だから実に愛すべき今の一番搾りは、愛すれば愛するほどに悪い予感がする。キリンビールさん、悪いことを言わないから、一日も早く路線変更をした方がいい。どう変更したほうがいいのかは、私にはわからないけれども。
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by antonin | 2014-10-29 02:29 | Trackback | Comments(0)

ブーメランが刺さる話

PC遠隔操作事件のアレ、長すぎるだろうという気がするが、まだ整理がついていない。

当時思っていたのは、一般的な冤罪問題としてではなくて、遠隔操作による犯罪予告という警察組織への挑戦的犯罪が、あたかも社会全体に対する挑戦的重大犯罪であるかのように報道され続けている、そのあたりへのイライラだった。STAP細胞みたいな未熟な論文が、未検証の段階でなぜいきなりあんなに大きく報道されたのか、というあたりにも似た違和感だった。

ただ実際のところ、保釈中のあの工作が発覚するまでは、8割くらいの確率で冤罪だろうと考えていたので、それが冤罪ではないと判明したとき、それまで持っていた、警察組織の国民個人への恨みによる悪質さの誇張があるという感覚が、どの程度まで「騙されていた」ことによるものだったのかという切り分けができていなかった。そして、今もまだその切り分けは完了していない。

冤罪でない場合、ではあの身柄拘束と報道の仕方は正しかったのか、という問題はある。身柄拘束については他の犯罪でも警察と検察に確信がある場合に同様なのだとしたら、問題は刑事起訴手続き一般の話になって、遠隔操作事件に固有の問題ではなくなる。あの事件に固有の問題というのは、猫カフェ情報あたりを含めた報道へのリークの仕方だけということになる。

事件の発端として、自白の証拠採用と、調書の勝手な作文が冤罪を生み出しかけたという根本問題はある。ただ、遠隔操作事件が特徴的なのは、「ネット上の犯罪予告により警察の業務をいたずらに妨害し、またその容疑者に対する不正な手続きを明るみにしたことで警察に恥をかかせた、容疑者個人に対する公権組織側の恨みによる執拗な反撃」と解釈できたからで、その部分が仮に全て妄想みたいなものだったのだとすると、当時の憤りの理由が根本から消えてしまう。

ただ、本当にそれで「騙されていました、今後は気を付けます」で納得できるのかというと、そうでもなかった。やはり、PC遠隔操作事件の特異的な部分は、新奇なサイバー犯罪というあたりではなくて、犯罪予告を利用した「警察への挑戦的犯罪」の中でも、一段と高度で、なおかつ途中までは成功したものだったからだ。

前後して袴田死刑囚の一件などがあって、遠隔操作事件のほうも確かに冤罪事件の範疇で捉えることもできたし、遠隔操作された側の人達の扱いで、確かにそういう実例もあった。冤罪は許されるべきではないが、そうは言いながらも、そこはどうしても確率的なものになるで、凶悪犯を無罪放免にするリスクと常にトレードオフの関係にある。ただ、そういう場合、弱い個人の側に有利であるべき、というのは憲法の文面にも近い立場になる。けれども、そもそも「犯罪予告は本当に凶悪犯罪なのか」という根本的な問題もある。

直後に起こった女児殺害事件の犯人逮捕の話を絡める人もあったけれども、冤罪リスクの話は別として、そこには警察に対する挑発は無かったので、同じ議論には乗らないという風に考えていた。同じ議論に乗せるなら統計プログラムで馬券を買ったら多額の追徴課税が来たという話のほうで、権力組織が自己保身のために、法令の解釈拡大によって国民個人への攻撃をできるようなら、それはマズいな、という感覚だった。

けれども今回、その攻撃された国民個人が明確に犯罪者と判明してしまった。しかも、その犯罪が権力への悪意による攻撃だということになった。この場合、どの程度まで個人の側を擁護できるのだろうという限度が見えなくなったし、まだ見えていない。涙を流した弁護士の気持ちがわかる。

以前、原発を扱う技術者も人の子なのだから、あまり極度に締め上げられたら正しいリスク開示ができなくなるし、そういう状況が軽水炉安全神話の発生と福島第一原発の爆発を招いた一因だ、というようなことを書いた。同じように考えるとするなら、犯罪予告を過度な執拗さで取り締まる警察の行動も、半分は警察に原因があるが、警察官も人の子なのだから、犯罪予告がありながら殺人事件が起こるのを許してしまった場合、極端に警察を責める市民の側に原因の半分があるということになる。

警察や検察という官僚組織が組織的保身行動に走るのも、原発の一件と同じで日本国民全体の懲罰的傾向が原因だ、という話になる。けれども私は、遠隔操作事件の真犯人を追い詰める検察の行動や、そこに至る警察の調査行動を、懲罰的に批判していた。私もまた大組織に対して懲罰的な日本国民の一人に過ぎなかったということになる。

要するに、自分の行動が自分の批判する日本人の行動そのもだったということを受け入れられないというのが、整理の付かない理由の核心かもしれない。自分の愚かさを認めるほど悔しいことはない。そして、まだ例の話の整理はついていない。ということは、私は自分の愚かさを認められるほどには賢くはないという結論になる。残念な話だ。

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by antonin | 2014-08-03 03:51 | Trackback | Comments(0)

雑念メモ

たぶんまた薬の具合だと思うが、書きたいことがいろいろと溜まってきた。それぞれ全部吐き出してしまうとそれなりの分量になるが、時間がないので簡単にまとめておく。気が向いたらフルサイズの文章になることもあるかもしれないが、断片でも書き出してしまうと満足してしまうことのほうが多い。ヌーヴォーじゃないボジョレ・ヴィラージュを飲みながらなので、内容が雑なのはそのせいということで。

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薔薇について。

バラはよく愛の象徴などと言うが、自分でバラを育ててみて、ちょっと違った意味でその言葉を解釈するようになった。バラという花は、非常に手がかかる。水も光も肥料もたっぷり必要とするし、無駄に枝が伸びるので適当に剪定などもしてやらないといけない。私などが育てると枯れまくる。街角に花屋があって、いくらかの現金で切り花が買えるようになる以前の世界では、女性にバラの花束をプレゼントできる男性というのは、家に日当たりのよい庭があって、なおかつバラの手入れに手間をかけられる程度に余裕のある家に住んでいるということを暗に示していたのだろう。

こういう言い方を嫌う人は多いかもしれないが、昔のヨーロッパでは、女性の幸せというのは結婚する男性の家にどれほどの余裕があるかで決まる部分が大きかっただろう。男がバラの花束を持てるということは、庭師を雇うだけの裕福さがあるか、さもなければ家事をこなして花まで育てる余裕のある女たちが住んでいるか、さもなければ男が自らの手でバラを育てられる程度に仕事の要領が良いか、このいずれかを知らせる「メルクマール」になっていたのだろう。これを愛の象徴と呼ぶことは、ロマンティックではない即物的解釈だけれども、まあそんなあたりに起源があるんじゃないかと思った。

男の靴が磨かれているかどうかで品定めできる、というあたりもおそらく似た具合のことを指しているのだろう。

--

嫉妬について。

過去にも書いたが、小さな劣等感は嫉妬になるが、ある限度を超えて大きくなった劣等感は、尊敬の感情を呼び起こすと思っている。劣等感がなければ親しみになるが、人は日々移ろうもので、親しいと思っていた相手がある日嫉妬の対象になったり、嫉妬の対象だったものがある日尊敬の対象になったりする。よく、有名になったら急にすり寄ってくる人が軽蔑される話を聞くが、そういう人があんまり算盤尽くとは限らなくて、おそらくはこうした心理が働いているんじゃないかと思う。同様に、優越感が小さいと軽侮の情になるが、ある限度を超えると慈愛に近い感情になる。歩けない赤ん坊を軽蔑する大人はあまりいないが、車の運転が下手という程度だと軽蔑の対象になりやすい。

自分の技量と同レベルを中心に置き、そこから縦軸を引いて上方向に劣等感、下方向に優越感を配置すると、中心点の周りに、小さな「親近感」の領域ができる。その外側に「嫉妬と軽蔑」のドーナツ領域があり、その外側には「尊敬と慈愛」の領域がある。同じ音楽の嗜好を持った仲間がバンドを組むと、最初はみんな親しみの領域にあるが、演奏を続けるにしたがって延びる技量と伸びない技量の差が出てくる。そうすると、バンドのメンバーに対して、演奏だとかライブトークだとか、あるいはメイクアップだとか、分野ごとに嫉妬や軽蔑を感じるようになってくる。こういう領域に達すると、「音楽性の違い」だのなんだのと言って解散してしまうのだろう。

本田宗一郎さんと藤沢武夫さんみたいに、最初から互いの得意と不得意を埋め合わせるような関係にある人たちは、それぞれの分野で慈愛と尊敬の念で接することができるので、途中から喧嘩別れすることが少ないのだろう。別分野で頂点を極めた人たちの仲が良いのも、だいたいこういう関係にあるからじゃないかと思う。「嫉妬と軽蔑」のドーナツの幅はその人の心の余裕に反比例するらしいのだが、面倒なのでこの話も終わり。

--

天皇制の話。

悠仁親王ご誕生で、継承問題は菊のカーテンの奥へ遠ざかってしまったが、まだまだこの話は崖っぷちにある。というのも、根本的な問題は何一つ解決していないからだ。根本的な問題というのは、天皇ないし皇太子が、複数の妃を持つかどうかということ。

明治以降、皇室は変わり続けてきた。明治天皇は畿内の地を離れて関東の埋め立て地に宮城を移し、大和の御門から大日本の皇帝に立場を変えた。大正天皇は、側室制度を廃止し、キリスト教徒である西欧列強の支配者に野蛮人扱いされない婚姻を選んだ。昭和天皇は皇祖神の直系としての現人神であることを辞め、人間宣言をした。今上天皇は妃選びの血統主義を返上し、民主国家の主権者である平民の娘を妃に選んだ。

だいたいこういう流れがある。で、継承問題で一番重要なのが、大正天皇の選択になる。確率計算から導かれる年数よりはかなり急激に男子が減るという偶然はあったが、どちらにせよ一夫一婦制度と男系による継承の永続というのは数学的に両立できない。なので、今さら伝統を云々するならば、大正天皇の選択を反故にし側室制を復活させるか、あるいは男子を産めないと分かった時点で妃を離縁して若い妃を取り直すかのどちらかの方法で、終身一夫一婦制を廃止するしかない。

万世一系というのが真実だとすると、数学的に見れば数十世代にわたって側室を持ち続けるだけの財と権威が天皇家に続いたことの証明にしかならない。その万世一系にこだわるなら、現代日本の一般市民の常識だとか、キリスト教圏の王家の良識だとか、そのあたりはさておき伝統を重視して側室制度を復活させるべき、という結論になってしまう。いまどき側室に収まるような女性がいるのか、という話になってようやく旧宮家に白羽の矢が立つのだが、こういう逃げようのない論が出ることがなく継承問題が語られるので、気味悪く思っている。氏より育ちと言うし、個人的には、明治以降の変遷を受け入れ女系天皇容認で良いと思う。

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教養とは何か。

簡単に言うと、「話が通じる」ということだと思う。具体的に言うと、有名な物語を鑑賞した経験を指すのだと思う。泣いて馬謖を斬る、という感じで、有名な場面を指すことで細かいことを言わなくても話が通じるための知識を教養と呼ぶ、ただそれだけのことだと思う。今なら、「坊やだからさ」とか「人間がゴミのようだ」とか「僕と契約して~になってよ」とか、そういう物語の断片から言わんとする情景と顛末の暗示を理解できるようなことがそれにあたるのだろう。現代的には科学や工学や経済の理論だとか、あるいは数学の定理などの背景も知っていたほうがいいのかもしれないが、これはやや飾りの部類に入るかもしれない。

金持ってそうな人と愉快な会話を楽しめるだけの知識。限りなく下品に言えばそういうことになる。

終わり。

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細かい連想、妄想の類はもっといっぱいあるのだけれど、今日はこのあたりで気が済んだ。

図書館に山本夏彦さんのコラムをまとめた本を探しに行ったら、山本七平さんとの対談集(「正論」の昭和58年あたりの連載記事)が再出版されたものがあり、面白いので借りてみた。今から30年くらい前の話で、明治初期とか幕末がぎりぎり肌感覚として理解できる時代として語られていた。昭和末期ってそんな感じだったのか。なんにせよ語り口が面白い。狩られる前の言葉などもふんだんに出てくる。まあ、立小便が男らしいと思われていた時代の話でもあり、現代の品の良さとトレードオフの関係にある愉快さでもあるので、あんまり手放しに称揚したくはないが、ここだけ切り出せば昭和というのは楽しい時代だったのだなあと思った。

デカルトさんが、古典を読むことで過去に旅できるが、あんまり過去に入り浸ると現代で異邦人になってしまうというようなことを書いていた。杉浦日向子さんの作品なども読んでいるが、あちらに魅せられて、確かに異邦人だったなと思う。ついには魂抜かれちまったんじゃないかという最期でもあったし。それはそれで幸せな生き方にも見えるが。

意地悪は死なず 夏彦・七平対談―山本夏彦とその時代〈2〉 (山本夏彦とその時代 2)

山本 夏彦,山本 七平/ワック

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合葬 (ちくま文庫)

杉浦 日向子/筑摩書房

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by antonin | 2014-07-08 23:33 | Trackback | Comments(0)

続・床屋談義

一つ目の大学を卒業するときに、体育系サークルの部室の前で卒業生と思しき連中が花束を持っているのを見て、こういうときだけは体育会系が羨ましいな、みたいなことを言ってしまった。後日、催促したような形になったが、サークルにいた1年次の女の子2人から花をもらった。枯れるのを待つだけの切り花が嫌い、みたいなことは酒の席で漏らしていたんだろう、2人とも鉢植えの小さな花をくれた。この鉢植え2つは、初めて一人暮らしするアパートでの生活で、いい慰めになった。

その後輩のうち一人は話すと長くなるので置いておくとして、もう一人のくれた花がアッツ桜という花だった。名前の由来を調べると、ベーリング諸島のひとつ、アッツ島の名前を引いたものだけれども、この花の原産地は雪も積もらせることもできない寒風吹き荒れる島ではなくて、南アフリカのあたりだという。当然こんな名前で呼ぶのも日本だけらしい。

アッツ島というのは、ミッドウェー海戦の少し前に、キスカとともに日本軍が占領し、航空基地を整備した場所らしい。ミッドウェー海戦がああいう結果になって、キスカとアッツも撤退必至だったのだけれども、東にあってアメリカ本土に近いキスカのほうが先に落とされると、日本軍はそう考えていたらしい。キスカのほうは、深い霧という天候にも助けられて、現代人から見る旧軍の印象に反して、極めて人命重視の完璧な撤退に成功したらしい。そして、無人になったキスカに上陸した米軍は、現代人から見た米軍の印象に反して、全く言葉の通じない敵である日本軍への恐怖から、無人の島に対してかなり恥ずかしい上陸作戦をしてしまったらしい。このあたり、ドナルド・キーンさんの自伝的作品にも記述が出てくるという。

一方のアッツは、日露戦争時代から軍属という指揮官が率いる艦隊による救出作戦が決行されたものの、この司令官が当時の帝国海軍のセオリー通りの安全策を取ったため、艦隊は途中で引き返してしまう。そしてアッツはキスカと同時に攻められ、結局二度目の救出作戦が行われることはなかった。ベーリング諸島撤退のタイミングは終戦までまだ間のある時期だったので、この司令官は現場を放逐されたものの、南洋庁がらみの閑職に就いてそれなりに恵まれたその後を送ったらしい。

で、アッツ島(熱田島)は、戦時中の東京でもちょっとした神事が執り行われるくらい、壮絶に玉砕したという。このアッツ島の玉砕はひとつのロールモデルになって硫黄島の戦闘にも影響したらしいが、とにかく最後の一兵卒に近いところまで戦い抜き、ほぼ全滅となった。日本語の文脈ではアッツ島の全滅は日本人の生真面目さと自己犠牲的な強さを示す美談となったのだけれども、米軍から見ると、戦闘開始前から完敗が予想されて士気が下がって当然という文脈で、気味の悪いほどの善戦を見せる日本軍への、職業軍人としての賞賛と、尊厳ある人間としての軽蔑が入り混じった、奇妙な畏怖の感情で語られるものらしい。

そしてその後はサイパンでも硫黄島でも沖縄でも、文明国の先輩であった米軍は、文明国の新入りである日本人たちが奇妙な土着信仰の表れのような異様な死に様で斃れていくのを目にしていくことになる。当然そこでも奇妙な畏怖の感情が強まって、最終的にはこの敵と面と向かって戦うべきではないという結論になる。その結論が高高度爆撃機からの焼夷弾投下であるとか、新型原子爆弾の投下であるとか、そういう戦い方を導いていく。焼夷弾や原爆でも落とさない限りまともな勝ち方はできないというところまで米軍を追い詰めたのは、おそらく熱田島や硫黄島で玉砕した英霊たちなのであって、これは日本の普通の市民からすると色々と複雑な気持ちにならざるを得ない。

日本人は負け方を知らないというのは確かにその通りで、いやまあ、知ってはいるのだけども、それはキリスト教圏の内部で行われていたようなノーサイドに至る負け方ではなくて、生き恥をさらすくらいなら潔く散るという日本的な負け方でしかない。事業で失敗したら親族を巻き込んで路頭に迷うし、会社に損害を与えたらネクタイで首を括ったりする、今も脈々と受け継がれる日本人らしいスタイルになる。これは、アメリカ的な文脈で言えば、「負け方を知らない」という話になるんだろう。ヨーロッパ人がこのあたりについてどういう感覚を持っているのかというのは、正直よくわからない。アメリカ人に多いのが上京した三男坊のメンタリティだとすると、ヨーロッパ人の中には敢えて先祖伝来の地に残った惣家のボンのメンタリティもあるので、意外に地方在住の日本人に近い部分もある。

google earthなどを見ると、アッツ島の比較的高精細の空撮映像を見ることができる。現在のアッツ島は合衆国最西端の領地となっていて、ちょっと先にはロシア最東端の島がある。こちらは自然動物の楽園となっていて、生態学の研究者がときどき訪れる程度のアクティビティになっているらしいが、アッツ島には現役の米軍基地が存在する。日本軍が整備したらしい4本の滑走路のうち2本は放棄されているが、2本はそれなりに使える状態で保守されている。

そして空港から延びる道路を辿っていくと、途中からは痕跡のようなものになってしまうものが多いのだけれど、その道に沿って、兵舎やタコツボと思しき遺構が点々と並んでいる。アッツ島のその部分はもう放棄されているのだろう、日本軍が加工した地形がほぼそのまま残っている。そういう気味の悪い土地で、米軍のごくごく小さな基地が今でも運用されているらしい。

生き馬の目を抜くビジネスの世界で、孫子を引いて「巧遅は拙速に如かず」みたいなことが語られる。確かに初動においては拙速が必勝なんだけれども、ある程度の持続戦になると、結局は巧遅が追いつき、そして追い越していく。フェーズを正しくとらえて、それに合わせて随時変えていくということなんだけれど、大人というのはそうそう変われない生き物で、拙速が得意な人はいつまでも拙速だし、巧遅が得意な人は最初からずっと巧遅で、結局は適材適所のマネジメント力でそのあたりをカバーするしかない。

憲法のアレも、改憲を断固として受け入れない頑固者がいる以上、現実にはああした解決しか方法がない。「自衛」というなら、「自」とは何かと問うとき、国家と違って自明でない「集団とは何か」の定義がないのは非常に危険だと思っているが、それはまた水準が違う話だろう。私は、原発を安全神話の牙城にして、結果として爆発にまで追い込んだ原因の半分は頑固で聞く耳を持たない反原発派にあると思っているし、憲法が行政解釈であんなboundの外まで引きずられてしまった原因の半分は、やはり聞く耳を持たない護憲派にあると思っている。で、それはそれで、ある視点から見ればしっかりとした正義なのだけれど、やりすぎたために墓穴を掘っているし、そして事後でさえ自分たちに罪はないと思っているあたり、非常に罪深いと思う。

祖国のために戦った父祖の気持ちに報いよ、みたいな抒情的な考え方はあっていいとは思うけれども、結局彼らは限度を知らなかったために日本を滅ぼしかけたという面もある。馬鹿にするわけではないけれども、その死を無駄にしないためにも、本気で戦闘をするつもりなら、負け方のほうも史実からしっかりと研究しておいたほうがいいのではないかと思う。

アッツ島 - google map

アッツ島の戦い - Wikipedia

▶ 玉砕 ~甦らぬ英霊二百万~ アッツ島・キスカ島 - YouTube

ねずさんの ひとりごと アッツ桜

戦争画リターンズ

床屋談義 : 安敦誌

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by antonin | 2014-07-07 02:48 | Trackback | Comments(0)

労働力不足の原因

最近のアルバイト不足現象は、少子化の影響なんかじゃなくて単に好景気が理由だよバカ、みたいなツイートが出回っていたので、本当なのかどうか調べてみた。情報源はこちら。税金で作られたデータはありがたく利用させてもらおう。

統計局ホームページ/労働力調査(基本集計) 平成26年(2014年)5月分結果

で、調べてみると、だいたい予想通りで、好景気による人手不足が主効果で、それに加えて、アルバイトなどの「安価な労働力」について限定すると、確かに供給も細っているというデータが出てきた。つまり、少子化が100%原因と考えるのも、好景気が100%原因と考えるのも、どちらも単純化しすぎのバカという結論になって安心した。

まずは労働力人口の推移。ここ1年で労働力人口は80万人減少しているが、失業者の雇用でこのあたりは吸収されていて、就業者数は57万人増加しており、労働力供給としては十分な水準。年齢階級別に見ると、25~34歳は29万人減、65歳以上は48万人増。その他の年齢層は団塊世代や団塊ジュニアの移動などがあって増減はあるが、トータルでは概ね横ばい。グロスの世代人口で見ると、25~34歳は34万人減、65歳以上は108万人増。25~64歳の「現役世代」が107万人減なので、65歳以上の人口増と拮抗する形。その中で25~64歳の労働力人口が26万人減で済み、就業者数は逆に9万人増なので、景気はかなり上向いている。

ちなみに65歳以上の労働人口は48万人増で、就業者数は46万人増。この年代の場合、本気の求職者ばかりではなく、リタイア後に求職活動をして、失業保険を満期受給してから年金生活に移行するというマイルドリタイアの人も統計に紛れ込んでいるだろうから、世代人口から就業者数を引いた62万人あたりをリタイア人口と見ていいのだろう。

年齢を考慮しない場合、労働人口はほぼ横ばいで、就業者数は増えているので、「労働力不足の主要因は景気回復」と結論付けることができる。しかし、25歳から64歳に世代を限定すると、労働力人口-26万人に対して就業者数+9万人なので、差し引き+35万人が景気要因で、人口減少要因は世代人口減少の-107万人ということになる。もちろん、主婦などの雇用されない労働力の率などもあるので、107万人の世代人口減少がそのまま労働力供給の減少に直結するわけではないけれども、「景気回復による労働需要の高まりが労働力不足の主要因」とは言い切れない数字になっている。

特に、世間を騒がせているアルバイト形態の労働力推移では、もっと明らかな数字が出ている。

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この表だと、雇用者総数は前年比で32万人増加しているが、正社員は1万人増と微増で、特に主力の男性労働者では2万人減で、女性の正社員化が主な増加要因になっている。一方、雇用者増の主要因はパートと契約社員で、ともに18万人前後の高い伸び率になっている。しかし、アルバイトは2万人増と微増で、特に男性アルバイトは6万人減となっている。これはアルバイトよりは好待遇な契約社員などの雇用形態へシフトしている好景気の影響と見て取れるが、ともかく景気の波を吸収しやすい非正規雇用の中では、アルバイト人口の伸び悩みが顕著に出ている。

アルバイト形態の場合、若年層が主力になると思われるので、全年齢層の統計には表れにくい若年層の人口減少が直撃する分野と推定できる。このため、就業者数全体では景気回復による労働力不足が主要因だとしても、「アルバイトが集まらない」という現象については、世代人口減少の効果が無視できない。特に、労働力人口の統計に表れない学生アルバイトなども含めると、世代人口減少がより直接的に表れるだろう。また、この手の統計には表れてこない外国人の短期労働者なども、円安の影響などでかなり減少しているものと考えられる。そういった部分まで考えると、アルバイト市場での労働力不足は、「労働需要の高まり」だけではなく「労働供給の低下」の影響がかなり強いだろうと思う。

景気回復局面では、不況期に生産性の低さを給与水準の引き下げでカバーしてきた企業が淘汰されるが、景気が飽和した後も、人口推移や為替の影響などで労働力不足が長期化して、雇用問題が起点となって産業構造の大きな変化を要求される時期が10~15年先くらいにあるんじゃないかと思う。

それから、非正規社員の推移で、男性の嘱託がかなり減少している。雇用の2007年問題の先送りに成功した嘱託制度も、そこから7年を経過して終わりを迎え始めているのが見て取れる。団塊世代もいよいよ本格的なリタイアが始まっている。そこからは、年金と医療と介護をどう支えるかの勝負が正念場に入る。外国人看護師の導入なども、保守的な資格制度のために半ば失敗に終わっているようだし、東京オリンピックが開催される頃には色々とその手の地獄が見られるようになっているかもしれない。

「全て円で発行しているから大丈夫」という国債も、ちょっとした刺激で信用に傷がつき、安定経営の銀行に取り付け騒ぎが起こるようなメカニズムで暴落する可能性も残っている。それが通貨の暴落にまで飛び火してハイパーインフレになる可能性は少ないけれども、年金や郵貯など、リタイア世代の生活を握る機関投資家の金融資産が燃え上がる可能性はいくらかある。そういう時代に、そろそろ権力の中枢に達している団塊ジュニア世代が親世代を経済的に切り捨てにかかる可能性も、いくらかはある。資産には相続があるし、投票権に定年はないので、あまり無茶なことにはならないと思うけれども。

政治家のわかりやすい煽りコメントに感じた違和感を、ある程度までデータを読みながら裏付けられたので、いくぶんすっきりとした。まあ、なんだかんだで海と言語の壁に守られた日本列島ではあるので、周辺文明にあまり強く蹂躙されることはなく、優雅に衰退して鎌倉時代末期と同程度の混乱で乗り切ることができるんじゃないかという気はしている。チベットあたりに遊んで新仏教を興すにはちょうどいい時代、という民衆心理にはなるのかもしれないけれど。

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by antonin | 2014-07-02 00:45 | Trackback | Comments(0)

「レイシズム」について

最近、「レイシズム」だとか「レイシスト」という単語をときどき目にするのだけれども、ここで言われているのが朝鮮民族と大和民族の間の関係だったりして、こりゃなんだろう、と思った。

"racism" の前提として、"race" の存在がないといけない。race には一応「民族」という語義もあるけれども、一義的には「人種」だろうと思う。なので、"racism" というと普通は白人至上主義を指す。中には少し特殊化したracismであるアーリア人種優越説とういうのがあって、ゲルマン人やラテンヨーロッパ人をはじめとして、インド人でもアーリア系の人たち、歴史の過程で北部から侵出したハイカーストの人たちは支配者たる民族で、ヨーロッパ人でもユダヤ人種は血統的にアーリア人種じゃないから被支配者たるべき、というような話になる。

なので、レイシズムというときには、その背景に遺伝的な優性仮説を頭から信じるという過程がないといけない。なので、韓国籍の人が日本国籍の人をレイシストだと批判する場合には、朝鮮民族と大和民族の違いが、文化的なものではなくて遺伝的なものだという前提がないといけない。

ただ、現代日本人というのは文化的にはかなり均質なのは間違いないのだけれども、人種的にどうなのかというと、遺伝情報の調査が進むにつれ、個人間でも多様な遺伝子が混在しているし、その多様性は地域的な差異としても存在していることが明らかになりつつある。これは実は朝鮮半島でも同様で、複数の遺伝タイプが混在していることを示すデータが出てきている。

中華人民共和国という国家は多民族国家ではあるものの、その中枢にある漢人の遺伝子を調査すると、あれだけの人口と複雑な歴史を持つわりに、意外に範囲の狭い遺伝的分布をしているらしい。まあ、多民族の中から漢人とわかる人を分類したうえで調査しているのだから当たり前じゃないかという話はあるが。

そして、現代の大韓民国でサンプリングを実施すると、その漢人系と、北方のアルタイ人系、それに北九州と同じ弥生人系の遺伝子が混合している。日本でも弥生人系が優勢で、そこにアルタイ人系が混ざっているのだけれども、韓国との違いとして漢人系の遺伝子がほとんど見られず、代わりに琉球系やアイヌ系に多く見られる縄文人系の遺伝子が混ざっている。

そういう遺伝的な違いというのは確かに朝鮮半島と日本列島の間にはあるのだけれども、人種差別というほどの「人種」の違いがあるのかというと、そうでもない。特に、日中韓の東アジア人の区別もつかないような(まあ、日本人である私自身にもあんまりはっきりと区別はできないけれども)ヨーロッパ人から見ると、韓国人が日本人を "racist" と呼んでいるのは、きっと変な感じがするんじゃないかと思う。

「偏見」とか「差別」というのは、明らかに存在しているとは思うし、それが存在する理由も排除していかなければいけない理由もわかる。偏見というのは「偏った見方」という熟語になっているけれども、英語にすると "prejudice" になって、直訳として「予断」という熟語もある。つまり、目の前に何か価値判断をしなくてはならない対象があるとき、それを何かの属性によって分類し、その属性によってのみ価値判断し、対象の個別性について考慮しないとき、「予断」が発生する。

ある人を見て、その人の性別だとか国籍だとかだけを見て、その人の個人的な能力や事情や意志を無視して判断することが差別なのであって、性別や国籍によって推定される能力や事情や意志が、実際にその人個人にも当てはまると判断されるとき、その能力や事情や意志により処遇を決めることは、別に差別ではない。

なので、「日本人は勤勉だ」という先入観を持っている人が他人を雇用しようとして、日本人と日本人ではない人が応募してきたとき、国籍だけを見て日本人を採用するのは予断による差別になる。でもその日本人Aさんとその日本人ではない人Bさんを調査して、実際にAさんが勤勉だと判明したためにAさんを採用するなら差別にはならない。もし調査結果としてBさんのほうが勤勉という結果が出ていればBさんを採用したまでのことだからだ。

この場合、実際の雇用判断が公平ならば、「日本人は勤勉だ」という先入観自体は罪にならない。なぜならそれは単に統計的な事実かもしれないからだ。極端に言えば、統計的に見ても間違っている先入観を持っていても、公平な判断をする努力があれば、やはり先入観は罪とならない。思想には自由があるべきで、罪は誤った行為に対してのみ求められるべきだとすれば。

だから、統計的な真実を参考情報程度に考えずに、古典論理的な真実と解釈して楽に個別の判断をしてしまうのが予断の発生する元で、この予断によって重要な判断が行われることが差別になる。なぜ予断が横行するのかというと、予断によらず常に公正な判断をするのは、面倒でしんどいことだからだ。予断のほうが単純で簡単であり、楽で時間もかからないからだ。効率的でスピーディーで低コストで、しかも統計的には正しい場合が多い、つまり何度もやっていけば平均的には良い成績を残すからだ。

ただし、法人にとっては平均的に良ければ正しい判断となるようなことでも、個人にとっては一生を決めるような重要な判断となる場合もある。そういう判断を統計的予断によってなされてしまうと、本当は適性のない人が、適性の高い指標を持つ属性を持つために、予断によって選別され、一方本当は適性のある人が、適性の低い指標を持つ属性のために、予断によって落選する。

人間には「立場が人を作る」という傾向があって、属性から導き出される統計的な指標によって選別を続けると、統計的に優位の属性を持った人は良い立場を得やすく、良い立場を得た人はその立場によって育てられて成果を挙げる確率が高まる。そして劣位の属性を持った人は良い立場を得にくく、劣った立場を得た人はそれによって能力が育たない。この正帰還によって、属性による統計的な指標の差はますます開いていき、最初は偶然だったかもしれない属性による違いは、実際に根拠のある違いとして定着してしまう。

統計分析の強力なところは、この属性による優劣を標本数の平方根に比例した精度でいくらでも炙り出せる能力なのだけれども、統計分析が語るのはあくまでカテゴリーやクラスという階級に対する知見であって、逆に個々の事例に対しては予断はできても確定判断ができない。もう言ったとおり、個々の判断が重要ではなく繰り返しが可能な判断については統計による予断が有利に働くが、やり直しのきかない個別判断には無力なばかりか、不適切で誤った予断に陥る場合が一定確率で起こってしまう。

「最強の学問」であるところの統計学の、最も凶悪な部分はここに由来する。まあ、これは単なる道具である統計学の問題ではなくて、道具の使い方の問題でしかないのだけれども。使いやすい統計量である「偏差値」そのものが悪いということはなくて、個人が学校に期待する教育そのものより、模試結果による入試の合格可能性だけしか見ない「偏差値教育」が悪い、というのと似たようなあたりになる。

なので、国籍や祖先の来歴などによって人が重大な判断で間違った扱いをされること、つまり差別というのは弱い個人にとって悪いものだけれども、朝鮮民族が大和民族に「民族差別」されているなどと考えることは、それ自体がまた妙な民族主義というか、ある種の信仰の産物なんじゃないかと思う。日本人にも大和民族以外の人はいっぱいいるし。

今ゆっくりと読んでいる本に、上代の8母音がどうやって生まれてきたかという仮説が書かれていて興味深いのだけれども、その中で、東歌には甲乙の母音区別がないという話もあって、「あづま」の人々は大和民族とはかなり違う人達だったんじゃないかと思う。古い文献には「毛人」という単語も出てくるけれども、今でいうアイヌの人たちとも違うんじゃないかと思う。そのアイヌにしても、本当に毛深くて彫りの深い系統と、列島先住の縄文系統の混血になっていて、遺伝的には単一民族とはいいがたい。

まあ、要するに異文化への嫌悪感とか、結局はそういうところに集約して終わりなんだと思う。他文化への尊敬を持つためには、自文化への自明な肯定、驕慢ではない自己愛や矜持を持つ必要があるのだけれど、外来文明の吸収によって立身出世してきた国家の住人にとっては、あんまり簡単なものでもなく面倒くさい話ではある。これは、日韓に共通した話だと思う。

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by antonin | 2014-06-19 23:20 | Trackback | Comments(0)

“The world is a book and those who do not travel read only one page.”

そういう警句が書かれた地図の図像が流れてきたことがあって、誰が言ったのかというと聖アウグスティヌスだという。出典はよくわからないが、あちらでは結構有名な言葉らしく、画像検索すると、まあたくさん出てくる。

the world is a book - Google 検索

被造物たるこの世界を創造主の作品とみて、不完全な人の言葉を経由して語られた書物なんかよりも、神の直接の作品であるこの世界そのものと対話し、よくよくその意味を読み取ろうとした、なんていうあたりがデカルトさんが科学的手法を編み出した原点であったりなんかもして、世界を一冊の書物として見るあたりも似たような感覚が出どころなのかもしれない。変なところで情熱的で、妙なところで冷静なあのアウグスティヌスさんらしい感じがする。同じ読書なら、科学的な探求による精読よりも、旅行しまくりの乱読のほうが楽しそうでもある。

世界を一冊の書物と考えると、1ページだけを読んでいては意味が分からないが、かといって全巻通読しないと意味が分からないほど一貫したものでもなく、一話完結で気軽に読めるが、それでいて全体的に通底したテーマがある連作物というように見える。別の巻を読んでから先に読んだ巻を再読すると、また違った味わいがあるような、そんな感じ。

なんだか、またどこかへ行ってみたくなった。鳥取から山口とか、三重から福井とか、そのあたりがいいかな。家族連れだと関東甲信越、南東北くらいが限界かもしれない。プラハとかカイロとか、時間と費用を気にしないでいいなら見てみたい場所はいろいろとあるけれども。

ただまあ、サブカルチャーの時代というか、まだまだ地理的な距離が文化の違いに支配的だとはいっても、都市部だったらある階層にいる人々の文化は共通したものが多くて、むしろ同じ国に住んでいても、文化的に交わらないような職業だったり趣味だったり、そういう人達の中へ入り込んでみるほうがカルチャーギャップに驚いてしまうようなことが多い。

「一冊の書籍」は実はハイパーテキストでできていて、リンクのないページへ飛ぶのは意外に難しい。それでもまあ、人間に直接関係のある文化なら、6回リンクを踏めばすべてのページに行き着くという程度の距離ではあると思うので、あとは「縁」の問題かな、という気はする。とりあえず自宅の玄関を出てみるか。


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by antonin | 2014-06-08 14:26 | Trackback | Comments(0)


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