安敦誌


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文藝春秋に「現代の名文」なんていう特集がある。私は文学の人ではないので名文なんてものには美人の化粧に対する程度の関心しかないのだけれど、まあ面白いので読んでいる。

で、宮城谷昌光さんが川端康成さんの名文について書いている。そこに、こういう文章が出てくる。

  国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。

 この文は、そもそも変である。そうではないか。著者の川端康成は外国を旅行しているわけではない。それなのに、国境、ということばをつかっている。日本国内に国境はないのである。

いやいや、そこは「コッキョウ」じゃなくて、「くにざかい」ですよね、日本「全国」というときのアレでして、日本国内にも「くにざかい」はいっぱいあるんです。とくに、トンネルが掘られるような険しい山の稜線沿いなんかに、それが引かれることは多いのであります。私が住んでいるのは東京都だけれど、ここは「下総国」であり、都心は「武蔵国」なんです。「カソウコク」と「ブゾウコク」という独立国家の国境が川の中ほどにあるわけではなくて、かつて用いられていた「しもうさのくに」と「むさしのくに」という地域区分の境界を現在でも「くにざかい」と称して慣用的に用いることもあるのです。

が、この文章の論旨は「名文とは極限まで削られたものである」というあたりであって、スティーブ・ジョブズの美学と似たようなものを川端さんが述べていたというところにある。なので、別に雪国の冒頭の文章が変だとしていても、特段問題はない。けれども、著名な作家がこういうことを書いていて、彼が「変だ」といっているその意見を、私が「いや、その解釈のほうが変ですよ」と指摘できる。この、指摘できるということに、私は浮かれている。これはとても下品な感情だと思う。

いや、若いうちはそういうのって楽しいし勉強になるので良いと思うところもある。が、いい加減中年男になったら、こういう指摘をしてホクホクするのは品性下劣なんじゃなかろうか。最近になって、徐々にそういうことを思うようになった。もちろん建設的な指摘ってのはあると思うし、EPR論文みたいに練りに練られたツッコミというのは新たな世界を切り拓いたりする。けれども、単純な無知や勘違いから来る主張を、しかも本人から遠い所で突っ込むのは、あるいは若い人の仕事であって、これから自分も徐々に世界が見えなくなっていく中高年の仕事じゃないんじゃないか。そういうことを思うようになった。

放射線に関する「閾値なし線形仮説」ってのがあって、あれは、ある意味正しく、ある意味間違っている。例えて言うと、天動説程度には正しい。精密な軌道計算などをしようとすると圧倒的に地動説のほうがモデルとして優れているのだけれど、地面に立った人間の直感としては、天動説のほうがシンプルで扱いやすい。厳密なことを言わなければ、天動説のほうが具体的なイメージを喚起しやすいし、カトリックの教理哲学との整合性なんかまで考えると、やっぱり天動説は優れた説だといえる。

閾値なし線形仮説にも似たような性質があって、実際の統計データや高等哺乳類である人間の生理などから見ると「正しいとはいえない」部類の仮説ではあるのだけれど、一般の人が、それほど放射能の影響が深刻ではない場面で採用するアバウトな仮説としては、比較的優れているし、安全管理行政の法的根拠の導出あたりには有効に使えるだろう。が、例えば3.11以降の東日本に住む市民が置かれているような状況では、アバウトすぎて現実的な価値は低い。統計的には正しい部分があるのだが、個別具体的には何も語らないので、クリティカルな場面では全く使いものにならないばかりか、逆に問題を悪化させることもある。

で、かなり知的な人が閾値なし線形仮説なんかを採用して東日本について論じたりしていると、そういうのを本気にする人は宇宙線を浴びる旅客機にも乗れませんよ、なんていうツッコミをしたくなるのだけれど、それをするのはかなり下品な気がする。豊富な統計データや医療知見を持っている専門家ならまだしも、一般人がどうこう言う場面でもないような気がする。

で、何も言わなくなるのか。悩ましいのだけれど、そういう品性下劣な感じを自覚して恥ずかしい思いをしながらも、あたかも若い人でもあるかのように、いくらか思い上がりながら自分の考えのほうが正しいというような文章を表出すべきなんじゃないか、というようなことも思う。突っ込んだつもりが更に突っ込まれるのが嫌だとか、恥を知るというのはそういう防衛本能に過ぎないのかもしれず、ある程度厚かましく行ったほうがむしろ誠実だったりするのかもしれない。

あーもーめんどくせーなー。
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by antonin | 2013-05-27 01:53 | Trackback | Comments(2)

石油はすでに枯渇している

サウジアラビアとイラクとカスピ海周辺の油田はまだ生きているけれども、その他の弱小油田はもうコスト的に合わなくなりつつある。今はエネルギー需要が強いからまだ成立しているけれど、需要が落ち着いたりしてしまうと、良質の油井以外はコスト的な面で廃坑に追い込まれる可能性が出てきている。

そういう意味で、20世紀の人たちが予想したとおり、石油は枯渇しつつある。ただ、需要が高いうちはカネさえ掛ければ採取はできるので、一見して枯渇しているようには見えない。そもそも、メタンハイドレートなんてのは、そりゃ取れれば燃えるけれど、コスト的に見て石油の比ではないし燃料としての価値はないと思われていた資源なので、これが有用視される状況自体が、石油が需要を満たせなくなってきている確かな証拠という言い方もできる。

石炭は別に枯渇していないのに石油にエネルギー源の座を奪われた。なぜかというと、採取するにも消費するにも、液体である石油というのはコストが安かったからだ。そして今や石油もかなり高コストになってきており、他の資源のコストパフォーマンスに急速に追いつかれつつある。一口に石油が採れると言っても、その質は千差万別で、穴を掘れば勝手に自噴する良質な油井もあれば、砂に含まれた原油を水圧で押してやってようやく採れる油井もある。また、採れる原油の不純物比率などもいろいろと個性がある。硫黄やベンゼン環を多く含む原油では、例えば乗用車の燃料にするには高度な精製が必要になり、一段の高コスト化を招く場合もある。

サウジアラビアなどの良質な油田はまだ最低100年は保つだろうが、他の「ギリギリの油田」は、どこかの時点でプッツリと不採算の海に沈む可能性が高い。石油も単なるエネルギー源から有機物原料資源へとシフトしていく可能性がある。

石油は化石資源なので、使い果たすと再生には数億年を要する。けれども、その炭素の出どころはどこかというと、かつて地球上にあった二酸化炭素を植物性プランクトンが固定化して、その死骸とともに海底に沈んだものである。その総量というのは、炭素を剥ぎ取られて残った酸素の量でだいたい推し量ることができる。地球の大気の20%は酸素なので、それを燃やし尽くすぐらいの炭素は、地球表面近くのどこかには必ず眠っている。一方、大気中の二酸化炭素は0.04%とかそういう水準でしかなく、それを生存の必須資源としている植物にとっては、大気の0.98%を占めるアルゴンよりもはるかに希少な資源と言える。

もちろん、20%の酸素を燃やし尽くしてしまっては、ほとんどすべての動物が死滅してしまうし、人間も例外ではない。けれども、炭素循環から外れ海底への沈降によって死蔵される炭素のロスに苦しんできた植物相にとっては、人類というのはその炭素資源を再び生物圏に吹き込んでくれた、長年待ち望まれてきた救世主的な存在とも言える。もちろんそれは進化論的な長い時間スパンで考えた時の話であって、あんまり短期間に炭素循環のルールを変えてしまうと、精妙な生命圏のバランスを崩してしまって肝心の人類が絶滅してしまう可能性も、ゼロではない。

人類の運命はともかく、そういう炭素循環から外れて長く経過したものが石油や石炭であり、もっと最近のものがメタンハイドレートということになる。石油や石炭は再生資源とはいえないが、メタンハイドレートはというと、ある程度の消費量であれば海底に堆積するマリンスノーの分解速度と均衡する再生資源となる可能性もある。

そういう道筋があって、次第に人類のエネルギー源に占める石油の割合というのは低下していくだろう。地球規模の資源の枯渇というのは、あるとき突然プッツリと消えるのではなく、今現在私達が見ているような形で、緩慢に消えていく。私達が日々ニュースで眺めているのが、まさに石油が枯渇しつつある場面なのだが、多くの人はそれにまだ気付いていない。

今もまだSLが現役で走っているのと同じように、まだまだ石油は残るだろう。一方で、徐々に別のエネルギーに道を譲っていくのをこれから目にすることになるのだと思う。どちらにせよ、その移行はパニック的に起こるものではない。隕石が衝突してアラビア半島がなくなったりでもしない限りは。
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by antonin | 2013-05-20 02:29 | Trackback | Comments(0)

ちょんまげ考

明治に描かれた欧米のポンチ絵を見ると、擬人化された世界各国が国際政治ゲームを繰り広げているという図をいくつも見かける。その中でも、オスマントルコ、中国、日本などは、エキゾチックではあるが主要なキャラクターとして頻繁に登場している。

擬人化された中国というのは、しばらくは清国のイメージで、女真族の伝統を引き継ぐ清朝の衣装を着て辮髪を下げている。トルコはあのトルコ帽子をかぶって、多少近代化した軍装をしている。一方、日本というのは20世紀に入ってもだいたいチョンマゲに羽織袴という武士の格好をしている。あまりにもわかりやすいアイコンであり、便利に使われていたのだろう。

で、このチョンマゲという髪型が、随分と不自然なヘアスタイルだなと、子供の頃はずっと考えていた。時代劇に登場する役人も町人も、頭頂部は髪を生やさない月代になっていて、その部分はおそらく剃刀で髪を剃り落としたのであろう、青黒い色をしている。なんでわざわざそんなことをしていたのだろうと、不思議に思っていた。外観のスタイルというものにあまり合理的な理由を探しても良い答えは出てこないだろうという気はしつつも、ここ数年、ちょっと考えている仮説がある。

少し話が戻るが、ある時期に勤めていた職場で、上司というか先輩というか同僚というか、そういう人がいて、その人は仕事に厳しい人だった。性格としては基本的に穏やかな人ではあるのだが、仕事の要所に関しては容赦なく、自他に対して全く厳しい。その人は30代で頭頂部があらかた禿ており、普段はほぼ剃り上げた姿をさらけ出していたが、通勤中はニット帽をかぶっていた。またしばらくして、別の職場で年下の同僚から仕事を引き継ぐ機会があったのだが、その同僚もまた、性格として基本的に穏やかな人ではあるのだが、仕事の要所に関しては容赦なく厳しい人であり、また20代後半にして頭頂部までしっかりと禿げ上がっていた。

親しく接した人についてはこの2例だけだったが、間接的に見聞きした人の中にも、人格は穏やかなのだが仕事に対しては細部まで非常に厳しく、そして若ハゲという人を何人か見てきた。そして、彼らの性格の中に同居する、人間的な優しさと仕事に対する(私などから見ると異常なまでの)厳しさというのが、不思議に感じられた。そしてそういう不思議な感覚は、いつも彼らのハゲ頭のイメージを伴っていた。

武士道、というのがある。これは一種の哲学であり、文化であり、少しだけ宗教にも似ている。ある時ふと、武士道を形成したのはこういう姿と性格を持った人たちなのではないかと思いついた。室町期から江戸期にわたって、日本の政治というのは武家が支配したが、そういう人たちはかなり限定された血筋を持っている。もちろん、戦国期前後に活躍した大名には、源平だけではなく多くの地方豪族が含まれているので、その血筋が均一ということはなかった。が、結局最後に戦争に勝って支配階級に就いたのは、ある程度源氏と近縁の人々であり、彼らの血筋というのは、生粋の天皇家や公家の血筋とも、征夷大将軍の征伐対象であるアイヌや縄文系の血筋とも、かなり異なっている。

チョンマゲがどこから来たのかというと、昔から倭国には頭の両側に髷を結う習慣があったということが、出土する埴輪などから明らかで、大筋ではこのあたりが源流になるのだろう。ただ、直接の起源としては、遣隋使や遣唐使の後に日本が大陸の政治と文化を参照したあたりの時代に定着した、頭頂部でマゲを結い、そこに烏帽子なり冠なりをカンザシで留めるという、当時の大陸の王朝文化に由来するスタイルになるだろう。そしてこのスタイルを頭頂部が禿げ上がった人がすることになると、自然にチョンマゲのような髪型が出来上がるのではないか。そういうことを思った。

そして、チョンマゲを結った人たちが戦争に勝利し、政権を樹立すると、清朝に征服された大陸の人々が辮髪を強制されたように、チョンマゲの主君を頂く日本の武家たちも、強制されると言うよりは日本的に空気を読むという形式だったにせよ、フォーマルな髪型としてチョンマゲを選択していったのではないか。世間で主流の解釈では、合戦で使う兜の中で蒸れないように剃ったのだというが、それだと側頭部と後頭部だけを残した理由がわかりにくいし、重い兜を載せるにはむしろクッション代わりに髪が乗っていたほうが良いように思う。まあ、本当のところはわからないけれども。

鉄道が敷かれ四民平等が成立するようになってからの日本では、地域や職業などと遺伝的特徴の相関はそれほど強くはないと思うし、そもそも戦国期が終わって大名の領地が激しく入れ替えられたあとでは、祖先から引き継いだ遺伝的傾向と地域や職業の相関は徐々に低下を始めていたのだろうと思う。しかし、明治維新以前は社会階層や身分が婚姻関係に与える影響は強かったから、特定の社会階層の中には、古い時代の特定部族出身者の遺伝子が色濃く残っていた可能性はある。

つまり、日本の武家文化というのは、たまたま戦争で勝利した家系がもともと持っていた、集団的な性格の傾向を色濃く反映しているのではないかと思った。そしてその性格傾向に付随して、若ハゲという体質も伝わっていたのではないかという仮説も持った。遺伝的形質が性格と相関するというのは血液型性格診断と同じことを主張しており、ABO式の血液型と性格の因果関係が科学的に否定されている現在では、この手の主張はちょっと危うい。

ちょっと話は脇道に逸れる。「遺伝的因果関係」という意味では、赤血球のABO型と性格の関係は否定されている。一方で、日本人に限定すれば、赤血球のABO型とアンケートによる自己性格認識は、実は相関が検出されている。ただしこれは、遺伝的な影響ではなく、血液型性格診断がもはや文化的に定着してしまった日本では、人々が社会文化から心理的な暗示を受けながら成長したことが原因だろうと言われている。つまり、遺伝的にではなく文化的に、日本人の性格は血液型の影響を受けている。なので、日本育ちの人に限れば、血液型性格判断はある程度の確率で正しい結果を出しうる。

赤血球の凝固抗体の分類に関しては、性格と直接の相関関係がないことがわかっているのだが、ありとあらゆる全ての形質が性格と相関がないのかというと、そうこともないだろう。人間の細胞には23対の染色体があるが、減数分裂で生殖細胞が作られるとき、同一染色体に含まれる1対2個の遺伝子のうちのどちらかがひとつの生殖細胞に渡される。同一染色体の中では2本のDNA鎖にある遺伝子の乗り換えが結構な確率で発生するらしいのだが、異なる染色体との間で遺伝子の交換が行われることはまず起こらない。すると、若ハゲを司る遺伝子と、(そんなものが実在するのかどうかわからないが)仕事に対する厳しさを司る遺伝子が同一染色体に乗っていれば、それらがセットになって遺伝する確率は高い。

赤血球凝固因子と性格因子は相関がなかったが、若ハゲの因子と仕事に対する厳格さを支える性格の因子は、何番目かの染色体に乗って強い相関をもって遺伝されているのではないかと、ちょっと無謀な推測をしている。そしてそれは上級武士の家系に色濃く堆積し、幕府の崩壊とともに社会のいろいろのところに「悩める上級武士の末裔」として生活しているのではないか、なんていうことを考えた。

ある人の見た目と性格の相関というのは、骨相学や人相学という現代的には信用されない古い時代の学問として存在している。私も人相学などをまるまま信用したりはしないが、凝りすぎてウソだらけになってしまった人相学の中に、実は正しい判断要素が紛れ込んでいるのではないか、というようなことも考えている。そしてそのひとつに「福耳」があるのではないか、とも思っている。

もともとはお釈迦さんの耳たぶが長かったという伝説があるのだけれど、それとは別に、日本人の数%には耳たぶが前方に向かって折れ曲がっている形質が遺伝している。そして経験的に、そういう耳たぶをした人というのは押しなべて性格が朗らかで、恨みを根に持つようなところがないという印象がある。菩薩顔で有名なフィギュアスケート選手の浅田真央さんもそういう耳をしているし、またそういう性格のようにも見える。うちのムスコ2号もそういう耳をしていて、気難しい上2人のコドモに比べるとかなり朗らかな性格をしている。

そういうことがあって、ある特定の外見的形質と、ある特定の性格に影響する中枢神経系あるいは内分泌系の形質が、一定以上の相関を持って特定の人々に遺伝しているのではないか、などということを考えていた。ある時代の日本文化を作っていたのは、多くの経路から日本列島に渡ってきた諸部族の中で、ある特定の血筋を持った部族による支配の歴史だったのではないか。私個人にはちょっと窮屈な「日本人らしい」特質というのは、彼らの先天的な性格にマッチしたものだったのではないか。だいたいそんなことを考えていた。

これまで生きてきた中で、「オレって日本人に向いてないな」と思うことは多々あった。でも日本人以外の何かが向いているのかと自分に問うと、そういう答えも出てこない。ただ、父と同じ四国の出である空海という人の思想は、どうも自分自身の性格に優しいような気がしていた。だから、重層化した日本文化を層別して、武家の文化ではなく真言宗の文化を手繰っていくと、そこには自分の遺伝子にもいくらかマッチする日本文化があるんじゃないか。ある頃はそういうことばかり考えていた。

江戸時代には自分の先天的な性格とマッチした社会文化があって、その中で能力全開で生きてきた若ハゲ家系の男たちが、愛と平和と平等のぬるい現代を生きるのは難しいだろう、悩みも多いだろうという気がする。そういう苦悩を「考える生き方」にも少しだけ見た気がしたのだが、考え過ぎのような気もする。遺伝子と脳の科学が進歩していくと、こういうあたりも解明される日が来るのだろうか。待ち遠しいような、見たくもないような。
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by antonin | 2013-05-01 11:37 | Trackback | Comments(0)

労働の市場化と雇用の市場化を

解雇規制が強すぎることが日本企業の進歩と発展を阻害しているという意見があって、これを解決するためには解雇規制の緩和が必要である、という意見をよく目にする。この考え方には基本的には同意するけれども、解雇規制の緩和が理論通りに企業の進歩と発展に寄与するためにはいくつかの暗黙的な前提条件があって、現状の日本社会ではそれらの前提条件のうちいくつかが成立していない。そのため、解雇規制だけを一方的に緩和すると、企業の進歩と発展は阻害されたまま変わらず、民間企業は衰退し、景気は悪くなり、公務員だけが増加するようになる。このあたりを少し考えたい。

まず、解雇規制を緩和すると、企業が労働者を選別できるようになる。不要な労働力を市場に流し、また市場から必要な労働力を購入することができるようになる。このためには、まず正常な労働市場の存在が前提となる。まず、労働市場が存在するためには、捨てる神あれば拾う神あり、つまり代替雇用を提案する企業があって、企業間の取引によって労働力の需給をバランスさせる市場原理が働く。これによって、一部の労働力を過剰と判断する企業と、同じ労働力を不足と判断する企業が均衡し、労働力は市場原理によって適正に配分されるようになる。

だが、労働力の「買い手」が見つからないままに企業が勝手に労働力を捨てても良いというスタイルの解雇要件になると、捨てられてから拾われるまでの労働力は、生産力を奪われたまま市場にプールされる。この状態が失業である。基本的人権という概念が存在しない原始的な社会では、失業中の個人が起業するなり犯罪行為を行うなりの自助努力によって生活力を保持するしか方法がないが、現代的な社会ではプールされた労働力である失業者の生命と労働品質の維持は国家が保証することになっている。

現在の日本の場合、生命の保証に関しては、短期的には雇用保険が、長期的には生活保護がその機能を担っている。そして、労働品質の維持については、雇用保険の扶助による学習制度など僅かな仕組みがあるが、民間企業が求めるレベルのものは実質的に存在していないと見ていい。

こういう状況の中で、つまり従来通り国家の社会保障による失業者プールの利用しか前提としていない条件のもとで、労働需要と労働供給がバランスしないような、つまり即時的な取引が成立していなくても労働力を失業者として放出できるような解雇規制緩和を実施してしまうと、解雇から雇用までのミスマッチ期間の経済的負担は全て国家による社会保障財政に回ってしまう。

つまり景気が良い時には、労働対価が高騰するのではなく、単に労働力の供給が減少する。そして景気が悪い時に労働力が廉価になるのではなく、単に失業率が上がって稼働労働人口が減少し、社会全体の生産性が落ちる。また実務から離れる期間が労働力の品質劣化という影響に現れないようにする品質保全機構はほとんど存在すらしていないため、高い失業率は景気回復後の生産性の低下という影響ももたらす。

この構造下では、不況時には民間企業の生産性と総生産がともに低下するので、国内総生産の維持のためには国家による財政出動が必要になる。財政出動は国家歳出の形を取らざるをえないので、この状況下での企業努力は、いかに一般市場で競争力を持つ商品を開発するかではなく、いかに国家による発注案件を効率よく受注するかという方向に向けられ、企業の目は一般市場から離れていく。結果として一般市場における企業価値は徐々に低下を続け、民間企業は一般市場における魅力を失い、財政出動による豊富な資金力を持つようになった国家にファイナンスされた公務員の地位だけが、一方的に上昇していくようになる。

こういう状況のもとでは、解雇規制の緩和はメリットよりむしろデメリットのほうが大きい。この現象を避けるためには、適正な労働市場を先に成立させる必要がある。つまり、労働力を一方的に解雇して国営の失業者プールに投げ込むのは、企業解散などのごく限られたケースに限り、その他の場合では必ず市場取引によって別の労働需要者に対して手持ちの労働力を譲渡する取引の成立を義務付ける必要がある。

また、企業が競合企業から現状を上回る賃金での労働力の買い付け、つまり引き抜きを提案してきた場合は、労働者がその買い付けに応じる際の障害となる労働契約などは、最低限必要な秘密保持契約などを除き、禁止される必要がある。解雇規制の緩和は雇用側から労働側への労働契約解除通告の制限緩和であり、これは労働者側から雇用側への労働契約解除通告の制限緩和と必ずバランスしている必要がある。

これにより需要者は自社より生産性の劣る企業から労働力により高い価格付けを行うことによって必要十分な質の労働力を任意のタイミングで買い付けることができるようになり、高い生産性を持った企業が労働力の不足から機会損失に陥るということが少なくなる。また、これに対抗することのできないような生産性の低い企業は企業活動に必要な労働力を保持し続けることができなくなり、雇用維持に必要な生産性を獲得するよう業務を改善するか、さもなくば市場から退出することを余儀なくされる。このことで企業の生産性向上の多くの部分が労働力購入費用に回されることになり、労働者の生活環境も向上していく。

このことは、言い換えれば雇用側から見た労働力だけを市場化するのではなく、労働者側から見た雇用力も市場化されるといえる。このように、雇用側から見た労働力の市場化は、労働者側から見た雇用力の市場化とセットになっていなければならない。さもなければ労働市場は単なる奴隷売買市場に成り下がり、国民の労働力は国際企業に安く買い叩かれ、国民の生活水準は一方的に低下していくだろう。

一方、労働力の市場化の競争圧力と適正にバランスした雇用力の市場化が実現された社会では、企業が労働者を雇用する雇用環境整備についても競争圧力が発生し、優秀な労働者にはその生産性に見合った快適な労働環境が与えられる方向に社会は改善されていく。そして、労働市場ではどうにも買い手の付かない最低限の人々だけが国家による社会保障の対象となる。そして最低価格であっても買い手のつく労働力に関しては、国家補償による健康で文化的な最低限度の生活水準よりは十分に高い生活水準が保証されるようになるだろう。

楽天の三木谷さんの話などを聞いていると、労働力を市場で取引するという感覚が見受けられない。自社で雇いきれなくなった労働力は国営の失業者プールに丸投げするという、現状と同じシステムで理想的な労働の市場化が実現できるという誤解が感じられる。そして、雇用力の市場化によって「ブラック」要素のある企業がどんどんと市場から退出していくという、正常化した労働市場の競争圧力に対する危機感や覚悟というものも伝わってこない。本当の労働市場化は、労働者だけではなく雇用する企業にも雇用力競争による痛みを伴う改革となる。

適正な労働市場が成立して、それでも国際競争に勝てないのだとしたら、そのときにようやく金融制度や不当な規制などを疑ってみるといいだろう。しかし日本社会の現状はまだそういう水準に達していない。

ペルシア軍の兵士に対する方法と、ローマ軍の兵士に対する方法のどちらが実戦で優れているかというのは意見が別れるところだろうとは思うが、今の日本国憲法に書かれている理想というのがローマのそれであることは間違いない。それを捨てて日本がペルシアに倣うという改革が果たしてどれほど正しいのか、市場原理の導入に肯定的な人にはよく考えておいて欲しいと思う。
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by antonin | 2013-04-28 13:44 | Trackback | Comments(0)

創発について

そういえば、『生命起源の科学哲学』を読んだ。 - finalventの日記

↑ここいらへんを読んでの感想。『生命起源の科学哲学』は読んでいない。感想の感想。

創発というのは、概念としては別に面白くもなく当たり前のことを言っているだけのような気がする。1ビットでは2種類の状況が区別できる。8ビットあったら、立っているビットの個数を数えて0個から8個までの9種類の状態が区別できる、というのなら創発は起こらない。が、実際は各ビットに位取りの重みを与えて、順列によって2の8乗である256種類の状態を区別できる。16ビットなら65,536種類、32ビットなら4,294,967,296種類の状態が区別できるようになる。

単独のビットの可能性は2種類しかないのに、他のビットの状態によって1や0がそれぞれ複数の状態として区別されるようになると、状態数は指数関数のオーダーで爆発的に増大を始める。この指数的に爆発する状態数の中から、確率は低くても重要な性質を持った状態が出てくるかもしれない。しかもその重要な状態がある程度の永続性を持つようになると、微小確率は累積し、いつか必ず目に触れる水準にまで上がってくる。

それぞれは単純な要素が、置かれる状況によって意味が変わるというのが創発の入り口になる。そして個々では起こりえなかった状況が状態数の爆発によって無視できない確率で発生しうる、というのが創発現象の意味するところだろう。32ビットでは本来4,294,967,296種類の状態しか区別できないけれども、それだって解釈系が符号付き整数と見るか、単精度の浮動小数点実数と見るかによって変わるし、もちろん他の解釈だって無数に存在しうる。

ただ、創発というものが理論的に美しく示されうるのかというと、それはまだしばらく無理なんじゃないかという気もする。原理は示されたが、道具として使える段階には程遠い。四色問題の証明はその端緒にあるように思えるけれども、本当に創発現象を舐め尽くそうと思ったら、グーゴルプレックス規模の大数を概数ではなく厳密な整数値として手軽に扱えるくらいの数学手法がないと、ちょっと難しいだろう。グラハム数は宇宙がいくつあっても足りないという感じなので、たぶんそこまでは要らない。

ただ、精妙な世界の根本原理が創発現象なのだとして、その全貌をそのまま人間が理解できるとも思えない。たった32ビットの状態空間だって、人間の手には負えない。「1から32までの数字を全て書き出して、並んだ数字を眺めて考えてみよう」というのは人間にも十分実行可能な作業だが、これが「1から4,294,967,296までの数字を全て書き出して、並んだ数字を眺めて考えてみよう」となると、もうこれは人間の手には負えない。1秒に1個の数字を書いて1日12時間年中無休で作業し続けたとしても、10万年近くかかるし、もしそういう作業をやったとしても、あまり深いインスピレーションは湧いてこないだろう。もう忍耐力とかそういう問題ではなくなってしまう。

なので、現実的にヒトの小さな脳漿で世界の現象を理解しようと思えば、どうしても分析的な手法に頼らざるをえない。創発が起こるということは、逆に言えばどんなに複雑な現象でも分析的に捉えれば理解可能な水準が出てくる可能性があるという希望にもなるし、実際に単純な要素の挙動を厳密に捉えることができれば、複雑な総体の挙動も、予測までは困難でもおおまかな推論くらいはできるようになる。

32ビットのデータを1ビット単位に分解すると、もはや元の意味がわからなくなる。このようにあまりに分析を進めすぎるとそれはそれで総体の挙動から乖離しすぎて意味が捉えられなくなるのだけれど、加算のときに隣のビットとどのような相互作用をするか、というような話であれば、全加算器の複雑度で十分説明することができる。

ネットワークのレイヤのように、究極の微小要素から全体の複雑系に到達するまでに、理解可能な相互作用単位を見つけることができる水準が、スケール別に何段階かに分かれて現れてくることも多い。本当にそういう水準がなくて、個別要素が全部個別に相互作用して全体の性質を決定することもなくはないだろうが、そういう場合は全体の挙動がカオティックになりすぎて、あまり人間の探究心の対象となることはないだろう。人間が見て興味深くなるような挙動を示す相互作用の系では、これは単に経験的直感だけれども、だいたい何層かのサブユニット構造を見つけることができる。

創発現象に懐疑的という考え方は理解しづらいが、フェルマーのディオファントス問題よりつかみどころがない、という意味では同意できる。簡単そうだけれど、有用な答えに達するには数百年を要する面倒さを孕んでいる可能性はある。問題の本質を、超大型のコンピュータには理解できるが、生身の人間では脳細胞数の制限によって理解できない、なんていう複雑度の問題の解を目の前に見せられてしまったら、人類はどうしたらいいのだろう。遺伝子でもいじって脳を大型化させるしかないんだろうか。それとも理解した気分になれる心理マジックでこの先数百年も生き延びていけるもんなんだろうか。
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by antonin | 2013-04-27 01:27 | Trackback | Comments(0)

ホット&クール

「ファスト&スロー」上巻をやっと読み終える。読書の遅い奴は仕事も遅い。

しかし、"Thinking, fast and slow" だと本書の論旨を的確に要約しているけれど、「ファスト&スロー」だと意味がわからない。直訳すると「考えること、早いのと遅いの」という感じになってしまうが、もうちょっと啓蒙書っぽく「早い思考と遅い思考」でもちょっともっさりしている。新書風タイトルにするなら「論理思考の9割は錯覚」とか「人間の思考は怠惰と粗雑がすべて」とか、そんな感じになるのだろう。

どうせこの手の本は書評とか口コミで売れるのだから、タイトルは適当でもいいのかもしれない。内容は、私個人には体感的に当然と思えることを、実験的に検証した研究者がいたというあたりが新鮮だった。直感が理論を受け付けないということは、直感的に自明な感じがする。まあ、その理解って当然に危ういのだけれど。

「ファスト&スロー」のまねをして、「ホット&クール」という話を書いてみようと思ったが、どこから説明を始めるのかでちょっと困ってしまう。内容的には "Thinking, hot and cool" となって、人間の思考には温度の高い思考と温度の低い思考がある、という話にしようと思ったのだけれど、その考えのもとになっているのがボルツマンマシンなので、ボルツマンマシンとはなんぞや、とか、そもそもホップフィールドネットワークみたいな連想記憶タイプのニューラルネットワークの説明あたりから入らないといけないような気もする。

ボルツマンマシン

ホップフィールドネットワーク

フェルマーの大定理のストーリーに登場する志村さんと谷川さんだけれども、志村さんはたぶん数学者らしく温度の低い思考をするタイプなのだと思う。一方の谷川さんは、比較的高温の思考をするタイプで、数学者としては異色の人物だったのだろう。志村さんが谷川さんを評して、彼は間違いが多いが創造的な間違いをする、というような言い方をしていたように記憶している。たぶんそういう傾向があったのだろう。

ボルツマンマシンによる学習では、温度パラメータを上げて一度熱い思考をしてから、徐々に温度パラメータを下げて冷たい思考へ移行するという、「模擬焼きなまし (simulated annealing)」というのをする。これは、ブレーンストーミングによって雑多で時に荒唐無稽なアイデアを出して、あとから冷静になってアイデアの枝刈りをしていく作業に似ている。

これを一人の人間がやるにはちょっと難しいところがあって、普通は常日頃から思考の温度が高い、エントロピーの大きい人間が常識外れの発想力を使って大局的な最適解を「発見」し、次いで思考の温度が低い人が精度の高い推論力を駆使して真の最適解を追求していく、というパターンが多いように思う。

私やちきりんのような人は思考の温度が高く、普通の人には難しいような発想の飛躍ができるが、細かいところは勘違いだらけで、論理推論の精度が低い。一方、アスペルガータイプの人は思考の温度が低く、普通の人が気にも留めないような些細な間違いを精度よく検出し、非常に緻密な推論を行う一方で、普通の人が難なく乗り越える論理的障壁を乗り越えられず、発想が硬直的になる。

それぞれに得意不得意はあるが、問題解決のフェーズを切り分けることでその能力を組み合わせれば組織として強そうだな、ということを思った。そういう普通じゃない奴らを統合する強烈な知性と情熱を持ったリーダーでも出てこないと、なかなか実現は難しいだろうけれども。

先天的に思考の温度パラメータが高い傾向、あるいは低い傾向というものが個人差としてあるのだろうと思う。けれどもその原因が何なのかといわれると難しい。海馬の大きさが一時的なイメージ保持力に寄与して、それが強い人は抽象概念のイメージが安定的に持続して思考の温度が低くなるが、海馬が弱い人は温度が高くなる、という機構も考えられるし、神経伝達物質や大域的な神経線維の比率などで興奮パターンの疲労が早く訪れるために時間的なパターン間の相関が弱くなって思考の温度が高くなってしまうという機序も考えられる。このあたり、脳科学の研究が進まないとよくわからない。

将来的にこういう脳の特性パラメータがいろいろと計測可能になって、それぞれの適性に見合った仕事が選べたりするようになると幸せなんじゃないかと思う。不得意なことを努力するのもある程度は有効だが、どちらかと言えば適材適所で長所を売り物にしてもらうほうが、本人も社会も嬉しいんじゃないかと思う。まあ、偏差値と同じで、あんまりパラメータ判定に振り回される社会になってもそれはそれで不幸なんだろうけど。

アメリカあたりではポストヒトゲノム計画として、脳神経のマッピングプロジェクトが立ち上がったらしい。技術的に未熟すぎず、かといって成熟もしておらず、ヒトゲノム計画を立ち上げた頃と同様に、とても良いタイミングだと思う。ヨーロッパにもHuman Brain Projectという大規模な神経シミュレーションプロジェクトが存在するらしい。日本でも何かこのあたりに追従していく動きはあるんだろうか。100ます計算とかアハ体験とかが関の山だったりすると寂しい。
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by antonin | 2013-04-17 23:05 | Trackback | Comments(0)

改憲心得

96条の要件緩和はいずれ必要だと思うけれど、まだ時期尚早であるという気がする。改憲に慣れないうちはあまり劇的な変化や頻繁な変化は法制度全体の改定やら役所の運用やらがついていけないと思う。憲法は変化するもの、という前提が法令の運用システム全体に行き渡らないうちに、そのベースとなる憲法だけが急速に書き換えられて行くと、だんだんと実運用される法令との乖離が進んでしまい、単に政党の宣伝用スローガン集みたいになってしまうだろう。

本当であれば先に憲法を制定してから、それに合わせて法令の体系を構築していく、いわゆるウォーターフォール開発のスタイルが理想的ではあるのだけれど、人智というのはそこまでの水準にないという事実がすでに知れていて、ある程度は実運用で鍛えられた詳細な法令の精神を憲法が追認していき、それが別分野にも展開されていく、というような憲法メンテナンスの進め方が現実的だろう。9条なんてそういう追認が必要とされる項目の代表例でもあるし。

で、改憲が通常イベントとなる社会では、ときどきの政権を奪取した政党が過去の憲法理念を破壊して自らが正しいと信じる理念でオーバーライトしていくという編集合戦になってしまうと、憲法は乱れるし、それに追従していかなくてはならない法令体系と役所の業務も乱れるだろう。改憲が普通の世界では、自分の正しいと信じる理念を、従来の理念や対立政党の理念とうまく融合していかないと、次の政権で塗りつぶされるまでの軽い文言となってしまう。そうならないためには、少なくとも立法府議会には適切な水準のディベート文化が育っている必要がある。

自民党の改憲草案などを見ると、「もしもドラえもんが秘密道具を出してくれたら」みたいな奔放な条文ばかりで、見ていて困った。

http://www.jimin.jp/policy/policy_topics/pdf/seisaku-109.pdf

現行憲法下での護憲派の人々の頭が硬すぎて、あるいは人権の行使の仕方がラディカル過ぎて、旧憲法下で穏健な教育を受けてきた人にとって目に余るというのは理解できる。けれども、そういうのは現行憲法にある次の条文が正しく守られていないという一言で片付くように思う。

第十二条  この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。


つまり、現在の人権活動家の人たちは国民の権利を乱用したために社会から疎んじられているという、単にそれだけの憲法運用の問題としていいと思う。そして、こういうタイミングで自民党草案に近い形に憲法を書き換えられないように国民が不断の努力をしてきたかというと、ちょっとそれを怠っていたのだろう。これも運用の問題ということであり、憲法の条文の不備ということではないと思う。

サッチャーさんが亡くなっていろいろの話が出てきたけれども、国家にも無限の力があるわけではないということを告白した勇気というのは賞賛に値すると思う。けれども社会保障より民間努力という題目も、あまり先鋭的に進めすぎると、公(おおやけ)が公であることを放棄するという宣言になってしまう。そこのところのバランスは難しいけれども、サッチャーさんはそのあたりが少し極端だったように思う。でも、そういう極端な力が求められていた局面でもあったのだろうし、首相とはいえ個人にその責任の全てを負わせるのも不適当だろう。

競争を良しとする市場主義の仕組みはとても優れていると思う。けれどもそれは成熟した近代的な社会があってのことであって、原始的な弱肉強食とは違うはずだろうとも思う。重要なのは、最近良く聞く言葉で言うところの "gamification" だろう。日本語でゲームというとコンピューターゲームくらいしか連想できないけれども、野球やサッカーの試合なんかも game に違いない。そういう、ゲームとして楽しめる競争をしながら実社会が発展していくというのが、産業革命から少し距離をおいた時代の市場主義だと思っている。

優れた体操選手を育てるのに、落ちたら確実に首の骨を居るようなコンクリートの床の上で練習をさせるのが良いのか、それとも落ちても痛くもなんともないクッションを敷き詰めた上で練習をさせるのが良いのか。緊張感をもたせるという意味では前者のほうが良いはずだが、それでは怖くて練習する気がしない。失敗した選手の卵は文字通りに死んでいく。一方、クッション敷きの練習場では、選手の卵はどんどん失敗してどんどん床に落ちていく。しかし、それが失敗だったということはわかる。失敗しても痛くないので、成功確率の低い大技も気軽に何度も練習できるし、失敗の経験が豊富なので失敗が起こりそうな状況もよく分かるようになる。

国家が社会保障を切るということは、社会に出てくる若い人やスタートアップ企業に対して、床のクッションを剥ぐのと同じ効果がある。競争競争と煽るのはいいが、失敗すると痛い目にあったり死んでしまったりするのでは、どうしても臆病になってしまう。そういう野生の弱肉強食も究極の競争原理であるけれども、文化的な現代人が目指す方向とは違うはずだ。現代人であれば、コスト的に可能な限界まで「堕ちた人」を救う手段を用意して、そういうギリギリまで失敗を許せる環境の中で、最大限の競争へ誘うのが現代の文明的な市場主義だろう。

日本のデフレも似たような効果が大きいように思う。公がなんとしても私(わたくし)を守ると宣言していればこそ、私は安心して冒険をすることができるし、そういう環境を与えてくれる公を愛し、それに貢献しようという気が湧いてくる。しかし、公がギブアップ宣言をしてしまい、私に「自己責任」ばかりが求められるようになると、私は公の保険機能を当てにすることができなくなり、信じられるのは自分自身と限られた肉親と手元にある貯金だけということになる。だから人は恐怖から貯蓄に走り、消費や起業をしなくなる。当然の帰結だろうと思う。

安倍晋三さんはどうも、鳩山由紀夫さんと人物が似ているような気がする。思想信条的には対極にあるのだけれど、自分の信じている理念だけが正しくて、それに反するものは全て誤りであるという思いが強いように見えて、そういう、信頼できる人に正しいと教えられたことを無批判に信じられる育ちの良さのようなものが、お二人には共通しているようにみえる。

晋太郎さんは長かった外相時代に晋三さんを外遊に連れて回ったらしいけれども、外交が持っている気味の悪い多重性みたいなものについてはあまり教育しなかったものらしい。あるいは教育はしたけれども吸収されなかったのかもしれないが。晋三さんを見ていると、外遊で得た経験というのが外交官の二枚舌三枚舌四枚舌五枚舌の恐怖などではなく、日本の次代のエスタブリッシュメントを担うプリンスとして扱われるという経験だったのだろう。戦後日本ではあまりそういう階級意識というのは明確にされないけれども、外交の場ではそうではない環境が多い。

北朝鮮から拉致被害者の方々が還って来たとき、安倍さんは被害者の方々を一時帰国のあとに北朝鮮へ戻すという事前の約束を破った。これは、「日本国政府は朝鮮民主主義人民共和国政府を信用しない」と明確なメッセージを送ったのと同じことで、それまでに水面下で何年間の交渉があったのか知らないけれども、そういう交渉ルートの大半を一気に断ち切ってしまったことだろう。確かに北朝鮮は信用ならなかったけれども、その後の交渉で更に多くの人が帰国できた可能性を思うと、あそこで交渉を断ち切る決断をしてしまったのはどうにも悔やまれる。

そういう具合で、安倍さんは対立相手の顔を立てるのが上手くない。私は現行憲法下の日本国を、不完全で嫌な所も多いけれども、なんだかんだで愛している。そういう愛国心の根っこの一本である現行憲法を、安倍さんは「みっともない」とか言ってしまう。安倍さんはそういうみっともない憲法に則って選ばれ任命された首相なんであって、なんだか自虐的だなぁと、私なぞは思ってしまう。そのみっともない憲法の公布署名には、時の内閣総理大臣吉田茂さんの名がある。あの人のおじいさんの名を曲がりなりにも帯びた憲法を、そこまで貶して大丈夫なのかなぁとも思ってしまう。

まあ変えるべきところはたくさんある憲法だとは思うけれども、護憲派が涙を流すような名演説をしながら9条をしれっと書き換えるような演技力のある政治家が出るようになってからでも遅くはないな、という気はする。文明国であれば、可能な限り政治もゲーム化して欲しい。真剣な議論は戦わせても、そして腹には一物あっても、少なくとも表向きだけは、試合が終わればノーサイドという文明的な政治を見てみたいと思う。

憲法がWikipediaみたいに感情的な編集合戦の舞台になってしまうのは見るに忍びない。自分自身を思うとあまり偉そうには言えないけれど、民主制下の政治を目指そうという人は、ゲーム的なディベートの、技術ではなくて文化を身につけて欲しいと思う。
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by antonin | 2013-04-14 03:47 | Trackback | Comments(0)

算術の話

和算の話は好きだけれども、ここでいう算術とは和算術ではなくて単に "arithmetic" の訳語としての意味。まずは少し前に話題になった掛け算の順序の話。

問. 一皿に4個のみかんが乗ったお皿が3皿ありました。みかんは全部で何個あるでしょう。
式. 3 × 4 = 12
答. 12個

小学校の算数で、この回答にバツがついたというのが発端だったらしい。4個のみかんが乗った皿が3皿あるのだから、3 × 4じゃなくて4 × 3が正解だということで、バツがついた。これに理系父さんが噛みついた。個人的な感想から言うと、小学校の教育段階で、3 × 4という式を立てたことにバツをつけるのはありなんじゃないかと思う。ただ、その後のフォローは難しいと思う。

純粋に形式算術で言うと、3 × 4 と 4 × 3 というのは異なる演算であって、ただ乗算という演算がたまたま交換律を満たすから、その条件下では答えが必ず一致するというだけでしかない。理数系の職業に就くと、この交換律を駆使して乗算の左右を入れ替えて計算や式そのものを簡略化するというのは、歩くときに右足と左足を交互に出すのと同じくらい自然な操作なので、この程度でバツを付けられてしまったら商売上がったりという事情はある。

けれども、乗算が加算の繰り返しを簡略化した演算であるという成り立ちに立ち返ると、やっぱり 3 × 4 と 4 × 3 という演算は別のものを指示している。式で書くとこうなる。

(1) 3 × 4 := 3 + 3 + 3 + 3
(2) 4 × 3 := 4 + 4 + 4

こう書いてしまうと、最初に挙げた算数の問題に対応する式が、(1)ではなく(2)が正しいということが明確になるだろう。加算が「1だけ増やす」という演算の繰り返しを簡略化した演算であるという部分まで話を還元すると、次のようになる。

(1) 3 × 4 := (1 + 1 + 1) + (1 + 1 + 1) + (1 + 1 + 1) + (1 + 1 + 1)
(2) 4 × 3 := (1 + 1 + 1 + 1) + (1 + 1 + 1 + 1) + (1 + 1 + 1 + 1)

つまり、乗算に交換律が成立する理由は、加算に結合律があるから、ということになる。

こういう背景があって、4 × 3という式は3 × 4という式で代用可能になり、これによって複雑な式が簡略化されたりして高度な算術が人間に扱いやすいレベルまで変形できる可能性が高まる。ただしそれは技術の領域であって、数式が表す意味表現とは少し議論の階層が異なる。

なので、最初の問題に3 × 4という式を立てるのは、意味論では間違いということでいいと思う。学校で掛け算を習う小学生というのは、まだ引き算を習ったばかりで、割り算はこれからという段階にあるので、大人の常識とはちょっと違う世界に住んでいる。4 ÷ 3とすべきところで3 ÷ 4としてはいけないということを習う段階にあるので、掛け算であっても式の立て方の意味論を厳しく練習していくのはいいことだと思う。

ただまあ、相手は幼い子供であるので、単にバツを付けて終わりというのでは、教育心理学的にどうよ、という問題はあるかと思う。学校がただ単に与えられたルールを疑わずに受け入れるための訓練をする場であるのなら(そしてそういう考え方をする教師が少なくないようにも見えるのだが)、ここはこう決められているのだからこう覚えなさい、の一点張りで正しいということになる。が、もちろんそんなことは思わない。

交換律を満たす乗算や加算であっても、演算の左右を意識して式を立てさせる。けれども結局、加算や乗算ではその配慮は無効になって、答えは必ず一致する。でも、減算や除算ではそうはいかない。4 - 3は小学1年生の算数だけれど、3 - 4は中学1年生の数学になる。3 ÷ 4と4 ÷ 3も、もちろん違う。足し算や掛け算と、引き算や割り算は性質が違う。なぜなんだろうね、ふしぎだね、となると、そこに好奇心が生まれ、小さな学究の動機になる。

すべての小学校教師にそこまで期待するのも酷だとは思うけれども、式が逆順であるのにマルを付けるよりは、一度はバツを付けておいて、そこで生じるモヤモヤした気分を子供が自分で考える契機にできる先生は、より優秀な教育者だと思う。まあ、確かにこれは学問好きのエゴであって、与えられたルールを疑わずに受け入れたり、使える道具を疑うより使いこなすことに専念したりすることのほうが、現代社会が求める社会人の重要な特質の一つであり、そういうことを子供に刷り込むのも優秀な教育という解釈は確かに認めざるをえない。ただ、自分のコドモたちには好奇心を育む方の教育をしたいという気分はある。

--

本当は確率論の話もしたかった。人間は "a" の付くものについては詳しく知ることができるが、 "the" の付くものについてはほとんど何も知ることができない、なんていう話にも通じる議論なので、今日みたいに昼間から一人で家に取り残されたりしたら、また何か書くかもしれない。

解釈の仕方まとめ - 箱に入れたカード

10/49派による解答・解説集 - 箱に入れたカード

この問題は、煮詰めるとこうなる。

ジョーカーを除く52枚のトランプをよくシャッフルし、その中から、1枚を引き抜いて箱に入れた。

問1. このとき、箱の中のカードがダイヤのカードである確率はいくらか。

次に、箱を開けて中のカードを見ると、そのカードはスペードの6であった。

問2. このとき、箱の中のカードがダイヤのカードである確率はいくらか。

また別の煮詰め方をするとこうなる。

ジョーカーを除く、普通のフルセットの52枚のトランプをよくシャッフルし、その中から、1枚を引き抜いて箱に入れた。

問1. このとき、箱の中のカードがダイヤのカードである確率はいくらか。

次に、箱を開けて中のカードを見ると、そのカードはダイヤのエースであった。

問2. このとき、問1の答えは1(100%)としても良いか。

「確率」という言葉の意味をどう定義するかという話だけでこれだけ盛り上がるのだから、議論というのは難しい。相互情報量とかエルゴード性とかで比較的明晰に論じることのできる分野だとは思うけれども、自然言語を使って議論をするといろいろな厄介が生じる。このあたり、因果律とか量子力学とかを扱った哲学的議論にも発展する話題なのだけれど、まあメンドクサイ話だと思う。中途半端に理解しやすいのがいけない、という意味では経済学の議論のグダグダにも通じるところがあるかもしれない。
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by antonin | 2013-04-07 14:49 | Trackback | Comments(0)

「簡単なこと」ほど難しいことはない(補)

こういうのを書いた。

「簡単なこと」ほど難しいことはない : 安敦誌

深夜というか未明というか、そういう時間帯だったので面倒でグダグダになったので、もう少し補足を。

もしある人になんらかの理由があって、普通の人にとって「簡単なこと」とされていることができない場合、それは「難しいこと」とされている場合に比べて、ずっと難しい立場に立たされる。そなことが言いたかった。

まず、普通の人にとっても難しいことというのは、できなくても恥ずかしいことではないし、異常なことでもないから、仮にできなかったり苦手だったりしても、普通の人もそれを理解してくれる。また、難しいと感じる人が多く存在するから、難しいけれどもなんとかうまくやる方法なんていうのをどこかの誰かが懇切丁寧に教えてくれる本や教室があったりもする。

そういう具合で、世間で難しいとされていることができなくても、案外なんとかなる。難しいのはその逆で、世間では簡単とされていること、あるいはできて当然とされていること、あるいは、そういう能力があると気づかないほど自然にできてしまうようなことなどが、もし何かの理由のために、全くできなかったり、できるにしても大変な苦労が必要だったりする場合、その人は非常に苦労するハメになる。

理由の方も難しいことが実は易しい理由の反対で、普通の人にとって簡単なことというのは、できないと恥ずかしいことや変なこととされている場合がある。口うるさい人たちの警告に従ってあからさまには口に出さなくても、本音では変だと思っていたりする。そして、そんなことはできて当然なので、できない場合にどうしたらできるようになるか、あるいはどうしたら少しでも楽にできるようになるかということを教えてくれるような、本も売っていないし教室も開いていない。

そういう中で、簡単なことだからと誰もがそれを当然できるものとして社会が構成されていく。例えば、複数のタスクを同時並行に処理しながら進めていくのは、多くの人にとってそれほど難しいことではない。そういう複数タスクの同時進行ができれば仕事の能率が上がるので、時間要求の厳しいビジネスの現場ではこういうスキルが誰に対しても要求される。けれども、作業に熱中すると気づかないうちに日が暮れてしまうよなタイプの人も世の中にはいて、そういう人はビジネスという枠からこぼれ落ちていくことになる。

簡単なことには、本当に簡単なことと、できる人が多数であるというだけで、実は途方もなく難しいことという2種類がある。そして、生命の神秘のワザと言うのか、人間社会で要求される基本能力というのは、大半が後者の、実は途方もなく難しい部類に入るように思う。二足歩行なんていうのはその最たるもので、ロボットのあのぎこちない歩き方をみれば、普通に歩くというのがどれほど高度な技能かということがわかる。

でも、赤ん坊は歩けないし、老人も杖を突くし、事故で歩けなくなる人もある。だから、歩くことが実は難しいということは、簡単とされる事柄の中では、まだ理解されやすい方の部類に入るだろう。

簡単と思われていて、でも実は難しいということはたくさんあるだろうけれども、情報革命後の時代に急激に顕在化してきたのは、情報処理をする内臓、脳の性能に関する作業能力だろう。理解力や判断力に関する性質のうち、数値やマルバツにして簡単に測定できないような能力で、暗黙的に最低基準がどんどんと作られていく。そういう最低基準をクリアできない人たちが、結局のところ、淘汰されて死んでいく。

淘汰といったけれども、ビジネス社会から脱落して自殺する人なんていうのはいかにも競争原理によって淘汰されたようなイメージがある。けれども、より原則的に進化論を適用すると、淘汰を生き残るということは、長生きすることではなく、遺伝子の一部を遺すというところにある。なので、子供を残して自殺する人は、実は淘汰を生き残っており、多くの財を残したが子を残さずに死んだ人は、純粋なダーウィニズムからすると淘汰された個体ということになる。

ただし人間は遺伝情報だけで生きているわけではなく、そもそも地球に生きる数十億人の人間の間で、遺伝子の構成要素にそう大きな違いがあるわけではない。人間の中だけで比べれば、どういう遺伝子を持っているかというよりは、どういう教育を受けたかという、ハードウェアよりはソフトウェアの性能の違いがモノを言うから、ゲノムよりはミームを多く拡散した人のほうが、淘汰を勝ち残った個体という言い方のほうが実情に合っているだろう。

脱線したけれども、とにかく現代というのは、肉体を司る遺伝子の優劣よりも脳を動かす教育の優劣のほうが、生きていく上で重要という時代になっている。けれども、生まれつき速く走るのに適した体型というのはありそうだし、生まれつき山登りに強そうな体型というのもありそうだ。同じように神経系の働きにもいろいろの生まれついたクセがあり、それぞれに長所短所があるだろう。そういう短所が「簡単なこと」に大きく影響してしまった場合、それは難しいことができないという場合よりも、ずっと厄介な結果になる。

私の家系には、そういう厄介な遺伝子が濃厚に堆積していて、父を見ても、母を見ても、かなり厄介な感じであり、自分自身を振り返ってみても、やはりそうだった。そして、コドモたちも当然その傾向が高い。特に上の二人はかなり厄介だ。一番上のムスメと、二番目のムスコ1号は、それぞれに全く違う性格をしているのだが、しかしそれぞれに厄介を抱えている。

好き嫌いが激しくて好きなものを目の前にすると他のことが見えなくなるだとか、ついさっき見たり聞いたりしたことでも覚えていられないだとか、そういう性質が強い。もちろんそれが長所として生きる分野というのはあるのだけれども、そういう長所が短所を補って余りあるような社会環境というのは、残念ながら日本国内には少ない。海外ならどこにでも楽園があるかというともちろんそんなわけはないけれども、まあ、列島の中だけを見て絶望しない程度には広い視野を持たせてやりたいな、などという程度のことは考えている。
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by antonin | 2013-03-06 00:05 | Trackback | Comments(5)

有名税と愚痴

近所の公園でコドモ達を遊ばせた帰り道、ムスメが「緑色の小さい鳥がいる」という。見ると、梅の枝にメジロが遊んでいる。おお、でかしたムスメよ。東京にもメジロが来る季節になったか。どうりで目が痒いわけだ。で、梅の枝を見ると、それが紅梅であると知れるほどには蕾が膨らんでいるのだけれど、まだ咲いてはいない。梅の枝の奥のほうを見やると、みかんだかオレンジだか、そんなものが切って置いてある。その鳥寄せの餌につられてきたようだ。そうは言っても梅にメジロ、そろそろ春と言っていいんだろう。

ぼやぼやしているうちに、finalventさんが本を著したらしい。そちらは当面放置するとして、ちきりんの本がKindle storeにようやく上がったらしく、宣伝している。本として買う気はなかったけれども、物理サイズがないなら読んでみたくもある。ブログの再録はあまり期待できないけれども、両親への感謝というのがどんなものかは読んでみたい。

個人的に、両親には大いに感謝している。けれども、子育ての内容としては、あんまり高くは評価していない。正直失敗だったんじゃないかと思う。けれども、精一杯愛情を注いで、それで失敗したんなら、しょうがないんじゃないかとも思う。具合は悪かったが、それでも一生懸命育ててくれたことには感謝している。いざ自分が親になってみて、そしてやっぱりまともな子育てができている実感もないのだけれど、コドモには目いっぱいの愛情を感じている。大事にしている物をぶっ壊されたりして怒ったりもするけれども、まあ子供なんてそんなもんだよなぁという認識もあって、こういう不自由を背負うのも子供を持つ意味合いのうちのひとつなんじゃないかと思っている。

どちらかというと、子供を取り巻く大人連中のあれこれのほうがストレスは高いが、このあたり、お互い様でもあるのでどうしようもない。

--

さいきん、ちきりんの人が悪い。finalventさんなど、しばらく人が悪い。見ていて不愉快なこともあるけれども、小田嶋隆さんのtwitterタイムラインなどを見ていると、なるほどねぇ、などとも思う。ちきりんが日記へのはてブを表示しなくなったのだけれど、久しぶりにマニュアルではてブを検索してみたら、非表示モードになっていた。はてダを利用している本人が、そのはてダにはてブへのリンクというかツールを表示しないのは勝手だと思うけれども、shared bookmarkであるところのはてブが、そのリンク先の云々によって非表示にされてしまうというのは、はてな側の非見識のように思う。進んで見せることもないが、どうやっても見られないようにするのはまた別の水準に属する処理のように思うし、そもそもはてブの存在意義を揺るがすような措置でもある。

はてブはだいたい不躾な論が多くて、2chほどではないにしても、あまり理知的なものではない。けれどもその中に光る玉というのはあって、論じられている当の本人には不愉快だろうけれども、第三者にとってはひどく有益な情報も少なくない。嫌ならば見なければいい、だけでは済まされない暴言というのも確かにあるけれども、一律非表示というのは、なんだかひどく無粋な気がした。

で、最近になって、ちきりんが愚痴を三度にわたって述べた回があった。私の周りには愚痴をいう人がいない、という断り付きの愚痴だったのでなお可愛らしかったが、要するに、ビジネスめいた交渉をする人たちの一部のやり方が稚拙なのだという。もし本当に、ちきりんが言うように愚痴を言わずに問題解決に邁進しちゃうような人であれば、ある種の「顧客」ないしは「ビジネスパートナー」の無作法に対し、その相手はおろか公衆の面前で相手を罵倒するようにビジネスの基本スキルを説教するという辱めを与えたりはしないだろう。

こういう場合の問題解決とは、そういう具合の悪い「顧客」が、それとは気づかないような方法で正しい手順を踏むように誘導したり、あるいは丁重に(つまりは相手が不愉快を感じないで、より望ましくは喜ぶような形で)お断りするようなシステムを構築することだろう。こういう面倒を全部自分でやるのは割が合わないし、精神力が持たない。こういう場合は、秘書とか代理人とかを置いて、面倒な部分はそちらに委託した上で、めぼしい部分だけ挙げさせるような仕組みを構築するのが、本来の問題解決といえる。

無職ともいえるフリーランス状態では秘書も代理人も持てない、というのも安直で、21世紀のビジネスというのは、ITという知的労働の自動化によって従来は人を使っていた部分まで低コストかつスケーリング可能にするというのが肝になっている。しかもちきりん女史はよりによってはてなで日記を書いて有名になっているのであって、そんな恵まれた環境にいながら、そのポテンシャルをブックマークの非表示なんて言う非建設的な部分に向けているのは馬鹿らしい。

サーバーを、不躾なオファーから解放してくれる秘書や代理人のようなものにして利用したいんだけど、技術がなくてできません。なんていうニーズを、「ちきりんの日記」なんていう、その筋では知る人ぞ知るメディアで公表した日には、技術はあってもニーズをつかめずにウズウズしていた技術者が大挙して押し寄せ、無料ないしは破格のオファーをしてくるだろう。それを受けて、公開コンペなどという暴虐なイベントさえ開けてしまうというのが、「ちきりんの日記」のメディアパワーだというのに、「必須のビジネススキルとは」なんていう愚痴を垂れ流している場合ではないのですよ。お客様を批判しているようじゃ終わりだよね。

まあ所詮他人事なのでどうでもいいのだけれど、最近のfinalventさんのヤキのまわり具合から見ても、有名税というのは相当にキツいものなのだろうなと思う。つくづく有名にはなりたくないものである。
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by antonin | 2013-02-25 03:04 | Trackback | Comments(0)


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