安敦誌


つまらない話など
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断言

ニーチェだか誰だかが、他人に信用されたいなら断言することだ、というようなことを言ったらしい。確かにそうだ。過去にそういうことを書いたこともある。

「頑張れば報われる」に騙されるな : 安敦誌

最後の薄字で書いてある部分がそれ。

ただ、こういう断定的な言葉にもメリットはある。「現段階での消費税率引き上げは必要であり、選択の余地はない」と断言したとする。そうすると、いやいやデフレ期の増税はセオリーに反するとか、いやいや今このタイミングでも既に遅すぎるから無意味だとか、いろいろと異議を唱えたくなる人が出てくる。そこから議論が活発になり、感情的なあれやこれやはあるかもしれないが、議論の中から様々な論点が明確になっていく。

一方、「現段階での消費税率引き上げにはこれこれのメリットがあり、今この時期に行うことは正しいといえるが、一方これこれのデメリットもあるので、そのあたりをしっかり対処しないと大変なことになる」という言い方もできる。こちらの意見のほうがより現実に近いかもしれないが、誰の目にも明確に白黒が付くような言い方ではないし、両論併記っぽいところもあるので、容易にはツッコミを入れにくい。こういう意見を起点とすると、議論は深まりにくい。

「クレタ人のパラドクス」というのがあるけれど、あれは「自己言及のパラドクス」として有名だが、もうひとつ、真か偽かしかありえず、その中間を認めないという排中律が成立する命題論理というものに固有のパラドクスになっている。嘘つきとは「嘘しか言わない人」と定義した時にはパラドクスになるが、これを、嘘つきとは「嘘を言うかもしれない人」であるとすると、嘘つきだって本当のことを言う場合だってあるのだから、パラドクスは解消する。こういうふうに同じカテゴリーに入る要素の集まりの性質を考えるのを述語論理という。

述語論理にしても、「全ての~は~である」とか「~である~は存在する」とかいう表現を使うと、その結果はマルかバツかに落ち着く。そうではなくて、結論の方も「どちらとも言えない」というのを認めて排中律を捨てると、直観論理というものになる。「どちらとも言えない」だけだと不便なので、「80%正しい」とか言い出すとファジー論理になる。

この直観論理というのは、おそらく正しさだけで言えば述語論理や命題論理より現実に近く、より正しい論理ではある。しかし、正しさでは上なのだけれど、この直観論理から論理的に導き出せる結論が命題論理に比べてずっと少なくなってしまうという問題がある。すぐに「どちらとも言えない」と言い出すのだから、当たり前かもしれない。一方の命題論理は、実世界で起こっている現象のモデルとしてはかなり荒っぽいのだけれど、その荒っぽさを一度許せば、そこから先は人間の想像を絶するほど多様な結論を導き出すことができるという魅力がある。

風が吹けば桶屋が儲かる、というのも命題論理による推論である。ただ、推論の各段階で使われている論理にかなり怪しいのが混ざっているので、段数の多い推論をすると、ほぼ間違いという結果になってしまう。99.99%正しい推論を10段進めると、全体の推論としては0.9999の10乗で0.9990、つまり99.9%正しい推論になる。ところが、これが60%ぐらいの確度の推論を10段重ねると、0.6の10乗で0.0060、つまり0.6%ぐらいの正しさにしかならない。

こういう具合なので、正しさを見極めるなら「どちらとも言えない」という可能性をしっかりと捉えた議論が必要になるのだけれど、人間の頭で可能な程度の推論では、「どちらとも言えない」がひとつでも出てきた時点で、そこから先に進めなくなる場合が多い。だったら、危険を承知で白黒はっきりした排中律を満たす論理で推論を重ねたほうが、面白い結論が出てくる。極論の面白さは、こういう危険だが実りの多い推論ができるという点なのだけれど、そういう極論を始点とする推論が実地に役立つかどうかというと、そこはバクチになる。

ただまあ、面白い議論をして、それまで気付かなかった可能性に気づくゲーム、みたいな捉え方をするなら、極論は有益だろう。現実問題の解釈については「どちらとも言えない」の効能はあるのだが、実務上は「どちらとも言えないが決断はしなくてはならない」という場面が多く、結局おみくじ的に命題論理をこねくり回してマルバツを決めるというやりかたは正しいだろう。ただそれは、おみくじを引いて決めるのと、実はそれほど違わない場合もあるのだけど。

「どちらとも言えない」というのは「決断してはならない」という意味ですらないので、正しいが、しかし使い道のない結論でもある。結果的に、「悲観的に準備し、楽観的に行動せよ」というような格率に至ってしまうのだろう。とはいえ、何ごとにも「どちらとも言えない」と言い続ける厄介者も、社会の外れに少々いるくらいなら有用だ。とりあえず、そう断言して終わりにしよう。
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by antonin | 2013-11-13 00:29 | Trackback | Comments(0)

国家の忘恩

最近は海外で日本文化を褒める話を拾ってきて和訳するサイトが流行しているが、ああいうのを読むと、やっぱり日本文化って素晴らしいな、とは思えなくて、他人の行状を自然に褒められる海外のネットワーカーの文化って素晴らしいな、とか、そちらに目が向いてしまう。まあ、海外にも汚い意見は多数あって、単に翻訳されないだけなんだろうけれども、それでも実際、日本のネット論壇ほどにはギスギスしていない印象がある。国内の某匿名掲示板でも、VIPだけは独特のおっとりした雰囲気があったけれども、最近はどうなんだろう。

で、そういう海外の声を聞くと、フランスなんかでは日本文化が比較的受容されているのに対し、イギリスではあんまり評判が良くない感じがするのはなぜなんだろう。もちろん言語バイアスみたいなものはあるので、英国人(イングランド人ではなくUKの人)なら誰でも基本的には英語で発言するが、フランス人は国際文化に寛容な人は英語で発言するけれども、排他的な人らなら当然フランス語で発言するから、そちらは日本人の翻訳圏外に至りがち、ということはあるだろう。言語バイアスのあるフランス人の英語発言は日本文化を含めた異文化に好意的で、言語バイアスがなくドメスティックな意見まで英語で書かれるので日本から簡単に読めてしまうイギリス人の発言のほうが、異文化に厳しいという傾向は出るかもしれない。

ただまあ、finalvent氏みたいにフランス語を勉強してフランス人のドメスティック領域に首を突っ込む気はないので、ここは仮にイギリス人よりフランス人のほうが日本文化に好意的であると仮定しておく。とすると、その理由について何かうまい説明は可能だろうか。そういうことをときたま考えていた。で、あるときひらめいたのだが、実はイギリス人から見た日本人というのは、ひどく恩知らずな国民なのではないか、と、そんなことを思った。

私は明治時代の歴史にはあまり詳しくなくて(というより歴史全般に、かもしれないけれど)、断片的に見聞きするエピソードをつなげたような知識しかないのだが、そういう知識で簡単に考えると、日本海軍はイギリス海軍のコピーであり、日本陸軍はプロイセン陸軍のコピーであったらしい。憲法とか国民学校とかは陸軍と同じドイツ系の由来を持っていて、鉄道とか紡績機械とかそのあたりは海軍と同じイギリス系の由来を持つという、ざっくり言うとそういう感じだったらしい。

で、明治初期の時代には多くのヨーロッパ人が指導者として来日したけれども、中でもイギリス海軍は日本に惚れ込んで、かなり親身になって日本海軍を育ててくれたらしい。日露戦争で日本海軍がバルティック艦隊を殲滅できたのも、そもそもロシアの西端に基地を構えるバルティック艦隊が、極東海域までノコノコ遠征してきたのが最大要因であり、そうなるようにロシア海軍をそそのかしたのも、移動途中の補給線でじんわりと利く意地悪をして艦隊を弱めたのも、当時世界の海にネットワークを持っていた英国海軍の根回しあってこそ、という話を聞いたことがある。

そのあたりの「陰謀論」の真偽を測る知識もないのだが、カレーライスが国民食になったことも含め、英国海軍が明治の日本に及ぼした影響は甚大であったらしい。そうやって手塩にかけて育てた日本海軍と大日本帝国が、国際連盟の常任理事国にまで招き入れてやった恩義も忘れ、後ろ足で砂をかけるように国際連盟を脱退、果てはナチスドイツと同盟を組んで宣戦布告、鬼畜米英などと抜かす始末。

日本では戦後にこのあたりの情報は国民の頭からやんわりと消されていくのだが、英国のパブリックスクールなんかでは直近の外交史としてきっと生々しく教えられているだろう。で、過去は過去として表面上だけでも穏やかに接してやろうと思っても、現代日本人が英国人に対して開口一番何を言うかと思えば、「イギリスって食事がまずいんでしょ?」なのだから感情もこわばるというものだろう。このあたり、日本と直接交戦した歴史もほとんどないわりに、今では食い物で褒め合っているフランスやイタリアあたりとは大違いの部分でもある。宮崎駿さんもこないだの会見でなんか言っていたし。

最近、反日活動のしっぺ返しというのか、日本が併合期の朝鮮半島に対してどれだけ資本的、文化的投資をしてやったか、というような話が頻繁に聞かれるようになったが、そういう話を聞きつつ思うのが、チョンマゲを落としてから近代軍装がサマになるまでに、いったいどれだけ英国が日本に対して資本的、文化的投資をしてくれたのだろう、という事だった。

戦後のアメリカによる対日投資というのは日本人ならば誰でも知るところなのだけれど、その占領統治政府が抹消にかかった明治政府の意義の中に、英国から受けた恩義というのが多分に潜んでいて、明治政府の歴史と一緒になって消されてしまったのではないかと思うようなった。

日本人に馴染みの深い英語由来の外来語は、米語としてはおかしいものの、イングランド語としてはそこそこ通じる音が多い。アメリカの船に拾われたジョン万次郎さんは「ワラは水なり」みたいな辞書を作ったらしいが、その後の日本では「ウォーター」という音が広まった。これはゲルマン臭のキツい米語の発音ではなくて、ラテンっぽく母音を明瞭にするイングランド語の発音に近い。こういう部分にも外来語が外来した当時の日英の関係が影響しているのではないかとも思う。そういえば夏目漱石先生の留学先もイングランドだった。

人の振り見て我が振り直せ、というのか、英国人の紳士的慎ましさと、たぶんドロっとしているだろう怨念のようなものに、少し思いを馳せてみてもいいのではないかと思った。どのみち、日本の近代史にはいずれ手を出さないといけないのだけれど。
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by antonin | 2013-10-30 00:20 | Trackback | Comments(2)

UIが規定しているのはファンクションではなくプロトコルである

私ははてなのツール類はあんまり使わないので対岸の火事なんだけど、こういう議論があったらしい。

はてなブックマークのリニューアルデザインにはみんな慣れただろ

はてなだと対岸の火事なんだけど、Microsoft OfficeのリボンUIはそろそろ此岸に延焼しそうなので、そういう面からちょっとした話を。

UIってのは、他のテクノロジーとはちょっと役割が違う。UIってのは、人間の理知的な部分だけが対応しているんじゃなくて、人間の動物的な部分も重要な役割を演じている。大脳だけでなく、小脳が学習する運動制御や、ある種の高等な反射が重要な機能を果たしている。UIというのはアプリケーションからユーザーである人間に対するプロトコルを提供している。そのプロトコルの基本的な部分は、小脳そのものや、大脳の中でも小脳と直結している辺りが運動記憶として受容していく。そうすると、キータイプをミスった瞬間に指がCtrl-Zを打ってくれるというように、大脳にほとんど負担を掛けずに、効率のよいマンマシン間の情報伝達が生じてくるようになる。

このUIというプロトコルが普及していないうちは、互いに互換性のないプロトコルが利便性を競う状況というのは悪くない。しかし、特定のプロトコルが十分に普及し、ユーザーの脳にプロトコルに対応した運動学習が組み込まれ、何かのアクションを起こそうとしたユーザーが無意識のうちにUIにアクセスできるような段階になると、話は違ってくる。ちょっとしたUIの改変がユーザーの意図しないプロトコルエラーの乱発につながり、高いストレスと高い労働コストの浪費という結果に至る。

それが少数の「人柱」に対するロスであればまだいいのだけれど、MS Officeなどのように億単位のユーザーに普及してしまったツールのUIプロトコル変更ともなると、その変更にオタオタするユーザー(ソフトウェア以外の分野で何かしらのプロフェッショナルである人々)のタイムロスの累積が引き起こす経済損失は、場合によっては数千億ドルという単位にのぼる可能性もある。

ユーザーインターフェイスがより良い方向を目指すのはもちろん良いことなんだけれど、その移行というのはとてもデリケートな作業だということを、市場のデカいソフトを扱っている人たちはぜひ覚えておいてほしい。新しい機能は提供しつつも、しばらくは従来のインターフェイスは使えるようにしておくのが基本だろう。初期のExcelは設定画面にLotus 1-2-3互換機能の設定項目を持っていたし、それは結構最近のバージョンまで残っていたように思う。Obsoleteと言いながらも、それでもしばらくは古いプロトコルもサポートしていく義務というのは、これほど普及したソフトならば、やっぱりあるんじゃないだろうか。

Python 3が出たからPython 2は使用禁止、とはならなかった。Pythonも3.3ぐらいからすっかり実用的になってきたけれども、それまでは2.xのシェアが圧倒的だったし、2.7では3.xへのマイグレーションを促すための工夫が数多く施されている。マイクロソフトの若い(に違いない)インターフェイスデザイナは、そういう作業の価値を理解できなかったのだろう。

OfficeのリボンUIは使いやすくて優れているとは思うのだが、まだこれをインストールしたマシンというのは少なくて、個人的に普段は古いインターフェイスを使っている。ところが稀に、借り物のマシンでいきなりリボンUIに出会うことがある。こういう場合、本当に何をどうしたらいいのかわからなくて、旧UIだったら0.5秒で済むような操作に30秒くらい要したりする。これは本当に馬鹿らしい時間だ。もちろん、新Officeにも新UIをナビゲートするような機能も付いてはいるのだけれど、そこで学習している余裕がある時と、1秒とは言わないけれども本当に比喩でなく1分を争う時があって、そういう時にリボンUIに出くわすと本当に参る。

戦闘機の操縦桿が、センターハンドルからサイドスティックに変更されたのはF16 ファイティング・ファルコンあたりからだったと思うが、おそらく運用として、F15までの機種で実績を積んできたパイロットに対して「今日からスティックで操縦してもらうから」とか、そういうことは言わなかったはずだ。中堅以上のパイロットは退役までF15のように従来型の操縦桿を持つ機種に乗り、経験の浅いパイロットと、彼らを指導する教官くらいがF16の新しいスティック操縦を覚えたんじゃないだろうか。

マイクロソフトは歴戦の勇士に対してもF16を薦めているように見えて、それはやっぱり馬鹿なんじゃないかと思う。体が覚えた操作感覚というのは、ユーザーにとって大切な資産であり、商売道具なんだ。そのあたり、わかっているんだろうか。Officeツールとは、個人的な遊びで使っているスマホのアプリとは違って、経済戦争用の武装なんだ。新しく改善されたツールを導入するのは歓迎だが、それはUIに干渉しない範囲で行われるか、あるいはどうしてもUIに干渉してしまうなら、それは新しく訓練された兵士とセットで導入されるべきだ。

遊びで使うなら、まあ新しいほうが何かと楽しくていいとは思うけれども。電子ピアノが、なぜ今もわざわざアコースティックピアノ互換の大きな鍵盤を並べているのか、よく考えてみるといいだろう。
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by antonin | 2013-09-29 01:19 | Trackback | Comments(0)

復興と防災

「放射能の害」というのは、福島第一原発の最前線で頑張っている人たちを除けば、まあ実在しないのだけれど、「放射能の心配」というのは厳然と存在するし、そこには害もある。物理的には存在しないが、心理的には存在する。厄介だと思う。

東北の復興というのは、まだまだ足りないのだけれど、心配というのは徐々に減っている。放射能の心配に半減期がなさそうなのに、仮設住宅からの脱出や故郷での私生活への復帰についての心配は、順調に対数減衰しているようにも見える。

職場からのイベント参加ということで、南三陸町の、あの防災センターの跡地を訪れたことがある。建物は、言ってしまうとそれほど大きいものではなかった。その屋上まで海水に飲まれたというと確かに驚くが、ビルとしてはこじんまりとしていた。鉄骨は真新しく、そこで起こった現実の悲劇からすると、あまり外見として悲劇的な印象はなかった。ただ、周囲の空虚というのか、道路のアスファルトを除くと、コンクリートと土がむき出しになっている小さな平地が続いているだけという風景が怖かった。

景色を見た。確かに自分の目で現地を把握したけれども、多くの人が死んだ現場を物見遊山で訪れているような後ろめたさがあって、感想も書けないでいた。仮設の商店街にあるお土産屋さんで若干の食品を買って郵送してもらったが、経済効果という程のことはなかっただろう。

とある駅で震災復興の募金をしていた人を冷たくあしらったこともある。政府の救済でさえ信用ならないのに、どこの組織の指示かもわからない募金など信用できるものか。そうは思うのだけれど、我ながら冷たいなとも思った。

無関心は罪である、とは言うけれども、人間の関心というのは有限の資源であって、あれもこれもという訳にはいかない。効力を発揮するにはある程度の選択と集中が求められる。残念ながら。

--

解呪 : 安敦誌

まだインド洋大津波も発生していない頃、冗談めかして上のリンクにあるようなことを書いたのだが、まさかこんな恐ろしいことになるとは思ってもみなかった。

84年を越えて : 安敦誌

プレートテクトニクスの仕組みからすると、地殻に蓄積する歪の量というのは年数に比例するから、地震のマグニチュードと頻度を対数プロットすると、だいたい直線に乗る。個別の話をするとフィードフォワードというか冪乗則というか、そのあたりが利いてくるのでランダムになって予測不能になるのだけれど、事後にプロットしてみると、統計的に見て周期性が現れるのはそれほど異常なものではないということになる。

関東大震災がいつ、どの規模で起こるか、というようなことは何も言えないのだけれど、そろそろ発生してもいい頃だね、というのはデータとして無理がないものらしい。富士山の噴火についても似たような状態だという。地震が近いとして、常識的な備えを続けていくより他に方法はないのだけれど、今も都内には木造住宅が密集していて、ある程度の規模の地震が発生すると、倒壊というより、よく燃えるのだという。

私の母が生まれたあたりは墨田は向島の近くで、母が1歳になるかならないかのうちに空襲で焼けてしまった。その後親戚の家を転々としていた中で、数年は神戸の長田港に近いあたりに住んでいたらしい。今は商業港になっているが、当時はあまり品のいい街区ではなかったらしい。近所に住んでいた朝鮮系の人が朝鮮漬け(キムチ)をくれるのだけれど、臭いからといって祖母がこっそり捨てていた、なんていう話も聞いたことがある。そのあたりも随分後だけれど阪神大震災の被害に遭った。母は今、板橋に住んでいるのだが、運の悪い人なのでその辺りが心配だ。

あまちゃんフィーバーもいいけれど、今は東北の人たちを手厚く支えていきましょう。明日は我が身、ということで。
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by antonin | 2013-08-21 01:56 | Trackback | Comments(0)

性善説論者と性悪説論者

今、薄い文庫本を読んでいる。

秦の始皇帝 (文春文庫)

陳 舜臣 / 文藝春秋



読書に慣れた人なら数時間で読み切ってしまうんじゃないかという分量だが、いつものように3冊くらいの本を並行して、1ヶ月以上掛けて読んでいる。朝の連ドラくらいの密度。

で、その本の中に、時代と思想の説明として荀子とか韓非子なんかの名前が出てくる。対比として、孟子なども出てくる。孟子は性善説で、荀子は性悪説とある。それぞれの説の細かいところは知らない。性善説にしても性悪説にしても、人は往々にして悪事をはたらくから、それを少しでも良くするにはどうしたらいいのか、という目的意識は共有しているので、本来はそれほど隔たりのある意見でもないのだろう。

性悪説というと、人の悪い印象がある。性悪説論者は人の本来の性質を悪とみなして、これを知恵や法などによって矯めてやらないと、人は善を行うことができないと見ている。一方、性善説の方は温和な印象がある。人の本質には善がひそんでいて、それが汚れに覆われているだけなので、それを取り払えば人は自ずと善になると見ている。

「人間の本質とは」というように、三人称で人間を語ると、確かにそういう印象になる。ところが、人が人間の本質を洞察するとき、その観察対象というのは目の前に現れる大勢の人達の振舞いなのだが、その振る舞いをひと通り見てから一人思念するとき、突き詰めて観察するのに一番適した対象というのは、やっぱり自分自身だろう。

「人間の本質とは」と言うとき、その「人間」が性善説や性悪説を語るその人自身のことであるとすると、上の印象はやや様変わりしてくる。性善説を唱える人は、自分にも悪いところは多々あるが、それは環境やなりゆきから来るものであって、私の本質は善人なんです、というようなことを言っているように見える。一方の性悪説論者は、私は本来、虫を潰して遊ぶ子供のように、悪いことを悪いと知らず行なってしまう悪人なので、他人の知恵を聞いたり、他人から規則を強制されることで、ようやく善人になれるんです、というようなことを言っているように見える。

こう考えてしまうと、性善説論者のふてぶてしさに比べ、性悪説を唱える人はなんと誠実でいじましいんだろう、などと思えるから不思議だ。ただまあ、自分に自信がなく、その反動で自分に対しても無理を強いるし、周囲にも似たようなことを強いる人というのは、やっぱり面倒なものだ。それでも、歴史上の法家たちの神経症的な規律主義が、実は文字通りに神経症の繊細さから来ているのだと想像すると、いくらか同情も湧いてくる。

死後2千年以上も経過してから同情なんかされたって、どうにもならんでしょうが。

--

さて、1ヶ月以上間があいた。別に嫌になってやめたとかではなくて、その間、文章も数回書いてみたのだけれど、まとまらず全て没になった。コドモ3人のうち2人が夏休み体制で父親としても忙しかった、というあたりが一番近いところ。

久しぶりに間があいたので、おちゃらけ路線に戻そうかとか、ちょっと考えたけど適当な着地点がわからなかったのでやめた。

この1ヶ月あまりの間に選挙とか花火大会とかもあったけれども、そのあたりは省略。
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by antonin | 2013-08-07 00:21 | Trackback | Comments(0)

いろいろ混ぜすぎ

昔、まだ化け学屋の勉強をしていた頃、ポーラログラフィーというのを実験でやらされたことがあった。水銀滴下電極ってのを使うので、現代的にはちょっとアレな実験法なのだけれど、水銀表面で還元されたイオンは水銀の液滴表面に溶け込んで、表面積の増大する液滴はそれをドンドンと飲み込んでいき、飲み切ると液滴は落下して、新しい水銀表面が作られる。面白い手法だった。

で、酸化還元電位を徐々に上げながら、グラフを描いていく。ギザギザとノイズの多い波形から、還元電位の開始電圧と終了電圧の点に向かって包絡線を引いていく。で、溶液中に複数のイオンが溶け込んでいたりすると、波形は多段になる。波形がギザギザになる領域というのは、あるイオン種にとってクリティカルな領域を示していて、それより下でも、それより上でも、質的に異なる領域ということになる。

値域の広い法則というのは、万有引力の法則みたいに純粋に普遍的(に近い)法則もあれば、実は局所的な法則が幾つか連結して出来上がっているというものもある。大域的にほぼ一つの経験則に従うのだけれど、微視的に見ると、実は各レンジごとに起こっている現象が個々別々のものである、という場合もある。それを分析的に見ることもできるし、敢えて無視することもできる。

最近、国内の電器各社が「4Kテレビ」を発売し始めた。個人的に、「4Kテレビ」ってのはあんまり筋が良くないけれども、「4Kディスプレイ」ってのは十分に受け入れられるものだと思う。SDTVの解像度が640x480程度だとして、画素数で言うと30万画素になる。ごく初期のデジタルカメラ程度ということになる。1440x720のハイビジョンで100万画素くらい、1920x1080のフルハイビジョンで200万画素くらいという計算になる。4Kはこれが1600万画素になる。デジタルカメラの発展を見てきた感覚でいうと、それぞれの位置づけがだいたい分かる。

30万画素が200万画素になるまでのストーリーは、パブリカの700cc, 28馬力のエンジンが、スープラの3000ccターボ, 230馬力のエンジンに成長していくような位置付けであって、デジカメの場合は実際には非常に短期間だったけれども、成長前後の性能の違いというのはやはり歴然だった。自動車の場合、その後に最大1600馬力のエンジンが開発されたとしても、それはトレーラーのエンジンですか、という具合になってしまう。カメラの場合は1600万画素のコンパクトカメラというのもそれなりに普及はしているものの、付加価値というほどのものにはなっていない。

ただまあ、ハードディスクみたいに恐ろしい成長を続けていく分野もあって、液晶ディスプレイというデバイスがどこまで伸びていくのか、はっきりしたことはわからない。けれども、Win95の頃は200MBのハードディスクでそこそこ動いていたのが、XP末期には200GB程度は必須という具合になってくると、そこから先は正常進化の3.5インチ3TBハードディスクという方向もあれば、16GBのフラッシュメモリでポータブルデバイス、という方向もあって、進化は枝分かれして拡散していく。

車も、高級セダンもあれば大型ワンボックスも軽自動車もトライクもいろいろという具合に拡散している。液晶ディスプレイも同様なのだろう。小型ディスプレイではあるが、画素ピッチを上げてそこそこの解像度を確保するようなデバイスは既に普及しているし、フルハイビジョンでも不足するような正常進化の65インチ超テレビという方向も、アメリカの広い家相手には十分商売になるだろう。ただまあ、ヨーロッパとかアジアを含めた世界の主流は、30インチから40インチとその周辺という物理サイズで、フルハイビジョン程度までの動画をウィンドウ表示するような余裕の持たせ方という方向へ移っていくだろう。

折角の4Kディスプレイだから全画面を使って4Kのコンテンツを流すぞ、という気合の入った用途は、主流にはならないだろう。それが「可能」というのは良い特徴にはなると思うけれども。Retinaディスプレイというやつは300ppiを超えてくるらしいが、あれは手元の距離での視野角を基準にしたものだから、家庭用テレビのように3メートル前後の距離を確保できるなら、100ppi程度でRetina状態になる。であれば、フルハイビジョンだと20インチくらいにしかならないが、4Kなら40インチまでこの分解能で引っ張れる。これは価値が有るだろう。PC的な使い方をするなら、4Kディスプレイなら20インチくらいまで網膜解像度で表示できる。

だからまあ、テレビ放送の周りにネット由来のデータを表示するとARIB規格違反だとか言ってたらまた技術は死滅するが、メインチャネルの周りにデータ放送やらネットアプリやらサブチャネル番組映像などがフロート表示されるようなディスプレイシステムなら、十分に未来はある。今回も「第4の権力」がゴチャゴチャとうるさいが、古典3権がその辺りを正しく掣肘してくれるんなら、まあ景気も良くなろうという気はする。

Winnyの角を矯めることもできなかった割には、牛は殺した。競馬にアルゴリズム取引を持ち込んだ新進気鋭のギャンブラーには、負け券費用を経費と認めないという荒業でその芽を摘んだ。日本は法治国家ではないので、こういう風に文化庁や農林水産省といった省庁の利権にエグい食い込み方をすると、超法規的なエグい報復を食らう。堀江さんが臭い飯を食って特別な役務についたのは旧郵政省の利権に食い込んでしまったからで、ドサクサに紛れて死ななかっただけマシという具合でもある。孫正義さんなんかは対立権力あたりを使って相当うまいことをやっているのだろう。

凶悪犯罪の未遂事件が「民事不介入」で放置される中で、犯罪予告だけが過敏に検挙されて実名報道されたのは、それが警視庁及び警察庁に対する直接的な威力業務妨害であり、それに対する組織防衛と報復が必要だったからだ。省庁からの報復という視点で見ると、ニュースにはそういう毛色のものが溢れている。植草さんの事件も、陰謀論的に見るとそういう報復劇の一幕であると言われている。

自民党というのは日本で最も生臭い政党ではあるので、ストレートには応援しにくい面はあるものの、日本国の悪性腫瘍化してしまった省庁利権に対して唯一国民の側に立って対抗しうる勢力が国会議員なのだとすると、国民としてもそれなりに応援していく義務はあるのだろうと思う。

で、敵は官僚なのだとして、反原発派の人達のように対立相手を悪の権化であるような詰り方をするのも、きっと具合が悪い。もっとスマートに、エレガントに、官僚たちが本来持ち合わせている強烈な矜持に訴えかけるような、狡猾なほほ笑みでこれに対処するというのが、「代替不可能な」戦術なのだろう。日本の現状を最も苦々しく見ているのもまた、当の官僚たち自身なのだろうし。

量的に大きな変化というものは、一定の幅のある領域を境として、質的な変化となって現れる。かつて無視できていたものが、もはや無視できなくなる。かつて無視できなかったものが、無視できるようにもなる。この参院選を済ませてから3年間の国政というのもそういうものであり、何かが質的に変化している。もはや流れは止められないものと見て、急流下りに見合った体重移動のようなものを、船員である国民も求められて来るのだろうと思う。転覆沈没するか、再び緩い流れを捉えるのか、結果はわからないけれども、まあなんとかなるんじゃないかと思う。


今回も死に票を投じてきましたので、ちょっと感想を。
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by antonin | 2013-07-24 02:50 | Trackback | Comments(0)

最近の若くない者

昔のお年寄りというのは、なんというのか、明るい人が多かった。

栃木県にいた頃、週末になると原付スクーターで駅まで行って、1日100円で駐車して、在来線か新幹線に乗って東京に帰っていた。駅前にはでっかい駐輪場があって、入り口の受付にはシルバー人材センターあたりから派遣されるバイトのおじさんたちが働いていた。

そのおじさんたちは、いくらも給料なんてもらってないんだろうけど、いつも威勢がよくて、利用客にも元気に挨拶を返してくれた。ああ、外国から尊敬されていた日本人ってこういう人たちなんだな、自分の世代ってこの文化をあんまり継承できてないな、残念だな、みたいなことを思っていた。

ところが、平成18年あたりから、なんだかおじさんたちの様子が変わってきた。挨拶しても、不機嫌な顔をして「うぃっ」みたいな声を出すだけの人がボチボチと現れるようになった。最初は、まあそういう人もいるわな、みたいに思っていたのだけれど、そこから1年くらいで、だんだんとそういう人が増えてくる。これはなんだろう、と思った。

最初は年金だか給料だか減らされたのかと思ったが、よく考えたら2007年問題っていうのがあった。都内にオフィスビルが多数竣工して、オフィスの供給過剰になる問題、ではなくて、団塊の世代の第一陣が60歳を迎え、大量の定年者が出るというやつだった。新聞では得意客に配慮して、熟達した労働力が抜けることで職能の伝承がどうこう、という問題とされていたけれど、実は年金どうなるんだ、というような問題だったと思う。結果としては雇用延長だとか嘱託だとかいろいろの手が打たれて、2007年問題は緩和されて、大きな混乱は発生しなかった。

それはそれとして。駐輪場の雰囲気がこんなに変わってしまったのは、ひょっとして2006年定年組がシルバー人材センターに供給されたせいなのか、なんてことを考えてしまって、ちょっと驚いた。世代で人を括るのは、それが年下だろうと年上だろうとあまり気持ちの良いことではないけれども、そうは言っても世代文化というのはある。

私が実際に付き合いがあって見知っている数人の団塊世代の人達は、大体において愉快な人達だったけれども、それでもときどき妙に強硬な態度を示す場面があって、あれは不思議だった。強硬な態度を示す場面というのが人それぞれではあったのだけれど、大正生まれの人が見せる心配性とはちょっと違った、怒りのようなものが多かった。

人格の基礎はだいたい15歳くらいで確定してしまうから、好々爺は15歳くらいの時にはニコニコと人好きのする少年だったのだろうし、毅然とした爺さんは15歳くらいの時にはすでに毅然とした少年だったのだろう。で、戦時中の教科書が黒塗りされたのを使っていた世代からちょっと下って、新憲法が公布されてNew World Orderな世界になった日本で、最初の教育を受けた世代が団塊世代という人たちらしい。

そこでどういう教育がされたのかは、よくわからない。ただまぁ、明治大正とは違うだろうな、というのはある。明治が江戸を否定したのと同じような勢いで、昭和後期は明治から昭和前期を否定したんだろう。

石原慎太郎さんみたいな人は変だけれど、あの良いとこのお坊ちゃんが下賎の教育を受けた人を軽蔑しているのはわかる。たぶん彼が大正時代を生きていたら、欧米の文化を学ばずに朱子学っぽい国民教育に没頭する下賎の庶民を軽蔑していたんだろう。

それはいいのだけれど、あの敗戦の影響が、60年経過してこういう形で出てくるものなのかな、というのは思った。団塊世代は良きにつけ悪しきにつけパワーがあるから、死に絶えるまでいろいろと話題を振りまいてくれるだろう。

ジュニア世代になると、あんまりパワーはない。ロシアの40代は、思春期までをソビエトで育ち、大人になったらいきなり自由圏に放り込まれて困惑しているらしい。日本の30代(そろそろ40代も)は、オイルショックからニクソンショックのあたりに誕生して、バブルの絶頂期に思春期を迎え、いよいよ我々の番だ、というところでバブルが崩壊する。好景気に踊ることもできなければ、後に続く超氷河期世代のような苦しみにも同調できない。中途半端な境遇にあって、国民栄誉賞の松井選手以外はこれといって突出した有名人もいない。

古き良き日本人も去りつつある。個人的には80后の「さとり世代」が日本復活の鍵を握っていると思う。彼らは朝日新聞のような偏向にも産経新聞のような偏向にも嫌気が差しているから、そこそこバランスの良い道を歩んでくれるだろう。
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by antonin | 2013-06-25 04:47 | Trackback | Comments(0)

反骨って難しい

どんな社会にも、社会の常識っていうもんがある。同調圧力もある。これは、真社会性動物の一種である人間の先天的な性質に基づくもので、どうしようもないものなんだろうと思う。ただ、すべての個体がこの同調に一致して一糸乱れず動くのかというと、そうでもないというあたりが人間の面白さであり、厄介さでもあるのだと思う。

昔、エジプトからメソポタミアにかけて広がる文明世界が発生した。その地域には古くから、部族の神が他のどの部族の神にも優越すると信じる牧畜を主体に生活する部族があった。その独立心旺盛な部族も、いつしか拡大する文明世界の中に飲み込まれていく。文明世界に飲み込まれていく中でも自分たちの部族の独立性を確保するために、よくよく考えた人たちが、自分たちが守るべき戒律を考えた。

そしてその末裔たちには、そういう戒律は面倒だと感じる人もいれば、そういう戒律が素晴らしいと感じる人もいたが、それぞれの世代に属する考える人達が戒律をより良いものに改良していき、それを守ることが徐々に生活を豊かに安らかにするようになった。そしていつしか、部族の誰もが戒律を守ることは普遍的に正しいと考えられるようになり、戒律を守らないことは罪として厳しく罰せられるようになる。

そういう時代になると、戒律を面倒と感じる人も、悪いのは自分の方であって、決して戒律が間違っているわけではないと思い込むようになる。そういう時代に現れた、よくよく考える人のうちの幾人かは、よくよく考えた末に、悪いのは戒律を面倒に感じて苦しむ人のほうではなく、多岐にわたり厳しすぎる戒律の方ではないかと気づく。その次の世代あたりに、人は必ずしも戒律の定めるとおりに生きる必要はなく、神と自分の対話によって、自分が正しいと信じる生き方をすればそれで良い、というようなことを言い出す。

そういう人の中で一番目立ち、そして死刑に処されたのがイエスさんだったのだと思う。イエスはユダヤの知恵者が何世代も考え続けたことで豊かになった戒律に我慢できず、反骨を示したプロテスタントの人だったのだろう。彼の言いたかったことは、「人が全て守るべきとされている戒律のすべてを守る必要はなく、自身と神の対話で正しいと思えたことを行おう」ということだったのだろう。

それからしばらくの間、キリスト派はユダヤ教に対するプロテスタントの立場を取る。けれども誰かがこの信仰を皇帝の権威付けに利用しようと考えるようになり、キリスト教は徐々にローマ世界の人が普遍的に守るべき戒律を定める立場へと逆行していく。それから長い年月の間にカトリック(普遍派)の戒律は人の生活を豊かにするものへと洗練されていくけれども、同時に些細な事で人に罪の意識を植え付けたり、人を罪人に仕立てあげたりする原因にもなってくる。

そこで今度は、東方に残っている、イエスさんが生きて語っていた頃の資料を読んで、キリスト教がそもそも厳格な戒律に対する反骨の宗教であったことを知る人達が出てくる。次の世代あたりになると、ヤン・フスのように反骨の言葉を堂々と晒して、その結果死刑になってしまう人が出てくる。彼の言いたかったことは、「人が全て守るべきとされている戒律のすべてを守る必要はなく、自身と神の対話で正しいと思えたことを行おう」ということだったのだろう。

で、自身と神の対話をした結果として、被造物である世界に対して「実験」で求めた答えだけが正しく、聖書のように人の言葉を集めたものや、それを元に教えを説く聖職者の言うことを無批判に受け入れて従う必要はない、ということに正しさを見出した一群の人々が出てくる。この考え方をする人々が現在の世界で主流をなす勢力になっている。

仏教の世界にも似たような反骨の歴史があって、インドの考える人々がバラモン教を作り、それが歴史を重ねる中で厳格すぎて逆に一部の人々を苦しめるようになると、ゴータマさんのような人が出て仏教が生まれる。仏教も考える人々の手によって厳格すぎる長老部に至ると、反骨を示して万人の救済を説く大乗部が生まれる。大乗部の教義もいつしか厳格な信心を要求するようになり、そうすると今度はゴータマさんの生きた時代の古い仏典を探しだして、自分の心との対話から見つけた答えだけが正しいと主張する禅が出てくる。

他の主だった宗教にも、そういう厳格化と反骨が循環する歴史が、探せば見つかるものなのではないかと思う。

で、15世紀あたりに始まり、アメリカ独立あたりで完成したプロテスタント運動も、もう成熟の時代に入っている。戒律に従うかどうかは、自分の頭で考えてもいいんだ、という初期の動機が、「すべての人は遍く自分の頭で考えるべきであって、伝統的な戒律を守るのは誤りである」というあたりにまで純化が進み始めている。科学者が宗教を毛嫌いするのも、この「反骨の果ての戒律」に従わない人への嫌悪感であったりもする。

そして、かつて反骨であった考えを継承する人たちは、自分の頭で考えることを普遍的真理のように考え、それが苦手だったり落ち着かなかったりする人にも強制しようとし始める。また、「自分の頭で考えることは正しい」ということを無批判に受け入れてしまう、従順な人たちが扇動者につき従い始める。現代社会は、だいたいそういうフェーズにある。

人生を無駄にするための10の方法 - Chikirinの日記

この、不合理な因習から人を自由にするはずの格率を受け入れない人を、あたかも罪人のように断ずるという、奇妙な行為のもとにあるのは、現代の宗教である科学、あるいはカトリック成分を完全に抜き取った残滓であるアメリカ式のプロテスタンティズムへの信仰心なんだろう。

人生が無駄だと感じたら、その無駄の原因は、実は世間で良いとされている生き方に無理に合わせているというところにあって、世間で良くないとされていることであっても、あなたにとっては良い生き方かもしれませんよ、あなたが考えた末に良いと思うように生きていいんですよ、それによって困難はあるかもしれないけれど、きっと良い面のほうが多いですよ、と、初期の反骨精神は "may" を説く。ところが成熟し普及した反骨精神は、かつて世間で良いとされていたことを無批判に受け入れて安住しているあなたは罪人ですよ、というようなことを言い出す。成熟した反骨精神は、古い因習の放棄を "must" で主張するようになる。そこに新しい因習が生まれる。

Chikirinは悪いことを言っているわけではないので気分は複雑だけれども、「自分の頭で考えよう」というのは誰にでも普遍的に成立する真理などではなくて、考えない人のように生きると苦しい人への助言なのだろう。「自分の頭で考えて、その答えが世間の常識と違っていてもいい」というのと、「世間の常識と違う答えを出せないあなたは自分の頭で考えられない愚か者である」と断罪するのとでは、かなり意味が違う。

気持ちはわかるけれども、まあちょっと。
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by antonin | 2013-06-23 13:02 | Trackback | Comments(0)

似ている

"PRIDE" というのを、「矜持」と訳すのか「驕慢」と訳すのかで、随分と印象が変わる。英語には詳しくないので、どちらがどの程度正しいのかというのはわからない。

疑う人が確信を得て、信じやすい人に真理を教える。それで丸く収まる。しかし、丸く収まりすぎると、教えられるところの「真理」というのはどんどんと変容していく。で、また疑う人が出てきて、いろいろと考えた末に真理を再発見する。昔インドにバラモン教という発展があった。で、疑う人ゴータマが出てきて、プロテスタントする。それがいつの間にか大乗という発展を遂げ、仏教の原点とはだいぶ異なった成熟を見せる。で、疑う人ボーディダルマが出てきて、プロテスタントして、禅になった。

ユダヤ教という民族信仰があって、文明の辺縁で発達して成熟していく。で、疑う人イエスが出てきて、プロテスタントする。それがいつの間にかローマの権力に取り込まれて、「普遍派」というキリスト教の原点とはだいぶ異なった、成熟した体系が練り上げられていく。で、疑う人ルターが出てきて、プロテスタントして、新教になった。アメリカ的な「自分のアタマで考える」べきだという風潮は、キリスト教文脈のプロテスタント運動の下流にある。

「信じる者は幸いである」というのを客観的に言ってしまう冷静さというものがある。信じやすい人が信じている教えを説いている当の本人は案外に疑う人であって、真理という無機質なもの以外は比喩的にしか信じていなかったりする。

科学を信仰する人が宗教を嫌悪するのは信じる人の見せる動物的な信仰に対してなんだろうけれど、その嫌悪感は宗教が宗教の範疇に留まるうちはあまり激しくならなくて、宗教が科学的体裁を使って人々を説得しようとしているのを見聞きした時に頂点に達する。自分たちの信仰している科学的真理そのものが冒涜されていると感じるからだろう。キリスト教徒が仏教徒やヒンドゥー教徒ではなくユダヤ教徒やイスラム教徒をより強く憎むのは、前提が共通しているのに結論が異なるからなのだろう。

似通っているからこそ憎たらしい、というのはあるのかもしれない。

ムスコ1号の性格を見ると、笑っちゃうほど私の子供の頃にそっくりだ。で、私はこの子の最良の理解者かつ協力者になれるのかと思っていたが、実際に接してみるとそうでもない。同病相哀れむ、という程度の共感はあるのだけれど、実際に対人術として良い接し方ができるのかというと、そうでもなかった。欠けたところのある人間は、同類よりは相補的な性格を持った人と接したほうがいいのだろう。なるほどムスコ1号は私の妻であるところのママ大好きである。一方、ヨメとはいつも言い争いをしているムスメはパパ大好きである。そんなもんか。

血は水よりも濃くて、それがなければ離散してしまうものなのかもしれない。いやはや、生命ってよく出来てるな、と。
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by antonin | 2013-06-16 12:27 | Trackback | Comments(0)

お客様は神様です。Godじゃない。

「お客様は神様です」

と言う時に、どうも、キリスト教やイスラム教のような、全知全能の絶対神を思い浮かべる人がいるように見える。けれどもこれ、地の神様ですよね。神道の、それも国家神道ではなくて、山海を司るような、日々の恵みを与えてくれるのだけれど、ときどき理不尽に怒り、人々に人間業の及びもつかない様な災いももたらす、そういう神様なんですよね。

東北の太平洋沿岸の町というのは、普段は海の恵みで生活が潤っていた。まあ、稲作とか工業とかもあったとは思うけれども、それにしても海運やら何やらで、海と密接な関係を結んで、そこから無償の利益を得ていた。が、長い目で見ると無償でもなくて、代償として、ときどき海は人間の命を攫っていく。普段は嵐が漁船を飲み込むわけだけれども、百年に一度くらいは、人の住む里にまで海が押し寄せてきて、人の家と命を一気に攫っていく。

そういう、良きにつけ悪しきにつけ強大な力を持ち畏怖を集めるもの、それが多神教の神というものなんだろう。三波春夫さんが「お客様は神様です」と言っていたのも、そういう気持ちが含まれていたんじゃないかと思う。上等な客相手に上等な芸を披露しているうちは、芸には厳しくても人付き合いは比較的楽だったろうに、それが有名になり一般客に芸を披露するようになると、有象無象の衆がワラワラと叢がり集まってくる。いろいろと、理屈も人情も通じない大変な目に遭う。

けれどもその一方で、トータルとしてはお客様は芸人を支え、大変な恵みをもたらしてくれる。ときどき理不尽に荒れ狂うけれども、そんなお客さんがいなければ芸人は生きていけない。ああ、これは神様だな、と、三波さんはそう感じたんじゃなかろうか。で、神様扱いされたお客は舞い上がるわけだけれども、芸人が客の理不尽を堪え忍ぶために客を神に奉り上げたのだとすると、なかなか毒があるなぁ、という気もしてくる。

理不尽な人を見て、この人の前世はミミズかオケラか何かで、初めて人間界に入ってきたから、まだ人間としての振る舞いに慣れていないんだな。そう思うことで怒りを紛らわしている人がいるという話を聞いたことがある。理不尽な客を神様扱いしておだてつつ、おだてても利かない相手は仕方がないと諦めるというのも、下げるか上げるかの別はあるけれども、似たような気の紛らわし方なんだと思える。

商売の神様というのは、遠い昔からだいたいこういうものだったのかもしれない。知恵がありずる賢いが、所詮は獣、というところで、お稲荷さんは狐の姿をしている。狐程度に賢い相手を手懐けることができれば、商売の方も大体うまくいくと、昔の人も知っていたんだろう。かつては油揚げを無料で配るところから商売を始めたりしたらしいけれども、スマホのアプリが謳う「無料」もそういう狐狩りの風景だったりして、人間ってやっぱりあんまり変わらないものなんだよなぁ、なんてことを思う。
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by antonin | 2013-05-30 23:56 | Trackback | Comments(0)


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