安敦誌


つまらない話など
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葦叢にて

エアコン完備 屋内運動会への移行進む - 虚構新聞

あはは。

「目的が手段を正当化する」というのはあんまりピンとこないけれども、「成果が過程を正当化する」ってのなら、いたるところにあるな、と思う。STAP細胞のアレにしたって、もしもう少しまともな実験ノートで、もっとまともな成果が出ていれば、たとえハートがちりばめられたノートやぬいぐるみが並べられた研究室でも、「○○○△子のノート術」とか「リケジョ職場のコーディネート力」なんて本が売られたに違いないのだ。売れるかどうかは別として。

冷戦の結果なんかは「自由主義が強権主義に勝った」だけにしか見えないのだけれども、ところどころで「資本主義が社会主義に勝った」という話にもなっている。リフレ理論も、これまでの日本の経済状況を分析すると、理論が正しかった部分と、理論通りとならなかった部分と、別の因子が混淆して結論が出せない部分とに分かれるはずなのだけれども、結局は最終的な景況から単純に白黒付ける論法が一般には行われるんだろう。学者さんはもちろんそういう人ばかりではないはずだけれども。

勝てば官軍負ければ賊軍、終わり良ければ総て良し。そういうことは遠い昔からいくらでも語られているところだけれども、これってのは、人間の脳の機構として極めて基礎的な部分に由来しているんじゃないかと、最近では考えている。例の、書かれなかった小説の「主人公」である人工知能の学習システムとか、ニューラルネットワークが天下り的な教師信号を持たない場合の信賞必罰的な学習モデルとかを考えると、人が眠っている間にやっている学習というのは、主にこの「成果が過程を正当化する」というヤツなんじゃないかという直感を持つようになった。同様に、失敗は過程を全否定するのだろうと。

この「結果論」というやつは、人間の理性にとっても感情にとってもかなり根本的な原理なんじゃないか。もしそうだとすると、たとえ目が覚めている間にどんなに理性で厳しく批判的に考察をしても、眠っている間の無意識によって結局はこのタイプの学習が進んでしまう。論理的な理性というのは、文字を覚えて、個人資産の水準で紙と筆だか、羊皮紙とペンだか、粘土と楔だとか、ともかくそういう、言葉をいったん脳の外部に蓄えて何度でも脳に還流する仕組みが整ってからできたものだろう。過去の自分の意見を外部化して客観視し、矛盾がなくなるまで何度も自問自答を繰り返さないと、精密な論理というのは練り上がってこない。要するに、twitterか何かで日がな一日対話を繰り返していると、あまり論理というのは育たないものなのだろうと思う。

人間の脳には、理性を司る前頭野、抽象概念を扱う側頭野、直感を担う後頭野、感情を引き起こす大脳辺縁系などがあるけれども、もう少し下位には小脳というシステムがあって、大脳と小脳は橋(きょう)でつながっている。この小脳は、基本的に情報の反芻をしない。入力から出力へ一方通行で情報を流し、並列度の非常に高い結合によって、かなり複雑な情報を一瞬で処理する。古典的なニューラルネットワークはだいたいパーセプトロンのような一方通行のモデルだったけれども、小脳の働きはこのモデルに近い。

大脳と小脳は、モルフォロジーもトポロジーもだいぶ異なるのだけれど、大脳というのは小脳や中脳のような進化的に履歴の古い部分に比べるとかなり自由な作りになっていて、情報の流し方によって一方通行的にもなれば相互通行的にもなる。過去を振り返る余裕もなく、レーシングカーに乗ってぶっ続けでサーキットを走らせるような情報処理をしていると、大脳全体が小脳のようにフィードフォワード的な働きをするようになる。論理より直観の塊のようになる。一方、他人との接触を控え瞑想に耽っていると、大脳で発生する信号が主な入力となって大脳を刺激し、小脳とは逆に相互循環的なネットワークになる。瞬間的判断は鈍くなるが、論理的で精密な考察ができるようになる。ただし外界の情報を遮断しすぎると、実世界と関係のない妄想の世界が強くなりすぎ、現実離れした理論を構築してしまう。そして脳分泌系の具合によっては統合失調を起こす。

だからまあ、あんまり論理、理論を積み上げすぎるといいことがないのだけれども、かといって時事ネタの議論に奔走しても、精巧だが深みのない反射神経の塊になってしまう。このあたり、難しいところだと思う。バランス、中庸、とかまぁそういうあたりなのだれども、中庸というものにはそれとわかる指標がないので、どうしようもないような気もする。端から端まで、正規分布していればだいたい正常なのだろうと思う。極端な人を排除するのも不健全だし、誰もが極端を目指すのも不健全なんだけど、だからと言って誰もが中庸を目指すのも、それはそれで不健全という気もする。

人間というものはよくわからない。

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by antonin | 2014-06-05 22:42 | Trackback | Comments(0)

戦争には断固反対する

人類の恒久平和を願い、戦争には断固反対する。

なぜか。それは、戦争というものが、人間としての総力を否応なくさらけ出し競い合わせる場であって、そういうところに放り込まれたら私は一発で死んじゃうか無能を晒して侮蔑の底に沈んじゃう自信があるからだ。平和な世の中なら「あんた面白いね」で済んでしまうところが、戦場では身も蓋もない実力勝負の連続で、正義だなんだというのさえ、人心を掌握するための技巧でしかない。嫌だ。そんな世界は嫌だ。

そういう、極々個人的な理由から戦争反対だ。ただまぁ、こういう私のような奴が一定数生き残っているということは、逃げ回る奴らにも何らかの競争優位があったということなんだろう。勇猛果敢な兵士を集めた精鋭部隊が天才的指揮官を敵にして全滅するということもある。それを横目に逃げ回った弱虫が、なんとか戦禍を逃げ延びて、平和が戻ったところでのうのうと暮らすということも、有史以前の人類史では珍しいことではなかったんだろう。

経済戦争も戦争の一種なのだとすると、やはり戦うのは面倒だ。著しい戦果を挙げる英雄だとか、厳しい戦局でも弱音を吐かず粘り強く戦う猛者は輝かしく見えるけれども、ある程度を超すと、勝手にやってくれ、こちらを巻き込んでくれるな、と思う。この戦争が終わったら、というのは死亡フラグだけれども、世界的経済戦争の前線も、早いところこの極東から中印の先へ去ってくれと思う。

二流の働きをする労働者に、笑いながら惜しげもなく二流の対価を払えるような、ゆるい生活に戻りたいじゃないか。賢い消費者になるとか、経営感覚とリーダーシップを兼ね備えた一流の労働者を求めるのも頼もしいが、そんな奴ばかりじゃ世の中は窮屈だ。

ある程度隆盛を極めた文明が衰退すると、文明の後継者たちは、良き官僚となる。その官僚たちを支配するのは、よそから攻めてきた蛮族の王と相場が決まっている。五胡に支配された漢人たちもそうだし、ゲルマンに支配されたローマ人たちも同じだ。平氏や源氏の支配を受け入れた後の公家たちも似たようなものだったかもしれない。

こういう過程で、文明の辺縁の人たちは、単に蹂躙されて結構悲惨な目に遭う。ヴェネツィアがあんな干潟の沖にあるのもそういう事情があるし、大日本帝国末期の琉球もそういう具合だったのだろう。だからまぁ、衰退が常にハッピーというわけではもちろんないのだけれども、どうせ衰退するなら優雅に行きたいものだと思う。どうせ人口が維持できなくなった時点で文明も維持できないというのもわかりきっているのだし。神話的栄華の時期を過ぎたソクラテス時代のアテナイにも、少子化対策のための施策があったとかなんとか。

まあいいや。寝る。

▶ PAN SONIC VAKIO album(1995) 07 Hapatus - YouTube

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by antonin | 2014-06-04 00:49 | Trackback | Comments(0)

典拠

文明とは何か、ということをしばらく考えている。

って、まあ、考えちゃいるんですが、んなのどうでもいいじゃん、という感じはある。

「反りが合う」ってのは、木工の板の乾燥に伴う反りだなんてことを書いたことがあったが、調べると剣と鞘の反りのことらしく、なるほど、ということに。板の経年による反りを職人が見分けるという話は確かにどこかで聞いたのだが、それは「反りが合う」という慣用表現の語源説とは別の話だった。「元の鞘に収まる」なんていう慣用句もあって、剣と鞘というのはその、プラグにmaleとfemaleがあるのと同じあたりを指している。そういうのも含めて、「反りが合う」の語源もやはり男女の仲を表すアナロジーとして自然な剣と鞘がいいのだろう。

「メルクマール」の例のアレも、書いて数日後に実は間違いがたくさん発見されたのだけれど、まあ場末のブログだしいいじゃねぇかと思って放置していた。しかし、5年も経って未だに辞書的に検索の定番になっているあたりを見ると、誰かちゃんと辞書的に正しいことを書いてくれよ、と思う。ネットのいい加減さのようなものを奇しくも体感してしまって面白くもあるんだけれども、無料情報ネットワークを構成するボランティア的市民の一員として若干の後ろめたさもある。Wktionaryあたりに自分でちゃんと書き直せばいいじゃん、というのはあるんだけど。

Wikiと言えば、シャノンの定理かなんかでここへ飛んでくる人がいた時代があって、それはさすがにかわいそうだと思い、Wikipediaに加筆し、調べたい人はそちらへ飛んでくれるように仕向けたことがあった。そして、その目的は果たされたのだけれども、先日ふと思い立ってそのページを見てみると、その時に書いた文章がほとんど手つかずのままに残っていた。そんなもんなのね。ネットの情報はやっぱり信用ならねぇ。まあ、編集の手が入った紙の書籍だって実はどっこいどっこいの部分はあるんだろうけれども。自分も嘘を書いたつもりはないし、一応大学で使った教科書なんかは軽く参照した覚えがあるけれども、どちらにせよ素人仕事だ。

あと、Wikipediaというと、ある花の種の写真が知っているものと違ったので、他言語版で多用されている、よく見慣れたものに差し替えた。そういうチマチマした編集などもやってみたが、ああいう公開データベースにコミットする作業はやはりドキドキする。メンテナがいるわけでもないからプルリクエストとか成立しないしなぁ。

まだ若い研究者の会見がテレビで一般中継されたりしたらしくわけわからんことになっているが、公開というのは恐ろしいものだよなぁ。前にも書いたが、平凡な人間にとっては目立たないということも幸せの要件になる。その点、駅風呂は生ぬるくて居心地がいい。出世というのは組織で管理的役職に上り詰めることを指すのではなくて、文字通り世に出ること、世に名が知れることなんだと気付いたのは結構最近の話だった。憧れなくはないが、物は良し悪しだよなぁ。

以前に商売の話で、商売の客は狐みたいなもんだと書いたことがあった。あの意味というのは、B2Bでお互い生活かかっているような場合は別として、消費者相手の商売なら、客というのは生活を賭けて買い物なんかしない。日常生活の一部として、半ば無意識的に店と商品を選んでいる。そういう、全身全霊を傾けているわけではない、パーシャルな注意の仕方をしているとき、どんなに賢い人だって狐並みの知能で判断をしている。商売人は生活かかって商売をしているが、客は別にそうじゃない。このギャップが狐狩りの風景になる。

著述も似たようなもので、本気のプロモードで考察している分野もあれば、力を抜いて流すように書く分野もある。ちょっと専門を外れれば、どんなに賢い人でも畜生になれる。そしてそれが人間の自然な姿である以上、多くを書く人の文章というものとの付き合い方も見えてくる。ある人の中の「賢人」が書いている部分なのか、「狐」が書いている部分なのか、パッと見は分からない。自分の中の「賢人」を引っ張り出して来ればそのあたりを判別することはできるが、私の中の賢人は老人らしく疲れやすい。気が付くとすぐ狐にすり替わっている。百匹の狐を一気に野に放つ能力があるような人もいて、それはそれで才能だなと思うけれど。

煮詰められたクルアーンでも妙法蓮華経でも、部分を拡大すればきっとアホな部分はあるだろう。教科書だってなんだって。そういう部分をサラリと流せるとなかなかいいものだろうけれども。
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by antonin | 2014-04-11 02:47 | Trackback | Comments(0)

教え育てること

子育てをしながら、自分が子供時代に見ていた子供向けの商品を思い出したりするのだけれども、そうすると、当時の商品を作っていた大人たちからのメッセージが、なんだかとても優しさに満ちていて、子供に対する単純な愛情が感じられたなぁ、なんていう、当時は気付かなかったようなことを思うことがある。けれどもまあ、今もそういう暖かな視線というのはあって、ただ大人の立場からは検知しにくいだけなのだろうな、というようには思う。

当時から、テレビ番組とタイアップした玩具商品など子供を食い物にした商売はあったけれども、少なくとも子供の教育のためという建前のようなものはどこにもあったような気がする。最近はビジネスに対する憚りみたいな感覚も減って、子供たちのメンションを奪い合うことに対して、あまりそういう言い訳じみた建前を前置きする機会は減っているという感じはする。当時を大人として生きていたわけではないので、等価な比較はできないけれど。

テレビに関しては、もう維持期から衰退期に入ったメディアなので、当時の放送作品との品質の差というのは、勃興期特有の挑戦的なスタッフが減ったことや、あとは単純に運営規模と収入の比率が悪化しただけなんだろうと思う。現在はウェブの世界が勃興期から維持期に入っていて、コドモたちが子育てをするような時代には衰退期特有の失望感に迎えられているのだろう。

--

最良の育児とは、凡庸な教育者である実の両親が子供の教育をいくらか放棄して、教育に使命を感じている人に一部を丸投げしてしまうことだ、というような意見もある。確かにそんなような気もするし、しかし一面でしかないような気もする。

近代的な学校というのは、ほぼそういう丸投げ先の組織なのだけれど、西欧文明にキャッチアップしていた明治時代ならともかく、もう大概制度劣化していると思う。けれども、ゆとり教育政策だとか、その反動としての基礎反復教育政策だとかで、均一な国民学校全体のあり方を均一に変えていくという方法そのものがとても明治政府的で、なんだか疲れる。現状の公立学校という組織は国民の6割くらいに対してはすでにベストプラクティスになっていて、ただ残りの4割を標準に抑え込もうとした、国民を生産する工場としての品質管理的手法が時代に合わなくなっているだけだと思う。「均一な教育」ということが問題なのであって、「均一」という部分に手を付けないまま、すでに多数にとってベストなものを違う何かに「カイゼン」しようとするのは、方法として間違っているように思う。

習熟度別クラス編成とか、そういう小手先の修正ではなくて、学校という枠組みは今の完成したものを残し、しかしその枠組みの外側で教育を受けることを徐々に認めていくしかこの時代に合わせる方法はないと思う。でも、学校を卒業したその日から学校に勤める教員出身の官吏にそういう発想は難しいだろう。微視的には大きく変えたいが、巨視的な構造について変えるという発想からして無いようにも見える。素人考えでは逆だろうと思うが、まあ自分の属する業界のことを考えるに、難しいだろうなとは思う。改革の内容が、自分たちの手からこぼれ落ちる部分を作るだけ、というのは受け入れ難いものがあるだろう。

保護者の自由選択という市場原理を受け入れる私的教育と、国家による標準化と経済補償という社会主義的な公的教育をどう共存させるかというのも難しい。今も私立学校は存在するけれども、その自由度というのは知れている。NHKと民放のテレビジョン放送なんかを念頭に置くと、教育の自由化後に平均的な子供たちが公教育に残り、私教育が多様性を司るというよりは、マスがベネッセ的な民間サービスに流れ、公教育のほうが「パブリックスクール」のような形へと変質していくのかもしれない。そういう未来像もどうなんだろうなぁ。

--

古い偉人伝などを読むと、親は平凡な職を継がせたかったのに、教師や親戚が子供の才能を見抜き、親を説得して親元から引き離し、資金を援助しつつ育て上げた、なんていう話が目立つ。一定水準を超えた才能は、運はあるにしてもそうやって見出されるものなのかもしれない。ただ、そういう「引き抜き」が人身売買にならない程度にシステム化すると、恐ろしく強い国になるだろう。学費の安い国立大学なんていうのはかつてそういうシステムだったのだけれど、今は私学とさほど費用の差がないらしい。

うちのコドモたちをどう育てるか、というのとは別の水準で、そういうようなことも少し考えてしまう。
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by antonin | 2014-03-24 01:54 | Trackback | Comments(0)

国家による復讐

韓国が日本に、とかではなくて、日本国政府が日本国民に復讐を試みる事例が見られて、嫌な感じがする。昔からこういうのはあったのかもしれないけれど。時事ネタでもないし、気力もないのでつぶやき程度に。

警視庁および警察庁。

2ちゃんねる発の逮捕(書類送検)者まとめ

かつては民事不介入ということで犯罪の未然予防にはあまり積極的ではなかった警察組織も、大阪教育大学附属池田小学校の事件などがあって、公的施設に対する犯罪予告に対する事前警戒に頻繁に駆り出されるようになっていく。そもそも人員的に余裕のある組織ではなく、通信、交通の発達に伴って犯罪捜査も高度化していく中で、予防的な事前警戒の人的コストが組織に重くのしかかっていく。

そしていつしか、「威力業務妨害」という罪名が犯罪予告に適用されることが増えていくのだけれど、その背景に犯罪予告そのものが「警察組織に対する威力業務妨害」と化している実態がある。もちろん法的には警察に対する威力業務妨害の適用はないので、第三者に対する威力業務妨害あるいは脅迫の罪状による逮捕状発行の閾値が下げられ、それによる書類送検とマスメディアへのリークを使った社会的攻撃という形での警察組織の自己防衛が始まる。

こういう流れがあって、犯罪予告遠隔操作事件では露骨な冤罪事件を生み出してしまったのだけれど、その首謀者という「疑い」だけで容疑者を1年以上拘留するという、旧自由主義圏の先進国としてはおよそ信じがたい人権侵害事案があった。これも警察組織に恥をかかせた犯人への報復意識が引き起こしてしまった事件だろう。最終的に不起訴になるとしても、メディア露出によって見せしめ効果があれば一定の防衛効果がある。

こうした、新規立法ではなく既存法規の「弾力的運用」による、組織防衛のための国民個人への報復行動は他の省庁にも見られる。

農水省。

競馬の必勝ソフトを馬券のネット販売と組み合わせ、1億円を超える収入を得た人がいる。この人に、負けた馬券の購入費用を経費として認めないという解釈で、勝ち分の数倍の追徴課税が宣告された。

競馬で1.4億円稼いだ男性に6.9億円の追徴課税 競馬ファン「いや、そのりくつはおかしい」 – ガジェット通信

馬券のネット販売や馬券の当選倍率設定そのものに問題があり、適切に解析すると定常的な利益を上げることができたというだけのことで、本来であれば当選倍率やネット販売の総量規制などで対処すべきところを、税法の弾力運用という方法で政府から個人への報復が行われる。最終的には取り下げられる場合があっても、その時点ではニュースで大々的に報道され、類似の行動が不利益をもたらすということを広報する。

私は堀江貴文さんという人物はどうも好かないが、放送局を買収しようとして間接的な罪状で投獄された事情というのは、やはり総務省(旧郵政省)という政府組織から民間人個人への「法の弾力運用による報復」に見える。類似の現象は、探せば他にももっとあるだろう。

本来、立憲主義や人権主義とは、こういう国家権力による国民個人への攻撃を避けるためにあった。けれども改憲すらできずに長い年月を過ごすうちに、日本国は憲法の文面よりその解釈が優位になるのが当たり前の社会になった。法は乱立し、その文面よりも解釈と運用が優位になった。その結果が、徐々に国民に突き刺さりつつある。今はまだ「弱いところ」から刺され始めている段階だけれども、いずれは多くの人が笑っている場合ではなくなるだろう。労働諸法の問題を見ると、もう誰も笑っていないような気もするけれど。

法治原則を軽んじるというのは本当に怖い。
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by antonin | 2014-03-21 00:21 | Trackback | Comments(0)

普通はそんなことしない

ユダヤ人と韓国人は似ている、なんてことを書いていたら、OSがフリーズした。なんかネットワークドライバがやられてるみたいだ。マルウェアでも入ったかな。明日にでもOS再インストールしよう。

--

ハッカーとは普通の人が1分以上かかる作業を10秒でやってしまう人たちの総称だ、なんて言葉があったが、それは表面的な結果であって、本質は別のところにあるだろう。

なぜハッカーが普通の人に1分以上を要する作業を10秒で済ませてしまうかというと、「そういう作業ならやったことがある」からだろう。普通の人が「普通はそういうことをしないよ」「それになんの意味があるの」「なんでそういうこと思いつくの」と言うようなことを、「ああ、そういうのなら何度かやったことあるよ」と言えてしまうのがハッカーの本質だろう。経験があれば、そりゃ作業は早い。

で、普通の職業上のプロの経験とハッカーの経験が違うところは、普通のプロは何か職業上の目的なり客の依頼なりがあって、その目的に沿った手段として、個別の作業に習熟している。ハッカーの場合そうではなくて、基本的に興味本位で動く。単に興味があるから実行してしまう。しかも、目的意識より好奇心が優先するから、合理的発想からは出てこないような奇抜な行動を取ったりもする。その結果として、常識的には解決不能に見えるような問題でも、「そういうのやったことあるよ」となる確率が高くなる。

そういうハッキングの中には、セキュリティー機構をなんとか解析して突破してやろうという分野もある。そういうのはクラッカーと呼ばれるのだが、泥棒がセキュリティで守られている価値を不正に手に入れるための手段としてクラッキングをするのに対して、ハッカーはクラッキング自体を目的とする。で、勝利者トロフィー代わりに何かを盗んでいくこともあるが、それは登頂した山に国旗を立ててくる程度の行為であって、目的ではない。

私の通った中学高校には個人持ちのロッカーがあって、その扉には南京錠や番号鍵がぶら下がっていた。安い番号鍵というのはナンバーリングが引っかかって難しいのだが、高級な番号鍵というのは動きが滑らかで、内部の構造が感知しやすかった。時効かどうかわからないが、早朝とか休日とかに学校に出る用事があると、そういう鍵を開けて放置したり、似たような鍵を入れ替えてみたりして遊んだことがあった。中身には興味がなく、手を付けたことはなかった。そういうクラッキングはそれ自体が面白く、数独なんかと本質的に変わらない遊びだった。

技術の世界にはそういうハッカー気質の人間が多い。だから、時計を分解したり、バイクのエンジンを分解したり、何かしらそういう馬鹿らしいことを無目的にやってきた経験がある。機械のたぐいを何度か壊した果てに、組み立てや改造のコツを身に付けたりする。数学者なんかも、そういうのと同類のハッカー気質を持っているようにみえる。

飛行機に興味がある人なら飛行機を作りたいだろうが、民間機は予算も規制も厳しいので、軍用機を作るほうが何かと環境が良い。作ったもので戦争をすること自体にはあまり興味が無いが、作った機体が空中戦で勝てるのは何より嬉しい。そういうものだろう。

子供の頃に興味本位の遊び方をしていたハッカーの中からは、ときどきとんでもない奴が出てくる。フォン・ブラウンとかコロリョフなんかはそういう部類の人だが、そういう人のとんでもないアイデアを具現化するには、アイデアを聞いて現物に仕立て上げる連中の層が厚くないといけない。そういう厚い層が生まれる経緯を見ると、彼らが子供の頃に流行した英雄譚に理由があることが少なくない。

ロケットなんかはゴダードあたりからの技術的な検討が続いていたけれども、それより効果的だったのは、映画館の上映スケジュールを埋めるのに簡単だったスペースオペラだったのだろう。そういう物語を見聞きして育った少年たちが戦争による航空技術の急激な進歩に育てられて、機が熟したのが1960年代だったのだろう。ロケットは月に達し、飛行機はマッハ4に迫った。

しかし、時代が移り変わり物語の流行も変わると、少年たちは別の分野に夢中になる。80年代にスペースシャトルは飛んだが、月は遠のいた。スペースシャトルにも次期モデルの開発はなく、その長い運用にも幕が下りた。技術は単調に進化するものではなくて、進化のある時期に爛熟する。その黄金期を後の世代が超えることは、なかなか難しい。

蒸気機関車による鉄道全盛の時代には、蒸気圧で精密な機械制御をする技術が発達したが、その大部分は失われた。蒸気エネルギー自体は火力や原子力による発電に活かされているし、ピストン駆動系は石油系内燃機関に活かされているが、蒸気機関車は消滅した。

今はロボットアニメを夢中になって見ていた少年たちが精密機械を作り、ゲームに夢中になっていた少年たちがソフトウェアを作っている。今はその技術が爛熟しているが、技術は失われないまでも、今より落ち着いた分野になっていくだろう。アニメ、ゲーム、半導体などは、そろそろ一息つく頃かもしれない。

「普通はそんなことしない」というのを普通の人は禁止したがるが、それをあえて野放しにしてみる度量と、泥棒ではないハッカーを実用分野で活かせる社会というのは、成熟した豊かな社会に思える。江戸時代あたりには、四十五十で隠居した旦那の道楽として学問があったらしく、そういう人たちが、体系的ではないながら結構本格的な学問をしていたものらしい。

知るとか考えるとか、まあ比較的役に立つものではあるけれども、それ自身が楽しいって奴は放っておいてやって欲しいと思う。手段として使うのも正しいのではあるけれども、とんでもない分野で「それ、調べたことある」とか「それ、考えたことある」というのは、意外なところで役に立つ。まあ、半分以上は役に立たないもので、また1割くらいは害悪でもあったりするのだけれど、そういうのを飼い慣らせる社会というものもなかなか立派なものだと思う。

ライフハックというのは本来、覚えて自分の生活を良くするための手段というよりは、人間心理や社会機構の意外な特質を突いて遊ぶあたりを指すんじゃないかと思うんだけれど、どうだろう。
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by antonin | 2013-12-14 05:11 | Trackback | Comments(0)

優性遺伝の法則

メンデルの法則の一部として、優性遺伝の法則と呼べる遺伝傾向がある。現代の遺伝学は分子生理学が主流になっていて、メンデルさんがエンドウ豆を交配していたころの素朴な生物学とは次元の異なる領域に入ってしまったようだけれども、それでも、大雑把な議論では優性遺伝の法則が現代でも通用する。

新聞社が使うような日常語としての「優性遺伝」という言葉は、優生保護法と言うときのような、ちょっと誤解された語義になっていると思う。つまり、優れた性質がより有利に遺伝していく、というような意味にとられているようにも見える。中学の生物の授業をちゃんと聞いた人であれば、これが間違いだということは理解できるが、慣用表現としてはそこまで厳密な用法も求められず、間違いはあまり批判されることもなく生き残っていく。

教科書が言う優性遺伝の法則というのは、遺伝子にも優性遺伝子と劣性遺伝子というのがあって、両者が混ざると、優性遺伝子の方に由来する形質が個体に発現する、というものになる。要するに、個体の形や機能を決める時に、勝つ方の遺伝子を優性と呼び、負けて隠れてしまう方の遺伝子を劣性と呼ぶ。ただ、実際的には形質の発現で優性の遺伝子というものは、個体に現れた形質の機能面でも「優性」であることが多い。このあたりが誤解を招く原因の一つでもあるのだと思う。

なぜこうなるのかというと、劣性遺伝子というのは、優性遺伝子と組になるとその形質が隠れてしまう。つまり、遺伝子としての生存競争を、その世代ではパスしてしまう。優性遺伝子にお任せのフリーライダーとして次世代に持ち越される。もちろん劣性遺伝子であっても劣性ホモになれば形質は発現するので、統計的に見れば、個体の生存と繁殖に有利な形質をもつ遺伝子の方が残りやすく、不利な形質を持つ遺伝子は排除されていく。

けれども、形質が常に発現する優性遺伝子に比べると、劣性遺伝子に働く淘汰圧は低くなる。特に、優性遺伝子に対する劣性遺伝子の存在比率がある水準より小さくなってくると、劣性ホモの個体が生まれる確率というのは劣性遺伝子の存在比率の2乗になってくるので、例えばある劣性遺伝子の存在率が0.1%であれば、その形質の出現比率は個体数の1ppm (0.0001%)にまで低下する。それが十分な統計的淘汰を受けるには、ほぼ均一な環境下に数十億の個体が生まれる程に繁殖するか、あるいはほぼ均一な環境下で数千世代の時間を掛けるかというように、十分に多くの個体出現を必要とする。

そういう事情があって、一定水準以下に減少したあとの劣性遺伝子というのは、短期的には淘汰圧をほとんど受けない。なので、淘汰圧を強く受ける優性遺伝子が生存上有利な形質を担いやすく、それに比べると劣性遺伝子が生存率への寄与面で「劣った」遺伝子を担うことになりやすい。

そういう効率の悪いことをしていれば、生存競争の厳しい生物界では程なく絶滅、あるいはニッチに収まるまで個体数が減少してしまうはずである。ところが、現在地球上に生息する生物の主流は、この優性遺伝の法則にしたがうタイプの、遺伝子を対で持つ生物になっている。これはなぜなのだろう。

その答えというのは既に見つかっていて、その一例として鎌状赤血球の話が生物の教科書には載っている。酸素が分子拡散で体内に行きわたる寸法より大きくなってしまった生物は、血液循環などによって能動的に酸素を体内に行きわたらせる必要があり、そういう機能面で「優れた」遺伝子とは通常の丸くつぶれた赤血球を作る遺伝子なのだが、劣性遺伝子による形質の一つである鎌状赤血球というのは酸素を運ぶ効率が悪く、この種の赤血球を持った人というのは酸素不足で貧血症状に陥りやすい。

それでもこの、二つの意味で「劣性」である遺伝子がある地域で目立つほど見つかる理由というのは、蚊によって媒介されるマラリアに感染しにくいという、副次的な特徴が理由になるらしいということがわかっている。つまり、酸素を運ぶという赤血球本来の仕事としては、鎌状赤血球というのは実に効率が悪い。しかし、マラリアという致死率の高い感染症の感染率というただ一点だけで見ると、鎌状赤血球の方が優れている。

劣性遺伝子は、それが通常環境ではあまり優れていない形質を担っていても、優性遺伝子に実質フリーライドした格好で眠り続けながら遺伝競争をそれなりに生き延びている。それは環境が激変する「もしものとき」に備えたポテンシャル採用のようなもので、これまでの生物淘汰の歴史ではそれが許されてきたということになる。

優性遺伝子は環境からの淘汰圧が強いので、形質の改善による環境適応度の向上も素早いが、環境が変わって形質が一転生存に不利になると、個体数減少も短期間のうちに進行してしまうというリスクもある。そういうリスクをヘッジする手法の一つが、劣性遺伝子を持つということだったのだろう。


で、ここからはいつものアナロジー与太話になるが、人間界でも似たような事情があって、比較的安定した環境が続けば、仕事面で優れた人たちが競争を繰り広げながら日進月歩の進化を遂げてくれて構わないわけなのだけれど、環境が激変してかつての競争の勝者たちが軒並み不調に陥るような局面では、「劣性」の中の誰かが活躍する場面も起こりやすくなるのだろう。敗戦で財閥が解体された直後の創業企業などはそういった感じだったのだろう。

昔話に三年寝太郎という話がある。普段はゴロゴロと寝ていて寝太郎と揶揄された男が、ある時突然働き出し、村に大きな富をもたらす。まあ、この話では寝太郎が寝ていた間にも実はいろいろと思案していたことになっているので単なるぐうたらとはわけが違うのだが、仕事もせずに学問ばかりしていたころの寝太郎は、ある意味では働き者に対するフリーライダーではある。

アメリカ合衆国のヴェンチャー・キャピタルや私立大学の運営態度などを見ると、こういう寝太郎たちに積極投資する姿勢と、寝太郎が寝たまま死んでしまう(起業や研究が社会的利益を上げないままに終わる)リスクを確率的にちゃんと織り込んでいる姿勢が見える。そして、その不発に終わった事業や研究も、論文や特許や投資レポートとして明文化され、知識が遺され、伝わっていく。こういうあたりが合衆国の知性の真の強さなんだろうという気がする。

日本人の場合、こういう劣性遺伝の発露、つまり、必ずしも優秀ではないが、個性的で時代に合う起業や学問というのは下火になっているように見える。要するに、長い期間、日本人を取り巻く環境というのは安定していたのだろう。そういう意味では、これまで「劣性遺伝」されてきた不遇の変人たちが、突然表舞台に立って活躍する確率は上がってくるのだろう。見ようによっては、「オタク」という人たちが実はそれなのかもしれない。もっと変態的な「劣性ホモ」が活躍するようになると、きっと世の中は面白くなるだろう。まあ、それが「良い世の中」とは呼べないのかもしれないけれど。
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by antonin | 2013-12-02 00:51 | Trackback | Comments(0)

先天と後天

かつて先天性障害と思われていた病気が、その後の調査で妊娠中の感染症によるものだとわかった、なんてものが結構あるらしい。そして、それがわかったからといって、特に名称の変更もないらしい。「先天性」というと遺伝子起因のものだけだと考えていたので、出産前の異常は全て「先天性」だと知った時は少し驚いた。まあ、古典的にはそうだよな、というのはわかる。医師に手出しのできない期間の原因は全部先天性とするしかなかっただろう。

受精から出産までの環境要因が「先天異常」になるのだとすれば、精神については、自分で自分をコントロールできる年齢までに受けた環境要因というのは、「先天性」ということになるんじゃないか。生老病死の四苦で、「生」の苦というのは、こういう本人の意志ができあがるまでの環境を指すんだろうと、最近は考えている。産院の取り違え訴訟のニュースなどを見ても、生苦の困難さというのが伝わってくる。

精神にも、脳の器質的な遺伝性の影響というのが少なくないのだろうけれども、学習性の臓器である脳のことだから、発育期の教育環境の影響というものも大きいのだろう。だらしない、弱い自分を振り返っていると、「いろいろと文句を言っているが、問題なのは環境ではなくお前の精神の方ではないか」というような、戒めの言葉が世にあふれている。で、普通の人はそういうのを読んで奮い立ち、変わっていくのだろう。

が、もう本当にダメな人間は、それで落ち込むことはあっても、一念発起して生まれ変わることができず、一生グダグダしていく。もちろん、成人してからでも本人のダメさを超越するようなスーパーメンターに出会えたりしたら、あるいは変われるのかもしれない。毎日励ましてくれたり悪いところを指摘してくれるかもしれない。しかし、本で読んだ言葉に感銘を受けたくらいでは、なかなか変わらない。変わるとしても、とてもゆっくりと、ほんの少しずつしか変わっていかない。

そういう、自分の悪い点に気づき、しかし改善しない自分の精神と付き合いながら生きるのは辛かった。つい言い訳や弱音を吐くのだが、それが強い精神を持った人たちをより一層イラつかせ、より一層辛辣な言葉をいただくことになる。辛かった。

最近になって、自分の悪い部分のうち、知識や装備ではなく、気力や注意力に関する部分は、遺伝的、あるいは幼児期の環境による、「先天性」の問題だと意識するようになった。これで、いくらか楽になることができた。私は原因と責任は切り離して考えるので、原因である遺伝子の組み合わせや、育ててくれた親を恨むこともないし、すっかり大人になった今になって、老いた親に何かの補償を求めるようなこともない。原因の一部は親にあるが、今存在する私自身を多少でも変えられるのは、ダメなりに私自身しかなく、責任は自分自身にある。

親にしても、当時の社会状況や家庭状況などの中で精一杯頑張って育ててくれたわけで、感謝することはあっても恨むことなどない。遺伝的にも気むずかしい気質の第一子を、親類も近所にいないマンションの一室で育てるのは大変だっただろう。それでも、雑誌や書籍や吉岡たすくさんの番組などを見ながら、母は一生懸命育ててくれた。それでも失敗だったのは気の毒だが、遺伝的気質からして、難しすぎるタマだったのだろう。

うちのコドモたちも厄介者揃いだ。まだ大教団に発展する以前のお釈迦さんも、生まれるから病気になる、生まれるから老いる、病気になったり老いたりするから死ぬ、とそういう因果を説いたのだけれど、人が生まれるそもそもの原因が愛着であると説いた。後の仏教による解説ではかなり哲学的なのだけれど、十二因縁説をストレートに読むと、なんとなく、恋をして所帯を持って子供を生むからまた苦が生まれるのだ、というようなニヒリズムを含み持っていたような印象もある。初期の教団は男所帯でもあった。死の間際にはもう少し鷹揚になったようだけれども。

でも、悩みは多いが、コドモたちが生まれてきてくれて良かったとは思う。まともに教育できない親に育てられて申し訳ないとは思うが。昔は、ある程度の年齢になると、実の親はダメでも、人格の優れた人が多くの丁稚を使った商売をしていて、そういうところに奉公に出すと、子供が人格的にも大きく成長して帰ってくるなんていう制度があった。渡る世間に鬼はなし、親は無くとも子は育つ。そういう時代があったのだなあ、と羨ましくも思うが、それはそれで気苦労も多かったのかもしれない。

東京大空襲の間接的な影響などもあって、私は常に子供を心配する視線の中で育った。生活にはいつも母の心配が寄り添っていた。祖母はもっと輪をかけて心配症だった。戦後、日本各地の親類を頼って、転々とした。母にきょうだいはなかった。祖父母は母を溺愛した。そういう人が、初めて子育てをする。アメリカなんかから入ってきた、今ではかなり否定されているような育児理論がどんどんと入ってくる。そういう中で精一杯育ててくれた。そして、ダメな男に育った。申し訳ない話だ。

テレビでの科学番組などは毎回見せてもらったし、科学技術館の1階で開かれるバーゲンのついでに連れて行ってもらい、一人で科学技術館を見学して回った。プラスチック製鉛筆立ての成形デモンストレーションなども印象深かった。顕微鏡も、天体望遠鏡も、無線機も、おもちゃのコンピューターも、年に1回だけ買ってもらえた。図鑑も、学研の科学も、買ってくれた。あれはありがたかった。

誰も恨む必要がない。自分自身に責任があるが、原因であれば半分くらいは自分の外にある。そう思うと楽になった。まだ言い訳は多いが、少しずつ前進はしている。しかし最近またヨメの具合が悪く、一日中コドモたちに怒りをぶつけている。私もそれを見て不機嫌になってしまう。家事でも手伝って、子どもとサッカーでもすればいいとわかっているのだが、体がダルい。最近また眠剤を戻したので、睡眠は比較的取りやすくなった。最近また少しずつ勤行を再開しているが、ペースも集中力も悪い。が、なんとか継続していったほうがいいだろう。

運動が神経系に与えるような単純な刺激が、脳の作用には案外に効く。運動に関しては不愉快な記憶しかないのだが、唯一自転車で走るのだけは楽しかった。末っ子が自分の自転車に乗れるようになったら、子供イス付きのママチャリをまともな自転車に買い替えてみたい。そうすれば、浜離宮からディズニーランドくらいまでは休日の日常的な行動圏内に入ってくる。まあママチャリでもいいのだけれど、そこは気分で。
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by antonin | 2013-11-25 00:05 | Trackback | Comments(0)

続・諦めない心

また考えが変わった。

諦めない心 : 安敦誌

学校とは、真実を見抜く知恵を与える場だと思っていて、そこで「諦めない」という言葉が出るのは奇妙だな、「諦める」という言葉の意味はそうじゃないのにな、というような感想を書いた。が、本当に、本来の意味でも「諦める」よりは「諦めない」方が、普通の人としては良い人生が送れるのではないか。そういうことを思うようになった。

【全世界の女性必見!?】自己の美しさを認識できる感動の動画、 1週間で視聴回数1500万回以上を達成 – SNN(Social News Network)

以前、こういう動画を見て思ったのだけれど、「あなたが見たあなた」「他の人が見たあなた」というのがあって、どちらが実像に近いかといえば、圧倒的に「あなたが見たあなた」の方だった。この映像に出てくる「他の人」というのは、モデルプロダクションの採用担当でも、VIPをもてなす窓口業務の採用担当者でもなく、特に利害関係のない普通の人々だ。そういう人たちは、客観的で的確で残酷な評価を下すことはない。人間関係を和やかに保つために、悪いところは言わずに良いところばかりを伝えるように、無意識のうちに訓練されている。だから、どうしても真実よりは評価が甘くなる。

ところが、現代人は常に「役に立つかどうか」「売上の向上にどれだけ寄与できるか」という評価軸で評価され続けながら生きている。だから、嫌でも自分自身の客観的で正確な評価を思い知らされ続けながら生きている。そして、自分自身の理想像からは程遠い、現実的な自己評価に傷付きながら生きている。しかし、経済的な利害関係のない他者は、社交辞令的で甘い評価を下してくれる。そういう評価を聞いて、人はほっと胸をなでおろし、笑顔になれる。

経済的功利主義で人を評価するとき、その評価軸は競争原理によって厳しく磨かれ、多くの場合により正しい評価を下すようになる。そして、残酷なほど正しい評価に、人は傷つき、うなだれる。が、そういう評価を下すことを恐れれば、経済競争によって組織は出し抜かれ、衰退し、崩壊していく。組織人は、個人的な感情は抑圧して、クールに振る舞い、真実を告げなくてはならない。

一方で、経済的目標を共有しないような、単に近所に住んでいるだけだとか、趣味で同好の仲間だとかが集まると、相手に多少悪い評価を持っていても、それより楽しく過ごす方が重要になってくるので、いちいち真実を告げる動機がなくなる。そういう場にいると、人々は心安らかに過ごせるようになる。

より生産性の高い経済活動は人々の生活を向上させる原動力なので、これを高めていくことは良いことだが、ひとりひとりの生活者にとっては、過酷すぎる場でもある。だから、いったん仕事を離れれば、経済的な利害関係を抜きにして、誰かの欠点が組織の命取りになるような緊張から解き放たれる、居心地のいい場所を持っている方がいい。

昭和の男たちは会社とか軍隊とかに属して、命を懸けた厳しいやりとりをする場と、一杯飲んで憂さを晴らす場でメンバーを共有していた。それによって家族的な結束を固めて最強になる組織もあったが、公私の区別がつかなくなって腐敗する組織も少なくなかった。

今はいろいろと制度も変わって、企業がそういう家族的な結束を保証することは難しくなった。そういう環境で、個人が経済競争に基づく冷酷な評価判定を下されても生きていける力を持つためには、職場とは別に、「役に立つかどうか」という原理で人を評価しない、馬鹿話で盛り上がれる、間違いに目くじらを立てずに済む、そういう場にも籍を置くことが重要になるんじゃないかと思う。

人は、客観的で正確な評価を受け続けるだけでは耐えられない。ある程度、甘い嘘を摂取しないと死んでしまう。一方経済的主体というのは、そういう甘い嘘が混入すると腐敗して死んでしまう。だから、入社しただけで「同じ釜の飯を食う」ことが前提だった時代の「会社主義」国家が滅びつつある日本では、経済から一歩脇に逸れた場所にも身を置くことが重要になってくるのだろう。

「諦める」というのが身も蓋もない真実を知ることなのだとして、それが良いことなのかどうかというと、あまり良いことではないかも知れない、と、少しずつ思い始めている。大人になってもサンタクロースの存在を信じているのはどうかと思うが、「サンタクロースなんているわけないじゃないか」と子供に教えて悦に入る大人もどうかと思う。それと同じで、大人でもどこか夢見がちに過ごしたほうが、実は健全なんじゃないかと思う。

あまり嘘の効用に溺れるのもまずいが、嘘を排除しようと頑張り過ぎると、廃人になるような怖さもある。真実は必ずしも人を幸せにしない。それでも真実を追究しようとする学者は崇高だけれども、やはり一般人の社会生活と真実とは相容れない部分が残る。真実を知り、そしてそれを適切に無視できるようになるのが最善なのだろう。なかなかに難しいが、取り組まないといけない。
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by antonin | 2013-11-24 17:04 | Trackback | Comments(0)

つまらない話など

いいね、またChikirinが極論全開になってる。いいと思う。

「AともいえるがBともいえる」とか言う人の役立たなさ - Chikirinの日記

これは、論理的には先日ここで書いたこれに似た意見になっている。

断言 : 安敦誌

結論は逆方向に見えるけど。逆方向に「見える」というのは、総論としては賛成なんだけど、各論としては反対だから。つまり、断定的な極論を唱えて、ともかくも決断を下すのが正しいとしているのは、ちきりんも私も同じ。「断定か」「相対主義か」で比べれば、断定するほうが正しいと思っている。ただ、量的な判断を加味すると、a)結論を出さない相対主義者がゼロの場合と、b)社会の片隅に少数いる場合と、c)社会の中心にあふれている場合だと、c)は最悪という意見は共通しているが、一方でa)の状況よりはb)のほうが健全だと、私は思っている。ちきりんはきっとそこまで考えていない。彼女が何かを判断するためにはそこまで考える必要がなかったからだ。

こういう数量的な思考は、若いころにある種の訓練をした人にしかできないものらしく、そうでない人にはなかなか伝わらない。なので、話をわかりやすくするなら、ちきりんの言うようにお互いに極論を持ち合わせて議論する方がいいのだろうと思う。

今回の話は全体的に論理的思考による結論ではなく、「あたしはこういうヤツが嫌い」というだけの話だったので結論はどうでもいいのだけれど、途中にひとつだけ明確な間違いがあった。
最悪なのは、「Aの場合もあるが、Bの場合もある」とか言ってる本人が、「オレの意見は客観的だ」「自分は、『Aだ!』と言ってる人みたいに偏っていない」と思ってたりすること。コレ、本当にタチが悪い。

それ、客観的なのではなくて、単に、

「決断できない人間である」

「選べない人間である」

「自分の意見を持てない人間である」

ってだけのことです。

ここには、明確な間違いがある。「Aでもあるが、Bでもある」という人のほうが客観的だというのは、たいてい事実であり、正しい。問題はそこではなくて、「客観的ではなく決断できないだけ」なのではなく、「客観的になってしまったために決断できなくなっている」というのが正しい。つまり、「客観的であるほうが主観的であるより優れている」という先入観が正しくない。理解よりも決断を優先するなら、客観的に物事を見てはいけない。決断は常に主観から生まれる。偏ることを恥じてはいけない。

まあ、一度は客観的に物事を分析できる冷静さというのは有用だけれども、それでも最後は主観に帰ってこないといけない。決断が求められるとき、あんたはあんた自身の人生の客なんかじゃないんだ、主(あるじ)なんだ、「客」観的な分析は一度捨てておけ、というのが正しい。ただもう一度グダグダ文句を言うなら、それは判断を求められる地位にある人の話だ。客ではなく、主についての正しさだ。

だから、社会になんの影響も及ぼさないような、軽い、あるいは存在しないも同然の地位にあって、社会の客人として扱われていると感じ、むしろ主であることを捨てて生きようと決断した人があるなら、その人には存分に客観論を展開してもらって、主観的なしがらみに生きるしかない人に、得難い視点を与えるという役割があってもいいと思う。それにより軽蔑されることもあるだろうが、軽蔑を恐れる価値もないなら、それも問題ない。

ちきりんも、普段は「考えよう」とか人に言っているが、そこは人間なので、イデオロギー的な部分に触れると怒り出す。理屈やデータより感情が優先する。まあ、正しいと思う。それが人間だろう。ちきりんの譲れないイデオロギーというのは、若い頃にアメリカで仕入れてきたプラグマティズムだろう。それに抵触するような、多神教的で曖昧な意見を目にすると、彼女は烈火のごとく怒り出し、ロジックも何もなくなる。

私自身にも似たような傾向があって、普段は多角的な視野みたいなものを求めているものの、いざ自分の魂に触れるような話題になると、ロジックをなぎ倒して感情的な論を展開してしまう。こういうのがそれだ。

OpenOffice.orz : 安敦誌

UIが規定しているのはファンクションではなくプロトコルである : 安敦誌

私はコンピューターが大好きで大好きで、でも夢破れて化学系の製造業に進んだ。ところが就職後の世の中は徐々にIT化が進み、化学系の仕事場にも、あの憧れに憧れたPCが徐々に入ってくるようになった。PCを触りながら、しかしプログラミングではなく製造業者としての仕事をしなくてはならないという自制は本当に苦しかった。そういう苦しい生活の中で、数少ない喜びはExcelでデータプロセッシングをしている時間だった。

もちろん、会社から給料を貰っているので、体面上は仕事のためにExcelを使っている振りをしなくてはならなかったが、本心では、Excelを触るための口実として仕事をしているようなところがあった。かなり強烈に依存関係を持った数式を羅列しても、奴は当時の貧弱なマシンの上でも実用的な時間で計算結果を返してくれたし、自動記録でマクロ操作を保存すれば、なんとその全てがVBA (Visual Basic for Application) のコードとして吐き出された。しかもそこにVisual Basic的ハンドコーディングを追加すると、その通りに動いてくれた。楽しくてたまらなかった。

Wordの場合、マクロ動作は記憶しても、必ずしもすべての動作要素がVBAのコードに落ちるわけではなかった。通常操作でも日本語版はバグだらけで、また英語用の機能の残骸が、人間が日本語テキストを入力している最中に不可解な細工を加えてきた。あれは大嫌いだった。

そんな話はどうでもいいが、とにかく私はExcelの事となると冷静になれない。で、Excelがらみで気に喰わないことがあると、上にリンクを置いたような感情的で饒舌な意見を書いてしまう。困ったものだと思うが、まあ、これが主観的な意見というやつだろう。

考えに考えた果てに、人間らしく主観的であることを捨て客観に逃げることに決めた人について、それを嫌うのは仕方がない。が、煩雑な決断を避けて客観に逃げるのも、それはそれでひとつの決断であると認めてやってはくれないか。と、まあ、そういうことを思うのだけれども、たぶん認めてもらえないだろう。それは、イデオロギーの問題なのだから。

生きていることに客観的な意味はない : 安敦誌
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by antonin | 2013-11-23 23:55 | Trackback | Comments(0)


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